2017年07月20日

アリーキャット/下品なやつらに猫だましを

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オープニングのロングショット、アパートから出てくるマル(窪塚洋介)のスッと伸びた背筋に、違和感とまでは言わないにしろそこに丸めた背中の手あかじみたマイナスは見当たらず、その後でマルが薬を飲むシーンのタブレットからカプセルを押し出すやはりスッと伸びた手指のしなやかさとあわせてみる時、元ボクサーという設定からするとそれは少々?なところもあるにせよ、何より窪塚洋介という俳優の清潔な殺意とでもいう美しさが、貧してはいるけれど鈍してはいないマルという人間の浮世離れした空気を満たしていて、ここから先、窪塚洋介さえ見ていれば映画は勝手に転がっていってしまうのである。では映画自身がうまいことやったのはどこであったのかと言えば、それはリリィ(降谷建志)を、木暮修になつき倒す乾亨ではなく、何者かであるはずのあんたがこんなとこで何やってんだよと泣き笑いしながら蹴り上げるタメ口のフットワークに染めたところであったように思え、リリィと通じることでマルが現実にカムバックしていくその対等なコンビネーションによって、屈託をもてあそぶ自己憐憫をさらりとかわしたところが心地よかったのだ。したがってリリィに煽られてマルが殻を打ち棄てることで物語のギアが上がっていくことになるわけで、それは「おもしろいことおぼえてきたじゃねえか」と羽柴(火野正平)に言わしめた土下座によってピークとされたように思ったものだから、それをリリィとではなく冴子(市川由衣)ともう一度繰り返す瀕死の愁嘆場は蛇足であったように感じたのだ。基本的にはキャラクターさえ仕上がってしまえばあとはそのチャームを追うにまかせるといった感じもあって、サスペンスの骨組みや細部へのフェティッシュはわりと大味な点で微熱のままなかなか熱に浮かされるには至らず、冴子を捕えた南雲(高川裕也)の「殺しはしない、それ以外のことは全部やってやる」なんていうセリフに『マジカル・ガール』のトカゲ部屋などが頭に浮かんだりはしたものの、え?もうそこでズボン下ろしちゃうの?という芸の無さには少々がっかりしたのである。ただ、それには市川由衣のブラガード問題もあるわけで、例えばあの動画の状況でまだブラジャーをつけている無粋であるとか、どういう理由でかこの映画では隠してしまうんだなあという大人の事情もあったのだろう。ほとんどイメージキャラクターとなっている旧車(グロリア)であるとか、瓶コーラであるとかボクサー崩れであるとかいった昭和のくすみは、言うまでもなくこれが「傷だらけの天使」や「探偵物語」の嫡子であることを告げているのだろうし、衒いなくむき出しの感情をぶつけあったRAWな時代への憧憬を明らかにもしているのだろう。ただそれがノスタルジーの一助ではなく、この時代における新しい気分の突き抜け方として有効化されていたかというと、自ら進んで前述した嫡子のポジションに収まってしまった気がした点で、やはりワタシは“愛でて”しまう以外の愉しみ方をしなかったように思ってしまうわけで、できれば窪塚洋介と降谷建志というコンビの自由で独立した涼やかな矜持が吹かせる風にもう少しくすぐられてみたかったなあと、それは自分になのか映画になのか歯切れ悪く愚痴ってしまうのだ。
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2017年07月18日

しあわせな人生の選択/トルーマンの週末

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死を出し抜くために笑ってみせる男とそれを笑ってやる男の話には違いないのだけれど、2人の静かな泣き笑いが次第に歩調を合わせていくにつれ、すでに答えを出しているフリアン(リカルド・ダン)よりは、「友達が死ぬのは初めてなんだ」とつぶやくトマス(ハビエル・カマラ)が主人公であることに気づかされていく。トルーマンの行き先については何となくうかがえていたこともあって、あとはその儀式を待つだけかと思っていた矢先、マドリード最後の夜にトマスとフリアンのいとこパウラ(ドロレス・フォンシ)がホテルで行うセックスの、それまで押し殺してきた“生き残される”者の哀しみを互いに受け止め、泣きながら達するオーガズムは、その瞬間ひとり自宅のベッドで横たわるフリアンも、トマスもパウラも、人はみな最後には一人きりなのだという暗黙の了解を確かめ合う瞬間であって、それはこの映画でもっとも死の匂いがたちこめた瞬間に思えたのだ。その翌朝ホテルにトマスを迎えにきたフリアンが、一緒に階段を降りてくるトマスとパウラ、ちなみにトマスは妻帯者である、を見てその目に一瞬のうちに浮かぶ了解の徴とフリアンに対して悪びれも隠し立てもしない2人の毅然としたまなざしとで、3人は戦友のような連帯で繋がれたようにも思え、一言のセリフもない短いカットながら、受け入れた諦念の先で微笑むことを始めた3人の美しい病み上がりのような演技とそれを求めた監督の演出に、喝采と苦痛がないまぜで押し寄せてきて座ったまま立ちくらんだ気すらしたのである。フリアンの息子ルイス(エドゥアルド・フェルナンデス)との邂逅にしても、ある仕掛けによって感情のぶつけ合いとなる愁嘆場をかわすあしらいが実に巧みだし、この映画に通底する、悲しいから意地でも泣かないという人生への異議申し立ては、ひとえに人間の尊厳を見据えた生き方のなせるわざであって、それを可能にするのは最終的に勇気と寛大さであるというペシミズムあるいはシニシズムのうっちゃりに見る光は、ワタシの年代的な共感はともかくとして未来のヒントになるのは間違いないように思うのだ。犬(トルーマン)はあくまでも犬として不要なセンチメンタルで擬人化しなかったことで、逆に彼なりの哀切が滲んだのも毅然としてスマートに思えた。邦題はふんわりと説教臭くて野暮ったい。そもそも登場する誰かが「しあわせな人生の選択」をしたと本当に思っているなら冗談が黒過ぎる。どうしてもと言うなら「トルーマンのしあわせな人生の選択」とするべきだろう。
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2017年07月15日

バイバイマン/心ここにあらない

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『イット・フォローズ』であればセックスの回避で逃れることのできた呪いが、ここでは ”THE BYE BYE MAN” という文字を認知、あるいはその言葉を聴き取ることで生じた何らかの概念が呪いと化して当該者を殺しに来るわけで、それは要するにイデアであり、騎士団長がワタシを殺しに来るのである。ひとたびソレが植え付けられた者はそれを考えまいとすればするほどそのイデアに支配され、強迫観念に苛まれた日常は闇の只中へと暗転し、しかしそのことを誰かに告げた瞬間、その誰かもイデアに屠られることになる運命を知るからこそ、恋人にも肉親にも警察にも誰にも告げるわけにはいかなくなるわけで、そういった神経トラップはなかなかの新機軸だったのではなかろうか。前述した『イット・フォローズ』にあってここにないのはその回避の手段で、そうした意味では今作のプロデューサーが手がけてきた『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』『オキュラス/怨霊鏡』といったバッドエンドにカタルシスをぶちこむ厭味系ホラーの系譜に連なっていて、主人公が物語の帰結として解決してしまうことで矮小化されてしまう恐怖を恐怖のままにいっそうの自由度をあたえるパターンとしてプロデューサーはそこに可能性を見つけているのだろうし、ワタシもその点において彼の手がけた2作に昂奮したのである。ただ、ただである。今作についてはイデアに殺されるという極北のスタイルに腰が引けたのか、THE BYE BYE MANの実体に少しサーヴィスが過ぎたように思ってしまうわけで、圧倒的に良くないものが近づいてくる予兆としての暗闇を轟音で疾走する機関車のヴィジョンが秀逸だっただけに、いくらダグ・ジョーンズを仕込んだとは言えフードをかぶったノスフェラトゥ系の白塗りという既視感にはいささか興ざめだったのは正直なところだし、犬を連れた冥界の使者といえばすぐさま思い浮かべるだろう『ビヨンド』のエミリーが最小のメーキャップだけでなぜああまで不穏を醸したか、現実と非現実のあわいに蠢く者であるならやはり引き算の造型を狙って欲しかったと悔いは残ってしまう。そもそもTHE BYE BYE MANそのものが概念の感染者を殺してまわるというよりは、はたから見ればパラノイア同士の内ゲバによる殺し合いで終始する物語であって、陰惨な神経戦という意味では『CURE』ミーツ『ジェイコブズ・ラダー』を理想とすべきだったところを、正攻法のホラーマナーで取り組んでしまった手はずに問題があったということになるのだろう。とはいえ身の丈の先の火中に手を突っ込んだあげく火傷をするのはこのジャンルの勲章でもあるし、久しぶりにキャリー=アン・モスの獰猛な腺病質を美しく目にすることができたこともあって(物語にはまったく寄与していないけれど)、シアターNから歩道橋を渡って渋谷駅に意味もない早足で向かう時の、今日もつつがなくひと仕事を終えたという気分であったのは間違いないのである。
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2017年07月13日

ライフ/たまには先に死んでみたい

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※展開に触れています。絶望の中で光を放つ人間の尊厳を映したゼログラな映画ではありません。

カルヴィンの名付け親になったあの子の心中いかばかりとお察しはするものの、良くも悪くもそういう酷さにこそ絆されてしまうわけで、ならば同じ酷い目に遭うにしても、デニス・クエイドやノーマン・リーダスよりはジェイク・ギレンホールや真田広之がみせる決死の自己犠牲があっけなく徒労と化した方がより酷さの針が振れるのはいたしかたのないところで、特にラストのミランダ(レベッカ・ファーガソン)からほとばしる絶叫は、その絶望(アレが地球に行ってしまう!)×絶望(還るのは私よ!話が違う!)が突き抜ける天井知らずに正直クスッとさえしたのである。そもそもローリー(ライアン・レイノルズ)をオープニングヒットとする人の悪さは、キャストを見渡しては胸の内で格付けして生死のたかをくくる観客へのあてつけでもあるのだろうし、ハンディキャップを持つヒュー(アリヨン・バカレ)の善性に潜むうっすらとした利己性が事態を地獄化させる設定もそれなりに意地が悪く、ショウ(真田広之)に至っては家族愛がもたらすその犬死にがさらなる地獄を誘い、要するにみながみな悪手を打っては死んでいくのである。それはカルヴィン(仮名)のインテリジェンスが上回ることで悪手とされたことには違いないとは言え、いつもならどれほど絶望的な状況にあっても知恵と勇気とタフネスでそれを切り抜けてはそのラストで微笑んで見せる彼や彼女が無様に死んでいく姿にこそ昏い愉悦があったわけで、トップバッターとなったライアン・レイノルズのイカしたボロ雑巾のような死にっぷりだけでワタシはもう多くを求めるまいと思ったのだ。そしてまた、デニス・クエイドやノーマン・リーダス(しつこい)を出し抜くよりは、きらきらとスマートな乗組員を圧倒しつつ屠ることでカルヴィンの知的生命体としての株が上がっていくわけで、キャストによるはったりという意味でもエクストリームなB級魂が溢れんばかりだったように思うのである。そしてワタシたちはここに一つ、非常に重要な教訓を得ることになったのにお気づきだろうか。『プロメテウス』を思い出してみて欲しい。それは、眠っている宇宙人を無理矢理起こすとまったくロクなことにならないということである。オコストキケン、ナデタラシヌデ。
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2017年07月11日

ジョン・ウィック:チャプター2/すました顔してバンバンバン

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たとえばカラカラ浴場跡でジョン・ウィック(キアヌ・リーブス)とジアナ・ダントニオ(クラウディア・ジェリーニ)が交わす絶望と尊厳の交錯を銃弾一発で刻みつけるシーンなどみてみれば、ここをクライマックスにジョン・ウィックをローマへと向かわせ、ダントニオ姉弟の血の相克などからめつつ、姉ジアナを生かすことで弟サンティーノ(リッカルド・スカルマチョ)を排除しジョン・ウィックがサヴァイヴするドラマを演出することも可能だったにちがいないにしろ、それがジョン・ウィックの物語なのかと言われればそうとは思わない、と監督、脚本家、そして主演俳優は即答したのだろう。言ってしまえば、ジョン・ウィック(めんどくさいけどフルネームで呼ばないとしっくりこないでのでしかたがない)がヘレンと過ごした日々こそが一時の気の迷いともいえるわけで、そのヘレンも、ヘレンの仔犬も、ヘレンと過ごした神経症的ミニマルな豪邸も失った今となっては、ただひたすらに撃ち、投げ、刺し、蹴り、抉り、轢くことでしかジョン・ウィックの実存は為し得ないということになる。そして彼の無敵は自分のいる場所が修羅であることすら内省しないクロームメッキされた鋼鉄の矜持が可能にしていることを思えば、伝説のペンシルキラーたるジョン・ウィックの真の姿は今作にしてようやくその端緒を開いたように思うわけで、瀕死のジアナにたった一発叩き込んだヘッドショットのメランコリーだけでジョン・ウィックに関するドラマは充分満たされたように思うのだ。そもそもがこの映画に流れる浮世離れして非現実的な時間は、これらが神々の戯れであるがゆえの退廃と倦怠であることによっていて、雑踏と人混みの中で取り巻く人々にまったく流れ弾が当たらないのもそれが埒外の人々であればこそ至極当たり前ということになるし、我々が神の怒りにふれた時に何が起きるのかを描いた前作からの流れとしては非常に有能かつ有益な展開に思えたわけで、天上を追われた神の物語となるであろう次作が、壊滅する天上に斃れる神々の黄昏となることを期待してやまないのである。弾を撃ち尽くした拳銃すらを敵に投げつけて武器とする一方で、バワリー・キング(ローレンス・フィッシュバーン)から授かった拳銃はマガジンが空になったあとも棄てずにベルトに差しておくわけで、そんな風に狂躁の中で美しく静かな感情が微笑む瞬間があるかと思えば、地下コンコースにおけるカシアン(コモン)とのすまし顔の銃撃戦などその洗練がほとんどギャグの域に達する瞬間すらもあって、その豊潤なガンアクションの愉悦に“神は銃弾”という言葉が頭をかけめぐったのであった。ジョン・ウィックのシャツの襟ににじむ汗染みならぬ血染みもルビー・ローズの殺意に満ちたヒップラインも、昏くひそやかに息づいて神々の紋章のようだった。ただ、撮影用のプロップカー(まさか実車じゃないよね)とは言えあの神々しい1969年型マスタングBOSSがジャンクと化すシーンだけはどうにも心が痛んで仕方がない。
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2017年07月07日

ディストピア パンドラの少女/ミート・イズ・ノット・マーダー

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邦題の「ディストピア」も「パンドラ」もあくまで人間の側からみた場合のそれであるだけで、原題(”THE GIRL WITH ALL THE GIFTS”)に思いを馳せつつこの映画を観てみれば、これはメラニー(セニア・ナニュア)をシーザー(=アンディ・サーキス)とする創世記の第一幕ということになるのだろうし、肉食への渇望を抑え込むための理性が、解き放った欲望を支えるための理性へとかわっていく変遷を、メラニーの苦悩ではなく彼女が世界を認知していく喜びと驚きで描いていく物語の後半は、一人の少女が自分が何者なにかを知っていくビルドゥングスロマンとして、それはとても端正かつヴィヴィッドな足取りで描かれていたように思うのである。ネコ可愛いけど食べちゃおう、おいしい、うっとりのくだりや、浮浪児軍団との闘いにおけるボスを狙って潰しにかかる知恵と一切の逡巡なしにバットで撲殺する獣性のコンビネーション、グレン・クローズ相手に「わたしって生きてる?」「生きてるならどうして人間のために死ななきゃならないの?」と一歩も退かないタフネス等々、セニア・ナニュアがみせる縦横無尽八面六臂の活躍もあって、このジャンルにおいては久しぶりにアイディアそれ自体に昂奮したのだ。それはもちろん、バディ・コンシダインやグレン・クローズといった手練れたちが消えゆくもの(=人間)のメランコリーを背景に染め上げたゆえでもあるのだけれど、あらゆるものが植物化していく廃墟はどこかしらバラードが描く破滅世界の佇まいもしのばせて、明るい終末とでもいうラストのグロテスクかつチャーミングな着地には思わず笑みすら誘われた。ナチュラルメイクだとほぼマッツ・ミケルセンと化すジェマ・アータートンのユニセクシーなミリタリーセーター姿も望外の眼福。
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2017年07月05日

ありがとう、トニ・エルドマン/笑ってもっとベイビー

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始まってまもなくのバナナで思わずレナード・コーエンが頭に浮かんで、自家中毒的なナンセンスじゃなくて事態を無効化するたぐいのナンセンスならいいなあと思って観ていたら、グローバル経済の先兵と化した愛する娘イネス(ザンドラ・ヒュラー)に対し、思わず口をついて出た「お前は人間か?」という言葉に落とし前をつけるべく、イネスの世界に出没しては弛緩して間もへったくれもないギャグをうんざりするくらいしつこく延々と、味のしなくなったガムを噛み続けるがごとくかまし続けたあげく、どうせすべては“ごっこ”みたいなもんだろ、だからユーモアを忘れたらだめだよと、ウィンクしながらヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)は見切れていくのである。ただ、主役はあくまでもイネスであって、「お前はいったい人間か?」と言われれば「そう言われても仕方がない」と醒めた目で返すハードボイルドは、フェミニズムなど歯牙にもかけずマチズモの原理と合理で蹴散らすエコノミックカーストにおいて彼女が選んだ処世術ではあるのだけれど、クラブのソファに沈み込んだイネスの頬を伝う涙は、いつの間にか自分がどれほど遠くにまで漂ってしまったのかを父との邂逅によって知らされた彼女が自身の孤絶を思ってこらえきれなかった一滴であり、例のホイットニー・ヒューストンのくだりにおいて、父がイントロを弾き始めた瞬間のイネスがみせる「マジでそれやるのか?!」という表情からすれば、この父娘にとって "GREATEST LOVE OF ALL" は何かしらのテーマソングであったのかもしれず、ここから巻き返したイネスは自身の誕生パーティで文字通り裸一貫の再生を告げることとなる。しかしこれが通り一遍で語られる喪失と再生の物語に落ち着かないのは、イネスがヴィンフリートを自身の日常へと連れ回すことが彼にとっての地獄めぐりへとなっていくことも描いているからで、すべてを笑い飛ばしてきたヴィンフリートが石油掘削の現場でどれだけ慌てふためいたか、娘のオーヴァーキルが父親を霞を食う善人としてしまう残酷さすら厭わない醒めた視点があればこそ、そこをかいくぐった先の確かな手ざわりに沈んでいく心地よさに互いの呵責がなくなっていくように思うのだ。わが子の目をさますのだという傲慢でも、結局はいつだって父が正しいのだという卑屈でもなく、この娘にしてこの父あり、この父にしてこの娘ありという過去と未来の交錯する場所を今日として生きるのだという足元への着地を示すラストで、カメラを取りにいったまま戻ってこない父親を待つでもなく入れ歯を外して一人立つイネスの、楽観と悲観の、執着と無頓着の、タフとメロウのその真ん中で、わたしは“ごっこ”を誠実に生きていくことにしたのだと告げる表情のやわらかなニヒルは、たとえば台風一過の日差しの中、屋根の吹き飛んだ自分の家を眺めながら、命あっての物種だしと誰かと言葉をかわしつつ停電した冷蔵庫の中で溶けおちたガリガリ君にはせる想いのように、懐手で本質を手なずける人のそれに映ったのである。そしてまた、イネスのセコンドにつくことは、永年連れ添った愛犬ウィリーを喪ったヴィンフリートにとっての喪の仕事でもあったのだろう。ファルハーディには申し訳ないが、こちらの方がオスカーに近かったようにワタシは思った。
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2017年07月01日

セールスマン/無知の痴

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開始早々、夫妻の住む部屋の壁に入った亀裂の禍々しさがこの物語の行く末をとっくに告げてしまっている。そもそも隣接する敷地の工事が原因なのに、それに対する抗議も補償も求めることなく新しい住居を淡々と探す姿には、既に身についた社会システムへのあきらめと不信が見て取れて、それは事件に関して警察の介入を頑なに拒否する妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)と、夫エマッド(シャハブ・ホセイニ)の自警的行動へと導いていくようにも思える。夫妻が属するアマチュア劇団は「セールスマンの死」の上演をひかえ、エマッドはウィリー・ローマンを、ラナはウィリーの妻リンダに配役されており、アメリカンドリームの終焉を父権の喪失に二重写しにしたこの戯曲をイランという社会のフィルターを通してどのような解釈を図ったのか劇中では不明で、当局の検閲をクリアしていないと語られる箇所が思想的あるいは風俗的な部分なのかは明らかにされていない。ただ、ウィリーの浮気が息子ビフの前で露見するシーンの稽古中に、浮気の現場であるにも関わらず女性ががっちりとコートまで着込んだ姿のままであること(当然規制によるものだろう)のバカらしさに相手の役者が吹き出してしまうわけで、イラン社会とその慣習が禁忌なものとして秘匿する女性性のアンバランスは、“進歩的な”劇団員たちによってそんな風にあげつらわれるてはいる。しかし、知識人を自負し進歩的な考えを持ってそのアンバランスを相対化しているかのようなエマッドですら(生徒にフェミニズムを諭すタクシーのエピソードを思い出してみればいい)、自身の日常に爪を立てられることで無意識のマチズモをあらわにしていくわけで、そうやってラナとの間に生まれていく亀裂は冒頭で予告されたとおりあらかじめ存在していたに過ぎない。してみると、過去を夢想し時代と意識の変化から目をそらし続けることで社会から取り残されていくウィリー・ローマンは、彼を演じ棺におさめられたエマッドと、その同じ時間に小部屋に閉じ込められていたトラックの男(ファリッド・サジャディー・ホセイーニ)への投影にも思え、知識階級であろうと労働者階級であろうと等しく身勝手な社会を形作ってきた者たちとして、最後まで顔も姿も見せることのない名も無くいかがわしき女によって叩きのめされ弾劾されたということになるのだろう。ただ、これまで描いてきた社会と自身とが二重に掛け違えたボタンで窒息していく男女の機微からすると、補助線としての劇中劇「セールスマンの死」が構造をキメ過ぎたようにも思えてしまい、特にトラックの男を引きずり込むための為にする展開は少々策に溺れた気がしないでもなく、目的としては最後まで自分を復讐の気分に駆り立てたものの正体に気がつかないエマッドの悲劇を据えるはずが、最後に鏡像同士をぶつけ合うことで悲劇の質が曖昧にぼやけてしまった点で、キャリアの更新には至らなかったなあというのが正直なところだったのである。知識階級が彼方から墜落する話として何となく『隠された記憶』を想い出したりもしたのだけれど、忘れがたく切実な自害をワンカットでみせたあの男はトラックの男の娘婿と同じマジッド=Majidという名であった。
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2017年06月28日

ハクソー・リッジ/ぼくのかんがえたせんそう

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自分がしていること、しようとしていることは人殺しのサポート以外のなにものでもないにも関わらず、食べ物を地面に落としても3秒以内に拾えばきれいなまま!的なルールのごとく、銃に触りさえしなければ僕は汚れないのだ!と謳うマイルールに殉教するデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)を主人公とする『フルメタル・フォレスト・ガンプ』としては、文句なしに充分な娯楽を提供してもらったのである。若干の悪い種子的な子供時代を経て、『サイコ』のアンソニー・パーキンス的爽快の不穏を身にまとって以降、終始デズモンドは共感の遠くにいた人なのだけれど、銃を不殺の十字架とするに至ったフラッシュバックシーンにおいてのみデズモンドはこちら側の人としての感情を爆発させていたわけで、それは唯一彼が理解可能な人間らしく見える瞬間だったのだけれど、してみるとデズモンドはこの時の衝撃によるPTSDとして、以降は夢見るような退行に引きこもってしまったように思えるのだ。そうやって他人の感情を斟酌せず自らの感情に忠誠を誓う快感に耽溺するその姿は、たった一度会って一目惚れしたドロシー(テリーサ・パーマー)にその翌日、結婚を申し込むのだとめかしこんではちきれんばかりの笑顔でくるくる回る薄ら寒さにおいてホラーであり、常軌を逸した人だからこそ常軌を逸した行為を可能にしたのだという至極凡庸な予定調和をその後はみ出すことはなかったのである。とは言え、銃をとれば救えたであろう仲間の命を神に捧げてこそデズモンドの殉教が真に試されたことになるわけで、実話に基づくとは言え、その点において決定的な追い込みが足りていなかった点に、強迫ドラマのマエストロとしてのブランクがうかがえてしまうのはやむをえないところか。切り株丸太のゴア描写は目に麗しいものの、『プライベート・ライアン』で見た糸の切れた人形のダンスからするとやはり振り付けられた踊りの段取りが透けてしまい、それは結局死の軽重にもつながっていたようにも思うわけで、あくまで戦争の無効化ではなく日本軍の無効化においてのみデズモンドがヒーロー足り得ることを、最終的には隠すことすらしなくなっていくのである。だからこそ異物たる日本兵は落ち武者のように貧弱で痩せこけた猿のようであってはならなかったのだろう。でも我が兵は地下壕でいったいなに食ってたんだろ?
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2017年06月27日

ジーサンズ はじめての強盗/怒った奪った笑った

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まずは腕試しにと3人が万引きをはたらいたスーパーの店長キース(キーナン・トンプソン)は、まあいつかはオレも年をとるし今回は大目に見るからもう勘弁してくれよってな風に物分りの良さを見せて、ああこれはそうやって善人であふれる映画だもんなとほのぼのさせておきながら、後になって彼がFBI捜査官ヘイマー(マット・ディロン)に爺さんたちの情報を交換条件付きであっけらかんと注進する食えなさには一瞬おいおいとは思うのだけれど、そもそもこれが弱者(有色人種と老人、店長キースは黒人である)が強者の白人システム(銀行&FBI)をコケにすることでささやかなクオリティ・オブ・ライフを手に入れようと奮闘する映画であることを思えば、キースのしたたかさこそもまた祝福されて然るべきなのである。そうした弱者の一撃としてのダイバーシティ包囲網が、文字通り命がけのピカレスクとしての苦みを薄めた嫌いはあるにしろ、今の時代にリメイクする企図として、我々はいっそうしたたかであれ!というエールを贈ると決めたセオドア・メルフィ(『ヴィンセントが教えてくれたこと』&『ドリーム/hidden Figures』の監督&脚本)の脚本が、このガンコで洒脱なケイパームーヴィーの勝因となったのは間違いがないところだろう。いつもは映画のマジックが年齢を消し去っているモーガン・フリーマン(80歳)、マイケル・ケイン(84歳)、アラン・アーキン(83歳)の3人がそろって老人っぷりを競う贅沢な可笑しさとそして若干のせつなさは永遠にも行き止まりがあることを言葉少なに告げて、夕暮れが静める日差しの穏やかさは何ものにも代えがたい時間であった気がしたのだ。カートに乗ってはしゃいでいたのは特殊メイクをしたジョニー・ノックスヴィルではないのだから。
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2017年06月23日

ドッグ・イート・ドッグ/カーヴを曲がると永遠が見える

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始まって間もなく、マッド・ドッグ(ウィレム・デフォー)は自らの不埒とデタラメを元カノにぐうの音も出ないほど責め立てられ(言うまでもなくこの時点でとっくにおクスリ注入済みである)、当たり前だが申し開きができる余地など毛じらみのサイズすらあるはずもないマッド・ドッグはそれがただただ悔しくてたまらず、ほんの一瞬泣きべそのような表情をしてみせた後に、アンクルホルダーから抜いたナイフを一閃し盛大な逆ギレに転じる。そしてそれを目撃した元カノの娘を2階に追ったマッド・ドッグは慣れた手つきで枕をサイレンサー代わりに少女を撃ち殺すのである。さすがに直接的なヘッドショットのシーンはないにしろいきなり差し出される名刺代わりの子供殺しに、この先どういう筋を立てていくつもりなのか行く末を案じたりもしたのだけれど、映画はそれをまったく引きずることもないどころか、むしろその殺戮の昂奮を落ち着かせないことしかアタマにないその後の道行きだったのである。そこまでされれば鈍いワタシもさすがに気がつくわけで、デオドラントされた世界にスポイルされたワタシが鈍らになっていただけなのだ。物語は、行って帰ってこなければならない、その時何かを獲得しなければならない、その代わりに何かを失わねばならない、そして何かを気づかねばならない、それらを観客にも分け与えねばならない、そうした“ねばならない”にがんじがらめになっていたのはワタシの方だったのであり、それを何とか伝えようとマッド・ドッグとトロイ(ニコラス・ケイジ)とディーゼル(クリストファー・マシュー・クック)の3人が物語を解体する返り血でドロドロになりながら、鼻歌で冥府魔道を歩いて行く姿の神々しさにワタシは頭を垂れるしかなかったのだ。ポール・シュレイダーがやはりニコラス・ケイジと組んだ前作『ラスト・リベンジ』が“ねばならない”に窒息して行き倒れてしまっていたことを思い出してみれば(それはそれでその転び方が愉しいのだけれど)、好き勝手に圧縮と解凍を繰り返すことによる酩酊がもたらす“ねばならない”からの解放は、誰よりもポール・シュレイダーが突きつける現状へのファックサインだったのだろう。マッド・ドッグが2度めに(そして人生最後の)泣きべそを見せた直後、その意味すらかき消すべく反響する自分の撃った発射音に悶絶するディーゼルの姿こそ、この映画が底を踏み抜き続けたニヒリズムの集約だったようにも思え、そしてラストに配される、おそらくは今際の際にあるのだろうトロイが見る霧に包まれた幻想シーンの『雨月物語』オマージュと、そこではなぜかハンフリー・ボガートの口調を真似て喋り続けるトロイの姿も相まって、オレは「映画」を撮りたいだけなんだというポール・シュレイダーのつぶやきが静かに沁みわたっていく気がしたのである。なんだか、ルメットが『その土曜日、7時58分』で突然前線に復帰した時を思い出した。この傑作に試されるべき。
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2017年06月22日

アイム・ノット・シリアルキラー/ぼくがひとりでいるところ

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※いささかネタバレ。まあポスター見れば気づくけど、念のため。

父親のいない家庭で姉も家を出てしまい、母と2人互いの屈託をくすぶらす16才のジョン(マックス・レコーズ)は、などと書いてみれば、ジョンがかつてマックスだった頃の映画を当たり前のように思い出したりもするわけで、そのラストにおいてボクたちはみな最終的には一人なんだと独立宣言をすることによって世界に参加したはずのマックス(当時8歳)は、孤独の淵をのぞき込み過ぎたせいなのか何なのか、中西部の名もなく寒々しい小さな町でソシオパスであることだけをよすがに16才の日々をそれなりにやり過ごしていたのである。そんな性向のマックスに、でも親子の絆は大事よねと生家の葬儀場で死体処置を手伝わせる母エイプリル(ローラ・フレイザー)もたいがいなのだけれど、セラピストのネブリン先生(カール・ギアリー)の、まずは自分がヤバイやつだってことをアタマに叩き込むところから始めようぜっていう愛あるカウンセリングもあってか、いじめっ子に向かって「オレはソシオパスって正式に診断されてるんだよ、そういうオレにとってお前はただの段ボールみたいに退屈な存在なんだよね、でも退屈な段ボールだって切って開けてみたら中に何か面白いもんが入ってるかもしれないだろ?だからお前がそうやってオレにくだらないこと言ってる間、オレはお前を切って開けることばっかり考えてるんだよ、でもそんなこと実際にはしないよ、そういう人間にならないよう、そういう時は笑って何か気のいいこと言って済ませるルールをオレは自分に課してるんだよ」なんてジワジワくる啖呵を切れるくらいには片隅でバランスをとっているわけで、この映画の“冷たいくらいに乾いた(cdip)”心地よさはそうしたジョンの造形によるところが非常に大きいように思う。劇中でただ一度だけジョンが直接的な暴力をふるうシーンがあるのだけれど、その突発性と暴力直後にとった行動の振れ幅からすれば、果たしてジョンが胸をはるほどのソシオパスであるのか、まだその境界でふらついているだけのようにも思うのだけれど、肝心なのはソシオパスという鎧によってジョンが日常を持ちこたえているという現状なわけである。そうやって七転八倒するアドレッセンスからの通過儀礼をあてにしないからこそ、クローリーさん(クリストファー・ロイド)との異種格闘技戦に向けてジョンを急場しのぎで仕上げる必要もないわけで、ジョンの孤独だけれど確信に満ちた戦いが最終的には親子の共同戦線につながって、ついには母との絆もよみがえってめでたしめでたしという麗しき家族愛で着地すらするすまし顔は、ジョンが“成長”し、性向が“治った”からこそのハッピーエンドでない点において爽快かつ痛快だったのである。空の広さに覆われた町の“冷たいくらいに乾いた(cdip)”空気をロビー・ライアンによる16mmフィルム撮影が終始とらえ続け、ざらついた粒子に定着するマックス・レコーズの張りつめた端正が映画を最後まで真顔のままつなぎとめることにすばらしく手を貸している。まったく触れてこなかったオチというかクローリーさんの正体はそれなりにちゃぶ台を返すけれど、あれで映画全体が少しだけファンタジックに浮きあがるわけで、ジョンの冒険譚としてはむしろ正解。相手が何であれジョンに人殺しをさせたら、この映画は負けだから。
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2017年06月19日

パトリオット・デイ/死んで花実を咲かせましょう

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イラクでもアフガニスタンでもなく合衆国本土で繰り広げられるオーヴァーキルとサーチ&デストロイは、ほとんど戦争映画といってもいいだろう。そうした意味では、発砲音や爆破音のノイズサウンドとしての快感をより追求しブラッシュアップしてみせた『ローン・サバイバー』といってもいい。そして、実録モノであるにもかかわらずトミー・サンダース(マーク・ウォルバーグ)という架空のキャラクターを狂言回しにすえて本来複数の警官の持つエピソードを一人に集約することで、タスクフォースとしてのリズムを巧みに躍動させているし、『ローン・サバイバー』ではあまりにも馬鹿正直に描いた組織(シールズ)愛のために鼻白んだマッチポンプ的なヒロイズムの失敗を教訓に、徹頭徹尾被害者としてのメランコリーを全面に打ち出すことで追う者に全権を委任する手さばきは格段にスマートになっていて、3人の容疑者以外のすべての人々は善良で無辜な合衆国国民として、通常であれば憎まれ役のFBIでさえ特別捜査官リック・デローリエ(ケヴィン・ベーコン)にバランサーとしての弱気までも色づけてみせるのである。そうやって実在の人々についてはあらかじめの輪郭からはみださないよう注意をはらう一方、ドラマのポインターとして、たまたま爆破現場の近くにいるトミー、たまたま妻を巻き込んでしまうトミー、たまたま市街地の監視カメラの配置からアングルまですべて頭に叩き込まれているトミー、たまたまウォータータウンを一人巡回するトミー、といった架空のトミーが走り回るわけで、とはいえ終盤で問わず語りに意味のよく分からない善悪問答を唐突に語らせるあたり、さすがにこれでは少々薄っぺらが過ぎるという自覚はあったのだろう。劇中では木偶と化した実在の登場人物について、ラストで本人を登場させることによって命を吹き込む手口すらもピーター・バーグは嬉々として自らの刻印としたかのようにも思える。しかし、政治的宗教的大義名分の衝突を周到に回避するため、このテロリズムがジハードであることを矮小化する手続きにおいて、犯人タメルラン・ツァルナエフの妻キャサリン(メリッサ・ブノワ)を取り調べる尋問者(カンディ・アレキサンダー)の、まさに『4デイズ』のサミュエル・L・ジャクソンそのままの登場がこの映画の隠しきれないキナ臭さを一瞬ぶちまけてしまっていて、ワタシにとってはここがこの映画のピークとなった。だからといってピーター・バーグが右からの愛国者かと言えばそういうわけでもなく、おそらくは労働倫理としての殉職にフェティシズムを抱いてしまうだけであって、それはキャスリン・ビグローの隊フェチのようなものなのだろうと今のところは考えている。
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2017年06月18日

ゴールド/金塊の行方、そしてあきれるほどの行方

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『ダラス・バイヤーズクラブ』『ニュートン・ナイト』に続いて、変則の矜持を抱えたアウトローの自爆がアメリカの躁病的な勝者総取りのシステムを蹴り上げる異形のピカレスクを、ここではハゲ散らかしたブリーフ一丁の山師としてマラリアの熱に浮かされたマシュー・マコノヒーが熱帯雨林の熱情でギラギラと塗りたくってみせる。下敷きとなった実話はなにしろグレーな部分が多いようなのだけれど、劇中では特に叙述トリックを駆使していたようにも思えないから、負け犬のタッグが世界を手玉にとった話として額面通りに受け取っておけばよいのだろう。そうすることでケニー・ウェルス(マシュー・マコノヒー)のみならずマイケル・アコスタ(エドガー・ラミレス)の屈託までもが鈍色の花を咲かすことになるわけだし、ケニーを利用できるだけ利用しつつ、しかしその友情と意気を裏切ることはしなかったマイケルの一発逆転には、「いいか、俺が執着してるのは金(マネー)じゃないんだよ、俺が執着してるのは金(ゴールド)なんだよ、それは違うんだよ、まったく違うことなんだよ」というケニーの呪詛が連なっているように思うのだ。そしてこれもまた「手ざわり」のオミットを合理ともて囃すレーガノミクスアメリカへの逆襲ということになるのだろう。それにしても、バスローブにブリーフというコンビネーションの殺傷能力はほとんど発明にも近いのだけれど、それもこれも絶妙に緩んでたるんだ(太ってしまってはだめなのだ)アールで輪郭されたマシュー・マコノヒーの肉体があればこそで、その完璧な三位一体でケニーが誘うベッドに辛抱たまらんと飛び込むケイ(ブライス・ダラス・ハワード)のティファニー丸出しな昭和ルックがこちらも完璧にしつらえられていて、この映画が向かう洗練の方向はこのシーンにまるごと集約されている。まあ、オレンジ・ジュース(「リップ・イット・アップ」)が高らかに鳴らされた時点でとっくに勝ちは決まっていたにしろである。ピクシーズ、ニュー・オーダー、ジョイ・ディヴィジョン、テレヴィジョンとかウチから持ってったTDK AD60のMIXED TAPEかと思った。
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2017年06月16日

20センチュリー・ウーマン/拭けないケツならしまいなさい

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アビー(グレタ・ガーウィグ)との「これはなに?」「レインコーツよ」「彼女たちは自分が下手だってわかっててやってるのよね?」「そうよ」という真顔のやり取り、トーキング・ヘッズとブラック・フラッグとのセクト主義的対立への呆れ顔、そしてカーター大統領の「信頼の危機」演説への喝采などなど、ドロシア(アネット・ベニング)の、あくまで自分の手ざわりを信頼した生き方、というかそもそも私が私であるということはそういうことでしかなく、それは同時に他の人間が持つ手ざわりを尊重することでもあって、そうした生き方の自然で無意識の徹底が、周囲にはフリー&イージーかつラディカル、あるいはジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)に言わせれば時代遅れの“大恐慌世代”に映るのだろう。したがって、定量化されるアメリカの憂鬱を嘆くジミー・カーターの演説にドロシアただ一人が賛意を示したのも、手ざわりまでもが定量化されていく世界へのメランコリーがそうさせたように思うのだ。しかしそうした時代のうつろいをただネガティヴに否定する悪癖をドロシアのスマートが許すはずもなく、ジェイミーの後見人になってくれないかというアビーとジュリー(エル・ファニング)への一見したところ突飛な申し出は、自分にはフィットしないけれどジェイミーが避けて通れないものの見方を伝えるためのきわめて実際的な考えによっていたのだろう。たった一人クラブに足を運び、踊りさんざめく若者たちを夕暮れのような穏やかだけれど悲しげな目で見やるドロシアのシーンには、切なくすらある彼女の真摯が見てとれる。アビーとジュリーの2人ともそれぞれが母親との関係を傷ませていて、それをドロシアが知っていたのかどうかわからないけれど、あてにしたのはそれと折り合いをつけて生きている彼女たちが醸すタフネスなのだろうし、アビーによるジェイミーへの“イズム”の教育に烈しい口調で注文をつけたのも、教えて欲しいのは他の誰かの考えではなくて、悲しい時には踊るのだ、といった風なあなた自身のことなのだから、という気持ちでいたからなのだろう。しかしこれは、ジェイミーのビルドゥングスロマンの体を借りつつ、実際のところは、そうあって欲しい15才のアメリカ人少年を彼に投影することで自分の手ざわりをあらためて確認する3人の女性達の物語であるわけで、「セックスすれば友情は終わるわ」と目の据わった美少女に言い放たれる15才の童貞にワタシは心の底から同情したのだ。清志郎ですらがどん底の放蕩を経ることで “セックスのつながりさえ無ければ、本当はきっとうまく行くにちがいない。ずっと調子よく空想なんか必要なく、空想よりもっといい所で暮らせるのさ”という言葉にたどりついたことを思い出してみれば、15才の苛酷な試練を我がものとせざるを得ないのである。この映画にあふれる清潔な悪意、清潔な皮肉、清潔な怒り、清潔な嫌悪、清潔な絶望の「清潔」は血と汗と涙と鼻水をぬぐわれ漂白されなおへばりつく感情であり(まさにトーキング・ヘッズだ)、言ってみれば初期衝動を突き抜けたポストパンクの「ポスト」であって、ブランク・ジェネレーションが成熟していく80年代がここから始まり、やがてジェネレーションXと呼ばれていくわけで、良くも悪くもバランサーとしての批評性という宿命を背負った世代の萌芽がジェイミーに見てとれる気がしないでもない。それはエゴが量り売りされる時代で、そうすることでみんな世界を手なずけた気になっていくのである。カーターはまったく間違っていなかった。
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2017年06月13日

怪物はささやく/死ぬのがきらい

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13才の少年がたった一人、拳の中に想像力だけをにぎりしめて寄る辺のない世界と対峙する時、「想像してくれよ。そこがたとえどんな、ひどい場所だとしても。君は君の力でどこへでも行ける。瞳をあけたまま、宙をみつめ。」と歌う浅井健一の息を切らした歌声が聴こえた気もして、そもそも映画を観るということはそういうことではないのかと今さら思ってみたりもするのだ。自分の中にある光と影を、愛と憎しみを、真実と嘘を、そしてそれらに引き裂かれて自罰と他罰の傷を刻み続けるコナー(ルイス・マクドゥーガル)に「わたしが来たのはお前の母親を治すためではない、お前を癒やすために来たのだ」と語りかけるモンスター(リーアム・ニーソン)が最後にはコナーをどこに導いたのか、モンスターを生み出し、呼び出し、送り込んだその想像力こそがコナー(ルイス・マクドゥーガル)と最愛の母(フェリシティ・ジョーンズ)を永遠につなぎとめる絆であることが明かされるラストで、これが少年のイニシエーションのみならず母から息子への最期にして至高の愛情を伝える物語であったことが告げられて、この原作にJ.A.バヨナが惹き寄せられた理由がより親密な手ざわりとなって伝わったように思うのだ。それは残された時間がないことのあらわれとしてなのか、人は善悪の両義性によって世界の広大を感知し生きる存在であることを語り、それを知ることでコナーが4番目の物語へとたどりつく道筋の荒々しさは、そこを歩むのが13才の少年であることの痛切と相まって相当に胸が苦しいのだけれど、それはおそらく自分の近しい人が死に向かっている日々の絶えずどこかで轟音が鳴り続けるような感覚への接近ゆえなのだろう。しかしそうやって死の忌避感を乗り越えていくことで、母と息子の絆三部作の掉尾を飾る作品として、バヨナは少年が一人歩き出す未来を光の中に託してみせたにちがいない。ルイス・マクドゥーガルは、例えばニコラス・ホルトのように、ある日突然羽化した姿で現れてため息をつかせてもまったく驚きはしない可能性に充ちている。リーアム・ニーソンは素顔で一瞬カメオとして、しかしその意味合いからすればすばらしく素敵なアイディアとして登場していて、この物語の大きな救いの一つとなっている。
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2017年06月11日

夜に生きる/酔っても顔に出ないだけ

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※展開に触れています

原作未読。まず言ってしまうと、ベン・アフレック演じるジョー・コフリンの無粋な肩幅と、鉄面皮というよりは起き抜けのようなポーカーフェイスのせいもあって、彼には夜に生きる人の躁病的な倦怠が宿ることはなくむしろ睡眠が足りずボーっとしている人として終始しているし、ベン・アフレックの几帳面すぎる演出もあって、『L.A.ギャングストーリー』や『欲望のバージニア』と同様に淡々とエピソードを重ねていくシノプシス的な陥穽にはまっていないこともないのだけれど、その両者がコスチュームプレイに作家性の余白を塗りたくることに気を取られて躓いていたことを考えると、ベン・アフレックの愚直な攻めは当時のスピードとして存外にマッチしていたように思うのである。その結果、A型フォードのカーチェイスをモダンなアングルでとらえるスリルやトミーガンによるファナティックな銃撃戦はスクリーンサイズならでのは昂奮がずっしりと腹に響くし、1920年代フロリダにおけるギャングとKKKの激突やファンダメンタリストとの交錯はエルロイ的なノワールのカオスが垣間見えたりもして、禁酒法時代アメリカの歴史絵巻としては至極眼福だったのだ。時折エル・ファニングのようなイレギュラーにハッとさせられたりはしたものの、キャラクター自体は灰色に記号化されたボールとして予想通りにストライクゾーンを出し入れするにとどまっている。しかし、1930年代のギャング映画でジェームズ・キャグニーやハンフリー・ボガート、エドワード・G・ロビンソンたちがヴィヴィッドだったのはそれが同時代的なアクションを見せていたからで、そのメンタリティを忠実に再現すればするほど現代との差異が輪郭となって浮き上がってしまうのはしかたがないことなのだろうし、その点においてベン・アフレックのスクエアな演技プラン(だとすれば)自体は妥当なはずなのである。とは言えやはりベン・アフレックの適役はあくまで弁慶であって、『ザ・タウン』のグルーヴを生んでいたのは義経としてのジェレミー・レナーであったことを思い出してみれば、ベン・アフレックが義経を演じたこの映画がスウィングしなかったのは当然の結果ということになるのではなかろうか。また、演出として一つ致命的に思えたのは、精神の正常を失したアーヴィング・フィギス(クリス・クーパー)がコフリン宅を銃撃するシーンで、誰もが忘れていた過去の負債を突発的に支払わされるからこその悲劇であったはずなのに、わざわざその直前に錯乱したフィギスのカットをインサートして、皆さんお忘れかもしれないのでおさらいしておきますが、こういう男がいたことを思い出しておいてくださいね、ここ重要なのでテストに出ます、と念押ししてしまうのだ。実生活ではいろいろと底の抜けてしまう男が、いざ監督として映画を撮るとなるとこうやってしゃちほこばってしまうのは、ベン・アフレックの映画芸術に対する忠誠の証しであるのは間違いないにしろである。粋は血であって努力すればするほど逃げていく。哀しいけれど。
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2017年06月08日

LOGAN / ローガン&チャールズ・カム・アラウンド

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自覚なく高速道路を逆走する高齢者ドライヴァーのごときチャールズ(パトリック・スチュワート)と、彼を介護するために誇りを捨て意に添わぬ仕事で日銭を稼ぐローガン(ヒュー・ジャックマン)が夢見るのは、金を貯めクルーザーを手に入れて大海原に閉じこもる日の陽光であり、老いよりも何よりもまずはこの「酒とクスリの日々」の鈍色に塗りつぶされた姿に胸が衝かれてしまう。かつて、きみたちは「人間もどき」であると同時に「人間以上」だけれど、その何よりも前にまずは「人間」でなければならぬと説いたチャールズと、不死を呪いと受け止めたローガンの体に忍び寄る肉体と精神を共に覆う老いの変調はまさに人間そのものの宿命でありながら、ミュータントと人間の共存というチャールズの抱いた美しい野望が地に落ちた世界にあっては「人間もどき」には安らかな老いすら許されないのだという絶望的な終末感に、ああこの2人はおそらく死んでしまうのだろうと嗅ぎつけることで、次第に最終回ならではの奇妙な昂奮が宿り始める。あらたなミュータントの存在を感応してどこかしら狂気じみた光すら宿して昂奮するチャールズ、制御できずに暴走したメンタルブラストでなぎ倒した罪なき人々の中を、ああ私のせいなんだ、すまないすまない…、と泣きながら車椅子で走り抜けるチャールズ、自分たちが災厄を呼ぶ存在であることからふっと遠ざかりぬくもりを欲しがったことで「人間」の一家惨殺を引き寄せてしまうチャールズ、といった、すべてを始めた男への負債の突きつけ方は思いのほか容赦がない。しかしその手続きのおかげで、その後繰り広げられるローガンとローラ(ダフネ・キーン)による殺戮の道行きを浄化されたセンチメンタルで彩ることが赦されていたように思うのだ。今際のきわにローガンがローラに語りかける「もうおまえは戦わなくてもいいんだ、やつらの思い通りに生きる必要なんてない」という言葉は、ローガンがついぞ誰からも言ってもらえなかった言葉でもあったわけで、それはローガンが「そして父になる」ことで血の通った言葉として受け継がれることになるのだけれど、ワタシはその腑に落ち方よりはやはり、チャールズの物語としてユートピアの終焉を突きつける「ぼくたちの失敗」の取り返しのつかなさに心を揺さぶられてしまうのだ。それはすなわちローラに向けたローガンの言葉の不毛を裏打ちしてしまうことにもなるわけで、チャールズの“たったひとつの冴えたやりかた”が朽ちてしまった未来にあって、あの少年少女たちが誰も傷つけることなく生きのびていくことの困難さに思いを馳せてしまうのだけれど、森を過ぎ国境を越えて消えていく子供たちはミュータントというよりも真にマージナルな存在に思え、『シェーン』から引用することでローラに「一度人を殺した者はもう後戻りはできない。それが正しかったとしても、人殺しの烙印は消えることがない」とまるで自分たちへの戒めのように語らせておきつつも、チャールズもローガンも子供たちも誰もいなくなってしまったその後で、「不正をはたらく者には不正な者として、正しい行いをする者には正しい者として、心の汚れたものには汚れた者として、彼は映るのだ」とジョニー・キャッシュに歌わせることで、死んでいった者には鎮魂を、生ある者には救済を与えてみせて、ワタシは清冽な笑顔すらあふれる綺麗で気持ちのいい葬儀に参列した気分だったのだ。それだけに、最後に歌詞の字幕をケチったのが何とも残念に思えて仕方がない。
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2017年06月04日

皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ/そろそろ殴ってもいい頃

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ヒーローとヒロインが結ばれる場面とは到底思えない試着室での凍てついて荒んだセックスで感情は底を打つも、まだエンツォ(クラウディオ・サンタマリア)はそのことに気がつかない。ようやくにして自分が失い続けてきたものを彼が知るのは救った子供の母親に全身で抱きすくめられた瞬間で、人はみなそれぞれが誰かにとっての大切な手ざわりとなって生きていくのだと教えてくれたアレッシア(イレニア・パストレッリ)を失った慟哭が、彼を自己犠牲の獣へと変貌させるのであって、トロマもかくやというトキシック・ヒーローの右往左往に、まさかそんな風にしてザンパノとジェルソミーナの聖性が宿るとは思いも寄らなかったのだ。前述した試着室でのシーンを物語のターンとする寄る辺のなさは、今となってはアメリカのスーパーヒーローが容易には持ち得ない底辺からの視点によっていて、ヴィランたるジンガロ(ルカ・マリネッリ)の実存の狂気でも世界征服の野望でもない、俺様を蹴飛ばし続けてきたムカつく世界の転覆にただただ焦がれる切実にはある種の純粋さすらを感じたわけで、これが重苦しいビルドゥングスロマン一辺倒に沈まなかったのは、このピカレスク的痛快によるところが思いのほか大きい。自己犠牲など欺瞞に過ぎないのではないかという自家中毒を発症したアメリカのヒーローたちにとって、この映画は彼らの失われたイノセンスとして憧憬と郷愁を誘いすらするのではなかろうか。今作にしろ『マジカル・ガール』にしろの、サブカルチャーとしての衒学ではなく物語の強度を支える柱としてのアニメ(『マジカル・ガール』の場合は架空アニメだけれど)に託されたのは、物語を信じろ!という祈りにも似た叫びであり、それを誰よりも叫び続けているのがシャマランであることは言うまでもない。そしてラストで示される、物語を引き受けるゆるぎのない意志は『ダークナイト』にも匹敵し、もしくは彼が光と闇の一体化を突き抜けたにおいてそれを凌駕したようにすら思い一瞬血が逆流したのである。もはやつべこべ言わず正面から突破する時代であることをワタシたちは知らねばならぬ。
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2017年06月02日

映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ/共謀しようそうしよう

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自由になりたい、自由になれない、どうすれば自由になれる?東京で生きるっていうことはこのどれか、あるいはその全部に目をつむることだ。と書いてみる字面の青臭さをそのまま青臭いとは言わせない、その切羽づまった息づかいさえ伝わればもうそれでいいという潔さだった。デラシネと書くとそれなりだけれど、浮き草であり根なし草である。そうやってただ東京にしがみついているだけのお前らがなぜそんなに笑ってられるのかと罵倒する美香(石橋静河)の不機嫌と、あらかじめ半分しか視えない世界の残り半分を言葉で埋め尽くそうとする慎二(池松壮亮)の焦りとあきらめのないまぜが、泳ぎ続けなければ死んでしまうサメのように止まらない饒舌で絡み合っていくことで、日雇い人夫とガールズバーでバイトをする看護師の、キスやセックスの手を借りないまるで同志愛のようなラブストーリーがほとんど奇跡的に成立している。人の手が作る大量の弁当、レンジ食品が並ぶ家族の食卓。片隅で身を寄せ合うだけのコミューンがさらに片隅の誰かを追いつめる。そうやって記号化され無効化される温もり、のような言い訳。どれだけ有効求人倍率が上がろうと消費支出がマイナスなのは、強食すらいない弱肉弱食の見事なからくりのせい。それらを説明するのではなく、むしろ説明しないための言葉を宙に浮かせておく間の悪さは当然計算ずくだろう。それを綱渡りのように細やかな緊張で行ってみせるからこそ、あのストリートミュージシャンの歌う紋切りソングには落胆してしまうのだ。あの歌の「がんばれ」にまとわりつく自己弁護のようなナルシシズムは、必死の相対化によって世界からの流れ弾をかいくぐる美香と慎二の対極にあるものだし、だからこそ美香と慎二はあの人売れないよねと合意したのだろう。ワタシにはあれもまた記号化された温もりとしての「がんばれ」としか思えないからこそ、ストリートミュージシャンの一発逆転はむしろ美香と慎二に絶望を突きつける証左となるはずで、ならば2人の顔に浮かんだ救いのような明るさはそれにそぐわない気がしてならないし、ラストでのおはよういただきますに関するくだりも、それまで弾幕のように撃ち続けてきた言葉のアナーキーを一気に矮小化してしまう気がしたものだから、蛇足!と思ったのが正直なところで、美香と慎二のみならず映画もまた、自由になりたい、自由になれない、どうすれば自由になれる?とあがき続けていたのは間違いないにしろ、最後の最後で物語に頼ってしまったことでそれまでの酔いが醒めてしまった気もしたのだ。石橋静河は、怒り出しそうな、泣き出しそうな、笑い出しそうな、そういう助走の瞬間、いったんすべて同じ表情になる先の読めない緊張感が、言うまでもなく貶しているのではない、スリリングでずっと目を離せなかった。そして池松壮亮が初めてバカリズムに見えなかった。

都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。

きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい。


詩集から引用されるこうしたモノローグがガンさばきのように散りばめられる中で
「ワキ汗かいて気にして、わたし生きてる/目を逸らして、いつもの作り笑顔/みんな同じでしょ/ここは東京/でも頑張れ/頑張れ」
こういった自作の歌詞をしかもメルクマールとしてインサートしてしまう監督の意図はやはり理解しようがないけれど、それがアクシデントだったとしても想像を超えた立ち上がり方をしてしまうのが映画の面白いところなのだなあとあらためて思わされた次第。
posted by orr_dg at 00:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする