2019年07月21日

GIRL/ガール〜飛ぶのが重い

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映画が始まるとすでにヴィクトルはいなくなっていて、かつてヴィクトルだったララがいかにして自分の真の姿と向き合い、バレエを生き方と発見し、それらのすべてについて周囲の理解を勝ち取ってきたのかは一切描かれておらず、この家族における母親の不在についてすら知らされることもないまま、バレリーナへの夢と性別適合手術に向けて足どりも確かに歩き出したララの揺るぎのない眼差しに彼女がまだ15歳の少女であることを忘れてしまいそうになる。とはいえララを見守る人たちはその眼差しを信じるしかないのだけれど、父親マティアス(アリエ・ワルトアルテ)も担当医師もカウンセラーもバレエ学校のクラスメートも知ることのないララ(ヴィクトール・ポルスター)の姿を、ワタシたち観客だけは誰もいないバスルームや彼女の部屋でひとり在るララの時間を共有することを許され、というよりは求められ、そこでは彼女の男の子として裸身はともかく、前貼りで真っ赤にかぶれた下腹や寝起きの朝立ちまでも知らされることとなる。そうやって準備された監督の視点によって、みんなは私を外から見て今でも充分に素敵な女の子だ、ゴージャスだとほめそやすけれど、まっ平らな胸や朝立ちだってしてしまうペニスを見てもそう言えるのか、あなたは思春期を楽しみなさいと言うけれど、私がどうやってその入口に立てると思うのか、心の底では内面は外面が連れてくることをあなた方は疑いもしないくせになぜ私には内面を先に求めるのか、とララが誰にも告げることのない不安と苦悩と苛立ちをほとんど暴力的といっていい圧力で共に体感していくことを求められるのだ。それらララの混乱は、すべての感情を肉体のフォルムで表現するバレエの修羅へと本格的に足を踏み入れることで、肉体の変容というオブセッションをさらに加速していくこととなる。とは言え、もしもターンしていてバランスを崩したら肩を前に入れなさい、そうすれば止まるから、という教師のアドバイスにうかがえるバレエの即物的なメカニックからすれば、あんな風に下腹部をテープで固めていたら繊細なコントロールのノイズにならないわけがないことくらいワタシのような素人にも瞭然だし、バレエが求めてくる肉体の書き換えに応えねばならないという焦燥が底なしに焚きつけるトランスジェンダーとしての彷徨によって彼女はあの選択へと追い込まれていったことを思えば、向かいのアパートの一室で行われる男女の交情を、今の私は実際のところあのどちらなのだろうと物憂げに眺めるララが、自分にとってペニスがどれだけ「他人」であるかを確認するため同じアパートの少年に行うオーラルセックスのシーンは15歳の聡明が行き先知らずに暴走する切なさが窒息しそうなほどに溢れて、ここまでずっとララの秘密を逃げ場なくぶちまけられてきたワタシたちにしてみれば、ララのたどり着いた結論にしたところで、来るべきものが来たという覚悟をそっと引っ張り出すだけでよかったことにさほど驚きもしなかったのではなかろうか。それは冒頭のピアスとの円環という容易さすらも可能であったのだから。それよりもワタシは、(髪を)切ったララがワタシたちを正面から見据え颯爽と歩いてくるラストショットの、もうこれからはあなたたちに用はないと言わんばかりの笑顔が、それをにわかには受け入れがたい気がしてしまったのも確かなのである。ところでバレエはあなたの捧げ物に満足してくれたのかなと。15歳のトランスジェンダーの絶望など知ったことではなかったあのバレエが。それくらいこの物語はバレエに借りがあるように思うものだから。
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2019年07月17日

さらば愛しきアウトロー/サンダンス・キッドの冒険

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いつものようにひと仕事を終えて首尾は上々といった足どりで銀行を出てきたフォレスト・タッカー(ロバート・レッドフォード)の顔が、その次の瞬間にはどこかしら焦点の合わない昏さをその目に湛えてみせて、それはおそらく、追わせるために逃げ、逃げるために追わせる、その終わりのない繰り返しの中でしか安寧を得られない人が染まったオブセッションの色であることがだんだんと描かれていくことになる。仕事仲間とは言えテディ(ダニー・グローヴァー)やウォーラー(トム・ウェイツ)とタッカーが根本で異なるのは、タッカーには彼らのように人生のセンチメンタルにペシミスティックが沁みていない点で、永遠の繰り返しの中に生きるタッカーは囚われる過去をもたないことで失くしたものや捨て去ったものへの執着から自由でいられるのだけれど、それはすなわち様々な選択が生む責任とそれが促す成長を拒否することでもあるわけで、ジュエル(シシー・スペイセク)がタッカーに訝しげでありながら惹かれてしまうのは片っ端から枷を捨て去ったがゆえの彼の軽みが、どこかしら人生の浮力をつかんだ人の身のこなしにも映ったからなのだろう。してみるとそれは、ポール・ニューマンとの邂逅によってまるで自分の役割を定めたかのようにサニーサイドのリベラルを演じ続けてきたロバート・レッドフォードという役者がまとい続けたた善性の香りそのものだったようにも思えるわけで、同じ脱獄ものでも『暴力脱獄』と今作では依って立つところが天と地ほども違っていることにもそれは明らかだし、過去においてパトカーに追われるタッカーが駆っていたのが、そのラストで永遠へと溶けていった『断絶』でジェームズ・テイラーとデニス・ウィルソンが駆っていたシボレー150(タッカーのはセダンだったけれど)であった点で、どこへも行かないことを選んだタッカー=レッドフォードの微笑むような諦念があのシボレー150によってそよぐように晒されていたのではなかろうか。孤独や孤絶を不可侵の魂が放つ光ととらえてきたデヴィッド・ロウリーの描くアメリカは、サバービアからさらに遠くその日なたと草の匂いにはワイエスの光と影が宿りつつ、しかしそこに透けて見えるのは血の気の失せたエドワード・ホッパーのアメリカでもあるわけで、そうした両極が互いを憧憬することで生まれるメランコリーがこの映画の隅から隅までを埋め尽くすことで、何を撮っても撮るそばから「アメリカ映画」になってしまうその感情のデザインはまるで彼の敬愛するロバート・アルトマンのそれにも思えて、その「アメリカ」と「映画」を全問正解し続けた多幸感に酩酊しっぱなしだったのだ。このアメリカをワタシはずっと知ってきた。
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2019年07月14日

ゴールデン・リバー/明日に向かって磨け

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人殺しも夢想家も人殺しの走狗も横並びになって互いを見やる、あの一時あそこにあったのはウォーム(リズ・アーメッド)の唱えたユートピアの萌芽であったようにも思えたし、となればそれを台無しにしたチャーリー(ホアキン・フェニックス)の暴走は、ウォームがダラスに夢見たユートピアがいずれ塗れたにちがいない崩壊の予兆であったということになるのだろう。ラストでイーライを包む至福の満足感は、提督(ルトガー・ハウアー)が勝手に死んでくれたこと、チャーリーがもう銃を持つことがなくなったこと、メイフィールド(レベッカ・ルート)から奪ったあれやこれやで仕事を引退できそうなこと、そしてなにより母親だけがいる家に帰ってこられたこととこれからは毎日好きなだけ歯を磨いて暮らせること、それはすなわち、他人がよく言う自由という言葉の意味が生まれて初めてわかったということなのだろう。チャーリーが人殺しを嫌がるのは道徳とか倫理とかいうよりも、誰かを殺すとそいつの親父や兄弟や友達につけまわされてこんどはそいつを殺さなきゃならなくなってきりがないんだよ、という単純に自由が阻害されるからに過ぎないのだけれど、社会的な生き物としての成長は、実は思索の教育よりも実用性の解決によって促されるのかもしれないなと、白人と非白人、暴力と非暴力のクラスが交錯して生まれる真空に漂う彼らを見て思ったりもしたのである。即席のメンターとなるウォーム以外のモリス(ジェイク・ジレンホール)とシスターズ兄弟は、間接的/直接的な父殺しを果たしてきたつもりがいまだ父親の亡霊に苛まれ続ける子供たちで、アメリカ映画『マッドフィンガー』をリメイクした『真夜中のピアニスト』や『預言者』でそれぞれに父殺しを描いたオーディアールにとって、アメリカを外から覗いて見た時、父殺しの病的なオブセッションとそれが育てるマチズモこそがアメリカの呪いであり約束であることをあらためて発見せずにはいられなかったのだろう。ここでは提督の死が父親の完全で正式な死を象徴していたのは、棺の中の提督にイーライがせずにはいられなかったある行為に明らかであったように思うのである。新しい人としてオーディアールが最後に選んだのがウォームではなくイーライであったのが、まるでアメリカに対して非アメリカ人がしのばせるすべての愛憎を代弁したかのようでもあって、こんな風にそっと抱きしめたくなるような柔らかくて傷みやすい西部劇がいまだ出番を待っていたことに何だか呆気にとられてしまった。世界を更新するのは銃弾ではなく歯磨きや水洗トイレなのだ。
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2019年07月11日

凪待ち/新しいきず

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冒頭でカメラが川崎競輪場の建物をとらえた瞬間、ショットが平衡を失したようにぐらっと傾いて何だこれ?と奇妙に思っていたら、その後で木野本郁男(香取慎吾)の胸の内にギャンブルの魔が差す瞬間になると、彼をとらえたショットがやはり同じようにぐらっと傾くわけで、その失した平衡が石巻の海の水平と対照して描かれることによって、かつて傾いていた者と今なお傾き続ける者がひとたびの水平=凪を求めて交錯していく姿の喪失と再生を、それを香取慎吾の置かれた実人生に重ねるなら重ねてみればいいという、開き直りと言うよりは一種瑞々しくすらあるふてぶてしさで監督は描いていく。どれだけ血と泥にまみれようと性根のところが汚れていない郁男を、日本の湿り気ではなかなか染まらないデカダンスの色で描く目論見を白石監督は香取慎吾から得たのではなかったか。罠にかかった野生動物が血を流しながら暴れる姿の倒錯した美しさに手が届く瞬間がいくつかあったようにも思えたし、美波(恒松祐里)が郁男を庇護者と選び続けるその理由が大きな子供としての郁男の感応にあったのは言うまでもないだろう。元SMAPの彼らを映画でさほど見かけているわけではないのだけれど、例えば『十三人の刺客』の稲垣吾郎や『中学生円山』の草なぎ剛など、ビジネスとして成熟とピュアネスの同居を矯正されてきた者が持つ彼岸の軽味はプロパーな俳優にはまとえない風情であって、正直に言ってしまえばこの映画は香取慎吾のそれだけをあてに撮られた気もしていて、やはりそれに近い武器を持つリリー・フランキーとのがっぷり四つがもたらす浮世離れの居心地の悪さとそのスリルは邦画の新しい風景であったようにも思えた。ところで、郁男の置き手紙なのだけれど、彼が書き出す時のクロースアップに見えるそれと書き終えた手紙の筆跡が異なっていて、やけに達者な筆跡の手紙に置き換えられてしまっているのが少しばかり興ざめに思えてしまった。書き出しの筆跡が香取慎吾本人のものかどうかはわからないにしろ、懸命にたどたどしいそれは郁男の書く文字としてとてもふさわしいように思えたのでなおさらそう思う。再生を謳ったその後で、傍目には凪いだ海の底にいつまでもある喪失の記憶を、それを忘れかけたワタシたちにいま一度焼き付けるエンドクレジットがこの映画の静かで毅然とした品格を告げている。
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2019年07月10日

COLD WAR あの歌、2つの心/向こう側からずっと

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国を棄てる約束をしたあの日あの時、なぜ君は現れなかったのかとヴィクトル(トマシュ・コット)に問われたズーラ(ヨアンナ・クーリグ)が、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」と答えた瞬間、COLD WARという言葉の予めが一度そこで散り散りとなり、これが前作『イーダ』のラストにおいて、世界が自分を騙し打ちしていたこと、しかしそれは自分の無知がそうさせたこと、そしてその無知を安寧とする世界に身をゆだねていたことへの自分と世界に対する怒りを胸に、かつて自分の家であった修道院へと荒ぶる歩を進めるイーダの修羅を受け継いで転生した女性の物語であることに気づかされたのである。政治と体制の中、屈託を飼い馴らす男ヴィクトルが屈託と怒りを隠そうとするどころかそれを燃やして生きるズーラから目を離せなくなるのは必定ともいえたし、それと同時にズーラにとってヴィクトルは個人性の敵が何かを知る本能の理解者にも思えたのだろう。そうやって互いの心臓に食い込ませた爪によって2人はだらだらと血を流し続け、「すべてにおいて私はあなたに劣っていたから行けなかったのだ」というズーラの言葉は、今の私が流す血はあなたの流す血の量に追いついていないから、今その血をあてにしてしまうわけにはいかないのだという孤高の決意の向こうから発せられていたように思うのだ。その後、ポーランドとパリに別れた2人の生活は主にヴィクトルのそれを通して描かれて、時折の逢瀬が終るたび例えば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の暗転のように目を伏せた映画は次の逢瀬までの数年を一気に跳躍してしまうのだけれど、ヴィクトルに描かれる最低限の連続性に比べ、暗転を経て現れる時のズーラの変貌というか変容は次第に殺気すらをおびていく。しかし、舞踏団のスターであったかと思えば偽装結婚によってポーランドを脱出し、果ては目的の達成のために他人の妻となり母となりさえする暗転の間にズーラが過ごした変転が一切描かれることがないだけに、彼女が新たなズーラとしてヴィクトルの前に現れるためにいったい何を引き換えにしなければならなかったのか、そこに漂う痛切なメランコリーが2人を寄る辺のない時間の奥底へ閉じ込めていくのは確かながら、ワタシたちの知る幸福の形とは相容れるはずもない、絶望と背中合わせに絡み合う生の確認こそがヴィクトルとズーラにとっての愛の形であったように思うのだ。強制収容所に囚われたヴィクトルを救い出すため、官僚システム上位へのコネクションを持つ舞踏団の管理部長にして小役人カチマレク(ボリス・シィツ)と結婚し子供すらもうけたズーラが、ついに解放されたヴィクトルと会うシーンでは、子供を抱いたカチマレクの目もかまわず「好きよ」と声に出しながらヴィクトルに駆け寄って抱きしめてみせて、やがて迷いなくわが子すらを棄てることになるズーラとそれを気にもとめないヴィクトルは既にこの時点で人であることの存在を手放していたのだろう。その後ほとんど幽鬼と化した2人の道行きとその終着は、世界を相手に共闘したCOLD WARの、わけても世界から蹴り出されたズーラがその個人性を全うしたことの証であったようにも思えたのだ。『イーダ』では終始抑制されたカメラがついに昂ぶるイーダを追って歩を乱したのとは対照的に、ここではヴィクトルとズーラの間で揺れ続けたカメラがラストではまるで2人を鎮めるかのように凝視して、それまでずっと溢れていた音楽を静かにそよぐ風の中へとミュートしていく。『イーダ』と『ズーラ』はパヴリコフスキにとっての『大理石の男』および『鉄の男』であったようにも思えた。
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2019年07月05日

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム/青春の光と糸

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『ホームカミング』で揃いのTシャツを着たクラブの面々の中、ひとり白けた顔つきでMJ(ゼンデイヤ)が読んでいたのがモームのビルドゥングスロマン「人間の絆」であったことを思い出してみれば、今作の終着点がロンドンであったことはすでに予告されていたような気もするのである。モームは人生の意味を問う主人公に、ペルシャ絨毯にその答えがあると告げてみせていて、言ってみればこれはピーター・パーカー(トム・ホランド)がその答えを手にするまでの物語ということになるのだけれど、自分は何者なのか、ヒーローなのか、ヒーローになりたいだけの少年なのか、そもそもヒーローとはなんなのか、という青い魂の彷徨を、かつて『コップ・カー』で泣きべそでは解決しない世界のことわりを時速100マイルで超えていく少年の意地と涙を燃やしたジョン・ワッツが、『ホームカミング』ですらが前奏であったかのようなパワーコードでぶち抜いていく。『スパイダーバース』におけるディケンズの「大いなる遺産」やMCUスパイダーマンにおけるモームの参照が、互いに計算されたデザインであったのかシンクロニシティであったのか、いずれにせよ語り手たちはこれらユニヴァースが現代の長編小説として、観客、特にティーンエージャーのピーター・パーカー世代の人生とその世界を照らす灯りとして機能することを望み、その責任を正面から引き受けていたように思うのである。今作においてスパイダーマン=ピーター・パーカーは、大人にならなければ正しい道を知ることはできないという、大人たちがかけた呪いを解くためにヒーローであることを受け入れるわけで、そうやって父殺しという通過儀礼をもはや必要としない水平な世代の風通しと見晴らしを新たなMCUのフェーズとして宣言してみせたのではなかろうか。いまだトニー・スタークに囚われた日々のアイアンスパイダー・スーツから、闇の中でさまよう漆黒のナイトモンキー・スーツを経て、泣きながら目を醒ましたピーターが最後に選んだスーツの鮮やかな赤と青のコントラストこそが、アイアンマンとキャプテン・アメリカの遺志を受け継いだそのサインであったことは言うまでもないだろう。そしてそのご褒美はと言えばまるでジョン・ヒューズなスパークリング・キスなのだった。シュワッ!てね。
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2019年07月01日

X-MEN : ダーク・フェニックス/気ままな神の作りし子ら

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これまで幾度となく目にしてきた、話が口ごもった時のジーン・グレイ頼みを思い出してみさえすれば、その彼女を主役に据えた時点でとっくに口ごもってしまっていることがうかがえたし、ではいったい何をそんなに口ごもってしまっているのかと思えば、それはおそらくチャールズの鬱陶しさって金八先生に通じるところがあるよねといううんざりと投げやりだった気もするわけで、劇中で8歳のジーン・グレイと出会った時のチャールズ(ジェームズ・マカヴォイ)に被せられた中途半端なロン毛カツラといなたいジャケットがかつての武田鉄矢のようであったのはただの偶然というわけでもないだろう。そしてこのチャールズこそがブライアン・シンガーその人であったことを忘れずにいてみれば、倦怠と猥雑とタナトスゆえの生命力を発揮することで一瞬息を吹き返した『ファースト・ジェネレーション』でそれを牽引した不埒なセックスマシーンとしてのエリック(マイケル・ファスベンダー)を『フューチャー&パスト』『アポカリプス』と徹底して追い込むことで、非現実の王国版「3年B組金八先生」(以前は「ビバリーヒルズ青春白書」かと思っていたけれど)に心血を注いだブライアン・シンガーの功“罪”が浮かび上がってくるわけで、今作で目にする去勢されたエリックの無様はその最たるものであった気もするのである。スケバン(ジェシカ・チャスティン)にそそのかされる問題児ジーンに捨て身で向き合うチャールズの人生訓話にコロッと改心するクライマックスの昭和感は、丸腰で火中の栗を拾わざるをえなかったサイモン・キンバーグがどのみち溺れてしまうとはいえ溺れる寸前につかんだ藁であったのだろうし、歴史と併走するコンセプトなどという難題を背負わされたことで、X-ジェットで宇宙に行けるテクノロジーを所有しながらスペースシャトル計画を生温かく見守るチャールズたちのいけすかなさを回避することもかなわなかった不幸も推して知るべしということになる。結局はX-MEN迫害と内ゲバの歴史をブライアン・シンガーのルサンチマンがのっとってしまったことで、ブライアン・シンガーのコンディションがそのまま映画のクオリティを左右してしまう不幸が最後までこのサーガにまとわりついて離れなかったように思うのである。まるで、ハリウッドから葬られ消えていくブライアン・シンガーの怨念がX-MENを道連れにしたかのようで、彼にとっては有終の美であったと言えるにしろである。
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2019年06月28日

海獣の子供/血も涙も水

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動かないものが動き出す、目の前のこれがワタシがそう願うアニメーションだなあと、五十嵐大介の画が、境界のあわいで揺らぐ線のふるえもそのままに、そして初めて見るはずのその色が、ああ確かにこんな色だった、でもこんなに見たことのない色だったとは今の今まで知らなかったとばかり、無いはずの記憶を片っ端から塗りつぶしていくわけで、ああ日本でもアレが解禁されていればソレを胸いっぱいに吸いこみながらいったいどんな風に翔んで潜っていけたのかと、まだ見ぬサイケデリアに想いを馳せては眼前のトリップに身も心も委ねてみたのだ。元々、画が自らを解き放つために物語を必要としたのが五十嵐大介であるから、この映画にメッセージを探すこと自体が没入(黒丸尚風にルビはジャック・イン)のノイズになることはあらかじめ承知しておくべきで、そうした意味で琉花をナヴィゲーターに据えたのは精神の合理化を目指した脚色だったように思うし、彼女に忠誠を誓うことでワタシたちは物語の奴隷になることなく、個人的で替えの効かないワンオフの体験を手に入れて持ち帰ることが許されたように思うのだ。狂騒の後、原作では「夏休みの始めに出会った人たちは、秋風の吹く頃にはみんないなくなっていた」という琉花の虚無がモノローグで記されるのだけれど、映画では13番との邂逅による円環が琉花の損なわれなかった帰還を描くことで、うっすらとあった喪失と再生、死と誕生の外枠が琉花の成長譚に置き換えられていて、それから後の加奈子の出産シーンとの繋がりがいささか希薄になった気がしないでもないにしろ、壮絶なインナートリップの酩酊を醒まして少しは人心地をつかせて観客を帰すことを配慮したのだろう。何はともあれ、原作ではたった1カット、光と思しき筋だけが描かれた空の「離陸」シーンにあの速度を決定した勇気と想像力をワタシは尊敬する。
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2019年06月26日

ジョナサン−ふたつの顔の男−/おれに関するおまえの噂

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※展開にふれています。
あらすじだけ読むと最近のアンドリュー・二コルのようなチャラさが香るけれど、同じアンドリュー・二コルでも『ガタカ』に近い抑制の効いた好篇。

脳内に埋め込んだタイマーによって12時間ごとに人格を切り替えることで多重人格をコントロールする、という一歩間違えば着地で激突する設定のアクロバットを、そのテクノロジーの背景をSFとすることで自明とする語り口のミニマルで静謐なトーンも含め、いつしか沁み始めるその透明なメランコリーに『アナザー・プラネット』を思い浮かべたりもした。ジョナサン(アンセル・エルゴート)とジョン(アンセル・エルゴート)という2つの人格のそれぞれが過ごした12時間の出来事をビデオメッセージにして毎日互いに伝え合うことにより、自分の別人格と12時間越しの会話を行うアイディアが秀逸で、自分の人格が眠りにつく12時間の間は肉体すなわち生命を相手に委ねざるを得ない緊張と不穏が無言の抑止力となり、擬似的な一卵性双生児ともいえる関係が生み出す血の気の失せたサスペンスはエレナ(スキ・ウォーターハウス)という一人の女性の登場によってそのバランスが崩れ始め、どこかしら『戦慄の絆』めいた奇形のトライアングルをうかがわせるのだけれど、最終的にジョナサンとジョンが選択するのはこの物語のこの設定であればこその決断で、光と闇の出会う場所に灯される黎明と薄暮の明かりが同時に照らしたようなラストは、闇しか知らずに生きてきた者が初めて光の中に足を踏み出すというその一点において彼らの考えた最良のハッピーエンドであったということになるのだろう。ラストのシークエンスは、たとえばアルジャーノン的なメロウの情動も概ね可能ではあったにしろ、監督はそれまで狂わせることのなかった正確な歩幅と息継ぎを最期まで貫いていて、非常にケレンの効いた、というか効かせすぎた設定でありながらそのケレンに身を任せることをしないストイックな語り口を維持することで非現実のリアルの強度を高めていて、その辺りを文体のダンディズムとして内部に蓄えての長篇デビューなのだとしたらこのビル・オリヴァーという監督の幻視はかなり信頼できるように思うのだ。髪型ひとつで光と影を演じ分けるアンセル・エルゴートのヴィヴィッドで神経症的なまなざしを見るにつけ、彼はどちらかというと引き出されると繰り出すタイプであることを感じて、その点に無自覚なままタイプキャスト的なフィルモグラフィーに埋没してしまう一抹の不安を感じたりもした。
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2019年06月23日

ハウス・ジャック・ビルト/ジャックはジャッキを持っていない

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自身のミソジニー的な振る舞いが、底知れぬ未知を抱える存在としての女性に対する恐怖心に因っていることを分析し、『アンチクライスト』からこちら、自らをシャルロット・ゲンズブールに仮託することでそうしたオブセッションを鎮めるべく画策し、彼女に「人間の特性なんてたったの一言で言い切れるわ、それは“偽善”よ」と叫ばせたことで憑きものでも落ちたのか、「なんでいつだって男が悪いんだ?女はいつも犠牲者で男はいつだって犯罪者なんだ」とぼやくジャック(マット・ディロン)に「でも君の話からすると君に殺される女性たちはみな馬鹿に思えて仕方ないんだが、そうやって彼女たちに優位に振る舞うことで君は昂奮してるんだろう?」とヴァージ(ブルーノ・ガンツ)がまぜっ返せば「いやいや女性たちの方が概して殺されることに協力的なんだよ」と真顔ですっとぼけさえしてみせるのである。それもこれもすべては神聖なる芸術に殉じるためで、その証として俺は完璧な一軒の家を建てねばならないのだとうそぶきつつ、次第に家のことなど忘れていくジャックは俺が現れ殺す処すなわち芸術なりとマニフェストを書き換え始め、そのスラップスティックで引き攣った道行きは今さら言うまでもないにしろコメディに相違ないわけである。そしてそれは計算されたコメディというよりは現在のトリアーが抱える躁病的な病質そのものといった方がふさわしいようには思うのだけれど、ジャックの語る物語に書き込まれる赤いヴァン、赤いジャッキ、赤いキャリーケース、赤い電話、赤いキャップ、赤いローブを血の徴にメメント・モリとするのはあまりにも楽をし過ぎではないかと躁病の目の粗さをいぶかしんでいたところが、その赤が意味するところは果たして何だったのか、それが明かされるラストの、諸君、安心したまえ、言うまでもなく俺は地獄に堕ちる人間で俺もそれをよく分かっているよというトリアーの最後っ屁とも言える開き直りがほんの一瞬とはいえ清々しくさえあったし、それについては、確かに不埒な殺人と死体にあふれた懺悔であったとはいえ、トリアーに通低するセックスも死も肉体のある状態にすぎないというフェティシズムの無縁も手伝っていたように思うわけで、その特殊な乾き方もあってか露悪が沁み込んでくる嫌悪感は巷間ささやかれるほどではなかったようにワタシは感じたのだ。それは第3の件での例のあれこれにも同様で、そこに至る道程からすれば彼らが赤いキャップをかぶった時点でそれは予期されたし、彼らにしたところがジャックにとってはワンオブゼムに過ぎないというある種の公平さがワタシにとっては生理的な嫌悪感を抑え込んでいたわけで、では先だっての『ハロウィン』のように直截的な描写さえなければ行為そのものの禁忌は免れるのかといささか口を尖らせてみたりもするのである。ちなみに母親へのとどめの一撃は弾着のタイミングがほんの微細ながら早すぎはしなかったかと、ワタシはそんな風に観ている観客ではある。かと思えば第2の件では絞殺された死体に添えられるのが失禁(『アメリカン・アニマルズ』のような)ではなく目尻から流れる一筋の涙であったりもするわけで、狂人には狂人なりのわきまえがそこにはあることを描いてはいたように思うのだ。おそらくは自他が認知する病質を抱えたままトリアーは可能な限りの社会性を総動員して映画を仕上げているのだろうことを思ってみた時、ある側からしてみればどの口がそれを言う?とでもいう「愛もまた芸術なのだ」「愛がなければそれを芸術とは言わない」などの言葉をトリアーが心の底から信じていることがうかがえたりもするし、トリアーが自身を生かしている理由がグレン・グールドのピアノでありリチャード・ククリンスキーの人生であり、デヴィッド・ボウイのプラスティックソウルであるとするならば、何のことはないワタシも彼と変わりがない人間ではないか。観ていると何だか笑えて仕方がないのは、鏡に映った自分への照れ隠しであったに違いない。
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2019年06月18日

旅のおわり世界のはじまり/前田敦子は白い山羊の夢を見るか?

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バイクの後部シートから降りた葉子(前田敦子)が脱兎のごとく走り出すその後ろ姿に、『岸辺の旅』で車道を斜めに横断し猛然と走り去っていく深津絵里の背中が一瞬重なり、深津絵里のそれが生者のなしうる運動そのものであったのに対し、この葉子は道路を横断するたびにようやく少しずつ“人間めいて”くることになるわけで、したがって彼女のそれは渡って往くのではなく渡って来つづけていると考えるべきなのだろう。それくらい葉子の情動からは“情”が隠されたまま、いかなる場所でいかなる時であってもその輪郭が1ミリたりとも世界に滲んでいくことはなく、その相容れなさの異質はまるで違う星から迷い込んできたエイリアンのようで、異郷の地にさすらうその足取りにはどこかしら『地球に落ちて来た男』の漂泊が浮かんでくる気もしたのである。ワタシは前田敦子と言う人の出自と名前を知っているだけで、数本の映画で観た以外は何をどんな風に活動してきた人なのかまったく知らないのだけれど、『もらとりあむタマ子』を成立させていた“主演女優が力学の中心力を放棄してしまうことで生まれる終始の凪”がここでは鬱屈する真空を掴まえ始めていて、今回の黒沢清はその移動する真空のフォルムをいかに乱すことなく追い続けるか、その一点に注力するためには他の運動の一切を手放してもかまわないと腹をくくっていたようにすら思えたのだ。人前ではかろうじて人間のように動いていたエイリアンとしての葉子が、誰もいないホテルの部屋に戻るなり擬態を解いたかのようにぐんにゃりと崩れ落ち、劇中でただひとり葉子だけが持つことを許されたスマホを叩きまくってはLINEと繋がる姿は遠く離れた故郷の星の同胞と通信するExtra-Terrestrialとしか映らないわけで、こんにちは、ありがとう、という最低限のウズベク語を覚える素振りもなく、にもかかわらずまるで覚えたてのようなヒューマニズムで山羊の生命を測る皮相や、警察官の至極まっとうな説諭にもただ叱られたという感情のスイッチで流す子供の涙などなど終始ヒトガタとしての葉子であったからこそ、ラストでたどり着いたワタシたちは最終的に独りなのだ、愛はそれを知った者にのみ許されるのだという地上の人間のコアを認識することで葉子はついにニンゲンになったようにワタシには見えた。人間ではないものが限りなく人間のように動きながらそこに感情の湿度はない、黒沢監督が前田敦子に見ているのはそうした叙事の極北なのではなかろうか。拷問のような遊具で葉子をなぶり続けるシーンに隠さない監督の絶対零度の欲望が痛快でワタシは声を出して笑ってしまった
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2019年06月14日

スノー・ロワイヤル/その血で俺を温めろ

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沈痛な面持ちで死体安置所に立ち尽くすネルソン・コックスマン(リーアム・ニーソン)や刑事たちの前で、いちばん下のチェンバーに収容されていた息子の遺体は、おそらくは検死官がペダルか何かを踏んでいるのであろうキコキコキコキコという素っ頓狂な音を響かせながら、葬式でクスクス笑いをこらえきれない子供のいたずらのようにゆっくりゆっくりとカメラのフレームの中へせりあがってくるのである。普通に考えれば、カメラがとらえやすい真ん中のチェンバーから引き出された遺体の顔に息子を確認してネルソンが悄然とするただそれだけのシーンを、これから始まるネルソン・コックスマンの物語は澄ました諧謔とうすら笑いの悪意、あふれる緊張と垂れ流される緩和をスパイスで味付けしてお出ししますという粋な能書きに仕立て上げた監督のセンスに、ああもう今日はおまかせでお願いしますという気分だったのである。雪の中、真顔で走り回る悪党たちが家に帰るかのように淡々としかし奇天烈に死んでいく白昼夢はどこかしら『ファーゴ』の痙攣するオフビートに通じる気もしたし、死がジョークでしかない世界にあってはもはや駄話以外する気はないねというある種のダンディズムを遂行するために、ならば駄話の通じないキャラクターは邪魔ものでしかないとばかり妻グレース(ローラ・ダーン)ですらをあっさり途中退場させては、ネルソンにしたところでそれをことさら気に病む素ぶりも見せることもなく、そうやって良心の呵責や不謹慎とかいった浮世のくびきから解き放たれた男たちは鉛玉を使った雪合戦に真顔で興じ始め、ネルソンの復讐劇もまたその風景の一部でしかない、いい大人たちのよくない生態が慈しむようなペーソスで描かれていくわけで、それらのすべてがくだらないとばかり出ていったグレースだけが真人間だったということになるのだろう。それはすなわち、真人間の中の真人間として表彰すらされたネルソンの反乱であったともいえるわけで、これを一人の男が自身のミッドライフクライシスを打破する物語として捉えてみた時、ラストに吹く風の優しさが少しだけ身に沁みるようにも思ったのだ。監督の提示する抑制された含み笑いの意味を理解した役者たちはみなそれを心地よさそうに演じてさわやかですらあるのだけれど、なかでもネルソンの兄ブロックを演じたウィリアム・フォーサイスのアメリカン・ノワールそのものとしかいいようのないまなざしや佇まいが相変わらず絶品で、まるで、結局は割に合わない死に方をするエルロイ作品の準主役がページから転がり出てきたようだし、そんな風にして彼がいつの日かマイケル・マドセンの手にかかって惨殺される瞬間をワタシは夢見て止まないのである。
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2019年06月11日

誰もがそれを知っている/血は争える

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戸口に立った聡明で美しい妻ベア(バルバラ・レニー)と、彼女の向こうに広がって見える緑の農園を見やるパコ(ハビエル・バルデム)を捉えたショットは、やがて彼が失うことになるそれらへの予感めいた郷愁であったのか、彼もまたファルハーディ作品の主人公が引き裂かれてきた“永遠の最悪”と“最悪の最後”の選択を迫られることになるのだけれど、その選択の果てにベッドにひとり横たわったパコがうっすらと浮かべる笑みは、それによってすべてを失い周囲を不幸にしたとしても彼の中には小さく光る幸せが灯ったことを告げていて、そんな風に世界と刺し違えながらも救いを手に入れた人間がこれまでファルハーディの作品に見当たらなかったことを思って見る時、犯人の正体を知ったあの2人がその秘密にどう向き合うのか、“永遠の最悪”として胸の内にとどめるか“最悪の最後”として断罪してみせるのかファルハーディとしかいいようのないラストへとやや強引に舵は切られ、それが新たな“Everybody Knows(原題)”という呪いとなってあの一族を苛むだろうことを予感させるて幕は閉じられる。『別離』以降、実存の不安を夫婦という血の繋がらない「家族」の闘争と決壊で描いてきたファルハーディが、ここでは夫婦という縦糸に血族という横糸を織り込むことで「家族」というさらなる地獄を彫り込むことに挑んでいて、完全な非イラン圏の物語としてスペインのある田舎の一族を舞台にしたのもいっそうの普遍性を求めてのことだったのだろう。群像劇のアンサンブルを紡ぐ手さばきは既に『彼女が消えた浜辺』でその手管を見せつけてはいたものの、これまで測ってきた孤島のような都市生活者の距離感を手放して懐にもぐりこむ土着のステップを、しかも異国の風土で獲得するのはさすがにファルハーディと言えどもいささか荷が重かったのではなかろうか。ラウラ(ペネロペ・クルス)の義兄の知人で事件が起きるまでは家族と縁もゆかりもなかった元警官ホルヘ(ホセ・アンヘル・エヒド)の突然の介入によって絞り出すサスペンスには正直言って苦戦の跡がうかがえたし、血縁の外部で行われる地主と小作人の階級闘争的な斬りつけも縦糸と横糸に絡まったまま不発に終わってしまっていたように思うのだ。そしてこれは言っても詮無いことなのだけれど、これまでは普段知ることのないイランの俳優たちが演じることで成立していた匿名性ゆえのいつ誰からどんな刃(やいば)が飛び出すかわからない緊張感に比べると、ペネロペ・クルスとハビエル・バルデムというよく知った俳優たちが備える刃の切れ味や美しさが良くも悪くも調和の内にあることで、こちらが感情のありかを先回りしてしまうのも、本来ならば精緻で微細に描かれていく波紋が意図通りに広がっていかない一因となっていたようにも思ってしまう。しかし、人間の孤独と絆が絡まり合う「家族」という天国と地獄の間を、まるで山田太一の志を継ぐかのように描き続けるファルハーディにとって今作はあくまで習作にすぎず、その歪さはあらかじめ織り込み済みであったようにも映るわけで、なかでも救済の底に触れて戻ってくるパコの姿は今後の新基軸となるようにも思っている。劇中ではある仕掛けとして公然と用いられはするものの、ドローン撮影によって手に入れた鳥の目の誘惑からはファルハーディですら逃れられなかったのだなあと、らしくない浮力を感じたりもした。
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2019年06月05日

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ/私は如何にして心配するのを止めてゴジラを愛するようになったか

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ついにピアノ線のくびきから自由になった怪獣たちが空を狭しと翔びまわる中、人間たちは前作にも増してはりぼてのドラマを繰り広げ、しかしそのことに関しては、ギャレスですらが怪獣と人間のW主演を処理しきれなかった反省というか開き直りの上で行われたことなのは言うまでもなく、人類が滅亡するわけでありません、私たちはもう一度怪獣たちと一緒に出直すのですとサノスのごとくまくしたてるエマ(ヴェラ・ファーミガ)に対し、字幕では「狂ってるわ」ながらあきらかに”That Bitch”か”Damn Bitch”、要するに「くそ女」と吐き棄てたチェン博士(チャン・ツィイー)の冷たい横顔にゾクッとさせられただけでワタシは十分な気もしたのである。前作でも顕著だった平成ガメラが取り込んだガイア理論の援用は言うに及ばず、G3でガメラを追い詰めたコラテラル・ダメージを暴走するエマのエンジンにしつらえたあたり、平成ガメラシリーズの世界観が怪獣の物質化という命題においていかに有効かつ魅力的であったか今更ながら実証された気がして、誰に対してかは知らぬまま何だかざまあみろという気分すらが蘇ってしまっている。人間サイドのストーリーとしてはエマと芹沢博士(渡辺謙)のマッドサイエンティスト一騎打ちが望ましかったところが、補助線としての真人間を書き入れておかなければ不安でしかたなかったのか、マーク・ラッセル(カイル・チャンドラー)を同じことを二度言わせるための存在として投入したことで、ほとんどの停滞は彼が引き起こしてしまっているという損な役回りを背負わされてしまったのは同情の余地があるにしろ、前回のブライアン・クランストンのように彼を退場させることでエマの変節を促してもよかったのではないかと思うくらいには彼の重心は最後まで希薄なままだし、中心にそうした人間が一人いると感情の移動が軽く安く思えてしまうのも当然で、その点についてはやはりエラーというしかないだろう。怪獣たちがこの世をひたすら破壊しまくる総進撃の時間において監督の妄想と幻視が縦横無尽に炸裂している様を目撃することで、それら吹けば飛ぶような人間ドラマも含めた上での昭和ゴジラへの妄執と憧憬であったのだろうと考えてみれば、それはそれで見事であったとしか言いようがないにしろである。ワタシたちは「怪獣」と呼んでいるけれど、劇中での呼称が”Titan”であることを考えればある程度の擬人化はやむを得ないにしろ、最後にラドンがみせるあのしぐさをギリギリのラインにとどめて欲しいのが正直なところではあって、その巨大さと破壊の力に神々しさを宿らせておくためにも人間臭さなるものは可能な限り排除してもらいたいと考える。ラドンはまるで『仁義なき戦い』の田中邦衛のようであったよ。
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2019年05月30日

レプリカズ/これより他に生きるを知らぬ

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いくつか面白くなりそうなターンがあったのだけれど、いずれもこちらが身を乗り出しかけた方向とはことごとく逆に舵を切ることで、何とも冗談の通じない、言ってみればキアヌ・リーヴスという人の抱える危うさを世に晒してしまったという点で非常に危険な映画であったように思うのだ。明らかに骨子としてはフランケンシュタインの怪物というマッドサイエンティストの悲劇を頼っておきながら、それを全面的なハッピーエンドへと着地させようとドクター・ストレンジ的に言えばおよそ1400万分の1ともいえる勝利ルートを107分間のうちにノーエラーで走り抜けてしまうため、陰影のざわめきや機微の震えといった感情の深彫りには目もくれないまま、ただそこにはひたすらキアヌ・リーヴスがキアヌ・リーヴズのまま立ち尽くすばかりだったのである。妻と3人の子供たちの不在をとりつくろうためキアヌがそれぞれの家族になり代わって日常を維持するシーンなど、研究にかまけて自分がいかに家族のことを知らずにいたのかという内省につなげるのかと思いきや、キアヌが真顔で繰り広げるスラップスティック気味の悪戦苦闘をほんの一瞬苦笑いさせるだけで通り過ぎてしまうし、再生した妻や子供たちが迎える最初の朝に見せるある描写に、やはり『ペット・セマタリー』的な禁忌の代償がキアヌを襲うのかと思いきや、何のことはない見たままそのままで一安心!といった事あるごとの“思いきや”に、ああこの“思いきや”はケイジ・ムーヴィーでおなじみの“思いきや”だ、予算も人員もそれがもたらすクリエイティヴィティも足りていない場合、見て見ぬふりをしてしまう“思いきや”だ、と合点がいったことで、ことさら腹も立たず悲しくもならずに済んだ点について、そんな引き出しを作っておいてくれてありがとうと、あらためてニコラス・ケイジに感謝などしてみたのである。俳優という他人の人生を創り上げる技能に生きる者において、役者本人の生きざまや人となりがスパイスとして投影されることが果たしてどう評価されるべきなのか、キアヌ・リーヴスの場合、いささか度を超えた生真面目と誠実の茫洋がある局面においては緊張と緩和の得も言われぬバランスとなっていることは言うまでもなく、キアヌが静止し続けることで周囲の回転がより緊張をはらんだ高速に映るというその効果を知覚した演出家においてその効果は絶大なのだけれど、今作のようにキアヌ自身でスピンさせるべく働きかけた場合、真顔のままやってきては去っていくだけの朴念仁に映画が終始してしまい、真ん中にいて懸命なキアヌの笑えない痛々しさだけがチェシャー猫の笑いのようにはりついてしまう気がしてならないのだ。したがって、今作において静止するキアヌに煙幕をはるには “別のなにか”として帰ってきた家族がその予期せぬ特性によってキアヌを呪うのか、あるいは救ってみせるのか、そうすることによってようやくキアヌは、かつがれた神輿の上で所在なさげに立ち尽くすことが許されたように思うのである。キアヌ・リーヴスが愛すべき俳優であり映画人であることは言うまでもないのだけれど、愛し方をまちがってしまうと本人にとっても観客にとっても幸せとはいえない事態に陥りやすい厄介さも備えた俳優であることもまた確かなわけで、静止したキアヌを愛でるという野心作『おとなの恋は、まわり道』をご覧になった人なら奥歯にモノがはさまったようなワタシの愛憎が理解していただけるかもしれない。あれとてウィノナが最強の担ぎ手なればこそであったのは言うまでもないけれど。
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2019年05月27日

ガルヴェストン/嵐に呼ばれた男

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日の沈んだ世界しか知らぬ男が、ガルヴェストンの浜辺で目を閉じ陽のぬくもりを感じながら人生のあしらいに想いをめぐらし、傍らではいまや彼の守護天使となった娘がありがとうと微笑みかけて、俺は幸福に嫌われていたのではない、俺が幸福を遠ざけていただけなのだとそれを知る。ならば手遅れな俺にできるのはこの幸福をこの娘に繋げてやることだと決めた瞬間、寄せては返す波のようにそれは彼の手を離れ、果たしてそれは良い夢だったのか悪い夢だったのか、答えを知るために彼はひとり20年を過ぎてガルヴェストンで待ち続けている。40歳のヤクザなロイ(ベン・フォスター)と19歳の娼婦ロッキー(エル・ファニング)が出会い、しかしそこには愛も恋もセックスもないただ互いを思いやる感情のつながりだけがあるという絵空事のような物語を、だから私はその絵空事が正解になる世界を撮ることにしたのだというメラニー・ロランの強くて柔らかいしなやかさが、すでに血を流しすぎたノワールを子守唄のように寝かしつけていく。ロイのそれはある決定的な誤解によってはいるものの、自分に残された生を凝縮することでそれを俯瞰する視点を持ち始める主人公の孤絶は『25時』を想い起こさせると同時に、ロードサイドの逃亡者となった彼らが漂泊するアメリカの原風景を辿ってみれば、まず最初に出くわすのは『セインツ ‐約束の果て‐』であった気もして、そこでもベン・フォスターはあらかじめどこへも行くことを許されないまま誰をも抱きしめずにいたことを想い出さずにはいられないのだ。それら引用するタイトルからも明らかなように、メラニー・ロランが描くのはアメリカン・ノワールの自滅して下降するセンチメントというよりはフレンチ・ノワールが放つ自己愛による甘い腐臭により近いように感じられて、ならば94分というタイトに刈り込まれた時間にあと10分ほど追加してみることで、いったいこれがどのような物語の途中であったのか見失うくらいに、モーテルで過ごす無為で倦怠したそれゆえに自由な日々を描いてみせるべきではなかったかと思ってしまうのだ。若いチンピラとの絡みなど距離の詰め方と不穏の醸造がいささか性急すぎて展開のための手続きといった感がぬぐえない気もしてしまったし、せっかく魅力的な陰影をつけたモーテルの管理人が特にロッキーとの関係性において生かされていないのはいささかもったいなく感じてしまった。それにしてもエル・ファニングである。自分がとても優雅で美しいことに気づかないまま、どうしていつも私は撃ち落とされてしまうのだろうと首をかしげる一羽の鳥の哀しみが年を増すごとに彼女の艶となっているようで、うかつにキャスティングすると映画が奪われてしまう危険な女優になりつつある気すらしてしまう。どうにも忘れがたいラスト、俺には正直でいろ、そうすれば俺もおまえに正直でいる、とロッキーに約束したロイは、夢の答えを確かめた後で、ハリケーンの上陸を待っていたかのようにひとりあの浜辺へと歩を進めていくのだ。虐げられた者たちへの祈りにも似た、血を吐くようなロマンスをあなたに。
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2019年05月22日

アメリカン・アニマルズ/いつも同じ時間に退屈になる

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「彼らは楽をしようとしたのでしょう。成長のために経験を積もうという考えが彼らにはなかった」とベティ“BJ”ジーン・グーチ(アン・ダウド)が語る言葉こそが、この無様で滑稽な4人を断罪するにふさわしいのは重々承知の上で、どうしていつもいつもこの世界は世界のままなのか、何をすればその顔がほんの少しでも歪むのかと言いがかりのように苛ついた身の覚えのせいなのか、彼らを笑うことなどできるはずがないどころか同族嫌悪とも言える吐き気すら覚える始末だったのだ。バイト先の倉庫から肉の塊を盗み出し警備員を振り切った程度の逃げ足で「アイム・アライヴ(今おれは生きてる!)」と満面の笑みを浮かべるスペンサー(バリー・コーガン)とウォーレン(エヴァン・ピータース)にとって、1200万ドルの稀覯書はせいぜいがより高級な肉の塊に過ぎないわけで、美大生であるスペンサーがオーデュボンの版画に対する芸術的なアプローチの一切を見せないあたりに彼の死にっぷりが否でも窺えて、君は作品で何を表現したい?君は芸術家としてどうありたい?と質問されて答える言葉を持つことのないスペンサーの死んだ目こそがこの映画のトーンを決定したといってもいいだろう。そのあたり、運動部の奨学金で入学しておきながらスポーツ馬鹿ばかりだと毒づいてチームの一切にケツを向けるウォーレンもまた同様で、このすべては死人を自覚する彼らが自らに施した電気ショックにすぎないことを思えば、BJの言葉と彼らが100万光年を隔ててすれ違うのはやむなしとすら思ってしまう。そのうち当の本人たちがカメラの前に現れてかつての自分たちを自ら断罪するに至り、すべてを否定された2004年の彼らはまるで集団リンチを受けるように追い詰められていくこととなるわけで、どこかしらオフビートなピカレスク風に語られるこの映画を苦笑いとしてすら笑えなかったのは、その善悪や正誤に関わらず彼らなりに切実であった世界との接続がすべては身から出た有害な錆でしかなかったというその逃げ場のない痛々しさによっていて、「老人はこの社会では視えない存在なんだ」としたり顔でうそぶきつつ徒党を組んだ4人の老人が学生たちの只中に現れて浮きまくる笑えないコント、アムステルダムのバイヤー(よりによってウド・キアー)やクリスティーズの鑑定人といった楽をしてこなかった大人たちの前に現れた時の彼らがまとう圧倒的な借り物感と未熟さの惨めさ、などといった彼らが真顔でいればいるほど傷口に塩をすり込んでいく残酷な回想はいつしか2018年の本人たちへの不信すら呼び覚ました気がして、好むと好まざるに関わらず2004年の自分とそれ以外の自分との二役を永遠に演じていかねばならない彼らにいつしか憐れみや蔑みを抱かされている自分に嫌気がさしてしまう。NYの車中でチャズ(ブレイク・ジェンナー)に万死に値する致命的なミスをなじられて、どうして自分は今このまま消えてしまうことができないのか、むしろそのことの方がおかしいじゃないかとでもいう風に顔をゆがめ身体を捩らすスペンサーに憑依したバリー・コーガンが言葉を失うほどに凄まじい。揃いも揃っていなたいチェック柄のシャツを着た集団のバカ騒ぎに苛立って、彼らに殴りかかるエリック(ジャレッド・アブラハムソン)もまたチェックのシャツを着ているという底の抜けた哀しみにも引き裂かれる。レナード・コーエンの“Who by Fire(火に焼かれるのは誰だ)”が流れる中、踏みこんだFBIに次々と逮捕されていく彼らをスローモーションで捉えるシーン、頭に浮かんだのは「3年B組金八先生」で中島みゆきの“世情”が流れる中、機動隊に連行される加藤優の姿なのだった。なんというか加藤くんには申し訳ないのだけれど。
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2019年05月19日

オーヴァーロード/気分はまだ戦争

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ことさら冷えたわけでもない何なら水道の水を心ゆくまで飲み干したようなこの満足感は、おそらくこれがMCUの構造的欠陥ともいえる助ける者と助けられる者が交わす熱視線が縦横にめぐらされた英雄譚であったからだろう。ノルマンディー上陸作戦の先兵となったある空挺部隊が戦場におけるアマチュアとプロフェッショナルの危ういバランスの上でぐらぐらと揺れつつそのスイングを利用して、キャプテン・ナチスを誕生させんとするヒドラを壊滅させるこの物語において、アマチュアであるエドワード・ボイス二等兵(ジョヴァン・アデポ)とプロフェッショナルとしてのルイス・フォード伍長(ワイアット・ラッセル)がそれぞれに抱く「良心」のぶつかり合いが物語の推進力となって目的に向かい収束していくその構造をスティーヴ・ロジャースとトニー・スタークの黄金比に重ねてみれば、MCUでは語りきれない小さな大義がもたらす自己犠牲を心ゆくまで描くことで湧き出す浄化こそが、冒頭で述べた望外の満足感に繋がったのだろうと考える。そしてそれをなお可能にしていたのは、「良心」が容易に戦争を断罪してしまうことのないよう戦争映画としての装甲を徹底して強化していたことにもよっていて、敵地へ降下するまでのオープニングシークエンスでいきなり観客を阿鼻叫喚の地獄絵図に放り込み、生き残るためには手段を選んでなどいられない戦場の論理を全身になすりつけることでサスペンスの発火装置としての「良心」を弄び始める手口は非常にスマートだし、それを維持する(という建前もあって)ための暴力およびゴア描写をてらいなく加速させていくアイディアとそのサービス精神には胸が熱くなるばかりだったのだ。「良心」の命ずるままに迷走するボイスが、自分が蘇らせてしまったチェイス(イアン・デ・カーステッカー)の頭部をスイカでも潰すように粉砕して錯乱するシーンを合図に、「良心」の十字軍となった彼らとクロエ(マティルド・オリヴィエ)がナチスを虫けらのように血祭りにあげる怒涛の終盤と、ついには秘めた「良心」を全開にして「悪意」と一騎打ちするフォード伍長の侠気が打ち上げる花火の豪気、わたしは自分がわからないと眼を伏せたクロエが火炎放射器でぶちまけた焔に見つけた自分、そして止むことのない爆風を追い風に暗闇を走り抜けるボイスは光の中に飛び出していき、計画通り連合国はノルマンディー上陸を果たすこととなる。といった風に「良心」と「悪意」を消費する戦争エクスプロイテーション映画がなぜこれほど痛快で爽快なのか、MCUが様々に厄介な手続きをふみつつそれを食い止めてきた理由があらためてわかる気がしたようにも思うのである。暴力も戦争も初めから我々と共に在ったものだ、言うなればお前らの神がお造りになったものだ、崇拝しないでいいものか、とコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」の中で吐かせたあれは、やはりとても厄介だということなんだろう。
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2019年05月17日

ラ・ヨローナ 〜泣く女〜/水でも飲んで落ち着け

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『グリーンブック』では豚に真珠、もしくは掃きだめに鶴と崇められて映画の良心となったリンダ・カーデリーニが、ここでは主にサスペンスの発生装置としてやらかしては転げまわっている。ラ・ヨーロ誕生の哀しい経緯を現代(といっても舞台は1973年だけど)のネグレクトに関わる問題に絡める着想はタイムリーだし、主人公アンナ(リンダ・カーデリーニ)をそうしたケースを扱うソーシャル・ワーカーにしたことで、彼女を渦中に放り込む手筈も整っていたように思うのである。冒頭で彼女が担当する家庭の子供が不審死を遂げることでその母親がネグレクトを疑われ、その究明を進めるアンナも次第にその母親と同じ状況に追い込まれていく、というのがこの映画の神経戦としての構造となるのだけれど、ラ・ヨローナの脅威から子供たちを守る行為の特異性とその消耗が周囲には彼女によるネグレクトに映ってしまうという逆転があまりうまくいっていないことで、神経症的に苛まれる側面が霧散してしまっていて、たとえば修羅場の中で食事をつくるどころではなくなりTVディナーのような夕食となる場面があるのだけれど、アンナの息子を診察した医師が子供の腕に残るラ・ヨローナの徴を見てネグレクトを疑い、通報を受けたアンナの同僚とその刑事がアンナの家を訪ねることになるのだけれど、そのタイミングをなぜ子供たちがTVディナーを食べている場面にしなかったのか、それが育児放棄と映る格好の場面だったのにとその意図を疑うわけである。それともう一つ、アンナが巻き込まれるきっかけとなる母親が子供をラ・ヨローナから隠した部屋の扉の一面に描いた護符のような「目」の意匠は、その母親と同じ立場に追い込まれるアンナもまたそれを描くことになるとばかり思っていたものだから、それは『CURE』のうじきつよしの部屋を例にあげるまでもなく、恐怖の実体が自分に向かってくることを厚塗りする常套手段をなぜ手放してしまうのか、せっかくの伏線をなぜ活かさないのかもったいなく思ってしまう。とは言え、この神経戦の構造を維持するのが難しいのは、ラ・ヨローナのアタックが憑依型のそれではなく完全に肉弾戦を挑んでくるからで、ブヴァァァァという出囃子と共に現れてはただひたすら追い回して物理攻撃を仕掛ける猪突猛進はここのところのポスト/ポストモダンホラーの潮流からは完全に道を外れたモンスターのビックリ箱であって、そのドシャメシャが舞いあげる風が一瞬心地よかったのも確かではあるにしろ、本来はメランコリーに食い尽くされた化け物であるはずのラ・ヨローナさんが、いつしかキャシー塚本のように爆裂し暴走するその姿は彼女の本意であったのかといらぬ心配などもしてしまうわけで、死霊館シリーズ(The Conjuring Universe)において、前述したポスト/ポストモダンホラーの潮流とは異なる「見れば分かる」“ニューライン・シネマ”ホラーを新たな手口で研ぎ澄まし続けるジェームズ・ワンにとって、このスピンオフシリーズはある意味で実験的なアプローチの場であり、この直截性はあくまで一周回ってきた結果によっていると思うのだけれど、「見たまんま」と「見れば分かる」のカミソリ一枚ほどの違いをスリリングに感じるにはラ・ヨローナさんが少しはしゃぎ過ぎであったと、相応の呪いを覚悟で苦言を呈しておきたいと思う。
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2019年05月13日

ある少年の告白/ある少年の告発

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ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)の父親マーシャルにラッセル・クロウを据えたあたりで、『ビューティフル・ボーイ』的な人生の更新を受け入れていく父親といった構造なのだろうとそんなふうな予見でいたところが、ジャレッドを罪悪感で沈めつつ矯正/強制収容所送りにした人権搾取者たちの手からわが子を救い出す母ナンシー(ニコール・キッドマン)が、自身もまた搾取される側の人生であったことに中指を立てるレベル・ムーヴィーのムチに横っ面を張られると同時に、無垢の者ジャレッドが魂の監獄とすら言える施設からはたして脱出できるのかという『ミッドナイト・エクスプレス』のような心胆を寒からしめるサスペンスに段々と身じろぎができなくなっていく。マーシャルはバプテストの牧師であると同時にフォードのカーディーラーの経営者でもあり、彼が隠さない宗教的強圧からすればピューリタンの労働倫理的なお務めによって従業員を煽りつつ「ビジネス」を成り立たせているのは想像に難くないわけで、説教壇から会衆に向かって「この中で完璧でない人は手を上げて」「では完璧な人は手を上げて」と“不完全な我々”(自分はその中にいない)の共感を抑圧にすり替える口調が、施設のセラピストであるジョン・サイクス(ジョエル・エドガートン)が入所者を前に“治療”について語る時の、1ドル札を使った目眩ましの口上と似通うことはもちろん偶然ではないだろう。ジャレッドは、大学や施設でヘンリー(ジョー・アルウィン)、グザヴィエ(セオドア・ペルラン)、ジョン(グザヴィエ・ドラン)、ゲイリー(トロン・シヴァン)と言った彼と同様に悩み困惑し傷ついた人たちと出会うことで(彼に大きな傷を残したヘンリーですら)、自分達は教会や施設の人間が言う悪しきものではなく、不完全な善であるという一点においてすべての人たちと平等であるはずだという認識を確かにすることで、あなたが変わらない限りこの距離が縮まることはないのだと正面から父親につきつけてみせるのである。このラストにおいて、それでも父マーシャルが捨てきれずすがるのがマチズモの系譜としての父殺しで、せめておれを殺してから行ってくれと途方に暮れるその姿は悲しくも哀れですらあり、一人の母としてジャレッドと向き合うことで自分を囚えていた抑圧をも知ってそこから自由になることを選んだ母ナンシーの飛び立つような軽やかさとは光と影の対照をなしている。医学を信仰で、信仰を医学で量ることはできないし、それをできるかのように語る人間のそれは騙りであることを、劇中半ばで真摯かつ正直な言葉にしていた医師も女性だったことを想い出してみればいい。男たちの他はみなとっくに気づいて知っているのだ。
posted by orr_dg at 15:32 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする