2021年04月19日

21ブリッジ/街で聖者になるのはたいへんだ

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アンドレ・デイヴィス刑事(チャドウィック・ボーズマン)によるマンハッタンのロックダウン、マンハッタン島に通じるすべての橋と鉄道を完全に封鎖すべしという桁外れな要請が拍子抜けするほどたやすく認められた理由が、ラストシークエンスでのマット・マッケナ警部(J・K・シモンズ)の長広舌からやがて浮かび上がってくる。命がけの仕事に精神をすり減らし狂ったバランスが自身および家庭生活をその犠牲に飲み込んでいく警官たちの不幸を解決するために、お前にとっては汚職でありお前以外にとっては互助となるシステムを私たちは現実的なビジネスとして機能させたのだというマッチポンプのプレイヤーにとって、閉鎖され密室と化したマンハッタンを丸ごとブラックボックスとする以外、致命的な自家中毒の夜を乗り切る術がなかったに違いなく、ひとつだけ彼らに誤算があったとするならば、アンドレがあらかじめ幸福を失った男でありかつその奪回への幻想を持ち合わせない男であったことだろう。製作陣の中にルッソ兄弟の名前を見るとき、ある一つの図式に思いが至るのを避けられないわけで、善悪を無効化することで還流するグローバリズムによって肥え太るアメリカに抱く拒絶と憂鬱こそがアベンジャーズを駆動させたことを思う時、ここで描かれたNY市警の醜悪なマッチポンプもまたそのミクロなアメリカとしてあったとも言えて、善悪の彼岸を超えた場所から彼らに鉄槌を下すアンドレの姿には自己犠牲を突き抜けたアベンジャーズの虚無が重なった気がしたし、アフガニスタンからの退役軍人であるレイ・ジャクソン(テイラー・キッチュ)とマイケル・トルヒーヨ(ステファン・ジェームス)をウィンター・ソルジャーになぞらえてみた時、警官殺しのはずの彼らに寄せるアンドレの憎しみ以外の感情にもそれが見て取れた気がしたのだ。アンドレとレイの攻防に巻き込まれて撃たれ横たわるホテルの従業員を一顧だにしない冷やかさが、ここには善と悪も正義と悪徳も存在しない、敵の視えない世界であることを告げていて、単なるエネルギーの交換として描かれる徹底してソリッドな銃撃戦がそれを饒舌に代弁している。『セルピコ』のナイーヴも『プリンス・オブ・シティ』の苦悩ももはや存しない昏睡した殲滅戦の終りなき水平を、すべてに通じる男アディ(アレクサンダー・シディグ)はたった一言 "coolhand" と名づけていた。
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2021年04月15日

ザ・スイッチ/振るか拭くかがちがうだけ

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2人だけになったロッカールームで、獲物を品定めするブッチャーの目つきをミリー(キャスリン・ニュートン)のモーションと受け止めて、ほんの一瞬たじろぎながらも「あら、あなたがそうならわたしはかまわないわよ」とそれまでの高慢ちきなガードを緩めるライラー(メリッサ・コラーゾ)や、いきなりジョシュ(ミシャ・オシェロヴィッチ)にキスをしては黙ってろよとすごむジョックなど、いずれブッチャー/ミリーに血祭りにあげられるとはいえアルファなスクールカーストの抱える憂鬱をさらり匂わせつつ、ジョシュやナイラ(セレステ・オコナー)をもはやマイノリティの揺らぎを一切必要としないキャラクターと据えることで、ミリーを含めた白人こそを寄る辺のないモブとする構図を組み立てた2020年の最新型によるストレスフリーの清々しさが、ある種ミリーの復讐譚ともいえる下剋上の痛快を蹴り上げながら駆け抜けていく。ブッチャー(ヴィンス・ヴォーン)が帰還するラストシークエンスで彼の言う「お前の体に入ってみて、なんでそんなにお前がみじめで弱っちいのかよくわかったよ」というセリフによって、ブッチャー/ミリーが血祭りにあげる相手が必ずしも手当り次第ではなくミリーの天敵リストの上位ランカーであったその理由が、ミリーの潜在意識の為せる業であったことは言うまでもないのに加え「死んだオヤジの思い出にしがみついてるせいでお前はそんなに惨めったらしいんだろ?酔っぱらいの母親のいいなりでお前の人生もどうしようもねえもんだな、まあいいさオレが叩き直してやる」とブッチャーが続けた瞬間、ケスラー家のキッチンではブッチャーを父親とする疑似家族が束の間できあがることとなり、ならばとミリーと母コーラ(ケイティ・フィナーラン)、姉シャーリーン(ダナ・ドロリ)が力を合わせてブッチャーを撃退することで、ケスラー家の女性たちは亡き父親の呪縛をようやく解いてみせたように思ったのだ。と書いてみると何やら再生と自立の光差す物語のように映りはするものの、冒頭から金持ちの坊っちゃん嬢ちゃんが切り刻まれるポップなゴアは、ミリーを虐めることに生きがいを燃やす木工教師(アラン・ラック)とブッチャー/ミリーの対戦における、スピリットはスラッシャーながら肉体は脆弱なままのブッチャー/ミリーが不敵なガッツで教師を血祭りにあげるその姿に喝采を叫ぶ瞬間をピークに、どうせブッチャーのやったこととして処理されるなら、片っ端から漏れなく殺っちまいなと肩入れするそのテンションでスラッシュするリフが最後まで煽りつづける、お仕着せでないラストガールの後ろ姿にはディアブロ・コディの『ジェニファーズ・ボディ』を思い出したりもしたのだ。黄金期がない代わりにシルヴァーとブロンズを鈍色に飾り立てるヴィンス・ヴォーンが、お望みとあらばとにこやかなサンドバッグになって新しいやり方をバックアップしている。
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2021年04月11日

水を抱く女/溺れたいのに

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冒頭、別れを切り出したヨハネス(ヤコブ・マッチェンツ)に「行っちゃだめ、あなたを殺すはめになる」と、脅すというよりは諭すようにウンディーネ(パウラ・ベーア)が告げたオープンカフェのテーブルをその数分後に隣の建物から見下ろすとき、彼女がそこで待つようにと言ったテーブルと一人そこに座るヨハネスはまるごと、先ほどよりも建物の壁際へと何食わぬ顔で移動していて、それではヨハネスの左側、すなわちウンディーネの右側から2人を捉えていたカメラはどこにいたのかと、ワタシの場合ここから位相がずれ始める。そんな風に運命のさざなみに気もそぞろなウンディーネのはずが、ガイドとしてベルリンの歴史をレクチャーする都市開発住宅局の見学者ツアーでは、“ベルリン”がかつて沼地であったことがその都市名の由来であることや、本来は西のはずれにあった王宮が都市エリアの発展に伴いいつしかそこが中心部となったこと、東ドイツ時代の都市計画とその建築物への濃密な共感の記憶などを、そこにいてすべて自分の目で視てきた者の感傷と郷愁の饒舌で繰り広げ、あなたを殺すと囁いたばかりの女が語るベルリンの都市論に、さらに位相がずれていくわけで、この後で起きるクリストフ(フランツ・ロゴフスキ)との出会いの時点で自分がどこにいるのか既に覚束なくなっている。人間の姿を借りた水の精ウンディーネは、クリストフとの出会いによって己の運命に倦んでいる自分を知り、最終的にはその運命に屈したとはいえ、束の間でもそれに抗ってみせた時間を新たな記憶に刻んだことを告げるのがあのラストであったということになるのだろうし、それはベルリンという未来に目を伏せ過去を継ぎ接ぎした歴史都市に憑いて離れることのできないウンディーネの、静かな諦念を揺らす希望のさざ波であったようにも思ったのだ。ウンディーネとクリストフが出会って以降の、水没したベルリンの水中に恋人たちを追うような重力と空間を曖昧に消失した酩酊はえら呼吸をする生き物のそれであった気もして、ヨハネスはそれに魅せられてしかし恐怖したのかもしれないと、最後には少しだけ彼の不憫を感じたりもした。水の中では何でも起こるのに視えない。
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2021年04月05日

ノマドランド/道はだれがつくったんだろう

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ファーン(フランシス・マクドーマンド)はヴァンがパンクしてもタイヤ交換をすることができないし、故障したヴァンの修理費も自分で賄うことができず姉ドリー(メリッサ・スミス)から借りるしかない。にも関わらず彼女は、借りた金の出どころである不動産業者の義兄に、人々に借金をさせて家を購入させることで金を稼ぐ偽善を説くのである。その後でファーンと姉の二人きりの会話から浮かび上がってくるのは、リスクを承知で人生の異なる側面を探らずにはいられず家を飛び出していった若きファーンの、遅れてきたビートニクのような(姉の言葉によればエキセントリックな)生き方は彼女生来のものだということで、必ずしもファーンが経済システムの犠牲者として選択の余地なくノマドの暮らしを送っているわけではないことを監督は誤解なく告げているし、「私はホームレスではない。ハウスレスだ」というもの言いにその矜持を宿らせてもいる。その一方で彼女はVANGUARD(先頭、先陣)と名付けたヴァンの中で、かつての「家」の生活にあった物や者の記憶に想いを馳せることを続けていて、誤ってデヴィッド(デヴィッド・ストラザーン)が昔なじみの皿を割った時には、烈火の如く怒ったあとで接着剤を使い修復すらして物に託した記憶への執着を隠すことをしないのだ。漂泊に誘われ続けるデラシネというには引きずったままの錨が背中に重く、しかしそれを断ち切った時の自分を手の内に実感できないでいるファーンは路上の先達たちとの邂逅を通して、手段でも目的でもないノマドとしての生き方がどこまで自分の本質を参照することが可能か否かを見つめていくこととなる。しかし、ファーンが路上で出会うリンダ・メイやスワンキーたちの駆るRVがドライヴァーと分かちがたくカスタマイズされ、まるでそれ自体が一つの思想であったように、ノマドという処し方を互換性のある概念としてとらえることの危うさは常について回るわけで、例えばビートニクがそうであるように、物質的および精神的な孤絶に自身を剥き出すことで実存と肉体が互いを定義し合う思想の状態であるのか、郊外の都市生活者ドリーが言うような、かつて開拓者たちが荷馬車で西部を目指したアメリカの伝統としてのスタイルを許容するのか、あるいはそうしたオプションすら許されないまま路上にはじき出された人たちの最後の縁(よすが)なのか、そのいずれでもありいずれでもなく混然としたこの物語はあくまでファーンというノマドの誕生を伝えたに過ぎず、次第に透徹していく名優フランシス・マクドーマンドの眼差しと、人間の思惑などお構いなしに荒涼かつ峻烈と横たわるアメリカの大地がつきつける普遍への誘いに目がくらみはするものの、なぜ劇中の彼や彼女らはみな白人なのか、もしもファーンがアフリカ系アメリカ人であったならガソリンスタンドの女性マネージャーは車中泊を見逃したりしただろうか、もしもそうしたさらなる底をファーンが見透かしていたとすれば、かつて最愛の人と過ごした「家」の裏庭からフェンスを通り過ぎ、果てしない砂漠の彼方へと透明な光差す絶望をまとって歩き出すショットで閉じるエンディングが監督によぎることはなかったのだろうかとも考えてしまう。あまりにも完璧なファーンのフェイドアウトに虚を突かれ心を乱した監督が、自身をなだめようとあのエンディングを書き加えたようにワタシにはみえた。
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2021年04月02日

ミナリ/汝、夢を祈るなかれ

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人里離れた山の中、一家を乗せたステーションワゴンはその「家」を目指す。かつて誰かが暮らしたその「家」で夫は次第に自らの野心の虜となり、妻は夫を愛しながらもいつしかその両手は我が子を抱きしめて離さず、息子は新たな「家」と土地の光と影に感応し、一人の老人がその知恵と奥底の力で一家を覆う影を祓うべく刺し違えてわが身を捧げる。とこの物語の連なりを解いてみると、新天地に向かうはずのオープニングからつきまとって離れない不穏と不安と緊張の正体が『シャイニング』の構造であったことに気づかされ、中盤でデヴィッド(アラン・キム)が友達の父親から聞かされる「家」にまつわるある出来事の残留が、「家」の中のある場所に反応する祖母スンジャ(ユン・ヨジョン)とポール(ウィル・パットン)の警戒と恐れによって知らされることとなる。してみると、スンジャの行為によってジェイコブ(スティーヴン・ユァン)があの部屋の隅へと引っ張られることなく清められたのだろうことは言うまでもなく、それはデヴィッドと2人セリを摘む彼の憑き物の落ちたような静謐に見てとれるのだけれど、自分の母親が夫に仕向けた不幸の顛末をその性質としてモニカ(ハン・イェリ)は決定的な負い目に背負ってしまうのではないかという、その先が描かれないことに少し気持はざわついたままなのだけれど、この物語において救うべきは、ジェイコブとデヴィッドという男たちが夢見たアメリカというマチズモの呪いだったのだとすれば、神話は往々にして残酷で寄る辺なくはあるものの、過去を断ち目の前の現在に拘泥し続けたジェイコブがダウジングに譲歩するのも大地の物語への宥和としてあったわけで、神話を持ち得た者にのみ許される言葉と声を手に入れた、孵化場の同僚の言う「それが嫌でここに来た人たち」が、その先で新たな物語を紡ぐ予感を頼りに祝福すべきなのだろう。しかし監督はあの同僚の、淵へと誘うような倦怠を切り捨ててしまっていたわけでもなく、それは、移民という「それが嫌でここに来た人たち」の連なりとして自分が負うべき視線のアウトサイダーの自負とインサイダーの覚悟によっているのだろうし、分断の裂け目から見つめるそのマージナルな視線に晒された移民国家アメリカの、約束の地を失った時代の新たな神話への切実がこの物語を呼び覚ましたようにも思った。役柄としては貧乏くじを引かざるを得なかったモニカ役を、決壊寸前の堤防の緊張と祈りとで演じて内爆するアンサンブルを支えたハン・イェリにこそ讃辞を贈る。
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2021年03月30日

テスラ エジソンが恐れた天才/世界の代わりに泣いている

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モルガン財閥の創始者J・P・モルガン(ドニー・ケシュウォーズ)の娘アン(イヴ・ヒューソン)を語り部とするこのバイオピックが終始いびつで奇妙な傾きを抱えている理由はといえば、これがニコラ・テスラ(イーサン・ホーク)という稀代の天才発明家のなした偉業のプロセスよりは、いかにして彼が自身の不遇を呼び込んだかというその足取りを、なぜならそれは彼が私を愛することをしなかったからなのだというアンの断罪で語っていたからに他ならず、それは例えば、愛を分けた人と行う幸福の追求は発明の才を曇らすのだというテスラのストイックな言い分と、彼がサラ・ベルナール(レベッカ・デイアン)に向ける即物/俗物的な愛とを冷ややかに等分する彼女の視線が、ニコラ・テスラという人の被虐を誘う諸刃の剣としての天才をそのナイーヴへの感傷とともに検証してみせている。世界の法則を解き明かすことで新たな強度と角度を備えた物質を本位とする時代にあっては、法則から物質を生み出すエジソン(カイル・マクラクラン)のある種山師的な目端こそが市場から求められたに違いなく、法則を解き明かし原理を手にすることで恍惚とするテスラの清貧とすらいえる思想が一敗地に塗れるのは当然の成り行きで、そうしたテスラの才と質を見抜いていたからこそ、アンは自分への愛と引き換えに彼のパトロン兼マネージメントを引き受ける野心を隠さなかったように思うのだ。アンのそれが、既にエジソンを取り込んでいた父親に対するある種の反発であったのかは分からないながら、そのエジソンにしてみても終盤のあるシーンで描かれるロマンティストとしての思いがけない一瞬に、この2人のヴィジョニストに対する監督マイケル・アルメレイダの共感というよりは跪いた思慕が伺えたりもして、アンという語り部を立てたのもテスラへの一方的で過剰な美化や憐れみを回避するためと考えればそれなりに得心が行くし、だからこそワタシたちは、テスラの受難を我が事のように言祝ぎながら言葉をつまらせるイーサン・ホークから立ち上る、極上にして鈍色の被虐を心ゆくまで味わえたのではなかったか。モルガンに大見得を切ったプロジェクトが立ち行かなくなり資金を絶たれたテスラが郊外の屋敷にモルガンを訪ね、テニスコートのモルガンにその継続を請うシーン、もはや招き入れられることもないまま植え込みの隙間からフェンス越しに泣き出しそうな子供の目で憑かれた早口で話し続けるも既にモルガンはにべもなく、ようやく振り返ったモルガンの目に入るのは植え込みの向こうに立ち尽くすテスラのズボンのひざ下だけで、もはやお前には言葉も顔も要らぬ、そのひざ下だけで十分だという嗜虐にイーサン・ホークの被虐は打ち震えたままテスラを抱えてどん底に堕ちて行ったにちがいなく、そんな極北の加虐プレイを目にした後では例のカラオケ絶唱とてチルアウトの調べに過ぎなかったのだ。捨て犬の濡れた目で、イーサン・ホークが声を殺して鳴いている、泣いている。
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2021年03月23日

ビバリウム/家を見に行くつもりじゃなかった

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アメリカ的な物資主義の墓場としてのサバービアというよりはシステムの牢獄としてのそれにデカダンスの爛れはなく、そうした囚われが生み出すのは無表情で無感情な人間もどきに過ぎないといういささか牧歌的な比喩と、侵略ものとしては「それ」1人というか1匹というか1体の生育に人間2人を消費して地味にマイナスを重ねていく悠長さが終わらない日常の倦怠と絶望の尻尾をつかまえてはいるものの、その終わらなさの質が完全に変わってしまっている2021年においてはどうにも他人事の手慰みにとどまってしまう点で、互いに運が悪かったというしかないように思えてしまう。人間しぐさを刷り込ませるにおいて、持家の購入を検討するライフステージにある男女を社会的に機能する人間のサンプルとして抽出し托卵させるマーティンたちの目のつけどころはなかなか秀逸で、成長したマーティンがトム(ジェシー・アイゼンバーグ)とジェマ(イモージェン・プーツ)に向ける視線が冷ややかかつ蔑むように変わっていくあたりに、これほど脆弱で卑しい存在に寄生しなければならない我が身への自己嫌悪をほのかに匂わせて、それは人間様の完コピもたらした人間性ゆえの帰結なのかマーティンとしての本質に芽生えたそれなのか、いずれにしろそれを成長の終わりとして、冒頭でトムがそうしたように穴は埋められてマーティンは町に帰っていく。システムを懐疑してそこから「自立」し「自由」であろうとした男女が最期にはそこに呑まれ喰われてしまう物語にあるのは、教訓と言うよりは巧妙なシステムのめぐらされた世界の反映に思え、だからこそルードボーイ賛歌としてのロックステディ「Rudy A Message To You/ルーディたちへのメッセージ」と「007(Shanty Town)/シャンティ・タウン」をわざわざオリジナルヴァージョンでインサートすることでその敗北を痛切にしてみせたわけで、ならばラストの1曲がなぜザ・クラッシュの「Rudie Can't Fail/しくじるなよ、ルーディ」でなかったのか、これがどれほどの画竜であったかはともかくとして点睛を欠いたのは間違いがないように思ったのだ。もちろんXTCには何の恨みもないけども。
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2021年03月17日

ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実/善き人のための戦争

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ウィリアム・H・ピッツェンバーガー(ジェレミー・アーヴァイン)は、なぜデズモンド・トーマス・ドスたりえなかったのか。苛烈な戦場における死力を尽くした自己犠牲にも関わらず、なぜピッツェンバーガーにはドスが授かったアメリカ軍人最高の栄誉である名誉勲章が授与されなかったのか。その始まりとなった1966年4月11日のベトナムのジャングルにおけるピッツェンバーガーをめぐる顛末を、その作戦に参加した部隊の生き残りであるトム・タリー(ウィリアム・ハート)、レイ・モット(エド・ハリス)、ビリー・タコダ(サミュエル・L・ジャクソン)、ジミー・バー(ピーター・フォンダ)、ケッパー(ジョン・サヴェージ)たちのフラッシュバックによって再構成する手際の明らかな停滞、同じシークエンスを角度を変えて繰り返しながら、それが必ずしも羅生門的な事実の乱反射を目的とするわけでもない意図の曖昧さがピッツェンバーガーの英雄的な行動の昂ぶりを抑え込んでしまうのを、デズモンド・ドスの献身を描いた『ハクソー・リッジ』が隠すことをしない愛国の直線的なヒロイズムに対する意図的な回避として捉えるか、あるいはそれから32年後のワシントンで、キャリアへの野心を隠さないペンタゴンの官僚スコット・ハフマン(セバスチャン・スタン)にとっては貧乏くじでしかない再調査の仕事が、戦争を知らない子供たちとしてのハフマンにとっての地獄巡りとなっていくその彷徨がもたらす覚束なさであったからなのか、もしくは単なる不手際か、そのいずれであるにしろベトナム戦争にまつわるすべての記憶と同様に終始歯切れが悪く口ごもったままの語り口が映画の通奏低音となっていく。この映画のミステリーとしての側面を補強する冒頭に述べた謎は、ピッツェンバーガーの使命感あふれる行動と対極をなすある卑俗な理由によっていたことがハフマンの尽力で明らかになり、ピッツェンバーガーの年老いた両親であるフランク(クリストファー・プラマー)とアリス(ダイアン・ラッド)が息子にかわって名誉勲章を受け取ることとなるのだけれど、監督/脚本のトッド・ロビンソンにとってそこに陰謀論的なサスペンスを塗すことが主眼にないのは、あくまで感情のまま粗雑と言ってもいい組み立てにおいて明らかで、それらいくつもの揺らぎやブレが、ベトナムとピッツェンバーガーの記憶に苛まれたまま年老いていく復員軍人たちとの邂逅を通してアメリカの記憶に触れていくホフマンの混乱や困惑と、それが次第にピッツェンバーガーの精神の継承へフォーカスされていく足どりに重なったその一点突破において、この映画は肉を切らせて骨を断つことを可能にしたように思うのだ。そして何より、アメリカ映画を支えてきた錚々たる俳優たちそれぞれの慟哭や告解がそのまま戦争国家アメリカの鎮魂歌となったのは言うまでもなく、図らずも今作が遺作となったピーター・フォンダとクリストファー・プラマーのうち、かつてのキャプテン・アメリカであったピーター・フォンダがシェルショックに苛まれるヴェトナム復員軍人を演じる帰結がその響きをいっそう忘れがたくしている。そんな彼らと比した自らを精神も肉体も小さく着痩せすることで、彼らを看取る存在としてかしずくセバスチャン・スタンの密やかな自在にも目を瞠る。
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2021年03月12日

野球少女/おおきく振りかぶらないで

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契約金の額を提示されたスインの母(ヨム・ヘラン)が、それを支払わなければスインは契約をしてもらえないと勘違いしてうろたえる姿に、持つ者が持たざる者からさらにむしり取る社会の仕組みとそこで痛めつけられてきた彼女が身に付けざるを得なかった、夢なんてものはそれを買える人のためのものだという諦めとそれが導く哀しい処世術の理由が明かされた気がして、それまで憎まれ役としてスインに立ちはだかり続けた母の姿が音をたてて崩れ落ちていく。スインにとって自分がプロ野球選手を目指すのは、自分は他の選手よりうまくプレイできるからその先のステージに進むのだという極めてシンプルな動機によるもので、そこには母がおびえる夢の幻影やガラスの天井を蹴破る理想の達成といった、マウンドとボールの手触りのない感情の入り込む余地はなく、それゆえ周囲の人々はコーチから友人、球団オーナーに至るまでが彼女の揺るがないピュアネスに映った自分を見て、なぜ自分はスインを阻もうとするのだろうという自問自答へと誘われてしまうのではなかろうか。一つだけスインにもたらされた新しい覚醒があったとすれば、速くて強いボールを投げなければいけないという力勝負へのオブセッション、それは常に肉体の優位を誇る男性を相手にすることで宿してしまった呪いでもあるのだろうけれど、そうした野球のマチズモ的側面を利用するプレイへの理解と実践を手に入れたことで、最初は野球部員にも痛打されたストレートで現役のプロ野球選手をピッチャーフライに打ち取ったピッチングでそれを伝えて見せて、題材の割にはそれをメインとしないプレーシーンのクライマックスをそこに凝縮させた監督の意図とその手腕はとてもスマートに思われる。正直に言ってしまえば、スインの体格と投球フォームで130km/h超えのボールを投げられるかといえばいささかの疑問符もついてしまうわけで、いくらCGで投球の軌道を描けるとはいえ、ワンカットで投球がキャッチャーミットにおさまるシーンが少なくほとんどの投球シーンをカットで割っているのもそうした理由があったように考えるのだけれど、それを不満に思わせないのは、マウンドに上がるまでのスインが起きてから寝るまで、おそらくは眠っている間でさえどれだけの視えないボールを様々な相手に投げ続けてきたかワタシたちが知っているからなのだろう。そして何より、そちらに振ろうと思えばいくらでも振ることができたロマンスを踏みとどまることで、スインに吹く孤高の風を捉え続けるそれ自体を目的とする清冽が遠くを見やることを可能にしていて、夜の職員室でひとり仕事を続けるキム先生(イ・チェウン)を目にしたジンテコーチ(イ・ジュニク)が声をかけようとしてためらい帰っていくシーンにすら、ここまで来てすべてを台無しにするつもりかと要らぬサスペンスすら生まれる始末で、だからこそ精一杯の譲歩としてジョンホ(クァク・ドンヨン)とスインの関係を爪保護のマニキュアに託した友情の甘酸っぱいゆらぎがことのほか愛おしかったのだ。スインの背番号が新たな「42」になる未来が待ち遠しい。
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2021年03月07日

あのこは貴族/私はあなたのココロではない

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幸一郎(高良健吾)が2度目に華子(門脇麦)の頭を撫でた時、華子は頭を振ってそれを拒否し、幸一郎はそれに一瞬戸惑いながらも無言のまま部屋の奥に消えていく。この直前、自分には夢なんかない、この家を継ぐように育てられてきてそうするだけだ、と初めて内面らしき欠片を吐露した幸一郎の言葉に、たとえ自分がここではないどこかをおぼろげな夢として思い描いたとしても、それが叶うはずもない現実をおそらく華子は人生で初めて面とむかって突きつけられている。そんな風にして自分より巨大な異物と出会って初めて知る違和感の正体を、そののち華子は美紀(水原希子)の部屋でとらえることとなる。人生とはこちらから手を伸ばして探し求め手に入れるものであったにちがいなく、しかしすべて与えられたもので出来上がった自分のそれは、私の人生というよりは「わたし用」に用意された人生と呼ぶ以外に言葉が見つからず、それを生きるしかないことを幸一郎はとっくに知っていたからこそ、夢などという言葉を持ち出した自分を哀れんだのではなかったか。そうして華子は、自分の結婚が失敗だと分った時にそこから逃げ出す足腰を私は今から鍛えておくのだと、かつて逸子(石橋静河)が自分と美紀の前で言ったことの意味をようやく手に入れることとなるわけで、わたしたちって東京の養分だよねと、健やかに自嘲する美紀と里英(山下リオ)の言葉通り、それを摂り込んで芽を出した華子は囚われの幸一郎を見つめる慈愛の眼差しすらをついには湛えてみせるのだ。おそらく遠くない未来、美紀と里英の立ち上げた会社が企画したイベントでヴァイオリンを演奏する逸子とそれを袖から見守る華子の姿をワタシたちは見ることになるのだろう、そうやって階段を降りてきた2人と昇ってきた2人は踊り場で出会って4人は友だちになるのだろう。そして東京を笑いながら走り抜けていくのだろう。ワタシが好きなのはそんな彼女たちのいる東京だ。というわけで、自分で手に入れたものと与えられたものの象徴としてある「東京」をいまだ東京タワーに託すしかないのは、4人が自分たちだけの東京をまだ発見していないことの顕れということにしておきたい。美紀の部屋でジノリでもロイヤルコペンハーゲンでもウェッジウッドでもないただのマグカップを手にとった華子は、なんかいつまでも経っても捨てられないものってあるよねと美紀に話しかけられながらも、自分の愛着や執着で生活を染めたことのない華子はきょとんとして言葉につまってしまうのだけれど、それに応える美紀の、わかんないかぁという言葉には蔑みや卑下のかけらもなく、それよりは今この場所であなたと話をしているそのことが、なんだか新鮮で楽しくて気持ちが明るいのだという浮き立つような喜びが愛おしく感じられて、なんだかこちらまでおめでとうと祝福したい気持ちでいっぱいになったのだ。原作を読んでいないので監督が何を生かして何を捨てたのかはわからないけれど、これを階級闘争として幸一郎を追い詰めることを目的としなかった監督のたおやかな視線は曇りなく頼もしい。
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2021年03月03日

カポネ/お前はおれを忘れるから

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はだけたローブからオムツをのぞかせて金色のトミーガンで目に入るものを片っ端からなぎはらった後で、健康のため葉巻代わりにくわえさせられたニンジンをペッと吐き棄てたつもりのそれは、情けなく弱々しい軌道でボタッと足もとに落ちていくばかりなのだけれど、この葉巻代わりのニンジンこそがここで描かれるアル・カポネ(トム・ハーディ)であったようにも思え、自身の過去が召喚した、葉巻をニンジンへと変える呪いに喰われていくその姿を、混濁して萎縮し夢と現の境界が決壊していくカポネの意識が映す緩慢な走馬灯として、ジョシュ・トランクはそれを悪意というよりは観察者の眼差しで追いまわしては垂れ流すように描いていく。垂れ流すようにと言ったのは、彷徨するカポネの意識と対比されるべき現実世界のフロリダまでもその足元があちこちで怪しくなっているからで、地の文のつもりで読んでいたらそれもまたカポネの独白であったというその侵食はバイオピックとしての使命を放棄しているように映りはするものの、梅毒に犯された体で小便と糞便を漏らしては襲い来る卒中の危機をかわしつつ過去と現在のあわいで茫漠とした時間を漂うカポネの姿に、濾過された狂気の上澄みがスッと透徹する瞬間を見つけるスリルは確かに存在したように思うのだ。1000万ドルともいわれるカポネの隠し財産の在りかをめぐって、病気の進行によって認知が緩みその隠し場所を思い出せないカポネのふるまいは果たして詐病なのか、それを見極めんとする家族や仲間、そしてFBIの思惑が交錯する神経症的なサスペンスの痕跡が認められはするものの、それをジョシュ・トランクの失敗とするのか、あるいは計算された幻視の目くらましとするかで評価が反転することを考えてみた時、批評家筋の評価からすればあらかたは前者であったのだろうこと、それに加えてジョシュ・トランクの業界的風評がマイナスのバイアスを誘ったことは瞭然であるのだけれど、唸り声以外ほとんどまともなセリフのない破壊されたカポネをトム・ハーディに託して創り上げた己と俳優への確信と、それを解き放った悪魔的な幻視のなめらかに震える催奇性をワタシは断然支持したいと思っている。そのキャリアを干されるどころか、トム・ハーディ、マット・ディロン、カイル・マクラクランといった界隈のスターをキャスティングし、カメラでリンチ組のピーター・デミングまでも招集した製作陣にはローレンス・ベンダーの名前も見てとれて、彼らもまたジョシュ・トランクの才能がスポイルされることを望まなかったのだろうことがうかがえた気もしたのだ。何はともあれ、ほとんどパントマイムといってもいいトム・ハーディの離れ業だけでも観ておくことをお薦めする。
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2021年02月25日

世界で一番しあわせな食堂/料理みたいな恋をした

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寂れた町にふらっと現れたよそ者が、女主人の切り盛りする店とそこに集まる町の人々の表情に明かりを灯すべく立ち上がる、と言ってみればまるで西部劇の幕開けのように思えるのだけれど、ここにはよそ者が打ち倒すべき敵がいないのだ。ワタシたちが思い浮かべる常套であれば敵が出てくるに違いないシーンのことごとくで、よそ者は笑顔と礼儀とで迎えられ、よそ者が町を救うというよりはむしろ町がよそ者を救おうとすることにより生まれる正のスパイラルがよそ者と町の人々の人生を祝福して幸福を高めていくわけで、とはいえそれが確信的な性善説の桃源郷として鼻白むことがないのは、これが30年間をブラジルで過ごしたミカ・カウリスマキが彼の地で目にした分断と負のスパイラルへのカウンターとなる実験にも映ったからで、それは弟アキが近作でついには流血する希望へ踏み込んだ後に筆を置いてしまったことへの呼応に思えたりもした。カウリスマキ兄弟の映画を観ていると他人に優しくすることがいとも簡単に思えてしまうのだけれど、この作品を観てあらためて思うのは、ことさらに優しくしなくても嫌ったり憎んだり遠ざけたりしなければ、そうする理由を探すことさえしなければ人間は自然と繋がるように造られているのだなあというただそれだけであって、この映画をともすれば寓話やおとぎ話と片づけてしまいたくなるのは、防弾ベストのように重ねたそれら理由を手放して丸腰になることへの照れというよりは怖ろしさがそうさせるのだろう気が我ながらしている。チェン(チュー・パック・ホング)とニュニョ(ルーカス・スアン)の主人公親子が中国人ということで、人種や文化が前景となるシーンではそこに始まるクリシェを予想して思わず身構えてしまうのだけれど、こちらのそうした反応を見透かすように監督は、それを衝突や軋轢ではなく新しい出会いへと軽やかに筆を走らせてみせて、その度にワタシは自分が益体もない知ったような顔の分断に毒されていることを知らされてどぎまぎしてしまうのだけれど、それを見透かしでもするようにチェンとシルカ(アンナ=マイヤ・トゥオッコ)やヴィルブラ(ヴェサ=マッティ・ロイリ)、ロンパイネン(カリ・ヴァーナネン)の交流とそこから生まれる更新がだんだんとワタシの毒を抜いていくわけで、冒頭でこれが西部劇だとしたら倒すべき敵がいないのだと書いたその敵は、何てことはない、実はワタシであったのだ。おれはお前の分断を知っているとミカ・カウリスマキは言っていて、しかし、気づいたならそれでいいとも言ってくれていて、このロハスでスローフードな邦題も、お前らにしちゃなかなか冴えたブラックジョークじゃないかと言ってくれるにちがいないと思ったりもした。
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2021年02月19日

すばらしき世界/空を見たかい

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※結末に触れています。

前科十犯、人生のおよそ半分ともいえる二十八年を刑務所で過ごしそこを生き抜いてきた男が、刑務所を出所してから一年もたたずして、撃たれたのでも斬られたのでも刺されたのでもなく、アパートの畳の上でひとり死んでしまうのだ。あの日、沸騰し逆流する血を脈打つ脳や心臓に抑えつけながら絞り出した「……似てますね」というその一言が、三上(役所広司)の時限爆弾にスイッチを入れたことをワタシたちは知っている。もし三上があの瞬間、見つめた裁ちばさみに誘われるがまま手に取っていたなら、その右手にコスモスではなく裁ちばさみを握りしめていたなら、三上の時限爆弾は解除されてあの夜を生きながらえただろうことを知っている。そして残りの人生をどこか刑務所の中で積み重ねただろうことを知っている。少なくともあの嵐の夜に、雨風が吹き込む畳の上で目を開いたままどこかへ消えてしまわなかっただろうことを知っている。三上はワタシたちに、ワタシたちの分身の津乃田(仲野太賀)や庄司勉(橋爪功)、庄司敦子(梶芽衣子)や松本良介(六角精児)に言われたとおり、全てに真っすぐ突っ込んでいくことをやめていい加減に、必要なこと以外は切り捨てて耳をふさいで逃げ、人生を損得勘定で生きようとしたあげく死んでしまったことを知っている。吉澤(長澤まさみ)が三上に言う、不寛容な社会にあって私たちははみ出た人間を許すことができずにいて、しかしそれを知りながら排除されるのが怖くて声を上げることをしないのだという言葉は、彼女がビジネスと打算の象徴のように描かれることもあり三上を丸め込む機嫌取りの甘言としてその場では響かせるのだけれど、結局は彼女の指摘した“ワタシたち”が三上を殺してしまったことをあのラストショットが告げていたように思うわけで、三上を自分たちの考える真人間へとけしかけた人たちが立ち尽くし座り込むアパート前のショットから上へ上へと向かうカメラが虚空を捉えた瞬間、そこに立ちのぼる「すばらしき世界」のタイトルにこめられた監督の皮肉を超えた悪意はこれまでになく直截かつ酷薄で、もはやこの世界にあっては自爆して立ち尽くす人間のセンチメントに普遍を彩ることは叶わないという自罰の徴にすら思えてしまったのだ。だからこそ、三上に対して彼の何者かを抜きに人間の言葉を話しかけたのがいったい誰だったか、リリーさん(桜木梨奈)、下稲葉マス子(キムラ緑子)、阿部(田村健太郎)、そして西尾久美子(安田成美)というそれぞれに抜き差しならない事情でレールを外れた人たちにしのばせたセリフとまなざしに、監督の置いた軸足の角度と重心が映し出されていたことは言うまでもないだろう。どのシーンにおいても三上を最後まで見届けて念を押し、余白でふっと切り上げて空気を抜かないショットは彼が囚われた世界の閉塞であった気もしたし、幾度となくインサートされる空のショットは放置され三上の視線と絡みつくことのないまま、マス子のいった娑婆の空はラストでようやく三上のその上へとやってきたのではなかったか。最初は遠くに霞む灰色のスカイツリーから、逃げるように福岡へ飛ぶ夜行便から見た東京タワーの他人事のようなきらめきをはさんで、最期の夜に久美子と繋がった電話で「死ぬわけにはいかんけん」と話す視線の先でやわらかく灯りのともったスカイツリーは、旭川でも福岡でもないその真ん中の東京に生きることを受け入れた三上に宿ったはかなくも確かな希望の光だったのだろうし、三上の脳裏を最期によぎったのが久美子の声とあの明かりであってくれたらと祈りながら、あんたみたいのが一番何も救わないのよ、と吉澤が津乃田を切り捨てた啖呵を思い出していた。
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2021年02月15日

私は確信する/それでも彼はやってない

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実在しないトミー・サンダースという警官を作り出して散らばった断片を彼に投影することで、あの日の出来事を串刺しにしてピーター・バーグが高々と掲げたのが『パトリオット・デイ』であったように、今作の主人公ノラ(マリナ・フォイス)も監督の創造物として生を受け、その意を受けて実話のストーリーを撹乱し続ける。という成り立ちをワタシは鑑賞後に知ったのだけれど、ある女性が失踪しその夫と愛人がその関与を疑われた事件という冒頭のテロップだけを手持ちに臨んだ時、これがある局面の打開に決定的な役割を果たしたノラという女性の物語であることを露とも疑うはずもないまま彼女に併走したわけで、後になって彼女が実在しない存在であることを知らされてみれば、では監督は現実の記録/記憶のどの部分を新たに駆動すべく彼女を手足として使い続けたのか少々困惑してしまったのだ。これが完全なフィクションであれば、失踪した女性の夫ジャック(ローラン・リュカ)の無実を信じ彼を冤罪から救うべく奔走するノラが、その無実を立証する新たな証拠を精査するうちジャックの関与をほのめかす事実にたどりついてしまい、その限りなく黒に近い灰色に法律のアマチュアである彼女はどう立ち向かうのか、次第に真実と現実との挟間に堕ちていくその姿を司法制度の欠陥に重ねることでジャックと彼女の地獄を描くことが可能だったように思うのだけれど、実話に基づいた今作では“失踪した女性の夫ジャックの無実を信じ彼を冤罪から救うべく奔走するノラが、その無実を立証する新たな証拠を精査する”ことで“司法制度の欠陥”めいたやり口を再考証する駒として彼女が投入された表向きしかワタシには映らないわけで、ならばずいぶんと回りくどいことをしたものだなあとけっこうな肩透かしを食った気がしてしまったのだ。ワタシが知らないだけでジャックに関する限り元々が冤罪の色濃いケースであって、それを覆す新たな傍証および解釈の提示を監督が狙ったのであれば、特にジャックと縁やゆかりがあるわけでもないノラの、いささか首をかしげるほど一方的な彼への肩入れも理解はするのだけれど、あらためてフィクショナルなキャラクターとしてのノラを追ってみた時、シングルマザーの彼女が仕事を失ってまで通話記録の解析にのめり込むその姿はあくまでジャックの無実を信じるがゆえなのか、もしくは真実という麻薬に溺れるジャンキーとして堕ちていく地獄の日々であったのか、彼女の暴走を見かねてデュポン=モレッティ弁護士(オリヴィエ・グルメ)が諭す「法廷のプロセスは検察と弁護側それぞれの仮説のどちらを選ぶかという手続きに過ぎない」という言葉を思い出してみれば、乱反射する真実の欠片に魅入られて一人息子との生活までも危険にさらしていくノラの姿をある陰謀論者の誕生と重ねてみることも可能ではなかったかと、ワタシがノラに見たのはむしろパラノイアの軌跡だったように思ってしまうのだ。しかしそんな風にワタシの切った舵で泥舟は桟橋に激突することも浅瀬に乗り上げることもなく、気がつけば静かに横づけされた泥舟からワタシ以外の誰もが泣き笑いで抱き合いながら下船しては、みな粛々と家に帰っていくばかりなのであった。惹句のヒチコックは、ジャックがやけに真面目くさった顔で『バルカン超特急』と答えるシーン以外、清々しいほどにただの惹句でありつづけ、しかしそれくらい許してやらなければ他に何を言いたてることができたのか、その危うい丸腰を知っているワタシは別段腹を立てることはしないのである。せめてフィンチャーのように、通話記録を空間にタイプするくらいのケレンがあったらなあとは思うけど。
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2021年02月13日

わたしの叔父さん/生きているからこわいんだ

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クリス(イェデ・スナゴー)の起床から始まるオープニングからしばらくの間、彼女と叔父さん(ペーダ・ハンセン・テューセン)がふたりで暮らす日々の仕組みがサイレント映画のように描かれていて、それはふたりに会話がないままに成立する生活とその日々であることの説明でもあるのだけれど、儀式と言うには穏やかでやわらかいそれは、ふたりの以心伝心だけが紡ぐことのできるルーティンであり、14歳で母を亡くし高校生の時に兄を失い、その後を追った父の自殺によってひとり残されたクリスを引き取った叔父さんが、彼女とふたり時間をかけて作り上げたシェルターのような、時間と空間のグリッドでもあったのだろう。それは、ここにいる限りこれを過ごしている限りお前は大丈夫だ、わたしは大丈夫なのだという密やかな祈りのような生活でもあって、これがいつまで続くのか、いつまで続けなければいけないのか、それが永遠であったとしてもかまわないと思いつつ、すべてに避けられない終りがあるということは、これが様々な終りによって始まった生活であることを忘れる由もないふたりに常についてまわる呪いであり、それに向かう祈りの原理主義者としてことさらにクリスは跪くことを続けていて、それがこの物語を支配する静謐と仄かな不穏を連れ出している。それでもクリスは祈りと呪いのバランスを変えるべくわずかながら変化を目指すのだけれど、それはあくまで前述したグリッドの範囲を拡げる試みでしかなく、健康的(と言ってもそれは彼女の孤絶の外にいるワタシたちにとってだけれど)なやり方で彼女をグリッドの外へ連れ出そうとする獣医師ヨハネス(オーレ・キャスパセン)や合唱隊の若者マイク(トゥーエ・フリスク・ピーダセン)に対し、結局はNOと言ってグリッドの中にいることを選んでしまうのだ。ではその間、叔父さんはどこを向いていたのかといえば、わたしたちには死ではない終わりがあること、そしてその終わりがクリスにとっての始まりになることを、彼女を否定も支配もせず日々のあわいに沁み込ませるように告げていて、彼女が選んだ考えや結果を淡々と受け入れながらほんの少しずつ光の差す方へ向きを変えていく、自然を相手に生きてきた農夫の手つきと足どりがクリスを鎮めていくわけで、同じショットを繰り返しながらそこに映る微細な異なりをふたりの息遣いに変えていく語り口は監督がその影響を公言する小津安二郎への敬愛でもあるのだろう。ただ、そうした叔父さんの試みはあるアクシデントによって灰燼に帰してしまうのだけれど、ラストでは小さな終わりを告げるある出来事が食卓のふたりに訪れて、果たしてそれが天啓となるのか否か、ラストショットで初めてみせる監督の直接的な介入がもう一度クリスにチャンスを用意した気がして、もう頃合いだろう、幸多からんことを、そしてマイクと仲直りをと思わず祈ってしまったのだった。あんな風な拒絶のしかたはいくら意地悪な小津でも思いつかなかったに違いないから。
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2021年02月08日

ダニエル/地獄で会えたぜ、ベイビー

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ルーク(マイルズ・ロビンス)が乱射犯シグペンの実家を訪ねてある確証を手に入れることでオルター・エゴとしてのダニエル(パトリック・シュワルツェネッガー)をなぞるラインをあっさりと消し去り、躊躇なく退路を断ったその先で待ち構える地獄の泥仕合においてSpectreVision謹製のサインがほくそ笑むように輝き始める。直近でいえば『ジョナサン−ふたつの顔の男−』が抑制の利いたメランコリーで畳んでみせた風呂敷の折り目にくらべてみた時、せっかく広げたそれを後生大事に畳むくらいなら、いっそそいつを体に巻きつけて血と涙と涎の染みをつけてやるぜ!と吠えまくる哄笑があるかなきかの地平を突破していくわけで、それなりの巧妙さで配置してきた母クレア(メアリー・スチュアート・マスターソン)や精神科医ブラウン(チュク・イウジ)の神経症的な伏線を一気に台無しにしたあげくチャンバラからの肉弾戦でケリをつける最終決戦に至っては、この手のジャンルであれば闇を祓って光を抱く役目のキャシー(サッシャ・レイン)すらが意味ありげで意味なしげというそれはそれで斜め上に筋を通す職人のこだわりで、たとえばスキゾフレニアを実効的に解体する戦略としては『ジェイコブズ・ラダー』の縁遠い嫡子といってもいいだろうし、実際にいくつかのヴィジョンにその自覚としての相似がうかがえもする。中盤での全方位的なツイストもあって、イマジナリー・フレンド/オルター・エゴの設定およびそこから派生するルールが縛るはずのサスペンスが無効化されてしまうせいでいきなり道端に投げ出されはするものの、この映画が本領を発揮するのはその先の赤黒く沸き立つ乱戦にほかならず、はたして夜中に起きたあれは悪夢だったのか現実だったのか、できれば夢であってくれとうつつのままに目を覚ましたルークの意識を追うカメラがパンして部屋の中を映していく一連に「へレディタリー」のあの朝を思い浮かべたし、Clarkの神経症的なミニマルとクラシカルなケレンが躁鬱的に乱反射するエレクトロニカに追い立てられるように、前半でせっかくしつらえたニューロティックなサイコスリラーの意匠をひっくり返して台無しにしながら逃げ騒ぐインシディアスな終盤は一粒で二度おいしく思えたりもしたのだった。そしてなにより、爬虫類の偏執で低温火傷を誘うパトリック・シュワルツェネッガーが喝采すべきこの映画のでたらめを最後までたった一人踊るように支えていて、あれほど凶悪な地獄の魂をなぜああまでたやすくドールハウスに閉じ込めることができたのか、なぜそのまま大人しく囚われていたのか、それなりに決定的なレベルのでたらめを看過したのも酷薄にチロチロとねめつける彼の青白い眼差しに心を奪われていたからに違いなく、ついぞ父親が持ち得なかった2世ならではの純粋培養されてくねるような色艶を抽出した製作陣の慧眼を讃えるに全くもってやぶさかではないのだった。
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2021年02月03日

花束みたいな恋をした/東京都下ラブストーリー

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「僕の目標は絹ちゃんと過ごすこの日々の現状維持です」非の打ちどころのない100%の祝福をうけて出会った麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が育む物語は、2人が同棲を始めたアパートのベランダで麦がそう告げた瞬間、現状維持のためにはお金が要る、しかしお金を得るためには現状維持を一時保留しなければならない、というキャッチ=22に麦と絹は、なかでも麦がことさら囚われていき、ブラック・ロジスティック、幻冬舎、フリーランス買い叩き、パズドラ、コリドー街、ITヤンキー、圧迫面接という傍若無人な定量化のアルゴリズムが2015〜2020年安倍政権爛熟の季節に重なって、いつしか2人は互いを部屋の隅へと追いやっていく。両親の広告代理店的なメンタリティを嫌悪する絹は、そうしたアルゴリズムへの警戒心が植えつけられているからこそ麦の言う現状維持に執着するのだけれど、田舎の旧弊な価値感と都会のスノビズムとのそれぞれから遠ざかろうと接近したポップカルチャーの場で交錯した2人に内在する眼差しが次第に遠ざかっていくのは、あらかじめ決められた道行きでもあったのだろうし、2人が口々に答え合わせする固有名詞ですらが界隈から一歩も足を踏み外さないアルゴリズムに依っていることもうかがえた気もして、かといってその功罪を問うことをすべきかといえばそれこそがこの時代の関係であったという証なればこそ、監督と脚本家は2人の育てた物語に健康的といっていい死を用意した気もした。そしてこの2人の物語に死をもたらすのが不治の病でも恋のさやあてでもない世界を規定するシステムそのものであったこと、そしてそれが、まずはお金の問題という姿をまとって2人の前に現れるのを新たなリアルの形とした点にうなずきはするものの、では月5万円の仕送りがなくならなければ現状維持は可能だったのか、そもそも学生が同棲を始めるにあたり、引っ越しや賃貸契約、家財道具の買い入れといった費用はどこからひねり出されたのか、何しろそれらが、麦の考える“生きることの責任”が世帯主=家父長的な意識へと直結して2人の物語を殺すことになるパラダイムシフトの手始めであっただけに「お金」の収支をシビアに詰めるお花畑の裏側も必要だったように思え、気分の醸成で寸止めしてしまう限り、一人暮らしをして曲がりなりにも生活の様々なサイズを知る麦とずっと自宅住まいだった絹という線引きがされてしまう危惧とすれすれだったようにも思えてしまう。カラフルで瑞々しいショットや主演2人のきらめきが覆い隠してはいるものの、2人が口にした様々な固有名詞たちが繰り出した世界に対するカウンターが青春の麻疹のような気分に消費されてしまうこと、変わってしまった麦に絹が無理やり“観せる”のがカウリスマキの『希望のかなた』であったというその視点の密かな傲慢など、悪意とは言わないまでも2人とその世代をどこかしら見切った感覚は、この物語をうっすらとした感傷とペシミズムでうっちゃってしまえるワタシも含めた世代―おそらくそれらは坂元裕二の射程にないのだろうけれど―ならともかく、麦と絹を等身大に映してしまう世代からしたら、刺されたあとでふと我に返り腹が立ったりはしないのだろうかと少しだけお節介な気持ちになったりもした。文庫本はちゃんと啓文堂のカヴァーでした。
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2021年01月29日

KCIA 南山の部長たち/シルエットや影が革命を見ている

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パク大統領(イ・ソンミン)が何かを催促するように左手を宙で軽く揺らす。一瞬ののち、キム・ギュピョン大韓民国中央情報部部長(イ・ビョンホン)はそれが煙草を催促していることに気づき、部屋の向こうのテーブルにおかれた煙草を取りに歩いたあとで、大統領に背を向けたまま思わず煙草を箱ごと握りつぶしてしまう。おそらくそれはキム部長が最初に気づいた自分の揺れだったのだろう。煙草の火を点けるのであれば、それは大統領が自分の目の前にいるということになるけれど、大統領は遠くのあちらに行って煙草を取ってこいという。いつからか大統領は足が動かない人になってしまった。足が動かない人は心も動かなくなる。心が動かない人はまわりの動きが見えなくなっていく。だからそういう人はクァク警護室長(パク・ヨンガク)のように心の動かない人間しか見えなくなってしまうのだ。ここから先、遠ざかる大統領を我が身を切り刻む血糊で貼り付けるキム部長を、その代償として精神と肉体の軋みと乖離がむしばみ始め、様々な判断が最初はミリ単位で遅れ出す。実際のところ狂気の渦に捉えられているのはパク大統領でありクァク警護室長であり彼らがしつらえたシステムなのだけれど、その渦にあっては歯をくいしばり流れに抗うキム部長にこそうっすらとパラノイアが上気していくようにも思え、この青瓦台においては狂っていないということが狂っているということなのだという裏返った悪夢の中で、大統領を狂気の渦から救い出さねばならないという使命がキム部長のオブセッションとして脈打ち始め、撫でつけた髪の乱れることが次第に目立っていく。原作のノンフィクションを読んでいないのでそれぞれの人物へのスタンスがどれほど脚色されているのかつかめないのだけれど、ここではキム・ギュピョン=キム・ジェギュへの寄せ方として正気の人であり続けたからこそ境界を越えるしかなかった人と描いたように思え、そうした彼の蒼ざめた静脈の疼きに耳を澄ませるために、徹底して神経症的にソリッドな画作りを監督は徹頭徹尾必要としたのだろう。実録ものとはいえ歴史の見当識がキム部長の時間の中へと溶けていく極私的な酩酊は、青瓦台の権力闘争の中で彼だけがあの日からずっと革命闘争の中にあったことを記すための語り口であったのだろうし、だからこそ革命の達成ではない完全な終焉としてあの人物の視点によるラストで閉じなければならなかったのだろう。夕暮れにひとり途方に暮れる子供のようなキム部長を、泳がんとする目元をきっと締め上げ、わななかんとする口元を食いしばり、その軋みで正気を失わないよう背筋をぎりぎりと伸ばし、しかし心の内の半べそを透かすように創り上げたイ・ビョンホンがほとんど神がかっていて、返り血をあびて走り去る車中、靴下のままの足を見ておれの靴はどこだ、おれの靴はどうしたとうろたえるその姿は、上履きを隠されうろたえて涙がこみあげ始める子供にしか見えなかったのだ。
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2021年01月26日

パリの調香師 しあわせの香りを探して/友達以上友達未満

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折返しも過ぎて映画の体温にもなじんだあたり、いくつかの不発もあってジャンヌの誕生パーティーを中座したアンヌ(エマニュエル・ドゥヴォス)が突然ギヨーム(グレゴリー・モンテル)に「ホテルでも行く?」と声をかけ、はぁ?とギョームが振り返った瞬間、ワタシをふくんだ満員の客席は、いやここまできてそれはちょっといくらなんでもありえないだろう勘弁してくれと体温が引いたのか上がったのか、いずれにしろその直後にアンヌが「冗談に決まってるじゃないの、ほら、私が冗談を言っても誰も笑ってくれないのよ」と自らの朴念仁をさらっと自虐してみせた瞬間、小さな安堵の吐息がそれぞれのマスクをくぐった気がしたのだ。それくらい、ここに至るアンヌとギョームの関係には愛もセックスも、そもそもがそれを促す性差の手続きが清々しいほどに取り除かれていて、かつて栄光を手にした調香師と娘のために生活を立て直す必要に迫られた運転手が、互いの居場所からことさら上ったり下りたりすることなく、それぞれが自分の抱える問題を相手に委ねはじめる信頼と尊重の自然で親密な歩みよりがハイでもローでもなくコンテクストの鎖を静かで穏やかに解いていて、その神経戦こそがドラマなのだ!という昨今のトレンドへの成熟したカウンターにも思えたのだ。だからこそ、浮世離れしたアンヌと浮世をかき分けていくギョームが互いをあげつらい否定するのではなく、自分の知らないことに対して好奇心で心を開き、それを知る相手に敬意と新鮮なまなざしを抱いていく足取りは綿密かつ誠実に描かれねばならなかったし、そうやって生まれる互いへの慈しみがなじみのラブストーリーではなく新しい扉を開けていくライフストーリーを語り出す眼差しが、斜に構えるばかりの訳知り顔に思いがけず清冽に沁みたのだ。無償の血の証としての友情ではない、互いの人格を識ってそこに宿る灯りを好ましく感じ、それが消えてしまわないように思いやる気持ちをそう呼べるならこれは紛れもなくアンヌとギョームの友情の物語であって、コンテクストの鎧をまとって斬りつけ合うドラマの全盛において、この一点突破にはささやかなラディカルを感じたりもした。中盤までかなり念入りに描かれていた、ギョームにとっての幸福は娘の幸福と共にあるという彼のモチベーションはどこへ行き着いたのだろうかと思ったところで、そんな大事なことを忘れるはずがないだろうとばかり差し出されるラストにも爽快にしてやられる。ギョームと関わることで自分の偏りに苛立ったり開き直ったり悲しくなったりしながら、しかしそれに向き合うことを選んだジャンヌの密やかな冒険と、立ち止まって嗅ぐ香りに世界と自分の成り立ちがあることを知るギョームの穏やかな覚醒とを新しい色で塗り替えていく、主演2人のそぞろ歩きするアンサンブルに今よりは正気だった世界の記憶が香った気がして、どこまでワタシたちはあそこに帰れるのかと少しだけ気持ちが泳いだりもした。
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2021年01月18日

聖なる犯罪者/イエスはわかってくれない

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裁くことしか知らぬと思われたこの世界に、赦すことそれ自体を目的とするシステムを見つけたダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は一も二もなくそれに陶酔したのだろう。ダニエルのキリストへの傾倒が、必ずしも更生や改心によっているわけではないことはあらかじめオープニングで告げられていて、彼にとっての宗教はどちらかといえばドラッグに近いチャンネルとして開かれたようにワタシにはうかがえる。したがって、ダニエルを弟の仇としてつけ狙うボーヌスの挑発や暴力に少しだけ悲しそうな顔をして耐えてみせるその姿も贖罪というマゾヒズムの顕れに映らないこともなく、この時点でそれをダニエルに潜む光と影の二面性とみなすほどにはワタシは彼の光を信用してはいない。しかし、一度(少年院に入るほどの)罪を犯したものは神学校に入ることを許されないという規則によって、神父になり神の代理として赦すという行為を極めたいと願うダニエルの夢もしくは企みが打ち砕かれ脱線を始めた瞬間、ダニエルの車輪は別の線路を捉えてしまうこととなる。ここから先、ダニエルは神の恩寵ともいうべき様々な兆しをストリートワイズによって我がものとしては(そもそも司祭服をいつどこで手に入れたのか)、赦すという行為に手探りで耽溺し始めるも、ことキリストとそのシステムについてはいまだ原理の運用しか知らぬダニエルは野卑とすらいえるピュアネスで一点突破を図ることにより、彼を司祭とあおぐ村の閉塞と倦怠を少しずつ静かに揺らし始めていく。かつて村で起きたある悲劇によって村人から犯罪者のごとく苛まれる未亡人エヴァ(バーバラ・クルザイ)に寄せるダニエルの感情は、彼女を自分と同様に赦すことを許さない者たちに迫害される存在と見てとったのか、あるいはキリストをフルスペックで運用することの昂揚に衝き動かされたのか、いずれにしろここでダニエルがみせる、赦すことを許さない者を“赦さない”という攻撃的で破壊的なキリストのトレースによるショック療法がエヴァを苛む者たちを瓦解させ、最終的に彼女を救済してしまうのだ。服を脱ぎ刺青の入った上半身を会衆に晒して両手を掲げ自分の正体を明かすダニエルの姿は祭壇画の磔刑図に描かれたイエスのようでもあり、そうやって20歳の人殺しで偽司祭のダニエルはエヴァを苛む村人の罪を自らに負わせることで、赦すことを許さない者をも“赦す”という達成までも成し遂げてしまうのだ。しかしダニエルはエヴァが救済を獲得した瞬間を知ることもなく少年院へと連れ戻され、かつては頬を差し出すがごとくであったボーヌスを返り討ちにして血祭りにあげてしまうわけで、ラストのカッと見開いた目でこちらを見据える血まみれのアントワーヌショットに、誰も俺を赦さないのなら俺が俺を赦すことを受け入れろ、という聞こえぬ絶叫がこだましたようにも思え、かつて家業の大工を継がなかったある男のように、木工所の仕事を足蹴にしたダニエルがこの先の未来で何を語り何を説き、あげく何を従えることになったとしても、神の代理が投げ与える贖罪で生き延びるだけの世界はそれを受けいれるしかないことを覚悟しておくべきなのだろう。そしてワタシも、俗を喰らい聖をひり出す野生動物の無垢と狡猾をクリストファー・ウォーケンの眼で投射するバルトシュ・ビィエレニアを追い続けるしかなくなった。
posted by orr_dg at 21:13 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする