2016年09月27日

コロニア/リコンストラクション・ベイビーズ

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※いささか結末に触れています

意地悪でも何でもなく、イデオロギークラッシュというよりは第三世界のかくれんぼと鬼ごっこにようこそというスリルとサスペンスは『アルゴ』と同様の割り切りであって、レナ(エマ・ワトソン)が愛の名のもとに遂行する命がけの遊戯の、その危うい潔癖症的な一途の正義と尊厳がパウル・シェーファー(ミカエル・ニクヴィスト)と彼のコロニーのグロテスクなシステムに対峙する勧善懲悪ものとして存分であったのは間違いない。ただこれが『ミッシング』『サンチャゴに雨が降る』あるいは『NO』に系譜されるかというとそこは少々曖昧なところがあって、例えばラストにおけるドイツ大使館から空港に至る脱出シーンでのドイツ人大使館員の裏切りは、コロニーに派生するカルト的なコネクションというよりは当時のピノチェト政権を支持していたアメリカを始めとする西側諸国の政治的な判断の表れであったのだろうし、そうしてみれば強行離陸はしてみたものの果たしてフランクフルト空港でいったい何が待ち構えているのか、もちろんこのレナとダニエル(ダニエル・ブリュール)の2人が実在したわけではないにしろ、レナの私闘としての色を濃くして国家の犯罪としての側面を端折ったことで、前述した作品群と共に史実を解釈するだけのスケールや奥行きを持つに至らなかったのは正直なところだろう。それだけに、物語の滋養を充分に与えられたレナを我がものとしたエマ・ワトソンの、私はここに居るわ!という宣言は高らかかつ深々と観客の胸に届いたはずで、正解を探して傷つくのではなく、正解を知っているからこそ傷つかずにはいられない譲れぬ眼差しの人として、自分の資質と世界の認識がこの作品で幸福に出逢ったように思うのである。かつて落合信彦がナチス残党の拠点としてチリにその実態を追ったエスタンジア(農場)の正体がこの「COLONIA DIGNIDAD」であったことは佐藤健寿が既に明らかにしているのだけれど、パウル・シェーファーをはじめとするコロニーの再現を愛でることがワタシの目的でもあったわけで、それらモンド界隈の好事家には見逃すわけにいかない作品なのではなかろうか。そういうことを言うとエマ・ワトソンに蔑むような冷たい目で睨まれるのは必須であるにしろである。まあそれはそれでゾクゾクするにちがいないけれど。
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2016年09月24日

エル・クラン/死を紙袋に入れて

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かつて血の掟の執行人として世界を切り刻む官能を蓄えた男が、その愉悦忘れがたく血の絆を鞭のようにしならせては界隈を切り刻んでいく。俺は恐怖と愛情が支配と名のついた同じ裏口から出てくることを知っている。だから俺はそれを等分にお前たち家族へ与える。なぜなら俺はこのクラン(=一族)の王で、お前たちは俺を蹴り出した世界と闘わなければならないからだ。世界を支配せよ。身代金は戦利品である。というわけで、なめていた。明らかにミスリードを誘う日本版予告と製作のアルモドバルの名前から『人生スイッチ』あたりの黒みがかったオフビートコメディとたかをくくっていたところが、『アニマル・キングダム』『悪魔のいけにえ』『マーシュランド』といったあたりが記憶を撫で回すどす黒い悪意と茶色い狂気に満ち満ちて、ふいに被せられたズタ袋に視界と呼吸を奪われて遠のく意識が最後に視る悪夢のような走馬灯に、こちらの逃げ場すらが奪われたあげくのブラックアウトである。そうやって虜に堕ちたワタシにすれば、人間としての解釈と理解がほぼ不可能なモンスターとしての父アルキメデス(ギレルモ・フランセーヤ)にはもはや惚れ惚れとするしかなく、それが何であれ生き方のブレない人間には一定の尊敬が与えられて然るべきであると考える。したがって最も残酷な悲劇は餌と屠られるだけの人質にではなく、モンスターの子として生まれモンスターに孵化することを運命づけられたアレハンドロ(ピーター・ランサーニ)に訪れるわけで、実際のところこの映画は家族の犯罪を告発するというよりはこの父と子の吐き気がするほどグロテスクな相克を背骨としていて、父がモンスターとして際立てば際立つほど子の正気が破壊されていく神経戦の、その容赦なく苛むような図式を甘く見ていると跳弾でこちらまでやられてしまうに違いないほどであって、その関係を断ち切るため最終的にアレハンドロが選んだその決着の、わずかに残った正気に賭けて自由へ向かった悲愴と、なによりそのシーンの生み出す唖然とした昂奮を知るだけでもこの映画を観る意味があるように思ったのである。ワタシたちが視えているものは視ていないかわりに、ワタシたちに視えない何かを視るようにいっさいのまばたきをしないアルキメデスの、しかしその見つめる先の虚空はアレハンドロに繋がっているのではなかろうかと思わせるアレハンドロのフラッシュフォワードな白日夢のシーンや、カーセックスをするアレハンドロと人質をなぶるアルキメデスをカットバックでつなぐシーンでの弾けるようなアルゼンチンポップ、暴力が噴出するシーンにインサートされるCCRやデヴィッド・リー・ロスという悪食の食合せが、ブエノスアイレスのストリートをマジックリアリズムへと誘う合図となって、ワタシともども悪酔いの酩酊に引きずり込んでいく。そうやってワタシたちが聴かされるキンクスはじめロック・チューンのあれこれが、実は監禁部屋の人質があげる叫び声をかき消すために大音量で鳴らされるラジオから流れてくる音声であったことに気づかされるシーンの至極当たり前のような薄ら寒さも含め、こんな風に天国と地獄のぐうの音も出ない振幅はもはや南半球(と南半球出身)の監督にしか描けないようにすら思うのである。死は選択的ではない。
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2016年09月21日

BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント/BIG FART GROOVE

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ロアルド・ダールの原作は未読。孤児ソフィー(ルビー・バーンヒル)を主人公とする児童文学の映画化ではあるけれど、最終的に彼女がつかむ幸福はビルドゥングスロマン的な学習と成長のご褒美というよりは目端の利く現実主義者としての才覚によるものであって、それを可能とする子供の誇大妄想的な言い分をナンセンスなホラ話として愛でる分には文句なしに愉しい。機転と度胸でピンチを切り抜け、優しさゆえに気の弱いBFG(マーク・ライランス)を叱咤激励してはイギリス女王(ペネロープ・ウィルトン)まで巻き込んだあげく悪い巨人をやっつけてしまう大団円は冒険譚としても痛快だし、宮殿で繰り広げる『ブレージング・サドル』的なスラップスティックはこれこそがこの映画の隠す裏の顔でもあるわけなのだけれど、問題なのは表の顔であるはずの孤独な少女と心優しい巨人のタッグが、ソフィーがストレートで屈託のない子供らしさを発揮すればするほど重要な主題でなくなってしまう点にあって、おそらくは夢使いとしてのBFGがソフィーの小さな空っぽに夢を吹き込んでやるようなファンタジーをスピルバーグは探したのだろうけれど、ソフィーはそんな助けなど必要ないくらい溌剌と立ち回っては何も差し出すことなく現世的な幸せを手に入れてしまうのである。ただ『タンタンの冒険』の時もそうだったけれど、スピルバーグはことこのジャンルにおいては例えばスコセッシが『ヒューゴの不思議な発明』で色づけたような個人的な介入に興味がないように見えることを思えば、やはり今回はメリッサ・マシスンの脚本に対する敬意を最優先にしたということになるのではなかろうか。原作ではどの程度の描写なのか分からないけれど人食い巨人といいつつそうした描写も一切ないわけで、レイティングの問題はあるにしろ劇中の彼らはBFGを虐める暴れん坊というだけで、ソフィーを追い回すにしろ人食いとしての脅威は前面に描かれていないのである。しかし、ソフィーより以前にBFGに連れて来られて結局は人食い巨人に食われてしまった男の子が住んでいた小部屋の、彼がどんな男の子でどんな風に日々を過ごしたのかを告げる跡形にかぶった埃の薄ら寒さが告げる主の永遠の不在に、この男の子は生きたまま巨人に食われて死んでしまったのだとぐいぐいねじ込んで来る寄る辺のなさにスピルバーグの真顔がうかがえたりもしたわけで、そのあたりのもどかしさはそもそもがスピルバーグにこそ充満しているのではないかと、封印されたデモニッシュにやはりワタシは焦がれてしまうのである。結局この映画をいちばん愉しんだのは『タンタンの冒険』がそうであったように自在を与えられたヤヌス・カミンスキーということになるのだろう。それにしても、巨大な人形(ひとがた)が人間をわしづかみにするシーンをみるとどうしてこうも胸がざわざわしてしまうのか。キングコング、サイクロプス、ガイラとその源泉をたどっていくと、最終的にはワタシが劇場で初めて観た映画『大魔神』に行きつくはずで、武神から魔神に変身する憤怒の形相にワタシが泣き叫ぶあまり父親は幼児のワタシを連れて途中で劇場を出たらしく、なぜマイファーストムーヴィーにそんな映画を選んだのか尋ねても覚えていないというばかりなのだけれど、何かしらの原初的な昂奮が刷り込まれているのは間違いがないわけで、三つ子の魂百までとは本当によく言ったものだと感心するしかないのである。茫洋とした巨人のヴィジュアルや使い古された感動アピールに辟易されたのか劇場はすっからかんらしいけれど、実存めいた問いかけさえすればドラマを手に入れられると思っている最近のブロックバスターに顕著な押しつけがましさも結果として霧散してしまっているし、特に前述した『ブレージングサドル』の豆食いのシーンをイギリス女王で再現していると聞いて色めき立つような方は観ておいて損はないように思う。そもそも映画なんて損をしなかったと思えば御の字のはずが、得をするのが当たり前と思ってるから不幸になるんだと思うけどね。

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2016年09月19日

オーバー・フェンス/泣くには空が高すぎる

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原作の聡は白岩が精神を復旧するための予備電源とでも言おうか、どちらかと言えば都合のいい女として描かれていて今ひとつ顔の見えない女性であったのだけれど、ここでの聡(蒼井優)は白岩(オダギリジョー)にとって都合の悪い女であり続けることで、そこに生まれる軋轢が、自身と白岩を覆い尽くし身動きを奪う血の味のする鉄さびを削ぎ落としてくれるかもしれないという可能性に渾身で賭けていたように思うのである。代島(松田翔太)や森(満島真之介)が白岩に対してひそかによすがを託そうとするのは、白岩の内部が喪失に食い尽くされていないことを既に食い尽くされつつある者のうっすらとした恐怖が気づかせているからで、こと代島においては彼だけが知る自身と聡と白岩の三角関係がそれがいっそう明らかにしている。したがって、「俺はなくすもんなんて何もないから(もう、あてにしないでくれ)」という代島への拒絶が白岩から聡への正式な求愛を後押しすることにもなったわけで、それまでに費やされた聡の周辺に関するマジックリアリズム的な描写や振る舞いはこのシーンを成立させるためにあったのかと、実を言えばそれらの色使いとワタシの相性にまったく問題がなかったと言えないこともあり、ここでようやくストンと腑に落ちた気がしたのである。とは言え、これは別れた妻の洋子(優香)と対比させる意味と必要があってのことなのだろうけれど、中篇『黄金の服』の登場人物アキのシルエットを引用してまで(特にあの夜の「静かにしてよ、父も母もいるから」から始まり「これをしないと身体が腐る気がする」という言葉まで含めた沐浴の儀式と精神安定剤の服用に至る描写まるごと)聡を病質の人とした設定の窮屈については、山下監督の差し出してきた語らずとも知らしめる空気の醸成を好物としてきた身にとって若干ノイズであったことは否めないのは正直なところで、前述のアキの場合、その失調と薬への依存それ自体が彼女の在り方として物語の運命に関わっていた必然性からすると、聡に病質を背負わせてまで闇の奥に堕としておくことが果たして必要だったのかという収まりの悪さが未だに残ってしまっていて、聡が病状としてああであった人に思えてしまうのが何だかモヤモヤしてしまうのだ。昼の時間である職業訓練校についてはその笑うに笑えないしゃちほこばった切実は山下監督の独壇場であったし、最終的には聡が夜の時間から昼の光の中に歩み出すことで両者が邂逅するラストは三部作の掉尾を飾るにふさわしい眩しさにあふれていただけに、やはりワタシにとっては名手高田亮のフィルダースチョイスに思えてならないのである。聡が白頭鷲にむかって逃げろと叫ぶくだりでブランキーの「皆殺しのトランペット」が頭のなかで再生されて思わずどくんと脈を打った瞬間、いろいろなことがその時のためにあるのだなとどこかの誰かに感謝した。
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2016年09月18日

グッバイ、サマー/する子は育つ

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そのタフな家庭環境を含め、ダニエル(アンジェ・ダルジャン)にとって自分のコレジャナイをすべて持ち合わせているテオ(テオフィル・バケ)を、彼のイマジナリーフレンドのような存在としてワタシも思い始めていたものだから、終盤に向かうあたりで初めて勃発する諍いでテオがダニエルに向かって言う「きみはいつも自分のことばかりじゃないか、一度でもぼくのことを質問したことがあったかい?」というセリフに、ああこれは“ミクロ&ガソリン”(原題)の物語であると同時に“ガソリン&ミクロ”の物語でもあるに決まっているじゃないかと気を引き締めてみれば、その後のテオの運命が切なくのしかかってくるばかりであって、テオが何の屈託もなく笑えたのはこの夏が最後だったのではなかろうかと、『小さな恋のメロディ』でもダニエルとメロディの行く末よりは親友を失ってしまうトムに気が気ではなかったことなど想い出したりもしたのである。だからこそラストシーンでダニエルはローラ(ディアーヌ・ベニエ)をふり返ってはならなかったわけだし、それはそのまま彼の通過儀礼の最終試験となっていたようにも思うのである。試験の結果についてはダニエルの後ろ姿に向けてローラがつぶやくある言葉がその合否を告げることになるのだけれど、残酷なまでにテオの影の一切を振り払う新たな思春のフェーズを予感させるその一言によって、完璧なひと夏のオブセッションはシミひとつないまま永遠に真空パックされることになるわけで、これを自伝的追想と語りうるミシェル・ゴンドリーの尋常ならざる思春のきらめきがワタシにはむしろ畏ろしいほどだし、こうした発露から世界に踏み出したミシェル・ゴンドリーが大西洋の向こうのブロンクスの青春(『ウィ・アンド・アイ』)をその息づかいのフィクショナルまで捉えてしまう縦横無尽に、あなたは一体誰なんだ?と皮肉をとっぱらって尋ねてみたいと思ってしまうのだ。いつの間にか中学生の母を演じるステージとなったオドレイ・トトゥのマイルド・ヒッピーっぷりが絶妙。あるシーンでアジア系の女性が話す日本語セリフのネイティヴな語感がやたらと新鮮で、カタナさんもあんな風だったらよかったのにと思った。
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2016年09月15日

アスファルト/一人でもニンゲン

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宇宙飛行士ジョン・マッケンジー(マイケル・ピット)が知らず持ち帰った混じりけのない孤独が、いまだ名前を持たぬあちらやこちらの屈託に“孤独”と名前をつけてゆく。ただその孤独は、孤絶や孤立といった世界との断絶のサインというよりは自分の精神のサイズを確認することでこの世界のどこにフィットするのかを知る作業のようにも思え、結果として彼女のもてなしが、マッケンジーが高純度の孤独で自家中毒を起こさないためのやわらかなケアとなるマダム・ハミダ(タサディット・マンディ)をリーダーとでもするかのように、高校生シャルリ(ジュール・ベンシェトリ)は女優ジャンヌ・メイヤー(イザベル・ユペール)の、看護師(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)はスタンコヴィッチ(ギュスタヴ・ケルヴェン)のメンターとして孤独への軟着陸を優しく静かに誘ってみせる。一見したところの立ち尽くし系悲喜劇はカウリスマキの系譜にも思えるけれど、押し殺した無表情の誘爆で笑わせるというよりは、その無表情が良きにつけ悪しきにつけ崩れていく瞬間を委ねているので、感情はそれぞれに意外なほどカラフルでほとんど人情といってもいい立ち入り方をしてきて、マダムとマッケンジーの孤独に関する禅問答をブリッジに、孤独を知ることで新たな訣別を団地の部屋に選んだジャンヌと、つながりを求め団地から踏み出したスタンコヴィッチの、シニカルをくぐったあくまで肯定的な描き分けは、幸福には成熟した孤独も必要なのだという監督の確たる想いの反映になるのだろう。ラストで明かされる「音」の正体の、孤独の不穏とか不安の理由なんてわりかしそんなもんだよというあっかんべーはなかなかギリギリの寸止めではあるけれど、その食えなさこそがこの映画の真顔であったことで孤独が清々しく弾んだのではなかろうか。ジャン=ルイ・トランティニャンの孫の切っ先はけっこうしなやかで鋭い。
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2016年09月12日

スーサイド・スクワッド/EVIL WAR

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人様をぶっ殺しておいてぐっすり眠れるようなやつが愛とかほざけるわけないだろ?とニヒルをきめこんでおきながら、盗人にも三分の理と唱えるその理こそが愛にほかならないという無い袖のは振り方は、ディズニー(とその傘下のマーヴェル・スタジオ)には到底撮れないし撮るつもりもないであろう行き先知らずのセンチメントを暴発させてはその残滓を叩きつける、まるでアクションペインティングのような出たとこ勝負のコラージュとなって、当然のこと脇は甘いし見通しはでたらめではあるのだけれど、万人が共有できる(というか共有を求めてくる)ような正解探しの自問自答を放棄したある種の潔さはもしかしたらこの夏いちばん沁みたようにも思うのである。してみると、これまでもそんな風にして割り切れないものは割り切らないままウェットワーク国家アメリカの憂鬱を描いてきたデヴィッド・エアーに脚本とメガホンを一任した慧眼は、ようやくDCが自らのファイトスタイルを自覚したあらわれでもあるのだろうし、それはエピローグにおいてジャスティス・リーグの胎動を告げたあの人の昏い目に明らかだったように思えたのである。となれば、正しい答えはディズニー(とその傘下のマーヴェル・スタジオ)に探してもらうとして、こちらは正しい誤答を振りまきながらこけつまろびつしていけば、時々は真実を踏みつける余禄もあるだろう。もちろん合言葉は“下手の考え休むに似たり”であるからして、いまだ自分が下手だとは認めないザック・スナイダーからはそそくさと実権を取り上げて、ベン・アフレックをケヴィン・ファイギの対抗馬に据えるべきである。それにしてもラスボスのシークエンスはいささかゴーストバスターズ&破壊神ゴーザの既視感が過ぎないかと思うにしろ、まあそれを言ってしまえばそもそもが『ニューヨーク1997』でもあったわけで、とは言えデヴィッド・エアーがジョン・カーペンター越しにジョン・フォードやハワード・ホークスを仰ぎ見る人なのだとすればそれは至極まっとうなラインに思えるし、男女の別なく矜持に生きる人間のメランコリーをいつもの鈍色から極彩色に染め上げてみせた点で、何よりデヴィッド・エアーの新作としては充分だったように思うのである。ニック・フューリーには絶対不可能な外道を涼しい顔でやってのけては修羅を行くアマンダ・ウォーラー(ヴィオラ・デイヴィス)がMVP。そして彼女と密約を目配せするあの人のまとう暗躍の香りたちこめるはきだめの活路が、なお暗がりへとついに開けてゆく予感にうなじが少し疼いた。
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2016年09月06日

ミュータント・ニンジャ・タートルズ:影<シャドウズ>/叱られたくて

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必ずしもこれが敗戦であったというわけではないにしろ、その離脱によるジョニー・ノックスヴィル不敗伝説が図らずも維持された気がしてしまうのは、兄弟ゲンカをさせるためとはいえ、カメをやめて人間になるか否かなどというけっこう大上段なネタをもてあそぶあたりの真顔が面倒くさいなあと思ってしまったことや、先だっての『ゴーストバスターズ』の友情問題のように、ストーリーのフックとしてであるにしろ何かしらの“正解”を求めるような素振りは他の映画でやってくれればいいのにと、そういえばこれもまたニューヨークを襲う脅威を土地っ子が救う物語であったなあと、何だかこじんまりとした気分の正体がそうした既視感であったことに思い至ったりもしたのである。やはりナンセンスとは正しい誤答であるべきで、折々の正解を見据えてはそこに足払いをしかけていくものであって正解を輝かせる露払いとしての悪ふざけではないのである。せっかくのローラ・リニーも自爆させないままではただの朴念仁ではないか。してみるとやはり、ジョニー・ノックスヴィルの危機回避能力とその嗅覚はさすがであったとしかいいようがない。もっとディズニーがやらない/やれないことをやるべきだろう。誰も彼もが省みなければならないわけでもあるまい。
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2016年09月04日

セルフレス〜覚醒した記憶/誰かの涙がとまらない

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もう石岡瑛子はいないのだ、もう彼女の紡ぐ気高い悪夢を着ることはできないのだ、ならば悪夢となる人間を文字通り着せてしまえばいいのではないかとする一か八かの未練が呼び出したのは、結果として『ザ・セル』『落下の王国』に連なる入れ子が揺らす救済と再生の物語であって、やはりターセム・シンは深部で感応する記憶と喪失のオブセッションを探り続けていくべきだろうとあらためて思ったのである。石岡瑛子が捉えていたある種の禍々しさは、気が狂うほどの永遠に閉じこめられた記憶の水晶化した憤怒にも思え、かつてその解放と鎮魂をテーマとしたターセム・シンにとって、それが無慈悲に透徹すればするほど達成の跳躍を稼ぐことが可能であったのは間違いがないわけで、してみると、ダミアン(ベン・キングズレー)が慈愛にあふれたマーク(ライアン・レイノルズ)の記憶に触れることで自身を顧みることを進めたのは“記憶”を追いつめて切り刻むことで幻視を獲得してきたターセム・シンによる、石岡瑛子との別離を区切りとした上での懺悔であったようにも思うし、マークとダミアンが共に選んだ自己犠牲がもたらした結末を照らす灯りにその曙光を求めたのだろう。そうした舵取りもあって、異形の輪郭が整然とうごめくあの世とは思えないこの世の禁忌に嫌悪する快感は失われているけれど、ニューオーリンズでの躁病的な享楽をたたみかける編集の超絶リズムや、時折あらわれる夢うつつのように物憂げなカメラのパン、実はタイトでケレンにみちたアクション演出が可能であることなど、象徴やメタファーよりは感情のレイヤーを手前にしてみせたことで現代劇としての奥行きに息づかいを感じさせて、例えば近年のアンドリュー・ニコルによる匿名近未来モノと比べると、そのヴィジュアリストとしての矜持とミニマルな手練手管の実践には感嘆せざるを得ないように思うのである。燃えさかる炎さえあれば状況を完成してみせるとでもいう、燃える車、燃える家、燃える人のメランコリーに胸がざわっとするのだ。冷熱のマッド・サイエンティストとしてまばたきを忘れたかのようなマシュー・グードの凝視も、ようやくそう来たかというレプリカントのエレガントであった。
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2016年09月02日

ライト/オフ〜太陽が眩しかったから

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レベッカ役のテリーサ・パーマーはどちらかというと横顔の方がかっこいいショットが生まれやすいなあと思っていたら、何度となくそれを生かすショットに出くわしたりして案外こんなことで監督との肌は合ってしまったりもするわけで、『ババドック』ほどキリキリと神経を苛まず『オキュラス』ほどがっぷりと理詰めではないその塩梅の、だからといって中庸や凡庸とは異なるホラーマナーの心地よさは、言ってみれば助手席に座った時のアクセルとブレーキのストレスフリーなタイミングに近いかと。それもこれも“闇”に対するワタシ達の恐怖と“光”に対するダイアナの恐怖がなぜ背中合わせに成立するのかという設定の妙がヤリ逃げを許さないことで、ストーリーの重心が次第に低くなっていくシフトワークが闇の濃淡を見極めることを誘ってくるからに他ならず、前述した理詰めの甘さはその攻防よりも奥底の濃淡を愛でることを求めた結果であったということになるのだろう。この重心のキープについてはレベッカのボーイフレンドであるブレット(アレクサンダー・ディペルシア)の描写が思いのほか奏功していて、レベッカにかけられた呪いによる典型的な生け贄として登場しつつ、レベッカに対する誠実さによって局面を良い意味で裏切っていくことでストーリーの圧力が低下するのを未然に防いでいたのではなかろうか。ダイアナがイドの怪物であることが告げられ始めた時点でその打破と結末が薄々思い浮かぶにしろ、それゆえあの呆気ないといってもいいソフィー(マリア・ベロ)の選択がより哀切を誘うことになるわけで、くどくどとした口上もスローモーションもない強い感情によるあしらいの潔さはさすがワンの穴の門下生といったところである。闇を愛するのではなく、そこでしか存在が許されない非業のヒロインであるダイアナを生み出したエリック・ハイセラーの脚本こそがそれらジェームズ・ワンの刻印となっていたことは言うまでもないけれど、すべてを見渡しながら歩を進めるこの監督の含み笑いのようなモデラートを生来の歩幅だとジェームズ・ワンが見抜いたからこそのフックアップなのだろうし、既に『アナベル2』のメガホンを任されていることなど知ってみれば、今作は紛うことなき合格の印であったということになるのだろう。81分という上映時間にあと10分足して少女時代のソフィーとダイアナのフラッシュバックをシークエンスに深める手もあったとは思うけれど、カットバックせずにワンカットでいないいないばあを見せては思わず膝を打たせる快感の余韻を手放さないための選択としては、やはりこちらが正解だったのだろう。なぜキミたちアメリカ人の大好きなマグライトを使わないのだ、とは思ったけれど。

Lights Out - Who's There Film Challenge (2013)
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2016年08月30日

イレブン・ミニッツ/犬は往ぬ

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「現在の映画では、ものを言うのはテクノロジー、テンポの速さ、細切れに編集されたカットの数々ということになってしまっているけれども、個人的にはとてもじゃないが耐えられない。こんなものがスクリーン上に真実をもたらしてくれるわけがない。真実は、長く続く穏やかなショットの数々にこそ到来する」「現代映画は万華鏡みたいなものだ。刹那的な結びつきを要求しながら、映像の大群とともに押し寄せてくるわけだ。そして観客の心のなかに、混沌と空虚を残していく」とかつて語ったスコリモフスキが、まさにそうした映画を豪腕で撮りあげてしまっているのだけれど、5時11分過ぎのワタシをつつんでいたのがまさにその混沌と空虚であったことを想い出してみれば、監督の目論見は完璧に達成されたことになるのだろう。運命とは、ワタシ達のすべてが時間というシステムに相乗りせざるを得ないことによる喜劇であり悲劇であり、それらに対する形ばかりの抵抗として倫理やらモラルやらで空虚の穴を塞いでいるにすぎず、しかしそれらは滑稽なまでに無益な抵抗でしかないし、生死をわけるのはワタシ達の生き様でもなんでもなくエントロピーの増大がもたらす無秩序がかざすひと触れに過ぎないという、寄る辺ない真実の仮説をスコリモフスキは真顔でちゃぶ台返しを再現してみせることでぶちあげてみせる。しかしそうやって天の配剤を鼻で笑っておきながら、どこかしら天の介在をを示唆するような象徴を意味ありげに弄ぶ食えなさは、いっそこれらをコメディとして笑い飛ばしてしまえればいいのにという捻れたオプティミズムすら匂わせるのだけれど、『アンナと過ごした4日間』や『エッセンシャル・キリング』に通底した、本質とはかくも滑稽で無様なものであり我々はそれを隠蔽するために社会や制度といったすべてのシステムをまとっているのであって、私が行っているのはそのスカートめくりのようなものであるという大上段の余裕は、ここではあまりに性急な直接性に取って代わられていて意外なほどで、ニヒルすら突き抜けたその焦燥は果たして黒点から逃走する疾駆の足取りであったのか、追うものが追われる者になった恐怖を77歳にして知った歓びがこの映画を撮らせたのだとしたら、すべての逃走者が向かった果てのカタストロフを殴りつけるような官能で幻視する愉悦に誰あろうスコリモフスキが打ち震えていたことにワタシは打ち震えたのである。そして言うまでもなくサウンド最凶。ナグラ持ってジュールのようにぜんぶ録ってしまいたい。
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2016年08月27日

ダーティー・コップ/他人(ひと)より嘘が上手いだけ

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ああ、きみがイライジャか。何か最近はこっち側でたのしくやってるみたいじゃないか。まあ今後のこともあるからこのあたりで一回、本物の茶番がどういうもんか見て知っておくのもいいんじゃないか。これで飯食ってくのも傍で見るより楽じゃないんだよ。まず言っておきたいのはここじゃメソッドはクソの役にも立たないってことだ。メソッドはプロットを殺しちまう。いいか、プロットの邪魔をするな、プロットに乗れ、それだけを考えろ。内面とかそういう益体のないもんはしまっとけ。哀しい時や困ったときは眉毛を八の字にしろ。怒った時はそれを逆にすればいい。そしてプロットの鍵になるセリフを言う時は、いくらか体を半身にして、ええとキミは右利きか?そうか、そしたら半身にして右手で相手を指差して三白眼ぎみでツバ飛ばしてまくしたてろ。そうやって決めつけちまえ、プロットどおりにな。それと、キミのはそれ自毛か?ああそうか、それはそれとしてカツラもガワ作りにはかなり有効だからハゲても気にするな、むしろ自由度が増す。そういえばむかしショーン・ペンに、もうお前はアクターじゃなくてパフォーマーだとか嫌味を言われたことがあったけど、例えば今のあいつの『ザ・ガンマン』な。あの素晴らしい原作をどうにも凡庸で煮え切らないフィルムにしちまったのはあいつがパフォーマーに徹してプロットに殉じてないからなんだよ。オスカーなんか獲っちまうと自分で自分を演じ始めたりするから始末に終えないし、あいつはまだそれをわかってないんだよ…。それじゃとりあえず、金庫の中のブツがやばすぎて、これは自分たちの手に負える相手じゃないと気づいたキミが勝手に金庫を閉めちまったあげく、メモった解錠の番号も俺に見せずに消しちまったシーンをやってみよう。激昂した俺がキミの胸ぐら掴んで金庫の扉に叩きつけてそれを開けるようにつめよるところな。「開けてくれ!」「できないよ…」ドガシャン!「開けろ!ジム!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!」さあ、俺はいま何回 “開けろ!”って言ったと思う?ん?どした、泣いてんのか?
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2016年08月23日

ゴーストバスターズ/ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ビーム

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意味のないものに意味を与えると、それが進んで意味を脱ぎ捨てていたとなればなおさらのことおせっかいで説教臭い窮屈に顔をしかめ反発してしまうのだけれど、この映画は気まぐれとでたらめと無責任が組み上げるモラトリアム、すなわち5時の鐘が鳴っても家に帰らず遊び続けるには、1日の終りによって積み重なっていく人生の意味を考えたりしなければそれにつかまることもないのだ、と得意気に開き直るオリジナルのハナタレ頭をよしよしと撫でつつも、でもあなたたちには遊ぶ相手がいたでしょう?それすらなかった私たちには友情こそが人生の意味なのよ、だからこうやって一緒に遊べるのが愉しくてしかたないのよねという解放感と多幸感のおかげでいっさい顔をしかめることのない笑顔あふれるリブートとなっていたのは確かなのである。ただ、ローワン・ノース(ニール・ケイシー)のパートがともすれば煮え切らないというか足が止まってしまうのは、友情というテーマで彼の孤独をバスターズの対称軸とするにしては彼を追い込む残酷を手加減していたからであるようにも思え、その曖昧さが『ゴーストバスターズ2』のヤノシュを思い出させてあまりありがたくないオマージュとなってしまった気がしないでもない。これはポール・フェイグとの相性の問題でもあるのだけれど、デバージでホルツマン(ケイト・マッキノン)が踊るシーンの80年代的ダレ場感などそこまでトレースしなくてもと思ったし、テーマの足腰を強くするために個々のキャラクター描写に時間を割きすぎたせいでなかなかバスターズの映画にならないこと、そして何より終盤の対決シーンをあまりにもCGで塗りたくってしまったことで、もっとドタバタが活かせたであろう4人の体技がいささか不発であったのがけっこうな不満に思えたのは正直なところであって、あろうことかその最中に一瞬とはいえ寝落ちすらした始末である。ケヴィン(クリス・ヘムズワース)のセックストークン的な扱いは笑っていればいいだけであるにしろ、あれをもってアーニー・ポッツの裏返しとするのは少々彼女に失礼ではなかろうかと思ってしまうし、そこまで徹底的に性を裏返すのであれば市長も市長補佐も女性にした上で、なおかつ市長補佐をバスターズに敵意を燃やす間抜けとするべきだし、彼女も加えてのああいった打ち上げ気分は少しずるいだろうよと拗ねてみたりもしたのである。好き勝手に遊び回ったしっぺ返しとして結局は厄介者扱いされるオリジナル・バスターズに比べると彼女たちの門出は少し祝福されすぎな気がしないでもないのだけれど、まあそれはそれでご祝儀として懐におさめておけばいいのだろう。それはともかく、これだけ律儀に仁義を切ったのだから次作はもっと好き勝手に底を踏み抜いてしまってもいいはずだし、第一ワタシにすれば男性が演じようが女性が演じようが本当にどうでもいいわけで、ガラクタな空想科学vs幽霊という胸躍るナンセンスが観たいだけなのである。No-Ghostサインを掲げてバスターズを名乗れるのは世界中にこの映画だけなのだから。
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2016年08月18日

ジャングル・ブック/けものに交われば狡いと為す

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キング・ルーイの家来サルの群れに仁王立ちのまま覆いつくされるバルーは、まるでソルジャーレギオンとガメラのようであったし、バルーとシア・カーンのファイトはまさに殺し合いと呼ぶにふさわしい爪と牙の応酬で、そういった擬人化のくびきを離れる瞬間こそがこの動物絵巻最大の醍醐味だったように思うのである。とはいえメインとなるのはモーグリがおのれを知るに至る道行きであって、それを支えるのは昨今のディズニーが自らへ積極的に課するダイバーシティの視線となるのだけれど、動物たちのガワが見紛うことなくそのものであればあるほど、ジャングルにおいては人間と一線を画すその掟と生態系が野暮な説明を求めてくるように思うわけで、カメラの陰でバギーラはインパラを食すのだろうし、モーグリとて「ネズミと捕りに行こうよ」というグレイのさりげない一言からうかがえるように、狼の子として育てられている以上彼らが組み込まれた食物連鎖から自由であるはずはないだろう。そしてそのことをあまり考えさせないためなのか、動物同士の闘いにおいてその獣性をあからさまに咆哮するのは冒頭でもふれたように主にバルーにまかされており、しかし事前にバルーの好物がハチミツであることをくどいくらいに告げておいたおかげで、彼はやむを得ずああして爪を立て牙を剥いているだけなのだと屠る者としての素性が免除されるようになっていて、それはモーグリの親代わりとなって育ててきたオオカミたちが獣性を極力明らかにしないのとは対照的で、劇中でモーグリが唯一口にするのが果物である点もそのあたりの煙幕だったのだろう。楽園(ジャングル)からの追放、大蛇カーとの邂逅と併せてみれば知恵を手に入れてしまった者の末路が、モーグリの目には“赤い花”が象徴するデモニッシュな世界と映る人間社会に向かうことはある意味腑に落ちるのだけれど、いくらワタシが野暮とはいえそこまで寄る辺のない話を求めているはずもなく、しかしシア・カーンの脅威が去ったとはいえジャングルにとどまるモーグリは自身の知性が発露していくのをどこまで抑えることができるのか、あのラストは束の間の楽園をとらえたようにしか思えなかったのである。また、シア・カーンは虎としての自身に忠実であっただけなのではなかろうかと思ってしまうのも、彼が“掟破りで遊び半分に狩りをする”ことを描写しないがゆえであって、擬人化によるリアルとリアリティの(どちらかと言えば都合のいい)混濁、人間の言葉は話すけれど思考が人間のそれと異なるとすれば虎であるシア・カーンの行為を快楽殺人と裁くわけにもいかず、ではモーグリのそれは果たして人間の理性が発する言葉なのかという回りくどさにとらわれたワタシは、野暮の極みとは知りつつ神なき世界の成り行きを真顔で追っては何だか疲れてしまっていたのである。そういえば血を流したのはモーグリだけであった。
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2016年08月15日

栄光のランナー 1936ベルリン/晴れた日に永遠が撮れる

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偉人の人間宣言的な浮気パートが、というかそこに至るまでがほんとうに眠たくて、ゲッベルス!ゲッベルス!リーフェンシュタール!リーフェンシュタール!と箸で茶碗を叩きたい気分だったわけである。だいたいが「きみの成績なら引く手あまただったろうに、どうして俺のところに来たんだ?」と訊ねるラリー・スナイダー(ジェイソン・サダイキス)に「ライリー・コーチがあなたを薦めたんだ」と答えるジェシー・オーウェンス(ステファン・ジェームズ)のセリフに突然名前の出てくるライリー・コーチって誰なんだよと思って調べてみれば、ジュニアハイ時代のコーチで実質的にオーウェンスを見出した人らしく、彼に道筋を与えたという意味ではバイオグラフィー的にはかなりの重要人物であるにも関わらず劇中にはそのセリフ以外まったく登場してこないわけで、恩師について語らずとも彼の浮気についてはまだるっこしく時間を割くことにより、これは彼の人生ではなく人間としての彼を描くのだということを告げているのだろうけれど、正直言ってこちらが待っているのは彼がどんな風にヒトラーとナチスドイツをコケにしたのかというただそれだけなのである。したがって、役者が揃ったドイツ・パートからの複層的に加速するスリルに明らかなようにこの映画は『アルゴ』タイプのポリティカルサスペンスを狙うべきだったように思うわけで、全米体育協会会長エレミア・マホニー(ウィリアム・ハート)とアメリカオリンピック委員会会長アヴェリー・ブランデージ(ジェレミー・アイアンズ)の暗闘を前哨戦に、トラックのオーウェンスは痛快かつ爽快に、ゲッベルス(バーナビー・メッチェラート)とブランデージ、ゲッベルスとリーフェンシュタールといったその舞台裏をキナ臭く描くことで、原題(”RACE”)のダブルミーニングがより立体的になった気もするし、オーウェンスとルッツ・ロング(デヴィッド・クロス)の純粋な交流ですらが、さらに切実で抜き差しならない色を帯びることになったように思うのである。リーフェンシュタールにしろブランデージにしろけっこうなキメ打ちをしていることを思えばネタ本あっての脚色映画化というわけでもなさそうだし、フェアネスを描くのに手段もフェアである必要がないことくらい重々承知であるはずのこの監督にしては人生の徳を積もうとするのはまだまだ早すぎるように思うのだけれど、『プレデター2』を撮った男よりはジェシー・オーウェンスの生涯を描いた男として爪あとを残したいのだと言われたらそれはそれで為す術がないのも仕方がないところなのである。酔狂はつらいよ。
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2016年08月13日

X-MEN:アポカリプス/つよくただしくかしましく

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それでも『フューチャー&パスト』には、マシュー・ヴォーンに蹂躙された非現実の王国を奪還しようとするブライアン・シンガーの息が乱れ頬の紅潮する昂ぶりが感情を引き裂く瞬間があったし、それにはエリック(マイケル・ファスベンダー)をマシュー・ヴォーンの落とし子とみなすことで格好の仮想敵足りえた僥倖も働いていたわけだけれども、いざ非現実の王国を掌握しヴィヴィアン・ガールズを指揮する将軍として君臨してみると、セックスと死の香りを忌み嫌うシンガーの潔癖症はエリックをどう扱っていいのか傍目にも気の毒なくらい混乱してしまうわけである。となれば、シンガーの傀儡として動くチャールズ(ジェームズ・マカヴォイ)の、彼がそうあって欲しいと願うエリックの記号にはめ込むことがせいぜいでしかないわけで、結果として、かつてピカレスクの色香によって善悪のくびきを波打たせていたエリックの身のこなしは完全に失われ、シンガーへの反逆罪に問われた罪人として完膚なきまでに去勢されてしまっている。残念ながら。したがって、真打ち登場ともいえるアポカリプス(オスカー・アイザック)にしろエリックを跪かせるための道具立てに過ぎず、誰に何ができて何ができないのかがあまりにも杜撰なまま放っておかれるものだから、できないことをカヴァーするためにできることを組み合わせるタスクフォース的な妙味もへったくれもないまま、最終的にはジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)をスペシウム光線にそそくさと幕引きをはかることになるわけで、結局のところシンガーが撮りたいのは“恵まれし子らの学園”を舞台にした非現実の王国版「ビバリーヒルズ青春白書」でしかないように思うし、MCUとDCEUのニッチを狙うとしたら、むしろそれしかなかろうという気さえするのだけれどいかがだろう。雪山に消えていくウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)の背中でむせび泣いたエレジーだけが忘れがたく、あとはずっとジェニファー・ローレンスにMind your own business!と言われ続けているような気分であった。それはそれで密かに疼いたりはするのだけれど。
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2016年08月09日

ハイ・ライズ/ぜんぶ、サッチャーのせい

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予告篇を見て、少し口数の多い映画だなあとあらかじめ気持ちを抑えておいたので、特に肩を落とすこともないままその貧乏性を淡々と確認してきたといったところである。口数の多いと言ったのは、原作の様々なシークエンスを映像化するにあたってそのイメージの達成に躍起なあまり、室内にしろエントランスにしろスーパーマーケットにしろプールにしろジムにしろ屋上庭園にしろその他もろもろをその都度完璧にキメこもうとしすぎることで、その集積としての超高層マンションがいっこうに有機的な総体として浮かんでこないということである。上層、中層、下層という居住階をそのままヒエラルキーとすることで、本来(というか原作)であればその内部における上昇と下降の移動により階級闘争が勃発するところが、では食料のライフラインとなるスーパーマーケットや、その占有をめぐって騒ぎの起きたプールはそもそも何階に位置するのか、下層の者がプールに行くには上昇せねばならぬ、上層の者がスーパーマーケットに行くには下降せねばならぬ、といった運動のダイナミズムを意識させることをまったくしないせいで、それぞれのシークエンスはそこに連続する力学が反映されないままぶつ切りの羅列にとどまり、その衝突が生み出す蛮性が日々を侵食し住人を魅了していく様を伝えることに失敗してしまっている。したがって、ではなぜ住人はマンションを出て行かないのか、なぜ警察を呼ばないのかというきわめてシンプルな問いへの答えを伝えそこなってしまっているのではなかろうか。そうした高低の意識に無頓着なのは住人の転落シーンに明らかで、そもそもあれを自殺にアレンジした点でも鼻白むのだけれど、ロングショットで捉えることで彼が失う高さを意識させるどころか、激突の瞬間をスロウで見せて悦に入る勘違いに軽く絶望すらしたのである。転落した彼はどこかしら超高層マンションの歪によって惑わされた犠牲者のように描かれているけれど、原作では蛮性の発露としての殺人が匂わされているわけで、その他にも、ラング(トム・ヒドルストン)の姉アリスがばっさりとカットされていることでその近親相姦的な接近も排除されているし、ヘレン(エリザベス・モス)に至っては妊婦として登場したあげくその出産が何か再生の象徴のようにすら描かれる始末である。そもそもバラードは、テクノロジーの粋をこらした超高層マンションがもたらす新しい自由によって人々が様々な抑制から開放されることで手に入れる新しい秩序を幻視してみせたのではないか。そこに風刺や皮肉はあったにしろ、少なくとも原作においてそれは仄暗い多幸感を伴っていたわけで、それを象徴するのがオープニングと後に円環するベランダのシーンで、ロイヤル(ジェレミー・アイアンズ)の飼犬であった白いジャーマン・シェパードの肉を焼くラングの満ち足りた表情のはずである(それすら焼くばかりで食うことをしない腰の引け方であったけれど)。だからこそ、最後に引用されるマーガレット・サッチャーによる資本主義賛美の演説(もちろんサッチャー政権以前に発表された原作にあるはずもない)の浅薄な皮肉が念には念を入れて映画をぶち壊していたとしか思えないわけで、結論としては監督の妻による当世風めいた脚色がどこまでも罪深かったとしか言いようがなく、役者もみなその凡庸に忠実であったというイメージにとどまるのみである。やはり脚本リチャード・スタンレー(『ハードウェア』監督脚本)と監督ヴィンチェンゾ・ナタリのプロジェクトで完成させておくべきであったのではなかろうか。ジェレミー・トーマスによる火中の栗拾い案件としては十全であるにしろである。
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2016年08月08日

アンフレンデッド/わたしのためなら死ねるはず

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図らずもブレア(シェリー・ヘニッグ)視点による83分間のワンシーンワンカット・ムーヴィーを達成している。図らずもというのは、あくまでそれは余禄に過ぎないからで、マルチカメラによる同時線形とでも言えばいいのか、カットをつなぐのではなく敷き詰めることで、目まぐるしく変わる登場人物の関係性のさざ波のような伝播を、ネットの暴力的な水平性の醍醐味として活き造りにしている。したがって、ローラ・バーンズ(ヘザー・ソッサマン)の復讐一つ一つについてはチャプターを区切るような段取り感が生まれてしまうこともあり、正直言ってスラッシャーとしての妙味はいささか退行してしまっているのだけれど、掃き溜めに捨てられたどす黒い孤独がイドの怪物と化して互いを食い尽くしていく様は、まさにSTAND ALONE COMPLEXが供給する幻想としての全体性に中毒した者の断末魔であったわけで、しかしそのプラットフォームから外れて生きることもまた恐怖であるとするならば、行くも地獄行かぬも地獄という現代の青春の蹉跌それ自体をホラーとして幻視したとしても何の不思議もないのである。ラストについては、あの動画がアップロードされたことで生殺しという選択がなされるかと思ったこともあり、ならばそこから永遠に解放されたブレアにとってはむしろハッピーエンドだったのではなかろうかとすら思ったわけで、これもまた、あらかじめオンラインされた世代にとっての新たな生き地獄との闘いということになるのだろう。この映画に関してはその特性としてPCモニター上(できればノートブック)でひとり観賞するのが最適な臨場感を生むのは間違いないにしろ、それゆえ好事家の方々はこの新たなブレイクスルーをあえて劇場で目撃しておくことが肝要なのは言うまでもないし、サーバーを漂流する永遠に消えない記憶が責め立てる、一度吐いた唾を呑めない世界に自分を人質に差し出すことで参加する最新型のチキンレースが撒き散らす躁病的なデカダンスに、知らず自分も巻き込まれていることを知っておいて損することはないはずである。
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2016年08月07日

ロスト・バケーション/生きて帰るまでが遠足

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『ジョーズ』のファースト・ヴィクティムとなるクリッシーが生き残るとしたら彼女がどんな人間で何が必要だったかとでもいう、どちらかと言うと動物パニックものというよりはソリッド・シチュエーション・スリラーに近く、なおかつ『老人と海』的な人生の寓話もまぶしてみせてジャウマ・コレット=セラらしいスマートな小品に仕上がっている。スリップストリームな題材を主戦場とするセラだけれども、最終的には心理的な采配で勝負をつける人なので、直截的に痛覚を刺激するようなアクの強い描写を尖らせてきていないこともあって、麗しきブロンドがサメに食いつかれ岩礁を裸足でふみ抜き毒クラゲに刺される姿の苦痛と苦悶を舌なめずりするフェティシズムがないのが物足りないと言えば言えないこともなかったのである。縫合のシーンはアプローチがスムース過ぎてアイディアの遂行にとどまってしまったのが何とももったいなく、肉と神経の反作用をもっとえぐってほしかったけれどセラの品の良さはそうしたグロをあてにしないのだろう。ただ一つ、かつてフジロックの初日に会場で買ったかちかちのカンパーニュを無造作に噛みちぎった瞬間前歯の一部を持って行かれ、残りの会期中を大変な不便で過ごした身としては、以後その種の食べ物に対する病的な及び腰につかまっていることもあって、ナンシー(ブレイク・ライブリー)がウェットスーツを事もあろうに歯で引き裂くショットに思わずうなじがぞわっと逆立ったのである。クジラの死骸がまとう禍々しさが捨ておけなかっただけに、できれば岩礁ではなくあの上に乗って漂流するナンシーが、飢えに苛まれてクジラの腐肉を口にしては嘔吐に耐えて悶絶するシーンなどをどうしても夢想してしまうのだ。それもこれも、最後まで医学生には見えなかったことはともかく、美しいボロ雑巾としての一人芝居に耐えうるブレイク・ライブリーの肉体言語が饒舌であったからなのは言うまでもないし、それはおそらく、出がらしのようなリメイク企画にパリス・ヒルトンをあてがわれたデビュー作でさえ、誠実にアイディアを注ぎつつ丹念な演出でパリスを生かしてみせたセラの映画製作に対する根性を、彼女が深いところで理解したことによっているのだろう。役者といい采配といい、なんとも小股の切れ上がった86分であった。
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2016年08月04日

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男/パパ グレてるゥ!

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「学校にお弁当を持って来られない子がいたらおまえはどうする?」「わけてあげる」「自分で働けとは言わないで?」「言わない」「お金を貸してあげるとも言わないで?」「言わない」「じゃあお前も立派な共産主義者だね」娘ニコラ(幼少期=マディソン・ウルフ)にパパやママは共産主義者なの?と聞かれたトランボ(ブライアン・クランストン)のやりとりに、ん?となったのはご多分に漏れずで、それが富の再分配の比喩であったのかといえば、『ヘイル、シーザー!』のカリカチュアを思い出してみても、知識層の認識がせいぜい社会主義と共産主義のいいとこ取りあるいはノブレス・オブリージュ的な施しにしか思えないわけで、そういったこの映画の「甘さ」、脇の甘さやビタースウィートのスウィート的な部分は、これが醜悪で殺伐とした魔女狩りの時代を描くというよりは、ダルトン・トランボという人間のチャームを描くことを掲げていたことによっているのだろう。そんな風に資本主義のアンチテーゼに端を発した苦難であるからなのか「お金」が随所で袖を引く物語でもあるわけで、スタジオのスタッフの賃金問題支援や、エドワード・G・ロビンソン(マイケル・スタールバーグ)による裁判費用カンパのための所蔵のゴッホ売却、もちろんトランボ家の生計を支えるためのゴーストライトは言うまでもなく、ルイス・C・K(アーレン・ハード)の遺児への思いやりが借金の棒引きにこれみよがしだった点では、実際のところはどうだったのかはともかく、ルイスの病状への無関心や今後の子供たちの生活に対する憂慮の言葉すらなかった点で、その後エドワード・G・ロビンソンからトランボに浴びせられる辛辣な言葉に彼が返す言葉などなかったのも当然であったし、名を捨てて匿名のひとりとして埋没しギャラを再分配する日々こそが彼の欲した共産主義的な献身ではなかったのかと、最後に名前を取り戻して終わる物語にいささかの皮肉を感じたりもしたのである。したがってこれはあくまでもトランボ家の物語として評価されるべきであって、ダルトン・トランボという男の物語としてはやや気分が良すぎるものだから、授賞式のスピーチ会場で独り涙をにじませるエドワード・G・ロビンソンの苦渋が何となく上の空になってしまうのを惜しむことにもなってしまう。ダイアン・レインは歯を食いしばって笑顔で燦々と立つ大きなアメリカの母親になった。
posted by orr_dg at 19:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする