2017年01月29日

トッド・ソロンズの子犬物語/クスリとスリルと腹痛

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ウィンナーみたいだからウィナードッグ(原題”WIENER-DOG”)とあまりに身もふたもない呼ばれ方をしてしまう(ことを初めて知った)ダックスフントが、戦火の馬ならぬ戦火の犬としてアメリカ市井のコンバットゾーンをよたよたヘナヘナと走り回っていく。オープニングの2カット目で犬の視点からケージ越しの空を捉える以外は犬を擬人化したアクションは一切ないまま、犬はただそこにいる犬として人間様の都合でいいようにあしらわれては、犬がいなくても起きたであろう出来事について、スイカに塩をかけると甘味が増して感じられるように、そこに犬の愛嬌があることでよりいっそう寂寥感を増すはたらきとなっている。どうして犬を撫でる優しい手つきで世の中をかき分けて行けないのか、どうして犬を呼ぶ優しい声で世の中に呼びかけないのか、根っから悪いやつなんてアントン・シガー以外そうそういないわけで、自分の内と外の分断や断絶にはまって身動きがとれなくなっていく人たちの悲哀を、少なくとも僕だけは看取ってあげるよとトッド・ソロンズは肩を抱きながら背中を押すのであり、ナナ(エレン・バースティン)ならずとも自分の最期の時があんな風に総括されたらたまったものではないわけで、こんなのイヤ!と叫んだその身代わりとしていったい犬がどんな目に遭ったか、ナナからゾーイに渡った1万ドルはファンタジーによってあのラストのために費やされたのか、だとしたらナナはあのまま旅立った方が幸福ではなかったのか、死ぬよりマシか死んだ方がマシか、トッド・ソロンズの生き地獄である。幸福に手がかかったかに思えるドーン・ウィナー(グレタ・ガーウィグ)にしたところでブランドン(キーラン・カルキン)の左腕にまだ新しい注射痕を見ているわけで、ドーンとブランドンによるその後のドールハウスの物語にしたところで、既にこのカップルが生き地獄のとば口に立っているのは言うまでもない。そもそもが下痢と癌とで円環するような映画である。
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2017年01月26日

沈黙 −サイレンス− /アイ・アム・ノット・ユア・ファザー

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殉教から遁走し続けるキチジロー(窪塚洋介)は神のために死ねない自分を弱いと泣く。それはもちろん、死ねばパライソ(天国)で自身の苦しみから解放されると信じて死んでゆくのは果たして殉教といえるのだろうかという自問の末でないにしろ、デウスは大日なのだと看破せざるを得なかったフェレイラ(リーアム・ニーソン)の言葉を借りるでもなく、パライソ信仰はよりオールマイティな浄土信仰ではないのかという疑問とつかず離れずしてしまうのも確かなのである。しかし、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)が最終的に直面する、眼前で苦しむ教え正しいとは言えぬ潜在的異教の人を救済するために己の信仰はどこまで有効かという信仰の極北を乗り越えたのは、キチジローという存在がまるで神の恩寵でもあるかのようにロドリゴの保つべき正気の合わせ鏡となっていたからなのだろうし、最後にロドリゴからキチジローに向けられる原作にない言葉はその現れということになるのだろう。そして、ロドリゴが最後に掌中にするのが自身のクロスではなくモキチ(塚本晋也)が作り託したそれであったことからも、沈黙の声とは自ら境界を超えていくことでしか耳にすることは叶わないのだというスコセッシのたどり着いた答えがうかがえるように思うのだ。これほど原作に喰らいつくように映像化されてしまうと映画の感想なのか原作の感想なのか自分でも曖昧になってしまうのだけれど、スコセッシが獲得して託した答えはその同時代性において否が応でも突き刺さってくるし、ワタシたち観客がそれをロドリゴの旅の仲間として共に喜び怖れ打ち震える体験を可能にした映像のデモニッシュな美しさと幻想的な寄る辺の無さは、それと引き換えにスコセッシが差し出したであろう魂の息づかいを思わせてやむことがない。井上筑後守(イッセー尾形)については、通辞(浅野忠信)がロドリゴに言う「井上様は現実的なお方であって、ただ残酷というわけではない」("He is only a practical man, Padre, he is not a cruel one.")という台詞における "practical" のモンスターとして少々戯画化して描いてはいるのだけれど、トモギ村でイチゾウ(笈田ヨシ)、モキチ、キチジローたちが戦略的に踏み絵をしてみせた時とキチジローがクロスに唾した時に見せる彼の表情は、後にロドリゴに告げる「日本とはそういう国だ。どうにもならぬ」という言葉に潜む彼の徒労もうかがわせ、絶対悪を据えてしまうことで構造が矮小化することを回避しようとするスコセッシの演出にはため息とともに唸らされてしまう。 常々思うことだけれど映画の洋邦で目につく差はやはり「黒」の階層で、時間、要するにお金をかければかけるほど「黒」はそれが絢爛な漆黒であっても殺伐の闇であっても魔法のように美しくなることを目の当たりにした映画でもあったし、生きたまま人が燃やされ、十字を切る間もなく斬首される瞬間へ一瞬の隙なく踏み込むカメラの獰猛は、やはり紛うことなきスコセッシの映画だなあとどうにも昂奮してしまう。 当初日本人俳優の情報が入ってきた時は、てっきり塚本晋也がキチジローだと思っていたのだけれど、キチジローをロドリゴにとっての救済者とするために穢れの奥にも無辜の光をたたえる目をスコセッシは窪塚洋介に欲したのだろうし、そのヴィジョンを十全に理解した彼によってもたらされた清冽がこの映画自体の救いとなっている。
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2017年01月23日

ザ・コンサルタント/お前はもう監査されている

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顧客の農場に闖入した殺し屋2人を返り討ちにし、それを呆然と見守る農場主夫婦の前から立ち去りかけて、あ、忘れてたとばかり小さく手を上げて別れの挨拶をするクリスチャン・ウルフ(ベン・アフレック)の可笑しみにひそむ、俺は挨拶をしなけりゃならない時としなくてもいいだろう時の判断がうまくつかないから、だったらいつもすることに決めておけば少なくとも失礼はないだろうと考えている、とする経験則的な知恵に漂うどこかしらの哀しみは、俺は生まれた時から世界ってやつにドアを閉められちゃってて、でもそのドアに寄りかかってないと転んじゃうんだよねという目は笑っていない苦笑いによっている気もして、だとしたらそんな風に歯を食いしばった朴念仁のメランコリーを踏みにじってキックにする話はあまり愉しそうではないなあと思って身構えていたものだから、終盤になってどたばたと底の抜けていく展開も、だってもともと彼には足元の確かな底なんて与えられてないんだから関係ないよね!と何とも晴れやかで涼やかな気分のままいられたのである。そしてそれは、かつて自分を門前払いした世界を逆恨みしないどころかその行動の動機が種々の友情によっていることも手伝っているのだろうし、それはすなわちクリスチャンにとっての善きことに対する切ないまでの忠誠とも言えて、デイナ・カミングス(アナ・ケンドリック)との予期せぬ交歓もほとんど騎士道といってもいいフェアネスの遂行がロマンスを寸止めしてしまうのである。結果としてクリスチャンを中心とするネットワークを構成することになるデイナ、レイモンド・キング(J・K・シモンズ)、メリーベス・メディナ(シンシア・アダイ=ロビンソン)といった人たちがみなそれぞれに痛みを知る人たちであること、そしてクリスチャンがコンマ単位の躊躇も見せず排除するのが痛みを与える人たちであることも、単なる勧善懲悪ではないこの映画ならではの風通しを誘っているのだろう。完全なネタバレになるのである2人の名前については伏せておくけれど、その関わりと顛末はちょっとした奇蹟を見るような気分であって、まさかこれだけ綺麗な気持ちで劇場を後にするとは思わなかったし、クリスチャンが宝物とするアレが、ベン・アフレックが自身の資質を照合して役者としての突破口を見つけたあの作品に繋がっていることも含め、予期せぬ血の通い方に胸のざわつきが止むことのない映画だったのである。だってあそこで弟が笑うんだもんな。
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2017年01月18日

ネオン・デーモン/ブラックハニープラムパッションピーチーキーン

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※展開に触れています

アタシに股開く度胸もないくせに「ママはあたしを危険な子って言うわ」とか中二ってるんじゃないわよ、ムカつくわこいつ!と怒髪天を衝いたルビー(ジェナ・マローン)を実質的な主役に、彼女と彼女のゆかいな仲間たちのバビロンな日常をヘネシーのCMにおいて更にあからさまなケネス・アンガーへの偏愛と崇拝の証として描いてみせては、ペダンチック?なにそれ喰えるの?とニヤニヤしながらホントに喰ってしまったものだから、ならばこれは『オンリー・ゴッド』を観て心中を宣言したワタシへのご褒美かと恭しくいただいておいた次第である。冒頭のメイクルームからして、フィクスのままフォーカスの切り替えで会話ショットを切り返すこれみよがしが走り出し、ジェシー(エル・ファニング)にはなかなか拭えない血糊をルビーはさっと拭き取ってしまうあたりの初球のコントロールから始まって、◯(月)から△(ネオン)、そしてルビーの描く×への移ろいはそのままジェシーのカウントダウンとなり、ルビーが月に向かって血を捧げる満願成就への一本道は、言いたいことは特にない幻視家レフンがようやく『ドライヴ』の呪縛から抜け出した証であるようにも思ったのである。したがって、ハンク(キアヌ・リーブス)に呼ばれたマイキー(チャールズ・ベイカー)がバット片手に部屋の奥から現れて階段を昇っていく時の疼くような昂揚、ジェシー襲撃において最初に突っ込んでいくサラ(アビー・リー)が繰り出すパンチの角度および、プールサイドでジェシーを追う彼女のまるで『エクソシスト3』の横切りのような死神の早足、眼前で腹にハサミを突き立てて果てるジジ(ベラ・ヒースコート)をあっけにとられるように凝視するサラの半開きの口の端で歪んだ数ミリの虚無、といった忘れがたいいくつかはやはりダイアログとは無縁の瞬間ということになり、16歳のレクイエムやら審美の王国などと言ったレフンがまことしやかに明かすサブテキストを手探ってみてもどのみち寸足らずに終わるのは目に見えているわけで、結局のところニコラス・ウィンディング・レフンという人は、世界はあまりにも自由で人は暴れざるを得ないという認識をもとに、その“を得ない”と書かれたページの挿絵を描き続けているように思うのだ。リンチが名づけた "Wild at Heart" とおそらく底はつながっている。
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2017年01月13日

人魚姫/チャウ・シンチー・イズ

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広川太一郎の吹き替えを思わず脳内変換するような蒸し暑い香港ギャグを塗りたくったオープングのシークエンスがいったいラストのどんな場面で回収されたか、それ一つ取ってみても、笑いながら暴れる人チャウ・シンチーの緊張と緩和、すなわちゲロと笑顔をいちどきにぶちこんでいく手並みはほとんどウルトラバロックといってもいい過剰の果ての洗練にすらあるように思うのである。前述したオープニングの脱力を経て、シャンシャン(ジェリー・リン)、リウ(ダン・チャオ)、ルオラン(キティ・チャン)の3人が順次なごやかに顔見せを済ませた後で、人魚族の棲み家へ戻ったシャンシャンはリウの会社による環境破壊で傷を負った少年の人魚に薬を与えるのだけれど、全身に負ったその損傷がコメディ映画で何もそこまでやらなくてもというくらいリアルでえげつなく描写されていて、しかしこれもまたチャウ・シンチーにとっては喜怒哀楽の爆風で客の首根っこをつかんでふりまわし、余白から日常が透けて見えるような興ざめなど恥と思えというサービス精神に相違ないわけで、もう後は推して知るべしという百花繚乱であり、武装チームによる人魚族への、排除でも捕獲でもないもはや殺戮としかいえない暴力の噴出も、人魚族長老による逆襲の一撃で壁にボロ雑巾のように壁に叩きつけられる彼らの死に様も、破れたハートで目に涙を浮かべながら水中銃でリウを貫く(しかも3発)ルオランの暴走する純情も、銛を撃ち込まれバズーカが直撃し美しい尾ひれは裂けなめらかな肌も切り刻まれた瀕死のシャンシャンがその力ない視線の先にいったい何を見たのかも、すべてはチャウ・シンチーがお客様のために精魂込めて手配したサービスに過ぎず、しかも全体としては現代中国の深刻な環境破壊への警鐘を鳴らす素振りのうちにあるという狂い咲きだったのである。それはすなわち『ツイン・ピークス』『エイリアン』『ブレードランナー』という前世紀の亡霊がいまだ待望される2017年の、永遠に更新されることのない終わらない日常をほんの100分足らずでも忘れさせてくれるのは狂気と言う名の正気であったという正論に他ならず、そんな映画をIMAX3Dで観ることが叶わない身の不幸を正月から嘆いたりもしたのである。いつの日かチャウ・シンチーとトム・クルーズがタッグを組んでくれないものだろうか。
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2017年01月09日

ピートと秘密の友達/セイントたちのいるところ

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アメリカのイノセンスは孤独を知った魂に宿る、とデヴィッド・ロウリーが再び宣言してみせる。そしてその魂が共鳴する響きこそがアメリカのグッドネスなのだという語りかけが、インディペンデントなクライム・ムーヴィーから、緑色をしたCGのドラゴンが空を舞うディズニー映画へと続く一本の道をあたりまえのようにつなげたことに何だか胸のつまるような疼きをおぼえたのであって、ピート(オークス・フェグリー)を探して夜の空を息せき切って舞うエリオットが、灯りのともった窓の向こうで見知らぬ人間に囲まれて微笑むピートを見つけて目を伏せる姿に、思わずあの夜のケイシー・アフレックを重ねてみたりもしたのである。そして黄金の陽光に向かう逆光のショットは世界を世界たらしめるものへの畏敬を込めたアメリカの原風景となり、リベラルであるとか保守であるとかいった分岐の上流へ向かう懐古というよりは回帰の自然な足取りに思え、おそらくそれはテレンス・マリックがかつて歩んでいながら見失ってしまった道筋のようにも思えるのだ。『セインツ』に続き監督とタッグを組んだダニエル・ハートのストリングスとブルーグラスのスコアも恩寵の調べのような荘厳とたおやかさを寄り添わせ、ボニー・プリンス・ビリーからレナード・コーエンまでをコンパイルした挿入歌のハイセンスにも唸らされる。その中でSt.ヴィンセントがカヴァーしたディノ・ヴァレンティの "Something On Your Mind" についてはやはりカレン・ダルトンのヴァージョンがとっさに耳に忍び込んでくるのを拒めず、となると失われたアメリカーナの歌姫カレン・ダルトンの物語をいつの日か誰かに紡いでほしいという願いがまたしても頭をもたげてくるわけで、ルーニー・マーラ、あるいはジェニファー・ローレンス(『ハンガー・ゲーム』の歌は素晴らしかった)をカレン役に据えたデヴィッド・ロウリー監督作を夢見ることにしたいと思うのだ。大きな笑顔と小さなメランコリーをまきちらすピート役のオークス・フェグリーとナタリー役のウーナ・ローレンスの子役2人がとりわけキラキラとして忘れがたく、特に『サウスポー』でギレンホールの娘役を演じたウーナ・ローレンスの、どこかしらケヴィン・ベーコンを思わせる風情に思わず顔がほころぶ。ディズニーのドラゴン映画ということでスルーを決め込んでしまうのはほんとうにもったいないし、とりわけ『セインツ−約束の果て−』に撃ち抜かれた人であれば絶対に観ておいた方がいいと思う。

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2017年01月07日

ワイルド わたしの中の獣/主に鳴いてます

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アニア(リリト・シュタンゲンベルク)のラストショットに、ああこれは断裁工場からの帰り途、ボリス(ゲオルク・フリードリヒ)の運転するヴァンの助手席で、窓を開けて風を受けながら目を閉じるアニアの見た一炊の夢だったのではなかろうかと、ふだんなら鼻白むであろう夢落ちをむしろ積極的に受け入れる気分になっていたわけで、それくらいこの映画には、ここではないどこか、ここにはいない誰かへの切実な夢想が、夢判断なら舌なめずりしそうなセックスのオブセッションとして溢れかえっていたように思うのである。そのあたりは「赤ずきん」における狼を引き合いにだすまでもなく、そのどちらかと言えば類型的な関係性と、潜在的な抑圧者としての祖父(は「赤ずきん」で言えば狩人か。射撃も祖父に手ほどきされたことをうかがわせる)とその死による解放が彼女の内面を放つことによる承認欲求の復讐といったストーリーが、アニアがダイヴした狂気を整理してしまう気もするわけで、それよりは、ホテルの部屋に閉じこもった2人が精神も肉体も頽廃していく『愛の嵐』の変質を、あの荒涼としたマンションの部屋で狼とともに選んで欲しかったなどと思ってしまう。アニアが現実のくびきから離れていくに連れ、映画が神経症的なミニマルから怠惰な長息を露わにしていく変更には時おりうっとりとさせられはするものの、暴力とセックスの投げやりがなだれ込んでこないのは、たとえば匂いが臭いになかなか書き換えられてかないあたり、監督は奥底でフェティッシュの人ではないのだろうなという清潔な精神が、アニアを新しい人とする妨げになっていた気がしてしまうのだ。むずかる狼の首に縄をつけてマンションの廊下を引きずる姿の、アニアにとっては恋人たちの逃走というロマンスも端から見れば底の抜けた狂気の沙汰なのだというおかしみをふりまいて、ああ、そもそもこれは『クリーピー』的な拉致監禁スリラーとして観るべきだったかと一瞬後悔したりもしたわけで、してみれば「まだまだ行くぞ〜」と彼岸を幻視するアニアのラストも存外に腑に落ちたかもしれないのだった。
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2017年01月03日

アイ・イン・ザ・スカイ/ドローンは踊る

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結局この戦いにおいて西側が戦うのは宗教や民族ではなく自分たちのシステムにほかならないという徒労と絶望は、紛うことなく『4デイズ』の既視感につながっている。生命は地獄の底までも等価であるべきだと謳う世界を目指す戦いにおいて、その合理は生命の軽重を計算することでリファインされるという皮肉なマッチポンプというか自家中毒というか、それに蝕まれていくパイロットの姿を描いたのが『ドローン・オブ・ウォー』であったことを思い出してみても、これが終わらない戦いであるどころか永遠の負け戦であることすらを前提にシステム化されている気がしてくるのである。この映画に時折漂うどこかしら底の抜けた苦笑いは、視えない戦争の洗練が進むにつれ当事者ですらそれが視えなくなってしまっているディック的な悪夢のスラップスティックによるものなのか、そういう醒めきった俯瞰がメランコリーにまみれた『ドローン・オブ・ウォー』と対照的なのは、これが南ア出身の監督による非アメリカ映画というポジションということもあるのだろう。しかし最後にフランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)は、軍人は視るのが仕事であって視えていないのはおまえたち文民の方だと斬って捨てるわけで、彼にナイロビの少女と同じ年頃の子供がいることを告げながら作戦遂行の意志を微動だにしないその姿は、どれだけデオドラントされようがお前たち文民が始めたこれは殺戮によって歩を進める戦争であって、俺たちみんな戦時体制に首まで浸かっていることをお前らはもう一度よく考えてみるべきだろうとする通牒であったように思うし、作戦が成功したにも関わらずネヴァダとロンドンで流された涙は、既に決定的に変質して元に戻ることはない世界への絶望的な思慕であったのは言うまでもないだろう。そんな風にして戦場には泣かない者と泣けない者が残されて、それが新たな合理を生み出していくに違いないのである。個人がどのような思想を持とうがそれを否定するいわれはないけれど、ヘレン・ミレンについて言えば自身でもこの役柄には存外にフィットしたのではなかろうかと考える。トランプにとって最大最高となるオバマの置き土産はドローン戦争のシステムであったことはおそらく間違いないだろう。『4デイズ』で日和ったエンディング(寄る辺なきヴァージョンは日本公開版のみ)を採用した北米の腰抜けをせせら笑う黒くて硬いガッツに溢れた傑作。
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2017年01月01日

あけましておめでとうございます

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新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今年もなんとか、いろいろなあれこれから逃げきれますように。
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