2017年03月14日

哭声 コクソン/お隼さん

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オフィシャルサイト

※若干ネタバレにつき鑑賞予定の方スルー推奨

ほぼラスト近くのあるシーンで山の中の男(國村隼)の手のひらに刻まれたあるモノを観た瞬間、エピグラフの意味がようやく呑み込めたのと同時に、悪玉と善玉の対立というオカルト・ホラーの定形を借りた上で、それをただただうっちゃりたいがためにわざわざ土俵際まで不自然に誘い込むその手立ての、語り口で捻るよりは映画の構造そのものを撹乱することでその撹乱それ自体を感情へと直結させるナ・ホンジンが、どうしたって磨きをかけずにはいられないのはやはりそこなのか!という歪でよこしまなサービス精神には敬服せざるを得なかったのである。それでも今回は、コメディ→トラジコメディ→トラジディというラインをジョング(クァク・ドウォン)に一貫させたことで最低限の着地は行われるし、優れた韓国映画が持ち合わせる、忘れがたく敗けるにはいったいどうすればいいのかという妄執の粘度と濃度と彩度に首を絞められ鬱血しつつ、しかしあらかじめ小さく空けられたオフビートの空気穴によって新鮮な空気が送られ続けることで、ジャンル映画の気楽さも終始維持されていたように思うのだ。前述したようにエピグラフの示すところの意味が分かるのは、というか分かったような気になるのはほとんど映画が終わる寸前で、そこからふり返って終始一貫していたのはいったい誰だったのかを考えてみれば、やはり目撃者ムミョン(チョン・ウヒ)と相対していた人間が娘ヒョジン(キム・ファニ)を苦しめていたことになるのだろうとそれなりにピースを埋めてみたりもするのだけれど、人智を超えたところでいにしえより繰り広げられてきた善と悪がせめぎ合う、その勢い余った一手がある田舎の村をなぎ払っていく無慈悲の物語の、とりわけ善きものであるはずの存在が真夜中の路地裏でジョングに告げるのは、善きものは悪しきもののために存在しているにすぎず、その間で苛まれる曖昧な善し悪しのワタシたちに対しては実は無力なのだという告白であり、神のごときですらが途方に暮れる敗け方とそれを肯定すらするラストは、ペシミズムの暴力性を絶対零度と唱える韓国映画の面目躍如としか言いようがないのではなかろうか。絶えず余白に暗闇を湛えるシネスコの寂寥と、汚れと穢れを一分の隙なく組み上げた圧倒的な美術にも眼福でため息が出る。クァク・ドウォンや國村隼は言うまでもなく、映画の不穏分子としては、かつての夏八木勲を呼び出すようなファン・ジョンミンのしなやかな野卑が相当に効いている。
posted by orr_dg at 23:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする