2016年12月02日

ブルーに生まれついて/愛より高くて遠い音

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チェット・ベイカー(イーサン・ホーク)とジェーン(カルメン・イジョゴ)が互いを引き寄せるシーンは、明らかにウィリアム・クラクストンの撮ったチェットとハリマのポートレイトをモチーフにしているにも関わらず、ではなぜ彼女はハリマではなくチェットの人生には実在しなかったジェーンという女性に置き換えられていたのか。それはおそらく、チェットの人生にはジェーンに象徴される、彼の母を更新する母性としての女性が決定的に欠落していたことが彼にとっての不幸のいくばくかであったことを告げているように思え、ハリマではなくジェーンという存在を書き加えなければこのチェット・ベイカーのパラレルなファンタジーは成立し得ないということになるのだろう。そうやって虚構を入り乱れさせてまで監督が語りたかった物語というのは、ジャズという剥き出しの随意が直結した(と幻想される)音楽においてチェットのトランペットと歌声はなぜその随意を欠きながらも純粋な空気の震えとしてこうまで世界が忘れがたく成立しうるのかという疑問、それを口さがなく言い換えてみた時の、結局彼は「天からの才能を授かっただけの、単なるろくでなし」に過ぎないのだというジャッジへの、彼が内在するブルーズを描きその回答とすることで繰り広げる反論であったように思えるわけで、バードランドの楽屋において彼のデーモンとしてのワンショットを胸が張り裂けそうに哀しくてやりきれない言い訳として描いてみせたことに、それは明らかすぎるほど明らかだったのではなかろうか。チェットにあの誘惑を断ち切れるはずなどないことを嫌というほど知っていながら、あえてそのサスペンスを映画のクライマックスにあてがった監督の、チェットはジャンキーというよりは精神のダイバーだったのだとすら言いたげな口ぶりにはもはや降参するしかない。そういった監督のどこか遠い目をした狂気に共震するかのように、青白い炎で焼きを入れたメランコリーで世界を辻斬りしていくイーサン・ホークは卑屈にもこれだけ甘美な角度があることを諭すかのようでもあり、こちらをじっと見つめ小さく笑いながら深淵に沈んでいく気高さはまさに独壇場であったとしか言いようがない。いつどんなタイミングでかはわからないけれど、トム・ウェイツを演るのもイーサン・ホークであるのだろうことも確信した。
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2016年11月30日

シークレット・オブ・モンスター/ライオンは寝ていた

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※ネタバレ気味なので未見の方スルー推奨

プレスコット(トム・スウィート)がおねしょした夜に見た夢が予知夢めいた啓示であったことは最後のシークエンスではっきりと告げられており、ということは既にその時点でプレスコットの未来は決定されていたことになるのだけれど、それにしてはセックスのオブセッションめいた環境決定論的な散らかしが少々常套に過ぎないかなあと思っていたところが、大人になったプレスコットのヘルムート・バーガーめいた怜悧な美貌など待ちかまえていてみればまさかの!によって、すなわちプレスコットはそういう子供であったのだと告げられた瞬間、呪われたセックスの子として父と母の爛れに中指を立て「もう祈りなんか信じない!」と絶叫するプレスコットの反逆がきりもみしながら腑に落ちたのである。そうしてみると「或る独裁者の幼年時代(THE CHILDHOOD OF A LEADER)」という突き放したような原題の方が好みではあるにしろ、ある一面のケレンを押し出した邦題もあながち的はずれというわけでもないわけで、とは言え、例えばロウソクの炎が燃え移りそうで燃え移らないシーンの、一度動き出した歴史は善にしろ悪にしろ見て見ぬふりをするものだというメタファーの饒舌は、前述したとりつく島のないオチへのアリバイめいたデコレーションにも思えてしまい、到達した飛距離のわりにその快哉を叫びづらいのはその測定方法のややこしさゆえである気がしないでもないのである。自分が匂わせたい香りがきちんと客席に届いているのだろうかという心配性と貧乏性が余白にまで香りをつけてしまっているように思えてしまい、監督の敬愛するミヒャエル・ハネケの完璧にデザインされた余白と、それによってワタシたち観客が逃げ場なく支配下におかれる被虐を愉しむには、この監督は切羽詰まり過ぎているのではなかろうか。ただ、ショットの深度や角度は相当デリケートに計算されて達成をみているので、スコット・ウォーカーの呪術的と言ってもいいエクスペリメンタルなオーケストレイションとの交歓を映画館のサウンドシステムで体験するだけでも確実に料金の元はとれるわけで、この映画が「OK!始めよう」というスコット・ウォーカーのかけ声から始まることを考えれば、むしろそうした愉しみ方がもっと喧伝されて然るべきだとすら思うのだ。それにしても、いったい何かの煮込みなのか何なのか、あの顔色の悪い料理は餌としか言いようのない絶望を漂わせて、プレスコットがぐれるのもやむなしと思える逸品に見えた。母(ベレニス・ベジョ)の理不尽な癇癪で馘になった家政婦モナの、ご一家を破滅させることに残りの人生を懸けます、という鈍器のような捨てゼリフをいつか機会があれば使ってみようと心に決めた。
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2016年11月26日

この世界の片隅に/わたしの名前を告げる声

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原作未読。お兄ちゃんの代わりに海苔を納めるおつかいに出たすず(能年玲奈)が、船に乗っている間下ろしていた風呂敷の荷物を背中に背負う船着き場の場面、別にこのシーンのないまま石段を上がって行く後ろ姿につないでしまったところで何の問題もないのだけれど、8歳の子供が大きな荷物を一人で背負い直すにあたり、石垣に荷物を自分の背中の高さに押しつけておいて、その力を緩めずに自分の背中をあてがいながら胸の前でしっかりと風呂敷の端を結わえてみせわけで、この一連から『風立ちぬ』の二郎が製図台に向かうシーンの異化作用など思い出して、こちらの胸ぐらをぐいとつかまれて引き寄せられた気分になる。と同時に、すずの仕草は非常に危なっかしいながら大方の期待に反して失敗することなく一人で荷物を背負ってみせるわけで、そんな風にただでさえ危なっかしく見えるすずが、なお危なっかしくならざるを得ない時代をかいくぐるには感情も体も何しろ動かさねばならず、何よりその違和をコントロールするアニメーションの生みだすサスペンスにおいて快感と愉悦をおぼえたのである。しかしその紙一重の寸止めはいつしかすずの頬をかすめることになるわけで、精神と肉体の一部を失ってなお、でも生きていて良かったというあきらめにこちらも染まりかけた瞬間、良かった?良かったってどういうことだよ、良いことっていうのは好きな絵を描いて家のみんなが笑っていれば過ぎていく日々のことだろう、そうやって良いことを奪っていくのは悪い何かでしかないし、いったいこのことの何が良かったのか。すずは直ちにその正体を戦争と名付けることはしないのだけれど、自分や大切な人たちを傷つけ破壊しようとする感情や意思の存在を現実として知ることで、それまですべてを肯定して生きてきたすずが否定を宿してしまう悲劇と絶望を戦争のミクロとして描いているのは間違いないにしろ、今となっては戦争や戦時が正気でないことなど既に承知の我々にとって、悪を悪と吐き捨ててひととき気を晴らすよりは蹂躙への本能的な吐き気で酩酊させる中毒がより有効であったのは、この映画がサイケデリックともいえる変性による後引きが生む余白を狙ってメッセージを転写していたことに明らかに思え、そうやって手段と目的が際どいところで時折入れ替わるスリルを映画の昂奮としたのがワタシの正直なところであったのである。孤児との出会いを導くシークエンスの凄惨はほとんど「アシュラ」のそれで、劇中で描かれるあの最初で最後の死体(道端にしゃがんでいた彼があの時点で亡くなっていたかどうかワタシにはわからない)が描かれないけれど亡くなったすべての人たちの代弁であったことを思えば、その怒りと無念を焼結したような容赦ない描写にもうなずけるし、そうやって最後の最後でつきつけるメメント・モリが“死ななかった人たち”を“生きる人たち”へと描き換えていたのではなかろうか。「呉のみなさん、がんばってください」というラジオアナウンスの無責任こそが戦争であった。
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2016年11月23日

ガール・オン・ザ・トレイン/わきを締め、えぐりこむように刺すべし

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※おそらく結末を予想させるので、鑑賞予定の方スルー推奨

わたしたち3人がいなかったらあんたなんてただの哀れなインポ男じゃない!と彼女が叫んだ瞬間、レイチェル(エミリー・ブラント)、メガン(ヘイリー・ベネット)、アナ(レベッカ・ファーガソン)の3人が、それまでの信頼できない語り部から真実の贖いを要求する刺客へと一気に血を逆流させていくこととなる。誰が彼女を殺したかという犯人探しのサスペンスについては、どでもいいと言ったら言い過ぎだけれどもどちらかと言えばオマケのようなもので、人生に操られる木偶として他者を求め依存してきた女性たちがどん詰まりからの失地回復を目指すにおいて、その地獄めぐりで流す血と涙をぬぐう姿の寄る辺なさこそがこの映画の動脈として脈打っていたのではなかろうか。それだけに、狂言回しとして終始這いずり回るレイチェルの狂態はまるでエミリー・ブラント版『失われた週末』のごとき様相を呈していて、この映画のほぼ2/3はブラックアウトによる時制の酩酊そのままに目の縁を赤く染めてタッチ&ゴーを繰り返し、『ボーダーライン』でもそうだったようにこの人は逃げ場なく追い込めば追い込むほど被虐で瞳が濡れそぼつように思うのである。レイチェルが酩酊に抗うことで、彼女の譫妄の存在としてのメガンとアナは実体を伴い息づかいを露わにし始め、それによってある殺人の記憶が意識の泥沼から犯人をサルベージするというニューロティックな構造はなかなか刺激的ながら、それゆえフーダニットが開示の手続きにとどまってしまうことでミステリとしての歩留まりは少々控えめにならざるを得ないわけで、それよりは永遠に勝どきをあげることのない夕闇の『デス・プルーフ』として、3人の女性が自身の立つ風景と刺し違えていく姿が胸を衝くことを監督は望んだのではなかろうか。この3人の対極で仁王立ちするライリー刑事(アリソン・ジャネイ)が共闘にしろ嫌悪にしろ、その造型に反して踏み込みが甘かったのは少しばかりもったいない。ヘイリー・ベネットは『ギフト』のころのケイト・ブランシェットを思い出させるメランコリーと、ジェニファー・ローレンスの肉厚との危ういアンバランスで、この映画で屈指の飛距離を叩き出していたように思う。同じブロンドのレベッカ・ファーガソンはその分だけ割りを食った。
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2016年11月18日

エブリバディ・ウォンツ・サム!! /きみのハートを名古屋撃ち!

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ついこのあいだの水曜日、何十年もの間アメリカから生まれた映画を観て音楽を聴いて本やマンガを読んできたくせに結局オマエは何もわかってなかったってことだよなと言われて、ハイそうですとうつむいて答えるしかなかったものだから、いずれ自分の足で立ってどこかへ向かうことが国民の義務というか強迫観念となっている人々の“だからこそいま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ(片岡義男)”という気分が嘆息するメランコリーの、しかしそれを拒絶するばかりの怒りや憎しみでかき乱すことをしない、青い空のような上澄みをすくってはぶちまけて歩くこの映画に心底救われたのである。彼らはスクールカーストでいえば最高位のジョックスでありながら、その優位性と役得は充分に自覚しつつも彼らはこれが人生の単なるいっとき、モラトリアムに過ぎずやがて終わりの来ることを知っていて、それゆえこの時間を慈しむようにしゃぶり尽くそうとするわけで、それに忠実である限り他人を否定も差別もしないのである。そうやってことさら敵を定めることなく自己批評のじゃんけんでグルーヴしていくあたりが80年代的というかリンクレイター的であって、それをナードではなくジョックスにやらせるというアイディアが、シニカルだけどユーモアを忘れず、女の子には敬愛の笑顔で迫り、ディスコもカントリーもパンクも食わず嫌いなく身を任せ、髪を伸ばし髭を生やし、屈託をけとばし、そしてなおかつ野球が上手いという、ありそうでなかった青春無双のファンタジーを可能にしたんだろう。コステロとかトーキング・ヘッズはどうよ?ディーヴォとカーズもいいよな、って言ってる彼のレコード棚にはニール・ヤングのベスト盤もちゃんとあるわけで、そういう筋の通ったロック少年の純情もいちいち愛おしい。60年代の『アニマル・ハウス』から80年代のここを経て、果たして2000年にこの桃源郷が受け継がれているかどうか考えてみると、ネットが接続したものと分断したものが否が応でも浮かび上がってくるように思うのである。ああ、もう一度観たいというよりは、もう一度あいつらに会いに行きたい。たぶんこれが最愛のアメリカ。今年のベストテン入り決定。
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2016年11月17日

われらが背きし者/哀・アマチュア

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『ジャック・リーチャー』でも気になったのだけれど、追う側がとりつく島のないほどの手練れであることによってサスペンスが成立する逃亡劇の場合、逃げる側のリーダーかそれに準じる者、要するにプロフェッショナルが周囲のアマチュアに対して携帯やクレジットカードの使用を禁じるよう縛りをかけておくのは基本中の基本であって、あらかじめそうした描写さえあれば、そのルールを破ることによる状況の破綻がドラマのエモーションにつながることもあるだろうけれど、この映画における終盤の破局を呼んだある行為が、仮にもMI6の要員が指揮する非常時においてザルのような底抜けで行われてしまう杜撰に鼻白んだのは言うまでもないわけで、合理と感情のせめぎあいから滴る血の涙でエスピオナージと綴るのがル・カレなのではないかと、それは詰問口調にもなろうかというところだったのである。いやこれは、寄る辺なき世界の暗闘が流す血の愉悦によって中年夫婦の倦怠が救われるメロドラマなのだと言われればそれまでで、血で汚れた金で豪奢を尽くした男ディマ(ステラン・スカルスガルド)が口にする信義という言葉の欺瞞に思いを巡らすこともないまま、思春期の少年少女のように高揚して走り回ってしまうペリー(ユアン・マクレガー)とゲイル(ナオミ・ハリス)の間抜けさと愚かさを指差していればいいのだけれど、ル・カレの映画でそれをやる意味がワタシには理解しかねるのである。ロングリッグ(ジェレミー・ノーサム)に唾するヘクター(ダミアン・ルイス)の私闘とも言える非正規の作戦にルーク(ハリド・アブダラ)とオリー(マーク・スタンリー)はなぜ身を投げ出すのかについては一切描かれず、初めて人を殺した(しかも射殺である)ペリさーの呵責も(『わらの犬』的な)昂奮もまったく手つかずのままだし、となればゲイルの心情も実に都合よくペリーに寄り添っていくばかりの書割りに過ぎないのである。どれだけ手管に長けた脚本家とカメラマンをセコンドにつけたところで自分の殴る相手が誰なのか監督が分かっていなかったら、いくらファイティングポーズをとったところで意味のないことの何とも残念な証明であった。
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2016年11月15日

ジャック・リーチャー NEVER GO BACK/きみがよければそれがいい

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もはやトム・クルーズとヒロインはハグすらしないのだけれど、トム走りをする自分の傍らをターナー少佐(コビー・スナルダーズ)に一度ならず走らせて、その息の合わせ方が大人のプラトニックここに極まれりと言う感じで、とても気分のいい追い風に乗っていたように思ったのである。トム・クルーズという人は、自分がスクエアなハンサムであることの俳優としてのメリットよりはデメリットをいち早く承知した上で、たとえばミッション・インポッシブルシリーズにサイモン・ペグを準主役扱いで投入し、かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろうと自虐し笑い飛ばすスラップスティックを書き加えることでフランチャイズのマンネリと硬直をみごとに回避してみせたのは言うまでもない。一方このジャック・リーチャーシリーズは、その手管に味をしめたトム・クルーズがかっこいいことはなんてかっこ悪いんだろうという金言を踏まえた上で、その先であえてかっこいいことをやってみたらいったい何が生まれるのだろうという実験的な試みに挑戦しているわけで、前作『アウトロー』ではばらまかれた画鋲の上を裸足で疾走しては悶絶するネジの外れたアナーキーを生んでいたのだけれど、今作では「パパと呼ばないで」型の疑似と人情の家族アクションへといきなり針を振って父性を足枷とされたジャック・リーチャーが悪戦苦闘するという意表のつきかたで、若い若いと思っていても考えてみれば花嫁の父くらい演じてもあたりまえな年齢ではあるのだなあと、ラストでスクリーンに大写しになったその顔の、50男らしい疲れと翳りをさらけだしながら静かに微笑む善き人が、西日のように眩しくて何だか切なかったのである。というわけで、闇の処刑人水戸光圀漫遊記のようなシリーズになるかと思いきや闇の処刑人フーテンの寅としての奥行きも可能なシリーズであることがここに自明となったことを思えば、俳優トム・クルーズのドキュメントとしてもこのフランチャイズが続くことをなおさら願ってやまないのである。それにしても、オルガ・キュリレンコ、エミリー・ブラント、レベッカ・ファーガソン、コビー・スナルダーズと並べてみた時の、凛とした眼差しのヒロインをチョイスするトム・クルーズの審美眼は特筆されるべきで、この分野最強となる塚本晋也監督には及ばないにしろ、お前はオレかと今作も唸らされたのであった。
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2016年11月11日

溺れるナイフ/あまりおれを悲しませるなよ

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長谷川航一朗(菅田将暉)、望月夏芽(小松菜奈)、松永カナ(上白石萌音)、大友勝利(重岡大毅)という4人の少年少女の物語でありながら、序盤の放課後以降、4人が顔を揃えることはないのである。その教室のシーンで4人を行き交うカメラの痙攣するようなリズムはその後の激情を予感させるに十分で、夏芽と航一朗が奏でる魔術的な幻想、夏芽と大友の身の丈が揺らす日常、その両者を巫女の眼差しで行き来するカナ、といった三すくみを幾度も綿密に重ねたリハーサルの後の一発撮りのような熱っぽいヴィヴィッドで切り取っては、あたし達は最強で負けるはずなどないけれど、果たして今はどれくらい勝っているのだろうかと、全能の100と失意の0の間を50の大凡など経由しないピーキーなコース取りとスピードで疾走していく。中盤以降、二度目の火祭りを消失点に定めたことでそれまでの無軌道があたりに気をめぐらし始め、まあそれもやむなしかと思っていたところが、16歳のヒロインが血を求めてヒーローに絶叫する祭りの夜に横っ面をはられたのである。夢うつつの夏芽は祭りの音に意識をなぶられながら、1年前の夜にかけられた呪いが解かれつつあることに全身で感応していき、その儀式を完遂するかのように一心不乱で憑かれたように踊る航一朗との呪術的なクロスカットには、自分が今どんな映画を観ているのかこの際どうでもいいと思わせる催眠性を感じて、一瞬、航一朗のかざす松明の火に目を焦がされた気すらしたのである。その数十分前、大友と夏芽が触れるようなキスをするシーンに客席のあちこちで小さくキャッと声をあげた彼女たちがこの強烈な異化をどう受け止めたのか知る由もないにしろ、監督が終始煽りまくっているのはワタシのようなオッさんではなく夏芽のクラスメートのような彼女たちの青い倦怠であるのは、美しくかしずく発火装置として誂えられた航一朗や大友を見るに明らかで、『殺してええ!』という夏芽の絶叫と血の付いたナイフに昏い疼きが発火したとすれば、監督の目論見どおり青春の妙味も増すというものなのではなかろうか。息を詰めるような長回しで幾度となく繰り広げられる夏芽と航一朗の追いかけっこは、どこかしら不機嫌なピーターパンとウェンディのようで忘れがたく、中でも最初の火祭りの夜を経て航一朗とすれちがったまま高校生になった夏芽が、通りで見かけた航一朗の後を静かにひたひたと追うシーン、長回しのカメラは最初の橋を渡り二番目の橋に向かって小さくなって行く夏芽を追い続け、橋を渡ろうとする夏芽は最短距離を急くあまり欄干かそれらしきものにぶつかるのだけれど、本来カメラからの距離であれば聞こえるはずもない衝突音が大きくはっきりとダビングされていて、もしかしたら最後の最後でそこにぶつかるように監督は夏芽に指示していたのかと少し吐息が漏れたのである。監督のフィルモグラフィーを見ると同世代の共有者よりは手練れのカメラマンと積極的に組んでいるようで、今作ではかつての黒沢組である柴主高秀と組むことによりハプニングではない感覚の計算が行き届いたショットと色彩が決め打ちされていて、夏芽と航一朗が二度目に会った鳥居の海を染める青と白はまるで浅黄幕のようで、いったいそこまでやるのかとワタシは早々に降参してそのままだった。
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2016年11月09日

ジュリエッタ/ロッシ・デ・バレタ

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見知らぬ男の死によって始まったジュリエッタ(エマ・スアレス&アドリアーナ・ウガルテ)の旅はショアン(ダニエル・グラオ)の妻、自らの母といった人たちの死によって導かれ、ショアン(ダニエル・グラオ)の死によって歩を止めることとなり、その後のジュリエッタの人生は、その幕引きに加担した代償として一人娘アンティアが取り上げられてしまったのかと自問自答するばかりであったのだろう。しかし、アバ(インマ・クエスタ)の死によってロレンソ(ダリオ・グランディネッティ)と巡り会うことで知らず彼女の旅は再開されることとなるわけで、と書いてみると死の匂いのたちこめるばかりの映画に思えるけれど、そもそもジュリエッタが車窓からみた牡鹿は黄泉の国への見送りだったように思えてならず、となればマリアン(ロッシ・デ・パルマ)はその門番であったのかなどとしてみれば、赤の現実と青の過去による浮遊する死のイメージは曖昧な生の代用にも思えてしまうことで、最後まで死は後ろ手に隠されたままなのである。そしてその最後の最後、スイスのアンティアへと車を走らせるジュリエッタとロレンソをロングショットで捉えたタイトルバックにインサートされる ”julieta” という文字の色は果たして何色であったか、赤の現実と青の過去、残された三原色である黄色に託されたのは未来であったのではなかろうか。しかしこの腑に落ち方の快感よりは、なじみの手癖だけで撮られたようなアルモドバルの執着の薄さの方が気になってしまうのが正直なところで、アンティアではなくジュリエッタの視点から母娘の地獄巡りを果たしたのは、既に実母との別れをすませたアルモドバルの年代的な成熟によるものなのか、誰もが持つであろう墓まで持って行く秘密に対するアプローチが丸みを帯びつつあるのも、この映画が激情を遠ざけたことの理由であった気もするのである。戦友ロッシ・デ・パルマの変わらぬ勇姿に気持ちが戦ぐ。
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2016年11月08日

手紙は憶えている/PLEASE DO NOT DISTURB

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※結末および展開に触れているので未見の方はスルー必須。

霧の立ち込めていた記憶が無慈悲な光に照らされた瞬間、ゼヴ(クリストファー・プラマー)は “Remember” 原題)の意味するところが“忘れるな”ではなく“思い出せ”であったことを了解し、なすべきことをなすのである。その時ゼヴの表情によぎった絶望と悔恨と慚愧こそがマックス(マーティン・ランドー)の追い求めるすべてであり、それはもはや復讐とか善悪の彼岸とかいう話ではなく世界の収支バランスをゼロに戻すための債務整理にも思え、無垢の保証人がどれだけ破滅的な巻き添えを食おうともそれは避けることのできない道筋なのだとする常軌を捨てた合理の怪物におののきつつ、しかしその怪物を生み出したのもまた醜悪な合理をかざした怪物であったことをワタシ達は“思い出す”ことになるのである。ワタシが何にも増して忘れがたいのは、進退窮まったルディ・コーランダー(ブルーノ・ガンツ)が本当のゼヴと自分は何者でどんな罪を犯してきた人間なのかを告白した瞬間にルディとゼヴの家族が見せた驚愕と嫌悪と困惑の表情で、おそらくワタシもまたそれに似た表情をスクリーンに向けていたようにも思うのだ。この道行きにおいてゼヴが見知らぬ人たちから受ける親切や思いやりが、ひとりの善良そうな老人に向けられて然るべきものだったのは言うまでもないのだけれど、もし仮にゼヴの正体を知っていたならば、列車で知り合った少年の父親は足早に立ち去っただろうし、モールの警備員はグロックをバッグに忍ばせたゼヴを即座に拘束したのではなかろうか。一方で記憶のくびきから離れたゼヴが示す、ドイツ人でありながら同性愛者ゆえアウシュビッツに囚われた老人に対する慈愛と共感、ナチスへの共感を隠さない移民二世への嫌悪と恐怖は心の底から湧き出したものであったろうし、だからこそ人間が逃れることのできない光と闇の両端に翻弄されたゼヴの選んだ、それらから自由になるたったひとつのやり方への、やりきれなさを追いかけるようにだんだんと滲んでくる安寧をふりはらうこともできないでいるのだ。ゼヴとルディは退場し、マックスも早晩彼らの後を追うだろう。しかし、彼らの記憶は継がれるのである。遺されたゼヴとルディの家族が育んだ記憶は奪い取られ、その空っぽへ否応なしに継がれていくのである。ゼヴと観客をもろともにミスリードするトリックとして一分の隙もないかというと、そこここにほつれを認めはするものの、それがゼヴのあわいと相まってデモニッシュな夢うつつを呼び出すのはアトム・エゴヤンの神経症的な緩急が巧みに奏功しているからで、ともすればドーナツの穴を撮ることにかまけてしまうこの監督が賞味期限を70年も過ぎて当たれば血の出るほどの鈍器と化したドーナツを投げつけてくると言えば、これがどれほどのっぴきならない物語であったかわかるだろうか。
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2016年11月05日

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件/フォゲット・アス・ノット

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東京国際映画祭2016

四半世紀前に一度観たきりの3時間版との対照など叶わないにしろ、クライマックスで起きることの青春の蹉跌的なイメージよりは、どちらかと言えば総合小説の全体性をつかみ取ろうと苦闘する4時間であった点で、いっそう新鮮でスリリングに思えたのである。序盤、ケガをしたミン(リサ・ヤン)の足がクローズアップになった時の、その足に残るおびただしいと言ってもいい虫刺されの跡は彼女が振りはらわねばならぬ呪いの印のようでもあり、自分の屈託をもてあそぶことに気を取られてばかりのスー(チャン・チェン)がそれに気づくはずもないことを思えば、この2人の道行きとそのたどり着いた先から逃れる術など最初からなかったことに早々と嘆息してしまうのだけれど、ただこれが単なる青い嫉妬がもたらした悲劇にとどまるのであれば、その顛末には100分もあれば充分だったわけで、この映画が必要とした時間237分は、殺した理由が満ちてくるのと同様に殺されなければならなかった理由が満ちてくるのを待ち続けたことによっているのだろう。スーの父親(チャン・クォチュー)は外省人であるがゆえの閉塞と知識階級特有の理想主義の狭間で屈託を育てざるをえない人であり、息子のスーはその屈託を借りることで思春期のよろいとして傷つくことをかわしていて、自身で獲得した手立てをいまだ持っていないスーにとって、撮影所でくすねた懐中電灯が彼の暗闇を照らす灯りとして象徴されていくことになるのは、夜の通りを走る戦車の隊列をミンがそれで照らしてははしゃいだことや、台風の夜にそれが何を照らしたか、その所在と扱いに明らかだろう。一方で病弱な母親を庇護者として頼れないミンは、周囲の男たちを無意識の庇護者としてネットワークしていくのだけれど、それは悪女あるいは小悪魔的なたぶらかしというよりは極めて本能的な判断である点で無慈悲を感じさせ、精神的な庇護と現実的な庇護の采配はそれが無意識であるだけに、劇中の誰よりも危うい綱渡りをしなければなかった14歳の足取りが悲痛を誘ってやまない。理想に殉じるしかないまま瓦解した父親および自分の空虚を埋めるにはその父の教えに頼るしかなかったスーと、理想など最初からなかったのだと目の前の現実をかきわけて生きていくことを選ばざるを得なかったミンは、両極端ではあるけれどデラシネとして生きるしかなかった台湾のある人々の姿に相違なく、事件当時14歳だったエドワード・ヤンもまた自身の中の引き裂かれた部分に気づいていたからこそ、なぜあの少年は自分ではなかったのかとずっと考えつづけていたのだろう。劇中でスーの姉がプレスリーの "Are You Lonesome Tonight?" の歌詞を聴き取るシーンで、長兄が 'Does your memory stray to a brighter sunny day?' のフレーズのおそらくはbrighterをこれは(本来brightであるはずで)文法がおかしいのではないかと訊ねるのだけれど、 あの日はいつだって君の記憶の中ではより明るく晴れた日であり続けるんだろう?というニュアンスでのbrighterなのだろうし、そう考えてみるとこれを引用した英語タイトル "A Brighter Summer Day" に込められた取り返しのつかない夏の日々の記憶にいっそう胸が締めつけられてしまうのである。そして思い出すのは "Days of Being Wild" と名付けられやはり全体性に殉じる野望を隠さなかったあの映画のことで、その後のウォン・カーウァイが導入するアメリカン・ポップスのアンセム使いはこれが源泉なのだろうとワタシは勝手に確信した。リサ・ヤンが見せる刺すような毅然に中野良子を見たのは時を経ても変わらず。
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2016年11月02日

ジェーン/泣いたら負けだと知っていた

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ジェーンという名の女性が主役にすわる西部劇ということで何とはなしにカラミティ・ジェーンあたりを勝手に想像していた上に、これがブラックリスト入りしていた脚本の映画化であることを知るにつけ、なかなか語りがいのある物語になりそうだなと思っていたものだから、巷間伝え聞いた紆余曲折がどれだけのエッジを削ってしまったのか知る由もないにしろ、とにかくこの映画については完成させることが目的であるとする着地で手を打ったかのようにこじんまりした技の難度と、そうやって撤退戦を戦わざるをえなかったナタリー・ポートマンの抱いた野望との対照がいささか切なくもあったのである。本来であればジェーンはある種のファム・ファタールとして、あごを上げ背筋を伸ばしたガンさばきで男たちの愛と欲望をすり抜ける女性ではなかったのかとも思うわけで、かつての婚約者ダン・フロスト(ジョエル・エドガートン)に毅然として助けを請うあたりにはその名残も感じられたりもしたのだけれど、彼女と行き交うダン・フロスト、ジョン・ビショップ(ユアン・マクレガー)、ビル・ハモンド(ノア・エメリッヒ)という男たちとの反射によって彼女の複層を描くにしては、彼らと差し向かうシークエンスが寸足らずというか甘いというか、98分という長さが果たしてこの映画の実寸であったのかと、そんなところにも強いられた妥協の影を見てしまうのである。それとやはり、ナタリー・ポートマンは死んだ目が似つかわしくないところがあるせいか、なかなか裏返ることが難しい気もして最初から仕上がっているように見えてしまうこともあり、ならば売春宿のシーンは尊厳を奪う苦痛に満ちた時間としてもう少し爪を立てておくべきだったようにも思うし、本来メガホンをとるはずであったリン・ラムジーであればそのあたりはもう少し仮借がなかったのではなかろうか。男たちの刺し違えにおいては否応なしに冷たい緊張を走らせるギャヴィン・オコナーが、ジェーンもまた男性として扱うことでその渦に巻き込んでしまおうとした意図は理解できるのだけれど、ナタリー・ポートマンがそれに忠実に応えすぎたことで、原題 "Jane got a gun" に込められた女性と銃がクロスする逆襲の宣言が高らかに叫ばれなかったように思ってしまうのである。その達成のためのリン・ラムジー起用であったことがプロデューサーであるナタリー・ポートマンの意図として深くうかがえるだけに、2人のタッグが瓦解してしまったことが本当に悔やまれる。当初ダン・フロスト役にキャスティングされていたもののスケジュールの都合で離脱したマイケル・ファスベンダーが直後に出演した西部劇『スロウ・ウェスト』における、かつてのイーストウッドを彷彿とさせるクールな拳のガンマン姿を見た(であろう)ナタリー・ポートマンにしてみれば、いくら悔やんでも悔やみきれないのが本心だろう。ちなみにその『スロウ・ウェスト』はマイケル・ファスベンダー、ベン・メンデルソーン、コディ・スミット=マクフィーといったキャストがまったくムダ使いされることなく生と死の青春寓話を不思議な明るさで照らして、正式に劇場公開されなかったのがもったいないとしか言いようのない出色の西部劇となっている。

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2016年10月30日

ザ・ギフト/まごころを君に

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※内容に触れています

無垢の犠牲者かと思われたロビン(レベッカ・ホール)ですらが逃れられない罪深さは、クズをクズと見抜けなかったこと、あるいはそれと知りつつ人生の打算として相殺することでクズを増長させたことにあって、彼女もまたゴード(ジョエル・エドガートン)からの贈りものを受け取ったであろうことを匂わせる結末のけっこうな寄る辺なさも、ピアノ線のようにはりつめた伏線のめぐらし方とそれがキリキリと絞り上げるその回収に膝を打たされたことで、最終的にはどこかしらピカレスクと言ってもいい達成感がそれを更新したように思うのだ。それは本来、被害者であったはずのサイモン(ジェイソン・ベイトマン)の二面性が暴かれることで悪役のはずのゴードとの立場が次第に逆転していく構造が見事成立した証しでもあり、マウンティング国家アメリカにおいて他人から奪い取ることで勝者となってきたサイモンが、逆に与えられることで自滅していく自業自得への溜飲がそれを後押ししたのだろう。そうした意味では、人生における善いことは悪いことがあってこそのものだから、悪いことはある意味ギフトのようなものだと思うようにしている、というゴードの言葉は、皮肉と言うよりはそう信じ込むことでしか生きのびることができなかった敗者の悲痛で破壊された哲学であったようにも思うのだ。一人過ごすロビンの肢体を執拗になめ回すカメラは、ゴードの視線というよりも次第に窃視の強迫観念に蝕まれていくロビンの神経を剥き出しにしているようにも思え、サイモンとゴードが繰り広げる神経戦の跳弾をくらいながら見知らぬ土地で衰弱していく姿は『ローズマリーの赤ちゃん』的な授かりものの恐怖で別ルートから震わせたりもする。そんな風に単にシナリオを消化するにとどまらず、幻視を立体的に組み合わせることで空気を圧迫するジョエル・エドガートンの、すべてを額面通りにも、すべてをミスリードにもなし得る確信的な手さばきと、サイコスリラーのジャンルを借りたある種の階級闘争に、映画人としてのしなやかな指先と屈強な背骨を感じて、この人のフィルモグラフィーに通底する下から突き上げる拳にあらためて惚れ直したのである。犬はねえ、ちょっと驚いた。
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2016年10月29日

31/ユナイテッド・クラウンズ・オブ・アメリカ

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これが仏作って魂入れず、の字義どおりであることは、そりゃ仏に魂なんかねえだろ、でもって何だか知らんが俺をピエロとか思ってなついてんじゃねえぞ、俺がここにいるのはお前の惨めったらしい人生を終わらせて仏にするためなんだよ、というドゥーム・ヘッド(リチャード・ブレイク)のうっとりするような長口上に明らかである。相変わらずロブ・ゾンビは世界に接続される水平性にひたすら尻を向けては、お前らに差し出すものなんかないねと、輝ける垂直性の70年代に執着し崇拝し続けている。俺はその垂直性の狭間に囚われて転落したり押しつぶされたりするような、酷いことの起きる瞬間を確認してるんだよ、なぜならこの国で一番酷いことをするのは自由って名前のやつで、しかもそいつがこの国の神だからだ、言っておくがただアホみたいに拡がっていくことだけが目的の水平性が自由だなんて思っちゃいないぞ、トランプみたいな垂直性の排泄物を後生大事に生かしてるのは水平性の下水道だってことにいい加減気づいてもいいころだろうよ。と、嫁ゾンビと2人、白塗りのマルコム・マクダウェルまで引っぱりだしては、出でよウルトラ・ヴァイオレンスとばかり古き良きアメリカのオーセンティックな自由を啓蒙してみせたのであった。そんな風なとりつく島もない引きこもり方にどこかしら既視感があるとしたら、それはおそらくニコラス・ウィンディング・レフンであって、レフンが年々隠すことをしないアメリカというよりはアメリカ人への憧憬は、垂直性の住人としてのアメリカ人に対するそれなのだろうなあと、何の使い途もない解を手に入れた気がしたのである。それにしても、小人ナチスの殺し屋とか極東産のワタシのどこにそんなDNAがあるのかと思うくらい根っこのところで沁みて沁みて笑ってしまうほどであったし、沁みたと言えば、夢を見ろ、夢を見続けろと絞り出すスティーヴン・タイラーのシャウトが次第に、これが夢なら醒めてくれるなと響いた気もして、それこそがロブ・ゾンビの偽らざる叫びだったようにも思うのである。世界が片づけられていく。
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2016年10月25日

スター・トレック BEYOND/パヴェル・チェコフの優雅な長旅

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22年振りの新曲で "All for one, one for all. If we take a stand, we shall not fall" とストーン・ローゼズが歌ったその言葉を胸に抱いたような闘いで、進軍ラッパはローゼズではなくビースティではあったにせよ、リブートシリーズ3作目にしてようやくクルーたちは宇宙を舞台に知恵と勇気をブーストさせて独裁と全体主義の群れを蹴散らしていったわけで、映画2本を費やしてカーク(クリス・パイン)とスポック(ザカリー・クイント)の関係性も何とか落ち着きを見せたこともあって、マッコイ(カール・アーバン)とスポックの漫才もふくめようやく「宇宙大作戦」としてのチームワークが定まったように思うのである。JJ版2作では、敵は自身にありという青春の屈託を燃やしておけばドラマの陰影はついたところが、今回はまだスピードとアクションの影に隠れて少しおずおずとしていたにしろ、これから先は本来の社会実験としてのSFに舵を切ることの宣言もうっすらと見受けられたわけで、それをビッグバジェットのフランチャイズで行うことの困難を知るJJが続篇をどう転がすのか、などと心配していたら次作ではクリス・ヘムズワースが再登板らしく、ということはまたぞろタイムワープものなのかあるいは平行世界ものなのか、いずれにしろ正式な父殺しを終えるまでは一人前と見なさないというカークの丁稚扱いはまだまだ続くということなのだろうか。それにしても、ミッション・インポッシブル、オマケでスター・ウォーズと、メガフランチャイズを制覇したサイモン・ペッグの獅子奮迅たるやというところであって、かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろうという正統派ヒーロー受難の時代においてはコミックリリーフが成否を分けることは言うまでもなく、サイモン・ペッグの備える熱いノンシャランがチームの緩衝とヒーローの感傷を共に引き受けることを見抜いた上での、トム・クルーズとJ・J・エイブラムスという傑出して機を見るに敏なプロデューサーたちによる起用はやはり慧眼としかいいようがない。そうしてみると、ようやくクルーの一体感が生まれてきたところでのリトル・スコッティとも言えるアントン・イェルチンの不幸は大打撃としか言いようがないのだけれど、新クルーとなるであろうジェイラ(ソフィア・ブテラ)がせめてもの救いであって、哀しみが鍛えたふてぶてしさと豪快はこれまでのクルーに欠けるキャラクターであったし、艦長席にこともなげに座る身のこなしだけで彼女を今作のMVPとしてしまいたい。果たして制服が似合うかどうかだけが気がかりである。たぶんチェコフは平行世界にいると思う。
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2016年10月23日

永い言い訳/毛はまた伸びる

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その日から髪を切ることをしない幸夫(本木雅弘)と真平(藤田健心)。やがて自分でハサミを入れる灯(白鳥玉季)。自分は散髪しておきながら、子どもたちの髪の毛には気が回らない陽一(竹原ピストル)。そしてこの物語を彼方から支配し続ける幸夫の亡き妻にして美容師の夏子(深津絵里)。といったように髪の毛が生き方の執着と屈託の場所を示す図式で描かれる喪の仕事は、『蛇イチゴ』からずっと変わることのない、自爆する男性に対するニヒリズムとメランコリーがないまぜになった西川監督のファンタジーが、そうは言っても人なんてそう簡単に根っこが変わるもんでもないし、と大人げのない者たちをとりつく島もなく、かといって見放すこともない引率者のような視線に見守られることで、散りばめられた居心地の悪さの勝手知ったる風に安心感すらをおぼえてしまったのである。それは本来であれば目付役となる夏子たち女性陣を早々に退場させたことで、幸夫と陽一という男性陣の珍道中を観察する視線に徹したことが影響している気もするのだけれど、結局のところ幸夫も陽一も終始記憶と幻を相手にしているだけに、その補正も含めどこかしら常に都合が良いのである。それについてはある時点で、幸夫のみならず観客のワタシに対しても冷や水を浴びせる強烈なカウンターが夏子から放たれるのだけれど、それを悔い改める相手を持たない幸夫は真平と灯にそれを発揮し続けるするしかないわけで、それをあえて『アバウト・ア・ボーイ』で済ませるかのような通過儀礼も含めその都合の良さを泳がし続ける目つきが逆に薄気味悪くすらあり、定型であれば幸夫と陽一の関係はミスマッチの衝突から始まるところが、例えば真平と灯の世話を小説の題材としていることやTVドキュメンタリー番組に自分たち親子が“利用”されることに陽一は感情的な反発をするどころか、それらがストーリーのフックとなることもなくスイスイと喪の仕事は進展して、新しいお母さん候補鏑木(山田真歩)という最難関すら呆気なく越えてしまうわけで、この脚本演出が男性によってなされていたら、いい加減目を覚ませと横っ面張られる評判が飛び交って止まないに違いないだろう。しかしその張本人が自爆男マニア西川美和であることを思い出してみれば、もしかしたらこれらはすべて額面通りなのではなかろうかという答えにも行き着くわけで、ならばこの優雅で微笑ましい男やもめのファンタジーは西川美和の極北と言って差し支えないようにも思うのである。夏子も福永(黒木華)も鏑木も、みな嫌味なほど現実を知りかつ正しいことで、彼女たちは揃って幸夫を悲しませているではないか。岸本(池松壮亮)も真平も、幸夫を肯定し続けるのは彼らばかりではないか。ただ、ワタシが一番ひんやりとしたのはラストで鏑木を連れた陽一の姿で、冒頭で触れたように陽一は子供の髪には気が回らないながら自分の坊主頭は維持する男であり、留守電のメッセージを消去したことでまるで伸びた髪を切るかのように亡き妻への執着を笑顔で乗り越えてしまったわけで、陽一はともかく真平と灯の兄妹の葛藤すら不要とした早送りにこそ西川監督の揺るぎない幻視を見たのである。したがってワタシはこれを、寝技に持ち込んではフィニッシュホールドとする師匠是枝に対する、ならば私は立ち技だけでケリをつけようかという弟子西川の挑戦および訣別と考える。子役転がしにしたところでとっくに余裕だし、という西川美和の笑顔に戦慄せよ。
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2016年10月19日

ダゲレオタイプの女/ゴースト・ゲイト・ドライヴ

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無言で自分を問いただす者たちに「もういい、ずっとそうやってろ」とブチ切れるステファン(オリヴィエ・グルメ)にかつてミイラを怒鳴りつけた男のことなど想い出し、彼女たちがどこからやってきてどこへ消えていくのか、その境界を共に越えながら取り残されたものの変質と哀しみは世界の法則に触れた証でもあるのだという透徹した絶望を、最後にジャン(タハール・ラヒム)の「楽しい旅だった」というつぶやきによって一滴たらしたその水紋にはどこか懐かしさすらおぼえたのである。とは言うものの、あらかじめ精神や感情の湿気が異なる場所にあっては、除湿の作業に余計な気を取られることもないまま、例えば、リサイクルの水銀からジャン(タハール・ラヒム)とトマ(マリック・ジディ)の出会いに至る道筋の、ちょっとした贅沢が昼下がりの牡蠣へと自然に向かうような、黒沢清が夢想するパリの若者のスノッブな横顔は、例えばこれが日本であったらいくばくかの余禄を懐に向かう牡蠣の代わりはせめて回転寿司ではなくカウンターの寿司屋なのだろうか、という軽いあきらめを嬉々として飛び越えたようにも思え、そもそもが駅への列車の到着を撮るところが曇天のパリのメランコリーに気もそぞろとなったオープニングからして羽目を外していたようにも思うのである。これまでであれば、あえての代替による記号化で除湿を果たしてきたところが、代替の必要なく本来あるべきものがあるべきところにある世界において、ついには記号が脈打ち始める時の静かな驚きと喜びを監督と観客が共有する僥倖がこの映画を成立させているわけで、マリー(コンスタンス・ルソー)の細動する眼球にいたっては、それを知ってのキャスティングであったのかどうかはともかく、気がつけば彼女のクロースアップを待ちわびている愉悦もまたこの映画のビンゴとなったのである。にも関わらず閉ざされた部屋に風はそよぎ、暗闇に光がゆらぎ、車を走らせるたびに事態が抜き差しならなくなっていく世界の恩寵にすがるワタシたちに、早くこちらに来るようにとカーテンは誘い続け、生まれたての幽霊マリーは、そのカーテンのこちらから母ドゥーニーズ(ヴァレリ・シビラ)のいる向こうを眺めては、でも今が一番好きとうなじをめぐらすのであって、それは母のようにやがて写真のむこうから漂い出るしかない人となる運命を知りつつ過ごす彼女にとって最後の自由な青春だったのだろう。かつて自分の額に流れた血をぬぐったジャンの手から父ステファンの血を優しく拭き清めるマリーの姿は、獲物をくわえて帰ってきた猟犬の頭をなで喉元をくすぐる主人の慈愛で狩りの終わりとジャンとの訣別を告げる儀式のようにも思え、幽霊との別れという黒沢ロマンスの静謐で秀麗な翻訳が綴られている。自身の資質が求めてやまぬ先がこうした限定的な形で示され(てしまっ)たことは果たして幸福なことなのかどうなのか、ほんの一瞬気がかりだったりもしたのだけれど、この映画の後に撮ったのが『クリーピー』であったことを考えてみれば、この映画は黒沢監督にとって解放というよりは新たに自身を拘束するルールと快感の手がかりになっていたにちがいないことはいまさらワタシ風情が言うまでもないだろう。ジャンと幽霊のファースト・コンタクトのシークエンスで、階段を登った幽霊が回廊を回り込んで一度消えてから再び現れるシーン、言い換えれば、幽霊は人が視ていない物陰もきちんと移動しているということになり、漂うようにすり抜ける幽霊よりもそういう幽霊がワタシは怖い。『回転』『叫』の幽霊たちにくわえ、ひさかたぶりにステーキまでが登場していた。
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2016年10月16日

高慢と偏見とゾンビ/と空騒ぎ

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原作未読。本家については通りいっぺんの記憶ながら、むしろゾンビが刺身のつまであるくらいの本歌取りだったのに意表をつかれる。とはいえ、例えばここでのゾンビを革命勢力に置き換えてみれば恋と闘争のロンドンという大河ドラマに再構築することも容易なわけで、ただそうした場合、ほとんど艶笑スラップスティックと化した本歌の骨子を踏まえてみれば支配者階級目線のそれなりに鼻持ちならない話になってしまうわけで、やはり仮想敵としてのゾンビの使い勝手の良さにあらためてうなるばかりである。淑女の嗜みどころかサヴァイヴァリストを目指して中国で修行をしてきたベネット家の姉妹や、ヒールながら策士ぶりが光るウィカム(ジャック・ヒューストン)と比べると、『Mr.&Mrs. スミス』ばりの大乱闘を見せるエリザベス(リリー・ジェームズ)への求愛シーン的な変拍子をもっと期待していただけに、ロマンス要素のためとは言えどうにも奥行きのないダーシー(サム・ライリー)の造型が物語の停滞を招いてしまったのがどうにももったいない。また、アイパッチが惚れ惚れするキャサリン夫人(レナ・へディ)が見せるゾンビ狩りの勇姿が最後まで用意されなかったのも原作偏重の弊害なのか、わりと納得がいかなかったことの一つではある。とは言ってもリリー・ジェームズの不機嫌そうなあごのラインや、長女ジェーンを演じるベラ・ヒースコートに敬愛するヘザー・グレアムの面影を見ていれば時間はあっという間に過ぎていくし、何よりベネット家の姉妹が闘うその姿は、ベイビーたちがみなザック・スナイダーのために闘わされていた『エンジェル・ウォーズ』のひとりよがりな退屈とは天と地ほどもかけ離れて、まさに自分がここに在ることを知らしめるべくドレスの裾を散らしていたように思うのである。カンフーを繰り出しての姉妹喧嘩や、エリザベスがみせる宮本武蔵ばりの蝿キャッチ、孫子の兵法、ダーシーが振り回す日本刀など、戦士の矜持として示されるオリエンタル風味もいい按配にくすぐったい。メディアミックスのケレンを含め、まるで往年の角川映画のようだった。
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2016年10月14日

淵に立つ/闇より昏くて静かなところ

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ある衝撃の事実に打ちのめされてなけなしの気力を失い、机につっ伏す章江(筒井真理子)にむかって「なんだ、眠いのか」と、突き放すでもなく気づかうでもなくただ目の前のできごとに虫のような朴念仁で反応する利雄(古舘寛治)がそれに続ける告白にひそませた、俺が殺人の共犯であろうとなかろうとつまらん話だと斬って捨てつつ、第一おれたちはとっくに罪を背負ってるんじゃないか、だからできることと言えばあとは罰を受けることしかないだろう、だからあの時に俺もお前も等しく罰を受けることでようやくほんとうの夫婦になれたんじゃないのか、という凍てついた達観は、冒頭で蛍が口にして利雄の頭に引っかかった母蜘蛛のエピソードを問わず語りに引き寄せる。我が身を餌と子蜘蛛に差し出した母蜘蛛は慈愛の象徴のようであるけれど、その母蜘蛛にしたところがかつては自分の母を喰っていたにちがいなく、ならば結局はみなそろって地獄に行くはずだという天啓が利雄のフラットラインを誘いだしたのだろう。八坂が見つかったところで何も変わらないのだからもうやめようと、どれほど章江に懇願されようと利雄が八坂(浅野忠信)の消息を追い続けることを止めないのは、あの時あの場所で八坂と蛍の間に何があったのか、おそらく利雄はそれが不慮の事故というよりは八坂の殺意によるものであったことを確認したかったからなのではなかろうか。でないと正当な罰は完成しないからである。そもそも自分の過去を知る八坂を同じ屋根の下にとどめたり、ひいてはプロテスタントの妻とステンドグラスのある家に暮らす利雄ははっきりと意識的に自罰を求めてるのだろうし、八坂と章江の関係を知っていながら放っておいたのもその痛みや苦しみを必要としたからなのだろう。そうしてみると鈴岡家は既に精神的な一家心中がなされた家に違いないのだけれど、それだけに、利雄が生きる意思への全面的な降伏を露わにするラストで水中から戻ってきたその姿はまるで洗礼のようにも映り、その結果、罪が清められることで利雄にとっての罰は精算され、それは同時に子蜘蛛を地獄に行かせない手立てとしても成立する離れ業で幕を閉じるのである。自分たちが何かしら真ん中の部分を無くしたことに気づき、ではいったいそれをどこに求め探すのか顔を上げた瞬間、その答えを後ろ手に隠すかのように映画は終わるのだけれど、その答えは正解というよりは最適解といった方がふさわしく、しかしそれは残酷とか寄る辺ないとかいうよりはもはや人間には関係ない道理とでもいうひと触れに近いがゆえに、すまし顔ですっと入り込んでくるようなのが本当に怖ろしい。罪とか罰とか天啓とか洗礼とかいった言葉で語ってきた上に、自身の罪を吐露した後で自らの頬を繰り返し張るまるで告解のようなシーンも2度あるけれど、プロテスタントには告解のシステムがないことからもわかるようにことさら宗教を原理的に語る物語ではないのは言うまでもなく、あくまで人間が生きるよすがを外部に求めた場合の普遍としてそう動くに過ぎないわけで、結論として使った“怖ろしい”という言葉がふさわしい極めて現代的で日常的なホラーとして、ハネケやファルハディのようにワタシは吸収したし、イドの怪物と化した八坂のとあるシーンに至ってはカーペンターオマージュ炸裂ですらあったのである。劇伴があったことを覚えていないくらい日常の音を“障る音”としてミュージック・コンクレートのごとく取り込んでいたことや、常に対象に対してよそよそしいショット、赤以外は何か途中のような色、といった設計の端正で抑制された意思は美しい文章で書かれた弔辞のようにも思えたのである。8年後の章江は体型すら変化して曖昧で茫洋とした輪郭の変化が彼女の壊滅を示していたけれど、あれは補正なんだろうか、実際なんだろうか。薄皮を剥がすような精神の変質に『降霊』の風吹ジュンを想い出した。
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2016年10月12日

ジェイソン・ボーン/少し休め、みんな疲れてる

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※若干内容に触れています

ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)は弱くなった。ただそれは加齢や消耗による肉体の衰えというよりは、たとえば『ボーン・スプレマシー』におけるナポリの拘束シーン、取調室で沈黙のうちに最適解を計算し、あくまでも合理性に基づく最短距離で可能性を広げたり潰してはそれを実行していく彼の行動には情動による誤差が一切ないわけで、それを可能にしていたジェイソン・ボーンという人工人格と、デイヴィッド・ウェッブという旧人格の支配率によって閾値が変化したことがボーン/ウェッブの実行精度を低下させているのだろう。したがって、この映画に感じる混乱と混沌はそのままボーン/ウェッブの反映でもあったわけで、ワイヤーに足を取られて宙づりになったり、不意打ちとはいえ素人の一撃を浴びてしまったりする姿がノイズになったとしても、そもそもこれが、デイヴィッド・ウェッブという社会的人格を取り戻すにしたがってジェイソン・ボーンとしてのデモニッシュなパルスは失われていくというジレンマをまとったリブートであることを忘れてはならないわけで、ポール・グリーングラスやマット・デイモンはそうした負け戦を覚悟のうえでジェイソン・ボーンをゼロから再生し成熟を目指す物語を選んだということになるのだろう。それに伴ってなのか、かつてのクロースアップで俯瞰するようなアクロバットの昂揚は身を潜め、どちらかというと躁鬱的な抽象画に沈み込んでいくようなIMAXスクリーンでの没入感にはドラッギーな彩りすら覚えたし、それらを隙あらばの神経症的なズームと組み合わせることによって、ボーンをむしばみ続ける実存の吐き気を体感させるかのような悪趣味を感じたのである。とは言え、ボーン/ウェッブの重層による感情の共鳴が彼の通り過ぎる世界を無慈悲に誘爆していたかというと、このシリーズで初めてトニー・ギルロイの手を離れたシナリオはせいぜいが彼のつぎはぎに過ぎないドラフトレヴェルに思え、特にへザー・リー(アリシア・ヴィカンダー)をパメラ・ランディの後継に据えたいがための拙速で彼女の造型がどうにも安定しないのがストーリー上のノイズにさえなっているわけで、ロバート・デューイ(トミー・リー・ジョーンズ)射殺時のそれが激情にかられた挙句の行動であったような表情は、アーロン・カルーア(リズ・アーメッド)の意味ありげな邂逅とクロスする彼女の因縁によるものかと思いきや、その後の展開からは野心達成のために障害を排除したに過ぎないニュアンスにとどまってしまい、あの瞬間彼女もまた“河を渡った”ことにしたかったのだとしたら、彼女の使用前使用後があまりに平坦過ぎて、このあたりは血の涙を流す寄る辺ないロマンチシズム、すなわちギルロイの刻印がないことによって暴落したシナリオの軋みがさらけ出されていたように思うのである。したがって、このフランチャイズが今後も続くのだとしたらジェイソン・ボーンを撮れないけれど書ける脚本家と、撮れるけれど書けない演出家が再度タッグを組むしかないのではなかろうか。そのために人がポンポン死ぬようなヤバいファイルを、オフラインですらない他人のPCで無造作に開くボーンはもうボーンではない。
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