2021年01月08日

Swallow/スワロウ/Discharge/ディスチャージ

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セシリアがエイドリアンの家から脱走することで『透明人間』が開始されたように、ハンター(ヘイリー・ベネット)が豪邸を脱走する終盤にこの物語が隠し続けた真のスイッチが入ったように思え、視えない存在として付属品のように扱われてきた彼女たちが自らの意志で視えなくなることで「あいつら」に復讐し世界に復帰していくその姿において、ハンターとセシリアは異母姉妹のようにも見えたのだ。それが異食症と診断された瞬間、ハンターはトロフィーワイフから神経症の患者へとラベルが貼り替えられてしまうのだけれど、彼女が「あいつら」には想像もつかない何かを選んで口に運びそれを飲み下す瞬間の恍惚こそは彼女だけが知る勝利の愉悦であったのだろうし、それはハンターの異食症の加速する時間こそをこの映画の彩りが最も美しくなる瞬間として描いたことにもうなずけて、そしてなにより、戦争状態にある日常では精神を病む暇などない、と最初はハンターの症状を有閑の贅沢病のように見下したシリア移民のルアイ(ライト・ナクリ)が最終的にハンターの逃走を手助けすることになるのは、彼女を追い詰めるサバービアのネオリベラリズムに、母国シリアを「侵略」したアメリカというグローバル化の怪物を見たからこそのシンパシーだったにちがいないと思うのだ。逃走したハンターが実家の母親に拒絶された後でおこなう父殺しの地獄巡りで手に入れた「おまえのせいじゃない」というその一言が背中を押した彼女の最終選択は、もはや善悪の彼岸のその先で行われる母殺しの儀式であると同時に、世界に追い詰められたすべてのハンターたちに向けたエールであることが、エンディングの固定ショットが捉えつづけるレストルームの光景に謳われていく。悪い星に見つからないよう自分を視えなくするおまじないがいつしか呪いとなり、幸せなのか不幸せなのか迷子になって泣き笑いがはりついたままのハンターを完璧に解釈したヘイリー・ベネットは言うまでもなく、与えられたシークエンスはたった1つながら引きずり出された呪いを間にハンターと対峙してそれまで蒼ざめるばかりだった空気に赤い血を、しかしそれを静脈の憂鬱で送りこむウィリアム・アーウィン役のデニス・オヘアに思わず息を呑んでしまう。これが初監督作(兼脚本)ながら、テーマとジャンルの危うい綱渡りを悠然かつ陶然と渡り切ったカーロ・ミラベラ=デイヴィスおよび、白昼夢の苛みを神経症的な艶めかしさで捉えたカメラのケイトリン・アリスメンディ(ヴィルヌーヴ版『デューン』では第二班撮影監督を務めているらしい)の名前は、すぐさま記憶にたたき込んでおいた方がいい。ワタシはそうした。
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2021年01月05日

ミークス・カットオフ/オレゴン最終出口

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この西部劇における最初で最後の射撃はエミリー・テスロウ(ミシェル・ウィリアムズ)によって行われる。野営地の外れでネイティヴアメリカン(ロッド・ロンドー)と出くわした彼女は、青ざめた顔で幌馬車にとって返すと躊躇なくマスケット銃に弾をこめ点火して、仁王立ちのまま彼が立ち去ったとおぼしき彼方に向けてぶっ放すやいなや火薬の燃えかすを銃身からもどかしげに掻きだして次弾をこめ点火するも、銃を掲げる途中で暴発気味に弾は放たれて、そこでようやく正気に戻り立ち尽くすのだ。エミリーにとって銃は生活の道具の一つに過ぎず、それがもたらす殺戮と破壊もまた日々の風景にすぎない時代を当たり前に生きる女性であることがこの一連を描く長回しのテイクで告げられる。この物語の背景となる1840年代は、大西洋岸から太平洋岸へと繋がる大陸国家樹立の野心をアメリカが燃やし「神が与えたこの大陸を我々が拡大していくことは明白な運命(マニフェスト・ディスティニー)である」として領土拡張が神意であることを謳いつつ西部の侵略的な開拓を正当化した時代であって、その後やってくるゴールドラッシュとはこの西漸の意味合いが異なることは、劇中で小さな金塊を見つけたトーマス・ゲイトリー(ポール・ダノ)が「いくら金だろうと飲めなきゃ意味がない」と、水源を探す途上にあっては一顧だにされなかったことにもうかがえる。そうした時代にあって西に向かう開拓者の一団をガイドとして率いるスティーブン・ミーク(ブルース・グリーンウッド)の、砂漠と西の果てのすべてを知りつくした賢者のような物言いを疑うことなく信じた一団は、いつしか道を外れて目的地を見失ったにも関わらずミークの益体のないプライドが自身にミスを認めることを許さないため、いつしか一団はミークに対する不信と迫りくる飢えや渇きへの不安とでそれぞれが互いの軋轢を隠さなくなっていく。そうした折、エミリーと出くわしたネイティヴアメリカンを捕らえたミークがプライドの保持も手伝い彼を処刑しようとする一方、彼の不幸を招いた端緒が自分であることの後ろめたさなのか、次第に明らかになるプラグマティストとしての資質がそうさせたのか、ネイティヴアメリカンの土地鑑を頼りにミークではなく彼をガイドとすることをエミリーが主張することで、彼女とミークの対立がようやく映画の構造として頭をもたげ始めることとなるのだけれど、それは暴力の楽観性を盾に無謬を気取る無知な抑圧者に翻弄される被抑圧者の悲劇と憂鬱というアメリカのプロトタイプにほかならないながら、被抑圧者もまた抑圧者になりうる内部構造がその成立に加担することを同時に告げてもいて、単なる下剋上の快哉とは程遠いラストの言いしれぬ茫漠はそれこそがアメリカの正体であって、ワタシたちが自らつけた枷を外さない限りいつしか皆それに呑み込まれてしまうことを、気がつけばボンネットを脱ぎ捨てたエミリーの眼差しに映してみせたように思ったのだ。カサヴェテスには少し間に合わなかったけれど、ケリー・ライカートには何とか間に合ったのがとてもうれしい。
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2021年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

パーティどころじゃない、ディスコなんかもってのほか
バカ騒ぎなんかふざけんなって話
きみとダンスしたりいちゃつく暇だってない
そんな日々はもうどこにもない


デヴィッド・バーンが「戦時生活/Life During Wartime」で歌ったこの日々を
それぞれができるかぎりの想像力と思いやりで生きのびよう
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2020年12月30日

2020年ワタシのベストテン映画

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マザーレス・ブルックリン/Motherless Brooklyn


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屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ/The Golden Glove


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レ・ミゼラブル/Les miserables


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ナイチンゲール/The Nightingale


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囚われた国家/Captive State


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ペイン・アンド・グローリー/Dolor y gloria


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透明人間/The Invisible Man


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赤い闇 スターリンの冷たい大地で/Mr. Jones


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ブルータル・ジャスティス/Dragged Across Concrete


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燃ゆる女の肖像/Portrait de la jeune fille en feu

観た順。
映画館がなくなりませんように。
かわりにオリンピックがなくなってもかまいません。
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2020年12月27日

オールド・ジョイ/暗くて標識が見えない

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カート(ウィル・オールダム)は失敗したことに気がついているけれど、マーク(ダニエル・ロンドン)はそれに気づいていない。30の半ばを過ぎたヴァガボンドが、気がつけばしのびよる孤独の影に追い立てられて旧友を訪ねる物語を読み始めたつもりでいたのだけれど、それまでこの2人が育んだ友情がどのような背丈や色どりであったかはわからぬまま、変わらずいることを選んだカートと、自分がどう変わったのか知らぬままのマークがかつての友情の手癖だけで過ごす、うっすらとした緊張と弛緩のいりまじる時間が折り重なるに連れ、救われるべきはカートではなくマークなのではないかと次第に思い始めるのである。まだカートが現れる前、妻ターニャ(ターニャ・スミス)に「いつも私におうかがいをたててはみるけど、結局はそのとおりにしてしまうでしょ」と言われて黙ったままのマークは、言い返さないのか言い返せないのか、このあらかじめ諦めてしまったようなマークの表情や後ろ姿はこれから先、カートとのキャンプ旅行の中でもしばしば顔を出すこととなる。ぼくのじゃなく君の車で行くことにしようぜとカートに言われれば黙ってそれに従い、運転はマークひとりが受け持ち、スタンドでもマークが給油する間カートは犬のルーシーと遊んでいる。目的地への道順も曖昧なカートの言う通り車を走らせては当り前のように道に迷い、車から降りてボンネットに地図を広げて現在地を確認するマークを、カートは車の中でマリワナを巻いて吸いながら見ているだけでまったく手を貸そうともしないまま、助手席のカート越しにマークを捉えつづけるこのシーンのある種の執拗さに、これはカートのでたらめというよりはわざとそうしているのではないかとワタシは思い始めることとなる。そうやって目的地にたどり着けないまま日が暮れてテントを張った空き地で起こした焚き火を前にとりとめのない会話が続く最中、突然カートが「なんだか俺たちの間にはずっと壁があるように思うんだ」と言い出した後で「おれなんだかおかしかったな忘れてくれ、なんでもないんだ忘れてくれ」とうろたえて取り繕うその姿に至って、それまでの違和感が小さく爆発することとなる。それでもマークはカートのそれを否定も肯定もしないまま「大丈夫だよ」と、壁があると言ったことなのか、忘れてくれと言ったことなのか、何についてなのかわからない収め方をしてしまうのだ。そしてそのままやってくる翌朝のシーン、何事もなかったかのようにひとり先に起きて黙々としかし一心不乱といった風情で自分の寝袋をたたむマークと、あとからごそごそとテントから這いだしあくびをしながら数歩歩いた先で立ち小便をするカートの構図は、少なくともマークにとって「壁」があったとしてもそれは乗り越えるものではなく、間もなく父親になる自分はその責任へのモラトリアムとしてのこのキャンプに来ているにすぎないという無言の意志だけが感じられて、友情らしき感情の握手はここでも後回しにされたままに見える。その後マークがほんの一瞬でも饒舌になるのは、温泉に向かう森の中、自分がおこなっているヴォランティア活動のことを話す時で、それをカートに褒められて気を良くしたマークがキミにだってできると思うんだよとカートに言う、その会話の質量のなさは絶望的にも思えるのだけれど、おそらくマークはそれにも気づかないままなのだ。そんな時間を歩きつつとにもかくにもたどりついた温泉で、悲しみは使い古された喜びにほかならない(Sorrow is nothing but worn out joy)とタイトルにもつながる屈託の源泉を話すカートの声を聞いているのかいないのか、心ここにあらずといった表情で湯につかるマークにしてみれば、だってこの瞬間こそが旅の目的なのだからといった無関心(と言ってしまってもいいだろう)は変わらぬまま、突然自分の肩に触れたカートに一瞬たじろいではみせるものの、それがカートの言う壁なのかどうかそんなことすらも考えぬまま、森の奥で日の差す中、あたたかな温泉に身をほぐされる恍惚を貪ることだけを決めたようにワタシには見えた。キャンプの夜と同様、その先は描かれないまま次のシークエンスでは既に帰路につく2人にとって、いったいこの旅はどこかへ行き着くことがあったのか、それは行って帰ってくる旅であったのか、カートを送り車中で一人になったマークは旅の余韻を噛みしめるでもなくさっそくラジオをつけるのだ。それは前半でも、車内のラジオ音声としてインサートされていた「エア・アメリカ(Air Americaとクレジットにあった気がした)」のやり取りで、この左翼系放送局の番組で語られるリベラルの議論というよりは繰り言をBGMのように聴くマークの姿と対比してラストに描かれるのは、夜の街をひとり足早にしかしとめどのない感じで歩くカートが、通りすがりのホームレスに小銭をねだられ、一度は謝って断ったあとでポケットの小銭をさらって差し出すその姿で、この映画が2006年というリベラルが負け続けた時代の只中に撮られたことを考えてみれば、リベラルの男たちが陥り続けた陥穽とそこであがく彼らへの感傷と憂鬱が監督の筆を誘ったように思うのだ。そしてこの旅の行くすえはといえば、それは行ったきり帰ることのない旅であったことは瞭然だし、冒頭で述べたように失敗したことに気がついているカートとそれに気づかないままのマークを告げるラストを待たずとも、ケリー・ライカートはそのつもりでずっと彼らを描いていたことは言うまでもなく、そして何より、青春を終えると人は死ぬときに備えてどんどんひとりになっていく、そのチェックアウトを告げて夕方5時の鐘を鳴らすような物語にも思えたのだ。そろそろ帰り途を探しなさい男たち、と。
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2020年12月23日

ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!/父ちゃんのyeahが聞こえる

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アメリカ大統領選を機会にアメリカの歴史を少しだけさらってみてあらためて思ったのは、移民国家アメリカがその前夜に奴隷国家の暗闇で目覚めたその初手からすべての分断が始まっていたこと、そしてその分断の溝が埋められて一枚岩となった歴史などかつて一度もないことで、しかし偉大な社会=福祉国家を目指しつつ帝国主義に淫する二重人格をぬぐわないまま、建国以来飽くことをしない壮大な社会実験とその甚大なる犠牲が織りなす光と影のモザイクがアメリカという国の正体を目眩ましして、そのキメラの底知れなさゆえワタシたちはそこに自分の欲するファンタジーをいかようにも投影してしまうのだろうし、だからこそ、そうした分断のDNAが自分に埋め込まれていることすら知りそうにない白人マジョリティの高校生2人が「たがいに素晴らしくあれ(Be Excellent to Each other)」をキメ台詞にする不意打ちの潔癖が、この底の抜けまくったコメディシリーズをエヴァーグリーンに保ち続けているように思うのだ。例えば今作において、セオドア・”テッド”・ローガン(キアヌ・リーヴス)とビル・S・プレストン(アレックス・ウィンター)の2人に立ちふさがる障壁を、分断を誘うトランプ的な何者かにしてみせればそれなりの快哉を叫ぶことも手っ取り早いところが、彼らが目指すのはあくまで時空を超えた団結であったことや、前作『ビルとテッドの地獄旅行』での死神(ウィリアムズ・サドラー)とのゲーム合戦やデ・ノモロスを法の裁きに委ねたことなどこのシリーズが悪の殲滅を解決としてこなかったのは(ロボットを倒すのはロボットという周到な回避)、クリス・マスシンとエド・ソロモンのライターチームが貫き続けた矜持ということになるのだろう。そして何より、この30年近くをショービジネスのど真ん中で過ごしながらBe Excellent to Each otherな共助の人でいつづけたキアヌ・リーブスと、ヴィジョンを失うことなく誠実なキャリアを重ねてきたアレックス・ウィンターがサヴァイヴしていたからこそ、善いやつ過ぎて悪いことを想像できない主人公の物語を成立させることができたのは言うまでもないし、それを次世代の娘たち、ティア・プレストン(サマラ・ウィーヴィング)とビリー・ローガン(ブリジット・ランディ=ペイン)に手渡しさえしたのはほとんど奇跡にも思えたのだ。ジミ・ヘンドリックスのリハーサルをあんな風にいきなり目の当たりにしたら、たぶん泣いてしまうだろうなと思った。それはもう、どんなに悲しくても涙の出ないワタシですら。
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2020年12月17日

ミッドナイト・スカイ/ごらん、あれがよだかの星だ

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ジャンルを借りながらも、気がつけばそれをポスト○○的な漂泊/漂白で実存のメランコリーに染めてしまうジョージ・クルーニーが、そこでメッセージめいた何かを言っているとすればそれは、おれもやるからきみもやれということなのだろうけれど、そこに説教臭さが宿ることがないのは彼のいう「きみ」がワタシたちではなくノブレス・オブリージュを発揮すべき人たちだからで、彼の演じるキャラクターたちがどこかしら自罰的ともいえる自己犠牲に沈んでしまうのもその点でとても理解がしやすく、今作のオーガスティンもまたジョージ・クルーニーの忠実なアバターとして、北極の地で自らを苛みながら孤独の罰を求めるのである。原作は読んでいないので、ジョージ・クルーニーを始めとする製作陣のどのような意図によって脚色の取捨選択がされたのかわからないにしろ、オーガスティンのいる北極の天文台と、探査ミッションを終えて地球に帰還する宇宙船のシークエンスが並行して語られることで、その2つの間に働く引力がこの物語を牽引する構造となってはいるのだけれど、最終的にはオーガスティン=ジョージ・クルーニーの殉教を目指さなければならないためか、サリー(フェリシティ・ジョーンズ)やミッチェル(カイル・チャンドラー)の搭乗する宇宙船のパートが壮大な刺身のつまと化してしまっていて、オーガスティンの受難とバランスをとるべく艱難辛苦が彼らを襲いはするものの、例えばソラリス的な実存の脅威はオーガスティンに譲らねばならないこともあり、宇宙船や船外活動中のクルーを襲うデブリや氷片といった即物的で突発的な脅威が彼らにはあてがわれ、いきおいその描写も『ゼロ・グラヴィティ』あたりの既視感を振り払えないまま単なる手続きに終始していたのがなかなかに罪深くはあるものの、脚色を託したのが『レヴェナント』の脚本家であった時点で、ジョージ・クルーニーにしてみれば何をいまさらといった総取りではあるのだろう。にしては、北極の海に沈んだ深刻な基礎疾患持ちのオーガスティンが、焚き火もないあの場所で低体温症をいかにクリアしたのかといったサヴァイヴァル描写の甘噛みが興を削いだのは確かながら、私が描くのは観念としての受難であって生臭い死の匂いではないのだという監督の崇高にして高邁なささやきが取り付く島なくワタシを諭すのであった。ただ、この物語がいつしかまとう『渚にて』としての静謐なペシミズムと内爆するセンチメントは、どちらかといえばオーガスティンよりはミッチェルとサンチェス(デミアン・ビチル)の2人に託されやすいようにも思えたわけで、だからこそオーガスティンの殉教を妨げることのないよう彼方へ排出された彼らの最期を見届けるものはないままだったのだろう。オーガスティンの沈む孤独は、自分のヴィジョンに他人を立ち入らせることをしなかった若かりし日の自分(CGでの若返りではなくまったく別の俳優が演じているので想像力のトレースが要求される)への贖罪でもあるかのようにも描かれた後、ある出来事によって美しくしめやかに救済されてしまうこともあり、オーガスティン=ジョージ・クルーニーにとってのハッピーエンドがこの映画の目指した結末なのだとしたら、ずいぶんと欲張りなことだなあと思わないこともなかったのだ。おれもやるからきみもやれ、でなければおれは救われない。
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2020年12月11日

燃ゆる女の肖像/きみがわたしを知ってる

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「夢見ていました」「死を?」「走ることです」マリアンヌ(ノエミ・メルラン)とエロイーズ(アデル・エネル)が初めてかわすこの言葉と、やがて女性たちが語るオルフェとユリディスの物語とで、2人がいるのが死と生の緩衝地帯、すなわち冥界であることを告げた気もして、エロイーズがマリアンヌを振り返って始まった物語は、マリアンヌがエロイーズを振り返ることでその冥界の入り口が永遠に閉じられることとなる。劇中で多用される横顔のショットは、振り返るその顔を永遠の中間にとどめる試みであったようにも思われて、それが完全に振り返った瞬間、愛も思い出も互いがその半分を永遠に失うことを受け入れねばならないからこそ、マリアンヌとエロイーズ、そしてソフィ(ルアナ・バイラミ)の3人が過ごした10日たらずは、規律やしきたり、観念のくびきを離れた自由と解放の時間となって、そこでは生と死と愛がすべて並列で水平に横たわっていたのだろう。堕胎の床でまるで生まれてこなかった赤ん坊に慰められるかのようなソフィの泣き笑いや、その存在自体が許されない愛を必死に確かめるマリアンヌとエロイーズの刹那がやさしく柔らかな光に包まれるその時間は、男たちの采配する結婚と妊娠と職業からのシェルターとなり得たことでいっそうかけがえのない輝きと響きを放つこととなり、最後の日に台所でマリアンヌが絶望を思い出すのは、それが伯爵夫人(ヴァレリア・ゴルノ)の帰還というよりは、かつて3人で愛と夢を語らったそのテーブルに当たり前のように座る使いの男を目にしたからではなかったかと思ったのだ。ソフィの赤ん坊を流そうと浜辺に出た3人が過ごす無為とも倦怠ともつかない時間に『ソナチネ』の砂浜を想い出したのも、終わりのある永遠の強烈なメランコリーをそこに嗅いだからなのだろう。倒れた侍女のソフィに頓着なく手を差し伸べる屋敷のお嬢様エロイーズの図式もまた、既に社会が与えたルールが無効化されたことの証として描かれる。こんな風に笑ったのはひさしぶりだわ、一人だったら笑い合えないから、と伯爵夫人がつぶやいたように、自分の本質を見つけ識らせるのは自分ではないそれに気づいた誰かであって、一人は自由だけれど寂しいとマリアンヌに告げるエロイーズの言葉こそが、本質を求められることのない社会に生きる人たちの心の叫びであったのだろうし、この人はもしかしたら私を視てくれるのかもしれないと共鳴したからこその怒りと希望とで、エロイーズはNOとYESをマリアンヌに与えたように思ったのだ。そしてその企ては、本質を抽出しキャンヴァスに再構成する画家という仕事の自己更新をマリアンヌに促して、2人の角度は想像を超えて研ぎ澄まされた光と影を喚び起こし、視るものと視られるものが互いの本質をわしづかみにすることで抜き差しならない共犯関係を結んでいくこととなる。そして冥界の日々のおわりにエロイーズがマリアンヌに叫んだ、それまでの慎みをかなぐり棄てた「振り返ってよ!」というその言葉こそが2人の関係を永遠にしたことがマリアンヌの回想の最後に綴られて、後年彼女がエロイーズの姿を偶然、そして最後にみとめた劇場で、かつて2人を密やかに繋げたビバルディのヴァイオリン協奏曲「四季」を奏でるオーケストラの轟音(そんな風にミックスされる)に同伴者の姿もなくひとり包まれるエロイーズは、歯をくいしばるような貌つきでその音に向かいつつ一筋の涙を流し、しかしその後で小さく満ち足りた笑みをその貌の片隅に浮かべるのだ。互いにひとり座席に座りながらマリアンヌのその「一人」とは異なるであろうエロイーズの「一人」は、あの時あの場所であの絵と共に自身の本質を手に入れたエロイーズが、わたしにはわたしがいる、この音を聴けば、あの本の28ページを開けば、そしてあの絵を見上げさえすれば、いつだってわたしはわたしのところに戻れるのだ、そしてそこに誰がいるのか知っているのだという自由で透明な孤独の証に思えたし、そしてマリアンヌは、かつてエロイーズが言った「あなたは私を永遠のモチーフにするのよ」という言葉どおり彼女の記憶を作品に成り立たせ、あの時エロイーズが着ていたような青色をドレスに選んで彼女のことを想い出しながら、そんな自分を教え子たちにモデルとして視つめさせている。そしてこの物語がマリアンヌの回想によっていることを思ってみた時、孤島で流れた時間を捉えたすべてのショットに通底する、まるで画家が切り取ったように隅々まで緊張のはりつめた構図と、そこにたゆたう感情を透徹したレイヤーで重ねた官能的な深度の「絵画的」な到達は、それらがマリアンヌの筆で描かれることのなかった、あるいはこれから描かれることを待つ作品の生霊として現れたからではなかったかと考える。口数は少ないながらアフォリズムのようなセリフの応酬と偏執的かつ催眠的な細密でマリアンヌの記憶を幻視した監督と撮影監督、そしてミリ単位にすら思える存在の角度でそれに反応した俳優たちの成し遂げたのは、「血がデザインできるか、汗がデザインできるか、涙がデザインできるか」と石岡瑛子が言った「感情のデザイン」を掲げる最前線からの圧倒的な戦果だったように思うのだ。2020年の最高傑作。
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2020年12月01日

エイブのキッチンストーリー/大人は食べてくれない

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食わず嫌いという言い回しが英語にないのを不思議に思うくらい、そういう大人たちを12歳のエイブ(ノア・シュナップ)が諫めていく映画となっていて、パレスチナとイスラエルの最前線に双方の等しいハーフを立たせて一度無効化したところから始めるアイディアは一見無邪気ともいえる力技ながら、いわゆるWASP的な役柄を隅々まで排除した登場人物の配置にもユダヤ/カトリック系ブラジル移民の監督とパレスチナ系の脚本家チームの多様性に対する譲らぬ意識と意図がうかがえて、歴史の記憶でがんじがらめになった問題をシンプルかつポップにみせる手立てと矮小化の間の危険な綱渡りをなんとか渡り切ったように思うのだ。ユダヤ教もイスラム教もどちらも遠ざけようとする両親に、だったらぼくはミツバもラマダンもどちらもやればいいと思うんだ、とまわりの誰よりも現実的な答えを示すエイブをめぐる“食わず嫌い”の大人たちが繰り広げる“飯の不味くなる”代理戦争が行き着く先はどこだったのか、そうやって負債を若い人たちに押しつけてそれを歴史だと言い張ってきたのではないかというこの映画の言葉は、柔らかく笑顔のうちに語られはするものの、行き場をなくしたエイブがすがるのがいくつもの目に視えない境界線を越えなければならなかったであろうチコ(セウ・ジョルジ)であったこと、そしてエイブを呪いの継承者ではなくこれから大人になっていく一人の子供として扱うことを厭わない彼の姿が、フュージョンを恐れるあまりコンフュージョンし続ける大人たちに示された正答だったのではなかったか。あと10分ほど費やしてエイブの料理人としての成長を描く色気もあっただろうけれど、この物語で成長を求められるのはエイブではなく周囲の大人たちである、という揺るぎのなさこそが屈託のない12歳の笑顔を守ったということになるのだろうし、それは新しい教養が吹かせた風ゆえの爽快だったように思っている。
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2020年11月26日

Mank/マンク〜脚本家を撃つな!

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まじめになるのはふざける時だけさ、とうそぶくハーマン・J・マンキーウィッツ(ゲイリー・オールドマン)が皮肉交じりに吐き棄てた一言に、デスクの向こうでアーヴィング・タルバーグ(フェルディナンド・キングズレー)の口元が小さくほくそえんだ瞬間が『市民ケーン』誕生の萌芽となる。人々は映画館の暗闇で観たものを真実だと思ってしまうんだ、とシェリー・メトカーフ(ジェイミー・マクシェーン)にというよりは自身に言い聞かせるマンクであればこそ、元はと言えば自分の引いた引き金で一人の人間の政治生命と一人の映画人の生命を奪ってしまったこと、そして何より映画をその血で汚したことへの懺悔と慙愧を胸に秘めて、それら蹂躙のシステムに君臨する男に揶揄された“オルガンを弾く猿”としてのやり方でオーソン・ウェルズすらを利用しつつ私闘に挑むその姿が、政治と文化という一卵性双生児の父親である社会へ向けた父殺しの目つきへと映されていくわけで、しかしそれを燃やすのが正義や義憤だけであったかといえば、社会の公器たる映画が同時に社会の凶器たりえることを知るからこそ、その危うい綱渡りをするノンシャランの陶酔と恍惚、つまり映画という光と影の悪魔と取引をした男の見た夢の陽炎でもあったように思うのだ。この映画にノスタルジーが入りこむ余地のかけらもないまま、破滅の不穏と絶望の暗闇が終始居座り続けるのはそれこそが本質であるからなのだろう。しかしマンクは境界で綱渡りをしつつ、堕ちていく誰かをつかまえるキャッチャーとして在ることで光の正気を保ち続け、妻サラ(タペンス・ミドルトン)はそれを知るからこその同志愛でマンクの危険なハンドルさばきにそっと手を添え続けるのだろうし、ウィリアム・ランドルフ・ハースト(チャールズ・ダンス)が招いた客の前で、ハーストのダークサイドを無邪気に口にした気まずさに押されて部屋を出ていくマリオン・デイヴィス(アマンダ・サイフレッド)を気づかうマンクに、彼女のところに行ってあげて、と小さく促してみせるサラの胆力がなければ『市民ケーン』は存在しなかったとすら思えてしまう。マリオンを追って出た真夜中の庭園でマンクと彼女が繰り広げる、本当の君はこんな風に柔らかで軽やかな恋人を演じられる女優なのに、というエルンスト・ルビッチの灯りと、共和党の開票パーティでマンクが沈む表現主義的なフリッツ・ラングの暗闇はマンクが独り行き来する2つの世界を象徴的に映し出し、まさにそれこそは『市民ケーン』そのものではなかったかと、フィンチャー父子による正史がオーソン・ウェルズに脇役以上の言葉も時間も必要としなかった理由が明らかになった気がしたのだ。そしてフィンチャーは、作家が闘う理由と闘うことを厭わない理由、すべての闘った作家たちのそうした理由が映画を繋いできたこと、そしてそれは自分との闘いなどという闘いですらない闘いのことではないことを130分をかけて語ってみせて、そうした作家の闘いがどんな映画を生み出すのかをいまだ捕まらぬ殺人鬼の精妙さで教えてくれている。そしてそんな映画を、限定されたわずかな劇場においてのみスクリーンで観ることが許されるという捩れて倒錯した世界にワタシたちは生きている。
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2020年11月21日

ヒルビリー・エレジー −郷愁の哀歌−/私はあなたのレッドネックではない

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垂らされた蜘蛛の糸につかまったJ.D.(ガブリエル・バッソ)のために自分の手を離す母ベヴ(エイミー・アダムス)が、私にはもうこれしかしてあげられることがないのだと最後に残った愛情を振り絞るその姿にしか貧困と絶望の連鎖を断ち切る方法は見つからなかったことをJ.D.は告げていて、”Hillbilly Elegy”などという自虐めいたタイトルを自著に冠するくらいの醒めた視点で、分断を越境するために差し出した対価とその負債をアメリカに晒してみせようとしたのだろう(原作は未読だけど)。そうしたJ.D.の想いを海のこちらの部外者なりに理解したところで、この映画を咀嚼するのにどれだけの小骨が喉に刺さったかといえば、むしろ綿密に小骨が取り除かれた喉の障りのなさこそが気に掛かったわけで、それはおそらくエイミー・アダムスとグレン・クロースによる忠実な憑依と精密な解釈および、それを放し飼いにしないロン・ハワードの手綱が”Hillbilly Elegy”を字義通りに捉え収めて「忘れられた人々の声」とデザインし矮小化してしまう悪気のなさへの違和感だったように思うのだ。マモウ(グレン・クロース)とベヴおよびJ.D.の世代間闘争が絶え間なくフラッシュバックされるのは、離した手をそのままにモーテルを去るJ.D.の選択を「正当化」するための構造ではあるのだろうけれど、それもあってか、屈託に潰された役立たずな男たちを足蹴にし、我が子を育てるには自分を犠牲にするしかなかった2人の母親の物語が背景化してしまったのも空虚を誘う一因であったのだろう。辺境の白人家族のみぞおちを抉るように描いた『フローズン・リバー』や『ウィンターズ・ボーン』を撮ったのがいずれも女性の監督であったことを思うと、母性主義フェミニズムを突破できない限界が「彼ら」にはあるのだろうと思わざるを得ないのだ。少なくとも美しくかんなをかけるアルティザンの仕事ではないように思う。
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2020年11月18日

ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒/悪いが先を急ぐので

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ピノキオのようにいつしか人形に生命が宿って人間のように動き出す。そして生命に灯をともすのは小さな孤独の火であって、それまで自分を包んでいた孤独を自分の内にとりこんで心の一部とすること、そうやって自分の独りを知ることで世界と向き合う足場を得ること。物語の結末でそこに立つために、全身で泣いたり笑ったり怒ったりしながらいつしか生命を輝かせていくその姿こそがライカの映画の主人公たちであって、これまでずっと少年少女たちがその役を担ってきたのは、どこかしら通奏低音としてのピノキオがライカに潜んでいたからなのではなかろうか。しかし今作においてそうした方法論、というよりは理念をあっさりと手放してみせたのは、これをライカにとって自身の未来を見据えた通過儀礼とくさびを打ったからで、キャラクター的には主人公となるMr.リンク(ザック・ガリフィアナキス)は、孤独に苛まれる存在でありつつ既にそれを飼いならしたかのようにも映り、それゆえ終盤では排他的差別主義者に中指立てる役回りを嬉々として担ってみせて、となれば何らかの反転はいきおいライオネル・フロスト卿(ヒュー・ジャックマン)に求められることとなるわけで、進化論が社会を揺るがしたイギリスにおける保守的で傲慢な知識人の象徴ともいえるピゴット=ダンスビー卿が「我々偉大な人間こそが世界を形づくるのだ!」と吠えるに対し「我々が世界を形づくるのではない、世界が我々を形づくるのだ」と啖呵を切って、おお、よく言った!とアデリーナ・フォートライト(ゾーイ・サルダナ)が拍手するシーンこそが心優しき俗物ライオネルの成長として物語のピークとなったと同時に、どこかしらライカ自身が自らを戒めたセリフのように思えたりもしたのだ。ジュヴナイルの軽やかさから重力を意識したアクションへの舵の切り替えによるスラップスティックの圧倒的な愉しさは言うまでもなく、ライオネルの薄く尖った鼻を透過する淡く温かな光線がそうであるようにアルゴリズムを超えた光と影の奥行きもさらにアップデートされて目を瞠るばかりだったのだけれど、結果として批評家筋の高評価にもかかわらず北米では壊滅的といっていい興行の失敗を誘ったのが、ピノキオの乗ったローラーコースターが出てこないライカ新章への戸惑いだったとするならば、それが互いに根本的かつ譲れない理由であるだけに、突きつけられたこのNOがどうにも切なく思えて仕方がないままでいる。
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2020年11月16日

空に住む/わたしを起こさないで

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直実(多部未華子)がマンションのエントランスにいるオープニングショットが既に、これは高橋洋脚本とかそういうあれなのか?とでもいう、死を想え、ではなく死が想う世界の切り取りに視えたのだ。そしてそれから先のおよそ120分を徹底的に埋め尽くす空恐ろしいまでの他愛のなさは、人の意識がだんだんと薄れていく存在が、ああ俺もわたしもあんな風に生きてみたかったな、もし俺やわたしがあんな風だったらこんな風だったのかなという、記号ですらない人間ごっこが手探りのまま延々とくり広げられて、若手カリスマ俳優や成功した実業家とその妻、一軒家の日本家屋でグローバリズム何するものぞと和室の座敷に編集部をしつらえて家内制手工業で文化を担うロハスな出版社、といった舞台立ての中を「男も仕事もたくさんですわ」と満足げにつぶやいてみせる直実もまた死んだ目のフィロソフィカルゾンビと化していくのである。そんな彼岸の世界にあって愛猫ハルが炭鉱のカナリアの役目を担っていたことを知るも時すでに遅く、和室出版社の編集者直実は若手カリスマ俳優であるところの時戸森則(岩田剛典)から彼の「哲学」を引き出すというインタビューを恭しく執り行っては「好きな色は?」「ベージュかな、肌の色だから」とかいうこのご時世にあって際どくパンチの効いた「哲学」を引きずり出してみたり、ついには若手カリスマ俳優の言葉をそのままかっぱらって後輩編集者木下愛子(岸井ゆきの)を説教する始末なのである。”Wild is the Wind”というコピーだけが入った若手カリスマ俳優の巨大ビルボードや直実が部屋に貼っていたデヴィッド・ボウイのポスター、完璧に貌も髪の毛も仕上がった新生児、マジカルキャラとしてのコンシェルジェ(柄本明)とペットの葬儀屋(永瀬正敏)と連ねてみて、実は交通事故に遭ったのは直実の両親ではなく彼女だったのではないか、そしてこの物語すべては直実による昏睡のファンタジーなのではないかと考えてみれば、タイトルのいささか直截的なダブルミーニングがおのずと浮かんでくることになるし、となればラストで直実がようやくにしてみせる穏やかな表情がフラットラインそのものであったことは言うまでもないだろう。わたしは泣くことができないと直実が憂う瞬間ベッドで目を閉じたままの直実の目から一筋の涙が頬を伝う、そんなショットを補完しながらワタシは客席で自分の死んだ目をうっちゃっていた。
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2020年11月11日

ストックホルム・ケース/わたしの悪い噂

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往々にしてオリジンは素っ気ないもので、とはいえこの症候群が1973年以前に存在しなかったかといえば、フィクションとは言えその究極とも言える『キング・コング』がリファレンスしたように修羅場の本能が発動する死んだふり攻撃でもあるわけで、なればこそ、例えば『コンプライアンス』が行ったような心理実験としての怜悧な神経戦がそのメカニズムをあらわにする試みなのだろうと思いこんでいたのである。しかしこのロバート・バドローという監督はイーサン・ホークとの初タッグとなる『ブルーに生まれついて』において、「天からの才能を授かっただけの単なるろくでなし」としてのチェット・ベイカーを深淵に飛び込んでブルーズを採ってくる精神のダイヴァーに見立てた前科があるわけで、事実は小説よりロマンチックとつぶやきながら彼方を見やる視線はここでも揺らぎのないまま、その意を汲んだというよりはどこかしらの諦めとやけくそを隠さないイーサン・ホークが、死線をくぐるハーレクインロマンスの片棒を半べそをかきながら担いでいたのだった。しかしそうした情動でしか駆動しない監督なのであれば、この映画はなおさらビアンカ(ノオミ・ラパス)を真ん中に据えるべきで、銀行員にして妻にして母であるビアンカのラース(イーサン・ホーク)に対する視線と距離がどのように変質していったのか、それを確保しさえすればイーサン・ホークとマーク・ストロングがひたすら奇矯に転げ回る新春スターかくし芸大会のような茶番(かつら設定のイーサン・ホークと同じ見ばえで地毛設定のマーク・ストロングのかつら…)を少しは回避できた気もしたのである。そしてなにより『ブリット』でマックィーンが乗っていたマスタングをよこせといいつつ、GT390とは似ても似つかない佇まいのまま誰からもツッコミが入ることなく銀行前に放置された71年型モデルこそが、この映画のどっちつかずを最後まで愚痴っていたのではなかったか。プレスリーの代わりに歌ったことにされたディランも、さぞかしふんだくって使わせたに違いない。
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2020年11月09日

おらおらでひとりいぐも/この宇宙の片隅に

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日本のプロダクションにしては凝ったオープニングロゴだなあと思っていたら、いつの間にか映画が始まっていたという映画オリジナルのプロローグによってラストの円環がほんの少し壮大に吹きあがる仕掛けはもちろん監督の意図であったにちがいなく、孫娘の中に引き継がれる「おら」に地球46億年の生命の記憶を重ねてみせることで、孤独のもやを払い仄かな明かりの中に歩を進める桃子(田中裕子)のミクロコスモスを展開した原作からマクロコスモスの拡がりへと照応させる映画脚色によって、監督は慰めや共感ではなく「老い」を肯定し我がものとする術を探ってみせたように思ったのだ。原作ではあくまで桃子さんのケースであったそれを普遍にぶちこむには、では子供や孫がいなかったらワタシたちは終わってしまうのかという強引さをぬぐえないこともあるけれど、ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を変奏してみせたと考えてみれば、原作タイトルが引用した「永訣の朝」が生命の行き来によって紡がれていたこととの地続きが腑に落ちた気もしたのである。自由になるんだ!といって田舎を飛び出した桃子が75歳になってふとあたりを見渡してみると、一生を共に過ごそうといってくれた夫には先立たれ、庭付き2階の一戸建てにはもはや子どもたちの賑わいもなく2階への階段を上がるのは今や時折遊びに来る孫娘しかいない。ただそれが一方的に淋しいのかといえば、私だけにそよぐ不思議な風の心地よさもあるわけで、もし夫がいまも生きていたらその風を頬に感じることができただろうかという逢魔時のような気持ちが桃子を連れ出す、過去への仮想地獄巡りが支配する終盤でギアが入った時、田中裕子と蒼井優という、際を調節できる体幹の強い女優を配したのがさらなる大上段で太刀打ちしてもらうためだったことに度々うなずかされる事となり、こうしていろいろ想い出してみても私は局面を自分で選んで生きてきた積み重ねで今ここにいるのだという、あっけらかんと抜けの良い諦念に着地できたのもは彼女たちの精確な解釈あってのことに違いなく思ったのである。感情の過ぎた寄せを求めない代わりに、すべての場所に陽が当たる角度をそっと差し出す監督の筆使いが晒してしまうものをメランコリーととるかクラリティととるか、人生の過ぎた時間によって色合いが変わるだろう穏和で食えない沖田映画であった。
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2020年11月05日

ザ・グラッジ 死霊の棲む屋敷/ここではお静かに

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オリジナルの『呪怨』は、いわゆる小中理論では禁じ手とされる幽霊POVや幽霊ナメをがんがんぶち込んだ、Jホラー原理からすればいささか異端の作品であって、しかしカヤコやトシオを幽霊と言うよりはクリーチャー化させつつそれらを屋敷でも廃屋でもないその辺の路地を曲った先の“住宅”に解き放ったことで、半径5メートルの日常で逃げ場を失い追い詰められる恐怖の、ある種の親密さこそが取り返しのつかなさを誘っていたように思うわけで、アメリカンハードなホラーの視線からすればその慄えのミニマルこそが新鮮な恐怖に映ったのではなかろうか。言うまでもなくその点に自覚的だった清水崇は『THE JUON/呪怨』においてもデフォルテの設定を貫いてはみたものの、日本家屋で右往左往するコーカソイドの図がエキゾチックな幽霊屋敷譚に陥ってしまった点はおそらくサム・ライミの本意ではなかったのだろう。というわけでほとんど意地になったサム・ライミがリメイクと言うかリマッチに挑んだ今作では舞台をアメリカに移しつつも、オープニングで佐伯家および洋子の日本パートを引いていて、物語の支柱として『呪怨』の種火を貰う必要があったとはいえこの時点で家憑きの前提を自ら断ってしまっているわけで、それから先はあくまで種火レベルの『呪怨』の側(ガワ)だけが、何の必然も切実もないまま凡庸なジャンプスケアをひたすら繰り返すにとどまって、結論から言えばサム・ライム惨敗なわけである。ではなぜ完全なリブートとしてペンシルベニアのあの家をオリジンとせず、佐伯家の残滓を必要としたのかといえば、やはり前述したミニマルな慄えの源泉をアメリカの皮膚感覚には見つけることができなかったからこそ、2004年版の続篇としてナンバリングしなかったにも関わらず(どちらも原題は”THE GRUDGE”)、佐伯家の力を借りざるを得なかったように思うのだ。もしサム・ライミがいまだあきらめることなく返り討ちを狙っているのであれば、恐れ多くもワタシから言えるのは、まずは日本語を勉強して「嫌」ではない「厭」という漢字を認識し、その佇まいから立ち上る穢れの空気を吸ってみることから始めるしかないということである。いったいお前は何様だという話だけれども、それ以外にハリウッドが『呪怨』を解題する方法はないように思うのだ。アンドレア・ライズボロー、デミアン・ビチル、ジョン・チョー、リン・シェイ、ジャッキー・ウィーヴァーという場違いとすらいえる手練れを揃えつつ宝の持ち腐れとした点で、監督/脚本のニコラス・ペッシェを筆頭に製作陣の寸が足りてないのは誰の目にも明らかだろう。というか、正直もうあきらめれば?
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2020年11月03日

ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ/家はどこへ行った

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ジミー・フェイルズ(ジミー・フェイルズ)の祖父がフィルモア地区の邸宅を自ら建築した年として劇中で二度三度セリフにのせられる1946年という年が、この物語を霧のように覆って晴れることのないメランコリーを送り出していたようにも思うのだ。サンフランシスコのこの地区に数多く住んでいた日系人が第二次大戦の勃発により強制収容所に送られた後、終戦後も主の戻らないままだった多くの空き家は競売にかけられたか、権利も曖昧なまま事後的に占有されたと想像するのはたやすく、ジミーの祖父もまたその時期に何らかの段取りであの邸宅を手に入れたということになるのだろう。父であれば知るその事実をなぜ我が子ジミーに伝えることなく、父(ロブ・モーガン)は家族の物語を書き換えたのか。かつて住んだ家を訪れた父は邸内に据え付けられたオルガンを弾きながら「おれがこれを弾くと親父は嫌な顔をした」とつぶやきつつ、自分の父親が独力でこの家を建てたことを他の来客に自慢するのだ。それはもしかしたら、自分たちと同じマイノリティで、収容所に送られて戻ることのなかった日系人の持ち主の圧倒的な美意識への祖父の屈託でもあったのか、そしてそれを見て感じ育ったジミーの父はこの家を始祖にフェイルズ家の物語を始めるべく邸宅と家族との物語を語り直したのではなかったか。かつて戦争が日系人たちをこの街から追い出したように、1990年代の地区再開発による土地価格の高騰とそれに伴う固定資産税などの急激な上昇が今度はこの地区の黒人たちを追い出して、ジミーの父もこの邸宅を手放すことを余儀なくされたとするならば、ジミーの執着は家そのものというよりは父が筆を折った物語の続きを綴ることにあったのだろうし、その物語の中にしか自分の居場所はないのだという彼の切実が次第に強迫観念へと姿を変えつつあることに気づいたからこそ、モンゴメリー(ジョナサン・メジャース)は友情を失うことすら覚悟してジミーを幽霊屋敷の呪いから解き放とうとしたように思ったのだ。背負わされた歴史の宿命として、物語を持たない/持つことを許されてこなかった黒人がお仕着せの“たいしたニガ”という一面的な物語の枠に自分から収まっていくことで未来や希望を失っていく悲劇がコフィ(ジャマル・トゥルーラヴ)という身近な生贄をさらったことで、語られなかった物語こそがこれから綴られる価値と意味のある物語なのだとあらためて理解し得たモンゴメリーはそれらお仕着せを喝破して打破し、それを友情の証と識るからこそ、ひとりジミーはゴールデンゲートブリッジからその先へとボートを漕ぎだして、自らがファーストブラックマンとなる物語へと向かったのではなかったか。では、そんな風な現在地のつかみにくい物語に観客をどう落ち着かせるか、屈託のない少女のアップから彼女の見上げた先のデフォルメされたリアルを受けてストリート・プリーチャーがマニフェストをアナウンスする中、マイケル・ナイマンの吹かすしめやかで神経症的な風を受けてスケートボードに2人乗りしたジミーとモンゴメリーがベイエリアを滑っていくそのスピードを追っていくうちに、ワタシたちもいつしかフィルモア地区のあの家の前にたどり着いてしまうそのオープニングのシークエンスにいきなり映画の運動のピークを持ってくる涼しい顔のアイディアには圧倒されてしまったし、前述したマイケル・ナイマンはじめ、あそこでのジョニ・ミッチェル、そしてセグウェイに乗ったジェロ・ビアフラがツアーガイドとしてやってくるというヒップホップからのかわし方もまた、決め打ちされた“たいしたニガ”の物語からのしなやかな逸脱なのだろうとどきどきしながら胸がつまりつつも、いつしか胸よりはむしろ脳があたたまってしまったものだから、上気した知恵熱を冷ますような気持ちで、ジミーのボートを揺らすサンフランシスコ湾の水面をじっと見つめていたのだった。
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2020年10月28日

ストレイ・ドッグ/わたしをゆるさないで

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善悪を無効化した絶対値のみを有効とするガンさばきで世界に負債を返し、ゼロを夢見ては消えていく人たちの行き来をノワールと呼ぶにおいて、自己愛の腐臭も自爆するセンチメントもその一切をあてにしないエリン(二コール・キッドマン)の道行きはもはや生きている者のそれではないようにも思え、棺桶から這い出るように車から降り立ったエリンが繰り広げる、石鹸台で用心棒を叩きのめし、殴りつけたグロックで弁護士ディフランコ(ブラッドリー・ウィットフォード)の頭をかち割り、かつての仲間ペトラ(タチアナ・マズラニー)を血まみれに潰して車のトランクに放り込み、娘シェルビー(ジェイド・ペティジョン)にまとわりつくジェイ(ボー・ナップ)を盗んだ金と引き換えに追い払い、クリス(セバスチャン・スタン)の仇サイラス(トビー・ケベル)を命乞いの間もなく射殺するサーチ&デストロイは、犯した罪に囚われて無間地獄を彷徨い続ける幽鬼の所業にも思えたのだ。復讐と贖罪の別すら手放して手当たり次第をゼロへと均し、そうすることで自分がこの世に生きた痕跡までも葬っていくエリンが最期にたった一つだけ自分に赦した記憶が何だったか、シェルビーもまたそれを赦してくれたからこそその光を見ながらエリンは消えていったのではなかったか。バーのカウンターで一瞬うつつを失ってグラスを倒し、あわてて我に返りショットの外にいる視えないバーテンダーに「ごめんなさい」と謝るシーン、たとえばカウンターから落ちて割れるグラスにエリンの刹那を託すよりは小さな正気の灯りが彼女の苛烈を煽ることを識るカリン・クサマの手さばきに息を呑みつつ、共に17年間を緩慢な死の中に過ごしてきたペトラとの、キャットファイトという言葉に喧嘩をふっかけるような凄惨で寄る辺のない潰し合いを、ローギアでアクセルをべた踏みするような回転数で追いまわすシーンには知らずワタシも歯を食いしばっていた。そして何より、それらすべての暴力を白日の下に晒して血と怒りの滾りを直射日光に乱反射させ、LAノワールの更新を得たジェリー・カークウッドのカメラの、消失点を光のなかに求めるような感覚はまるでアメリカン・ニューシネマの再構築とその継承への意志にも思えたのだった。銃創ではない肉体内部の破壊で徐々に死んでいくエリンに『サンダーボルト』のライトフットが重なったのも(共に車内に座って死んでいく)、これがあの時代のアメリカ映画の喉元に食いついてぶら下がっては、うっすらと笑みを浮かべながら揺れ続けていることの証なのだろうと考える。
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2020年10月23日

アウェイデイズ/ロマンスのシステム

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ストーリーからすれば「かつて遠征していたころ」とでもなるのか、”Awaydays”というその原題が既にすべてを語っている気もして、それは裏を返せば自分の居るべき場所(ホーム)から離れて生きる日々のことであったにちがいなく、プチブルと揶揄される中産階級でアートスクールをドロップアウトしたカーティ(ニッキー・ベル)と、フーリガンの労働階級でドラッグディーラーの顔も見え隠れするエルヴィス(リーアム・ボイル)が、互いの中にここではないどこかを見たことでその日々が交錯するも、互いが追うほどに遠ざかるすれちがいはその瞬間に始まってしまっていたのだろう。カーティはエルヴィスの暴力に倦んだ姿に成熟した屈託を誤認したことで、暴力を追い生の実感を手に入れようと躍起になり、一方、暴力で裂けた傷口をなめあうフーリガンの動物的な不良性を嫌悪するエルヴィスは、しかしそこに属するしかない絶望を抱えつつ、暴力を遠ざけたしなやかな屈託をカーティに見つけ、それを垂らされた蜘蛛の糸とすることで必死に手を伸ばし続けたのではなかったか。ひたすら青く欲望の達成に忠実なカーティよりは、彼を汚さないためには暴力から遠ざけるしかないことを知りつつも、彼とのつながりを絶たないためにはその欲求を受け入れるしかないエルヴィスの引き裂かれる感情こそがこの映画のハートであって、1979年のこの物語でエルヴィスの部屋にメメント・モリの象徴として吊るされた首吊用のロープは、程なくして起きるイアン・カーティスの悲劇の昏い予兆にも思えたのだ。エルヴィスが呪文のように繰り返すベルリンへの脱出も、分断された恋人たちをボウイが歌って以来、ある種の租界として夢想されたその響きを知ればこそその切実をワタシも理解する。目に映るのものを破壊しまくったパンクの焼け野原に立ち、帰る場所すら失い途方に暮れた若者が内省の中にそれを探したのがポスト・パンクだと監督が解釈したのであればワタシはそれを支持するし、パンクがいったい何を破壊しなければならなかったのかリアルタイムでは併走できなかったワタシに立ち込める靄の中でただただ彷徨することを赦したポスト・パンク〜ニュー・ウェイヴの、その終わらない日々に沈み始めたもう一つの1979年をここに重ねてみる時のあまりの容易さに、未だ自分がその靄の中にいるのかもしれないことを気づかせて郷愁というよりは少しだけ狼狽えた気分になってしまう。そしてこの1979年という年はマーガレット・サッチャーが労働党を打ち破って政権を取り、新自由主義を謳いつつ公営企業の民営化と規制緩和、消費税の大幅引き上げを断行した年であったのは言うまでもなく、この先ストリートカルチャーはサッチャーと保守党を敵と見据え政治の季節へと突入していく。インサートされるポスト・パンクのチューンにほぼ異論はないにしろ、うかがえるのは監督のウルトラヴォックスに対する偏愛で、”Just For a Moment”をほとんど心象表現の代替えとして序盤とラストで2度インサートして円環させたのはともかく、カーティ役のニッキー・ベルにはジョン・フォックスの面影キャスティング疑念すら湧いてくる始末だけれども、そういうのはまったくもって嫌いではない。
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2020年10月21日

スパイの妻/さようなら世界夫人よ

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「金庫の番号は?」「もう覚えました」この会話が符牒でもあったかのように新たな世界の法則が発動する。それに呼応するかのような津森泰治(東出昌大)の出現を受けて大陸へと渡る福原優作(高橋一生)はそれから起こる暗闘を予期していたかのように、世界の法則を手繰り寄せるべく自らの変質を促し複層をまとう人として帰国する。その優作にとって聡子(蒼井優)は果たして地獄の同志足り得るのか。開錠の番号を知る聡子の目の前でノートを金庫に仕舞う優作にとってそれはひとつの賭けであったのか。動かされたチェスの駒を見て急いた手つきで金庫の扉を開けた優作の表情の、何か決定的な感情を宿していながら、してやられたのかしてやったのか、それを微塵もうかがわせないここでの高橋一生こそは特筆されるべきで、この先に繰り広げられる愛と大義をめぐる聡子と優作の神経戦をピアノ線の緊張で拮抗させるこのゼロ地点にこそすべての成否がかかっていたといってもいいだろう。この映画をおおうすべての得体の知れなさに対し、観客にとって理解と共感が可能な唯一の存在である聡子をそのイノセンスゆえ生贄に捧げる苛烈はそのままワタシたちに向けられた眼差しでもあるわけで、戦場の恋人たちの風を装ってはヒールで地雷原を走らせながら、最終的に愛は感情の一つに過ぎないとにべもなく聡子を凝視する砂浜のショットこそはゼロ地点の恐るべき回収にも思えたのだ。劇中、聡子がいるシークエンスで何度か風の音が重ねられ、中でも旅館たちばなに文雄(坂東龍汰)を訪ねたシーンでは窓外の葉がまったく揺れていないにも関わらずか細い風の音が止むことはなく、それと同じ音がワタシたちと聡子に再び聴こえるのが1945年の精神病院でベッドに佇む彼女のシーンであったことを思い出してみれば、それがあの時以来彼女をずっと捉えていた虚無の音であったこと、そしてそれこそが世界の法則と渡り合う優作がまとった鎧なのではなかっただろうか。街角に貼られた『大空の遺書』のポスターの前で身を寄せ合う優作と聡子の姿が忘れがたくその映画について調べてみたところが、偵察に飛び立ちそのまま戻ることのなかった或る日本海軍パイロットの妻による手記の映画化という、まるですべてを解題したような内容で、そもそもが聡子の行く末はあの自主映画にすべて明かされていたではないかと、映像は世界のおそろしい分身であるというその確信とそれを手にする覚悟が謳われた点においてまごうことなき黒沢清の映画であったことに何度も首をうなずきつつ、監督にここまで射程の定まった映画を撮らせてしまう“現在”という世界の禍々しさこそをワタシたちは正当に恐怖すべきにちがいないと、コスモポリタンならずとも柄に手をかけた気持ちではあったのだ。あれが聡子の心象であったとはいえボブ登場シーンの照明や空間はまるでマイケル・マイヤーズにしか映ることがなく、黒沢版『黒い太陽』パートにしろ、いろいろと制約もあったであろう完全アウェイのプロダクションにおいて思わずその手が止まらなくなったところなのだろうと頬がゆるむ。シナリオにはない監督の付け加えたエピローグの字幕が一瞬仄かな救済をうかがわせるも、ワタシの頭をさっとよぎったのはアデルと化した聡子の姿であった。
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