2017年03月28日

キングコング:髑髏島の巨神/ストレイト・アウタ・1973

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『猿の惑星』のリブートを観た時に“スリップストリームをメインストリームにブラッシュアップする時、CGの超進化が可能にしたあまりに流麗で隙のない大嘘とそれを取り繕うように仕立てられた相克と実存のドラマが醸す正論のとりつく島のなさ”には正直言って辟易しないこともないとか何とか書いた覚えがあるのだけれど、何よりこの映画はそこを完全にオミットしたのが最大の勝因で、自分に服従を誓う者への絶対的な庇護とそれを脅かす者にとっては災厄とも言える脅威となりうる、まさに神としてのコングを祀るためには人間都合の切った張ったはどうでもいい話だしね、とでもいう清々しいまでの人外本位を貫いた監督の勝利だったように思うのである。では、サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・グッドマン、リチャード・ジェンキンス、ジョン・C・ライリー、トム・ヒドルストン、ブリー・ラーソンといった新旧の手練れたちがなぜ必要だったかと言えば、演技の深淵など見せずともその上澄みにたたえた滋養が可能にする豊潤なハリボテこそを欲したからで、その中に放り込まれたプロダクト・プレイスメントとしてのジン・ティエンがどれだけ木偶に映ったかを考えればその意図が明白なのは言うまでもなく、『ジュラシック・パーク』のメインキャストがジャンル映画らしからぬ演技派を揃えていたことなども思い出すのである。最初のヘリ戦において早々に人喰いとしてのコングを復活させることでPJコングは参照リストにないことを告げた点も話が早いし、これまでのキングコングでお約束となっていたロマンス要素では、女性からの(あくまでも愛情ではなく)同情とコングからの憧憬といういわゆる美女と野獣的な関係性の身勝手な傲慢が、正直に言うとさほどしっくりこなくて居心地が悪かったものだから、何よりそれを不要とバッサリとオミットした監督の慧眼こそをワタシは讃えたいと思う。死んでいく人間が片っ端から犬死になのも、神の国における鼻くそ程度の人間風情を嘲笑うようでたいへん気分が良い。できればパッカード中佐(サミュエル・L・ジャクソン)にはエイハブ船長のファナティックよりもキルゴア中佐の如き真顔の狂気で歩んで欲しかった気もするけれど、そうすると例のアレを言えなくなってしまうがゆえ(言ったかどうかはともかくとして)やむを得なかったのなら、まあ仕方あるまい。80年代生まれの監督にとって、セーフティネットとしてのインターネットなどまだない、世界に切り込むならおのれの頭と身体でそれを可能にするしかないロウパワーに溢れた無骨で歪な70年代がノスタルジーではなくルネサンスとして映るからこそ批評というよりは衒いのない同化に焦がれたのだろうし、この映画の痛快と屈託のなさはそうやって監督が手にした解放感がもたらしているのは間違いがないところで、喪失と再生を吸飲したペシミズムのオーヴァードーズにつかまることなく振り切ったその爽快な逃げ足こそがやはり新しかったのではなかろうか。ブロンドの色香に惑ってはビルから墜ち続けるコングではなく、チェーン&スクリューを手にして、お!これ使えるんじゃねえか?とテンションが上がったりとか、あんまりめんどうかけんじゃねえぞ、まあいいけどさ、みたいにぶつくさ言いながら帰っていく後ろ姿とか、そういう自由で独立したコングが観たかったんだよ。
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2017年03月21日

おとなの事情/月がとっても黒いから

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※若干展開に触れているので、鑑賞予定の方スルー推奨

結局のところ夫婦や恋人にしたところが赤の他人(原題 "PERFETTI SCONOSCIUTI" )であって、自分が見せたい自分という幻想の共有が可能な相手として互いにフィットしたにすぎないわけで、ならばその幻想が隠す部分をことさら取りざたしないのがその関係性においてはフェアなはずだし、より広義にワタシたちを社会的な動物としてとらえた場合、その隠された部分=プライバシーとして尊重されるべきなのは今さら言うまでもないから、わたしたちに秘密なんてないでしょ?と言って開始されるゲームそのものが既に掟破りでフェアではないのである。そもそもエヴァ(カシア・スムートニアック)は、ある事情により自分の身の安全が保証されていることもあって、なかなか隙きを見せない夫への苛立ちからそのゲームを言い出したにすぎず、SNSなりスマホなりがもたらしたパラダイムシフトに否応なく巻き込まれていく人々の悲劇というわけでもないのである。観る前はそれなりにグサッと刺さって自分の返り血を浴びることになるのかなと少々ビクついていたりもしたのだけれど、デジタルデヴァイスの暴力性をトピカルに描くことが監督の目的ではないことはラストのオチで明らかなのと同時に、前述した幻想と秘密の保持の上に人間の尊厳が成り立っていることを告げているし、彼や彼女の秘密を知っていくことでそれが例えろくでなしの所業だったとしても、96分を経た最後にはそれぞれに人間としての奥行きというか陰影がより滲んだようにすら思ったのである。ただ、引きずり出される秘密と嘘の数々にあって、ペッペ(ジュゼッペ・バッティストン)の場合はそれが本来隠すいわれのないことである点で異質であり、そのことをきっかけに始まるレレ(ヴァレリオ・マスタンドレア)とコジモ(エドアルド・レオ)の衝突によって、差別とは個人の尊厳を剥奪して記号化していく作業に他ならないことをきちんと線を引いて伝えているあたり、伏線としての厚み以前に監督がどうしても言っておきたいことだったのだろうと考えたりもした。このシークエンスに限ったことではないのだけれど自分たちの始めたゲームが実はロシアン・ルーレットであったことに気づいていくことで、オフビートコメディがほとんどソリッドシチュエーションスリラーの様相を呈していく舵取りに終盤の客席ではすでにくすりとも笑いが起きなくなっていたのだけれど、なるほどそういうわけで月食の夜なのかという仕掛けの他愛のなさには救われた気もしたのだった。おそらく今後あちこちでこのリメイクが作られるだろうけれど、例の差別問題がシビアな国ほどツイストが効果てきめんとなるのはなんとも皮肉に思える。
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2017年03月19日

アメリカン・スリープオーバー/きっと死ぬまで夏なんだ

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いつもの夏の夜を素知らぬ顔でやり過ごそうと、まるでシェルターに避難でもするかのように、寝袋を抱えた彼や彼女らが逢魔が刻をすぎた通りを三々五々集まってくる。その顔に浮かぶのは、昼に気づいた胸騒ぎの答えが夜になれば見つかるとでもいう作り笑いのような楽観で、自分たちにはそれが許されるはずだというただそれだけを裏づけに夜を従えている。しかし、開催される4つのスリープオーバーのそれぞれに一人づつ、自分を夏の夜に委ねてしまうことの焦りや怖れ、楽観のツケに関する気配といったいびつな塊がポケットに入りきらなくなった彼や彼女が不穏分子となり、しかし、夏が過ぎ夜が終わった後でいったい自分はどこにいるのか知る由もない苛立ちを背負ったまま夜の街路をほっつき歩き、あるいは走り出し、車を走らせ、踊りだしたその後で、オプティミズムのおぼつかなさと釣り合う塊の正体がペシミズムであることを知るのである。それについては片岡義男が“だからこそいま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と完璧に解題していて、マギー(クレア・スロマ)がスティーヴン(ダグラス・ディードリッヒ)のキスを好意的に拒んだのは、そのキスが夏と夜と自分を永遠に変えてしまうであろうことを十代の本能で知ったからに他ならず、それはそれで決して嫌なことではないけれど、少なくとも明日の朝ベス(アネット・ドノワイエ)とパレードで踊るまではペシミズムなど知らないままでいたいのだとするしなやかな拒絶こそが、この映画のマニフェストだったのではなかろうか。けれど心に残って消えないのは、よく晴れた日に華やぐパレードから遠くにいる彼や彼女のことであって、思春のアナーキストとして夜の通りを走り抜けたクラウディア(アマンダ・バウアー)と、「今までに一度だって君は考えたことが…」のその先を言えるはずなどないことを知りつつ身を切るような嘘をついたマーカス(ワイアット・マッカラム)にとって、青春は自分を刺しにくる存在でしかなく、先手を打つか身をかわすか、いずれにしろモラトリアムを脱ぎ捨てストリートワイズを身につけるしかない青いメランコリーがどうにもこうにも胸に痛くてたまらない。9月にはじまる新学年を前に、夏の訪れと共にひとたびリセットされたならその夏の間じゅう自分は世界にとって何者でもなくなるのだという圧倒的で底無しの自由と不安を、日本の学校制度で十代を過ごしたワタシはまったく知る由もなく、したがってペシミズムの前段としてのノスタルジーよりは完璧なファンタジーとしてこの映画も存在するわけで、やはり胸を張り裂くのはこの夏に自分が永遠に間に合わないことへの性急な焦燥でしかなかったのである。神話の勃興と終焉という意味ではその影を意識せざるを得ないのは仕方のないことで、終盤で登場する、恋人たちが深夜にネッキングする廃墟が『イット・フォローズ』への入り口であるのは言うまでもないだろう。焦がれ続けた彼女にそこでようやく出会ったロブ(マーロン・モーロン)がいともあっさり彼女から立ち去るのは、彼女が既にあちらの世界、すなわちセックスによって生と死の循環に組み込まれた世界の住人であることを知ったからで、そこに堕ちていくことへの甘美な憧憬と畏れが培養する十代の悪夢を名乗る怪物については、既に『イット・フォローズ』においてワタシ達は詳しいはずである。そしてこの2作の血筋について考えてみた時、やはりそれを神話の生と死とするよりは切り離されたシャム双生児と崇め鎮めるのがふさわしく、そう考えてみれば2010年のこの作品がいまだ『イット・フォローズ』と同じ鼓動で脈打っていることも何ら不思議ではないように思うのだ。夏を殺さないと夏に殺される。
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2017年03月16日

お嬢さん/アイ・ワズ・メイド・フォー・ラヴィン・ユー・ベイビー

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ミイラ取りがミイラになる話を誰も見間違えることのないよう、表地(第1部)と裏地(第2部)を丹念に見せた後で、ではそれを合わせてみた時に(第3部)いったいそこにはどんな模様が映し出されるでしょう?という謎かけそれ自体は『コクソン』とは対照的に明快すぎると言ってもいいくらいで、いわゆるコンゲーム的な妙味はあくまで借り物程度に留められている。その仕掛けと仕組みからすれば当然のこととして非常に芝居がかった第1部に比べ、まるまるをサブテキストにあてた第2部がこの映画の心臓といってもいいわけで、植民地と階級および性差というがんじがらめの支配構造の中で自由を手にするための機会を手に入れた2人が、愛と憎しみの使い方を生まれて初めて知ることで一発逆転の大勝負に出る姿の躍動と発熱にフレームがゆがむ瞬間こそがこの映画のピークなのは間違いないように思う。そして最後に塀を越える瞬間、スッキ(キム・テリ)はトランクを並べて秀子(キム・ミニ)に最後のひと押しをしてやるのだけれど、一度そこを越えて走り出した2人にもはやお嬢様と小間使いの関係などあるはずもなく、ラストで据えられる美しいシンメトリーこそが、この映画が2時間半をかけて映し出そうとした代替え不能な自由の意匠なのだろう。ただ、表と裏を見せつける機会を与えられた秀子、スッキ、藤原伯爵(ハ・ジョンウ)に比べると、悪の権化としての上月(チョ・ジヌン)は最後まで記号化された変態としての域を出ないままで、あれだけの道具立てと舞台仕立てを幻視し作り上げた男にしては、伯爵に秀子の痴態を描写するようせがむ場面での、フェティシズムの欠片もないただ突っ込みたいだけのオヤジでしかない薄っぺらさに(これは字幕の問題であって、ネイティブには響いたのかもしれないけれど)少々興ざめしたのである。この映画における第1部にとどまった(というかとどめられた)『イノセント・ガーデン』への会心にしてオーヴァーキルな返り討ち。それにしても、いったい今までどこにいたんだ、キム・テリ。
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2017年03月14日

哭声 コクソン/お隼さん

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※若干ネタバレにつき鑑賞予定の方スルー推奨

ほぼラスト近くのあるシーンで山の中の男(國村隼)の手のひらに刻まれたあるモノを観た瞬間、エピグラフの意味がようやく呑み込めたのと同時に、悪玉と善玉の対立というオカルト・ホラーの定形を借りた上で、それをただただうっちゃりたいがためにわざわざ土俵際まで不自然に誘い込むその手立ての、語り口で捻るよりは映画の構造そのものを撹乱することでその撹乱それ自体を感情へと直結させるナ・ホンジンが、どうしたって磨きをかけずにはいられないのはやはりそこなのか!という歪でよこしまなサービス精神には敬服せざるを得なかったのである。それでも今回は、コメディ→トラジコメディ→トラジディというラインをジョング(クァク・ドウォン)に一貫させたことで最低限の着地は行われるし、優れた韓国映画が持ち合わせる、忘れがたく敗けるにはいったいどうすればいいのかという妄執の粘度と濃度と彩度に首を絞められ鬱血しつつ、しかしあらかじめ小さく空けられたオフビートの空気穴によって新鮮な空気が送られ続けることで、ジャンル映画の気楽さも終始維持されていたように思うのだ。前述したようにエピグラフの示すところの意味が分かるのは、というか分かったような気になるのはほとんど映画が終わる寸前で、そこからふり返って終始一貫していたのはいったい誰だったのかを考えてみれば、やはり目撃者ムミョン(チョン・ウヒ)と相対していた人間が娘ヒョジン(キム・ファニ)を苦しめていたことになるのだろうとそれなりにピースを埋めてみたりもするのだけれど、人智を超えたところでいにしえより繰り広げられてきた善と悪がせめぎ合う、その勢い余った一手がある田舎の村をなぎ払っていく無慈悲の物語の、とりわけ善きものであるはずの存在が真夜中の路地裏でジョングに告げるのは、善きものは悪しきもののために存在しているにすぎず、その間で苛まれる曖昧な善し悪しのワタシたちに対しては実は無力なのだという告白であり、神のごときですらが途方に暮れる敗け方とそれを肯定すらするラストは、ペシミズムの暴力性を絶対零度と唱える韓国映画の面目躍如としか言いようがないのではなかろうか。絶えず余白に暗闇を湛えるシネスコの寂寥と、汚れと穢れを一分の隙なく組み上げた圧倒的な美術にも眼福でため息が出る。クァク・ドウォンや國村隼は言うまでもなく、映画の不穏分子としては、かつての夏八木勲を呼び出すようなファン・ジョンミンのしなやかな野卑が相当に効いている。
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2017年03月07日

ラビング 愛という名前のふたり/早く家に帰りたい

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都市生活者の憂鬱でも郊外生活の生き地獄でもない、ジェフ・ニコルズが手を貸して連れそうのは、ブルース・スプリングスティーンが ”Darkness on the Edge of Town” と歌ったアメリカの暗闇に妻や子供、恋人が堕ちてしまわないよう見守るキャッチャーに他ならず、イノセントとノット・ギルティの間でどこかしら途方に暮れたように立ち尽くすその風情は、大人になったホールデン・コールフィールドのように思えたりもするのである。今作ではそれが寓話や拳銃の助けを借りることなく、逆に言えばどこにも逃げ場のない物語として顕わになる分だけ、キャッチャーを自任するホールデンに対する守護天使としてのフィービーがジェフ・ニコルズ作品におけるヒロインに投影されてきたことにも気づかされるわけで、主人公が守っているつもりが守られているという相互依存でも共依存でもない互いを慈しむ黄金律は、今作においてもミルドレッド(ルース・ネッガ)がジェシカ・チャステインやリース・ウィザスプーンのそれをタフで鮮明に継承してみせている。ブルックス保安官(マートン・ソーカス)の取り調べによって、かつてリチャード(ジョエル・エドガートン)の父がミルドレッドの父に雇用されていたことが語られること以外、リチャードとミルドレッドのなれそめはまったく語られることもなく、それはおそらくリチャードのレッドネック然とした佇まいが物語を強化することを見越したワタシのような観客をたしなめる意図もあってのことなのだろうし、そうした色眼鏡をはずさせることで、普通に恋をして愛を育み、子供が出来たことで正式に結婚し家庭をもつというただそれだけのことを真っ当に遂げようとするどこにでもいるアメリカのカップルが立ち向かわねばならない理不尽の卑劣をいっそう浮き彫りにしたのだろう。したがってリチャードはリベラルな反逆者といった風に保安官や判事に敵対するでもなく、体制の決め事に対しては淡々と踵を返して生活を優先させるのだけれど、その愚直なまでの揺るぎのなさは裏返せば自身の自由を宣言する試みでもあるわけで、いつしかリチャードの背中に『暴力脱獄』のルークがだぶって見えたりもしたのである。それだけに、黒人の友人から「今となっちゃお前も黒人みたいなもんだけど、お前はまだやり直しがきくんだよ、おれは黒人だから無理だけどな、それはな、離婚すればいいんだよ、簡単だろ」と言われ、小さく笑みをうかべてうつむきながら「離婚、か…」とつぶやくリチャードの、いったいこの世の中にはそれほど残酷な言葉があるものなのかと口にした自分を呪いでもするかのような苦渋には胸が張り裂けそうだったし、その出来事があった夜「何があっても俺がお前を守る」と言葉少なに繰り返すリチャードに「わかってるわ」と小さくうなずくミルドレッドの姿は人間が互いに為しうる幸福の最も満ち足りた瞬間をとらえ、そしてそれは心の底からそうあろうとすれば誰でも為しうることを告げていたのではなかろうか。レンガを積み、車をいじり、妻の手を取って肩を抱き、そうやって手ざわりのあるものだけを信用していれば間違いはないのだとする日々の確信を細やかに積み上げる美しい手際には小さなため息の止むことがなく、自由と差別の分断が進行する国にあっては、ジェフ・ニコルズやデヴィッド・ロウリーらが見渡すアメリカの土地勘が今後いっそう大切な指針になっていくように思うのである。
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2017年03月05日

アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発/THEY LIVE WE SLEEP

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そんなものがあるのかどうかはともかく、ミルグラム基金がお金を出してミルグラム記念館で上映するために撮らせた「実験者:ザ・ライズ・アンド・フォール・オブ・スタンレー・ミルグラム」とでもいうある種の教育映画で、それは開始早々にミルグラム博士(ピーター・サースガード)がこちらを向いて第四の壁を越えてくることや、彼をこの仮説に向かわせたであろうオブセッションや、当時としてはスキャンダラスな実験成果への反発など、紆余曲折も至極淡々と語られる真顔の有無を言わせぬというかとりつく島のなさというか、まるで視聴覚教室で講義を受けているような98分間だったのである。先ほど使った教育映画という言葉には、分かり切ったことをあらためて言われる説教臭さもあるわけで、当時の疑うことなく善きものを拠り所とする世界からその善性という共同幻想を引っぺがす、その仮説も実験も結果もそのいずれもが反逆と背信のふるまいとされたことはハンナ・アーレントの例に漏れず理解できるのだけれど、それが何のひっかかりもなく素通りしてしまう気がするのは、既にワタシたちが毎朝目覚めるこの世界がミルグラム実験の実験室にほかならず、その世界を見渡してみれば、ワタシたちはみな言われなくてもスイッチを入れる存在であることが言わずもがなの正論に思えるからなのだろう。だからこそ、せめてできるだけスイッチを入れられないような手続きやルールを持ち寄って自分たちを縛りあげてきたはずが、もうそういうのは面倒くさいからいいやと欲望や本能の規制を解除する、すなわち平山夢明言うところの“「面倒くささ」っていうのは狂気の孵卵器、つまり面倒くさがってると狂うんですよ”が正式に発現した真っ只中に今のワタシ達はいるわけで、最近はもう、それが行くところまで行って自爆するのを待つしかない気すらしているのだ。ウィノナ・ライダーは、一歩踏み外せば神経の暗闇に転落しそうな剥き出しがいしだあゆみのようでおそろしい。そして何より、ジョン・レグイザモはじめ、アンソニー・エドワーズ(グリーン先生)やエドアルド・バレリーニ(『ディナー・ラッシュ』の若きシェフ)といった懐かしい顔のカメオがにぎわうのはともかく、日本におけるスクリーン上の新作としてはアントン・イェルチンのラストショットとしても記憶しておかねばならないだろう。ほんとうにバイバイ、アントン。それにしても「アイヒマンの後継者」はないだろう、いくらなんでも。
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2017年03月02日

愚行録/夢見るように刺されたい

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原作未読。オープニングのシークエンスで田中武志(妻夫木聡)が見せるある行動によって彼が信頼できる語り部ではないことをあらかじめ宣言してしまうこともあり、フーダニット的なミステリーの筆運びにはさほどそそられるわけでもなく、そもそも監督にしたところで興味があるのはもっと別のところにあるからこそ、そうやって面倒を省いてしまったようにも思えるのである。ではいったい監督は何を為そうとしたのかといえば、タイトルそのままに愚行の記録を活写することであって、映画は殺人に関する動機や背景もそこそこに、愚者の動物園におけるその生態と行動にカメラを近接してはそれらの目つきの変幻や肌のぬめりとマーキングやマウンティングとの相関を、排泄物の香りや甘噛みからしたたる涎のツヤまでも絡めながら、あらかじめ愚者と生まれてきた者が他者を愚者へと引きずり込む時の昏いダイナミズムの、その中にワタシたちの絶対性を看て取ることこそが映画の可能性であり、自分はそれに魅入られてやまないのだという宣言でもあるのだろう。その手続として感情を漂白しむき身に晒し、虹彩を絞って目眩ましを払い水晶体を曇らせる湿度を除去するために監督が求めたのが、徹底して唯物的なカメラであったことは言うまでもないし、向井康介が切りつけては刺すように脚色したセリフと一体となって感情を状況として視せていく時の愉悦は、既に黒沢清において手ほどきされた嗜みにも通じて芳しく、光子(満島ひかり)の独房や杉田(平田満)のカウンセリングルームに思わずうなずくような既視感の正体もそこへ向かっているはずである。繰り返しになるけれど、前述した理由もあって羅生門的乱反射の醸成を含むミステリーとしての着地や、真理と倫理による断罪や贖罪といった、この手の映画が提示して然るべきあれこれは決定的に欠いているし、それがいけないことではなく時折(主に満島ひかり)冷熱の熱量が飽和してしまうシークエンスもあって全体としてはひどく歪な手触りの映画ではあるけれど、そのバランスの捨て方こそを名刺代わりとした監督の、頼もしさというよりは伏し目がちのふてぶてしさに何かを約束されたように感じたのである。初監督作品においてこの布陣を可能にした森昌行(オフィス北野)が、今後は日本のジェレミー・トーマスとなって邦画を横断してはくれないものか。
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2017年02月27日

ラ・ラ・ランド/溺れる者から藁をもつかむ

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新作で真っ向からミュージカルに取り組んでいるとかいったニュースを知って、やはり『セッション』の異形は監督にとってのプライマス・スクリームであったのか、さすがにあそこまで吐き出せばさぞかし憑き物も落ちたことだろう、でなければ人工の奇形たるミュージカルに自身を収めることなどできなかろうよ、などと思い、つらつらとカラフルなスチルなど目にする内、ああこれは正面切って『ワン・フロム・ザ・ハート』の復讐でもしてくれるのかなと、スターダムを駆け上がっていく監督の野心ときらめきを訳知り顔で眺めていたのである。そして結論から言うと、憑き物は落ちていないどころか、憑き物を抱えて彷徨するものたちの気高さとそれゆえの哀しみを世界に向けて謳い上げるために監督はミュージカルというフォーマットを選んだに過ぎなかったわけで、それでも気づかぬ阿呆どもにむけて「少しの狂気が新しい色を見せてくれる」「イカれてるように見えたとしても、どうか破れた心に乾杯を」という歌詞まで発注した上で、それをミア(エマ・ストーン)覚醒のシーンで歌わせたのである。したがってワタシにとってこの映画のピークは、夢醒めぬ阿呆ども(The Fools Who Dream)とサブタイトルのついたオーディション・ソングをミアが切々と歌い上げるシーンに他ならず、何かもうクロスロードで悪魔に出くわした気分ですらあったのである。『セッション』を観た限りでは、白人は白人ゆえにジャズを越境できないというナット・ヘントフ的コンプレックスが反逆の動機になっているのかと思っていたのだけれど、寄らば斬るぞとにじり寄る刃の先は今作において非原理主義の黒人ミュージシャンにまで向けられ、そこでミアのオーディション・ソングを聴けば瞭然なように、デイミアン・チャゼルにとって世界はセーヌ・ダイヴァーのために存在するわけで、その野心の確信と達成においてすべての犠牲は有効とされるのである。したがって、あくまでセーヌ・ダイヴァーの代弁者にすぎないセバスチャン(ライアン・ゴズリング)の役割はミアの礎となることであって、ラストで提示されるあちらであろうとこちらであろうとセバスチャン自身はミアのようにダイヴすることが許されていないわけで、最後に彼がミアに送る微かな笑みは、君は俺の屍を乗り越えていけというサインにしか見えなかったのだ。チャゼルにとっては真理の追究者=セーヌ・ダイヴァーであり、そこへ向かうことの叶わない者はいずれ足蹴にされるだろうという冷徹で酷薄な認識を今作において遂に確認した時、何のことはない、フレッチャーこそがデイミアン・チャゼルであったことに気づくのである。そしてもう一つ薄々気づくのは、チャゼルにとって真のダイヴァーとは深く潜りすぎて時には戻ってくることすら叶わないダイヴァーであって、例えばチェット・ベイカーは溺れたに過ぎず、マイルス・デイヴィスはその知性で泳ぎ切ってしまったという理由で彼のリストには入らないだろうということである。この映画ですら、ミアと彼女の狂言回しとしてのセバスチャン以外の登場人物たちに見られる最低限のつじつまのような造型は、チャゼルが人間の在り方そのものにはさほど興味を持っていないだろうこともうかがえて、それは要するに目的のためには手段を選ぶことが一切ないということで、ジャズの葛藤を描くになぜビッグバンドのしかも競技ジャズ?、ジャズ原理主義の救済をなぜミュージカルスタイルで?といったどこか不可思議なジャズのツイストもその紛うことなき反映なのだろう。そうやって生まれる異物ゆえ常にジャンルから蹴り出され続けるにも関わらず、気がつけばその埒外を賑わせているのは放蕩息子のダイナミズムゆえなのか、次作にニール・アームストロングの伝記映画を選び、人間をひたすら描き切るしかないこのジャンルの足かせを自ら嵌めに行ったある種の変態性が、おそらくは『ライトスタッフ』あたりをどんな風に食い尽くすつもりなのか、しかもそこにまたしてもジャズの変奏はあるのか、新種の奇才の動向を気にせずにはいられないのも確かなのである。しかしこれだけセバスチャンにジャズ警察を演じさせておきながら、肝心のジャズについてはホーギー・カーマイケルの座った椅子しか記憶に残っていないというのは普通であれば何らかの皮肉として描かれるわけで、そのあたりの意識と無意識のさじ加減で尻尾を掴ませないあたりほんとうに食えない監督というしかなく、そもそもジャズですら手段なのではなかろうかという気すらし始めたよ。
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2017年02月25日

ナイスガイズ!/L.A.コネクション〜楽して走れ

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毒にも薬にもならないからいいんじゃない!と言われれば確かにそれはそうなんだけれど、毒にも薬にもなった上でなおかつ笑わせてみせた『インヒアレント・ヴァイス』を過ごした後とあっては、このいかにもスタームーヴィー然としたスタームーヴィーの化学反応の無さに見て取れたのは、せいぜいが敗け続けた70年代の鈍色に嫌気がさして躁病的な原色をまとった80年代のノンシャランを、ついぞ更新されることのないシェーン・ブラックの行って帰って出て入っての紙芝居的プロット世界でしかなかったように思うわけで、これが70年代のストーリーでなければならない意固地も感傷も最後まで見当たらなかったように思うのである。どちらかといえばホランド・マーチ(ライアン・ゴズリング)にそのチャンスはあったようには思うのだけれど、心優しきゴズリングはその役回りを気前よくホリー(アンガーリー・ライス)に譲ってしまうし、意外なほど物分りのいい(というかキャラクター造型に失敗した)ジャクソン・ヒーリー(ラッセル・クロウ)はといえば、物分りの悪いゲス役をかつてのファム・ファタルたるジュディス・カットナー(キム・ベイシンガー)に譲ってしまう始末で、そうした意味では女性たちが男どものケツを蹴り上げながら転がるはずの映画なのだけれど、あの時のジーナ・デイヴィスを思い出してみればわかるようにシェーン・ブラックはそちらの按配がさほどよろしいわけでもない。キム・ベイシンガーが取り憑かれたような顔で吐き捨てるあの言葉が図らずも今のアメリカに蔓延する呪詛とまったく同じなのは、まったくの僥倖だろう。本気で体制のモンスターに殴りかかったなら、70年代のドン・キホーテたちは打ち倒されて泣き伏さねばならないはずなのである。それはもう『破壊!』のエリオット・グールドとロバート・ブレイクのように。
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2017年02月21日

雨の日は会えない、晴れた日は君を想う/裏も積もれば表となる

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※本来なら熱に浮かされるはずが、どんどんと微熱から平熱へと回復してしまったその理由を考えていたら何だか偏屈な感想になってしまったので、好きになれた方はスルー推奨

とくに寝落ちした記憶はないのだけれど、カレン・モレノ(ナオミ・ワッツ)がデイヴィス・ミッチェル(ジェイク・ギレンホール)の人生に拮抗し、そこに介入するに足る事情と理由がいつまでたっても自分に説明できないまま、ああこれはメタファーだけでどこまで映画は成立するかという実験作なのだろう、だからワタシがいるこちらの現実が紐づける制約や制限、限界のラインは一度手放してしまわなければいけないのだ、そうやって現実逃避した浮世離れに頭を撫でられるアイソレーション・タンクの中で見る夢なのだ、カレンもクリス(ジュダ・ルイス)もデイヴィスが奥底で切望した家族のメタファーなのだ、だからあの母子が抱えている深刻さがどうも明らかにならないまま、あなたの正直が羨ましいとリベラルな身のこなしで大麻をふかして微笑んではいっしょに砂浜をはしゃぎまわってくれるタフなシングルマザーも、アメリカの中東派兵をシニカルに笑い、セクシュアリティを真顔のユーモアで語り、共に銃を撃ち、クラシック・ロックで心を交わす12歳の見てくれで21歳のようにふるまう15歳の息子も、デイヴィスがそうありたかった世界のメタファーなのだ、そこでは彼がルールとなる世界のメタファーなのだ、それを構築することによって彼は超えていかなければならない世界の境界を知り、喪の仕事を完了するのだ、とまあそんな風に得心してはみたのである。ただ、これではデイヴィスの道行きが安穏すぎるということなのか、彼の心地よいリハビリに冷水をかけるような亡妻ジュリア(ヘザー・リンド)の秘密が明かされるのだけれど、正直言ってこの試練は必要なのだろうかと訝しんでいたところが、終盤のおしつまった墓前のシーンにおいてまるで卒業試験でもあるかのように伏線は回収されることにより、どこへ出しても恥ずかしくないデイヴィスとなるわけで、再び回りだしたメリーゴーラウンドこそがそれまで解体と破壊にいそしんできた彼がついに再生へと足を踏み出したことの最終的なメタファーとなるのだろう。と思っていたら、まだその先で子どもたちに交じってボードウォークを満面の笑みを浮かべて走るデイヴィスの姿を目にするわけで、ああ、これは幼い頃に駆けっこで一番になれなかった屈託からの解放となるメタファーなのか、念には念を入れるのだなと感心して息を吐いた瞬間、一瞬のストップモーションを経て暗転したスクリーンにデイヴィスのヴォイス・オーヴァーが「心をこめて、デヴィッドより」と追い討ちをかけ、この映画そのものが彼のつづった手紙、言い換えれば世界のあちこちで喪失につまずいては寄る辺のない日々を生きるワタシたちに向けた再生への処方箋なのだという、皆がそのつもりで客席に座っていた100分間のタネ明かしを念押してくれるのである。もちろん映画=メタファー(暗喩)であるのは今さら言うまでもないのだけれど、ここまですべてを噛んで含めるような喩え話で語られると、どうも少しばかりバカにされているのかなという気にもなってくるわけで、そこに隙のない誠実な語り口を加味すると慇懃無礼などという厭な日本語などうっすら浮かび上がって来る気もするのである。義父フィルが立ち上げたジュリア基金にデイヴィスが抱く欺瞞と偽善を匂わすために用意された、いけすかない水泳選手のくだり(「胸さわってもいい?」)に至っては、そこまで曲解を怖れるのかと鼻白みつつ苦笑いなどしたのである。それと邦題として引用された劇中のあの言葉は少々意訳(If it's rainy, you won't see me, if it's sunny, you'll think of me)が過ぎるのではなかろうか。晴れた日くらいは私のことを思い出してねっていう茶目っ気と皮肉を効かせた妻からのメッセージであって、少なくともあんな風な仄かに明るいメランコリーで上を向いた日本語ではないし、そもそも“君を想う”の主語がデイヴィスなのだとしたら、雨だろうが晴れだろうが変わることなく向き合わなかったからこそ取り返しのつかない悔いを残したのではないかと、少しわけがわからないでいる。
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2017年02月19日

たかが世界の終わり/ストレンジャーズ・ホエン・ウィ・ニード

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ルイ(ギャスパー・ウリエル)が「怖くたまらない」のは、自らの手で行う喪の仕事に対してではなく、かつて否定した自分の一部と向き合うことに対してなのだろう。そしてそれはアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)にとっても同様で、暴力なのかタフな仕事のせいなのか、拳に傷を絶やさぬような男がその握り拳を引き絞ったまま泣いているのである。アントワーヌにとってルイは自分たちを否定した世界の象徴であり、他の家族にしたところで、シュザンヌ(レア・セドゥ)はルイの不在がもたらした自身の欠落を笑顔でなじり、母マルティーヌ(ナタリー・バイ)にいたっては、アントワーヌとシュザンヌが抱える屈託を言い当てた後で「やはりあなたを理解できない(けれど、愛している)」と言い放つ。特に母マルティーヌがルイの到着する前にこぼす「ゲイは美しいものが好きなのよ」という軽口や、場をとりなすつもりで「なにかゴシップを教えてよ、誰と誰が寝てるとかそういうの」とルイを焚き付ける哀しいまでに無邪気な無神経は、ルイがどうして家を出なければならなかったのか12年を経ていまだその理由に思い至らない、まさにその無自覚さゆえルイは家を離れたことをあらためて告げていたように思うのである。しかしそうやって一方的にサンドバッグとなることをルイが自らに課しているのは、もし死の事情がなかったとしたら、ひたすら血を遠ざけるこの関係を自分が見つめ直すことがなかっただろうことを知っているからなのと、12年を経て気づくことのなかった、家族とは全員が被害者であると同時に加害者である関係なのだという理解にほんの数時間で到達したショックにもよっているのだろう。そしてその理解の先にあったのは、これまでずっと血にかまけてきた自分たちは、こうやってあきらめと絶望を分かち合うことでしか新たな関係を始められないのだという答えだったのでなかろうか。そのことに、わけてもルイがたどりつくことができたのは血で濁ることのないカトリーヌ(マリオン・コティヤール)のまなざしがあったからこそで、彼が携えてきた重荷にたった一人気づいた彼女は哀しみをこらえながら裂けた傷口をふさごうと走り回る戦場の衛生兵のようにも思え、「あと、どれくらい…?」というそれとてダブルミーニングのセリフ以外、その表情、しかもほとんど目の変貌だけでルイと交感するマリオン・コティヤールの超絶には息をするのも忘れるほどで、アントワーヌが単なる粗野で卑屈な男として片づけられないのは、これほど誠実な知性をもった妻を持つ夫としての側面がどこかしらついて回るからで、自分たちを否定して出て行ったあげく成功を収めた弟を認めたら、自分たちが何かを間違ったことになってしまうという怖れによって忌避と愛情に引き裂かれる苦悩の、しかしその偽りのなさゆえザンパノの哀しみすら漂わせるヴァンサン・カッセルの背中もまた、マリオン・コティヤールの瞳に負けず忘れがたかったのだ。作られる料理の、ご馳走の装いではあるのだけれどほんの少しだけくすんでしおれたような活気のなさがこの家の密かな沈鬱をそっと一言で伝えて、ドランの映画を支配する血圧の、動脈のたぎりと静脈の昏睡をあらためて思ったりもした。それにしても、ルイとカトリーヌの間でかわされる敬語の、やわらかな緊張と慈愛のニュアンスがつかめないのは本当に残念としか言いようがない。
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2017年02月16日

マリアンヌ/わたしの名は。

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あの夜マックス(ブラッド・ピット)がベッドで読んでいたのが「ブライトン・ロック」だったことで、ああスティーヴン・ナイトが持ち込みたかったのはピンキーとローズが踏み抜いた薄氷の物語なのだなあと理解したし、ならばエピローグにおけるマリアンヌ(マリオン・コティヤール)からの手紙はピンキーのレコードとなるわけか、とさすがにハリウッド的大団円がグリーンのカトリック的ペシミズムなど受け入れるはずがないにしろ、この映画の偏平さを呼んだのがそうしたスティーヴン・ナイト成分のスポイルだったのではなかろうかと勘ぐるには十分だったのである。となるとピンキーとローズの関係はマリアンヌがピンキーとなる逆転が必要となり、すなわち主役はマリアンヌになるわけで命がけの打算と計算によってマックスを夫とするストーリーが次第に変奏していかなければならないのだけれど、戦時下の悲恋ものの“戦時下という側(がわ)”に夢中になった絵描きとしてのゼメキスにとってそれらは必要のない余白だったのだろう。オープニングからして既にこれが絢爛たるはりぼての世界で綴られる物語であることが謳われて、ゼメキスが要求するのはあくまでデザインされた感情の質感なのだけれど、そうした中にあってマリオン・コティヤールは不定型という感情すらを精緻にしたためて、それは彼女のフィルモグラフィーを見れば瞭然なように幾多の修羅場をくぐってきたことで最適化された切り札によっているのは言うまでもなく、そうしてみた時、明らかに役者としての場数がここ数年足りていないブラッド・ピットは正直言ってでくにすら映るわけで、本来がノンメソッドでミニマルな演技で切り抜けてきた彼の地肩の弱さがマリオン・コティヤールに圧倒されてしまうなかなかに残酷な瞬間を目撃することになったのである。マシュー・グードの扱いからして、皆がマリオンにかしずく映画であるのは間違いないにしろである。したがって、邦題はたいへんに正しい。
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2017年02月14日

グリーンルーム/ラスト・ボーイ・ストラット

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ヴァンに貼られたFUGAZIのステッカーとパット(アントン・イェルチン)の着るマイナー・スレットのTシャツ。そして楽屋の壁に掲げられた南軍旗を見たパットはスキンヘッドたちを前にデッド・ケネディーズの“ナチ・パンクス・ファック・オフ”をぶちかます。その後で彼や彼女を待ち受ける責め苦はそのストレート・エッジな思想が直截的にもたらしたわけではないのだけれど、ダーシー(パトリック・スチュワート)配下のスキンヘッドたちがダーシーの都合と思惑によって雑然と命を散らしていくのとは対象的に、必死に生きようと死んでいくバンドのメンバーたちを一瞬包む刹那の光はどこかしら青春の失敗のようにも描かれて、その混乱と混沌の中でパットもまたアメリカの暴力と不条理に溶けていき、ラストショットで並んで座り込むパットとアンバー(イモージェン・プーツ)の、まるでナチパンクのカップルにしか見えないその姿はアメリカが嘲笑う残酷な皮肉のようにも映る。そしてその意味合いこそ違え、『ブルー・リベンジ』に引き続き主人公が髪を切り銃をとるというトラヴィスの系譜が繰り返される一方、ここで殲滅すべき集団もまたスキンヘッドをユニフォームとしているわけで、ここに至ってイアン・マッケイらが体現したストレート・エッジなハードコアと、そのスタイルを醜悪に援用するネオナチとの代理戦争の様相すら呈し、それら命がけで闘う者と無表情に闘わされる者との決着にバッド・ブレインズが完璧な凱歌を奏でてくれるのである。それにしても、この監督が組み立てる命名できない感情の瞬間というか、観客であることによって予測してしまう正解をいかにはぐらかすか(そもそもワタシたちは正解を知らずに生きている)、そうやって間違った答えを重ねながらたどり着いた場所にどのような正当性を見出すことが可能かというフィクションならではの挑戦は、『ブルー・リベンジ』からより直接性を増してノンストップの情動に身を任せつつ、しかし同時にすべてのタイミングを監督の鼓動としてコントロールするアクロバットを可能にしていたように思うのである。なかでも楽屋に籠城したバンドが常軌を逸したテンションの中で思考の容量を超え感情の上下左右を失っていくあたりの“しでかし”こそは監督の面目躍如となる瞬間だろう。加えて特筆すべきは屠られる人々の破壊描写で、特に銃創以外の刺し傷と切りつけ傷および噛み傷の、まるでそれらの傷自体が意思表示であるかのように語りかけてくる表情に目を見張らされることになる。替え玉となるチンピラ2人が証拠のナイフ傷を残すため刺しつ刺されつするシーンでの、白く痩せた身体に寄る辺なく口を開ける荒涼とした刺し傷が実は一番震えが来たし、もう引き返せないことを誰にともなく宣言するアンバーのナイフ一閃を可能にしたエフェクトはこの映画で最高となる芸術点を叩き出した瞬間だろう。リース(ジョー・コール)がジャスティン(エリック・エデルスタイン)を再度絞めにかかったら、瞬きせずに目を凝らした方がいい。怒りにしろ哀しみにしろその上澄みを透かすことのできるアントン・イェルチンの資質によって、どれだけ血を吸おうとも映画は自重でふらつかないわけで、そんな風なマジックをもう目にすることができないのは本当に残念でならない。まあでも、やるだけやったじゃないかと肩を叩きたくなるような映画を最後に観られて少しだけ救われた。
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2017年02月09日

ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男/神様、もう脱ぎません

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ニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)に備わったはずの血肉はオープニングのシークエンスを最高潮に、物語が進むに連れ事態の狂言回しとなってどんどんと透けていくように思われる。オレは大義に殉じるのだと妻セリーナ(ケリー・ラッセル)と幼いわが子を狂信めいたあっけらかんで放りだし、その後は2人の消息を特に気に留めることもないまま、ある時思い出したようにかつての我が家を訪ねては、当たり前のように空っぽになった家から持ち帰るのは1冊の綴り方読本でそれとてレイチェル(ググ・ンバータ=ロー)との新しい関係を築くツールに過ぎず、何より驚かされたのはその後ようやく再会したセリーナと息子を前に涙の一滴も流さないどころか、2人の面倒を見ることが何か寛大さの現れでもあるかのように描かれていたところで、あてにならない夫を見限って家を出たのはどういうわけかレイチェルの失策とされていたのである。それともう一つ、沼地で逃亡奴隷モーゼス(マハーシャラ・アリ)たちと過ごすに日々にかつての僚友ジャスパー(クリストファー・ベリー)ら白人が合流してコミューンが拡大していく中、その活況につれモーゼスたち黒人が隅に追いやられてくことにまったく映画は無頓着で、自分を立て直す手助けをしてくれた彼らに払うべき敬意をニュートンがいつ白人の新参者たちに告げるのかワタシは気をもんでいたのだけれど、それがようやくなされるのが食べ物をめぐる小競り合いの仲裁というわかったようなわからないようなエピソードだったことにも少なからず落胆したのである。そんな風にしてマシュー・マコノヒーのチャームを頼りにするばかりのステレオタイプに、もちろんここで初めて知る事実と歴史については好奇心と敬意が止むことはないけれど、教会でフッド大佐(トーマス・フランシス・マーフィー)がニュートンに向かって言う「お前のオヤジを知ってるぞ」という台詞が気になって調べてみれば、彼の父ではなく祖父がかつてジョーンズ郡で最大の奴隷所有者の一人であったことなどけっこうな驚きと共に知るわけで、140分を費やしておきながら彼の動機の最も重要な陰影となる事実をなぜオミットしてしまうのかまったく理解しかねたのである。ここで描かれている戦いが終戦などしていないことなど誰もが知るところなのに、それを念押しするかのようなフラッシュフォワードに割く中途半端な時間があるならば、なぜ彼が妻子を捨ててまで地べたに近い方に立つ人だったのかを描くべきだったのではなかろうか。オープニングでの先祖返りしたオマハビーチのような戦闘シーンや切り株が呻く野戦病院、葬儀の場を一転して壮絶な銃撃戦に変転させる黒衣の女性によるヘッドショットなど、切り出されたボディには終始胸を弾まされただけに、それを駆動するエンジンの馬力が足りなかったのがどうにも悔やまれる。マシュー・マコノヒーは何かノブリス・オブリージュ的な行いとして恵まれない企画に身を投じているのかわからないけれど、それも手伝ってか、ビタースイートを半身のグラマラスでかわす綱渡りが『インターステラー』以来影を潜めているのがとても気にかかる。ストーナーコメディらしいハーモニー・コリンの新作を待ちたい。
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2017年02月06日

ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち/スメルズ・ライク・ティム・スピリット

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ぼくと世界はどんな風にすれちがってしまっているのか、その時世界はどんな風にぼくを悲しませたのか、かつてのティム・バートンはその蒼い苦渋をガソリンに点火していたはずなのだけれど、ジェイク(エイサ・バターフィールド)のそれはオープニングでほんの数分だけとってつけたようなスクールカーストの残滓として描かれるだけで、ジェイクが抱える屈託とそれをなだめるために彼が育てるバランスは放っておかれたままだったように思うのである。したがってこの映画でなにがしかの反発がおこなわれることはないわけで、これが他人の筆による原作脚色であるにしろ、もう自分はレベルな時期を過ぎてしまったから昔のように思春の異議申し立てを代弁することはできないんだという、それは果たして誠実なのかあきらめなのか、しかし大人になるとはこういうことなんだよという訳知り顔だけはすまいとするその決意だけで、何とかティム・バートンは撮りきっていたように思うのだ。だから、その反映とも言えるジェイクのピーターパン的な最終選択も、彼が棄て去った時間の重みが感じられなかったことで通過儀礼のメランコリーが今ひとつ染まらないままということになってしまう。未だにこんなないものねだりを垂れ流すワタシのような客はティム・バートンにとって迷惑なのは重々承知しているけれど『PLANET OF THE APES 猿の惑星』で外にある大きな世界との対決に臨んで無残にも一敗地に塗れたティム・バートンは、それまで勝ち続けたその戦い方ゆえ、その敗け方ですらこちらに傷を残したわけで、言ってみればあの時ティム・バートンはワタシたちを代表して敗けたと思っているからこそ、その後のティム・バートンがたどった世界への服従と時折の密かなリハビリを追い続けざるをえないのだ。そうした意味においてここには服従もリハビリも見当たらず、だからといってティム・バートンがようやく新たな語り口にたどり着いたのかと言えばそういうわけでもなく、アルゴリズムに沿って人工知能が描いたティム・バートンのダーク・ジュヴナイル・ファンタジーとでもいう手続きの産物に思えたわけで、『フランケンウィニー』『ビッグ・アイズ』と続けた後のこの無表情が寛解の終わりとならないことを祈るしかないように思っている。モンスターというよりはモダンホラー的なクリーチャーでしかないホローのデザインにもそれを憂いている。
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2017年02月05日

マギーズ・プラン/しくじるなよ、マギー

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出だしというかきっかけは「ガープの世界」あたりを思わせるのだけれど、マギー(グレタ・ガーウィグ)のそれはフェミニズム的な変奏というよりは、男性と継続的なパートナーシップを築けない事情による非常手段であって、ではなぜマギーはいつもそうなってしまうのか皆さんにお見せしましょうというお話の、その余禄または必然としてマギーに転ばされるスノッブたちのドタバタを笑うことになるわけで、観賞前は贅沢にもジュリアン・ムーアとイーサン・ホークを配したマンブルコア的な展開を思っていたのだけれど、手ざわりとしてはどちらかといえばシットコム的に記号化された配置に近い。いかにもなNYスノッブのジョーゼット(ジュリアン・ムーア)とジョン(イーサン・ホーク)がからかいと笑いの対象となるからと言ってマギーが正解者であるかというとまったくそういうわけでもなく、みんな一人一人がそれぞれのシャボン玉の中に入って生きてるのよ、と愛娘に語りかけるマギーは、でもあなたはお母さんと一緒のシャボン玉の中にいるけどねとは言わないわけで、それを都市生活者の透明で密やかな孤独として染めてしまわないためにわざわざマギーにクエーカー教徒(それぞれに内なる光を求めよ)の設定を与えているし、シングルマザーであった母との生活を想い出して懐かしさに涙ぐむあたり、彼女は自身の生活においてそれを再現しようとしているだけなのかもしれないという考えが頭をよぎった瞬間、実はマギーの闇が一番深くて厄介なのではなかろうかと笑いの質が少しばかり変わったように思えたし、したがって、新しい計画を思いついてほころんだマギーの顔で締めるラストも、ハッピーエンドというよりはどちらかといえば新たな犠牲者ガイ(トラヴィス・フィメル)への同情にも似た作り笑いで見送ってしまうのである。それにしてもである。ジョーゼットに、あなたは純粋だけれどもちょっとバカよねと一刀両断されるがごとく、総身に知恵がまわりかねるかのように曖昧な時間差で動き生きるマギーを演じるグレタ・ガーウィグの、これはほとんど彼女のアテ書きだろうというナチュラルな憑依はさすがにジュリアン・ムーアとイーサン・ホークを刺身のつまとするだけのことはある、その磨きのかかった無垢と無意識のコメディエンヌっぷりに一人遊びをする犬を見るような慈しみが自然にと湧いてきてしまうのは、今後果たして彼女のレッテルと枷になってしまわないのかどうなのか。所詮「ダンシン・イン・ザ・ダーク」を歌い踊る夫婦だもの、お里が知れるわと「ルーディたちへのメッセージ」のダンディ・リヴィングストン版オリジナルでマギーを一人踊らせるレベッカ・ミラーのたちも相当に悪い。
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2017年02月02日

マグニフィセント・セブン/イングロリアス・エイト

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監督フークアがデンゼル・ワシントンを扇の要に据えた時点で、晴れ渡った青空に小さく笑いながら自爆する60年版のセンチメントを再現する気など毛頭ないことは自明だし、内戦によって分断されたアメリカの憎悪を手管に市井を蹂躙する外道な資本家に唾する男たちの闘いにおいて、正義の遂行者ですらが憎悪と復讐の暗黒連鎖に堕ちていくのを絶ちきったのが一人の女性であったこと、そしてこの聖戦において生き残ったのが黒人とメキシコ人と先住民族であったという、まるで2017年のアメリカを見通していたかのようなフークアの選択に少なからず驚かされたのである。そうした意味で、この映画はタランティーノによってジャンルを換骨奪胎されたいくつかのレヴェル・ムーヴィーの構造に非常に近い。従って、復讐の寡婦エマ(ヘイリー・ベネット)に雇われた7人は個々のストーリーというよりはその関係性によって立体性を保ち、それについては必ずしもすべてが上手く行ったとは思わないけれど、大陸横断鉄道敷設に投入された苦力の影を匂わすビリー・ロックス(イ・ビョンホン)とデラシネの屈託を共有するグッドナイト・ロビショー(イーサン・ホーク)、マンハンターであるジャック・ホーン(ヴィンセント・ドノフリオ)と先住民族レッド・ハーベスト(マーティン・センスマイヤー)、グリンゴとしてのジョシュ・ファラデー(クリス・プラット)とメキシコ人ヴァスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)といったところの関係が、サム・チザム(デンゼル・ワシントン)とバーソロミュー・ボーグ(ピーター・サースガード)の血で血を洗う因縁を下支えすることになるわけで、タランティーノであれば言うまでもなくこの構築に160分を要求したであろうことを考えると、そのつづれ織りの目が粗いのはある程度致し方ない気もして、現代の風向きにおいて分の悪い西部劇という足場をアメリカの原風景とあえて選んだその意図と意思と志だけでまずは十分すぎるくらいだし、殺戮の現場としての西部がガンファイトの過剰な致死性で描かれる昂奮は近年類を見ないのではなかろうか。このヘイリー・ベネットをみていると、やはり肉体の激情こそが理性を心底から慟哭させるのだなと、ナタリー・ポートマンとあの映画に欠けていたものの正体を図らずも浮かび上がらせてしまっていたようにも思え、それくらいヘイリー・ベネットの骨と肉は、誰よりも暴力的にそびえ立っていた。
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2017年02月01日

ドクター・ストレンジ/魔法にかけられ過ぎて

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スコット・デリクソンという人は、中盤あたりまでをトップギアに恐怖をはりつけ緊張をはりめぐらして、その麻痺と疲弊とでおぼつかなくなった足取りとうわずった赤い目の充血でエンディングに這っていく姿にうっとりするところがあるので、例えば『地球が静止する日』のようにコースの決まったオペレーション仕事ではなかなか本領を発揮しづらいこともあるからそれなりに危惧はしていたのだけれど、しかしこれが、屈託を必要としない主人公が屈託につかまりそれを手なづける話であった点で下手の考え休むに似たりを裏返した真面目な顔のバカ話に思いのほか歩調が合っていたように思って、他人事ながら何だかほっとしたのである。内ゲバが悪を呼び込むというMCUの手癖自体は少々うんざりなのだけれど、どちらかというと前述したようなバカ話をやりたいがためにここでは枠だけ借りて知らんふりをしたといった方がふさわしく、諧謔で動くことのできる俳優としてベネディクト・カンバーバッチをキャスティングしたのも、ロケンロールとしてのMCUで端緒を開いたロバート・ダウニー・Jrをロールモデルにしたところがあったからなのだろう。ドクター・ストレンジとエンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)およびカエシリウス(マッツ・ミケルセン)による、ノンシャランとプラグマティストと原理主義者のポジショントークも最後まであさっての方向を向いたままであって、しかしそれがいい具合の目眩ましになったというべきなのか、最近のMCUで飽和気味の内省する鏡像の自己破壊ドラマからの解放と、まあとにかく今回は映像を観て帰ってよという製作陣のニヤニヤがすべてであった気もするのだ。そのトリップショットも『2001年宇宙の旅』的ポストモダンではなく『ミクロの決死圏』的サイケデリックの、超人でもミュータントでもない魔法使いといういっそうの荒唐無稽にふさわしいこけおどしに満ち満ちて、どうせなら今自分が観ているのは何の映画なのか分からなくなるまで放り込んでおいて欲しかったとも思ったわけで、となれば、キミはサウロンかとつっこまざるを得ないドーマムゥの顔かたちはいささか野暮が過ぎたようにも感じてしまうのだけれど、その脱力バトルも含め最後の最後までバカを貫いた気概はやはり買うべきだろう。取り沙汰されたティルダ・スウィントンのキャスティングは、彼女のゆうに2倍はあるベネディクト・カンバーバッチの顔面との対比でパースを狂わせて不安定を誘うためであったことも理解した。慧眼である。傷んだ肉体の微に入り細に入る描写はスコット・デリクソンのフェティッシュか。
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2017年01月29日

トッド・ソロンズの子犬物語/クスリとスリルと腹痛

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ウィンナーみたいだからウィナードッグ(原題”WIENER-DOG”)とあまりに身もふたもない呼ばれ方をしてしまう(ことを初めて知った)ダックスフントが、戦火の馬ならぬ戦火の犬としてアメリカ市井のコンバットゾーンをよたよたヘナヘナと走り回っていく。オープニングの2カット目で犬の視点からケージ越しの空を捉える以外は犬を擬人化したアクションは一切ないまま、犬はただそこにいる犬として人間様の都合でいいようにあしらわれては、犬がいなくても起きたであろう出来事について、スイカに塩をかけると甘味が増して感じられるように、そこに犬の愛嬌があることでよりいっそう寂寥感を増すはたらきとなっている。どうして犬を撫でる優しい手つきで世の中をかき分けて行けないのか、どうして犬を呼ぶ優しい声で世の中に呼びかけないのか、根っから悪いやつなんてアントン・シガー以外そうそういないわけで、自分の内と外の分断や断絶にはまって身動きがとれなくなっていく人たちの悲哀を、少なくとも僕だけは看取ってあげるよとトッド・ソロンズは肩を抱きながら背中を押すのであり、ナナ(エレン・バースティン)ならずとも自分の最期の時があんな風に総括されたらたまったものではないわけで、こんなのイヤ!と叫んだその身代わりとしていったい犬がどんな目に遭ったか、ナナからゾーイに渡った1万ドルはファンタジーによってあのラストのために費やされたのか、だとしたらナナはあのまま旅立った方が幸福ではなかったのか、死ぬよりマシか死んだ方がマシか、トッド・ソロンズの生き地獄である。幸福に手がかかったかに思えるドーン・ウィナー(グレタ・ガーウィグ)にしたところでブランドン(キーラン・カルキン)の左腕にまだ新しい注射痕を見ているわけで、ドーンとブランドンによるその後のドールハウスの物語にしたところで、既にこのカップルが生き地獄のとば口に立っているのは言うまでもない。そもそもが下痢と癌とで円環するような映画である。
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