2018年12月14日

暁に祈れ/もっとでもいいんだぜ

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ジョー・コール演じるビリー・ムーアによる自伝の映画化ということなのだけれど、ビリーがタイに来た理由や既に彼が身につけている荒廃の事情などバイオグラフィー的な背景がとくに語られることもないまま、彼が収監されたチェンマイの刑務所内に蠢く囚人たちの、入れ墨と薄ら笑いと罵声と怒声、殺した数や犯した罪、覚醒剤、闘魚、強姦、すなわち死ぬまでの暇つぶしがむせ返るように描かれていく。そんな中、緩慢に生への執着が断ち切られていく雑魚寝の無間に沈み始めたかに思えたビリーは、中途半端なボクサーで中途半端なジャンキーでしかなかったその生来の曖昧さがここでも彼を中途半端な死者にとどめたことで、生への執着が彼にムエタイという命綱を投げてよこすこととなるのだけれど、ただ、映画の惹句として“ムエタイでのし上がることに成功したイギリス人ボクサー”と語られた時の違和感が最後までぬぐえないのは、ビリーにとってのムエタイは刑務所内の地獄のカーストを這い上がっていくツールというよりは、剥き出しの拳を叩き入れ蹴りを打ち込み膝を突き刺し、剥き出しの肉体に叩きつけられる拳と打ち込まれる蹴りや突き刺さる膝によって、刀工が刀を鍛えるように自身の輪郭を形作っていく作業であったように思うのだ。ラストで誰にも見咎められず病室から抜け出したビリーが結局は戻ってきてしまうのも、高きであれ低きであれ中途半端ではないくっきりとした自身の輪郭を識ることで、あのまま逃げ出すことが自分にとっての自由ではないことに気がついたからなのだろう。この仏人監督の前作『ジョニー・マッド・ドッグ』でも感じた、悲しき熱帯的もしくはロバート・フラハティ的エクスプロイテーション(モンド映画ともいう)風味は相変わらずながら、そうしたビリーの成長というよりは変貌、もしくはビリーが勝った最後の試合のフィニッシュブロウが何であったかなど、今作では脚本から手を引いたこともあってだろう、それなりのドラマツルギーが書き加えられたことで映画としての救いは手に入ったように思うのである。(宗主国にとっての)辺境にしかリアルを見いだせない監督のスリルジャンキーが救われたかどうかはともかくとして。
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2018年12月13日

パッドマン 5億人の女性を救った男/きみはちっとも悪くない

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きみの笑顔が見たいだけさ、という幸福の追求がかくもアナーキーなシステムの更新を成し遂げる物語の、まずはその不幸なシステムが西暦2000年を過ぎて横たわっていたことに驚きはするものの、その笑顔を阻み続ける魑魅魍魎がいまだこの国を含めた世界中に跋扈している様は毎日嫌でも耳に飛び込んでくるわけで、ラクシュミカント・チャウハン(アクシャイ・クマール)が狂人扱いされればされるほどそれを促す側の狂気が浮かび上がっていく寓話の饒舌は、それら不幸で残酷なシステムの存在を笑顔で糾弾しているに他ならない。そうやって一念岩をも通すなぜなに坊やラクシュミが成し遂げたのはフェミニズムの革新がそのままフェアトレードのシステムを確立させていく弱者の産業革命ともいえるもので、そのドミノ倒し的な痛快と爽快こそは、この世界がそれをいかに待ちわびていたか、そして本来あるべきものが今までずっとそこになかったことの証ではあるのだけれど、劇中でラクシュミを率先して嘲り嫌悪するのが女性であったことや、彼女たちにそうさせる恥の概念を植えつけてきた歴史を考えてみた時、ラクシュミがパリー(ソーナム・カプール)のもとを去ってガヤトリ(ラーディカー・アープテー)のところへと戻る理由、すなわち、これからのインドの女性はもう泣かなくていいこと、生きるのを恥じる必要はないことをそれそれが目の前の1人に伝えるところから始めねばならないというその責任を観客に託していたように思うし、聡明に開かれたパリーが目に涙を浮かべながら言う「彼はこのままここにいたらつまらない男になってしまう」という言葉は、歴史の罪を負うべき人としての男性に向けたメッセージでもあったのではなかろうか。道化を演じるラクシュミの陽気なコメディの振る舞いはしばしば笑いの不発を誘っているように映るのだけれど、そもそもこの映画が奮闘しているのは笑えない状況を笑顔で伝えるその一点にあることを思い出してみれば、希望と絶望が交互するその泣き笑いの表情こそがこの映画の息づかいであり、彼を笑い飛ばせるほどワタシたちは無傷ではないことに次第に気づかされていくように思うのだ。ガヤトリの対照として在るパリーを演じたソーナム・カプールの、ジェニファー・オニールを思わせるモダンでスマートでしかしそれを嫌味としてはならない美しさがこの映画を一方で引き締めている。
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2018年12月11日

来る/まっかなケチャップになっちゃいな

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祖母志津(ヨネヤマママコ)の彼岸の人のような佇まいに、何しろここから始まるわけだからな!と予告篇のころから感じ入っていたこともあり、志津が夫に仕掛けた苛烈な復讐とその哀切な動機および、孫の秀樹(妻夫木聡)にまで祟り続けるその呪いがなぜ普遍であり得るのかというそれら一切がないものと脚色されていたことには少なからず驚いたというか落胆もしたわけで、それはおそらく「ぼぎわん」をその由来や姿かたちで語ることよりは、人の心の昏さが生み出すイドの怪物的に乱反射する思念の存在として描くことに決めた監督の采配によっているのだろう。映画の大半は秀樹と香奈(黒木華)の2人が自分たちの作り出した生き地獄に呑み込まれていく様を描くことに費やされて、ぼぎわんはその手続きとして存在するに過ぎず、それについてはおおよそ原作の構成を踏襲しているのだけれど、脚色されたぼぎわんに最低限必要となる失われた子どもたちの総体という記号に呼応するかのように、原作のある設定が180度変更された野崎(岡田准一)もまた自身の生き地獄に放り込まれることになる。前述した志津の復讐とその動機を一切カットしたのは、おそらく中島哲也という監督が既に死んでいる人間はもう死ぬことがないという理由によってその物語には関心を抱いていないことの表れで、もっぱら目の前にある生き地獄を捕らえては飼い慣らすことにのみ愉悦を見出しているかのようであり、もはや琴子(松たか子)とぼぎわんの最終決戦すらを省略する切り捨てにはそうまで自分に確信してしまうのかと恐れ入ったし、造り自体はドシャメシャではあるけれどそのあたりの脱構築はA24系を中心とするポストホラーの流れによって解釈可能にも思える。ではその生き地獄の味わいはどうだったかと言えば、妻夫木聡が自己啓発系ナルシストの凡庸な悪を虚ろな躁病の広がりで完璧に演じきっていてこの映画での最良だったし、そのネガとポジとして狙い撃ちした悪に陰鬱な作り笑いを貼りつけた黒木華は、例えば『永い言い訳』で監督に“シャツのボタンをいちばん上まで閉めている女性のいやらしさが欲しかった”と言わしめた爛れの全開に惚れ惚れと見とれるしかなかったのである。比嘉姉妹は共にシャープな造型でジャンルムーヴィーとしてのハレのバランスを豪腕で支えていて、終盤で琴子(松たか子)が繰り出すノーモーションの右ストレート一閃には思わず頬が緩んだりもした。とは言え、せっかく秀樹という極上のクズを妻夫木聡が仕上げたのだから、やはり原作で志津が秀樹に諭す「優しゅうしたりな、ずっと、面倒見たらなあかんで」「(女の人が)耐えてもええことなんかあらへんからな」という言葉に唾したその最上級の報いとして、秀樹はぼぎわんに屠られて欲しかったなあと思うのだ。そのとばっちりもあって、まさかのビルドゥングスロマンを背負わされた野崎も困惑したのではなかろうか。オムライスの国を知紗(志田愛珠)の経験値で描けるお山の表出としたバッドエンドは、雨が降ろうが槍が降ろうが正面切ることのできない監督の苦肉の策にも思えて心がなごむ。
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2018年12月07日

ギャングース/ギュードン・コーリング

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町並みに埋もれるような一軒の牛丼屋にああまで優しく暖かい光が差し、何ならそこに聖性すら漂わせてみせたあのラストこそこの映画が目指した場所であったのは言うまでもないのだけれど、本来ならばこの映画に泣き笑いすべき人たちはおそらく映画など観る状況にないのだろうことを思えば、3人が並んだカウンターの背後で知ったような口ぶりの高説を垂れるサラリーマン、しかしあれが世論として大手を振る吐き気のするような界隈がこの国にはあるわけで、に中指を立ててむかつきをおぼえる観客を一人でも増やすことがこの映画の可能性なのだろうと、少しだけ遠い目などもしてしまうのだ。いったい誰に届けようとしているのか薄気味悪いほど顔の見えてこない、青空に祝福され栄養の行き届いた青春映画の裏通りで一杯の牛丼に涙を流す若者たちのピカレスクはあまりにも馬鹿正直でそれゆえ不発でもあり、しかしそれでも傷だらけで笑い続けるサービス精神が痛々しくて愛おしくて仕方がなく、臭いもののふたを蹴破ってデオドラントされた世界にリアルな臭いをぶちまけることを自らに課した原作から一本の映画へと幸福な着地をすればするほど沁みてしまうメランコリーこそを、映画を観たワタシたちは自分のものとして持ち帰らねばならないのだろうと考える。ゆらゆら揺れる青白い炎のような原作の輪郭を実写の輪郭に息づかせたサイケ(高杉真宙)、カズキ(加藤諒)、タケオ(渡辺大知)の造型はすでにそれだけで勝利だし、さすがに3人ほどの深掘りは叶わないにしろ安達(MIYAVI)や加藤(金子ノブアキ)といった敵役にも可能な限り言い分を与えていたのも原作の理解あってのことだろう。その分、原作ではカズキたちを金と人情でバックアップする魅力的な存在だったチャイニーズマフィアのヤンくんまで手が回らず、高田(林遣都)あたりにそのキャラクターが吸収されてしまったのはやむを得ないところではあるのか。砂を噛むような風景の中で血の味を口に感じながら立ち尽くしたまま、それでも遠くを見続ける者たちへの共感と救済を使命感のように描き続ける入江悠監督がロードサイドや河川敷に灯す明かりが吹き消され辺りが真っ暗になってしまわないよう見守るのはワタシたち観客の責任であるに違いない。それにしても、そんな風な映画ばかり観てきたワタシは、最後にダンプが牛丼屋に突っ込む光景が一瞬ちらついたものだから慌ててそれをかき消したりもしたよ。
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2018年12月05日

へレディタリー 継承/ごめんで済んだら母親はいらない

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ハネケやファルハディ、最近だとオストルンド作品を観ていて、これはもうほとんどホラーだな…とつぶやいてほくそ笑む、ほとんどホラーなその先の薄昏い角を曲がっていっそホラーにしてしまえば、もっとしたたるような「他人の不幸は蜜の味」が搾り取れるに違いないとアリ・アスター監督もまたほくそ笑んだかどうかはともかくとして、私が私であるがゆえ逃れられない存在の激痛に催す吐き気のような神経戦に、その激痛をもたらす“もの”を具体化して絶望をなお直截的にするホラーの語り口を外科手術の緻密で縫い合わせることで、ロウブロウとハイアートを横断し折衷した新種の昂揚(まさにあのラスト!)に触れた怖気を持ち帰ってきた気がずっとしているし、それを切らしたくないという思いに囚われている気もずっとしているのである。したがって、この映画の怖さというのはメメントモリ的な死の脅威というよりは、世界の法則から外れた人間がどのように変質していくのかを無慈悲に見つめ続ける視線にこそあり、オープニングでアニー(トニ・コレット)の作るドールハウスに侵入していくカメラは、これが忌まわしく大いなる意思によって俯瞰され導かれ作り上げられた物語であることをその視線で告げることとなる。起こったことがドールハウスで再現されるのか、ドールハウスで作られたことが起きるのか、既にアニーがある種の依り代となっていることは、冒頭の葬儀シーンで紋章のペンダントをしていることもうかがえるわけで、母親に精神支配され続けた娘がその呪縛を打ち払いつつ刻み込まれた自身の狂気とも闘い、しかしついにはそれらに呑まれ敗れていくその哀しみがホームドラマとしてのこの物語を透明で硬いペシミズムで覆うことでホラーのハシゴを外したとしてもそのまま成立する強度を持ち得たようにも思っている。対象にフォーカスした同一ショット内に霊体の気配を配置し、しかしその存在は観客にしか視えていないというJホラー的なショックシーンを排しつつ、しかしある一点でここぞとばかりに繰り出したケレンには小さく声が出たし、視えているのに視えていないショット、例えば授業中にいきなり振り向いてピーター(アレックス・ウルフ)を凝視するブリジット(マロリー・ベクテル)や遺族の集まりで一つだけ空いた椅子、ピーターの部屋の窓越しに見えるいつも灯りのついたツリーハウス、といったあたりの漂わせ方で知らず毒が回っていく。また、アニーがジョーン(アン・ダウド)の家に向かうシーンやピーターが学校で授業を受けているシーンなど、家の中のシーン以外ではほとんど同一のショットを繰り返すことによって全体の閉塞が緩むのを絶妙に回避もしている。おそらくアリ・アスターという監督はことさらホラーの文法で綴っては観客を怖がらせようとする意識もさほどないまま、状況を反映させる感情を忠実にデザインした結果がこうなったに過ぎず、さすがに家族同士が字義通り首の刈り合いをする物語を着地させる術が手持ちにないためその点を悪魔に頼ってみたのだろうし、一番怖ろしいのは人間であるという今さら陳腐でしかない物言いを衒いなく言ってしまえるのも、妹チャーリー(ミリー・シャピロ)の首を飛ばした翌朝のピーターを襲う、死んだ方がマシなのに死ぬことすらできない僕はすべてが夢だったことに賭けてみたがそれもあっけなく潰えた今この瞬間、死ねない僕を誰か殺してくれないかそれも核ミサイルの人災や大地震の天災によって、という薄ら寒い希死念慮であったり、それを口に出したらもう引き返すことはできなくなるその一線をアクセルべた踏みで破壊的に超えていく食卓のシーンであったり、といった人外によるアタックとはまったく無関係なシーンこそがこの映画のピークで針を振り切っていたことに明らかで、おそらくこの監督のフルスペックはホラーのくびきから離れたところでこそ世界に轟くのだろうと考える。あけすけなドールハウスショットで展開する、オマエが燃えるんかい!の爆発的な緊張と緩和の達成が知らしめる監督の浮世離れした暗闇を指さして、やっぱりこの人は悪魔だった!とほくそ笑む未来をワタシは待ち望んでやまない。
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2018年11月30日

斬、/悪い人たち

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※未見の方スルー推奨

暗転した途端、身構える間もなく石川忠渾身のインダストリアルビートに打突され、その響きは次第に烈しい間合いで刀工が鉄を打ち据えるハンマービートへとなだれ込んでいく。内臓の深いところまで易々と響くそのリズムとそれに踊る灼熱の炎、そして叩かれるほどに生命を獲得していく鋼の塊が喘ぐように放つ、官能といってもいい芯からの光に魅了されることで、人を斬り、殺すためにこの世に送り出される刀という武器をあっさりと受け入れるに至る監督の悪魔のような手口によって、ワタシたちはのっぴきならないところから歩を進めることを余儀なくされてしまい、ああこの炎は『野火』のラストで田村が暗闇に見る炎だったのかと気づくのは、何度か反芻してみた後のこととなる。そんな刀の一本が都築杢之進(池松壮亮)という若い浪人の手に届くも、肉体的には人を斬る準備が十二分に仕上がってはいるものの精神として人を斬る術を知らぬ彼は肉体の昂ぶりをしばしば放ってやらねばならず、それは自分に課した日々の鍛錬が行き着く先は人を殺すことであるというその理を見失わないための儀式であるようにも映る。澤村次郎左衛門(塚本晋也)と素浪人の果たし合いを見ていた杢之進が、一瞬の交錯の後で素浪人の右手のひらが深々と割られ肉が覗いているのを確認するやいなや決着を見届けず立ち去ったのは、その眼力で勝負を見切ったのと同時に、刀が肉体を破壊したことの小さいけれど確実な衝撃にもよっていたのだろうと考え、ここで既に杢之進のナイーヴが始まっている。物語としては杢之進のイノセンスを澤村のギルティが犯そうとにじり寄っていくのだけれど、両極でスイングすることの多い塚本作品ではめずらしく、「俺たちは悪いやつにしか悪いことしねえよ」とうそぶくイノセンスとギルティを混濁させた源田瀬左衛門(中村達也)という浪人が杢之進と澤村の拮抗を崩す者として登場し、ある意味で澤村の思惑通り杢之進を破壊していくこととなる。命のやり取りをするに及んでなお真剣を取らず木の棒を掴む杢之進に「てめえ、なんだそれ」と哀しげとも言える怒声を浴びせる源田は、一周することで人を殺めることの意味と理由を我が身に染み込ませてきた男で、役回りとしては同様にイノセンスとギルティを内在させながらそれを意識していないゆう(蒼井優)とはその立つ場所が螺旋状に異なっている。そしてすなわち、ワタシたちとしてのゆうは無垢と無知ゆえ状況に対しては犯罪的とすら言ってもよく、けっして澤村のギルティだけが最期に杢之進という怪物を生み出したわけではないことを忘れぬよう、監督は残酷を承知でゆうを当て馬としたように思うのだ。倫理的な説諭が目的であれば当然のごとくギルティはイノセンスに敗れ去るはずが、ここで描かれるのは怪物が誕生するプロセスとそこに加担した人々の振る舞いで、しかもそれぞれの人物像は誤解のないよう両義性すらがきちんとデザインされて提出されており、その直截性にワタシは塚本晋也監督の苛立ちのようなものを感じたりもしたのだ。それはおそらく自分の内部に発生し居ても立ってもいられぬ焦燥と、自分を取り巻く世界との乖離がそうさせている気がしていて、その世界にはもちろんワタシたち観客も含まれているに違いないと思うのだ。これでもまだ分からぬかということである。監督のすぐ側でそれを嗅ぎ取ったであろう池松壮亮、蒼井優という傑出した俳優は、自身のフィルターの目を微細に研ぎ澄ますことで解像度と透明度を高めつつ、ワタシ達はもう武器を手にして変質してしまい善いものではなくなっていることを知らねばならない、そしてこれ以上悪いものにならぬよう、悪いものを生み出さぬようまずは自身を押しとどめねばならない、と伝えることに全身全霊を傾けていてそれはもう愛おしく切ないほどであり、彼や彼女の流す血と涙で濡れそぼった映画の艶めかしさはすべてから独立した一匹の生き物のようにすら思えた。杢之進に割られた腹からこぼれ落ちる澤村のはらわたを、おそらくは手の込んだ造型とギミックを仕込んでおきながらコンマ数秒のカットで使い捨てる透徹したダンディズムに思わず歎息が出る。そして全篇が石川忠へのレクイエムとなっているのは言うまでもない。
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2018年11月27日

イット・カムズ・アット・ナイト/地獄へ道連れ

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※妄想を書き散らしているため未見の場合ノイズになるはずなのでスルー推奨

弱いものから狙われていくのだとしたら祖父の次にトラヴィス(ケルヴィン・ハリソン・ジュニア)が絡め取られていくのがホラーの常で、日々に費やすすべての理由が今日を生き延びることでしかないとすれば、では自己の実現や達成は見果てぬ夢でしかないのか、そもそも自分は何のために生をうけてここに在るのか、そんな大それた命題でなくとも、いったい自分の未来に恋愛やセックスは存在するのかどうかは17歳の少年にとって何よりの一大事だし、となればキム(ライリー・キーオ)のTシャツに薄っすら浮かんだ乳房ですらが驚異であり脅威となる夜がいつしかトラヴィスを手中に収め噛み砕いたとしても、その運命に何ら不思議はないだろう。さして謎解きに意味はないとは言え、父ポール(ジョエル・エドガートン)があるシーンで口にした夢遊病という言葉が耳に残ったことや、劇中で幾度となくそれもわざわざスクリーンサイズを変えてインサートされるトラヴィスの悪夢のことを思い出してみた時、夜の森に愛犬スタンリーを探しに行き、感染したスタンリーを持ち帰って赤いドアの部屋に置いたのは夢遊病のトラヴィスではなかったかと思っている。そうしてみると、その夜半に起きた騒ぎの辻褄、記憶がおぼろげに戻ってきたアンドリュー(グリフィン・ロバート・フォークナー)が犬を運んでいたのはトラヴィスであることを両親に話し、トラヴィスの感染を知ったウィル(クリストファー・アボット)とキムは慌てて家を出ていこうとする、が合うように思うのだ。ただそのこと自体はとりたてて重要というわけでもなくて、ワタシたちの破滅はいつだって自滅に他ならないことを淡々と突きつけてくる自虐と被虐とが手を取り合ったような口調にかわりはなく、ハネケはホラーであるという点においてこれは得も言われぬホラーであり、光年の彼方へ断絶するエンディングの完璧さには思わずクカッとかいうおかしな笑いが漏れたのだった。ここ数年で顕著なポストホラー系ムーヴィーに共通する90分や100分でかわせる恐怖など恐怖ではないという恐怖の永続性は、恐怖の源がワタシ達の在り方そのものと切り離せないことを告げているように思え、いつの時代もホラームーヴィーが現実のサンドバッグとなってきたことを考えてみれば、それはこの世界で生きていること自体が恐怖に他ならないという時代の顕れであり、好きな人とのキスもセックスも知らずに逝ったトラヴィスの怨念がまた少し世界をどす黒くしたことをワタシ達は覚悟するしかないのである。
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2018年11月25日

アウト&アウト/この娘の代わりに泣くか、死ね

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暴力の扱いに長けているだけで暴力を喰って生きているわけでもない矢能という男の、しかし暴力から離れたところで生きる自分を想像できない/しないあきらめと倦怠を、自分に対する仏頂面と親代わりの栞(白鳥玉季)に向ける真顔との間を少しだけ面倒そうに往き来しながら遠藤憲一が演じている。いまだにワタシは、ほうっておくとBE-BOP-HIGHSCHOOL ビー・バップ・ハイスクール』を撮ってしまう人というイメージがきうちかずひろ監督にはあって、あの寄る辺のない陰惨さが本質なのだろうと思っているので、19年ぶりのメガホンでみせるこんな風に暴力を情で抑え込む時の軋みによって映画を絞り上げていく舵の切り方に少し驚いたりもしたのだ。そして矢能には緊張と緩和の余分なサービスをさせないよう、その周囲をファンキーで愛すべき取り巻きが敬愛と冷やかしの顔つきで練り歩く構図を用意した上で、最終的には全員でよってたかって広げた風呂敷をぐいと縛ってみせる手口のたたみかけるようなスピード感には爽快さすら感じたのである。そして「語尾とか多少変えてもいいですか」と聞く遠藤憲一にそれを許可した監督が、、撮影開始3日目にして「もうアイデア出すのやめてくれ。やりたいことやっていたらキリがない。時間も予算もないんだから」と前言を翻す話、「ジョン・カーペンター読本」の冒頭で黒沢清監督がしたためた「遊星からの物体X」論にして素晴らしいジョン・カーペンター論にしのばせた“映画はこの程度でいい”という一言が頭に浮かんで、なんだか清々しい気持ちになったりもしたのだ。久々の本業でニコリともせずフルスペックを発揮する遠藤憲一はともかくとして、成瀬正孝から中西学まで軽重を使い分けるキャストと弾き方も見ものである。きうちかずひろ作品においてハードボイルドもしくはハードアクションと言う時のハードは、“激しい”ではなく“硬い”であることをあらためて認識したし、1から10までを見せつけずに切り上げるアクションのダンディズムもいっそう滋味深く、深夜ドラマもしくはPCやタブレットの液晶画面ではなくスクリーンでそれを観る僥倖を知らずにいるのは何とももったいない話だなあと思う。
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2018年11月23日

ライ麦畑で出会ったら/ぼくはたぶん間違ってない

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今ここでセックスしたらぼくはホールデンでなくなってしまう!というジェイミー(アレックス・ウルフ)の笑うに笑えないイノセンスの蹉跌を救うのは、実はJ・D・サリンジャー(クリス・クーパー)その人というよりはディーディー(ステファニア・ラヴィー・オーウェン)だったわけで、おそらくはビート・ジェネレーションであろうヒッピーライクな両親によって自由闊達な精神を育てられた彼女こそが、ホールデン・コールフィールドの過剰摂取によるジェイミーの自家中毒を解毒していくことになる。何しろ彼女の造型が愛おしいほどにタフでチャーミングなものだから映画が彼女を頼りすぎて少しばかり楽をし過ぎたきらいはあるけれど、ホールデンが憑依したジェイミーが求めて叶わなかった愛情のあらかたを与えるためには彼女くらいマイティな存在が必要だったのだろう。そして少し驚いたのはサリンジャーが一人の独立した人格として物語に関わってくることで、もちろんクリス・クーパーの相貌はマッチしていないのだけれど「ホールデンもフィービーも私のものだ」という彼の強固な拒絶は、ジェイミーまたは世界中のジェイミーに向けた「きみはきみ自身のホールデンをみつけるべきだ」というメッセージの裏返しであることをこの映画は伝えようとしていて、隠遁した神としてのサリンジャーではない、真摯な一人の表現者としてのポートレイトを誠実に描いてみせたように思うのだ。そんな風にサリンジャーはその言葉で、ディーディーはその息づかいで、肝心なのはスタイルではなくアティテュードであることをジェイミーに告げていて、その普遍ゆえ物語の収まりとしてはステレオタイプとなるのはやむを得ないにしろ、ことさらにカウンターを求めて感情を乱反射させることのない綺麗な一本の筋を保とうとする密やかな緊張が心地良いし、何と言っても16歳の男の子と女の子が自ら車を運転して約束の地を目指すロードトリップなどアメリカの神聖な儀式以外の何ものでないに決まっているのである。しかしその早熟こそは誰もを世界の頭数としてカウントするアメリカがけしかける平等と責任による避けがたい呪いでもあるわけで、サリンジャーの描いた透徹したイノセンスこそはそれらに向けて立てた中指であったことをあらためて考えてみたりもして、思いがけず忘れがたい映画になった。
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2018年11月22日

ア・ゴースト・ストーリー/俺が昔、幽霊だったころ

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『セインツ−約束の果て−』も薄く透けそうな影を彼岸に揺らす人たちの物語であったなあと、孤独や孤絶を不可侵の魂が放つ光ととらえるデヴィッド・ロウリーによるあらためてのマニフェストにも思えたのだ。愛であれ恐怖であれ、死者に思いを託すために生者が生み出した幽霊という、生命のくびき、言い換えれば時間の流れから放り出された存在が背負うのが喪失と孤独であったとするならば、幽霊たちの魂もまた光を放つのではないか、とその光に監督は想いを馳せたのだろう。そんな風にしてC(ケイシー・アフレック)の彷徨に連れられたワタシたちが見るのは、そこにあるのに誰も識ることのない時間の記憶であり、それは劇中においてLegacyという言葉で語られた継承される人間の営為とも言え、開拓時代の女の子が口ずさんだメロディや彼女が石の下にそっと隠したメモが時間を超えてCやM(ルーニー・マーラ)を串刺ししていたのは言うまでもないし、神も仏もいないいつかは消え去る運命にあるこの世界でなお営為を重ねずにはいられないのが我々人間なのだと滔々とまくしたてるウィル・オールダム(=ボニー“プリンス”ビリー!)を邪魔することなく耳をかたむけたCが過去と未来の永劫に身を任せ、すべてを目撃しては身投げすらする姿は厳かで怖ろしく、そして底知れぬ哀しみを湛えていて“いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と片岡義男が明かしたその正体は、ワタシたちを成立させているすべての時間の記憶による抑えきれないさざめきなのかもしれないと思ったりもした。まるでスナップショットを額装したようなスタンダードサイズのフレームも、薄れていく記憶の断片を投影しているかのようでメランコリーをかき立ててやまない。数分の間Mがただひたすらパイを食べ続ける、食欲を満たすと言うよりは嗚咽が漏れ出すのを抑え込むかのようにパイをえぐっては力任せに喉へと押し込むロングテイクでは、フォークが皿をつつく音の催眠的な響きとリズムがMからすべての味覚を奪ったかのように錯覚させ、まったく味のしない食べものを延々と食べ続ける気味の悪さに、ついに彼女が嘔吐したときにはほとんど安堵すらしたのだった。なかなか出演作品が日本公開されないウィル・オールダム(=しつこいけどボニー“プリンス”ビリー!)の勇姿を堪能できたのも望外の喜び。ワンシーンだけなのに誰よりもセリフ多いし。
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2018年11月19日

ボーダーライン : ソルジャーズ・デイ/命が邪魔だ

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マット(ジョシュ・ブローリン)の足下にビーチサンダルではなくクロックスを見つけた時の、どこかしら埒内につかまった違和が最後までついて回ることになる。暴力はすべての初めから我々と共に在ったもので、理性はその気まぐれな反動としてもたらされたに過ぎない、とコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で書いた(意訳)、その理性が屠られる場所で解き放たれた聖なる重力の象徴であったビーチサンダルは、神を自認するアメリカが天上からばらまくクロックスに取って代わられ、重力を恩寵としていたマットとアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)は浮力を失い俗世の地面に激突して流血せざるを得なくなり、その引き金となるのが失われたアレハンドロの娘の亡霊ともいえるイサベル(イザベラ・モナー)であった時点で物語は無間地獄の様相すら呈し始め、それはまるで荒野から追われたケイトの呪いでもあるかのように2人を狙い撃ちして国境に追い込みをかけていく。どこかしらマジックリアリズムの夢うつつですらあった前作の暴力絵巻は、直截のスペクタクルで生死の際を粗雑に投げ出しては麻痺した痛みを取り戻そうと躍起ではあるけれど、重力の失われた場所でなおステップを踏み続けるマットとアレハンドロのメランコリーは、絶望の底を踏み抜いても新たな絶望があることを知る者が弾切れや手傷の深さで世界を測る時の倦怠でしかないことは、マットがイサベルを、アレハンドロがミゲル(イライジャ・ロドリゲス)を抱き込むことで闘争の未来を告げるラストに明らかで、題をとる現実に対して誠実であろうとすればここで物語が終われるはずなどないことをテイラー・シェリダンはアレハンドロのセリフに託したのだろうと考える。時として現実のスピードと力に打ち負かされてしまうのはフィクションの宿命とは言え、その両者が運良く並走した時のスリルとしては最良の時間がここにはあって、この映画が色褪せるとすればそれは世界の安寧が果たされた時ということになるわけで、当初より3部作で構想されるこのストーリーの次作でケイトがどのような重力をまとって復帰するのか、イサベルとミゲルの交錯がどのような世界の法則を叩きつけるのか、その時マットとアレハンドロは息をしているのか、現実が追い越すか映画が出し抜くか、できればヴィルヌーヴとディーキンスでその先を見届けたいと切望する。
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2018年11月16日

マンディ 地獄のロード・ウォリアー/魂の自由を信じる俺という人間のシンボル

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この世には2種類の映画しかない、ニコラス・ケイジが出ている映画とニコラス・ケイジが出ていない映画だ。そして目を閉じた時まぶたの裏側で炸裂し続ける光の明滅を、星座のように線で結んでニコラス・ケイジを見つけた瞬間、映画に”MANDY”という名が宿る。これはニコラス・ケイジが出ている映画だ。この世界に生きるたったひとつの理由だった女性を目の前でガソリンをかけて燃やされた男はどうすればいいのか、どうするしかないのか、右手を手錠でつながれ左手を五寸釘で床に打ちつけられた男はどうすればいいのか、どうするしかないのか、ハイパーなコカインのオーヴァードーズで自身の人間を焼き切って変質した鋲とレザーの生き物と闘うにはどんな武器を造ればいいのか、造るしかないのか、自分のチェーンソーの倍ほど長い刃のチェーンソーを持った相手とどう闘えばいいのか、どう闘うしかないのか、そいつを殺してもこの世界に生きるたったひとつの理由だった女性はもう帰ってこないと知りつつ、しかしその男を殺さずにはいられない時、そいつをどんな風に殺せばいいのか、どんな風に殺すしかないのか、今まで知りたくても知ることができなかったすべての答えがここにはあり、ニコラス・ケイジがそれを血まみれで教えてくれる。すべてを自己責任で生き抜くしかないこの世界で自己憐憫の呪いにとりつかれないためのフットワークとフィニッシュブロウがここにはある。そしてそれを鼓舞し祝福するのが“友だちの兄貴のトランザムのバックシートでマリワナと革とイエローパインの芳香剤の匂いにビビリながらもスリルを感じてるガキの気分”が欲しいんだと監督がヨハン・ヨハンソンに告げたそのスコアであったなら、それをこの世のものとは思えないあの世以外の何と呼べばいいのだろうか。ワタシは惑星を2つとも当てた。
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2018年11月12日

ボヘミアン・ラプソディ/華麗なるトレース

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ワタシ自身はファンと言うよりは通り一遍のリスナーなのだけれど、ロンドンまでフレディのお墓参り(厳密にはお墓はない)に行くような人間がごく身近にいていろいろと聞かされる話を以前から耳学問にしていたこともあり、当初映画に関する企画を知った時は異邦人でありかつ横断したセクシュアリティをもつフレディ・マーキュリーというアーティストのポートレイトにどのような角度で陰影をつけるのかとても興味がわいたし、その後でフレディをシャ・バロン・コーエンが演じるというニュースを知った時は、誰が舵を取っているのかわからないけれどスリリングなプロジェクトになりそうだなあと少なからずワクワクもしたのだ。したがって、正確な経緯は不明ながらサシャの降板と彼の言い分など聞くにつけ、変更されたプロジェクトでは少なくともフレディの深淵を覗くような映画になることはないのだろうなと思ったし、その後で目に入るニュースのあれこれからは建前で均された公式バイオピック的な色合いが濃くなっていることがうかがえていたわけで、まあそういうことなんだろうなという予見を持って観てきたのである。といった具合にブライアン・メイにとっては好ましからざる観客であろうワタシからすると、クイーンとフレディ・マーキュリーのストーリーを刻むにあたって避けては通れない泥道でお気に入りの靴が汚れるのを嫌うあまりそこを飛び越えようとした跳躍の見事さに思わず見とれてしまったというのが正直なところで、嘘も方便というまさに映画の映画たる所以の馬鹿力もあり、人々の記憶の中に永遠にとどめてほしいクイーンとフレディ・マーキュリーの姿(だけ)を描くというブライアン・メイのギラギラした野心はキラキラと輝きながら見事達成されていたように思うのである。なにしろこの物語に関わる人々を誰一人悪しき者とは描くべからずというそのルールは、ポール・プレンターにすら「アイルランドのカソリックの家に生まれたゲイの悲劇」を言い訳として許していたことにもうかがえて、ならばとワタシは降伏するしかなかったのだ。そんな中、他の登場人物に比べ格段に似ていない俳優をあてがわれた上、まともなセリフすら与えられない盟友(のはずの)ロイ・トーマス・ベイカーの不憫に泣く。これ僕たちの映画だからキミの分の手柄はないよということね。
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2018年11月11日

負け犬の美学/誰がために傷は裂く

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始まって早々、試合に敗れたスティーヴ(マシュー・カソヴィッツ)が煙草を喫う姿を見て、今の彼はアスリートであることを止めてしまっているけれど、そのうち復活への小道具として煙草が使われることになるのだろうなと、基本的には一本道を行くことがほとんどなボクシング映画の紋切り型を思ってみたりもしたのである。確かにそれはその通りではあったのだけれど、それは予想された禁煙の真逆の姿で示されることになるどころか、ある大一番の場面で彼に煙草をくわえさせるのは彼の妻マリオン(オリヴィエ・メリラティ)ですらあるわけで、この映画が最終的に描くのはもはやアスリートではないブルーカラーとしてのボクサーが、かつて燃やしたアスリートの残り火を鎮火する儀式のラウンドであったといってもいいだろう。スティーヴがアスリートとしての自身にいつ見切りをつけたのかは描かれないけれど、スパーリングパートナーを務めるかつての王者タレク(ソレイマヌ・ムバイエ)に向かって言う「敗者あってのチャンプだろ」という言葉こそが彼のプライドとボクシングに対する愛情とを告げているのは言うまでもなく、その戦績からして売り出し中のルーキーの噛ませ犬を幾度となくつとめたであろうスティーヴの、ボクシングという世界の在り方を愛するがゆえ“持っていない者”が“持っている者“に我が身を差し出し続けるその姿は、“持っている(かもしれない)”娘にピアノを与えることは親である自分の義務に他ならないと奮闘する姿にも重なって見えもするし、それらすべてを理解した上でなおボクサーとしてのスティーヴを愛しサポートするマリオンもまた共に闘っていた人なのだろうと思うのだ。現役最後の試合のラストラウンドで、スティーヴがそれまで見せたことのないステップをたどたどしく刻んでは飛びこむようにパンチを繰り出すそのスタイルはまるでタレクのそれを真似たようにも見えるのだけれど、おそらくそれこそは彼が焦がれつつもあきらめたボクシングのスタイルだったのかもしれず、場末のボクサーである彼が元チャンプのタレクに向かって、自身のスタイルを貫くよう分不相応ともいえるアドバイスを止めないのもタレクのボクシングに憧憬と理想を見ていたからなのではなかろうか。そして、そうやって踊り始めたスティーヴを見た時のマリオンがみせる心の底から輝くような笑顔は、暗がりからリングのスティーヴを見つめるタレクが浮かべる仄かな笑みとつながって、人生と共にボクシングを愛し続けた者だけが知る祝福の言葉をスティーヴに贈ったように思えたのだ。美容師の仕事をして家計を支えながら2人の子供にきちんと向き合い、夫の生き様を卑屈の影なく愛しつつ肯定し、かといって都合の良い妻を演じるどころか共犯の香りを不敵にふりまくマリオンがこの映画の陰影にエッジを与えているわけで、試合で負った傷の手当てをする彼女の尻に手を回すスティーヴの手を邪魔よとはらったかと思えば、手当を終えた後でその手をまた自分の尻にあてがうその仕草でワタシはマリオンに恋をしたし、そんな彼女を虜にし続けるスティーヴに嫉妬もするのだ。傷みっぱなしのマシュー・カソヴィッツがいつしか晩年のジョー・ストラマーにも見えてきて、それゆえそのセンチメントがなおさら透明に自爆した気がしたのかもしれない。サミュエル・ジュイという名前を憶える。
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2018年11月09日

ハナレイ・ベイ/ずっとわたしを過ぎるもの

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大胆と言ってもいいラストの書き換えによって、サチ(吉田羊)が彷徨した喪失の日々にハッピーエンドと言ってもいい再生の光が差すこととなる。したがって、その手続きとしてのストーリーはサチがいかに涙を流すか、涙を流させるかという変転を描くことになり、どこへも往かぬ中空で揺れ続ける人生の静かな暴力性が支配した原作に、イギー・ポップやら何やら手を替え品を替えして道筋を与えることでその暴力をなだめた監督の脚色は、見事とかいうよりはそのためらいのない所業に感服したわけで、おそらく監督は村上春樹という名前にも作品にも過分な畏れを欠片ほども抱いていないのだろう。とはいえ端々で見受ける映画オリジナルのエモーショナルな継ぎ目以外は、村上春樹作品の彩りともいえる漂泊/漂白の白い空気をそれなりのグラデーションで掴まえているし、なかでも、原作では名前もないまま「ずんぐり」としか呼ばれない日本人に高橋という名前を与えては、精神の奥底が本能的に水平な村上作品のキャラクターとして映画的な立体を備えさせ、それを演じる村上虹郎の的確な解釈による好演も手伝って、ただでさえ狭いストライクゾーンのぎりぎり角をかすめるコースには投げ込んでみせたように思うのだ。基本的には密やかな幽霊譚である原作から真っ向の幽霊譚へと舵を切ったあのカットや、うつむき加減にそよぐカーテンが運ぶその黒沢清的予感を含め、ハワイの陽光の下にイデアとメタファーをもろともに晒したそれはクソ度胸なのか冷静な計算なのかはうかがいしれないにしろ、あらかじめ昏睡したような原作の目の覚まさせ方としては、頷けるところのあるやり口だったのではなかろうか。ただ、ある情動の状態を実体化させて補助線とするために脚色されたツールとしての手形は正直言ってあまりうまく機能していないと思うし、サチを決壊(=プライマル・スクリーム)させるトリガーとしては紋切り型が過ぎたというか座りが良すぎたように思ってしまう。たった一度だけサチが吉田羊の顔になっておそらくは手持ちであろうカメラを笑顔で見つめる、挑戦的なのか気晴らしなのかわからないカットがあったのだけれど、それが、その後陽光の中でしばし冥界を彷徨うことになるサチの「生前」最後の笑顔のつもりなのだとしたら、やはり想像以上に食えない映画であり監督であったということになり、解放されないハワイを閉じ込めた近藤龍人の鎮めるようなカメラがその共犯となる。
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2018年11月07日

ヴェノム/あなたの最悪なる隣人

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ヴィランをヴィジランテ化するとかいうどちらかと言えばDCがヤケクソでやりそうなアクロバットを、オスカー・ノミニーなトム・ハーディとミシェル・ウィリアムズを惜しげなく注ぎ込んで着地させようと画策する素っ頓狂が既に愉しいし、こういう脇の甘いでたらめがやけに好ましく思えたりもするのはファイギの全問正解にそろそろ不感症になってきたせいもあるのだろう。そのあたり、PG13版『デッドプール』を狙ったとするならば、あちらを青年誌とした場合の少年誌的なノリは意図的なものだろうし、描写の深みよりは展開のノリを選んだのはこの監督を選んだ時点で明白であり(書き割りのような『L.A. ギャング ストーリー』を思い出してみればいい)、それもあって寄生から共生へのターンがぼんやりしてしまった点など食い足りないのは明らかながら、MCUの間隙をぬう狙いはそれなりに的を射ていたように思うのである。『ブロンソン』あたりを思い出させるピーキーでフリーキーなトム・ハーディやミシェル・ウィリアムズのおきゃんなモードもその反映であったのだろうし、アン(ミシェル・ウィリアムズ)の今カレであるダン(リード・スコット)の手っ取り早いキャラクター造型などは逆に新鮮にすら映る。エディ(トム・ハーディ)の言うこと“だけ”には聞く耳を持つヴェノムという解釈を馴染ませるには、残虐なモードでのスタートとその描写が必要だったように思うのだけれど、レイティングとの兼ね合いでその牙が抜かれてしまったのは痛し痒しというところか。いずれにしろ「うしおととら」として舵を切ってしまった以上、『デッドプール』的な酷いアクションをボケとした一人漫才のノリツッコミはあてにできないことを考えれば、エディとヴェノムの掛け合い漫才によるリズムでアクションのスピードを煽っていくシナリオと演出の運動神経を磨かない限り失速するのは目に見えているわけで、ソニー・ピクチャーズがこの金の卵をどう孵化させるかお手並み拝見といったところか。ラストのあの人といい役者はすでに揃っている。
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2018年11月03日

怪怪怪怪物!/泣いても血しか流れない

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「バケモノにはバケモノをぶつけんだよ!」とでもいった人喰いの怪物姉妹vs悪ガキ高校生というホラーコメディの図式からノンブレーキでコースアウトしていくそのハンドルさばきと、その向かった先のあまりにもえげつない悪路に笑顔はぎこちなく消えていく。悪ガキというには悪ふざけの才能が犯罪的に過ぎる高校生グループに捕らえられた怪物の妹と、グループ内のいじめられっ子リン・シューウェイが出会うことで果てしなく抜け続ける悪意の底はいったいどこに終わりがあるのか、自分の身代わりになって凄惨な虐めを受け続ける怪物の正体を知ったリン・シューウェイは、束の間の解放を享受する自身の性根に対する嫌悪と怪物へのシンパシーとの間で引き裂かれながらも、何とか正気を保つべく自身を殴り続けるのだけれど、いつしかそれは彼の内心を破壊し始めて後戻りの効かないコーナーを曲がってしまうことになる。レンハオを始めとするリン・シューウェイ以外の悪ガキ達の内面や背景はあくまで書き割りとしてのクズにとどめられ(レンハオのあれはリー先生による書き割りの追加にすぎない)、映画の主眼はリン・シューウェイが最期には悪意の底に激突してそれと刺し違えるに至るその蒼い魂の彷徨を追い続けることになり、彼が最終的にたどりついた、僕たちはみな死ぬしかない、なぜなら生きるに値しないほど救いがたいクズだからだという青春のニヒルに重奏する怪物の断末魔が、いったいおまえ達が怪物でなかったためしなどあるのかと蔑むような目つきでワタシの胸をザックリと抉っていくわけで、たった一人生き残ったのが誰であったかを思い出してみればこの映画のメッセージはそれに明らかだろう。しかし何よりこの映画が誠実であったのは、強者が弱者に対して行う容赦のない加虐の図式がそのイマジネーションゆえ映画的な高揚すら可能にしていた点で、スクールバスの大殺戮の中、最期の瞬間までクズの矜持を失うことをしないシーファのクールネス(事切れた彼女のヘッドフォンから漏れるCHARAの歌うMy Way!)には喝采を送るしかなかったし、学校という世界における最凶の怪物とも言えるリー先生が火だるまとなった姿を見る昂揚も、ワタシの昏い蛮性の喚起と誘導の結果だったのだろう。そうやって深淵の怪物を覗いた時そこに何が見えるかという胸糞悪さを、繊細かつ匂い立つ露悪で幻視するプロダクションによってあくまで娯楽として成立させる確信と志に震わされる傑作。
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2018年11月02日

search/サーチ #FatherKnowsBest

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PC画面ですべてのカットを構成する縛りはあくまで手法にとどめ、登場人物たちの感情の移ろいそれ自体はあくまでオーソドックスかつ細やかに描写されていて、紋切り型で陳腐なデジタル世代の断絶(邦画に顕著な陥穽)的なメンタリティの先へ伸ばしたその手つきこそがこの映画の清新となっている。言ってしまえば、ここにあるのはデヴィッド(ジョン・チョー)とマーゴット(ミシェル・ラー)のキム親子、ローズマリー(デブラ・メッシング)とロバート(スティーヴン・マイケル・アイク)のヴィック親子というそれぞれに事情と問題を抱えた親子がすれ違ったことで足を踏み外す運命の翻弄が綴る物語であって、その光と影、ポジとネガという裏表を入れ替えてヴィック親子の物語へと舵を切ってみても成立する複層が、飛び道具としてのスタイルに重心と奥行きをもたらしていたように思う。とは言えこうしたネットワーク無双なスタイルを前にすると、あらかじめインターネットのなかった世代としてはノイズぎりぎりのバイアスがかかってしまうわけで、あらかじめインターネットのあった世代にとってネットはテレビやラジオ、出版といったメディアと同列のフィクショナルな世界で、その中で様々なデジタルデータの意匠によって構成された自分の存在を意識と無意識で混濁させながら現実と非現実を行き来するその姿は果たして「新しい人」なのか「誤った人」なのか未だにワタシは測りかねていて、例えば劇中で自分の現在地をクリップしたまま糞リプを垂れ流してはデヴィッドに顎を割られる若い衆などその典型で、あらかじめインターネットのなかった世代としてはそれが現実の世界にどうやって根を生やしていったのかをその功罪と共に嫌というほど見てきただけに、どこへどう潜り込んだところでネットは現実でしかないという認識が揺らぐことはないし、そこへ自らを無防備かつ無邪気にに白紙委任してしまう危うさと脆さへの警戒が薄れることは今までもこれからもあるはずがなく、してみるとおそらくはそちらの世代であろうデヴィッドがしばしばみせるタイピングの逡巡も無意識の自己防衛に思えたりもしたのだ。しかし、そうやって記憶=記録へと混濁していく世界だからこそデヴィッドは結末にたどり着けたにしろ、いつしか頭をよぎるのは、なぜレプリカントは写真を集めたがる?というデッカードの呟きだったりもした。
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2018年10月30日

テルマ/神がわたしをつくった

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※展開に触れています

怖ろしいというよりは、苦しい。それはテルマ(エイリ・ハーボー)が対峙する生まれ直しの苦しみにも思え、両親によって宗教と薬物の枷で封印され亡き者とされた真の自分が再びこの世界に生を受けるためにくぐり抜ける瞬間の仮死を、ヨアキム・トリアーはほとんど啓示的といってもいい甘美な共鳴と不穏な共振のデザインでワタシ達に追体験させようと図っている。エルマの閉塞や苦痛、混乱、畏れといった鈍色の感情が、疼くような蠱惑の輝きと強烈な毒性をたずさえた異様な比重の、まるで水銀のような映像が血中にもたらす酩酊は既にそれだけでこの映画を止むに止まれぬ記憶として成立させている。しかし、テルマが次第に水銀の海をたゆたう身のこなしを知るにつれ、溺死の恐怖は運動の快感へと姿を変えて、オイディプス的というよりは家父長制への反乱ともいえる父殺しを果たすことで覚醒を手にした彼女が、まずはその能力を用いて母親を解放したのは至極当然であったように思う、おそらくはその力で自分に血を贈った祖母を覚ますこともするのだろう。してみると、ワタシがほんとうにホラーを感じたのはあのラストということになるわけで、それまでとは打って変わったフェミニンな装いで現れたアンニャ(カヤ・ウィルキンス)が自分のジャケットを羽織ったテルマに甘えるようにしなだれかかる姿は、テルマによる世界線の物語へと完璧に舵を切ったあらわれに見て取れて彼女が神となった世界に許される幸福に少なからず胸がざわついたし、『反撥』や『キャリー』では世界と刺し違えるしかなかった彼女たちは世紀の変わった今、『RAW』や『ぼくのエリ』がそうであるようにありのままの姿で勝ち逃げし始めていて、この映画もまた焦燥と恍惚のスピードで彼女たちを追っていったのは間違いがないだろう。上映前に注意はあるものの、あるシーンのフラッシュライトは想像以上に強烈なので自分の耐性に自信のない人は気をつけた方がいいかもしれない。素晴らしくヒプノティックなシーンなので諸刃の剣ではあるけども、それくらいヨアキム・トリアーの針は一切の迷いなく生と死の間髪を振り切っている。
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2018年10月29日

デス・ウィッシュ/マッドネス・イズ・ア・ウォーム・ガン

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ことさらフェティッシュに自失することもなく、たがを外すにしても理性と批評眼を端正にたずさえてルサンチマンめいた死体蹴りをすることもない、要するに感心はするものの熱狂にはタッチの差で至らないいつものイーライ・ロス映画だったわけで、それはおそらく自分の資質を理解しているからこそ、いくら露悪的にふるまってみたところで底を見抜かれるだろうことを先回りしてはりめぐらした予防線がそう感じさせるように思ってしまうのかもしれない。ブロンソン版のポール・カージーは、70年代に顕著だったオーヴァーキルな復讐者として暴力衝動に喰われて怪物化していく市井の男であり、それを警部が代表する正義のセンチメンタリズムが肯定することでヒロイズムを獲得することになったわけだけれど、劇中における彼の覚醒の経緯を今日そのまま再現すれば政治的な物議を醸すのは必至にちがいなく、それらをすべてオミットしてまでポール・カージーを蘇らせる必要があったのだとすれば、それは暴力の連鎖によって自らが放った銃弾に全てを奪われた彼を磔にする凄惨な悲劇となるしかなかったように思うのである。そうしてみた時、怪物の断末魔をまるまるミュートする気の抜けた復讐譚のどこにリメイクの必然性があったのか疑問に思うのは当然な上、フードで顔をおおったブルース・ウィリスの烈しくシャマランな既視感といい、少なくともブロンソン版が獲得していた同時代性の欠片も見当たらないこの行儀だけは良いリメイクは、あわよくばポール・カージーをフランチャイズ化したいだけのおためごかしとしか思えなかったのが正直なところで、ほどよくデオドラントされたジョー・カーナハンのシナリオもその意に添ったということになるのだろう。片目を閉じた時代に描かれた作品を新たに描き直す時に、両目を開けるバランスを投入するのではなく片目でしか見えない世界を意識的かつ批評的に捉えることをしなければ、そこには均された角度の総花が映るだけで片目が映さなかった世界が闇の中から浮かび上がることがないように思うのだ。牙を抜いたなら、まだ血のついたその牙を映すべきだろう。
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