2020年01月17日

フォードvsフェラーリ/おれの車にのりたいか

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レオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)がキャロル・シェルビー(マット・デイモン)に向かって「マイルズは、あれはビートニクだ…」と吐き棄てた瞬間、フォーカスがクリアになる。「フォードvsフェラーリ」というよりは「シェルビーvsビーブ」という構図に終始するこの映画でキャロルがレオと闘い続けたのは、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)という自らの肉体をラボに人間復権の臨床実験を行う男の、すなわちビートニクの体現者への憧憬と同志愛のなせるわざであったのは言うまでもなく、すでにケネディは斃れ、ヒッピーという大量生産されたビートニクの気配が忍ぶこの時代は、身体ひとつでシステムを打ち負かすアメリカの騎士を描くことのできる最後の時代でもあったのだろう。7000回転の向こう側へフリークアウトしたマイルズが疾走するミュルサンヌ・ストレートの真空のような静寂は、たとえば『断絶』のラストでドライヴァーが溶けていく虚無を想い起させつつも、しかしマイルズはそこから引き返すことを選ぶわけで、それはついに見るべき風景を見た達成感であったのか、シェルビーへの友情と仁義であったのか、あるいは永遠に思われた思春期の終わりであったのか、いずれにしろビートの天使マイルズはその翼を差し出して他者の幸福を願うことを選んだのであり、となれば、あのシフトダウンはいずれ彼を襲う悲劇のカウントダウンがスタートした合図ということにもなるのだろう。イノセンスの喪失とはすなわち死を想うことであり、本来なら映画一本が費やされるそのテーマをセリフもないたった一つのシークエンスで抉りだしてしまうクリスチャン・ベイルに、いったい役者というものはどこまで可能なのかと、自分が何の映画を観ているのか覚束なくなるくらいワタシも向こう側へと溶かされた気がして胸がこわれそうだった。スピードとは時間で、時間は生命あるものすべてを支配することを思えば、スピードに抗う者たちは束の間ドライヴァーズシートで神を演じることが可能であると同時にそれを求められることとなり、そのためには下界の合理を棄て去る必要があることを識らなければならないわけで、そのキャリアをドライヴァーからスタートさせたエンツォがフォードを醜いと言うのはそこに神の合理が宿るにふさわしいシートを持ち得ていないからだし、してみればシェルビーがフォード2世をドライヴァーズシートに縛りつけてスピードの只中に放り出した荒療治に涙を流したフォード2世はそこに神の気配を感じたのだろうし、激闘を終えたマイルズとそれを見つめるエンツォの視線が交錯する時の昂揚に絡みつく、いささかの倦怠の正体が神々の憂鬱であったことは言うまでもないだろう。妻モリー(カトリーナ・バルフ)のみならず息子ピーター(ノア・ジューブ)もまた家族というよりは同志として描くさわやかな緊張感が神話にさらなる聖性を与えてやまない。不幸な天才の屈託と苛立ちを半ば嬉々として演じるマット・デイモンがクリスチャン・ベイルと取っ組み合いをする姿に『グッド・ウィル・ハンティング』の20歳が重なって見えた瞬間、アメリカ映画という在り方になぜ心惹かれてやまないのか、それは楽観も悲観も引き受けた上で世界の最善性を問い続け試みる生き方の証明だからなのだろうと、腑に落ちる音が聴こえた気すらした。
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2020年01月10日

ロング・ショット/セックス、ドラッグ&ボーイズUメン

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理想を笑わずそして現実もあきらめない貪欲を清々しいとさえ感じてしまう時点で、ワタシたちはいい加減スポイルされてしまっていることに気づかされるし、それはグレタ・トゥーンベリが変人扱いされる世界の笑えなさとどこかでつながって、この映画から漏れ出す忍び笑いの多幸感はそんな時代を足蹴にする混じりけなしの正気をウォッカで流し込んで血管の隅々までめぐらせるその酩酊によっているのは言うまでもなく、すなわちこれが効かない相手は今後のアナタやワタシの人生から整理してしまっても差し支えないということになるだろう。どれだけ下ネタやドラッグネタでくすぐりを入れようとそれが露悪的にならないのは、そこを潜った上でどれだけ身ぎれいにして目は澄んだままでいられるかという2020年代の闘いの流儀としてそれらが描かれているからで、シャーロット(シャーリーズ・セロン)やフレッド(セス・ローゲン)の水平性と流動性が垂直性の支配に立てた中指なのは言うまでもないし、2人のロマンスを生餌に観客を誘いこむのは、すべてのシステムをカルチャーとして捉えなおすことで見晴らせる世界の広がりであって、政治もまたカルチャーであってビジネスではないと記した石つぶてをアゴを緩ませ開いた瞳孔で彼方へ雨あられと投げつけてみせる。フレッドはシャーロットによって狭量なセクト主義を、シャーロットはフレッドによってポピュリズムの轍を、それぞれがそれぞれを更新していく関係のそれゆえ避けられぬほろ苦さとそれがもたらす幸せの甘さは、この世界で人がよく生きるためのやり方が尽きることはないのだなあと、まさかこの監督&主演のコンビに人生の指針を示されるとは思ってもみなかったわけで、かつて最右翼かと思われたトッド・フィリップスがああやって一抜けしたとあっては、絶えて久しいチーチ&チョンの名跡がようやくのこと継がれた気もしたのだった。それがどれだかアメリカを痛めつけてきたかはともかくとして、ドラッグをカルチャーとして芽吹かせたその歴史こそがアメリカをアメリカという概念たらしめていることをあらためて思い知らされる。そこにとても冴えたやり方でさっと力を添えたシャーリーズ・セロンの頭抜けた嗅覚に相変わらずうっとりとしてしまう。笑う門には福来たるよ。
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2020年01月05日

テッド・バンディ/おまえももう死んでいる

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テッド・バンディ(ザック・エフロン)による凶行の犠牲となった女性たちが過ごしたであろう地獄の時間を、何らかの理由で彼に生命を奪われることのなかった女性たちは、しかしその生がある限り、引き延ばされたその時間を永遠の囚われの中で過ごさねばならなかったのだろう。なぜ自分は殺されないのか、それはテッドが私の中に彼と同じうごめきを見つけたからなのか、一度でも彼を愛した私はすでに彼と同じ悪に違いないのか、そうやって破壊を逃れた肉体の内側で精神が喰われていく緩慢な殺人をワタシたちはリズ(リリー・コリンズ)を通して追体験することとなり、既にテッド・バンディの犯した罪を知るワタシたちに、いったんそのことは頭から追い出してテッド・バンディに見初められた者の曖昧な生き地獄を共に過ごすことを強要しては、カワート判事(ジョン・マルコヴィッチ)がテッドに「きみはとても聡明な若者だし、ならば優れた弁護士としてここで私の前に現れてくれていたらと思っている」という言葉をかけた瞬間が、テッド・バンディの悪魔のような二面性とその呪いを図らずも強化してしまいさえするのである。果たしてテッドはリズを愛していたのだろうかと言えば、そもそもワタシたちの言う愛などという代物がテッドのそれを解題できるわけなどなく、それよりはお前を殺さないでいることで他の女性たちをもっとよく殺せるんだ、とでもいう彼なりのバランサーだったのだろうとワタシは考えていて、リズとの最後の面会で彼がとったある行動によって足もとから瓦解したリズを見つめるテッドの、もしかしたらおれはもう一人の女性も破壊できないかもしれないから、お前のその表情を人生のデザートにさせてもらうよとでもいうその貌に「テッド・バンディ」という記号が刻まれて完成するのをようやく見た気がした。そうやって冤罪と闘うテッド・バンディという狂気を徹底する手続きをとることで、この映画はリズやキャロル(カヤ・スコデラリオ)といった言わばバンディ・ガールズとくくられてしまう女性たちを、騙される方が悪いのではなく騙す方が悪いに決まっているのだと正当な犠牲者として描き、彼女たちの冤罪を晴らすことを願ったようにも思うのである。欲望が感情のフィルターで濾過されることなく行動に決定され、理性をその道具と従えた人間の亜種テッド・バンディを実物の倍増しのチャームで演じたザック・エフロンがほとんどキャリアハイのきらめきをみせていて、まるで洗練された教育とマナーで調教された千葉真一のようだった。『ザ・バニシング −消失−』のレイモンはある意味でバンディのコピーキャットだったことに今さらながら気づく。
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2020年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

僕に残されてる夏はあと何回?と歌う片寄明人の詞に込められた刹那の意味が、二ヒルの白熱ではなく瞬間を慈しむことなのだとようやく分りかけてきた今日このごろの、その気持ちで今年を過ごしていきたいと考えています。
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2019年12月31日

2019年ワタシのベストテン映画

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ミスター・ガラス
岬の兄妹
荒野にて
魂のゆくえ
オーヴァーロード
ガルヴェストン
ゴールデン・リバー
ゴーストランドの惨劇
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
ボーダー 二つの世界

観た順番。
秋口からあまり映画館に行けていなかったりして、劇場鑑賞数は例年より30本程度減少。でも、さほど悩むこともなく無理矢理でもなく10本が決まったのだから、今年は良い映画に恵まれた年だったんだろう。

私は通りすがりの映画館に入って目を酷使した。呼吸のざわめきや、いやなにおいをたてるぐにゃぐにゃと温かい皮膚にみたされ、たえまなしに色と音が変わりつづけているその闇にもぐりこんでいると潮のように迫ってくるものからしばらく体をかわすことができた。―開高健

なのに、そんな風に映画館に逃げ込んだ、なんだかあまり健康的とは言えない記憶が残る年になった気がしてしまっている。来年は、スクリーンの緊張に顔を上げて向き合える年になりますように。
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2019年12月26日

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け/死なばもろとも

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※もはやどうでもいいので思い切り展開に触れています

“見てみろ、この慌てぶりを。怖いのだ。怖くてたまらずに覆い隠したのだ。恥も尊厳も忘れ、築き上げてきた文明も、科学もかなぐり捨てて。自ら開けた恐怖の穴を慌ててふさいだのだ。”と大佐の言を引用してしまえばそれで済んでしまう気もしたのだ。センスはあってもそれはセンス・オブ・ワンダーになりえないことに絶望しワンダーを抹殺する人生に身をやつすことを選んだカイロ・レンの荒ぶるフラストレーションへと自身の屈託をしのばせたJJに、フランチャイズのリサイクラーとしてではない作家性を初めて垣間見た『フォースの覚醒』はその点においてスリリングですらあったし、強大な父を乗り越えるために要求される男らしさ=マチズモの支配する枠組みを解体するため、父殺しをしなければ更新されない世界を鎮めるべくフォースの持つ破壊と再生という側面を最後の父殺しレンと殺すべき父を持たないレイに分け与えた『最後のジェダイ』も、ならばとワタシは心穏やかに受け入れたのである。それがなぜ前作を恐怖の穴と唾棄し、応急処置のしかもマッチポンプとすら言えるつぎはぎで覆い隠したような、新たな地平を目指すつもりなど一切ない言い訳だらけの撤退戦に終始したのか、自ら産み落とした若者たちを信じることすらできず幾多の亡霊たちの力を借りては急場を凌ぐうち、亡霊その一のパルパティーンに至っては実体化をするどころかついにはレイの祖父すらを名乗り始める始末で、前作の「幻想にしがみつくのはやめろ!」というカイロ・レンの叫びがどれだけ虚しく響いたことか、ベン(カイロ・レン)とレイという均衡の双子かつ理力のソウルメイトにキスをさせるに至っては、JJの思春期朴念仁っぷりが『スーパー8』から何一つ成熟していないことすら晒してしまう始末ではなかったか。本来であればエピソードの半分は費やすべきレイの両親の出奔をほんの数カットで片づける逃げ足はまるで打ちきり漫画の最終回のそれとしか思えず「――すべて、終わらせる。」というのはまさに字義通りの意味だったのかと、四角な座敷を丸く掃く体裁だけの大掃除に、ああそう言えばほうきをスッと手繰り寄せたあの少年は今頃何をしているのだろうと彼方を見つめたりもしたのであった。とはいえ、そもそも語るべき物語などそれ自体が罪なのだとでもいう全方位マーケティングへの強迫観念的な奴隷労働こそは、キャンセル・カルチャーという時代の気分をヴィヴィッドに反映させた最前線の140分であったということになるわけで、ワタシたちの誰もが罪深いファントムメナスなのだろう。もはやストーリーに組み込むことすらあきらめたのか、昏睡するファンが今際の際に見た走馬灯にしか映らないイウォークを、ならばそっと後ろ姿にとどめおくことすらしない野暮がどこまでも念入りにとどめを刺してくる。
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2019年12月19日

ラスト・クリスマス/ルック・アップ・イン・アンガー

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※展開に触れています。

「普通」なんていうのは、他人を傷つけるだけの醜い言葉でしかない、と諭しつつも吐き棄てるように言うトム(ヘンリー・ゴールディング)の正体が明かされた瞬間、ああこれは分断が蝕む時代のクリスマス・キャロルでもあったのだなと、この映画が失わない清冽な灯りの理由がわかった気もしたのである。どうして私が、なぜ私だけがと人生の分け前にこだわるあまり、失ったもの(私の心臓)に屈託をぶつけるばかりで自分が生かされている理由(誰かの心臓)を省みることをしないケイト(エミリア・クラーク)にトムは、下ばかり見ていないで上を見てごらんとそっとアドバイスをする。そうやって上を見上げて背筋を伸ばし胸を張り、自分が気づかないだけでいつもずっとそこにあるものを知ることは新しい旅への第一歩であるに違いなく、ケイトの場合それはカタリナというもう一人の自分へと立ち還る道行きとなることで、自分はどんな連なりの最後尾にして最前線にいるのかを再確認しつつ今自分がここにいることの意味を知っていくこととなり、疑うことなく自分を「普通」だと考える人たちによって断ち切られた繋がりをもう一度結んでみることによって、かつて断ち切ったカタリナの輪郭がもう一度ケイトに重なっていったように思うのだ。大切なのは、ありもしない普通であろうとすることよりも自身の自然であることなのだというその眼差しは、離脱と分断の恍惚に焦がれるイギリスへの絶望よりは衒いなく真っ直ぐな希望に照らされた気もして、しかしそれは、シニックが有効なのは最低限の正気が担保された社会相手のことだったのだという、あきらめの先で行われる笑顔の逆ギレにも思え、すなわち現実がいかに救いがたいことになっているかというその証明であった気もしてしまうわけで、『ラブ・アクチュアリー』から15年経ったイギリスがこんなふうに真顔でクリスマスを迎える無常に想いを馳せたりもしてしまう。奇しくも自転車で事故った若者の物語でありながら、かたや大英帝国の誇りを歌い上げたあの映画の楽天性が犯罪的な鈍感としか映らなかったことも、今この世界の忠実な反映であったのだなあとようやくその役割に気づいた気もしたのだった。今作がクリスマス映画の新たなスタンダードになりますように。
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2019年12月05日

ドクター・スリープ/エンジンルーム、ボイラールーム

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キングが指摘していたように、キューブリックはホラー映画とブラックコメディの世界が接する境界線を認識して、ある一線を越えると恐怖と共に笑いが生まれることを理解しそれを実践していたわけで、『シャイニング』の計ったような「ホラー」のアプローチとアタックはほとんど幽霊屋敷もののパロディといってもいいくらい余白までも完全にデザインした表層でものにされていて、ジャックの間抜けな凍死体はそこまで引きずりまわした観客への見事なあっかんべえだったのだろうとワタシは思っている。してみると、まずは『シャイニング』を「ホラー」のジャンルに取り戻さねばならぬというキングの復讐を達成するために、ジャンルに愛と忠誠を誓ったプロパーを据えるという点において、かつキューブリックのヴィジョンを理解し再構築する視点と胆力を持ち合わせるにおいて、ホラーのヴィジョンで状況ではなく情動を語ることのできるマイク・フラナガンは正鵠を射た起用だったというしかないし、このメジャー作品においてもこれまで同様に脚本と編集を手掛けることを認めた点でも、どれだけキングの後押しがあったかは不明ながら製作陣の慧眼は称賛されるべきだろう。したがって、キューブリックが何より興味を示さなかった善と悪のあわい、すなわちキングがいうところの“エンジン”にフラナガンはガソリンを注ぎ続けたわけで、善の為すことと悪の為すことを常に対比的に描くことによって最終的にはキューブリックの描いたヴィジョンにすら血を通わせて(しまって)いて、ほぼ40年を経てダニー(ユアン・マクレガー)とジャックが対峙するゴールド・ルームのトレースといい、その一歩も退かぬ確信と勇気はほとんど感動的ですらあったのだ。と同時に、ダニーとアブラ(カイリー・カラン)の立ち向かうべき相手は「悪」であって「狂気」でないことを念押しするためには野球少年の断末魔も厭わない躊躇のなさは、キングの刻印であると同時にフラナガンの譲れぬ矜持にも思えたのである。そんな風にして、『オキュラス』を観た時に思った、この監督にとって恐怖の対義語は愛なのだろうというその定義がここでは見紛うことなく爆発していて、キングにキューブリックを赦すことを促してみせさえしていたし、何よりそれは『シャイング』の嫡子ともいえるポスト/ポストモダンホラーの虚空に放り出す流体が支配する現在において、恐怖で往き愛で還ってくる物語もまた守るべきホラーの牙城であることを明確に示してみせたのではなかろうか。ある意味、彼女に今作の成否がかかっていたと言ってもいいレベッカ・ファーガソンが、右目に野卑、左目にノーブルを宿した女王蜂をしなやかで揺るぎのない重心でいわゆる良識の人のかけらもなく演じていて、ユアン・マクレガーと共に欧州の幽かにささくれたソリッドがジャック・ニコルソンの狂情を跪くように鎮めてみせていた。
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2019年11月30日

アイリッシュマン/キラー・インサイド・ゴッド

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「この件におまえを引きこまないとお前に阻止される」とラッセル・ブファリーノ(ジョー・ペシ)がフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)に言葉を絞り出した瞬間、自由と平等の国アメリカがその表情を一変させ寄る辺のない取り立てがフランクに始まることとなり、少女のペギー・シーラン(アンナ・パキン)が父に見てジミー・ホッファ(アル・パチーノ)に見なかったもの、それはおそらく暴力に人生のみならず夢と友情までも借りたその負債だったということになるのだろう。その負債と資産が流動するバランスシートをアメリカの後ろ姿と描いてきたマーティン・スコセッシが、ここではペギーの視線を借りることでその背中に拭いようのない唾を吐いていて、ついにペギーから赦されないままたった一人でこの世から消えていくフランクのバランスゼロに向かう彷徨を描きながら、それでもその最期の時まで救いの訪れを待つようにドアを開けたまま眠るフランクへ向けるスコセッシの視線は、『ミーン・ストリート』から始まってロバート・デ・ニーロと共に過ごした半世紀近い旅の終わりを慈しんでいるようにも思えたのだ。そしてもうひとつ、ペギーがジミー以外の男たちを忌避するのは彼らがその奥底では女性を人生の勘定に入れない生き物であることへの押し殺した憤怒であった気もして、例えば冒頭のやりとりがかわされるモーテルの食堂で、フランクのボウルにコーンフレークを入れたラッセルがテーブルに置いたその箱の、はみだした内袋をそっと押し入れるフランクの細やかな仕草は長年連れ添った夫婦のそれとしか映らないわけで、ラッセルがフランクに贈ったリングが実質的な結婚指輪であることは言うまでもなく、彼らのいうファミリーにおいて女性たちは血と暴力のアリバイとしてその贖いの祭壇として存在するに過ぎないことをこんな風な内部告発の視線で描いてみせたこともスコセッシの清算であった気がするのである。したがって、ある限界がラッセルによって告げられて以降、あのモーテルでの朝食を起点にほとんど投げやりといっていいくらい醒めたショットと弛緩した時間(例えばできそこないのタランティーノのような車内)の果てに描かれる、ケネディ暗殺と対をなすようなアメリカ殺しは結局のところ自分たちすべての自死でもあったのだという諦念と懺悔の監獄に彼らを放り込んだわけで、赦されないことを知っている者たちがそれでも赦しを請わねばならぬ煉獄で幕を閉じるためにこそ、時間の感覚を無効化していく210分という倦んだ時間を必要としたのだろうし、これがパラマウント作品として市場を考慮した180分に収められでもしていたら懺悔の値打ちはストーリーのメランコリーとして機能するにとどまり、冒頭に掲げられた「お前は家のペンキを塗るそうだな」という言葉が、あるアイルランド人の気の利いた墓碑銘として刻まれるに過ぎない作品となっていたようにも思うのである。ディエイジングという特殊効果によって若返った貌に首から下の動きが応じていないシークエンスがないこともないのだけれど、このあらかたがフランクの回想によって語られる物語であることを想い出してみれば、むしろそのぎこちなさこそがフランクの愚直に行っては帰る人生の揺れや震えだったようにも思うのだ。してみれば『沈黙』を撮り今作を撮ったスコセッシが、それを撮る人間の人生が投影されない映画を果たして映画と呼べるのか、とまるで映画学科の学生のような苛立ちをマーヴェルにぶつけたのも、ドアをあけたまま終わる映画をついに撮りきった/撮りきってしまった昂奮と寂寥のなせる業だと思えばこそ、ワタシたちはそれにうなずくしかないのではなかろうか。ジョー・ペシがまるで即身仏のようだった。
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2019年11月27日

ゾンビランド ダブルタップ/生きてるだけじゃダメかしら

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リトル・ミス・サンシャインmeetsアドベンチャーランドへようこそ的な前作の残り香はほとんど見当たらず、というかマイケル・ルーカーをウディ・ハレルソンにあてがったような『ウォーキング・デッド』って実はどこかでオレのアレに背中押されてるよな?ってルーベン・フライシャーがニヤついたかどうかはともかく、どうせ刺身のつまにするならここまでやれよってな風に、ゾンビをほとんど飛んでくるハエの扱いへと解体するため映画の基準線をブリングリングなマディソン(ゾーイ・ドゥイッチ)に設定した喰えなさ加減に、やはりこの監督に『L.A. ギャング ストーリー』みたいな“喰える”映画は向いてないことを自ら証明したように思ったわけで、今どきのイデアやらメタファーやらに捉まることなく最後まで見事にかわした逃げ足は称賛されてしかるべきだろう。なかでも特筆すべきは、メインの4人の中で前作からの10年の間に一番遠くまで行って還ってきたエマ・ストーンの一瞬たりともとどまることをしない顔芸で、隙あらば余白にそれを撃ち込んでくる反射神経は最近では松岡茉優に同じ香りを嗅ぐ気もするわけで、ジェシー・アイゼンバーグのノーブレスなまくし立てがやや頭打ちであったことを思えばこそ、鼻につくモード寸前にまで一気に切り換えるそのスイッチに恐れ入ったのだった。もはやロメロの新作が望めないこの世の中でゾンビが生き長らえていくための方策としては『ウォーキング・デッド』よりもむしろこちらに未来と誠実を感じたりもするのは見事な仁義を切ったオープニングがあればこそで、ゾンビを屠る快感を抜きにした真顔でジャンルへの愛情表現は語れないことを今一度作り手は肝に銘じておくべきだろう。ゾーイ・ドゥイッチは母親のイメージもあって『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』のベヴァリー的にカジュアルなエマ・ワトソンが道筋かと思っていただけに、ここでのイージーゴーイングなピンキーは思いがけない役得ではなかったか。2019年にしていまだ尽きないNINJAへの憧憬もまたモンドセレクション金賞受賞のめまいする趣き。
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2019年11月21日

ひとよ/まだはくよ

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稲村こはる(田中裕子)が恐れたのは父(井上肇)が子供たちにふるう暴力はともかく、いずれ3人のうちの誰かが父親を殺してしまうことになるのではないか、というそのことであったようにも思え、この生き地獄を終わらせるためにはあいつを殺すしかないという母と子の奥底で頭をもたげつつある殺意を認識したこはるの、ならば私がその役目を引き受けてしまえばいいのだという昏いひらめきと決意が、あの夜の彼女に「母さんは(殺人を成し遂げた)いまの自分が誇らしい」と言わせた気もして(事後の処理を指示する言葉からして、あの夜の行動は衝動的ではなく計画的だったことがうかがえる)、大樹(鈴木亮平)、雄二(佐藤健)、園子(松岡茉優)の3人が抜け出せないままもがき続ける日々の屈託は、人殺しの子供となったことよりも、母親にそれをさせたことへの痛切な悔悟が色濃かったように思うのである。したがって、時折誰かが口にする贖罪という言葉は、こはるではなく子供たちの胸にしまわれた言葉のはずであって、「おかあちゃんは間違ってない」というこはるの奇妙な明るさと悪びれなさが、自分たちが世界に負った負債の正体がその贖罪であることを子供たちに告げていくこととなるわけで、それをいったいどう認めればいいのか途方にくれる子供たちが、母を救い父親を殴り飛ばすはずの夜がはからずも再現されそれを疑似体験することで、向き合うべきものの正体を知る結末の荒ぶりと昂ぶりは、暴力を、回避できない感情の切実なデザインと描いてきた白石監督の真骨頂と言ってもいいシーンだったように思う。それが内向にしろ外向にしろ、白石作品ではいつも役者が気持ちよさそうに演じているなあという印象は今作でもそのままに、とはいえそれは自然体のナチュラルというよりはアップデートされた昭和感とでもいうある種のバタ臭さに満ちたケレンであって、戦後に直結した時代の生と死のぎらついたメランコリーを現代の新しい言語として翻訳する監督の幻視は邦画において群を抜いているのは間違いがないだろう。ただ、これは今作に限ったことではなく邦画の問題としてあることだと思うのだけれど、たとえば『楽園』や今作での外部的な悪の描かれ方が、十年一日のごとく地方共同体の排他的かつ匿名的な悪意に終始せざるをえないのは、良くも悪くも日本と言う国の偏執的な均質性のなせる業なのか、悪意の反射が映画にもたらす光の角度が扁平で凡庸に思えてしまうのがそのまま邦画の限界につながってしまう気がしてしまい、人種や宗教、性的指向など個人的な属性の分断から距離を置いてきた国の宿命と呑み込むしかないのだとすれば、それはもちろん映画の外側でこの不幸を打破するところから始めなければならないことを再認識させられることとなるわけで、映画に感じ入れば感じ入るほどその負債に気づかされる複雑な面持ちの傑作であったというべきか。ところで、前述した『楽園』といい映画の中の落書きって同じ人が書いてるんだろうかと思うくらいに、説明的に崩し方が整っているところでいつも気持ちがスッと引いてしまうのもワタシにとって邦画の密かに厄介な問題点で、ダイイングメッセージでもあるまいし悪意のぶちまけなのだから字なんかハッキリと読めなくたってかまいやしないと思うのだけれども、その度に素面に戻ってしまうのがほんとうに厄介この上ない。
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2019年11月17日

グレタ GRETA/待つわ

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※展開に触れています

クイーン・オブ・オブセッション、もしくは暗黒妖精としてのイザベル・ユペールという、その怪優のエッセンスだけを抽出し続ける試みの、あまりにもあまりで誰もが頭から振り払ってきたそれをただひたすら衒いなく行ってみたらどうなるだろうと考えて、実際に行ってしまった二―ル・ジョーダンの英断と言うか蛮勇を讃えるべきで、監督やキャストの映画史的な格からハイブロウな神経戦を装いつつも、むしろサスペンスの徹底した底の抜け具合にこそこの映画の本領があることは、例えばマイケル・マイヤーズがすべての警官やヒロインの理性的な行動を無効化してしまうことを想い出してみれば、それが瞭然なのは言うまでもないだろう。相対する誰よりも小さな身長と曖昧な頭身の醸すイザベル・ユペールの不穏が、これまた年を重ねるにつれそのいかり肩に攻撃的な角度を増すクロエ・グレース・モレッツとクロスするスリルと、しかしこの映画を最終的に縦断していくのはファンキーでタイトなマイカ・モンローであったという女性たちの『ピアニスト』vs『キャリー』vs『イット・フォローズ』な三すくみに加え、探偵(スティーヴン・レイ)やフランシスの父(コルム・フィオール)といった男性陣の役立たずにおいて、二―ル・ジョーダンらしい小さくも固く引き締まった握りこぶしの物語であったように思うのである。と同時にらしからぬトリッキーで多層なショットはニール・ジョーダンが秘めたヒッチコック〜デ・パルマへの偏愛であったのか、前述した底の抜け方がこれらへの前奏であったと思えばこそワタシは重箱の隅をつつく一切をしないでのある。ではモンスターとしてのグレタを打ち倒すラストガールの役割を誰がどのように担うのか、その三すくみの力関係においてクロエ・グレース・モレッツの善性よりはマイカ・モンローのエッジーを買ったニール・ジョーダンのアップデートされた嗅覚はさすがであったというしかないにしろ、と同時にクロエ・グレース・モレッツ受難の時代をうっすらと予感させたりもして少々切なくはあったのだ。イザベル・ユペールを観るたびに大貫妙子が俳優だったらなあと益体のない夢を見たりしていたのだけれど、やはり今回もそんな夢を茫漠と見てしまったりもした。ノーブルで毅然と悪魔的なハチドリの視えない羽ばたきをする人の笑み。
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2019年11月14日

永遠の門 ゴッホの見た未来/晴れた日に永遠が描ける

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ジュリアン・シュナーベルはゴッホの人生の最期を、世界と刺し違える芸術家の彩りとしての自殺から救い出す。『バスキア』がそうであったように同じアーティストならではの批評性の一切を放棄したバイオピックは、世界が“視えてしまう”がゆえ埒外に弾かれる人に向けた彼の愛情とそれゆえの哀しみを衒いなく綴ったラブレターといってもいい。精神病院で聖職者(マッツ・ミケルセン)とゴッホが交わす、神の意志と表現者の仕事に関する会話こそはシュナーベルがゴッホに見出した芸術家の神髄で、目に見えるものではなく目に見えないものにこそ心を向けなさいという神の言葉を私は実践しているだけなのだ、というゴッホの言葉は奥底で聖職者を凌ぎさえして、神はもしかしたら少し時間を間違ったのかもしれず、私はいまだこの世に生まれていない人たちのための画家としてつかわされたのかもしれないとすら言葉を紡ぐのだ。もちろんこれは、後世で定まったゴッホの評価と業績から導かれた言葉であるにしろ、シュナーベルはゴッホの狂気が作品を産み落としたのではないことを、表現者としての無垢の魂こそがそれを成し遂げたことを愚直といってもいい寄り添いで描いていくこととなり、そればかりかゴッホ視点によるショットで時折あらわれる接写と素通しの混在した不思議な映像によって、ゴッホの視たであろう世界を追体験せよと働きかけさえしてくるのだ。ただ、そうやってゴッホの心象へと溶けていくには、ウィレム・デフォーのしわくちゃの赤ん坊のような喜怒哀楽のチャームにともすれば目と心が奪われてしまいがちではあったものの、画家ゴッホについてまわる「狂気の」という枕詞の払拭という点でシュナーベルの野心が達成されたのは確かに違いなく、それはおそらく芸術という精神の在り方に対する、世界の根底にある違和の健全性を問う試みであったようにも思うのである。自然の音とゴッホの音とがあわい光の中に溶けていく白昼夢のような瞬間はミュジック・コンクレートのようでもあり、実を言えばそれだけでも良かったと思わなくもない。
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2019年11月11日

IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。〜長くていいのは親の寿命

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ベヴァリーを捉えた恐怖の源泉となっている自らの女性性に対する怒りや困惑をいささか体よく使っていたり(原作でもフクナガ版の脚本でも薬局のくだりや日光浴のシーンにセクシャルなあてこすりはない)、彼女をルーザーズのミューズではなくお姫様と騎士という定型におとしこんだジュヴナイルへと刈り込んだ前作に今一つ乗り切れなかったこともあり、年だけを重ね大人になった彼女や彼らが真の通過儀礼を果たすための代償をペニーワイズに支払うその痛みと哀しみは、この大人篇においてようやく純粋な身の丈として沁み渡ったように思うのだけれど、死とセックスのオブセッションがイノセンスを殺していくアメリカの蒼ざめた神話をデリーという町の衰亡に重ねていくマクロコスモスを、こんな風にかいつまんでイベントムーヴィー化することの必然と切実が最後までワタシには見つからないままだったように思ってしまう。ホラー映画としてはなるべくペニーワイズを登場させねばならぬとはいうものの、ならば『ファンハウス/惨劇の館』で事足りてしまうよねという野暮を透かすように臆面もなく『レディプレイヤー1』ばりにホラーの断片を切り貼りするどころか、ミセス・カーシュのシークエンスではシャワーキャップの裸踊りなどほとんど『インシディアス』の瓦解する恐怖すらをまんま引用する豪快さ(ミセス・カーシュのあからさまなエリーズ寄せ!)が愉しくはあったものの、それぞれが儀式のアイテムを探すエピソードではさすがにネタ切れが否めないままこれが人数分だけ繰り返されることになるのかと、あろうことか『エンジェル ウォーズ』の宝探しイベントすらを思い出す始末で、ホラー映画にとって「弛れ」を越えた「飽き」はほとんど致命傷といってもよく、中華料理店あたりでの何かは知らぬが更新されそうな気分はここで霧散したといってもいいだろう。縦糸と横糸をありえぬ配色で偏執的に織り込むうち、ある瞬間ふっと予期せぬ文様がそこに浮かび上がって恐怖と希望が加速するのがキングの長篇を読む醍醐味なわけで、その文様だけを手に入れたところでそれは一匹の亀であり一匹の蜘蛛でしかなく、いずれ負け戦であるとするならばいっそキューブリックのように戦いのルールを変えてしまうくらいのヴィジョンで塗りつぶして欲しかったと思ってしまうのが正直なところだし、そしてそれは第一稿の時点で「頼むからワーナーはこれをこのまま映画にしてくれ」とキングに絶賛されたフクナガ版のシナリオと彼のヴィジョンであったのは言うまでもない。逃した魚は大きすぎた。
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2019年11月08日

マチネの終わりに/愛とは決して反省しないこと

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空間をケチらないロケーションや的確にデザインされた陰影をとらえるカメラ、ハイプなキャスティングもなくアンサンブルのラインも真摯に維持される中、蒔野聡史を演じる福山雅治だけがどこかしらリハーサルの風情のままもう一段(二段かもしれない)腰を落とす気配がないものだから、こちらはいったいどこまで真顔で追ったらいいのか最後まで遠巻きにしたままだったのである。深淵で怪物に喰われかける表現者の喪失と再生を刹那の愛に託すという筋立ては非常にわかりやすいものの、そのプロットの実践が演出者と演者とで決定的に乖離したままどうして映画が完成してしまったのか、その道程が理解しがたいというよりは純粋に興味すらおぼえたわけで、ある種の躁病的な饒舌という設定なのかと思った蒔野の軽さはそれが本質のまま覆されることもないものだから、蒔野が小峰洋子(石田ゆり子)を見初めるのは彼の勝手にしても、自分の人生をリスクに晒してまで洋子がそれに応える理由が何なのか、洋子の母(風吹ジュン)が言う「男の人に惹かれるのに理由なんかありゃせん」というセリフのままに洋子ですらがわからないそれをワタシが知る由などあるはずがなかったのである。それを取り繕うかのようにリチャード新藤(伊勢谷友介)は次第に精神の深みを欠いたいけ好かない人物として描かれ始め、そして何より、本来は蒔野と洋子とで拮抗した三角関係を成立させなければならない三谷早苗(桜井ユキ)にしたところが、予告篇で印象的だった「わたしの人生の目的は蒔野なんです!」という彼女のセリフの絶望的な自己矛盾によってプレイヤーとして土俵にあがるべきところを単なる泥棒猫のような悪人として描いてしまう始末で、重力を無視した蒔野の磁場が映画空間を狂わせていくその様はなかなかに圧巻である。原作は未読ながら三谷の造型に関してはさすがに脚色のエラーだろうとは思うものの、これを蒔野と洋子の凡庸で下世話な悲恋に収束させるつもりであったならかなり意図的な書き換えということになるし、その目論見は鮮やかに達成されたといっていいだろう。そもそも恋愛とかいう人間の実存的な行為に対する問いも答えも明快に存在するわけはないにしろ、だからこそそこに至るまでの手続きは合理的かつ実際的に行われる必要があるに違いなく、さすがにハネケやファルハーディの綿密や緻密までを求めることはしないけれど、それを余白の抽象のまま投げ出してみたり(『楽園』)、あるいは今作のように破綻を来すほど矮小化してみたり、その責を観客に負わせることが映画の問いかけだというポストモダンの信念がいまだ邦画には顕著な気がして、断定のダイナミズムによる混乱と騒乱を待っているうちに何だか疲れて眠くなってしまうのだ。というわけで、あの暗証番号が目に入った瞬間、ブランキー者はいったい誰だ?と目が冴えた瞬間がピーク。
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2019年11月06日

ジェミニマン/おまえもウィル・スミスにしてやろうか

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※通常フォーマットで鑑賞したので、映像面での評価はまるで反映されていません。

初期アン・リーの父殺しならぬ父助けの三部作を嗅ぎつけてのオファーであったのか、父の救済という視点による父子関係というアメリカ映画ではなかなかスイングしにくい題材ではあるのだけれど、序盤のヘンリー(ウィル・スミス)とダニー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)の会話におけるダニーと父親の関係や、息子のやらかしで学校に呼び出される担当官パターソン(ラルフ・ブラウン)の父親としての顔を物語の本筋とは別にそっとインサートすることで、この映画の骨子が父子の変奏にあることをアン・リーはサブリミナルのように埋め込んでいく。のだけれど、いつしかそんなサブテキストなどおかまいなしにヴァリス(クライヴ・オーウェン)とヘンリーによるジュニアをトロフィーとする父親レースが国家を巻き込んだ陰謀を巻き起こしていくわけで、ほとんどジュニアの意向などおかまいなしに父親面をしては説教をかます2人の鬱陶しさを味付けするにあたり、それをアン・リーに託した製作陣はその点においてそれなりに慧眼であったのか、俺はまだまだお前になんか負けないぞ、なんなら今ここで競走してみるか?ほら!とかいうラストの小芝居を見るにつけ判断は保留せざるをえないものの、あくまでウィル・スミスなりにではあるにしろしばしば遠い目などしては枯れた風な味わいなど漂わせていたし、傷を負ったジュニアを自ら手当てするヴァリスの撫でるように柔らかな手つきに歪んだ愛情を塗布するあたり、この映画が『ラ・シオタ駅への列車の到着』と化してしまわないための艤装はあちこち見てはとれたように思うのである。通常であればロマンス要員であったであろうダニーも、すでにヘンリーの愛情がジュニアに注がれているとあってはジュニア奪回のためのパートナーとして敬意を払われた上で銃弾を食らったりもするわけで、放っておくと独り者ヘンリーのメランコリーがウェットにまみれがちになるところを彼女のドライな馬力が程良く湿気を吸い取っていた点もアン・リーの的確な采配といっていいのだろうし、それに文字通り体を張って応えたメアリー・エリザベス・ウィンステッドこそがこの映画のMVPに相応しいのは言うまでもなく、ハードな追跡劇を繰り広げる最中、それが不可欠であるにも関わらずこの手の映画で飲食が描かれることがまずない中で(イーサン・ハントが何かをパクつくシーンを見たことがあるだろうか)、湿気たクラッカーを親の敵のように貪るダニーの姿に、何からは分らないながら救われた気分になったのだった。『ヴァレリアン』に続いて余白のある悪役となったクライヴ・オーウェンだけれど、いったんこの枠にはまりだすとメインから遠ざかる気もしてしまうのが、野卑とノーブルとを兼ね備えた大好きな俳優なだけにやや心配。それにしても、愛息へのなりふりかまわぬ親バカっぷりといい善き父親への強迫観念でもあるのではなかろうかというウィル・スミスへの皮肉めいたキャスティングを知ってか知らずか、そして父になるヘンリーを味わい尽くすような笑顔で演じる姿に、ジェイデンの内なる無事を祈らずにはいられなかったのである。
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2019年11月01日

真実/目薬をほんの一滴

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ファルハディの映画のように切羽詰まったタイトルを戴いてはいるものの、あぶりだされた真実が実存を苛んでいくというよりは、信じたことが真実となるように裏切らないことを私は貴く思う、というファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の演技論が人生論を呑み込んでいく時の楽屋落ち的な軽やかさとペーソスでカトリーヌ・ドヌーヴというジャンル映画を仕立てたように思ったのである。そうした構造が示すように、ファビエンヌとリュミール(ジュリエット・ビノシュ)の母娘がマノン・ルノワール(マノン・クラヴェル)という女優との邂逅によって、2人が奥底では共有するある喪失と折り合いをつけて再生を果たすという、場合によっては真実と刺し違える覚悟を求めるような筋立ても常に光の射す中で描かれることもあり、語るべきは劇中劇「母の記憶に」に任せるという二重構造によって、孤絶した精神がだんだんと世界から透き通っていく是枝作品のメランコリーは意図的に封印されることとなるわけで、それを理解しつつも生前のサラとファビエンヌ、リュミールの3人が繰り広げたであろう真実と愛憎の物語をどうしてもワタシは夢想してしまう。したがって、どちらかと言えばファビエンヌとリュミールの母娘をとりまく人たちに是枝作品のカラーが滲んでいて、リュミールの夫ハンクを演じるイーサン・ホークの阿部寛的なうっすらとした自虐は目に愉しく、映画の実質的な小さなエンジンとなるシャルロット(クレマンチヌ・グレニエ)の演技を超えた転がり方もまた馴染みに思えたりもした。撮影を終えた終盤、マノンとファビエンヌ、リュミールによるサラの弔いといってもいい交流はいささか性急な物分かりの良さが気になったのだけれど、それもまたあくまでウェルメイドに収めるための野心ということになるのだろうか。ラストショットでシャルロットが落とした黄色い帽子は、それを拾うマノンの姿を象徴的に予感させることで、シャルロットにおけるサラとしてのマノンという物語の未来を伝えたようにも思える。作品の感触としては『誰も知らない』の後で新たなフェーズに向かう前に、あえて決め打ちのジャンルに正面から向かうことでスタイルを整理した『花よりもなほ』に近いように感じた。ファビエンヌがブリジット・バルドーを斬り捨てるセリフと表情はドヌーヴと監督のなかなか際どい共犯行為に思えたし、そうした関係性が言わせる「それが暴力的だろうが日常的だろうが、映画には詩(ポエジー)が必要でしょう?」というセリフが、いくたびか捉えられたドヌーヴの横顔を超然と浮かび上がらせたようにも見えた。イーサン・ホークの偏執的といってもいい目盛りによる「卑」の調節については言うまでもなく。
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2019年10月29日

楽園/地獄は足りているか

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ここではないどこかを夢想せざるを得ない人々の希望と絶望をつづれ織りに仕立てた群像劇という意図と狙いは紛うことなく理解できるし、役者陣もそれぞれの役柄に真摯な血を通わせていたことは言うまでもないのだけれど、ではなぜ、今連ねたような言葉の上っ面をこの映画はすり抜けていってしまうのか、二つの独立した原作短編をより合わせることでさらに強靭な普遍を呼び出そうとした試みが感情のサイクルを少し急きたて過ぎたことはともかくとして、『菊とギロチン』の時にも感じたのだけれど、シナリオはすでに叫びであって機能と合理で引かれた設計図ではないとでもいうその熱量をどう受け入れるかによって評価は真っ二つになるのではなかろうか。ただ、その熱量にしたところで、あらかじめ決められた不幸と絶望のレールを歩いていく人たちの裸足の足裏を熱するばかりな気もするものだから、それぞれの運命を襲う筋の通った不条理という矛盾それ自体の露悪にとどまった気もしてしまうのだ。要するにそれは「為にする」というやつであったと言えばいいのか、豪士(綾野剛)と善次郎(佐藤浩市)の生き地獄を紡(杉咲花)が串刺しにすることで彼女を「楽園」という主題の担い手にするための手続きにそれが顕著で、原作ではどのような比重の人物なのかわからないけれど、彼女を光の方へ覚醒させる触媒としての広呂(村上虹郎)という青年の扱いに戸惑いと言うよりは鼻白むのを避けられなかったわけで、そこに至る経緯も首をかしげざるを得ないのはともかく、同郷の2人が東京の青果市場で共に働くこととなるのはまあ仕方ないにしろ、いつしか広呂が病に倒れ(おそらく癌なのだろう)その頭髪やまゆ毛が抜けた風貌からすればそれなりの抗がん治療を受けた後なのだろうけれど、それほどの時間が経過するまで紡は広呂の病気のことを知らないまま、まるで交通事故にでも遭ったことを今しがた知ったかのような風情で病室にかけ込んでくるのだ。その後しばらくして、思い出しでもしたかのように紡に広呂から退院のメールが送られ彼の生存率を知ることで喪失と再生の種が紡に播かれるのだけれど、そもそもが広呂と紡では故郷を飛び出した動機と理由の質がまったく異なるにも関わらず、何の前触れもないまま広呂は突然「おまえが楽園を作ってくれよ」などと紡に言い出すわけで、ワタシはもしかしたら広呂は紡のイマジナリーフレンズなのかとすら思ったのだ。ならばと事態を巻き戻してみると結局は事件当日を描いたオープニングにまで至るわけで、ここで描かれる紡と愛華の関係がまずは消化不良のまま、紡の愛華に対する屈託がその場限りの子供の気まぐれなのか、それにしてはそれが紡の構造上の問題であるかのように思わせぶりなショットの落とす影はフーダニットのサスペンスを撹乱する意図であったのか、結局それは紡の人生をむしばみ続ける罪悪感を下塗りしていたに過ぎないにしろ、一事が万事この調子で逆算するものだからこちらの感情がなかなか併走していかないのだ。前述したように役者陣による入魂の演技によって折々の棘は刺さるのだけれど、それが抜かれることもないまま次の棘を刺されるものだから、その痛みがどの棘によるのものなのか次第に麻痺してしまうのも茫洋とした混乱を誘うことになる。特に邦画で気になるように思うのだけれど、脚本に綿密な整合性を持たせることでまるで余白や余韻が消えてしまうかのように、「描かない」ことを目的とするその筆致が観客であるワタシに負荷をかけているわけで、そしてその「描かなさ」によってワタシは「考えさせられる」のではなくワタシに「考えさせる」ことを求めてくる全体として説諭的あるいは教条的な口調に反発してしまうのだろうと、あらためて自分を把握したところである。セリフももっと字面から自由になればいいのにと思うし、書かれた言葉と話される言葉が互いの手を放してしまっていてワタシにはどうも他人事に聞こえ続けてしまった。ニュースのLIVE映像で故郷の事件を知った紡がすぐその最中に駆けつけられるくらいには東京から近い生き地獄だったのかと、もうひとつだけ意地の悪いことも言っておく。『二十歳の微熱』の時からずっと好きなので、一緒に時間を過ごしてきたような片岡礼子が観られたのはとても嬉しい。
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2019年10月26日

イエスタデイ/微熱老人

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64歳を目前にしたダニー・ボイル(63歳)とリチャード・カーティス(63歳)がオアシスをなぶりものにして笑いをとりにいくこのコメディに、かつてザ・ストーン・ローゼズのデビューアルバムを聴いた渋谷陽一が「これってザ・バーズのコピーバンドじゃねえか」とか、口調はともかくそんな風なことを言ったか書いたかしたのを想い出したりもしたわけで、誰がどんなアレンジで歌おうが演奏しようがビートルズの作品がいかに無敵かというただそれだけを繰りごとのように綴るその挿絵としてスラップスティックなラブコメを添えてみましたという、仕事に飽きた演出家と脚本家による昼下がりの茶飲み話のような塩梅の映画であった。というわけで面倒な細部は周到に避けて通っているのは言うまでもなく、主人公が作品を再現するに際してのハードルは歌詞が思い出せないというレベルにとどめて天才たちの仕事としてのアレンジワークについては触れることがなく、たとえば「アイ・フィール・ファイン」のイントロをいかに再現するかといった、ジャック・マリク(ヒメーシュ・パテル)がそれなりのビートルマニアであったら直面する難題が描かれることはないのである。何しろこれだけふんだんにビートルズの作品を使用しておきながら、主人公の心情とマッチするドラマのツールとしてサウンド的かつ視覚的に機能するのが「ヘルプ」のみであったという点で、制作コンビがそれほどの知恵を絞っていないのは瞭然に思えたし、大団円でのウェンブリーにおける告白にしたところで、せめて「オー!ダーリン」でも熱唱してみれば場が持ち直すところを、とりとめのないセリフ語りと益体のないフラッシュバックでお茶を濁してしまう体たらくにワタシは態度を決めざるを得なかったのである。劇中で唯一フォーカスが合った気がしたのが、あの人の登場するシーンであったことを思うと、この演出家と脚本が本来すべきなのは彼らのアナザーストーリー、アナザーエンディングを夢想してみることだったのではなかろうかと思わざるを得ないし、ビートルズが存在しなかったらオアシスが存在しないどころか、そもそも喜びも悲しみも世界の気分そのものが斯様に押し広げられていなかったに違いなく、ビートルズの存在しないディストピアのエリー(リリー・ジェームズ)や誰も彼もがアナザーワールドの彼や彼女と寸分たがわぬ人々であったのがワタシはなんだか理解できないのだった。すべてのイギリス人はビートルズを好き勝手に弄り倒せるライセンスを持っていると言われればそれまでではあるけれど。というか、たぶん言うにちがいない。
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2019年10月24日

ボーダー 二つの世界/もう靴下は履かない

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なんだ、私はこれでよかったのだ、孤絶していたのではなくあまりにも独立していただけなのだ、自由はすぐそこにあったじゃないかと気づかされたティーナ(エヴァ・メランデル)の束の間の安息の後で襲いかかる驚天動地は、新たな彼女が彼女(便宜上「彼女」とする)であるがゆえ逃れることのできない引き裂かれるような生き地獄でありながら、そこから手を伸ばしてくる憎しみの連鎖への誘惑を払いのけた彼女が最後にたどりつくのは「わたしは誰も傷つけたくない」という強く静かで美しい言葉だったわけで、原題(Gräns/Border/ボーダー)は“境界”に阻まれた者、ティーナとヴォーレ(エーロ・ミロノフ)がその“一線”を超えていく時の姿を謳っていたと同時に、この映画はその姿を、現実と非現実のさらなる境界を行き来させることで永遠につかまらない者として祝福したようにも思えたのである。ティーナとヴォーレが歩を進めるにつれそれまで視えなかった世界が顕わになっていく時、それはワタシたちのためのメタファーであるどころか一切の共感も共有も拒絶していて、それゆえその世界への畏怖にも似た感情がワタシたちの様々な罪深さを無効化するどころか、その意味すらも奪ってしまったようにも思え、それはすなわち世界から見捨てられたということになるわけで、それくらいこの映画の中からワタシたちは跡形もなくいなくなってしまうのだけれど、おそらくはそれゆえに純化した視線を最後には与えられた気もしたのである。まるで頁を繰るように積み重なっていく重層に沈む昂奮は文学にまみれる時の愉悦のようで、テキストでは可能な、説明をしないための説明という矛盾がここではすんなりと視覚に落ちているのは、ティーナとヴォーレの美醜を行き来するその容貌が奏功しているのだろう。美醜でいえばあきらかに醜いという印象を植えつけながら劇中では基本的にそれゆえの日常的な差別描写をしない一方、犬たちはティーナに対して、ティーナの家で飼われている犬ですらが彼女に対して狂ったように吠えかかり牙をむくわけで、社会的な表面と非社会的な内面の対比がより根源的な差別の残酷さを示していて秀逸に思える。物語があくまでこの容貌であることを譲らないのはやがてそこに真実の意味合いが生まれるからで、美醜のラインですらが次第に無効化されていくあたりもこの映画の実験的な醍醐味であるといっていいように思うし、何しろ最終的にはワタシたちの審美眼など及びもつかない世界までぶっ飛ばされるささやかな爽快すらも手に入るのだ。オープニングでティーナが掴まえた虫がラストではどうなるか、その遠くて近く、哀しくて力強く、優しくて荒ぶったひとつの魂の旅を、むしろありったけの予断を持って観ることをお勧めしたい。予断を持てば持つほどそれが粉砕された破片が突き刺さる傑作である。
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