2017年02月14日

グリーンルーム/ラスト・ボーイ・ストラット

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オフィシャルサイト

ヴァンに貼られたFUGAZIのステッカーとパット(アントン・イェルチン)の着るマイナー・スレットのTシャツ。そして楽屋の壁に掲げられた南軍旗を見たパットはスキンヘッドたちを前にデッド・ケネディーズの“ナチ・パンクス・ファック・オフ”をぶちかます。その後で彼や彼女を待ち受ける責め苦はそのストレート・エッジな思想が直截的にもたらしたわけではないのだけれど、ダーシー(パトリック・スチュワート)配下のスキンヘッドたちがダーシーの都合と思惑によって雑然と命を散らしていくのとは対象的に、必死に生きようと死んでいくバンドのメンバーたちを一瞬包む刹那の光はどこかしら青春の失敗のようにも描かれて、その混乱と混沌の中でパットもまたアメリカの暴力と不条理に溶けていき、ラストショットで並んで座り込むパットとアンバー(イモージェン・プーツ)の、まるでナチパンクのカップルにしか見えないその姿はアメリカが嘲笑う残酷な皮肉のようにも映る。そしてその意味合いこそ違え、『ブルー・リベンジ』に引き続き主人公が髪を切り銃をとるというトラヴィスの系譜が繰り返される一方、ここで殲滅すべき集団もまたスキンヘッドをユニフォームとしているわけで、ここに至ってイアン・マッケイらが体現したストレート・エッジなハードコアと、そのスタイルを醜悪に援用するネオナチとの代理戦争の様相すら呈し、それら命がけで闘う者と無表情に闘わされる者との決着にバッド・ブレインズが完璧な凱歌を奏でてくれるのである。それにしても、この監督が組み立てる命名できない感情の瞬間というか、観客であることによって予測してしまう正解をいかにはぐらかすか(そもそもワタシたちは正解を知らずに生きている)、そうやって間違った答えを重ねながらたどり着いた場所にどのような正当性を見出すことが可能かというフィクションならではの挑戦は、『ブルー・リベンジ』からより直接性を増してノンストップの情動に身を任せつつ、しかし同時にすべてのタイミングを監督の鼓動としてコントロールするアクロバットを可能にしていたように思うのである。なかでも楽屋に籠城したバンドが常軌を逸したテンションの中で思考の容量を超え感情の上下左右を失っていくあたりの“しでかし”こそは監督の面目躍如となる瞬間だろう。加えて特筆すべきは屠られる人々の破壊描写で、特に銃創以外の刺し傷と切りつけ傷および噛み傷の、まるでそれらの傷自体が意思表示であるかのように語りかけてくる表情に目を見張らされることになる。替え玉となるチンピラ2人が証拠のナイフ傷を残すため刺しつ刺されつするシーンでの、白く痩せた身体に寄る辺なく口を開ける荒涼とした刺し傷が実は一番震えが来たし、もう引き返せないことを誰にともなく宣言するアンバーのナイフ一閃を可能にしたエフェクトはこの映画で最高となる芸術点を叩き出した瞬間だろう。リース(ジョー・コール)がジャスティン(エリック・エデルスタイン)を再度絞めにかかったら、瞬きせずに目を凝らした方がいい。怒りにしろ哀しみにしろその上澄みを透かすことのできるアントン・イェルチンの資質によって、どれだけ血を吸おうとも映画は自重でふらつかないわけで、そんな風なマジックをもう目にすることができないのは本当に残念でならない。まあでも、やるだけやったじゃないかと肩を叩きたくなるような映画を最後に観られて少しだけ救われた。
posted by orr_dg at 02:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする