2019年08月13日

ゴーストランドの惨劇/ラヴクラフトならこう言うね

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※展開に触れているのでパスカル・ロジェという名前にそわそわしている鑑賞予定の方スルー推奨。一刻も早くそのそわそわを鎮められんことを。

肉体の先に宇宙(魂)を覗く実験であった『マーターズ』から始まり、監禁や誘拐によって真空でスウィングされる肉体こそが魂の共鳴を誘うのだという狂人の正論を整えた『トールマン』を経て、肉体の死か精神の破壊かそのどちらかしか途はないところに追いつめられた魂が肉体の記憶と手をたずさえた時、自動書記のように立ち上がる想像力の筆が描き始める世界は昏睡した現実へのいかなる乱入が可能なのか、魔道士パスカル・ロジェがまるで臨床試験を執り行うかのような冷徹と恭しさとで、ベス(クリスタル・リード/エミリア・ジョーンズ)とヴェラ(アナスタシアン・フィリップス/テイラー・ヒックソン)姉妹の心と肉体を文字どおり“折り”にかかることとなる。しかしパスカル・ロジェが単なる姉妹絶唱の残酷ショウそれ自体を目当てとするはずもなく、ベスによるエピグラフとして捧げられるラヴクラフト愛はいずれ想像力の強度を支えてめぐらされる梁となり、ヴェラ言うところにの“ロブ・ゾンビの家”で繰り広げられる肉体への即物的な恐怖と暴力の応酬との二重世界を築くことで、やがてこの物語にしのばされた目的が次第に明らかとなっていく。ベスの世界に現れる書物のタイトルがそのままこの映画のタイトルとなっていることを忘れさえしなければ、ラヴクラフトがベスに告げる「この傑作を一字一句でも変えたりしたら僕はきみを許さないよ」という言葉を聞いて、ベスが自らガラスを突き破りロブ・ゾンビの家へと戻っていったことの意味が、エピゴーネンからオリジナルへ、仮想敵に酔う世界から真の敵と闘う世界へ、ひとりの女の子の通過儀礼の物語として完結させることすら可能に思えたのだ。といったサイドストーリーを預けたことで、すべての痛覚描写は整合性と正当性を持ち始め、殴る蹴る刺す裂く噛む撃つそして嗅ぐといったおよそ考えうる肉体の破壊が綿密かつエレガントに創造されていくこととなる。特にベスとヴェラの姉妹に顕著な顔面崩壊が得も言われぬ素晴らしさで、それは例えば『トールマン』で犬に脚を酷く噛まれたジェシカ・ビールが映画の間ずっとその脚をひきずっていたりとか、時間が経つほどに腫れ上がっていくそのまぶたであるとか、暴力の結果が都合よく消えるはずなどないことを、ほとんど肉体への敬意といってもいい細やかさでそれを施していたのである。キャンディトラックの女が姉妹の母ポーリーン(ミレーヌ・ファルメール)を三度刺して殺すそのナイフのスピードと角度も絶品で、もしかしたらワタシは劇場でおかしな声を出していたかもしれない。終盤のクライマックス、ベスが絶体絶命となるシーンでからくり人形が絶妙なタイミングを得て笑い出すのはベスがこの物語をついに支配したことの現れだったのだろうことなのはともかく、ここでベスの口から吹き出す泡の色艶と質感に陶然と心奪われたことも付け加えておきたい。
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2019年08月11日

サマー・オブ・84/ドント・スタンド・バイ・ミー

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主人公デイヴィー(グラハム・バーチャー)の「郊外でこそイカれたことが起きる」という冒頭のモノローグによって、この物語がサバービアの憂鬱が引き寄せる暗黒神話というあらかじめ総括された批評眼によって語られる、感傷や郷愁による80年代再現ドラマでないことが宣言されることとなる。たとえば『サマー・オブ・サム』が、あいつがいようといまいがあの夏は俺にとっちゃとてつもなく酷い夏だったという物語であったように、この国の夏休みとは異なり新年度に向かっていったん何者でもなくなる季節であればこそ、鬼が出るか蛇が出るかどちらに転ぶかわからない季節の天国と地獄が「サマー」という言葉に治外法権のようにデモニッシュな響きを与えることとなるわけで、この映画はそれを残酷なまでに利用することによってジュヴナイルに潜むメメント・モリを弄ぶように増幅しては、いかにして1984年というオーウェルの夏が永遠に終わることのない呪いとなったのかを、まるでそれが彼らの罪と罰であるかのように書き記していく。カーペンターやらモロダーやらタンジェリン・ドリームやらの名前が浮かんでは消えていくシンセサウンドを時代の空気を醸す援用としつつ、躁病的な80年代ネオンライトを一切オミットしたくすんだ彩りは、核家族化したアメリカの家族制度がサバービアから崩れ始めたことの表れにも思え、劇中の類型的で貌の見えない大人たちに振り回される子供たちの抵抗こそが、隣人としてのシリアルキラー狩りへと向かっていったようにも思えたのだ。しかしその反逆はある悲劇的な犠牲を払っただけでなく、デイヴィーの視点によってオープニングと円環するラストの風景にあきらかなように、みんな壊れていなくなっていく明日を予感させて物語は幕を閉じるのである。ちょっとだけスマートな主人公デイヴィー、不良を気取るイーツ(ジュダ・ルイス)、太っちょウッディ(カレブ・エメリー)、メガネのファラデイ(コリー・グルーター=アンドリュー)という主人公と不良と太っちょとメガネの組み合わせがそのまま『スタンド・バイ・ミー』の引用であることは言うまでもなく、となればスティーヴン・キングの原作タイトル「死体(THE BODY)」が『スタンド・バイ・ミー』へと移ろうことで青い死と訣別の物語が感傷と郷愁の物語へと書き換えられたことを想い出してみれば、この映画こそが真の『スタンド・バイ・ミー』を名乗るにふさわしいように思うのである。スティーヴン・キングはかつて、“想像力豊かな人間は、自分が脆いという事実をしっかり見据えている。想像力豊かな人間は、物事がなんでも、いつでも、どうしようもなく悪い方向へ進むという可能性に気づいている。想像力豊かな人間は、シリアルキラーの犠牲になるのが自分以外のだれかだとは思わない。ヘンリー・リー・ルーカスのようなやつはこの世に現実にいて、そいつに出くわす確率はパワーボールくじで3億5000万ドル当たる確率よりも高いと思っている。”と書いたけれど、まさにこの映画を撮っているのがキングの言う“想像力豊かな人間”であるならば、それが“電子レンジは扉を開けたままでは作動しないことすら気にとめないそこいらのホラー映画”であろうはずがないのである。キングを信じよ。
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2019年08月06日

よこがお/わたしはそれがひまわりに見えない

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夜の公園で基子(市川実日子)の顔が闇に喰われていたように、喫茶店で茫洋と立つ辰男(須藤蓮)の顔もまた暗がりに喰われている。市子(筒井真理子)とある種の感情を交わした人がやがて自失してしまうのは単なる偶然なのか、市子と妹である道子との関係は参考書のくだりでうっすらと昏いものとして暗示され、やがて自死してしまうその道筋は既に敷かれていたようにも思われる。かつて市子が世話をしていた大石塔子は、余命2ヶ月と宣告された後で2年以上生きながらえながらも、市子が離れた途端ほどなくしてこの世を去ってしまう。娘である洋子(川隅奈保子)の呼びかけには答えず市子には言葉を返すショットの隅でフォーカスから漏れた洋子の姿や、「結婚ってそういうもんでしょ」とつぶやく戸塚(吹越満)を覆う昏いメランコリーは既に市子の暗がりに喰われ始めているようにも映る。「過去」と「現在」という時間軸が交錯する構成は、一見したところ復讐というゴールに向かうサスペンスをフラッシュバックで絞り上げていくように思えるのだけれど、それよりは白川市子という1人の女性が持ち得た「あちら」と「こちら」のよこがおの、それは二面性などという都合と聞こえの良いだけの解釈ではない、1人の人間の全体性として世界の法則に基づいた再構築は、不遜で禍々しくしかし真摯とすらいえる直接性によってそれは行われ、生きているだけで手繰り寄せてしまう罪と罰があるのだとしたら、その救済もまた生の中に見出すことができるのか、その両者が平行世界の物語としてむき出しの絶望と希望を縫い合わせるようにクロスカッティングされていくのである。そしてそれらは互いの存在を確かめるかのように侵食を始め、動物園からの帰り途、基子を追って走る市子のクロースアップは、その先の交差点で決定的に起きることを既に知っているかのような諦念をその貌に貼りつかせて真空を呼び出し、それは押入れから向こう側の光を見て恍惚とする市子を経て、広場で基子の幻影を見て卒倒する市子においてついに貫通してしまう。突き抜けた市子は、おそらく和道との関係も断ったのであろう白髪交じりの髪のまま辰男と贖罪の日々を過ごすことで自分を鎮めようとしたその時、お前はまだ転落と救済の最終試験を受けていないではないかという、人間の理(ことわり)などはなから考慮するつもりなどない世界の道理のひと触れによって究極の残酷に直面することとなり、たとえあの場で彼女がどちらを選んだとしても世界は素知らぬ顔を通したに違いないにしろ、しかし彼女はプライマル・スクリームとしてのクラクションを鳴らし続けることで再生を選んだことを知らせつつ、走り去った市子にはさらにもう一つの選択が待ち受けてたわけで、車はサイドミラーに市子のよこがおを映したまま街の喧騒の中を走り続け、そのノイズがミュートされたと思った瞬間カメラは左前方に駐車された白い車の後部をぼんやりとフォーカスするのである。無音のままその白の中へとホワイトアウトしたスクリーンに、ああ『淵に立つ』のようにここで止めるのかと思った瞬間、暗転したクレジットロールの中、ミュートされていた通りの喧騒が何事もなかったかのようにふっと再び浮かび上がってくるのだ。ともかく車は走り続けていて、市子はついにこちらとあちらを突き抜けることで世界への復讐としてふたつのよこがおを棄ててみせたのだろう。深田監督は市子を見てあなたの闘い方を知れと言っていた。
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2019年08月04日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.28 Sun

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昨晩の敗走中に見た、漆黒の濁流と化したところ天国のせせらぎや地獄の一丁目への橋渡しとなっていたオアシス脇の川に尋常ならざる事態を嗅ぎ取ってはいたものの、真夜中のタイムテーブルがキャンセルされたのはともかく、国道17号が一部通行不可になるなどそれなりに紙一重の状況であったことが明らかになったことで、DEATH CAB FOR CUTIEを見棄ててホテルに逃げ帰り、ゴアテクスのメンテナンスに努めたワタシは正しかったのだと立ち直りも早かったのである。この日のグリーンには、後背の山々が抱えきれずに漏れ出した雨水が小川となってのどかにさらさらと流れていたよ。

渋さ知らズオーケストラ@FIELDS OF HEAVEN
かつてはフジの祝祭サイドの顔としてグリーンすらを制圧していた渋さ知らズの7年ぶりのステージがヘヴンの一発目であったというそれだけで、オレンジコートの消滅を含めフジロックが精算してきたものたちの泣き笑いが浮かんでくる気もしたのである。とは言え、そんな邪推にはおかまいなしにすべての曲が最終曲であるかのような行き先知らずの情緒過多は相変わらずで、かつて苗場で見たいろいろな光景があれこれ押し寄せてきたりもしたのだった。変わるものも変わらないものもどちらもこの世にはある。

BANDA BASSOTTI@WHITE
音楽に政治を持ち込むなとか言う人がいるけれど、自由になりたいと歌った時、自由でありたいあなたと自由でないあなたの間にあるものをたどっていけばそこには政治がもたらした理由があるのは間違いないはずで、ワタシたちが社会性を帯びた/帯びさせられた社会的な動物である以上、政治から逃げ切れるはずはないことを、まずはあきらめと共に知るべきだろうと考えながら踊っていた。でも失敗した闘いへの感傷は要らないとも思ったよ。

THE PARADISE BANGKOK MOLAM INTERNATIONAL BAND@FIELDS OF HEAVEN
モーラムっていうタイの民族音楽もピンていう三弦の楽器もケンていう管楽器も申し訳ないくらいに知らなかったけど、まったくのゼロから得点と言う意味でこのバンドが今年のハイスコアを叩き出したのは間違いない。相当に強力なベースとドラムのタイトでモダンなリズムとアクロバットに浮遊するピンのリフレインとケンの切り込みは、アラン・ビショップあたりが泣いて喜ぶ東西折衷のモダンミュージックだろう。なんだかわけがわからないうちに圧倒的な多幸感に包まれて、ただひたすらにステージを崇めていたよ。

HIATUS KAIYOTE@GREEN
混雑に押し流された金曜日と土砂降りで押し流された土曜日の埋め合わせをするかのように、薄曇りの空はふんばりをきかせて人の波も退いた日曜日、苗場らしい祝祭の空間に跳ね回るこのバンドにようやく人心地がついた気がしたのだった。自由で軽やかに独立していて、しかしそれを手に入れるための強靭さこそが奏でられる音そのものであって、それをことさら何かに例えたりするような野暮はしなさんなとでもいうネイのにこやかな凄みに自然とこちらの丸まった背筋も伸びていたし、緊張を保つためにリラックスする音楽の極上として、野暮を承知で頭に浮かんだのはトーキング・ヘッズだったりもしたのだ。そういえば今年はあちこちで「リメイン・イン・ライト」の曲がよく流れていた。

VAUDOU GAME@FIELDS OF HEAVEN
ヴードゥーとかいうと人形に針ぶっ刺したりそういうもんだと思ってるかもしれんけど、実際はなんつうかカウンセリングのシステムみたいなもんなんだよ(適当過ぎる意訳)みたいなヴードゥーに関する説教をいきなり始めたりしつつ、しかし期待を裏切らないヴードゥー的なルックに心奪われるピーター・ソロさんの、JB’sみたいなバンドをJBのごとくビシッとコントロールしてクールでモダンなアフロファンクショーを指揮する一挙手一投足に目と耳は釘づけ。誰が昨日のお詫びをしてくれてるのかわからないけど、朝からずっと楽しいままで、左足の親指の爪が内出血してるのなんか気がつくはずもない。

その後はtoeを見て、ああやっぱり54-71をできたらWHITEで砂埃舞う中見たかったなあと思ってみたり、思いのほかアブストラクトだったVINCE STAPLESを見て、ああやっぱりクール・キースをDR. OCTAGONで見たかったなあと、おっさんらしくめそめそと無いモノねだりをしたりしてCUREに備えていたのだった。

CURE@GREEN
6年前に比べるとお客さんがいっぱいいるのが何だかうれしくて、気がつけばすぐ右で浅野忠信がGFと踊ってたりして、ほぼ完璧なロバート・スミス・ショウにあははと笑いながらたくさんの歌を歌ったのだった。前回は日付も変わって人もまばらになったGREENでBoys Don't Cry〜10:15 Saturday Night〜Killing An Arabのつるべ打ちに狂乱したのだけど、今のロバート・スミスはBoys Don't Cryで去っていくことでヴィヴィッドな一夜の想い出としたかったのだろう。ヘアスタイルのボリュームはそろそろかなあとは思うもののどの曲もキーを下げたりすることなく艶々と歌いあげるのは6年前のままだし、いいよと言われればあと1時間は喜々として続けただろう笑顔で名残惜しそうに去っていく姿に、信じる者は今度も確かに救われたと思ったのだった。この世代はアーティストもファンも本当にしぶとい。

というわけで、来年は例の国民的行事のため8/21、22、23の開催と相成ることに。梅雨の心配はないものの、土用波の時期ともなれば台風襲来が絵空事ではなくなるわけで、この土曜のことを思えば、おっさんは冗談抜きで生き抜くことを目指さねばならぬかと。

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2019年08月02日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.27 Sat

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午前中は例年のごとくドラゴンドラで天上に向かい、レストハウスでチキンカレーなんぞを食していたところがポツリポツリさあっと驟雨がやってきて、まあそりゃ雨くらい降るよね降らないわけがないよねなどとしたり顔をしてみせたこの時は、どうしてワタシの両手はこんなにふやけているんだろう、プールに浸かっていたわけでもないのに、と首をかしげることになろうなどとは知る由もなかったのである。

CAKE@GREEN
こういう天気はこのギターにはよくないんだよねえと冗談交じりに愚痴るジョンに、そうだねえギターにもワタシらにもみんなに良くないねえと胸の内でつぶやくくらいには雨が悪さをし始めていたのである。まあそりゃ雨くらい降るよね降らないわけがないよねなどとしたり顔をしてみせたこの時は、どうしてワタシの両手はこんなにふやけているんだろう、プールに浸かっていたわけもないのに、と首をかしげることになろうなどとはまだまだ知る由もなく、みんなカッコいいTシャツ着てるな、やっぱりTシャツは着丈が肝心だなあなどと能天気をかましていたのであった。バンドは愉しかったけど雨が降ってなければもっと愉しかったかな。こっちもTシャツで見たかったよ。

MATADOR! SOUL SOUNDS@FIELDS OF HEAVEN
この頃にはもう、加減を知らない幼子にキャッキャと帽子を叩かれているくらいの雨につきまとわれて、人間の子供ならやめさせることができるところがいつ終わるともしれないそれに気持ちは段々と下降線をたどりはじめ、ザ・ニューマスターサウンズmeetsソウライヴなどという極上のジャズファンクサウンドすらを雨を蹴散らすヤケクソのバックトラックにあてがう不埒に申し訳のなさでいっぱいなのだった。ギタリストとドラマーのみならず、クリス・スパイズというキーボーディストの切り裂くようなフレーズがまるで水切りのように跳ねまくっていてヤケクソを煽りまくっていたよ。

知らない大勢に頭や肩をバタバタと叩かれているような雨が、もう豪雨と言ってしまっていいだろう、そんな雨が降っている時は家の中に居ておとなしくしているよう現代の人間は出来上がっているわけで、ではそうしていないワタシに相応の目的があったとは言え、あとどれだけの時間この状態をやり過ごせばワタシは乾いた室内に寝転がって雨でぐずったソックスを脱ぎ捨てることができるのか、そんなことばかりを考えながら帽子のひさしから途切れなくおちる雫を捨てられた子供のニヒルで見つめるのであった。

GEORGE PORTER JR & FRIENDS@FIELDS OF HEAVEN
期せずしてアート・ネヴィルに捧げるステージになってしまったとはいえ、ああセカンドラインというのは本来こういうことかと、哀しみにつけ入るすきを与えないよう小刻みに踏み続ける笑顔のステップが途切れることのないまま永遠に上昇するスパイラルのようなビートに、ほんの一時だけ豪雨も音の粒と化したかのようであった。それにしても雨は降る。激しい雨である。ボブ・ディランやモッズがそんな風に歌うから雨もその気になってしまうのだ。溺れそうである。

AMERICAN FOOTBALL@FIELDS OF HEAVEN
この雨は、お前の気持ちがどれほどのものか試してやろうじゃないかという高いところの人の試練だったのだろう。そしてワタシは耐え抜いて、豪雨の雨音が喝采のように鳴り響く中、"Let’s just forget"と歌い出すマイク・キンセラの声を確かに聴いたに違いなかったのである。気がつけば水遊びをしすぎた子供のように両手はふやけ、手のひらにはちりめんのようなしわが浮かび上がり、思わず両の手のひらを合わせては「しわとしわをあわせて、しあわせ。なぁむぅ」とつぶやいてみたのだった。そしてこの日のワタシがどれほどギリギリのところに居たのかというとトリのDEATH CAB FOR CUTIEをあきらめて敗走したことに明らかで、そしてそのことをさほど悔いてもいないことに自分でも少しだけ驚いている。歳を取るとはこういうことだ。
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2019年08月01日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.26 Fri

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THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES@WHITE

つい2〜3日前まで台風のタの字も言ってなかったのに、台風来るから各自の責任において現場処理よろしく的ないきなりの状況であったとは言え、苗場皆勤の身としてはそれなりに酸いも甘いも噛み分けてきたこともあり、まあ死ぬわけじゃないしと(とは言え死ぬ可能性は若干あがっている)高をくくりつつも出発前に東京で少しバタついたこともあって、おっとり刀で越後湯沢にかけつけた次第。

今年も苗場プリンスの部屋が取れず越後湯沢組。それにしても金曜で行きの道路がこれだけ混雑していた記憶もなくて、ひとつのバンドがこれだけ集客するもんなのかともはや自分にはどこにも見つからない忠誠心に恐れ入る。それは皮肉でもなんでもなく。

RED HOT CHILLI PIPERS@GREEN
どんな曲でも力技のバグパイプアレンジで踊らすのかと思ってたもんだから、前夜祭でその実態を見ていささか肩透かしをくらったところもあるので、あくまで客入れの音楽として箱バンのいなたさとにぎやかしを生暖かく半笑いで愛でる。

SHAME@RED MARQUEE
2周くらい回ったポストパンクの風情がツボだったアルバムの感じからもう少し斜に構えたバンドなのかと思っていたら、むちゃくちゃIQ高いのに進学しなかったやつらが組んだバンドみたいな確信犯的サボタージュの馬鹿ノリが針を振り切ってて、思わず顔がほころぶ。とりわけウィル・サージェント直系のギタリストは大変に好み。パジャマを着たヴォーカルはカート・コバーンていうよりはジョニー・フィンガース直系の英国男子の心意気か。

KING GIZZARD & THE LIZARD WIZARD@WHITE
大真面目なメタルのフレーズとアレンジをツインドラムのマシナリーなビートで担いで反復することで垂れ流すトランシーはこのバンドのサイケデリックな性根にちがいなく、そのうちなんだかバットホール・サーファーズのステージを思い出したりもしてた。ギビーがオイルかけて火を点けたシンバルを叩きまくるもんだからステージのあちこちに火が飛び散って、客は大喜びスタッフ大慌てで消しまくったホワイトももう17年前。そりゃワタシも歳を取るわけだ。

JANELLE MONÁE@GREEN
プリンス、マイケル、JBまで全部ぶち込んで、見失うな、あの道はここにある!っていう宣言を、健やかな茶目っ気とカラフルな気合と共にワンインチパンチで打ち込み続けるステージ。そして時折の裸足。この後のすべてが見劣りしてしまいやしないかといういくばくかの危惧。

THE WATERBOYS@FIELDS OF HEAVEN
前回(2014)のステージでそれなりに決着は付けたので、今回はほとんど通りすがり程度。本音を言えば”THIS IS THE SEA”のマイク・スコットを見られなかった時点でもう間に合っていないのは確か。

TYCHO@WHITE
ヴォーカルが入った途端、何を聴いても何かに聴こえてしまうモードで今回はコクトー・ツインズが発動。これやるならもう少し氷結したシンガーが必要な気がしないでもない。ステージの端に腰掛けて歌ったりの浮遊する自然体とかそういうのはもういいかと。それ以外はライトタイムライトプレイスな逸品のステージだっただけに。

THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES@WHITE
個人として何をやったところで付帯事項付きの称賛と批判からは逃れられないトム・ヨークが、そんなあれこれから煙幕を張るかのように実体を晒すことを拒否するその姿こそを表現の輪郭としてきた歪が、ここにきてようやく正されたような気がしたステージだったのである。そこに見えたのは、かつてブロンドに染めた髪でデヴューしたヴォーカリストが30年近くを経て成熟した姿であったように思えたし、もはや倦怠もわが友としたというその笑顔の意外な晴れやかさこそが彼の復興にも映った。ダブルアンコールで奏でた『サスペリア』の職能仕事が予期せぬセラピーとなったのか。いずれにしろ霧はさぁっと晴れていた。
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2019年07月25日

FUJI ROCK FESTIVAL '19 展望

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7.26 Fri
RED HOT CHILLI PIPERS
LUCKY TAPES
SHAME
KING GIZZARD & THE LIZARD
ORIGINAL LOVE
GARY CLARK JR.
JANELLE MONAE
SOUL FLOWER UNION
TORO Y MOI
THE WATERBOYS
TYCHO
THE LUMINEERS
THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES
BIGYUKI

7.27 Sat
蓮沼執太フィル
突然段ボール
キセル
JAY SOM
CAKE
CharxChabo
DYGL
MATADOR! SOUL SOUNDS
GEORGE PORTER JR & FRIENDS
AMERICAN FOOTBALL
SIA
DEATH CAB FOR CUTIE
GLEN MATLOCK AND THE TOUGH COOKIES featuring EARL SLICK

7.28 Sun
渋さ知らズオーケストラ
STELLA DONNELLY
BANDA BASSOTTI
勝井祐二 × U-zhaan
HIATUS KAIYOTE
INTERACTIVO
PHONY PPL
VAUDOU GAME
CHON
toe
VINCE STAPLES
THE CURE
JAMES BLAKE

今年のタイムテーブルはあからさまなステージかぶりがない分、往生際悪くあちこち走り回ることになりそうで痛し痒し。
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2019年07月23日

チャイルド・プレイ&ポラロイド/ラース・クレヴバーグはイイ男

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人形にチャッキーが宿る経緯を知らせるオープニングのシークエンスで、あれ今回はオカルトじゃないやと少し不思議に思ったのだけれど、このリブートでは弱者の立てた中指から始まった話がアンディ(ガブリエル・ベイトマン)の屈託に結びつくことで、イドの怪物としてのチャッキーが思いのほかダークサイド・オブ・トイ・ストーリーの語り口に説得力を与えることとなっている。オリジナルでのヴードゥーを最新のAIテクノロジーに置き換えるアイディアもスマートだし、リブートされたチャッキー(マーク・ハミル)のファーストショットにコレジャナイと一瞬たじろぐも、その後アンディの指示であれこれ行われる百面相を眺めるうちにコレジャナイフェイスにも半ば強引に馴染まされていくこととなるわけで、そうした気の利いた過不足のなさは、かつて80年代にはその過不足さゆえのささくれが刺さったりカーヴで滑ったりすることで忘れがたい時間を過ごしていたことを思うと、そうした浮世離れがスポイルされてしまうように思えたりもするのだけれど、それよりはそれらささくれやカーヴですらを自明としてデザインする洗練を愉しむポスト/ポストモダンホラーの現在にあってはその過不足のなさこそが愉悦となり得たりもするわけで、嫌味でもなんでもなくこちらもそれを欲する体になってしまっていることにあらためて思い至るような、期待に応え期待をを超えるリブートとなっていたのは間違いのないように思う。シェーン(デヴィッド・ルイス)殺害時の、子供の悪戯のような仕掛けとアタックをあえて過不足上等のチープで粗いカットのままつなぐことによって人形の片言なリズムが弾け出すシーンには、このジャンルへの監督の健やかな偏愛がみてとれてクラシカルな香りすら漂った気もしたのである。劇中のTV映画フッテージが『悪魔のいけにえ2』であったのも、趣味の良さに加えて自分が撮っている作品への正確で冷静な理解がうかがえてワタシは握手をしたくなった。といった風にことさら実存めいたトリッキーなショットや長回しには興味がなさそうに見えたラース・クレヴバーグ監督なのだけれど、高いところから落ちたり吊ったりが4回ほどありそれぞれに死んでしまったり重篤なダメージを負ったりして見せ場を作っていて、人形のサイズや動きにさほどダイナミズムが生まれないその分のバランスなのかなあと思っていたところが、


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続けて鑑賞した『ポラロイド』でもやはり天井裏からの宙吊りやら階段落ちやら首吊りやらが端々にしのばされていて、この監督には垂直性へのフェティシズムがあることなどうかがえてさらに信用が増した気もしたのである。出世作となったこちらでもやはりこの監督の過不足のなさがツイストの強度をじわじわと上げていて、どんでん返しと言うよりは気がついたら背後に回られていたような感覚を見抜いてフックアップしたプロデューサーの慧眼はさすがであったとしかいいようがない。疎外された者がそれゆえに邪を引き寄せてしまい、因果応報など踏みにじるように善人も悪人も等しく屠られていく腰の座った筆使いは、飛び道具に頼らないストーリーテラーとしての地肩の強さもうかがわせ、アンドレ・ウーヴレダルとはまた声音の異なるノルウェーのホラーマスターとの邂逅に、ラース・クレヴバーグという名前を即座に頭へと叩き込んだのだった。
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2019年07月21日

GIRL/ガール〜飛ぶのが重い

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映画が始まるとすでにヴィクトルはいなくなっていて、かつてヴィクトルだったララがいかにして自分の真の姿と向き合い、バレエを生き方と発見し、それらのすべてについて周囲の理解を勝ち取ってきたのかは一切描かれておらず、この家族における母親の不在についてすら知らされることもないまま、バレリーナへの夢と性別適合手術に向けて足どりも確かに歩き出したララの揺るぎのない眼差しに彼女がまだ15歳の少女であることを忘れてしまいそうになる。とはいえララを見守る人たちはその眼差しを信じるしかないのだけれど、父親マティアス(アリエ・ワルトアルテ)も担当医師もカウンセラーもバレエ学校のクラスメートも知ることのないララ(ヴィクトール・ポルスター)の姿を、ワタシたち観客だけは誰もいないバスルームや彼女の部屋でひとり在るララの時間を共有することを許され、というよりは求められ、そこでは彼女の男の子として裸身はともかく、前貼りで真っ赤にかぶれた下腹や寝起きの朝立ちまでも知らされることとなる。そうやって準備された監督の視点によって、みんなは私を外から見て今でも充分に素敵な女の子だ、ゴージャスだとほめそやすけれど、まっ平らな胸や朝立ちだってしてしまうペニスを見てもそう言えるのか、あなたは思春期を楽しみなさいと言うけれど、私がどうやってその入口に立てると思うのか、心の底では内面は外面が連れてくることをあなた方は疑いもしないくせになぜ私には内面を先に求めるのか、とララが誰にも告げることのない不安と苦悩と苛立ちをほとんど暴力的といっていい圧力で共に体感していくことを求められるのだ。それらララの混乱は、すべての感情を肉体のフォルムで表現するバレエの修羅へと本格的に足を踏み入れることで、肉体の変容というオブセッションをさらに加速していくこととなる。とは言え、もしもターンしていてバランスを崩したら肩を前に入れなさい、そうすれば止まるから、という教師のアドバイスにうかがえるバレエの即物的なメカニックからすれば、あんな風に下腹部をテープで固めていたら繊細なコントロールのノイズにならないわけがないことくらいワタシのような素人にも瞭然だし、バレエが求めてくる肉体の書き換えに応えねばならないという焦燥が底なしに焚きつけるトランスジェンダーとしての彷徨によって彼女はあの選択へと追い込まれていったことを思えば、向かいのアパートの一室で行われる男女の交情を、今の私は実際のところあのどちらなのだろうと物憂げに眺めるララが、自分にとってペニスがどれだけ「他人」であるかを確認するため同じアパートの少年に行うオーラルセックスのシーンは15歳の聡明が行き先知らずに暴走する切なさが窒息しそうなほどに溢れて、ここまでずっとララの秘密を逃げ場なくぶちまけられてきたワタシたちにしてみれば、ララのたどり着いた結論にしたところで、来るべきものが来たという覚悟をそっと引っ張り出すだけでよかったことにさほど驚きもしなかったのではなかろうか。それは冒頭のピアスとの円環という容易さすらも可能であったのだから。それよりもワタシは、(髪を)切ったララがワタシたちを正面から見据え颯爽と歩いてくるラストショットの、もうこれからはあなたたちに用はないと言わんばかりの笑顔が、それをにわかには受け入れがたい気がしてしまったのも確かなのである。ところでバレエはあなたの捧げ物に満足してくれたのかなと。15歳のトランスジェンダーの絶望など知ったことではなかったあのバレエが。それくらいこの物語はバレエに借りがあるように思うものだから。
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2019年07月17日

さらば愛しきアウトロー/サンダンス・キッドの冒険

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いつものようにひと仕事を終えて首尾は上々といった足どりで銀行を出てきたフォレスト・タッカー(ロバート・レッドフォード)の顔が、その次の瞬間にはどこかしら焦点の合わない昏さをその目に湛えてみせて、それはおそらく、追わせるために逃げ、逃げるために追わせる、その終わりのない繰り返しの中でしか安寧を得られない人が染まったオブセッションの色であることがだんだんと描かれていくことになる。仕事仲間とは言えテディ(ダニー・グローヴァー)やウォーラー(トム・ウェイツ)とタッカーが根本で異なるのは、タッカーには彼らのように人生のセンチメンタルにペシミスティックが沁みていない点で、永遠の繰り返しの中に生きるタッカーは囚われる過去をもたないことで失くしたものや捨て去ったものへの執着から自由でいられるのだけれど、それはすなわち様々な選択が生む責任とそれが促す成長を拒否することでもあるわけで、ジュエル(シシー・スペイセク)がタッカーに訝しげでありながら惹かれてしまうのは片っ端から枷を捨て去ったがゆえの彼の軽みが、どこかしら人生の浮力をつかんだ人の身のこなしにも映ったからなのだろう。してみるとそれは、ポール・ニューマンとの邂逅によってまるで自分の役割を定めたかのようにサニーサイドのリベラルを演じ続けてきたロバート・レッドフォードという役者がまとい続けたた善性の香りそのものだったようにも思えるわけで、同じ脱獄ものでも『暴力脱獄』と今作では依って立つところが天と地ほども違っていることにもそれは明らかだし、過去においてパトカーに追われるタッカーが駆っていたのが、そのラストで永遠へと溶けていった『断絶』でジェームズ・テイラーとデニス・ウィルソンが駆っていたシボレー150(タッカーのはセダンだったけれど)であった点で、どこへも行かないことを選んだタッカー=レッドフォードの微笑むような諦念があのシボレー150によってそよぐように晒されていたのではなかろうか。孤独や孤絶を不可侵の魂が放つ光ととらえてきたデヴィッド・ロウリーの描くアメリカは、サバービアからさらに遠くその日なたと草の匂いにはワイエスの光と影が宿りつつ、しかしそこに透けて見えるのは血の気の失せたエドワード・ホッパーのアメリカでもあるわけで、そうした両極が互いを憧憬することで生まれるメランコリーがこの映画の隅から隅までを埋め尽くすことで、何を撮っても撮るそばから「アメリカ映画」になってしまうその感情のデザインはまるで彼の敬愛するロバート・アルトマンのそれにも思えて、その「アメリカ」と「映画」を全問正解し続けた多幸感に酩酊しっぱなしだったのだ。このアメリカをワタシはずっと知ってきた。
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2019年07月14日

ゴールデン・リバー/明日に向かって磨け

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人殺しも夢想家も人殺しの走狗も横並びになって互いを見やる、あの一時あそこにあったのはウォーム(リズ・アーメッド)の唱えたユートピアの萌芽であったようにも思えたし、となればそれを台無しにしたチャーリー(ホアキン・フェニックス)の暴走は、ウォームがダラスに夢見たユートピアがいずれ塗れたにちがいない崩壊の予兆であったということになるのだろう。ラストでイーライを包む至福の満足感は、提督(ルトガー・ハウアー)が勝手に死んでくれたこと、チャーリーがもう銃を持つことがなくなったこと、メイフィールド(レベッカ・ルート)から奪ったあれやこれやで仕事を引退できそうなこと、そしてなにより母親だけがいる家に帰ってこられたこととこれからは毎日好きなだけ歯を磨いて暮らせること、それはすなわち、他人がよく言う自由という言葉の意味が生まれて初めてわかったということなのだろう。チャーリーが人殺しを嫌がるのは道徳とか倫理とかいうよりも、誰かを殺すとそいつの親父や兄弟や友達につけまわされてこんどはそいつを殺さなきゃならなくなってきりがないんだよ、という単純に自由が阻害されるからに過ぎないのだけれど、社会的な生き物としての成長は、実は思索の教育よりも実用性の解決によって促されるのかもしれないなと、白人と非白人、暴力と非暴力のクラスが交錯して生まれる真空に漂う彼らを見て思ったりもしたのである。即席のメンターとなるウォーム以外のモリス(ジェイク・ジレンホール)とシスターズ兄弟は、間接的/直接的な父殺しを果たしてきたつもりがいまだ父親の亡霊に苛まれ続ける子供たちで、アメリカ映画『マッドフィンガー』をリメイクした『真夜中のピアニスト』や『預言者』でそれぞれに父殺しを描いたオーディアールにとって、アメリカを外から覗いて見た時、父殺しの病的なオブセッションとそれが育てるマチズモこそがアメリカの呪いであり約束であることをあらためて発見せずにはいられなかったのだろう。ここでは提督の死が父親の完全で正式な死を象徴していたのは、棺の中の提督にイーライがせずにはいられなかったある行為に明らかであったように思うのである。新しい人としてオーディアールが最後に選んだのがウォームではなくイーライであったのが、まるでアメリカに対して非アメリカ人がしのばせるすべての愛憎を代弁したかのようでもあって、こんな風にそっと抱きしめたくなるような柔らかくて傷みやすい西部劇がいまだ出番を待っていたことに何だか呆気にとられてしまった。世界を更新するのは銃弾ではなく歯磨きや水洗トイレなのだ。
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2019年07月11日

凪待ち/新しいきず

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冒頭でカメラが川崎競輪場の建物をとらえた瞬間、ショットが平衡を失したようにぐらっと傾いて何だこれ?と奇妙に思っていたら、その後で木野本郁男(香取慎吾)の胸の内にギャンブルの魔が差す瞬間になると、彼をとらえたショットがやはり同じようにぐらっと傾くわけで、その失した平衡が石巻の海の水平と対照して描かれることによって、かつて傾いていた者と今なお傾き続ける者がひとたびの水平=凪を求めて交錯していく姿の喪失と再生を、それを香取慎吾の置かれた実人生に重ねるなら重ねてみればいいという、開き直りと言うよりは一種瑞々しくすらあるふてぶてしさで監督は描いていく。どれだけ血と泥にまみれようと性根のところが汚れていない郁男を、日本の湿り気ではなかなか染まらないデカダンスの色で描く目論見を白石監督は香取慎吾から得たのではなかったか。罠にかかった野生動物が血を流しながら暴れる姿の倒錯した美しさに手が届く瞬間がいくつかあったようにも思えたし、美波(恒松祐里)が郁男を庇護者と選び続けるその理由が大きな子供としての郁男の感応にあったのは言うまでもないだろう。元SMAPの彼らを映画でさほど見かけているわけではないのだけれど、例えば『十三人の刺客』の稲垣吾郎や『中学生円山』の草なぎ剛など、ビジネスとして成熟とピュアネスの同居を矯正されてきた者が持つ彼岸の軽味はプロパーな俳優にはまとえない風情であって、正直に言ってしまえばこの映画は香取慎吾のそれだけをあてに撮られた気もしていて、やはりそれに近い武器を持つリリー・フランキーとのがっぷり四つがもたらす浮世離れの居心地の悪さとそのスリルは邦画の新しい風景であったようにも思えた。ところで、郁男の置き手紙なのだけれど、彼が書き出す時のクロースアップに見えるそれと書き終えた手紙の筆跡が異なっていて、やけに達者な筆跡の手紙に置き換えられてしまっているのが少しばかり興ざめに思えてしまった。書き出しの筆跡が香取慎吾本人のものかどうかはわからないにしろ、懸命にたどたどしいそれは郁男の書く文字としてとてもふさわしいように思えたのでなおさらそう思う。再生を謳ったその後で、傍目には凪いだ海の底にいつまでもある喪失の記憶を、それを忘れかけたワタシたちにいま一度焼き付けるエンドクレジットがこの映画の静かで毅然とした品格を告げている。
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2019年07月10日

COLD WAR あの歌、2つの心/向こう側からずっと

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国を棄てる約束をしたあの日あの時、なぜ君は現れなかったのかとヴィクトル(トマシュ・コット)に問われたズーラ(ヨアンナ・クーリグ)が、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」と答えた瞬間、COLD WARという言葉の予めが一度そこで散り散りとなり、これが前作『イーダ』のラストにおいて、世界が自分を騙し打ちしていたこと、しかしそれは自分の無知がそうさせたこと、そしてその無知を安寧とする世界に身をゆだねていたことへの自分と世界に対する怒りを胸に、かつて自分の家であった修道院へと荒ぶる歩を進めるイーダの修羅を受け継いで転生した女性の物語であることに気づかされたのである。政治と体制の中、屈託を飼い馴らす男ヴィクトルが屈託と怒りを隠そうとするどころかそれを燃やして生きるズーラから目を離せなくなるのは必定ともいえたし、それと同時にズーラにとってヴィクトルは個人性の敵が何かを知る本能の理解者にも思えたのだろう。そうやって互いの心臓に食い込ませた爪によって2人はだらだらと血を流し続け、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」というズーラの言葉は、今の私が流す血はあなたの流す血の量に追いついていないから、今その血をあてにしてしまうわけにはいかないのだという孤高の決意の向こうから発せられていたように思うのだ。その後、ポーランドとパリに別れた2人の生活は主にヴィクトルのそれを通して描かれて、時折の逢瀬が終るたび例えば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の暗転のように目を伏せた映画は次の逢瀬までの数年を一気に跳躍してしまうのだけれど、ヴィクトルに描かれる最低限の連続性に比べ、暗転を経て現れる時のズーラの変貌というか変容は次第に殺気すらをおびていく。しかし、舞踏団のスターであったかと思えば偽装結婚によってポーランドを脱出し、果ては目的の達成のために他人の妻となり母となりさえする暗転の間にズーラが過ごした変転が一切描かれることがないだけに、彼女が新たなズーラとしてヴィクトルの前に現れるためにいったい何を引き換えにしなければならなかったのか、そこに漂う痛切なメランコリーが2人を寄る辺のない時間の奥底へ閉じ込めていくのは確かながら、ワタシたちの知る幸福の形とは相容れるはずもない、絶望と背中合わせに絡み合う生の確認こそがヴィクトルとズーラにとっての愛の形であったように思うのだ。強制収容所に囚われたヴィクトルを救い出すため、官僚システム上位へのコネクションを持つ舞踏団の管理部長にして小役人カチマレク(ボリス・シィツ)と結婚し子供すらもうけたズーラが、ついに解放されたヴィクトルと会うシーンでは、子供を抱いたカチマレクの目もかまわず「好きよ」と声に出しながらヴィクトルに駆け寄って抱きしめてみせて、やがて迷いなくわが子すらを棄てることになるズーラとそれを気にもとめないヴィクトルは既にこの時点で人であることの存在を手放していたのだろう。その後ほとんど幽鬼と化した2人の道行きとその終着は、世界を相手に共闘したCOLD WARの、わけても世界から蹴り出されたズーラがその個人性を全うしたことの証であったようにも思えたのだ。『イーダ』では終始抑制されたカメラがついに昂ぶるイーダを追って歩を乱したのとは対照的に、ここではヴィクトルとズーラの間で揺れ続けたカメラがラストではまるで2人を鎮めるかのように凝視して、それまでずっと溢れていた音楽を静かにそよぐ風の中へとミュートしていく。『イーダ』と『ズーラ』はパヴリコフスキにとっての『大理石の男』および『鉄の男』であったようにも思えた。
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2019年07月05日

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム/青春の光と糸

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『ホームカミング』で揃いのTシャツを着たクラブの面々の中、ひとり白けた顔つきでMJ(ゼンデイヤ)が読んでいたのがモームのビルドゥングスロマン「人間の絆」であったことを思い出してみれば、今作の終着点がロンドンであったことはすでに予告されていたような気もするのである。モームは人生の意味を問う主人公に、ペルシャ絨毯にその答えがあると告げてみせていて、言ってみればこれはピーター・パーカー(トム・ホランド)がその答えを手にするまでの物語ということになるのだけれど、自分は何者なのか、ヒーローなのか、ヒーローになりたいだけの少年なのか、そもそもヒーローとはなんなのか、という青い魂の彷徨を、かつて『コップ・カー』で泣きべそでは解決しない世界のことわりを時速100マイルで超えていく少年の意地と涙を燃やしたジョン・ワッツが、『ホームカミング』ですらが前奏であったかのようなパワーコードでぶち抜いていく。『スパイダーバース』におけるディケンズの「大いなる遺産」やMCUスパイダーマンにおけるモームの参照が、互いに計算されたデザインであったのかシンクロニシティであったのか、いずれにせよ語り手たちはこれらユニヴァースが現代の長編小説として、観客、特にティーンエージャーのピーター・パーカー世代の人生とその世界を照らす灯りとして機能することを望み、その責任を正面から引き受けていたように思うのである。今作においてスパイダーマン=ピーター・パーカーは、大人にならなければ正しい道を知ることはできないという、大人たちがかけた呪いを解くためにヒーローであることを受け入れるわけで、そうやって父殺しという通過儀礼をもはや必要としない水平な世代の風通しと見晴らしを新たなMCUのフェーズとして宣言してみせたのではなかろうか。いまだトニー・スタークに囚われた日々のアイアンスパイダー・スーツから、闇の中でさまよう漆黒のナイトモンキー・スーツを経て、泣きながら目を醒ましたピーターが最後に選んだスーツの鮮やかな赤と青のコントラストこそが、アイアンマンとキャプテン・アメリカの遺志を受け継いだそのサインであったことは言うまでもないだろう。そしてそのご褒美はと言えばまるでジョン・ヒューズなスパークリング・キスなのだった。シュワッ!てね。
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2019年07月01日

X-MEN : ダーク・フェニックス/気ままな神の作りし子ら

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これまで幾度となく目にしてきた、話が口ごもった時のジーン・グレイ頼みを思い出してみさえすれば、その彼女を主役に据えた時点でとっくに口ごもってしまっていることがうかがえたし、ではいったい何をそんなに口ごもってしまっているのかと思えば、それはおそらくチャールズの鬱陶しさって金八先生に通じるところがあるよねといううんざりと投げやりだった気もするわけで、劇中で8歳のジーン・グレイと出会った時のチャールズ(ジェームズ・マカヴォイ)に被せられた中途半端なロン毛カツラといなたいジャケットがかつての武田鉄矢のようであったのはただの偶然というわけでもないだろう。そしてこのチャールズこそがブライアン・シンガーその人であったことを忘れずにいてみれば、倦怠と猥雑とタナトスゆえの生命力を発揮することで一瞬息を吹き返した『ファースト・ジェネレーション』でそれを牽引した不埒なセックスマシーンとしてのエリック(マイケル・ファスベンダー)を『フューチャー&パスト』『アポカリプス』と徹底して追い込むことで、非現実の王国版「3年B組金八先生」(以前は「ビバリーヒルズ青春白書」かと思っていたけれど)に心血を注いだブライアン・シンガーの功“罪”が浮かび上がってくるわけで、今作で目にする去勢されたエリックの無様はその最たるものであった気もするのである。スケバン(ジェシカ・チャスティン)にそそのかされる問題児ジーンに捨て身で向き合うチャールズの人生訓話にコロッと改心するクライマックスの昭和感は、丸腰で火中の栗を拾わざるをえなかったサイモン・キンバーグがどのみち溺れてしまうとはいえ溺れる寸前につかんだ藁であったのだろうし、歴史と併走するコンセプトなどという難題を背負わされたことで、X-ジェットで宇宙に行けるテクノロジーを所有しながらスペースシャトル計画を生温かく見守るチャールズたちのいけすかなさを回避することもかなわなかった不幸も推して知るべしということになる。結局はX-MEN迫害と内ゲバの歴史をブライアン・シンガーのルサンチマンがのっとってしまったことで、ブライアン・シンガーのコンディションがそのまま映画のクオリティを左右してしまう不幸が最後までこのサーガにまとわりついて離れなかったように思うのである。まるで、ハリウッドから葬られ消えていくブライアン・シンガーの怨念がX-MENを道連れにしたかのようで、彼にとっては有終の美であったと言えるにしろである。
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2019年06月28日

海獣の子供/血も涙も水

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動かないものが動き出す、目の前のこれがワタシがそう願うアニメーションだなあと、五十嵐大介の画が、境界のあわいで揺らぐ線のふるえもそのままに、そして初めて見るはずのその色が、ああ確かにこんな色だった、でもこんなに見たことのない色だったとは今の今まで知らなかったとばかり、無いはずの記憶を片っ端から塗りつぶしていくわけで、ああ日本でもアレが解禁されていればソレを胸いっぱいに吸いこみながらいったいどんな風に翔んで潜っていけたのかと、まだ見ぬサイケデリアに想いを馳せては眼前のトリップに身も心も委ねてみたのだ。元々、画が自らを解き放つために物語を必要としたのが五十嵐大介であるから、この映画にメッセージを探すこと自体が没入(黒丸尚風にルビはジャック・イン)のノイズになることはあらかじめ承知しておくべきで、そうした意味で琉花をナヴィゲーターに据えたのは精神の合理化を目指した脚色だったように思うし、彼女に忠誠を誓うことでワタシたちは物語の奴隷になることなく、個人的で替えの効かないワンオフの体験を手に入れて持ち帰ることが許されたように思うのだ。狂騒の後、原作では「夏休みの始めに出会った人たちは、秋風の吹く頃にはみんないなくなっていた」という琉花の虚無がモノローグで記されるのだけれど、映画では13番との邂逅による円環が琉花の損なわれなかった帰還を描くことで、うっすらとあった喪失と再生、死と誕生の外枠が琉花の成長譚に置き換えられていて、それから後の加奈子の出産シーンとの繋がりがいささか希薄になった気がしないでもないにしろ、壮絶なインナートリップの酩酊を醒まして少しは人心地をつかせて観客を帰すことを配慮したのだろう。何はともあれ、原作ではたった1カット、光と思しき筋だけが描かれた空の「離陸」シーンにあの速度を決定した勇気と想像力をワタシは尊敬する。
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2019年06月26日

ジョナサン−ふたつの顔の男−/おれに関するおまえの噂

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※展開にふれています。
あらすじだけ読むと最近のアンドリュー・二コルのようなチャラさが香るけれど、同じアンドリュー・二コルでも『ガタカ』に近い抑制の効いた好篇。

脳内に埋め込んだタイマーによって12時間ごとに人格を切り替えることで多重人格をコントロールする、という一歩間違えば着地で激突する設定のアクロバットを、そのテクノロジーの背景をSFとすることで自明とする語り口のミニマルで静謐なトーンも含め、いつしか沁み始めるその透明なメランコリーに『アナザー・プラネット』を思い浮かべたりもした。ジョナサン(アンセル・エルゴート)とジョン(アンセル・エルゴート)という2つの人格のそれぞれが過ごした12時間の出来事をビデオメッセージにして毎日互いに伝え合うことにより、自分の別人格と12時間越しの会話を行うアイディアが秀逸で、自分の人格が眠りにつく12時間の間は肉体すなわち生命を相手に委ねざるを得ない緊張と不穏が無言の抑止力となり、擬似的な一卵性双生児ともいえる関係が生み出す血の気の失せたサスペンスはエレナ(スキ・ウォーターハウス)という一人の女性の登場によってそのバランスが崩れ始め、どこかしら『戦慄の絆』めいた奇形のトライアングルをうかがわせるのだけれど、最終的にジョナサンとジョンが選択するのはこの物語のこの設定であればこその決断で、光と闇の出会う場所に灯される黎明と薄暮の明かりが同時に照らしたようなラストは、闇しか知らずに生きてきた者が初めて光の中に足を踏み出すというその一点において彼らの考えた最良のハッピーエンドであったということになるのだろう。ラストのシークエンスは、たとえばアルジャーノン的なメロウの情動も概ね可能ではあったにしろ、監督はそれまで狂わせることのなかった正確な歩幅と息継ぎを最期まで貫いていて、非常にケレンの効いた、というか効かせすぎた設定でありながらそのケレンに身を任せることをしないストイックな語り口を維持することで非現実のリアルの強度を高めていて、その辺りを文体のダンディズムとして内部に蓄えての長篇デビューなのだとしたらこのビル・オリヴァーという監督の幻視はかなり信頼できるように思うのだ。髪型ひとつで光と影を演じ分けるアンセル・エルゴートのヴィヴィッドで神経症的なまなざしを見るにつけ、彼はどちらかというと引き出されると繰り出すタイプであることを感じて、その点に無自覚なままタイプキャスト的なフィルモグラフィーに埋没してしまう一抹の不安を感じたりもした。
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2019年06月23日

ハウス・ジャック・ビルト/ジャックはジャッキを持っていない

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自身のミソジニー的な振る舞いが、底知れぬ未知を抱える存在としての女性に対する恐怖心に因っていることを分析し、『アンチクライスト』からこちら、自らをシャルロット・ゲンズブールに仮託することでそうしたオブセッションを鎮めるべく画策し、彼女に「人間の特性なんてたったの一言で言い切れるわ、それは“偽善”よ」と叫ばせたことで憑きものでも落ちたのか、「なんでいつだって男が悪いんだ?女はいつも犠牲者で男はいつだって犯罪者なんだ」とぼやくジャック(マット・ディロン)に「でも君の話からすると君に殺される女性たちはみな馬鹿に思えて仕方ないんだが、そうやって彼女たちに優位に振る舞うことで君は昂奮してるんだろう?」とヴァージ(ブルーノ・ガンツ)がまぜっ返せば「いやいや女性たちの方が概して殺されることに協力的なんだよ」と真顔ですっとぼけさえしてみせるのである。それもこれもすべては神聖なる芸術に殉じるためで、その証として俺は完璧な一軒の家を建てねばならないのだとうそぶきつつ、次第に家のことなど忘れていくジャックは俺が現れ殺す処すなわち芸術なりとマニフェストを書き換え始め、そのスラップスティックで引き攣った道行きは今さら言うまでもないにしろコメディに相違ないわけである。そしてそれは計算されたコメディというよりは現在のトリアーが抱える躁病的な病質そのものといった方がふさわしいようには思うのだけれど、ジャックの語る物語に書き込まれる赤いヴァン、赤いジャッキ、赤いキャリーケース、赤い電話、赤いキャップ、赤いローブを血の徴にメメント・モリとするのはあまりにも楽をし過ぎではないかと躁病の目の粗さをいぶかしんでいたところが、その赤が意味するところは果たして何だったのか、それが明かされるラストの、諸君、安心したまえ、言うまでもなく俺は地獄に堕ちる人間で俺もそれをよく分かっているよというトリアーの最後っ屁とも言える開き直りがほんの一瞬とはいえ清々しくさえあったし、それについては、確かに不埒な殺人と死体にあふれた懺悔であったとはいえ、トリアーに通低するセックスも死も肉体のある状態にすぎないというフェティシズムの無縁も手伝っていたように思うわけで、その特殊な乾き方もあってか露悪が沁み込んでくる嫌悪感は巷間ささやかれるほどではなかったようにワタシは感じたのだ。それは第3の件での例のあれこれにも同様で、そこに至る道程からすれば彼らが赤いキャップをかぶった時点でそれは予期されたし、彼らにしたところがジャックにとってはワンオブゼムに過ぎないというある種の公平さがワタシにとっては生理的な嫌悪感を抑え込んでいたわけで、では先だっての『ハロウィン』のように直截的な描写さえなければ行為そのものの禁忌は免れるのかといささか口を尖らせてみたりもするのである。ちなみに母親へのとどめの一撃は弾着のタイミングがほんの微細ながら早すぎはしなかったかと、ワタシはそんな風に観ている観客ではある。かと思えば第2の件では絞殺された死体に添えられるのが失禁(『アメリカン・アニマルズ』のような)ではなく目尻から流れる一筋の涙であったりもするわけで、狂人には狂人なりのわきまえがそこにはあることを描いてはいたように思うのだ。おそらくは自他が認知する病質を抱えたままトリアーは可能な限りの社会性を総動員して映画を仕上げているのだろうことを思ってみた時、ある側からしてみればどの口がそれを言う?とでもいう「愛もまた芸術なのだ」「愛がなければそれを芸術とは言わない」などの言葉をトリアーが心の底から信じていることがうかがえたりもするし、トリアーが自身を生かしている理由がグレン・グールドのピアノでありリチャード・ククリンスキーの人生であり、デヴィッド・ボウイのプラスティックソウルであるとするならば、何のことはないワタシも彼と変わりがない人間ではないか。観ていると何だか笑えて仕方がないのは、鏡に映った自分への照れ隠しであったに違いない。
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2019年06月18日

旅のおわり世界のはじまり/前田敦子は白い山羊の夢を見るか?

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バイクの後部シートから降りた葉子(前田敦子)が脱兎のごとく走り出すその後ろ姿に、『岸辺の旅』で車道を斜めに横断し猛然と走り去っていく深津絵里の背中が一瞬重なり、深津絵里のそれが生者のなしうる運動そのものであったのに対し、この葉子は道路を横断するたびにようやく少しずつ“人間めいて”くることになるわけで、したがって彼女のそれは渡って往くのではなく渡って来つづけていると考えるべきなのだろう。それくらい葉子の情動からは“情”が隠されたまま、いかなる場所でいかなる時であってもその輪郭が1ミリたりとも世界に滲んでいくことはなく、その相容れなさの異質はまるで違う星から迷い込んできたエイリアンのようで、異郷の地にさすらうその足取りにはどこかしら『地球に落ちて来た男』の漂泊が浮かんでくる気もしたのである。ワタシは前田敦子と言う人の出自と名前を知っているだけで、数本の映画で観た以外は何をどんな風に活動してきた人なのかまったく知らないのだけれど、『もらとりあむタマ子』を成立させていた“主演女優が力学の中心力を放棄してしまうことで生まれる終始の凪”がここでは鬱屈する真空を掴まえ始めていて、今回の黒沢清はその移動する真空のフォルムをいかに乱すことなく追い続けるか、その一点に注力するためには他の運動の一切を手放してもかまわないと腹をくくっていたようにすら思えたのだ。人前ではかろうじて人間のように動いていたエイリアンとしての葉子が、誰もいないホテルの部屋に戻るなり擬態を解いたかのようにぐんにゃりと崩れ落ち、劇中でただひとり葉子だけが持つことを許されたスマホを叩きまくってはLINEと繋がる姿は遠く離れた故郷の星の同胞と通信するExtra-Terrestrialとしか映らないわけで、こんにちは、ありがとう、という最低限のウズベク語を覚える素振りもなく、にもかかわらずまるで覚えたてのようなヒューマニズムで山羊の生命を測る皮相や、警察官の至極まっとうな説諭にもただ叱られたという感情のスイッチで流す子供の涙などなど終始ヒトガタとしての葉子であったからこそ、ラストでたどり着いたワタシたちは最終的に独りなのだ、愛はそれを知った者にのみ許されるのだという地上の人間のコアを認識することで葉子はついにニンゲンになったようにワタシには見えた。人間ではないものが限りなく人間のように動きながらそこに感情の湿度はない、黒沢監督が前田敦子に見ているのはそうした叙事の極北なのではなかろうか。拷問のような遊具で葉子をなぶり続けるシーンに隠さない監督の絶対零度の欲望が痛快でワタシは声を出して笑ってしまった
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2019年06月14日

スノー・ロワイヤル/その血で俺を温めろ

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沈痛な面持ちで死体安置所に立ち尽くすネルソン・コックスマン(リーアム・ニーソン)や刑事たちの前で、いちばん下のチェンバーに収容されていた息子の遺体は、おそらくは検死官がペダルか何かを踏んでいるのであろうキコキコキコキコという素っ頓狂な音を響かせながら、葬式でクスクス笑いをこらえきれない子供のいたずらのようにゆっくりゆっくりとカメラのフレームの中へせりあがってくるのである。普通に考えれば、カメラがとらえやすい真ん中のチェンバーから引き出された遺体の顔に息子を確認してネルソンが悄然とするただそれだけのシーンを、これから始まるネルソン・コックスマンの物語は澄ました諧謔とうすら笑いの悪意、あふれる緊張と垂れ流される緩和をスパイスで味付けしてお出ししますという粋な能書きに仕立て上げた監督のセンスに、ああもう今日はおまかせでお願いしますという気分だったのである。雪の中、真顔で走り回る悪党たちが家に帰るかのように淡々としかし奇天烈に死んでいく白昼夢はどこかしら『ファーゴ』の痙攣するオフビートに通じる気もしたし、死がジョークでしかない世界にあってはもはや駄話以外する気はないねというある種のダンディズムを遂行するために、ならば駄話の通じないキャラクターは邪魔ものでしかないとばかり妻グレース(ローラ・ダーン)ですらをあっさり途中退場させては、ネルソンにしたところでそれをことさら気に病む素ぶりも見せることもなく、そうやって良心の呵責や不謹慎とかいった浮世のくびきから解き放たれた男たちは鉛玉を使った雪合戦に真顔で興じ始め、ネルソンの復讐劇もまたその風景の一部でしかない、いい大人たちのよくない生態が慈しむようなペーソスで描かれていくわけで、それらのすべてがくだらないとばかり出ていったグレースだけが真人間だったということになるのだろう。それはすなわち、真人間の中の真人間として表彰すらされたネルソンの反乱であったともいえるわけで、これを一人の男が自身のミッドライフクライシスを打破する物語として捉えてみた時、ラストに吹く風の優しさが少しだけ身に沁みるようにも思ったのだ。監督の提示する抑制された含み笑いの意味を理解した役者たちはみなそれを心地よさそうに演じてさわやかですらあるのだけれど、なかでもネルソンの兄ブロックを演じたウィリアム・フォーサイスのアメリカン・ノワールそのものとしかいいようのないまなざしや佇まいが相変わらず絶品で、まるで、結局は割に合わない死に方をするエルロイ作品の準主役がページから転がり出てきたようだし、そんな風にして彼がいつの日かマイケル・マドセンの手にかかって惨殺される瞬間をワタシは夢見て止まないのである。
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