2021年11月26日

アイス・ロード/幸福の黄色いトラック

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氷の道はニトロの代わりにはならないことを脚本家兼監督はどの時点で気がついたのか。とりあえずはどうすればマイク(リーアム・ニーソン)にさらなる負荷をかけることができるのか無い知恵を絞った脚本家兼監督は、イラク戦争の帰還兵でPTSDと失語症に苦しむ弟の面倒を見ながら謎の殺し屋と闘わせるだけではまだまだ全然足りないとばかり、そもそもローレンス・フィッシュバーンがチームにいたらこんなミッションなど楽勝で達成してしまうことに遅ればせながら気づいた脚本家兼監督は『ディープ・ブルー』のサミュエル・L・ジャクソンを更新する勢いであっけなくストーリーから彼を消し去ってしまうのだ。となれば、路肩から転落し大破したピックアップから殺し屋トム・ヴァルナイ(ベンジャミン・ウォーカー)が無傷のまま這い出したところで不思議でもなんでもないどころか、種火を切らしたら負けだとばかり本来はマジカルな救世主枠の弟ガーティ(マーカス・トーマス)の命すらを薪にしてくべてしまうわけで、ことあるごとに立ち尽くしては確かめた感情を心ゆくまでやりとりするマイクとその仲間たちはとっくにタイムサスペンスの縛りや煽りもどこ吹く風で、それでもやけくそを擦り続けさえすれば発火はするもんだなあと感心半ばの半笑いでエールを送っていたのだ。そして思わずスリムクラブ真栄田の声色で「毎晩お話ししてくれたでしょう、この世で一番強いのはウィンチだって」とつぶやいてしまうくらい、いつしか主役はウィンチにすり替わっていたわけで、ジム・ゴールデンロッド(ローレンス・フィッシュバーン)の命を奪ったのも、ガーティを最初に殺しかけたのもすべてウィンチの仕業だったことを思い出してみれば、手なずけたつもりがいつ牙を剥くともしれぬウィンチこそがマイクにとって最大の脅威だった気すらしてしまうのだ。ただ、この脚本家兼監督がブライアン・ミルズの誘惑に最後まで抗った点については評価すべきで、終盤の氷上で繰り広げるヴァルナイとのタイマンでは、なぜ一介のトラックドライヴァーがプロの殺し屋とそこまで渡り合えるのかはともかくとして、少なくともCIA元工作員の体術ではないブチ切れた素人の大暴れにリーアム・ニーソンをとどめようと心を砕いていたことは見てとれたのだ。だから、橋が落ちてしまったにも関わらず後続のマイクはいったいどうやってあの場にかけつけて息絶えた弟の頬を撫でることができたのか、もうそんなことまで考えている余裕がこの脚本家兼監督にあるはずもないことを知るワタシはあえて詮索などしないのだ。そんな風にして特にどんでん返しの必要もない勧善懲悪に落ち着いた物語は、ケンワースの新車と独り身の自由を手に入れたマイクの軽やかな旅立ちで幕を閉じつつ、坑内の残り少ない酸素を節約するために重傷者の間引きを言い出したあの口髭の鉱員にとって、全員救出というハッピーエンドこそが彼の生き地獄になるという悪意の表出をこの脚本家兼監督がまったく気に止めない野放図が今もワタシをもやもやさせるのだった。いい加減で機は熟したように思うので、そろそろリーアム・ニーソンとニコラス・ケイジの共演をピーター・バーグあたりの監督脚本で画策してもらいたい。
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2021年11月22日

パワー・オブ・ザ・ドッグ/おれを殺すのは誰だ

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※原作未読。展開に触れています。

1920年代のモンタナで、イエール大卒にして古典を愛でつつ牧場主としてカウボーイの生きざまに世界の真実を見出しては社交の偽善と欺瞞をあざ笑うフィル・バーバンク(ベネディクト・カンバーバッチ)は、あたりまえのようにトキシック・マスキュリニティなセクシストとして登場し、牧場を共同経営する弟ジョージ(ジェシー・プレモンス)がフィルによる強権支配への反発の意も込めて一言の相談もなく決めた結婚相手ローズ(キルスティン・ダンスト)とその連れ子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)は、フィルのマチズモが支配する世界から弟を奪い去った盗人として燃えるような憎悪を向けられることとなる。フィルが言うところの、障害物は(乗り越えるのではなく)除去するのだという人生の指針からすれば、感情を内に秘め物腰はやわらかで社交に長けるジョージにとってフィルこそが障害物であったのは言うまでもないにしろ、ジョージの無邪気で無自覚なフェミニズムとリベラリズムの発露はフィルの憎悪をいっそうローズへと焚きつけるわけで、ではフィルという怪物化した障害物に誰が立ち向かい除去を試みるのか、物語はそのサスペンスを選ぶことでピアノ線のテンションをきりきりと絞り上げていく。と書いてみた構造のあまりの収まりの良さに対する違和感こそがこの映画の主題ともいえる気がするわけで、腺病質的な外見にミスリードされはするものの、総体としてのロマンチストであるフィルに立ちはだかるのが医学を志すプラグマティストとしてのピーターであったという構図は、物語の中盤からほとんど姿を消してしまうジョージとただひたすら被虐の人となるしかないローズにファイティングポーズすらとらせないことでより明確になっていく。ピーターを造形するある種の特異性が強化するのはあくまでプラグマティストとしての宣言であってその点で彼はブレのない一面的な存在としてある一方、ピーターとの邂逅によって、フィルのマチズモが生来というよりは1920年代のモンタナにおいて絶対に人目に触れさせてはならない自身の奥底に横たわる同性愛の資質を覆い隠すための鎧であることが暴かれていくわけで、それを感知したピーターは自身を餌にフィルを鎧を外した無防備へと誘い出すことで、なにより自身の未来を担保する母と継父にとって最大の障害物であったフィルを除去することにあっけなく成功してしまうのだ。文武に秀でつつ横暴な暴君として君臨した怪物フィルが、なぜかくも“あっけなく”斃れたのか。この世界の他の誰にも知られてはならない秘密を押し殺すためその反動をひたすら鍛えて叩き上げた強靭なカウボーイの鎧を脱いで、秘密を共有し世界のうつろいを語りあえる存在を目の前にした解放と昂揚のその致命的な錯覚こそが彼を斃したことを想ってみる時、マチズモの怪物が悲劇のロマンティストとしてその無垢をプラグマティストにえぐられ屠られる寂寥と哀切をぬぐうことが叶わない気がしてならず、自身の分かちがたいアイデンティティーがそのまま世界の障害物となる不幸と、たとえ他者にとって彼が除去されるべき障害物だったとしてもそのアイデンティティーに賢しらにつけ込むことで達成される幸福との釣り合いに生じる狂いこそが前述した違和感の正体なのだろうし、少なくとも自分の闇の奥と向き合うことで生きるための結論を出したフィルに比べると愛を与えることの無邪気と誠実を見極められないジョージもまたローズの障害物たりえることを予感させつつ、愛を信じることも必要ともしない、愛から最も遠くに立つピーターが世界を操ることを告げるラストのほくそ笑むような冷ややかさは、愛ゆえに怪物となり愛ゆえに斃されたフィルに捧げるレクイエムの変奏にも感じたし、トキシック・マスキュリニティを糾弾し葬り去るのではなくそれがどこからなぜやって来てしまうのか、この映画のもっとも静謐で美しい瞬間がどのシーンに与えられたかを想い出してみれば、危ない橋を渡るのは承知の上でジェーン・カンピオンがフィルの死と引き換えにそれを代弁したことは明らかだったように思うのだ。怪物の苦悶と嗚咽のように弦を震わせるジョニー・グリーンウッドのスコアを従えて、ベネディクト・カンバーバッチが近年では最良にして最凶の憑依と献身とで監督の荒ぶる野心に応えている。
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2021年11月16日

マリグナント 狂暴な悪夢/ワン、ジェームズ・ワン

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おまえがおまえである限りこの恐怖は続くのだとする実存ホラーの対極にあって、自らまき散らした恐怖の終わらせ方に誰よりも心を砕き世界の法則を取り戻して愛に包むジェームズ・ワンはいつも優しい。その愛こそが恐怖を生むのだというジェームズ・ワンのロマンチストは『死霊館』から一貫した通奏低音となって、ロレイン夫妻のオール・ユー・ニード・イズ・ラヴをたった一人で姉マディソン(アナベル・ウォーリス)に叫び続ける妹シドニー(マディー・ハッソン)の勇猛果敢をこそ衒いなく描くジェームズ・ワンに、どんなジャンルを借りようと最終的には愛についての映画を撮ってしまうスピルバーグの屹立を見たとすら言いきってしまいたい。トリッキーな俯瞰ショットのモダンと恐怖を増幅するアンサンブルとしての小中理論との融合でギアをファーストからセカンドへとゆるやかにシフトアップしつつ、中盤でヤング刑事(ケコア・ショウ)が遂行するいつ終わるともしれぬ執拗な追跡シーン(そういえば『狼の死刑宣告』でもケヴィン・ベーコンをサディスティックなまでに走り回らせていた)によって恐怖の正体をスクリーンのあちらとこちらで正式に共有して以降、瞬時にトップギアへとブチ込んで繰り広げる肉弾戦というよりは舞踏とすらいえる貫通と切断の残虐絵巻はジェームズ・ワンの集大成ともいうべき創造の奔流となって渦を巻き、しかしその最後をオフビートなギャグで締めてしまうそれは緊張と緩和というよりはいくばくかの照れに映ったりもしたわけで、その侘び寂びにも似た引き算の奥ゆかしさこそがジェームズ・ワンのホラーに恐怖の手触りを親密かつ、のっぴきならなく宿らせることをあらためて知らされることとなる。ここ数年、地べたにはりついた人間が繰り広げる実存ホラーの閉塞する水平移動に慣らされた目からすると、ジェームズ・ワンのデザインする上昇と下降の必然、ジャンプと転落による空間移動のスペクタクルは華麗かつ圧倒的にそびえ立ち、終盤のあるシーンに用意された突発的な落下が一瞬で空間的な伏線を繋げてしまう暴力的といってもいい回収はほとんどコントの体すらをなして思わずおかしな笑い声すらが漏れる始末で、実はこのアイディアからすべてが始まったんだよと言われたとしても激しくうなずくしかなかったのだ。ジェームズ・ワンには、ハリウッドの大作仕事の気晴らしでもアイディアの実験場でもかまわないからエクストリームな一発をこうして時々は届けて欲しいと切に願う。毎夜涙のかわりにじくじくと血で枕を濡らす女性の映画など他の誰にも撮れるわけがないのだ。そしてゾーイ・ベルにゾーイ・ベルとしか言いようのない登場をさせてゾーイ・ベルとしか言いようのない退場をさせてほくそ笑む映画も。
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2021年11月11日

エターナルズ/生きているからかなしいんだ

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※展開に触れています

かつてモノリスのような宇宙船で地球にやってきた人類の庇護者を自認する神々の代理人たちが、実のところ自分たちは生命が宿った存在ではない木偶だからこそ永遠であることを知り、地球と人類への愛おしさはともかく、自分たちを人間だと思い始めた木偶が仮初とはいえ自らの実在を形づくる過去とその記憶を守るためセレスティアルズによるグラウンドデザインの破壊を目指して立ち上がる、と捉えられかねない点でかなり危うい物語ではあったように思うのだ。それはエターナルズと光と影の鏡像をなすディヴィアンツの虐げられた悲しみを一顧だにすることもないどころか、むしろ忌まわしい記憶として封印するかのように殲滅するエゴの清々しさにも見て取れて、これが人間に焦がれた木偶の神々が人間らしく人間臭い生き方を模索する物語であればこそ、最低限の自我をエターナルズとかわす人間がカルーン(ハーリッシュ・パテル)の他はほぼ不在であるという歪さにもうなずけるのだ。だからこそ、エターナルズが人類に見出した美徳を自身に反映させる行動や感情には嘘いつわりがないわけで、“出現”を食い止めることよりは、忠実なセレスティアルズの木偶であるイカリス(リチャード・マッデン)をヒューマニティのもとへ転向させた瞬間こそがこの物語の到達点であったことは言うまでもない。“人類に見出した美徳を自身に反映させる行動や感情の嘘いつわりのなさ”を、剥きだされた地球の風景を背景にエターナルズに宿していくクロエ・ジャオは、それこそを求めたのだろうケヴィン・ファイギの期待に応えて十全ではあったものの、その密やかで細やかなうつろいがMCU的なスペクタクルとシームレスに同居する新しい文体が獲得できていたかといえばそれは既視感につかまっていささか鼻白むものであったのは正直なところだし、いかなるジャンルからフックアップした監督であっても一定以上のMCUクオリティを成立させてしまうパッケージシステムの功罪と限界は、DCが舵を切った破れかぶれの作家主義とはきわめて対照的に思えてそこに帝国の倦怠を感じないこともなかったのだ。それにしても、自らの呪われた運命を知ることで完全体へと近づいた瞬間、まるでそのためだけに存在したかのごとくセナ(アンジェリーナ・ジョリー)に瞬殺されるディヴィアンツのリーダーのなんという哀れよ。
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2021年11月08日

ひらいて/ラヴレター・フロム・彼方

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原作未読。あらかじめ破綻して開始されたとはいえ三角関係の体裁をとりながら、終盤の或るのっぴきならない状況まで木村愛(山田杏奈)、西村たとえ(作間龍斗)、新藤美雪(芋生悠)の3人が同じフレームにおさまることはなく、しかも3人の誰もが望んだわけでもなくもたらされたその状況で美雪のとったある行動に烈しく虚を突かれつつも、この物語が曲乗りする不穏と不安と不条理のバランスは、愛ではなく美雪が中心点だからこそ成立したのだなとようやくにして理解することとなる。抱えた持病がもたらすハンデを飼い馴らすために美雪が手に入れた、私は誰かのために生きるのだという一見したところの利他は、そうすることで他人に寄りかかる重さを相殺することでしか私は立っていられないからという内爆する蒼い覚悟のあらわれにも思え、それが美雪を密やかで優しくも世界への透徹した目つきを持つ無垢と無自覚の怪物へと変貌させた気もしたのだ。まるで手紙にでもしたためるように、隙なく推敲された美しく間違いのない言葉を怒りも哀しみも喜びも驚きもそのすべてを紙片に並べるような水平で紡ぐ美雪の言葉は怪物の甘美で不吉な一噛みにも思え、美雪と母の泉(田中美佐子)が父の不在となった食卓で夕食に用意された鍋を前にかわす会話の、たとえが東京の大学に受かったこと、だから私はたとえに付いて東京に行くのだという決心ですらない報告を、夕食が好きな鍋で嬉しい気持ちとたとえの合格を喜ぶ気持ち、そしてそれがもたらした自分の気持ちの昂りをまったく同列に連ねて言祝ぐかのように母に告げる美雪の仄明るい違和を、その話はお父さんがいる時にまたしましょうねと軽やかにかわす母のルーティーンワークめいた笑顔が裏づけたようにも思ったし、単身赴任なのだろうやはり父親の不在のもと同じように食卓でかわされる愛と母親(板谷由夏)のやりとりの他愛のなさは新藤家の食卓との健康的な差異を色づけしているのだろう。だからこそ、美雪というフラットの怪物の水のような感情が揺らいだ冒頭に述べたシーンで、たとえの父(萩原聖人)に対峙した美雪が一瞬で体勢を立て直し、凍りついてうつむくたとえと愛をよそに、たとえの父に出されたかまぼこを押し頂くように口に運ぶその姿には、いったい自分は何を観ているのか、これは高校生の少しばかりエキセントリックなだけの恋愛映画なのではなかったのかと息をひそめて居住まいを正さずにはいられなかったし、なればこそ、この物語の幸福な着地が愛もまた美雪の怪物に一噛みされてひざまづくラストであったことは十全の帰結に思えたのだ。原作の愛や美雪がどのような彼女たちであったのかわからないけれど、木村愛の不発する青春が炸裂するまでを本筋とすれば座りが良いのだろうことは承知の上で、ワタシは首藤凛監督が解き放った新藤美雪という世界をことごとく均す怪物こそがこの作品の真価だと思ってやむことがなく、それをほとんど憑依でもしたかのように捉えた芋生悠の怪物からも一時たりとも目を離せすことができなかったのだ。勢いのまま原作を読んでみようかとも思ったけれど、この美雪が美雪のままでいてくれそうもない気がするのでやめにした。
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2021年11月03日

キャンディマン/なめたらいかんぜよ

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『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』がジェントリフィケーションという名の搾取が生み出した幽霊屋敷の呪いを断ち切る物語であったとするならば、これは失敗したシカゴの公営住宅プロジェクト「カブリーニ・グリーン」にかけられた呪いがジェントリフィケーションによって呼び覚まされる物語であり、オリジナル版『キャンディマン』においてその呪いを断ち切ろうとしたのが白人であった一方、今作がその続篇というより鏡像として在る(それは既にオープニングのユニヴァーサルロゴに見てとれる)のは、黒人自らの手で継承されたその呪いが新たなキャンディマンを誕生させたラストにおいて明らかだし、かつての「カブリーニ・グリーン」で白人警官によって生贄にされたシャーマン・フィッシャーズと円環するように、新たなキャンディマンとなったアンソニー(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)が白人警官を片っ端から血祭りにあげるその姿は彼が黒人の守護天使としてあることを謳い上げすらしてみせるのだ。『ゲット・アウト』や『アス』同様、得体の知れない存在を実在のものへと形作っていくことで恐怖の質を現在地に接続する構造はこれまでのジョーダン・ピール節ながら、キャンディマンという既存のキャラクターを据えたことで恐怖の移動がドライヴしない点については、主人公アンソニーを恐怖に対峙する者ではなく恐怖の源泉そのものに変質させることでその道行きのサスペンスを共有する仕組みを成立させてはいる。ただ、せっかくジェントリフィケーションの先兵(ジェントリファイヤー)としての芸術家アンソニーを依り代としながら、アート業界による簒奪や欺瞞がスプラッターシーンのフックとして用意されるにとどまるのは勿体ない気がしたし、その舵の切り方が性急なこともあってスプラッターの撮れ高が不足したのかバスルームの大殺戮はいささか通り魔的に過ぎてとってつけたようにも思え(このシーンでアジア系の学生が先に帰って殺戮を逃れるのは、キャンディマンの呪いが向けられるのが非黒人なのかあるいは白人のみなのかというルールの回避にも映る)、直截的なテラーというよりはクリーピーな催眠性で首を絞めるジョーダン・ピールの話法からすると、監督のニア・ダコスタがそのいずれにも対応する気配をみせていただけに、おまえたちがおまえたちである限りその恐怖が止むことはないという実存ホラーのさらなるデモニッシュな幻視で「カブリーニ・グリーン」の呪われた登記簿を塗りつぶしてしまうことも可能だったように思わないこともないのだ。監督がそのあたりのフェティシズムに興味がないからなのだろう、いくつかある痛覚を刺激するシーンがさほどのえぐみを残さない点はやや食い足りないように思う。一線を越えていくホラーでは悪趣味とエレガンスは両立する。
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2021年10月30日

スターダスト/David Bowie is?

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NYでヴェルヴェッツのステージに出くわしたボウイ(ジョン・フリン)は、そのフロントが脱退したルー・リードの後釜のダグ・ユールであることにも気づかないまま自身のヒーローたるルー・リードへの想いを昂奮のままにぶつけては、みんなダグに騙されるんだよなとオーバーマン(マーク・マローン)に軽くからかわれるのだけれど、そこで何ら悪びれることなくボウイが返した「ロックスターとロックスターの真似をする誰かと何が違うのかな?」という言葉を捉まえた時点で、この映画がボウイの神話を担う最新であることに胸を張ったとしてワタシは何の異見を挟むこともしないのだ。たった一人アメリカという茫漠とした不条理と虚無の中を彷徨することで、ボウイは自分の中に潜む狂気と向き合いそれをさらけ出すことがアーティストの務めであり宿命であるという無垢な強迫観念と、しかしそうやって身を切りながらその奥底にダイヴし続けることで兄テリー(デレク・モーラン)のように狂気に食い尽くされてしまうのではないかという恐怖とを分離して抽出し、その狂気に別のペルソナを与え名づけることでデヴィッド・ジョーンズが致命傷を負うことなく表現を成立する術を見出していくわけで、ことさらボウイに似ているとも思えないジョン・フリンの起用や、ボウイの楽曲を使用する許可が下りなかったことなど、監督にとってどこまでが計算でどこからがアクシデントなのかは不明だけれど、ジギー・スターダストという空前絶後のペルソナを手にする前夜のいまだ何者でもないデヴィッド・ボウイが不安と混乱のうちに立ち尽くす姿としてはそのジョン・フリンの曖昧さこそが望外に奏功していて、アメリカでの演奏シーンがブレヒトなどのカヴァーにとどまるのも、ボウイのルーツをあぶりだしつついまだ盤石のボウイ・ナンバーは手に入れていないことの停滞と閉塞をまぶしてたように見てとれたし、だからこそラストのステージシーンではボウイ・ナンバーでないにも関わらずあれほどの確信とカタルシスがあふれたのではなかったか。それに加えて、レジェンダリー・スターダスト・カウボーイの名前をそっと添えてちゃんと仁義を通していたりもするからなおさら点は甘くなるのだった。
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2021年10月27日

最後の決闘裁判/生きるとか死ぬとか神様とか

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第3章のみタイトルに付けくわえられた”TRUTH=真実”の文字。第1章にも第2章にも描かれなかった真実とはいったい何だったのかと言えば、それは藪の中の、藪の只中で寝台に抑えつけられたマルグリット・ド・カルージュ(ジョディ・カマー)の頬を伝い落ちた一筋の涙に他ならず、ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)にもジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)にも想像できるはずもないそれは、名誉とか誇りとかいった益体もない言葉遊びのずっと奥底で心臓の鼓動のように脈打つ人間の尊厳そのものであったに違いなく、自然を愛し文学を滋養としては自分がこの世界の理に連なっている手触りに確かめながら生きてきた一人の女性が、私は視えない人間ではないのだ、世界のここにいるのだと声をあげることで、顔色を変えた虚構と虚飾の世界がその口を押さえにかかる姿をワタシたちは何度目の当たりにしてきたことか。ここでは男たちがさして余白のない類型的な下衆として描かれる一方で、姑ニコール(ハリエット・ウォルター)や友人マリー(タルラ・ハドン)といった、声を上げたマルグリットによって声を上げない自らが脅かされたと感じる女性たちが後ろからマルグリットを撃つ姿の醜悪と哀れを繊細にとらえつつ、シャルル6世の妻イザボー(セレナ・ケネディ)やピエール2世(ベン・アフレック)の妻マリー(ゾーイ・ブリュノー)がふとした瞬間にみせる夫をとりまく世界への嫌悪をしたためることで、声を上げることのできない女性たちの屈託や怨嗟の諧調によって3部構成の物語がほどけてしまうことのないよう串刺しにしてみせていて、ともすればシナリオのコンディションに左右されがちなリドリー・スコットにあって二コール・ホロフセナー(『ある女流作家の罪と罰』)とベン・アフレック、マット・デイモンの仕上げたソリッドなオブセッションに満ちた脚本抜きにこの作品が成立し得なかったことは言うまでもないだろう。第2章でマルグリットが階段を逃げながら誘うように靴を脱いで裸足になったシーンは、第3章において慌てるあまり階段の角に靴をひっかけて脱げてしまうシーンへと書き換えられ、そうやって細部を催眠的に入れ替えながら三度繰り返してみせたあとで、その酩酊した頭のままなだれこんだ決闘場では、いつしか自分が目をぎらつかせ拳を振り上げる群衆の一人となって目の前の殺し合いに固唾をのんで身を乗り出していることに気づかされて、すべてが終わった後でマルグリットが馬上から夫と群衆に投げかける冷ややかで侮蔑し切った視線は図らずも人殺しを愉しんだワタシに向けられたようにも思え、あの不条理の極みともいえる空間を圧倒的な活劇の祝祭で抽出したリドリー・スコットのひんやりと暴力的な知性による剛腕に打ちのめされて二の句が継げないまま、真のサヴァイヴィーとなったマルグリットがこの世界で我が子だけに向ける笑顔に心の中で頭を垂れるしかなかったのだ。すべては頭の中で完成していて、あとはそれを汎用性のあるパッケージに移し替える作業でしかないとでもいうリドリー・スコットの、悪魔的とすらいえる澱みない解像度をいったいワタシはどれだけ認識できているのか胸に残るのは不安ばかりで、こんな風に何か自分が決定的な失敗を犯したような気分で映画館を送り出される監督が他に思い浮かぶことはない。ひとつ難をあげるとすれば、ピエール2世の倦怠と退廃がピカレスクとして成立してしまいそうなところか。ル・グリに邪な囁きを続けるルーヴェルを演じたアダム・ナガイティスをベン・フォスターの跡目として心に刻んだ。
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2021年10月20日

DUNE / デューン 砂の惑星 : Part1 砂の中のナイフ

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過去と未来が交錯する母と子の物語を怪物の咆哮とともに岩と砂の大地へと刻みつけ(「灼熱の魂」)、つきつけられた切っ先を運命と呼ぶならば、真の救済は運命を受け入れることではなくその刃渡りをしてさらに運命の先へ向かう人にこそ訪れることを告げつつ(「プリズナーズ」)、見間違えようもなく見ればわかるものを撮りながら、それが組み合わさった瞬間に意味は霧散し観客はそこに取り残される不安への恍惚とともに自らの経験と認識を頼りに彷徨を始め(「複製された男」)、運命論的な選択への諦念ではなく決定論に対する自由意志的な決断の疼きを確かめてみせ(「メッセージ」)、実存のパースを曖昧に狂わせ続ける巨大建造物へのフェティシズム(『渦』における巨大ダム、『複製された男』におけるトロントの高層ビル群)がより洗練されたシグネイチャーとして脱走を阻むかのように神経を塞ぎつづけるこの映画をヴィルヌーヴが現時点での集大成として撮り上げたことは言うまでもなく、おまえのいる世界を全身で知覚しろと常に語りかけてきたその作品こそがワタシたちの意識を拡張するスパイスであったことにどこか感傷すら覚えながら思い至ってしまう。ワタシたち人間が「個」であろうとすればするほどその「差」はいつしかシステムの強度を要求して政治を生み出し、しかしワタシたちは「個」であるがゆえそれと闘わなければならないというその「個」と「差」のメランコリックで暴力的な関係こそが「世界」であることを、ワタシの知る限り『渦』からずっと描き語り続けてきたヴィルヌーヴ自身の光と闇を潜った奥底からの心象であったからこそ、この映画はパーソナルフィルムのような密室性で砂漠すらを捉えつづけたように思うのだ。『プリズナーズ』において、常に備えよ(Be Ready)、すなわち世界の不安定を理(ことわり)で杭打つ存在であれと父親に育てられたケラーが偶然と必然の十字路でその祈りを拒絶されたことを思い出してみれば、そうした役割を予知し自認して生きてきたポール(ティモシー・シャラメ)が他者の生命を奪うことで殉教を拒絶し祈りを破壊した行為は、「個」と「差」を繋げる鎖としての暴力が未来を切り開くことを告げてもいたわけで、それこそがヴィルヌーヴ作品にまとわりついて離れない仄暗い不穏の正体であることを明かす瞬間をこのパート1のクライマックスに据えた点においてその確信を解き放つ覚悟と野心がうかがえたのではなかったか。そんな風にしてヴィルヌーヴによる記憶の宮殿といってもいいその一部屋一部屋に飾られた絵画のようなショットの連続でできあがったこの映画からワタシが一枚を選ぶとしたら、裸で椅子に沈みこんだ瀕死のレト公爵(オスカー・アイザック)を眺めながら食事を貪るハルコンネン男爵(ステラン・スカルスガルド)をまるでベラスケスのようにソリッドな光と闇で描いた題名「公爵と男爵」一択となるのは言うまでもない。今こうして『ヴィルヌーヴのDUNE』を観終えてみると、『メッセージ/Arrival』の一卵性双生児にも思えた『最後にして最初の人類』はヨハン・ヨハンソンが夢想したアラキスに他ならないことに気づかされ、彼の不在がかけた呪いにおいてこの映画は永遠の欠落を背負うことになった気もしている。
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2021年10月12日

007 ノー・タイム・トゥ・ダイ/最後にして最初のスパイ

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血にまみれた『スカイフォール』の手続きを経てMajestyでありMotherであるMを退位させたボンドは、まるで失われた青春を取り戻しでもしたかのようなその横顔で閉じられた『スペクター』で寄る辺なき世界からの逃走を成功させたのではなかったのか。冒頭、ヴェスパー・リンドの墓前で爆殺されかけたボンドは生涯の伴侶とすら思えたマドレーヌ(レア・セドゥ)をほとんどパラノイアにも思える激情で責めたてたあげくに打ち棄ててしまうのだけれど、この滑り出しはかつて愛しながらあるいは愛したふりをしては利用してきた女性たちの亡霊に深層で囚われつづけるジェームズ・ボンドの呪いを明かすことで、クレイグのボンドが最後に立ち向かう敵は自分自身であることを宣言したように思ったし、その寄る辺なき深淵にボンドをいかに誘い映し出すか、キャリー・ジョージ・フクナガを起用した理由がそこにあるとすればそれは慧眼であったように思えたのだ。駅でのマドレーヌとの別れまでは。しかしそれ以降、サム・メンデスが『スカイフォール』で行ったダークナイト的脱構築と、脱構築をさらに推し進めた『スペクター』が記号化した表層の狭間とで右往左往するジェームズ・ボンドは、旧友フィリックス・ライターから仇敵スペクターに至る彼の実存を裏付けるすべてを奪い取られるばかりか、彼に未来があったとすればその唯一の希望である存在すらが手の届かぬところへ追いやられてしまうのだ。そしてその死には優雅で感傷的な自己犠牲が許されるどころか、おそらくはジェームズ・ボンド史上初めての完全な敗北によって生還をあきらめるという、007というブランドの失墜すら招きかねないある種の無様で幕を閉じることとなる。しかし最期に彼がその表情にはりつける泣き笑いの表情こそは、かつてMが与えた人殺しの目つきと矜持との交換に差し出した素顔であったのかもしれず、すべてのジェームズ・ボンドたちがしでかした無邪気と無慈悲と乱痴気とそれらがもたらした恍惚とその詭弁への代償を払い続けたクレイグのボンドは、最期の瞬間に人間の復権を赦されながら、しかしその瞬間この世界から消えていくのだ。したがって、この映画が意味あることを語ったとすればそれは冒頭とラストの数10分のシークエンスに過ぎず、ジェームズ・ボンドを亡きものとするというこれまで誰も成し遂げなかったミッションを与えられたキャリー・ジョージ・フクナガがその間のおよそ2時間をどうしていたかといえば、口ごもったかと思えばどなり散らし哄笑したかと思えば泣き叫ぶ、ジェームズ・ボンドの躁鬱的な混迷と混乱をそのまま隠すことなく晒し続けたわけで、このシナリオが抱えるプロットの機能不全をそのままジェームズ・ボンドのそれへと照射する選択を、あらかたの開き直りといくばくかのあきらめとともにキャリー・ジョージ・フクナガは受け入れたのだろう。とは言うもののノーミ(ラシャーナ・リンチ)の実質的な007剝脱をわざわざ自主返納に言い換えるくだりだけは、これだけの手練たちが集まってなおあれほどの手抜きを許してしまうのかと、MCUの偏執的なブラッシュアップなら見過ごすことはしないだろう不完全に落胆はしたものの、その失敗の香りにうながされてようやく受身の準備をとれたからこそ、すべての元凶のはずのM(レイフ・ファインズ)がいったいどの面を下げてボンドを悼むのか心底理解に苦しむあのシーンですらも、ボンドもきみたちもすべてワタシと同じく失敗の産物なのだからと慈愛の気持でやり過ごすことができたのだろうと考える。たぶん世界は救って欲しくなどなくて、思い上がったものはこうして罰を受けるのだ。
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2021年10月07日

死霊館 悪魔のせいなら、無罪。/愛と幻想のエクソシスム

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ロレイン(ヴェラ・ファーミガ)とエド(パトリック・ウィルソン)のウォーレン夫妻にとって真の恐怖とは呪われた人形や悪魔や幽霊に生命を脅かされることではなく、自分ひとりを残して相手がこの世から去ってしまうことに他ならないにも関わらず、自分のこの力(ギフト)は絶望の淵に佇む人たちを救うために与えられたのだと確信するロレインのノンブレーキで疾走するノブレス・オブリージュ的な使命感と、それをいっさい押しとどめることなく必死の笑顔で併走するエドが繰り広げる命がけの婦唱夫随こそが死霊館ユニヴァースをハイカロリーで駆動するエンジンであることを、ここで今あらためて心高らかに宣言してみせている。これまでも夫妻はユニヴァースの欠かせない存在ではあったけれど、あくまでも怪異それ自体を主人公にそのサイドキック的な役割を担ってきたわけで、してみると既にオープニングからこの物語の責を負って夫妻が登場する今作は、例えば夫妻が出会ったなれそめのフラッシュバックなどパーソナルに迫る瞬間など垣間見せつつ、ロレインの能力が抱える両刃の剣としての危うさと、彼女の従者として我が身を省みずその切っ先に身を投げ出すエドの即死スレスレのコンビネーションこそをサスペンスの真っ赤な彩りに選んでいて、ジェームズ・ワンがマイケル・チャベスに託したこの新たな舵は、たとえばMCUが次第にアベンジャーズの物語へと収束していったようにウォーレン夫妻をユニヴァースの幹に据えるため、これまでのように怪異のキャラクターによって変化せざるを得ない話法を均す試みであったように思えたりもした。秘密は床下にあるとあたりをつけて、躊躇なくたおやかなブラウスとスカートのまま潜りこもうとするロレインに、そんなところに入ったら服を汚しちゃうよと心配げなエドを振り返り、だってあなたは心臓発作を起こしてステントを入れる手術をしたばかりでまだ歩くのにも杖をついてるでしょ?と言わんばかりの笑顔で、ちゃんと私のバッグを持っててちょうだいねとだけ言い残して四つん這いで暗闇に消えていくシーンのこまやなか愛情の溢れさせ方にワタシは頬がゆるんだし、CM出身の監督にしては抑制のきいたトーンを正当な手続きで積み重ねてレイヤーの色合いを決定していくマイケル・チャベスの正攻法(『ラ・ヨローナ〜泣く女〜』の愚直なまでの正面突破はジェームズ・ワンの与えた課題だったのかもしれない)は、人間様に軸足をおいた今作の重心を打つために必要な起用だったのだろう。もし今後、ウォーレン夫妻の活躍をより前面に打ち出していくのであれば、今作で密かに八面六臂であったドルー・トーマス(シャノン・クック)をよりアクロバティックに機能させてくれると心霊タスクフォースとしての痛快がいっそう増すのではないかと愉しみにしている。
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2021年10月03日

レミニセンス/死ぬまでROMってろ

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フィルム・ノワールやファム・ファタールの意匠を思う存分借り出してはいるものの、実際のところはニック・バニスター(ヒュー・ジャックマン)という屈託をためた一人の男の自爆するセンチメントが右往左往するに過ぎず、メイ(レベッカ・ファーガソン)にしたところが劇中で文字通り演じさせられるファム・ファタールの衣装をいったん脱ぎ棄てた時、では彼女は世界のどこからやってきていったい何を許して何を憎み、どのような血の轍にはまって抜け出せなかった人なのかが深彫りされることのないまま、ただただニックの追い求める妄想と理想の女性へと矯正されていくばかりだったのだ。しかし、その全てがラストで昏睡したままタンクに浮かぶニックが投影し続ける最良の記憶なのだとしたら、そもそもノワールの行きつくゼロ地点への胴体着陸を期待するのは無理筋というものだし、それよりはむしろ『ジェイコブズ・ラダー』のフォルダに放り込んでしまった方が収まりがいいように思うのだ。リサ・ジョイがショウランナーとして采配した『ウエストワールド』で記憶と実存をめぐる物語を吐き気がするような執着で描いた反動なのか、ここでの記憶はすべて劣化した記録映像として腰が軽く慰みものになるばかりで、もしかしたら水没都市のメランコリーも、乾ききった西部の大地で延々と彷徨し続けたことの反動だったのかもしれず、タンディ・ニュートンはともかくとしてアンジェラ・サラフィアンにまたしても薄幸をまとわせたあたり、年齢が邪魔さえしなければエド・ハリスをニックにすえたパラレル・ワールドの幻視を試みたようにも思ったのだ。それにしても、ここまで舞台を仕立てながら干潮と満潮によって晒される世界と覆われる世界を陰陽の理へとおとしこむ執着がリサ・ジョイにもジョナサン・ノーランにも見当たらなかったのが惜しまれる。
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2021年09月26日

モンタナの目撃者/This Land Is Not Your Land

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銃と暴力で脅せば当然のように相手を支配できるつもりの相手にいい加減しびれを切らして「さっさと撃って殺せ、胸張って死んでやるよ(I’m just gonna keep my dignity)」と、強がりでもなんでもなく逆切れするイーサン・ソーヤー副保安官(ジョン・バーンサル)は、結果として生まれてくる我が子の顔をみることなく消えていってしまうのだけれど、もし彼が父親になっていたら『ウインド・リバー』のコリーのように、アメリカの土地に生まれた者は生命と呪いを背中合わせに生きなければならないことを悲劇ではなく諦念として受け入れなければならないのだと、我が子に伝えるその姿を想像するのはいともたやすく、彼の妻アリソン・ソーヤー(メディナ・センゴア)が生き延びるために何度となく下す瞬時の判断もまた、生命と呪いの境界をすり抜ける生き方をしてきた者の冷徹を借りていて、ここに登場する者たちはオーウェン(ジェイク・ウェバー)とコナー(フィン・リトル)のキャサリー親子と、そのバトンを継いだハンナ・フェイバー(アンジェリーナ・ジョリー)は言うまでもなく、果てはパトリック(ニコラス・ホルト)とジャック(エイダン・ギレン)の殺し屋兄弟に至るまで、アメリカの原罪とその償いに囚われた憂鬱とそれを引き受ける矜持に衝き動かされていたように思ったのだ。特にハンナとアリソンの場合、アリソンはコナーとの関係が『グロリア』の母性を動機としてしまわないようそのキャラクターの背景が執拗に念押しされているし、アリソンは妊婦である点をアクションのデメリットとして一切斟酌しない演出で、観客が抱くバイアスをことごとくうっちゃっている。現状、アメリカの土着と土俗の風景を描く最良と思われるテイラー・シェリダンとデヴィッド・ロウリーのいずれもが、サバービアからランドへとカメラを持ち出しているのは偶然ではないだろう。『すべてが変わった日』が捉えたのもそんなアメリカの時間と場所だったし、クロエ・ジャオの描く荒野がその最新にして最右翼なのは言うまでもないだろう。分断の再興とその侵攻によって辺境が最前線と化している。
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2021年09月22日

ドライブ・マイ・カー/カーヴをまっすぐ曲がる人

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文章では家福と表記される“かふく”を口にしてみればそれは禍福となるのが何より自然でふさわしく、「禍福は糾える縄の如し」と言ってみるその縄の虜であり続ける家福悠介(西島秀俊)がその縄を解くに至る物語としては原作短編を逸脱したと言い難いにしろ、文章上では黄色のサーブ900コンバーティブルの車内で金言と箴言を駆使した超絶カウンセリングで家福を寛解へと導く、かつて家福が亡くした娘が生きていれば同い年であった23歳の渡利みさき(三浦透子)から村上作品ではなじみのマジカル二グロとしてのマジカルウーマンという衣装を恭しくはぎとっては、家福の心配よりきみはきみの心配をするべきだと濱口竜介は全力で彼女のバックアップにまわるのだ。近年映像化された村上春樹作品のことを少し思い出してみると、『ハナレイ・ベイ』ではラストの大胆と言ってもいい書き換えによって主人公サチに再生の光をもたらし、『バーニング 劇場版』では原作において漆黒の塗布にとどめた世界の断絶を暴力で裂いて光を招き入れる試みを告げていて、そのどちらも監督自らが脚色したことを考えてみる時、原作のその先、もしくはその周辺あるいはその下層に村上春樹が隠し埋もれさせたものを彼らの解釈として抽出したのだとすれば、漂泊する女性たちの救済と原初的な暴力への憧憬こそを彼らはそれと決定したわけで、言い換えればそれらを原作からこぼれ落ちた(こぼし落とした?)色合いと手触りとして特定していたように思うのだ。してみると、今作ではその両者をみさきの救済および高槻(岡田将生)との邂逅として脚色したことは至極納得がいくわけで、村上作品を映像化する場合それらが拡張というよりは新たな補填や補完として現れるのは、それらをテキスト上の特徴的な欠損として捉えたからに他ならないだろう。ここでの家福からは致命的な傲慢や悪意は魚の小骨のように取り除かれて、せいぜいが高槻の配役をアーストロフではなくワーニャに変更することで彼の間男を締め上げるにとどめ、この世界にあらかじめある暴力の発火と発熱については高槻にすべて任せてしまっているものだから、みさきの発火装置として涙を流し仮初めの娘に再生のやり方を導くことが彼の役割として次第に浮かび上がり、親と子が互いを救い合うことで生き延びるという村上作品ではついぞなし得ない地点に映画の真っ赤なサーブは到達するわけで、映画にとって主題など邪魔なだけでさほど興味はないし、それよりは作品のナラティヴそれ自体をぼくは愉しんだ、とかいった村上春樹のコメントなどを妄想してみるのだった。境界でゆらぐ緊張の解放と圧縮をシームレスにつなぐ四宮秀俊のカメラは『へんげ(2011)』から『きみの鳥はうたえる』『人数の町』といった作品と共に10年を経て、現状最強といえる芹澤明子氏の座るテーブルについたように思われる。端正と抑制が透徹した彼岸を映す今作にあって、高槻を送ったホテルから離れていくサーブのリアウィンドウに、エントランスで仁王立ちになってこちらを凝視する高槻を認めた瞬間、世界のフレームが瓦解するかのようにガクガクッと揺れるカメラの凶度に、『寝ても覚めても』を観た時の濱口竜介はいつか正面切ってホラーを撮るべきだという願いにそれも四宮秀俊のカメラでという新たな願いを加えてみたのだった。
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2021年09月13日

シャン・チー/テン・リングスの伝説〜いつもトニーから始まる

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MCUのTVシリーズ展開にあまり興味のないワタシのような観客にとって今作は『エンドゲーム』以来のMCU新作となるわけだけれど(『ブラック・ウィドウ』は『エンドゲーム』ではその死が偲ばれなかったナターシャの通夜語りだろう)、アベンジャーズを賄うために極限までインフレーションされた「悪」の生贄としてサノスを捧げる狂熱の儀式もしくは祭りの後の虚脱をどのように浄化して新たな清新から歩み始めるのか、それまでの物語をまずは根本から裏返して北米からすれば辺境であろう彼方を舞台に、アングロサクソンを完全なモブ扱いにする力技と悪=敵がいなければ成立しないMCU世界の忌まわしき呪いをその存在の色艶として両立させるアクロバットをトニー・レオンに託し切った慧眼に、恐れ入ると言うよりはその透徹したクリエイティヴィティの切れ味に背筋がひんやりとすらしたのだった。善悪のあわいで途方にくれたように立ち尽くす人の悔恨と自棄を夕暮れの儚さで灯して立ちはだかるウェンウーの障壁が高ければ高いほど、そこを超えていくシャン・チー(シム・リウ)にはヒーローの血肉がいつしか備わっていくわけで、神話の父殺しというよりは道教的な魂の救済にも思えるそれはそのままシャン・チーというヒーローにたおやかさと高潔の色を施したように思うのだ。しかしシャーリン(メンガー・チャン)について言えば、共闘にしろ反発にしろいま一つ機能として交錯しないことで、本来であればシャン・チーより歪んだ屈託を抱えたはずの彼女がいささか物分かりが良すぎる点、というか物分かりが良くならざるを得ないへの不満(ポストクレジットシーンがその穴埋めをするとはいえ)は、トニー・レオンがみせたミラクルの功罪という気がしないでもない。ウェンウーとイン・リー(ファラ・チャン)の出会いからやがて想いを募らせるロマンスを流麗なアクションで紡いでいくシーンが、かつてアン・リーが『グリーン・デスティニー』で魅せた官能的とすら言える剣術の交感を継承していることは、シャン・チーのメンターとして登場するミシェル・ヨーの凛として揺るがないたたずまいに明らかだろう。今後トニー・レオンは、シャン・チー絶体絶命のピンチ、もしくはシャーリンとの致死的な兄妹喧嘩にスピリットとしてあらわれて、にこやかに兄妹を救ってやって欲しいと切に願う。おそらくケヴィン・ファイギは何かのシナリオのどこかをトニー・レオン仕様にリライトすべく既に指示しているように思っている。
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2021年09月09日

アナザーラウンド/死ぬには少し酔いすぎた

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「朝起きて気分が非常にブルーになってると、そういう時に面白いもの書こうと思えばアップさせなきゃいけない。だから3合くらい日本酒を飲む。そうするとやっと普通の状態になって書けるようになる。」中島らもが徹子の部屋に出演したとき、こんな風にキックとしての酒をわかりやすく淡々と黒柳徹子に語っている。中島らもの場合、酒がキックで済まなくなったことで依存症の泥沼に沈んでいくのだけれど、この映画はアルコールやその依存症への糾弾や擁護の色を分けるわけでも、それをことさらに笑い飛ばしたり揶揄したりするわけでもなく、中島らもがいうところの“ブルー”の彩りを酒で濃くしたり薄めたりしてできる模様が今はなくしてしまったけれど自分の大切だった何かに似てはいやしないかと、人生を折り返した男たちがその帰り途で焦燥にとらわれながら落しものを探すその肩に、メランコリーの上着をそっとかけてやっていたように思うのだ。いつだったか大槻ケンヂが言っていた、薬を飲むだけで簡単に上がったり下がったりするんだとしたら後生大事にありがたがる「本当の自分」なんてものはそもそも幻想なんじゃないかといったことや、酒に自分の心を支配されている感覚になるから絶対に飲まないという蛭子能収の言葉を思い浮かべてみる時、ワタシたちは「本当の自分」という幻想に囚われて自分で自分の首を絞めているのではないかという考えを振り払うことができないでいるし、「本当の自分」と「現実の自分」の乖離の淵で彷徨するマーティン(マッツ・ミケルセン)は、好むと好まざるに関わらず社会との関係性において生きることを要請されるワタシたちそのものであるからこそ、彼の失敗はどこまでもワタシたちの後を付いてくるのではなかろうか。だからこそ、アルコールのキックによって社会的な動物としてつながれた首の鎖を永遠に解くことを選んだトミー(トマス・ボー・ラーセン)がその自爆によって仲間達の失敗に煙幕を張ったことや、最期にマーティンに託した、お前がお前について考えることなど何のあてにもなりやしない、それよりはお前が手を伸ばして触れたものの手触りを大事にしてそれを手放すなというメッセージが悲痛なまでに胸を打つわけで、妻からのメッセージを見たマーティンに宿った、ああこれでもう俺にはトミーの選択を追うことは叶わなくなったという安堵とあきらめの目元からの、未来に対する盲目的な希望にあふれた学生たちの前で泣き笑いするかのようにトミーへのレクイエムを踊り狂い海に飛び込むマーティンのストップショットは『大人はわかってくれない』のそれにも似たその先への止揚の突きつけに思え、その一瞬マスクの息苦しさが今さらながら耐えがたくて仕方がなかった。
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2021年09月07日

オールド/きみへ渚にて

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もしビーチに行かなかったとしたら、プリスカ(ヴィッキー・クリープス)はトレントとマドックスが成長した姿を目にすることなくこの世から若しくはカッパ家から去っていただろうし、ああしてガイ(ガエル・ガルシア・ベルナル)と終世を共に添い遂げることもなかっただろう。様々な基礎疾患を抱えた彼や彼女にとって、はじけ飛ぶように加速する人生の真の恐ろしさは、老化と死への恐怖はもちろんのこと、本来は緩やかであったかもしれない痛みや苦しみが高濃度に凝縮されて打ち込まれるオーヴァードーズのそれであって、わけても統合失調症と低カルシウム血症をそれぞれ患うチャールズ(ルーファス・シーウェル)とクリスタル(アビー・リー)の夫妻を襲う容赦のない断末魔を念入りかつ執拗に描くシャマランの麗しい趣味には惚れぼれするしかなかったし、ラストに用意されるツイストの意外な収まりの良さを思うと、今作はその錐揉みよりはそこに至る真空状態の酩酊こそを愛でるべきで、導入部分で6歳のトレントが出会う人に片っ端から職業を尋ねるシーンなど、通常の手続きで人物の相関を探り合うのももどかしく、私は一刻も早くビーチに行きたいのだ、行って人々をそこに放り込みたいのだというシャマランの焦燥にすら思えたわけで、なにしろ今回のシャマランはカメオというには少しばかりしつこく、しかも監視者/窃視者という役回りでスクリーンに現れ続けるのだ。物語はそれが行き着く場所ではなく運び続ける足取りを語る意志そのものを指すのであり、それを信じる者は救われるのだ、というかつて『レディ・イン・ザ・ウォーター』で明かしたマニフェストはいまだ誇らしげに掲げられ、ハッピーエンドとバッドエンドが互いを相殺するゼロ地点に着地する勇気は、イーストウッドをして晩年に到達した境地そのものであるようにも思え、監督への畏敬の念はいよいよ増すばかりなのだった。ホテルのマネージャーの甥っ子がトレントのIFもしくはスーパーナチュラルな存在だったらどうしようと少しだけドキドキしたけれど。
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2021年09月05日

孤狼の血 LEVEL2/ヒロシマ・モナムール

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昭和という戦争を抱えた時代ゆえ持ち得た生と死のもつれ合う刹那のスピードが撮らせた「やくざ映画」と、それを批評的な憧憬で追尾する「やくざが出てくる映画」の避けがたい断絶それ自体を松坂桃李が曖昧かつ茫洋とした横断で的確に演じ切った前作で、とっくに皆は気が済んだものだとばかり思っていたものだから、彼の演じる日岡を主人公にオリジナル脚本の続篇が撮られることを知った時、それは菊地刑事をメインに据えた『その男、凶暴につき2』なのではないかと、負け戦の香りが一瞬漂ったのは確かだったのだ。前作では色濃かった『県警対組織暴力』の構造はすでに出がらしとなり、ではどこに勝機を見出したのかといえばそれは、市中に放たれた上林成浩(鈴木亮平)という怪物をやくざと警察が血まみれで狩りたてることで超暴力を描写する言い訳を成立させるというモンスター映画としてほとんどやけくそで開き直るその一点にあったはずなのである。はず、と言ったのはワタシにはその目論見がいささか志半ばであったように思えたからで、さすがにそのストレート・アヘッドでやり逃げるには腰が引けてしまったのか、主に日岡の陰影欲しさに彼の周囲へとドラマを巡らす誘惑に屈してしまっていて、その好演は別として近田幸太(村上虹郎)のパートは停滞とプロットホールを誘うだけにしか思えず、幸太との関わりによって上林が過去に捉われるに至ってはアントン・シガーや大友勝利にフラッシュバックが必要か?とその湿度がノイズになったのは確かだったのだ。そうした点で、冷やかな暴力装置として尾谷組の花田優(早乙女太一)が白石映画には稀有な色艶を残したこともあり、できれば上林と薄ら笑いで激突して鶴の首でもへし折るように屠られる様を妄想したりもした。ラストの駐在シークエンスは明らかに『県警対組織暴力』エンドを想起させつつその執行は別の人物に向けられて日岡は原作通り命をつなぎ、もし原作に復帰してのLEVEL3を睨んでいるのなら、そこでは柚月裕子氏をシナリオチームに迎えて薬莢の鈍色に哀しみを映す筆を請うべきだと考える。
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2021年08月31日

FUJI ROCK FESTIVAL'21 雑感

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昨今の状況を鑑みれば決して褒められた選択でないのは重々承知の上で、まずは邦楽アーティストのみの出演というドラスティックな決定から始まった紆余曲折の中、行く行かないという選択肢が頭をよぎったことは一度もなかったように思う。それは苗場皆勤を途切れさせたくないわけでも、もう自粛はうんざりだ好きなようにやらせてもらうぜと中指を立てたわけでも、いま苗場で見ておかねば死んでも死にきれないというアーティストがいたわけでも、思い上がった使命感があったわけでもそのいずれでもなく、では何なのかと尋ねられても「それを造れば、彼が来る(If you build it, he will come)」的なうわ言にささやかれとしか言いようがなく、それについては申し訳ないとひたすら頭を下げるしかないのだ。そんな中、8月21日の深夜にホテルの部屋でNHKBSシネマが放映する『ゾンビ ディレクターズカット版』を見ながら、去年の春からいまだ続く籠城戦と撤退戦の最中にいるワタシたちはゾンビの脅威から逃れてモールに立てこもるピーターやフランそのものだなあと思いつつ、いやどちらかと言えば生前の記憶に衝き動かされてモールにやってくるゾンビがふさわしいのかもしれないと、何度見たかわからないこの映画に新鮮な親しみをおぼえたりもしたのだった。ワクチンは2回目がぎりぎりで間に合わないままだったのが心残りながら、出発前は一週間前から毎朝検温し、送付された抗原検査キットや所定のアプリへの対応およびCOCOAをアクティヴにし、シャトルバスは避けてタクシーで行き来することなど策定しつつ、東京で過ごす消毒と昏睡の日々を極力再現することを肝に銘じて苗場に向かった。

1997年に行われた第1回の天神山(ワタシは不参加)は台風の直撃で観客が半ば遭難して野戦病院と化し、その責任に対し運営が集中砲火を浴びたことで第2回は同地区での開催が叶わず、1998年は本来のコンセプトからは外れる都市型フェスとして一度体制を立て直した後(ワタシはここから参加)で、1999年の第3回から苗場に居を移すことになるのだけれど、天神山の惨劇で世間を賑わせたフジロックがやってくるという事態に当時の地元は受け入れに対して一枚岩であったとは言い難く、苗場開催のアナウンスがあってからほとんどドキュメント的にその経緯を知ってきた者たちは、運営はともかく自分たち客が決定的なエラーを犯したらこの場所も取り上げられてしまうのだというある種悲壮ともいえる決意で苗場に足を運び、とにかく地元に迷惑をかけてはいけない、粗相があってはいけないというそのストイックさがクリーンなフェスとしてのフジロックを築きあげていくことにもなったわけで、ワタシの胸の内を支配する何かがあったとすれば、この1999年のフジロックに臨むそれであったように思えたりはしたのだ。

そうやってゲートをくぐったいつもの苗場は、楽観と悲観、虚無と笑顔、静寂と爆音が水平に同居する彼岸の景色にも似て、百戦錬磨の甲本ヒロトをして「ああ、久しぶりでだんどりがわからなくなっている……」と手につかないハーモニカを嘆かせ「BEGINとしてのライヴはこれが2021年最後かもしれない」と吐露した比嘉栄昇はその後に「開催に賛成する人も反対する人も、その先に望むことは一緒のはずなんだから対立しても仕方がない。道筋を決めなきゃならないのは専門家の人なんだよ」と言葉を連ね、あの向井秀徳がステージでただの一滴もアルコールを口にせず、坂本慎太郎は「できれば愛を」で始めたステージを「ツバメの季節」で締め、電気グルーヴですらが驚くほどに音量を落として祝祭をなだめてみせていて、非常に身勝手な言い方をしてしまえば、ワタシが見たすべてのステージに通底したのは、「業」と言い換えることのできる人間の尊厳であったようにも思ったのだ。もちろんその「業」を「罪」に置き換えることをワタシは否定しないし、そうした意味では観客もアーティストも主催者もすべてが共犯であったことは言うまでもなく、これから先何らかの罪を負わねばならないとしてその誹りを受けることから逃げるつもりはないという決意を告げるべく、ワタシが見たすべてのアーティストはそのステージから観客席へと空気を震わせていたように思っている。帰宅後に受けたPCR検査でワタシは陰性だったけれど、東京都であれば無料で受けられる場所があるので参加者はその責任として査を受けて欲しいと思う。どんなことより優先すべきはあなたとあなたのまわりの人たちの生命である。


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2021年08月18日

ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結/盗人にも五分の魂

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※ある展開に触れてしまっています

凶悪なヴィランとしての決定的な欠落や危険な過剰がいっさい見当たらない、開きっぱなしで焦点の合わない瞳孔とみすぼらしくすり切れた体毛に身をつつんで、実存が一度でも彼に宿ったことがあったのだろうかという呆けた風でただそこに居て宙を見つめ、ではいったいその中にどんな特異能力を宿しているのかと言えばそれを誰も知らぬまま、子供を27人殺したという最悪のプロフィールだけが紹介され、あげくに洋上潜入作戦(しかも囮チーム)に徴集されながら彼が泳げないことを誰も知らず投下された水中で溺死したウィーゼル(ショーン・ガン)の、劇中ぶっちぎりで救いようなくバカでクズでゲスな扱いにはそれなりに気を惹かれはしたものの、その後くり広げられるバカでクズでゲスたちがいつしか救われていく鬼畜大宴会に少しだけ涙ぐんだりしているうちに、薄汚れたイタチのことなどすっかり頭からけし飛んでいたものだから、打ち上げられたウィーゼルの溺死体を映すポストクレジットシーンに何でいまさらこいつが?と訝しんだ瞬間、海水をげふっと吐いて蘇生したウィーゼルは虚空に通じる両眼をかっと見開いてやおら起き上がり、テケテケトコトコと砂浜を密林に向かって小走りで消えていったのだ。既に政府のデータベース上では死亡扱いとなっているウィーゼルは図らずも自由の身となったわけで、ああジェームズ・ガンはそうやってウィーゼルに自身を投影していたのだなあと、ドブネズミが世界を救う物語を爽快かつ痛快に語り終えて満場の拍手喝采をもらった後で、それを宣言しておかずにはいられなかったジェームズ・ガンの一つ二つ三つねじれた矜持を見たようにも思ったのだ。バカでクズでゲスだった自分への報いは甘んじて受けるし、悔い改めるために必要なことは何でもしよう、ただ俺から映画だけは取り上げないでくれないか、それがなかったらそのまま俺は溺れ死んでしまうから。俺を嫌いなあなたが俺のつくる映画を嫌いになるのは仕方がないし、それは当然だ。でも俺には、もう一度あなたが好いてくれるような映画を撮り続けることしかできないから、死の淵から蘇ってひとり走り去っていったウィーゼルがまた子供たちを殺しまくるのか、今度は子供たちを笑わせるのか、今はその先の彼にチャンスを与えてやってはくれないだろうかと俺はお願いしたい、という懇願に耳を貸すのも、かつて彼を断罪した人たちのその行為に生じる責任の一部だとワタシは考える。何よりこの映画は、ハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)もブラッドスポート(イドリス・エルバ)もラットキャッチャー2(ダニエラ・メルシオール)もポルカドットマン(デヴィッド・ダストマルチャン)もキングシャーク(シルベスター・スタローン)もフラッグ(ジョエル・キナマン)も、そしてピースメイカー(ジョン・シナ)でさえも、すべてその譲れない矜持をめぐる物語であったからこそ、呆けたように笑いながらも気がつけば少しだけ胸がつまっていたのではなかったか。ジム・キャロル「ピープル・フー・ダイド」が爆音で鳴らされた瞬間、いったいいつ以来だったのか全身を吹き抜けたライトタイム/ライトプレイスの至福に、泣かないワタシがぐらついた。
posted by orr_dg at 23:08 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする