2019年02月15日

アクアマン/金魚はおやつに入りますか?

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ジェームズ・ワンのホラーにおいて、怖がらせる相手はあくまで登場人物でしかなく観客はその状況を見せつけられることによって怖がるのであり、観客への直接的なアタックはいつかインフレを起こさざるを得ないしそもそも粋ではないのだという品性こそが清潔な殺意とでもいう独特の緊張を呼ぶわけで、ここでのアーサー・カリー(ジェイソン・モモア)は自らの出自や運命を呪って溜めこんだ屈託の解放でブーストするでもなく、人生を笑顔で謳歌してスイングする人として登場したままアーサーがハッピーならみんなハッピーという万事快調なノンシャランだけを維持するために、ジェームズ・ワンはメリハリのハリだけをオーヴァードーズにならないような生殺しの配分で射ち込み続けたのである。したがって全編は酩酊したような甘噛みの多幸感に彩られ、誰も彼もワタシたちも何も省みることなく苛まれることもなく阿片窟のように寝転がって目で光を追っていればよかったのだ。かつて『アイアンマン』がMCUのマニフェストとなってそこからすべてが始まったように、今作のファナティックな祝福を知るにつけこれが新たなDCEUのブースターとなるのだろうことを勝手に予想していたものだから、まあここは一発決めて悪い夢は忘れようぜとでもいうピースフル・イージー・フィーリングのブラック・サバスに対するカラパナ的なうっちゃりに、でもこの手は二度と使えないよねと心配顔のふりなどしてみたのだけれど、『スーサイド・スクワッド2』のメガホンをジェームズ・ガンに任せるらしきニュースなど耳に入ってきたこともあり、ああそれはそれであちらも腹はくくってはみたのだなと、今作の露払いとしての役割にそれなりの合点がいったのである。ただ一人、メリを徹底的にオミットされたことでどうにもペラッペラな復讐心しか許してもらえなかったブラックマンタさん(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)だけが割りを食ってしまった感じなのだけれど、続篇があるとすれば『ピンクパンサー』におけるケイトーのような役回りを目指すことにより新たなヴィラン像をものにする絶好のチャンスではあるので、シン博士(ランドール・パーク)共々ぜひとも精進していただきたいと思う。ワタシはむしろそちらに期待している。
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2019年02月12日

ファースト・マン/生者には何もやるな

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この仄暗い粒子の粗さは、フィルムというよりはLIFE Magazineのカヴァーストーリーに添えられた記録写真のようで、チャゼルはアメリカの光差す記憶の上澄みに手を突っ込んでかき回しては人知れず沈殿した記憶を舞いあげることで、アメリカという国が常にたずさえるイノセンスと呪いという両義性の象徴としてのアポロ計画を、さらにその全体の象徴ともいえるニール・アームストロングという人間に照射してみせたように思ったのだ。冒頭、ほとんど棺桶と化したX-15のコクピットで実験結果の一つとしてあらかじめ織り込まれた死の数値を制御しつつ成層圏にアタックするニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、死を観念の状態ではない轟音と横揺れの世界として捉えていて、そこには今の自分の延長もしくは代替えとしての自分が存在しないことを認識している。そして、死という結果のでなかった日のニールは棺桶から這い出て車に乗って家に帰り、ただいまと言って家族と過ごすのだ。そうした生と死の二重生活はニールにとってみれば労働倫理の実践として許容されるべきものだったのだろうけれど、では愛娘カレンの死は、彼女はニールの知る轟音と横揺れの世界に消えてなくなってしまったのか、彼女の死に際し劇中でただ一度感情を決壊させ慟哭したニールは、カレンを轟音が吹きすさび横揺れが爆発する世界から取り戻すことでしか彼女の死を我がものとできないという結論にたどり着いたのだろう。宇宙飛行士として選抜されヒューストンに移り住んで以降、彼岸としてしつらえられたサバービアとより凶悪な棺桶との間を行き来するニールが死と死者にのみ反応と感情を顕すばかりとなるのは、かつては事象にすぎなかった死に囚われたというよりは、カレンとの絆としてのそれを見出したからなのではなかろうか。そうやって生者を二の次にしてまでカレンの死に拘泥するのは、かつての自分が死をコントロールしたつもりで行き来を重ねたことへの代償としてカレンが奪われたのではないかという罪悪感がそうさせるのかと、生者に目を伏せるばかりの自分に感情を爆発させた妻ジャネット(クレア・フォイ)にすら視線を交わさないニールの、仮死した諦念といってもいい蒼白な光の宿る瞳孔に思ったのである。それまでの爆発的な横揺れの支配する世界とは打って変わって美しくしめやかな手続きのように行われるアポロ11号の道行きから月面の荒れ狂うような無音の世界、月に降り立って以降は月面の風景をそこに反射させるばかりだったヘルメットのバイザーをあげてその貌をようやくのぞかせたニールの果たした喪の仕事までの一連は、フロンティアスピリッツの高揚と辺境でおり重なったおびただしい死との静謐なハーモニーの奏でるレクイエムにも思え、轟音と横揺れの先で純化された死をカレンに捧げたニールは果たして生きている人なのか死んでいる人なのか、それを確かめるべくニールに向き合うジャネットは、アメリカの囚人となった夫に面会する妻の面持ちにも見えたのである。妻とも息子とも誰とも分かち合うことのできない世界でたった一人ニールだけが知る(バズは例のノンシャランを鎧にした気がする)孤独の質を抱えたまま、彼はジャネットを愛することができるのか、ラストショットはまるでエドワード・ホッパーの筆のようにも思えたのだ。「ガラスのある部屋」というタイトルで。チャゼルは完全に抜けたように思う。
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2019年02月05日

天才作家の妻/コール・ミー・バイ・マイ・ネーム

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劇中に関する限り、ぼくがノーベル賞を獲った!ぼくがノーベル賞を獲った!とジョゼフ(ジョナサン・プライス)がベッドの上で跳びはねた瞬間に時限装置のスイッチは起動していたわけで、のちに回想されるあるシーンでは“ぼくたち”だったそれが“ぼく”へと変わっていく年月にジョーン(グレン・クローズ)が奪い取られたもの、それはJoan ArcherからJoan CastlemanとなりついにはWifeへと至る、彼女の名前だったように思うのである。そうやってジョーンの名前を奪ったものたちが無邪気にも彼女の地雷原に足を踏み入れてはそれを片っ端から炸裂させ、その度に怒りで傷ついた眼差しをジョーンはワタシたち観客だけに目配せしてみせるわけで、その矛先はジョゼフのみならず、殿方はこちらで重要なお仕事を、奥様方はお買い物とエステをいかが?と慇懃無礼に差別的なノーベル財団の俗物にまでも向けられて、となればワタシたちは爆発したジョーンが切っ先鋭く立てた中指で自分を踏みにじった輩を串刺しにする瞬間を心待ちにしてしまうのだけれど、この物語が単なる復讐譚に終結しないのは、被害者としてではなく共犯者としての自身を全うすることを文学に誓っているその矜持こそがジョーンを支えているからで、ジョゼフの晩餐会でのスピーチがジョーンを決壊させたのは、主犯を気取るジョゼフがジョーンの贖罪までも果たしたかのようなその振る舞いにこそあったのだろうし、自分たちの罪深さこそが作品を実らせてきたことに最後まで思い至ることのないジョゼフに対する心底の軽蔑と絶望が彼女をああした行動に駆り立てたように思うのだ。したがって、その後で起きたことは彼女にとって避けがたいオマケのようなもので、あの涙はいつか流すべき涙として1958年からずっと彼女が溜めてきたそれであったように思うし、家路についた機内で、何も書かれていないノートのページを静かに撫でながらジョーンがみせる穏やかで満ち足りていながらひんやりとした緊張感の差し込むその表情は、私は私の手に入れたこの新たな罪深さをもって物語を前に進めることができるだろうという希望と確信に後押しされたJoan Archerの貌にも見えて、その瞬間、ついに彼女は彼女の名前を取り戻したようにも見えたのである。鼻もちならない扇動者でありながら図らずもジョーンの理解者となるナサニエル・ボーンを演じたクリスチャン・スレーターの、声の大きな人たらしが絶妙な手つきで攪拌することで生み出したグロテスクなユーモアの入り込む余地のおかげで、一方的に苛まれる悲劇からこの物語がその身をかわすことに奏功したようにも思え、そしてそれこそはジョーンが望んだ筋書きであったことは言うまでもないだろう。
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2019年02月03日

マイル22/やめられない止まらない

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トム・クルーズ&クリストファー・マッカリーの向こうを張るかのようなソウルメイトっぷりを見せつけるこの2人が、さすがに実録ものもネタ切れになったところでぶっ込んできたのは、ハイパーアクティヴなCIAエージェント、ジェームズ・シルヴァ(マーク・ウォルバーグ)による『ソーシャル・ネットワーク』ミーツ『ボーダーライン』とかいう、ウナギと梅干し、もしくはスイカと天ぷらレベルの食い合わせに悶絶しながら早口言葉のきりもみ状態で敵陣を突破していくという、誰も観たことのないというよりは常識的には誰かの目に止まる前に抹殺されるべきアイディアの奇跡といってもいい実現だったのである。手首のゴムバンドをエンジンブレーキ代わりにパチパチ弾いてはクロックダウンするシルヴァの、そんなピーキーな指揮官に現場と命を預ける隊員もまたプロフェッショナルの流儀というよりはスリルジャンキーの矜持で狂気を正気に偽装している節があり、そんな風な“まともな奴は一人もいねえぜ((c)忌野清志郎)”という座組みで行われる肉体言語による情報神経戦であるだけに、知恵熱で朦朧としたピーター・バーグが酩酊した足取りで踏み抜いていく底から透けるさらなる底まで気が回るはずなどないことは百も承知だし、それら目眩ましとして投入されたはきだめの鶴としてのイコ・ウワイスが予想を超えてうっとりと舞ったこともあり、たびたびの良きに計らえと言いたげな目くばせに応えることにも全くやぶさかではなかったのだ。非常にせわしなくつんのめるようなカットのリズムはおそらくシルヴァの病質(ADHD)への恭順にも思え、崩れ落ちる寸前に立て直してはまた崩れ落ちる寸前に立て直すという負荷のかけ方によって最先端の市街戦がはらむ神経症的なファンタジーがねじ込まれていく気もしたわけで、それらが果たしてどれくらい意識的な達成であったのかワタシは言い切れないでいるけれど、現時点で明らかに界隈の更新が成されたのは間違いがないように思うのである。シルヴァのクロックをコントロールするのに手一杯で、当然それもミッションのうちであったであろうリー・ノア(イコ・ウワイス)がなぜシルヴァを生かしたまま機上の人となったのか、2人の間に生まれたはずの共闘と共感の浪花節にまで手が届かなかったのはいささか残念だった気がしないでもないけれど、ドライでもクールでもなく、極北のフラットで情動をたたんで合理を敷きつめていくシルヴァの造形が生み出すサスペンスに思いがけず絆されてしまったので、ぜひとも続篇をものにすることを切望する。それなりに愉しい色艶を持ちながら、いささかキャラクターが被っていたマルコヴィッチがあっけなくオミットされるのもその布石だと考えたい。
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2019年01月31日

サスペリア/最悪は終われない

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ツァイトガイストな目つきにどっぷりと終始するこの劇中で、マダム・ブラン(ティルダ・スウィントン)の指揮するダンスがまさに「民族」という演目であったとなれば、分断されたベルリンの暴力と混沌こそをヘーゲルばりに民族の精神と唱えるこの内ゲバの物語が、恐怖というよりは罪と恥辱にまみれなければならなかったのは必然ということになり、したがってマザー・サスピリオルムによるアウゲイアスの牛舎掃除には、アーミッシュはリベラルになり過ぎたとうそぶくメノナイト育ちのスージー(ダコタ・ジョンソン)が備える攻撃的で潔癖な野心が必要だったのだろう。クレンペラー博士(ティルダ・スウィントン)はそうしたストーリーの対称性を維持するための存在として投入され、あなたは十分に苦しんだのだから、この先はもう罪や恥を感じる必要はないという赦しをもってあらたな人生を与えられることになるのだけれど、しかしこの先博士は本棚の写真を見てもいったいそれが誰なのか、なぜその写真が飾ってあるのか不可思議に思いながら生きていかねばならないことを思うと、世界で一番忘れてほしくない人に永遠に忘れ去られたアンケ(ジェシカ・ハーパー)こそが、愛と哀しみの分かち難い時代を生きねばならなかったすべての人の悲劇としてあり続けることになるのだろうし、本篇の最後で光の中に昏睡していくショットこそはこの映画をすべてのあらかじめ失われた恋人たちに捧げた監督の渾身だったようにも思うのだ。今作も含め『へレディタリー』に象徴される最近のポスト・モダンホラー(何ならもう一つポストを付けてもいい)に顕著な恐怖の変質について、乱暴に言ってしまえば恐怖の源泉が“死にたくない”から“死んでしまいたい”へ変質したことがその理由であるような気がしているわけで、地下の集会場で不埒な者たちを片っ端から屠ったマザー・サスピリオルムがパトリシア(クロエ・グレース・モレッツ)、オルガ(エレナ・フォキーナ)、サラ(ミア・ゴス)に1人ずつ望みを尋ねていく時、彼女たちはみな口をそろえて「死にたい」と願ってはそれを与えられていくわけで、この瞬間を生き延びたとしても果たして私はどこに行けるのだろうかという生き地獄は、死んでしまうことではなく生き続けることこそが恐怖となるこの世界を、炭鉱のカナリアとしてのホラーが身をもって示したその反映ということになるのだろう。してみると、かつてのスージーだった者が何かに心奪われたような面持ちで佇むポストクレジットシーンでは、絶望にあふれる時代にあっては破壊すらが希望を生み出すことをマザー・サスピリオルムとしての自身に更新していたように思うわけで、それは嘆きの母が暗闇の救世主として再生したその宣言ということになるのだろう。そうした諸々の役割上、揺るぎなく支配的でいることを求められたダコタ・ジョンソンよりは、リンダ・ブレアとオルネラ・ムーティを足して割ったようなミア・ゴスにホラー・プリンセスの王冠が輝いたのはやむなしというところか。サラだったか、誰かの部屋でボウイのポスターを見かけたように思ったのだけれど、この1977年の夏にベルリンのハンザスタジオでレコーディングされた「ヒーローズ」は、その年の10月、すなわちにスージーがオハイオからベルリンにやってきたまさにそのタイミングでリリースされていて、バーダー・マインホフの爆風と銃撃に蒼ざめたベルリンの街で、壁に寄り添う恋人たちを歌ったボウイと魔女がつかの間すれ違ったのは、少なくともルカ・グァダニーノにとっては偶然ではないように思っている。
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2019年01月27日

ミスター・ガラス/Destroy All Monsters

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「バランスを保ち、秩序を維持する」ために息をするすべての存在が敵なのだ、とシャマランは言い切った。なぜ、どこかの誰かのおためごかしでしかない「バランス」や「秩序」のために、キミはかけがえのないキミだけの「乱調」や「混沌」を差し出してしまうのか。しかしそう唱えることが、正しいとか正しくないとか善いとか邪まとかいう教条的な話に誤解されないために、シャマランは大量破壊殺戮者としてのミスター・ガラス=イライジャ・プライス(サミュエル・L・ジャクソン)を語り手と生み出したのだろうし、では犯した罪によって彼の輝きは消えてしまうものなのか、実際のところどうだい?消えてしまったように思うかい?と相変わらず悪戯めいた顔つきでシャマランは問いかけてくるのである。シャマランの映画にたたずむ登場人物がまとっているうつむいた哀しみは、世界の法則を知ってしまったもののそれが自分以外の人にとって必ずしも幸福をもたらすわけではないことまでも知らされた苦痛がもたらすように思えるわけで、そんな風にいつ死んでしまってもおかしくないようなペシミズムに首までつかったシャマランの主人公たちが、とはいえこれまでのところ常に生き延びてきたことを思えばこのラストが悲劇一色に染まってしまってもおかしくはないのに、なぜこうまで爽快といってもいい風が吹いたのか、それはミスター・ガラスが口にしたようにこれが新たなアウトサイダーの誕生を呼びさます咆哮のような映画であったからにちがいない。そうした埒外の幸福に対するロマンチックといってもいい感情はかつて『レディ・イン・ザ・ウォーター』で滔々と吐露された憧憬であったことは言うまでもないだろう。シャマランがずっと言っているのは信じる者は救われる、という至極シンプルなただそれだけなのだけれど、でもそれは世界でたった一人きりになっても命がけで狂ったように信じることができればの話だけれどもね、とばかりミセス・プライス(シャーレイン・ウッダード)とジョセフ・ダン(スペンサー・トリート・クラーク)、そしてケイシー・クック(アニャ・テイラー=ジョイ)の3人がもはや神話と化したこのトリロジーのエンディングを受け持つ名誉を与えられることになる。冒頭、ケビン・ウェンデル・クラム(ジェームズ・マカヴォイ)がしつらえた「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のMVのようなチアリーダーを見た瞬間、既に勝利は確信していたものの、病院の前庭でゆっくりと右にパンをしたカメラが仁王立ちするデヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)の姿をとらえたとき、ああこの瞬間ワタシたちは世界に勝っていると思わなかっただろうか。ワタシは沸き立った血が暴れて逆流する音が聴こえた気もしたよ。魂の自由を愛する人が、媚びるという言葉すら知らずに撮った映画は、自分もそんな風に生きていることを束の間錯覚させてくれる。
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2019年01月19日

クリード 炎の宿敵/バック・イン・ザ・U.S.S.R.

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現役の世界チャンプに課せられた7年間の懲役は実質的に選手生命を閉ざしたに等しく、そんな彼がまだ幼い息子にしてやれるのは、世界チャンピオンとしての勇姿をその記憶に焼き付けることのほかに何があろうかという悲痛な決意のもと彼はラストファイトのリングに上がり、フルラウンドの死闘の末にチャンピオンベルトと息子をリングで抱きしめるのだった。というリッキー・コンランのストーリーにこそ絆された前作を踏襲するかのように、今作においても、三歩進んで二歩下がる成長と覚醒で歩み続けるアドニス(マイケル・B・ジョーダン)はむしろ狂言回しとして、復讐の父子鷹と化したイワン(ドルフ・ラングレン)とヴィクター(フローリアン・ムンテアヌ)のドラゴ親子のサンドバッグとなって揺れ続けるのであった。ことあるごとに母親メアリーアン(フィリシア・ラシャド)、妻ビアンカ(テッサ・トンプソン)、そしてロッキー・バルボア(シルヴェスター・スタローン)が総出でケアをするアドニスはほうっておいても誰かが起こしてやるにちがいなく、しかもこの映画はその手つきを実に細やかで繊細かつ鷹揚に描いてみせるものだから、いざゴングが鳴らされたとしてもそのファイトが何だか他人事のように思えてしまうわけで、となれば痛みだけを確かなものとして世界がこちらを向くまでただひたすら殴り続けるしかないヴィクターの哀切に持ち金を賭けてしまうのもやむを得ないところではあるだろう。とは言え、鍛えあげた人間の意識を10秒間飛ばすにはどうすればいいかという合理の洗練とその手段として相手を殴るという蛮性の同居が強制されるボクシングというスポーツの特異性ゆえ、その合理と蛮性の振幅を人生の両端に例えてしまう誘惑がボクシング映画というジャンルを成り立たせていることを思う時、ジョイス・キャロル・オーツの言う「人生は、多くの不安定な点で、ボクシングに似ている。だが、ボクシングは、ボクシングにしか似ていない。」という文章を同時に思い出してみれば、共に父の呪いを受けたもの同士でありながら人生にスタイルを決定されてしまったヴィクターはそれゆえに、スタイル=メタファーの虜囚になり得なかったアドニスに敗れたとも言えるわけで、事あるごとにロッキーがアドニスに言う「俺のようになるな」という言葉は、ボクシングに人生を喰わせた者だけが知る核心でもあったのだろう。だからこそアドニスはリングの上で合理の人となってみせる必要があったと思うのだけれど、せいぜいがスウェイバックやウィービングとダッキングを派手にしてみせる程度で、「肉を切らせて骨を断て」というロッキーの指示がでた時には、ボディ打ちを誘ってガードの空いたところに左フックを叩き込むとかいう必殺ブロウを期待したりもしたのだけれど、結果としてアドニスが見せたのは単に根性でボディ打ちを耐えるだけという肩透かしなのであった。ヘヴィー級という粗の目立ちにくい階級であるからこそ成立してきたこのシリーズのド突き合いファイトにいまさらケチをつけても詮無い話なのは承知の上で、せいぜいがクルーザー級の肉体にとどまるアドニスがいかにヘヴィー級のファイトを可能にするのか、たとえばロイ・ジョーンズ・ジュニアとクリチコ兄弟との仮想ファイトといったファンタジーを一瞬でも夢見たワタシのが懲りなさ加減こそがいかがなものかということになるのだろう。とは言え、今にして思えばあれはアメコミ映画だったと整理はつくにしろ、これだからアメリカ人てやつは!と呆れ顔を誘った『ロッキー4炎の友情』でアポロを葬ることがなければこのサーガの命運も尽きていたわけだし、当時はと言えば敵役でしかなかった黒人のボクサーが主役を演じてアップデートされるとなれば、世界も少しは変わることがあるのだなあとあらためて識らされた気分の清新については間違いがない。スティーヴン・ケープル・Jr.という監督のシルキーでメロウなタッチがアドニスのノンシャランな倦怠にマッチし過ぎた点でボクシング映画の剣呑を削いでしまった気がしないでもないけれど、たおやかで静かな余韻を銃後の物語につかまえてみせた手腕においてその爪跡は文句がないように思う。
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2019年01月14日

蜘蛛の巣を払う女/急いで鼻で吸え

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ノオミ・ラパスを湯煎してアク抜きし、ルーニー・マーラに鉄分を補給したクレア・フォイのリスベット・サランデルは、普及版の親しみやすさと口当たりの良さは手に入れたものの、まるで鍛冶でもするかのように世界の歪みをたたきなおしてきた彼女の破壊的なハッキングは、それが彼女の世界とのつながり方でもあるのだけれど、ストーリーをジャンプさせるために仕込まれたマジックとして割といいように使われるものだから、ならばこれがリスベットである必要はあったのかと思い始めてしまう。バルデル(スティーヴン・マーチャント)の保護されたセーフハウスをそのために監視しているにもかかわらず、わざわざリスベットに目を離させることによって起きる殺し屋の侵入であるとか、アウグスト(クリストファー・コンベリー)のスマートフォンからあっさり位置を特定されたりであるとか、彼女のエラーによってサスペンスを発生維持するイージーもリスベットの普段使い感に拍車をかけることとなっていて、リスベットは完全にストーリーの奴隷へと成り下がってしまっている。本来、世界に一匹しかいないリスベット・サランデルという孤絶した生き物を観察することがテーマであるこの物語において、そうまで脚色して映画にしなければならなかった意図も意志もワタシにはまったく掴みかねたままだったのである。カミラ・サランデル(シルヴィア・フークス)にしたところで、グリッドデータ化された屋敷がカザレス(キース・スタンフィールド)による対物ライフルの狙撃を受けて形勢が逆転した時のあきらかに慌てふためいた表情は、感情の極北で生きるはずの彼女に似つかわしくない醜態にも思えたし、最期にリスベットと繰り広げる愁嘆場も当然何らかのトラップかと思いきや、あれで死んでいなかったとしてもPCを捨ててしまうのは往生際が良すぎるだろう、額面通り悲嘆に暮れるばかりの結末には、スティーヴン・ナイトがいったいどこまでメインで関わったのか疑わしくすら思えたのだ。クレア・フォイに罪はないとはいえジャンクフードとタバコを主食に生きる不健康なミニマルのBPMは光年の彼方に消えてしまったし、そしてなにより3代目ににして初めてオッパイを見せないリスベットを選んだ点に、マニュアルによる神経症的なギアチェンジを棄ててオートマのアクセルワークで走り抜けようとしたこの映画の、負け戦であることの分別とあきらめが透けて見えた気がしたのだった。カミラの策略に追い込まれたリスベットが、押し寄せる手下の男たちをたった1人で迎え撃つもその圧力に次第に押し込まれていくシーンは、リスベットがずっと唾を吐いてきた「大きなもの」に屈していく切なさが出色に思えたものだから、やはり監督はもう一枚映画を「脱がす」べきではなかったかと正式にケチはつけておきたい。
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2019年01月08日

シークレット・ヴォイス/喝采

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未体験ゾーンの映画たち2019

好きなドレスをどれでも一着あげるわ、とヴィオレタ(エヴァ・ジョラチ)に言葉をかけたリラ・カッセン(ナイワ・ニムリ)の、ドレスを選ぶヴィオレタを背後から見つめるその目つきにみなぎる異様な妖しさは、まるでヴィオレタがあのドレスを手に取るよう催眠術をかけていたかのようでもあったし、ヴィオレタはといえばあのドレスを選んだ瞬間その運命は既に仕上げられていたように思うのである。そもそもヴィオレタにすべての秘密を告げたリラの記憶はいつ戻っていたのか。母を失ったその時リラの前に現れた庇護者ブランカ(カルメ・エリアス)の退場は、YouTubeでヴィオレタを見つけた瞬間に決まっていたのかもしれず、ならば原題 “QUIEN TE CANTARA= Who will sing to you(あなたに歌うのは誰)”を物語に均してみる時、リラにとってのヴィオレタはかつての母の代わりに歌う人となったのは言うまでもなく、2人が邂逅したことで形作られていく円環の運命は次第にヴィオレタにとっての呪いへと姿を変えて、かつて秘密を守るためにリラが母親にした同じことをヴィオレタが娘マルタ(ナタリア・デ・モリーナ)にするのも最早必然でもあったのだろう。ただ、リラ・カッセンからヴィオレタ・カッセンへと生まれ変わったステージを見届けて劇場から立ち去るヴィオレタがあのドレスを着てひとり行う儀式の意味は、リラ・カッセンという運命への永遠なる忠誠というよりは、むしろその呪いからの逃亡であると同時に、打ち棄てられた夢や希望を喰いながら歌い永らえるリラという無自覚な怪物への鎮魂であったようにも思うのだ。前作でも押し殺したような映像の圧力を高めていた「目の力」はリラの虚無とヴィオレタのメランコリーを合わせ鏡のように増幅させて終始息が苦しく暴力的で、善くないことに向かってしかしそんなつもりは一切ない人がまるで祈るように歩を進めていく時に漏らす恍惚がこの監督の作品には満ち満ちているのだけれど、それが単なるペシミスティックに染まってしまわないのはそれらがすべて理性の結果として選ばれているからなのだろう。2+2=4という真実を4のみを描くことで実証していくアクロバットに陶然とした前作に比べ、今作は2=2という真実を入り乱れた2で実証する幻惑に徹したこともあって直打ちの即効性には対応していないけれど、カルロス・ベルムトという監督が映画=物語ること、というオブセッションに忠誠を誓っていて前作が気まぐれやまぐれの産物ではなかったことを逃げも隠れもせずに証明してみせた上に、およそ20年前完膚なきまでに心奪われた『アナとオットー』で虜になったナイワ・ニムリとの再会というダメ押しには歓喜すらしたし、彼女の演じるリラが一番好きな映画として挙げるのが新藤兼人の『裸の島』であるという、いったい誰にぐうの音を出させないつもりなのかも知らぬ書き込みにワタシはぐうの音も出ないままなのだった。
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2019年01月04日

彼が愛したケーキ職人/もっと甘くて苦いものを

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事故で夫を失った女主人の切り盛りするエルサレムのカフェに現れた一人のドイツ人男性が、ケーキ職人として店や人々の気持ちの中にそっと落ち着いていくも、果たしてその正体は?といった風に、彼の愛し方によるその素性を特異な答えとしてミステリーの針を振らそうとする素振りのない水平な語り口がとても誠実に思えるし、それよりは誰かを愛した瞬間に社会的かつ政治的な囚われの身となってしまう人たちの哀しみを湛えつつ、その哀しみの先に射すかもしれない光を何とかつかまえることはできないものかとこの映画は静かに歯を食いしばりながらその手を伸ばし続けていたように思うのだ。トーマス(ティム・カルコフ)は彼の知らなかったオーレン(ロイ・ミラー)の人生を肌で知ることで、アナト(サラ・アドラー)はオーレンのいない空虚の向こうにトーマスを見ることでそれぞれが喪失の傷を癒していくのだけれど、図らずもその道筋が語るのは、イスラエルに生まれたオーレンがユダヤ教の因習に苛まれながら人生を築いていかなければならなかったその苦悩ゆえの悲劇が彼を捉まえたということで、おそらくは息子オーレンの抱える屈託を知っていたであろう母ハンナ(サンドラ・サーデ)が彼の愛したトーマスに対し無言で理解を示すシーンには、劇中ではオーレンの兄、すなわちアナトの義兄モティ(ゾハール・シュトラウス)がその象徴なのだろうイスラエルの男尊女卑的なマチズモへの静かな抵抗をうかがわせているようにも思えたし、しばしばアナトが見せるモティへの反発なども知ってみれば、この(ほぼ)イスラエル映画が押し黙ったまま目をそらさなかった相手が何であったのかは言うまでもないだろう。イスラエルの社会と宗教による饒舌な抑圧に対し、言葉を解さない異邦人としてのトーマスが真摯な感情と誠実な行動でアナトやオーレンの息子イタイと交感して境界を越えていくあたりもその加勢となっている。誰一人心の通う人もいないエルサレムでオーレンの形見となった赤いスイミングパンツをはいてプールサイドにぽつねんと座るトーマスの、ただひたすら生地をこねてはそれを焼く日々を生きてきた人であるがゆえ、ハリウッド的なビルドアップとは無縁の作為のない無垢な輪郭をまとうしかない肉体の圧倒的な孤独が胸を打つし、ついには大きな子供のように泣いてしまう時の張り裂けるような哀しみがあればこそ、ミュンヘンを一人訪ねたアナトがラストでみせる表情の涼やかな孤独を受け入れたような決意が彼のみならず彼女の救いをも予感させるようにも思え、あえて茨のハッピーエンドを回答とした監督の意志と意図を石のつぶてと投げ込むことで巻き起こす波紋こそが、この映画が持ち得た美しい光の紋様ということになるのだろう。劇中でもトーマスがドイツ人であることがあげつらわれるのだけれど、こうした映画をイスラエルとドイツが合作することの反証性とその声は、映画の欠かせぬ骨子として耳そばだてつつ聞き届けておくべきだろう。すべての世界にバランスは関係する。
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2019年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

目減りする反射神経と想像力を手当たり次第かき集めて、なんとか今年もやり過ごせればなあと思っています。
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2018年12月31日

2018年ワタシのベストテン映画

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LUCKY ラッキー
女は二度決断する
ファントム・スレッド
ビューティフル・デイ
バトル・オブ・ザ・セクシーズ
寝ても覚めても
怪怪怪怪物!
マンディ 地獄のロード・ウォリアー
斬、
へレディタリー / 継承

観た順番。
『2001年宇宙の旅』や『恐怖の報酬』をリヴァイヴァルで観て、監督の怪物化した作家性を抜き身で解き放つことができた時代への畏怖は、もう二度と戻ってこない日々へのノスタルジーでしかないのだなと正式に思い知らされた気がした。しかし、今あらためて「The personal is political(個人的なことは政治的なことである)」と標榜するために新しい映画の言語が模索されているのは間違いないし、特にA24の映画はそのあたりを意識的に行っているようにも思える。だからこそ客もいっそう試されることになるのだろうし、「今の映画が70年代の映画と変わってしまったのは、今の観客が映画を真剣に受け取らないことが理由にあって、その低下は映画作家というよりは観客がそうしている(We now have audiences that don’t take movies seriously...It’s not that us filmmakers are letting you down, it’s you audiences are letting us down)」というポール・シュレイダーの言葉をベテランの感傷で片づけてしまうわけにはいかないようにも思っている。自戒をこめて。

では皆さま、よいお年を。
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2018年12月30日

シシリアン・ゴースト・ストーリー/あなたはもう死んでない人

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1993年6月、裁判官殺害容疑で逮捕されたシシリアン・マフィアのメンバー、サンティーノ・ディ・マッテオは暗殺の詳細を証言することで身分が保証される制度(アメリカにおける証人保護プログラム)の適用を申請し、その報復および証言の撤回を強要するためマフィアは彼の11歳の息子ジュゼッペを誘拐して拷問しつつ、陰惨な写真を送りつけるなどしながら779日間の監禁の後に彼を絞殺しその死体を酸で溶かして廃棄した。

ほとんど『悪の法則』である。ときおり人間がこうした行為の可能な生き物であることに理解が追いつかなくなることがあるのだけれど、その追いつかなさを埋めるために、この物語はマフィアが沈黙の支配をする世界に一人立ち向かい最期まであきらめようとしない一人の少女を事実に書き足すことで、大人たちの残酷で凄惨な謀略に弄ばれ命を散らされた少年へのレクイエムを、その強靭な想像力によって夢とうつつのあわいに溶かしては彼の魂を解放すべく奔走するのである。劇中でのジュゼッペ(ガエターノ・フェルナンデス)は初恋を知らせるため13歳に設定されていて、想いが通じたその日にジュゼッペが連れ去られてしまう少女ルナ(ユリア・イェドリコフスカ)は、世界のすべての不条理と不義に対し想像と空想、夢みる力を全身全霊で駆使しつつ闘いを挑んでいくこととなる。常識と非常識のがんじがらめで張りめぐらされた壁を突破するために彼女が緩めることをしないその想像力は、それを納めることで社会的なバランスを強いている人たちにとっては脅威となり、その力を狂気と置き換えることで柵から外へ出ないよう彼女の母でさえもが囲ってしまうのだ。実際のジュゼッペも、いつか誰かが自分を助け出してくれることを願いつつ、その誰かを夢想しては地獄のような日々をやり過ごしていたのではなかろうか。そしてルナはそうしたすべての願いと希望の結晶となって、いつしか遠くのどこかに囚われたジュゼッペに感応していくのだけれど、それが常に「水」を通して繋がっていくことの理由が明かされる終盤のあるシーンは、この映画が避けては通れない苛烈な真実を幻想と静謐のうちにしかし臆すところなく描き通していて、ワタシは瞬きを忘れてその一切を見つめるしかなかったのだ。波打ち際で新しい友だちやBFと笑い合うルナのずっと遠くで、豆粒のように小さなジュゼッペが気持ちよさそうに海に飛び込むラスト、解放されたのはジュゼッペの魂のみならず生き残っている人達でもあったことが浮かび上がってきて、想像力が現実の色合いを変えること、それこそが映画を撮る理由、映画を観る理由であることが謳われたように思うのである。パオロ・ソレンティーノ組のカメラでもあるルカ・ビガッツィがとらえる、透き通ったマジックリアリズムとでもいう儚くも生々しい映像が夢の純度を高めてなお忘れがたい。
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2018年12月28日

アリー スター誕生/世界にぶら下がった男

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ジャック(ブラッドリー・クーパー)が幾度となくアリー(レディー・ガガ)に言う「君はそのままでいい」といったような言葉は、これがスターダムに倦んだ男とスターダムに駆け上がる女の交錯が生み出す運命の光と影の物語であることを思えば、スターダムの虚飾に対するアンチテーゼからジャックにとってのアリーが始まったと見るのはたやすいし、それを裏打ちするかのようにアリーは父ロレンツォ(アンドリュー・ダイス・クレイ)と同居する実家の自室にキャロル・キングのアルバム(「つづれ織り」)ジャケットを飾っていたりもするわけで、観ているワタシもごく自然にアリーの目指すのはキャロル・キング的な自己実現なのだろうと思っていたし、ジャックの「君はそのままでいい」という言葉もアリーの容姿のみならず音楽のスタイルとしてのRAW&NAKEDを示していたように受け取ったものだから、それを互いが抱きしめあった2人の蜜月時代が音楽映画のエモーションとして最高潮であったのも当然ということになる。したがって、レズ(ラフィ・ガヴロン)のオファーにしっぽを振って飛びつくアリーに、私の面倒を見るのはあなた達でなくていいのかとジャック&ボビー(サム・エリオット)に気を使うこともなく、あるいは本当はそうしてほしいのにジャックとボビーの相克がそれを受け付けない悲しみが描かれることもないのにはなんだか拍子抜けしてしまったのだ。いまだ父親と同居しているという設定がそれを匂わせたりもするのだけれど、父ロレンツォのスターダムに対する憧憬といくばくかの屈託がアリーにスターダムを正解とする生き方を染み込ませてきたのも確かであっって、アリーという人の野心のありかがワタシには今ひとつピンとこなかったとなれば、彼女のスターダムへの駆け上がり方よりはジャックの階段落ちが映画を支配してしまったのもやむなしということになるだろう。ブラッドリー・クーパーについては、以前“そうありたくてもなれない自分への憐憫とその憐憫を餌に生きている自分に気づく程度には頭が回ってしまう哀しさの質で、この人は“〜くずれ”とでも言ったやさぐれ方がしっくりくるように思える“と書いたことがあったのだけれど、ここでの彼は既に何者かであることによりそのくずれ芸は封印せざるを得ないながら、メランコリーの目薬をたらしたかのような青い瞳の焦点をうつろに泳がせては、ストレートな転落芸を余裕のアレンジで演じきって圧倒的ではあるのだけれど、耳の病気や父や腹違いの兄との相克などあれこれパラシュートをつけてしまい転落のスピードが鈍ってしまったことにより、図らずも遠ざかるアリーのスピードまでもがスロウダウンしてしまった点で、この映画の自爆するセンチメントの爆風がいささかマイルドに収まってしまった気がしてならず、要するに誰もクズになりたがらなかったように思えてしまうのだ。そして何より、自分の愛するバンドやアーティストのライヴでフロントマンのガールフレンドにアンコールを務めさせるステージとか勘弁以外の何ものでもないし、それを美しい瞬間として受け入れるのは少しばかり難儀だなあと思ったのだ。ブルース・スプリングスティーンがパティに歌わせる、ポール・マッカートニーがリンダに歌わせる、といったアンコールを想像してみればそれなりに破壊的な状況であることが想像できるのではなかろうか。トム・ウェイツが無名のリッキー・リー・ジョーンズに歌わせたとしても果たして笑っていられるかどうか。
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2018年12月22日

マイ・サンシャイン/ぼくが殺した街、ぼくを殺す街

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ジェシー(ラマー・ジョンソン)が囚われた青春の蹉跌それ自体は、ロサンゼルス暴動が起きなかったとしてもいずれ彼を捕まえたかもしれず、あの時代のあの場所で彼や彼女たちがいかに薄氷の上で、ひとたびそれを踏み抜けば死まで真っ逆さまとなる日々をおくっていたか、ミリー(ハル・ベリー)という献身的で優秀なキャッチャーがいたとしてもそれが起こってしまうのが1992年のロサンゼルスだったということなのだろう。大人たちは良くも悪くも既に仕上がってしまっているし、分別とやらであきらめを知る方法もあるだろう、だからこそ未来の入り口に立ったばかりの子どもたちがそれを強要される醜悪や残酷を彼や彼女の代わりに私たちは、少なくともは私は語らなければならないと思う、というのがデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンの映画作家としてのマニフェストなのだろうと考える。したがって、ここでもジェシーやニコール(レイチェル・ヒルソン)、ウィリアム(カーラン・KR・ウォーカー)たちの屈託や焦燥は細やかかつヴィヴィッドに描かれていて、なかでも、若くしてミリーを補佐するキャッチャーとしての役目を背負い、法の正義を信じ暴力を否定し続けたジェシーを生贄として差し出す、その抱えた本質の重たさゆえに薄氷を踏み抜いてしまう悲劇の寄る辺のなさはデビュー作にして前作の『裸足の季節』に通底する視線であったのは言うまでもない。その一方、ミリーとオビー(ダニエル・クレイグ)という子どもたちのキャッチャーとなる大人についてはその役割以上の重さが与えられていないことで、彼女や彼が薄氷を踏み抜いてしまう人間であるかどうかがしっかりと描かれることがないまま、たどたどしいロマンスに終始してしまうのはどうしたことか。癇癪を起こしてはショットガンをぶっ放し、家具を2階から放り投げる男としてオビーは劇中では色づけされており、にもかかわらず姿が見えなくなった子どもたちがオビーの部屋にいることがわかった時のミリーがまったく警戒の色を見せないのは、彼の抱える屈託をミリーが正当に理解しているからこそなのだとしても、ワタシはそれを知る由もないし、ウィリアムが小さな子どもたちを万引きに駆り立て、盗品であろうTVゲームを家に持ち込んだことに対するミリーの反応が描かれていない点についても、あくまでもあのシークエンスをウィリアムと子どもたちの交情にとどめるのだとしたら、ミリーはそれら犯罪行為を許容範囲としてしまう人なのかと少しばかりモヤモヤしてしまうのだ。駐車場でのほとんど疑似セックスといってオビーとミリーのシーンにしたところで、オープンカーで地獄巡りを続けるジェシーとニコール、ウィリアムたちとのカットバックで天国と地獄を総取りしようと画策するも、前述したように大人2人のウエイトが足りていないせいで不発に終わった気がしてしまっている。果たして87分という短いと言ってもいい上映時間は監督にとっての何らかのチャレンジであったのか、オビーとミリーにそれぞれ5分づつ加えて(前作は97分)ウェイトを与えるわけにはいかなかったのか、おそらくは子どもたちへのフォーカスが散ってしまうことを嫌ったのだろうけれど、それが為されなかったことで映画の全体が散ってしまったような気がしてしまうし、前作に続いてニック・ケイヴ&ウォーレン・エリスの手による絶望と不安の中に差す光を慈しむようなスコアの沁み方に明らかなように、これがそういう映画であることがすぐ向こうに薄く透けているのが見えるだけに、大人たちの流す血も拭ってやることはできなかったのかといささか悔いが残る。何かに滑って足を取られたジェシーがそれは歩道を流れていく血であることに気づき、その流れを見やったその先で地面に突っ伏している死体に言葉を失い混乱にとらわれるシーン、戦場ではないいつもの街角で一人の少年の正気を失わせて追い込む手口の確かさと非情などみればなおさらそう思う。子どもたちの地獄は斯様にぬかりがないのだから。
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2018年12月20日

おとなの恋は、まわり道/泣くより簡単

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80年代半ばにこの世界へ囚われて以降、共に様々な喪失を経ながら四半世紀を生き延びてきた2人が、たとえば空港前のベンチに座るキアヌ・リーヴスがほとんど例の“ベンチのキアヌ”であったりするような、スクリーンの内外で語られる虚実を織り交ぜたある種のメタ構造といってもいい朴念仁とエキセントリックのミッドライフ・カップルを、イーサン・ホークとジュリー・デルピーからはほど遠い益体のないとしかいいようのない甘噛みの応酬の後で、そんな簡単に生き方は変えられないけど、ほんのちょっとした人とのつながりがあればなんとかなるもんだよね、というささやかでさわやかな幸せに着地させていて、ここには恋愛を定義するアフォリズムやひらめくような人生のヒントはないけれど、キアヌ・リーヴスとウィノナ・ライダーという2人の役者とスクリーンごしに歳を重ねて来た人間にしてみれば、肩をたたいて苦笑いさえすれば起きたことのすべてを肯定できるような気分にもなってしまうわけで、いつもはどちらかと言えばノイズですらある感情移入の罠に進んで捕らわれる心地よさは、ほとんど戦友に抱くそれに近いのかもしれないなと思ったりもしたし、そういう錯覚すらもむしろ好ましい、迷子たちが家へと帰るために手に手を取り合う真顔と笑顔がひきつった全身のロマンスをリバース・エッジでヘザースな貴方に。
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2018年12月19日

マダムのおかしな晩餐会/私はあなたのメイドではない

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まさかのロッシ・デ・パルマを泣かせては下層からの一発を誘うアイディアが秀逸で、本来なら黙っていても身を置くところなどない彼女の心身の厚みを身の置きどころのない感情で揺らしつつ、その身ぶるいが次第に砂上の楼閣を崩していく時のマリアが、ついには「たとえ私が、お盆にのせた紅茶をマダムにお持ちする人間だとしても、私にはマダムと同じ価値がある。なぜなら私たちは同じ人間なのだから」と言い放つスノッブ上等な足取りでアン(トニ・コレット)の元を去るラストの爽快なメランコリーが、その始まりからいかに遠くまでジャンプしてみせたかをてらいなく告げていたように思うのである。スタイルとしてはコメディで述べられている以上、マリア以外の人間は片っ端から滑稽なクズとして描かれてはいるものの、パリの浮き草として上っ面を漂うアメリカ人とイギリス人とフランス人に対するスペイン人移民という図式のそれなりな露骨に加え、男に寄生して成り上がるサヴァイヴァーとしてのアンにはかなりあけすけな筆使いでスノッブが貼りつけられるばかりか、奪った者はやがて奪われるという因果でとどめを刺すことすらも厭わず、しかしアンに彼女の言い分としての空虚を許すあたりの手綱さばきは、生粋のクズである男たちとそれに合わせて自身のクズを選ぶ女たちの哀れみまでも連れてきて、その辺りの真綿で首を絞めかけるようなチクチクするレイヤーは女性監督ならではの絶妙で巧妙な仕上げであったように思うのだ。マリアが初めてアンに正面から中指を立てるシーン、からくりを知らないマリアがデヴィッド(マイケル・スマイリー)の愛は真実の愛だとムキになるにつれ、「あなたがどうやって彼をたらしこんだのか知らないけれど、あなたは家政婦であって売春婦ではないでしょう?いいかげん身の程を知りなさい」とアンのボルテージも上がっていくのだけれど、かつてボブ(ハーヴェイ・カイテル)をたらしこんで奪い取った彼女にとってすべては人生をかけたゲームでありそのプレイヤーであるという本質が問わず語りに暴露されることになり、しかしそのゲームで彼女の犯したミスによって10年来の有能なメイドを失うと共に新たなプレイヤーによっていつしかボブも奪われていくのである。一方、それまでとは打って変わったシックな装い(アレではない黒いパンプス!)で歩いていくラストのマリアが手に入れたのは抑え込まれていた自尊心とプレイヤーとしての野心であり、それは夢物語ではないハッピーエンドをマリアが書き換えた瞬間であったようにも思え、監督が示したこの解放は現在のこの世界において非常にスマートかつアグレッシヴに感じられたのだ。ロッシ・デ・パルマと抜き身で渡り合うトニ・コレットの、神経を鞭のようにしならせて打ちすえる佇まいは今が彼女の黄金期であることを朗々と謳い上げているかのようだし、なにより長編2作目にして素晴らしい猛獣使いであることを証明したアマンダ・ステールという監督/脚本家の名前を記憶しないわけにはいかないだろう。緊張に耐えかねたような邦題はいまひとついただけない。
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2018年12月14日

暁に祈れ/もっとでもいいんだぜ

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ジョー・コール演じるビリー・ムーアによる自伝の映画化ということなのだけれど、ビリーがタイに来た理由や既に彼が身につけている荒廃の事情などバイオグラフィー的な背景がとくに語られることもないまま、彼が収監されたチェンマイの刑務所内に蠢く囚人たちの、入れ墨と薄ら笑いと罵声と怒声、殺した数や犯した罪、覚醒剤、闘魚、強姦、すなわち死ぬまでの暇つぶしがむせ返るように描かれていく。そんな中、緩慢に生への執着が断ち切られていく雑魚寝の無間に沈み始めたかに思えたビリーは、中途半端なボクサーで中途半端なジャンキーでしかなかったその生来の曖昧さがここでも彼を中途半端な死者にとどめたことで、生への執着が彼にムエタイという命綱を投げてよこすこととなるのだけれど、ただ、映画の惹句として“ムエタイでのし上がることに成功したイギリス人ボクサー”と語られた時の違和感が最後までぬぐえないのは、ビリーにとってのムエタイは刑務所内の地獄のカーストを這い上がっていくツールというよりは、剥き出しの拳を叩き入れ蹴りを打ち込み膝を突き刺し、剥き出しの肉体に叩きつけられる拳と打ち込まれる蹴りや突き刺さる膝によって、刀工が刀を鍛えるように自身の輪郭を形作っていく作業であったように思うのだ。ラストで誰にも見咎められず病室から抜け出したビリーが結局は戻ってきてしまうのも、高きであれ低きであれ中途半端ではないくっきりとした自身の輪郭を識ることで、あのまま逃げ出すことが自分にとっての自由ではないことに気がついたからなのだろう。この仏人監督の前作『ジョニー・マッド・ドッグ』でも感じた、悲しき熱帯的もしくはロバート・フラハティ的エクスプロイテーション(モンド映画ともいう)風味は相変わらずながら、そうしたビリーの成長というよりは変貌、もしくはビリーが勝った最後の試合のフィニッシュブロウが何であったかなど、今作では脚本から手を引いたこともあってだろう、それなりのドラマツルギーが書き加えられたことで映画としての救いは手に入ったように思うのである。(宗主国にとっての)辺境にしかリアルを見いだせない監督のスリルジャンキーが救われたかどうかはともかくとして。
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2018年12月13日

パッドマン 5億人の女性を救った男/きみはちっとも悪くない

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きみの笑顔が見たいだけさ、という幸福の追求がかくもアナーキーなシステムの更新を成し遂げる物語の、まずはその不幸なシステムが西暦2000年を過ぎて横たわっていたことに驚きはするものの、その笑顔を阻み続ける魑魅魍魎がいまだこの国を含めた世界中に跋扈している様は毎日嫌でも耳に飛び込んでくるわけで、ラクシュミカント・チャウハン(アクシャイ・クマール)が狂人扱いされればされるほどそれを促す側の狂気が浮かび上がっていく寓話の饒舌は、それら不幸で残酷なシステムの存在を笑顔で糾弾しているに他ならない。そうやって一念岩をも通すなぜなに坊やラクシュミが成し遂げたのはフェミニズムの革新がそのままフェアトレードのシステムを確立させていく弱者の産業革命ともいえるもので、そのドミノ倒し的な痛快と爽快こそは、この世界がそれをいかに待ちわびていたか、そして本来あるべきものが今までずっとそこになかったことの証ではあるのだけれど、劇中でラクシュミを率先して嘲り嫌悪するのが女性であったことや、彼女たちにそうさせる恥の概念を植えつけてきた歴史を考えてみた時、ラクシュミがパリー(ソーナム・カプール)のもとを去ってガヤトリ(ラーディカー・アープテー)のところへと戻る理由、すなわち、これからのインドの女性はもう泣かなくていいこと、生きるのを恥じる必要はないことをそれそれが目の前の1人に伝えるところから始めねばならないというその責任を観客に託していたように思うし、聡明に開かれたパリーが目に涙を浮かべながら言う「彼はこのままここにいたらつまらない男になってしまう」という言葉は、歴史の罪を負うべき人としての男性に向けたメッセージでもあったのではなかろうか。道化を演じるラクシュミの陽気なコメディの振る舞いはしばしば笑いの不発を誘っているように映るのだけれど、そもそもこの映画が奮闘しているのは笑えない状況を笑顔で伝えるその一点にあることを思い出してみれば、希望と絶望が交互するその泣き笑いの表情こそがこの映画の息づかいであり、彼を笑い飛ばせるほどワタシたちは無傷ではないことに次第に気づかされていくように思うのだ。ガヤトリの対照として在るパリーを演じたソーナム・カプールの、ジェニファー・オニールを思わせるモダンでスマートでしかしそれを嫌味としてはならない美しさがこの映画を一方で引き締めている。
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2018年12月11日

来る/まっかなケチャップになっちゃいな

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祖母志津(ヨネヤマママコ)の彼岸の人のような佇まいに、何しろここから始まるわけだからな!と予告篇のころから感じ入っていたこともあり、志津が夫に仕掛けた苛烈な復讐とその哀切な動機および、孫の秀樹(妻夫木聡)にまで祟り続けるその呪いがなぜ普遍であり得るのかというそれら一切がないものと脚色されていたことには少なからず驚いたというか落胆もしたわけで、それはおそらく「ぼぎわん」をその由来や姿かたちで語ることよりは、人の心の昏さが生み出すイドの怪物的に乱反射する思念の存在として描くことに決めた監督の采配によっているのだろう。映画の大半は秀樹と香奈(黒木華)の2人が自分たちの作り出した生き地獄に呑み込まれていく様を描くことに費やされて、ぼぎわんはその手続きとして存在するに過ぎず、それについてはおおよそ原作の構成を踏襲しているのだけれど、脚色されたぼぎわんに最低限必要となる失われた子どもたちの総体という記号に呼応するかのように、原作のある設定が180度変更された野崎(岡田准一)もまた自身の生き地獄に放り込まれることになる。前述した志津の復讐とその動機を一切カットしたのは、おそらく中島哲也という監督が既に死んでいる人間はもう死ぬことがないという理由によってその物語には関心を抱いていないことの表れで、もっぱら目の前にある生き地獄を捕らえては飼い慣らすことにのみ愉悦を見出しているかのようであり、もはや琴子(松たか子)とぼぎわんの最終決戦すらを省略する切り捨てにはそうまで自分に確信してしまうのかと恐れ入ったし、造り自体はドシャメシャではあるけれどそのあたりの脱構築はA24系を中心とするポストホラーの流れによって解釈可能にも思える。ではその生き地獄の味わいはどうだったかと言えば、妻夫木聡が自己啓発系ナルシストの凡庸な悪を虚ろな躁病の広がりで完璧に演じきっていてこの映画での最良だったし、そのネガとポジとして狙い撃ちした悪に陰鬱な作り笑いを貼りつけた黒木華は、例えば『永い言い訳』で監督に“シャツのボタンをいちばん上まで閉めている女性のいやらしさが欲しかった”と言わしめた爛れの全開に惚れ惚れと見とれるしかなかったのである。比嘉姉妹は共にシャープな造型でジャンルムーヴィーとしてのハレのバランスを豪腕で支えていて、終盤で琴子(松たか子)が繰り出すノーモーションの右ストレート一閃には思わず頬が緩んだりもした。とは言え、せっかく秀樹という極上のクズを妻夫木聡が仕上げたのだから、やはり原作で志津が秀樹に諭す「優しゅうしたりな、ずっと、面倒見たらなあかんで」「(女の人が)耐えてもええことなんかあらへんからな」という言葉に唾したその最上級の報いとして、秀樹はぼぎわんに屠られて欲しかったなあと思うのだ。そのとばっちりもあって、まさかのビルドゥングスロマンを背負わされた野崎も困惑したのではなかろうか。オムライスの国を知紗(志田愛珠)の経験値で描けるお山の表出としたバッドエンドは、雨が降ろうが槍が降ろうが正面切ることのできない監督の苦肉の策にも思えて心がなごむ。
posted by orr_dg at 21:00 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする