2017年03月07日

ラビング 愛という名前のふたり/早く家に帰りたい

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都市生活者の憂鬱でも郊外生活の生き地獄でもない、ジェフ・ニコルズが手を貸して連れそうのは、ブルース・スプリングスティーンが ”Darkness on the Edge of Town” と歌ったアメリカの暗闇に妻や子供、恋人が堕ちてしまわないよう見守るキャッチャーに他ならず、イノセントとノット・ギルティの間でどこかしら途方に暮れたように立ち尽くすその風情は、大人になったホールデン・コールフィールドのように思えたりもするのである。今作ではそれが寓話や拳銃の助けを借りることなく、逆に言えばどこにも逃げ場のない物語として顕わになる分だけ、キャッチャーを自任するホールデンに対する守護天使としてのフィービーがジェフ・ニコルズ作品におけるヒロインに投影されてきたことにも気づかされるわけで、主人公が守っているつもりが守られているという相互依存でも共依存でもない互いを慈しむ黄金律は、今作においてもミルドレッド(ルース・ネッガ)がジェシカ・チャステインやリース・ウィザスプーンのそれをタフで鮮明に継承してみせている。ブルックス保安官(マートン・ソーカス)の取り調べによって、かつてリチャード(ジョエル・エドガートン)の父がミルドレッドの父に雇用されていたことが語られること以外、リチャードとミルドレッドのなれそめはまったく語られることもなく、それはおそらくリチャードのレッドネック然とした佇まいが物語を強化することを見越したワタシのような観客をたしなめる意図もあってのことなのだろうし、そうした色眼鏡をはずさせることで、普通に恋をして愛を育み、子供が出来たことで正式に結婚し家庭をもつというただそれだけのことを真っ当に遂げようとするどこにでもいるアメリカのカップルが立ち向かわねばならない理不尽の卑劣をいっそう浮き彫りにしたのだろう。したがってリチャードはリベラルな反逆者といった風に保安官や判事に敵対するでもなく、体制の決め事に対しては淡々と踵を返して生活を優先させるのだけれど、その愚直なまでの揺るぎのなさは裏返せば自身の自由を宣言する試みでもあるわけで、いつしかリチャードの背中に『暴力脱獄』のルークがだぶって見えたりもしたのである。それだけに、黒人の友人から「今となっちゃお前も黒人みたいなもんだけど、お前はまだやり直しがきくんだよ、おれは黒人だから無理だけどな、それはな、離婚すればいいんだよ、簡単だろ」と言われ、小さく笑みをうかべてうつむきながら「離婚、か…」とつぶやくリチャードの、いったいこの世の中にはそれほど残酷な言葉があるものなのかと口にした自分を呪いでもするかのような苦渋には胸が張り裂けそうだったし、その出来事があった夜「何があっても俺がお前を守る」と言葉少なに繰り返すリチャードに「わかってるわ」と小さくうなずくミルドレッドの姿は人間が互いに為しうる幸福の最も満ち足りた瞬間をとらえ、そしてそれは心の底からそうあろうとすれば誰でも為しうることを告げていたのではなかろうか。レンガを積み、車をいじり、妻の手を取って肩を抱き、そうやって手ざわりのあるものだけを信用していれば間違いはないのだとする日々の確信を細やかに積み上げる美しい手際には小さなため息の止むことがなく、自由と差別の分断が進行する国にあっては、ジェフ・ニコルズやデヴィッド・ロウリーらが見渡すアメリカの土地勘が今後いっそう大切な指針になっていくように思うのである。
posted by orr_dg at 02:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする