2021年06月08日

アメリカン・ユートピア/天国に行けないあなたに

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「リメイン・イン・ライト」リリース時に渋谷陽一が張った植民地主義的なかっぱらいの論陣をおよそ30年前のロッキングオン読者は懐かしく想い出しもするのだけれど、そもそもロックが黒人音楽からどれだけのかっぱらいを働いてきたのかを冷静に考えてみれば、どちらかといえば渋谷陽一の批判は運命共同体としてのバンド幻想、あくまで自分たちのバンドのギタリストやベーシスト、ドラマーが手に入れたグルーヴこそを掲げるべきで、そうやってロックは突破してきたのではないかという苛立ちだったことがうかがえるし、その後たどったバンドの足取りを知ってみれば、決して民主的な運営が為されていたわけではないトーキング・ヘッズというバンドの楽曲を、いまや無敵のコスモポリタンとしてのデヴィッド・バーンが歌い上げる姿に何周かした後の皮肉をうっすらと感じたりもしたのである。都市生活者の憂鬱をスノッブ上等と痙攣して自虐するポストモダンが、アメリカの囚われ人としての上着を脱ぎ棄てるために必要とした裸足のポストコロニアルが世界を巡って帰還したアメリカでユートピア幻想を歌うその足元に、それはもうお見事としかいいようがなかったのだ。そして唯一手持ちに欠けた時代性をスパイク・リーとジャネール・モネイにあけっぴろげで頼る屈託のない完璧な風通しにはぐうの音も出ないわけで、これはもう皮肉でもなんでもなく、周到かつ綿密な戦略で遂行しなおかつそうと悟られない闊達をまとうスマートの凄味にひれ伏したのは言うまでもない。しかし、デヴィッド・バーンとスパイク・リーの共犯がもっとも辛辣かつ容赦なく行われるのはそのラストで、デヴィッド・バーンを先頭に客席を練り歩く楽隊に歓声をあげる、けっしてたやすくは入手はできないであろうチケットを手に詰めかけた白人客たちの自分たちは完全にデヴィッド・バーンの側にいることを信じて疑わない多幸感に包まれた表情は(もちろんスクリーンのこちらのワタシとてそこに接続されている)、ジャネール・モネイのカヴァーである「hell you talmbout」演奏時にインサートされる犠牲者たちの遺影と悪趣味とすら言える残酷な対比をなしていて、今ぼくがキミたちを連れ出したこの場所この瞬間こそがアメリカン・ユートピアなんだよねと笑わない目でにこやかに踊るデヴィッド・バーンがハーメルンの笛吹にも見えたのだった。
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2021年06月02日

ファーザー/私は誰だった

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オフィシャルサイト

見当識を失えば失うほど腕時計とフラットへの執着が妄執と化していくアンソニー(アンソニー・ホプキンス)に、時間と場所という座標軸を失った人間がいかにして寄る辺なき存在になっていくのか、認知症は死の恐怖を緩和する麻酔薬であるといった言説に否定や肯定を下す術など持たない自分ではあったものの、いつ終わるとも知れぬ走馬灯の暴走に蹂躙されるその間は死を怖れることすらままならないという点において有効な考えではあったことを、おそるべき彼方から知らされたように思ったのだ。父のことを想うアン(オリヴィア・コールマン)が現実に介入すればするほどアンソニーの記憶はさらなるシャッフルとカットアップに切り刻まれて氾濫するモザイクと化し、しかしアンは自分が波紋となって父が囚われるヴィジョンやサウンドの一切を識ることが叶わないという断絶が、これまでであればアンの哀しみと困惑の視点で描かれた物語の向こう側にアンソニーが彷徨する漆黒の宇宙空間の恐怖と混乱が存在する構造を成り立たせ、オープニングに代表されるアンの一人称と、フラットを漂うアンソニーの一人称が切り分け不能に思えるのは、その2つがたとえば『インターステラー』の並行世界のように互いを串刺ししていたからで、かつて父に注がれたアンの愛情は時空を超えてアンソニーを包み続け、彼が特異点へと向かう後ろ姿を見守り続けたのではなかったか。最期に自分が誰の名を呼んで家に帰りたいと泣くのか、それを知る術がないことに悔いは残るけれど、一片となって虚空に消えていくラストがああして訪れてくれるのならばそれだけでありがたいと考えている。ワタシの一番好きな色もブルー。
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2021年05月25日

MORTAL モータル/マイティ・ソーの解剖

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wowow視聴

これまでトロールや魔女を、超自然というよりはワタシたちが暮らす世界の理=バランスに接続される存在として描くことで新種の驚異/脅威を産み落としてきたアンドレ・ウーヴレダルが、今度は北欧神話の雷神トール(いうまでもなくソーである)を現代のノルウェーへと放り込んでみせはするものの、そこに描かれるのはあくまでトールの力の原初的な絶対値に過ぎず、エリック(ナット・ウルフ)に宿ったその力は神の気まぐれですらない破壊と奇跡を背中合わせに世界を貫いていくばかりで、『マイティー・ソー』をあざ笑うかのような混沌として途方に暮れたプロトタイプの強烈なメランコリーだけがここに記されている。本当に神の力を持った者が現れたらキリスト教やイスラム教のシステムが崩壊する、そしてアメリカはそのような事態を受け入れることはしないという決断が誘った悲劇に、神となることを拒否して世界に力を解き放ったエリックはテロリストとして追われ、そして彼を祀るカルトの誕生を伝えるラストのMCUでは決して描かれることのない這いずるような現実の照射は、これがウーヴレダルがアメリカに招かれて撮った『スケアリーストーリーズ 怖い本』の次作として本国ノルウェーで撮った作品であることを考えてみれば、これまでそれをチャームとしてきたジャンルムーヴィーへの真摯な偏愛がもたらす上気したまなざしを手放した上で寂寥と荒涼の荒野に踏み出す変質をウーヴレダルの成熟と考えてみた時、一切のクリーチャーもモンスターも現れることのないままヒーローが誰とも闘うことのない物語は、さらに重心を低く足腰を鍛えるため自らに課した斤量であったようにも思ったのだ。そしてそれは、いつの日かワタシたちがスクリーンで目にするであろうリチャード・バックマン=スティーヴン・キング「死のロングウォーク」のためのトレーニングなのだろうと考えている。
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2021年05月22日

ブラインドスポッティング/ラストホワイトマン・イン・オークランド

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オフィシャルサイト ※wowow視聴

レイダース(=侵入者、掠奪者)と名乗るアメリカンフットボールチームを擁する街オークランドに進行するジェントリフィケーションを、その地に根付いていたコミュニティの破壊と主権の簒奪、すなわち植民地化の新たなヴァリエーションとしつつ、その蹂躙に対抗するアイデンティティーの先鋭化と暴力化を、土地っ子の黒人コリン(ダヴィード・ディグス)と白人マイルズ(ラファエル・カザル)を縦糸と横糸とすることで、その避けがたい怒りと哀しみをアメリカの普遍につづれ織っていく。しかし、その普遍にまだ幾ばくかの「正気」を嗅ぎ取れるのはこれが2018年時点での普遍だからで、生まれ育った街でありながら白人であるがゆえ“名誉ニガー”のそしりを振り払えないマイルズの苦悩ばかりか、黒人を射殺した白人警官(イーサン・エンブリー)の崩壊しつつある家庭と人生までも、ブラインドスポット=盲点という一面的な視点から自由になれないワタシたちの不幸の証として描くその「正気」こそは、2020年5月のフロイド氏殺害以降さらに一点突破の運動へと変質したBLMが手放すことを余儀なくされた在り方の大きな一つであったようにも思え、ジェントリフィケーションや銃とアイデンティティーが錯綜する世界はこの作品世界の2018年から引き続き有効であるにしろ、あの白人警官のサイドストーリーをもう一つの感情の余地として匂わす可能性と説得力を2021年において示すことの困難にこそ思いを馳せてしまう。拳銃を武器として携行する人間に訪れる自業自得とは決定的に異なる家庭内の誤射という悲劇がどのようにして起きるのか、それはこの物語の中で最も恐怖にみちた瞬間であったに違いなく、それまでオフビートなコメディとして刻まれたステップは突如オンビートでのめり気味にふらつき始め、もうそれまでの自分のまま生きていくことが不可能になったこと、すなわちアメリカで、そしてオークランドで生きていくことそれ自体が政治的でありそこから逃げることはできないと知ったコリンとマイルズに見つける希望と共感の、しかしそこに危うさと脆さが勝ってしまうのはこれを見ているワタシが2021年の住人だからなのだろう。この物語の先に接続されるTVシリーズではマイルズが投獄されるところから始まるらしい。
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2021年05月06日

象は静かに座っている/その気になれば泣くこともできた

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オフィシャルサイト ※wowow視聴

「おれの人生はゴミ箱だ。いくらきれいにしてもすぐにゴミがたまる。」ユー・チェン(チャン・ユー)はそれを嘆くでも自嘲するでもなく、しかし一度はそれに抗って敗れた絶望に餌を与えて飼い続ける忠誠心が彼を駆動させていて、その軌道が自分を世界から遠ざけ続けることを不思議そうな目で他人事のように眺めながら彷徨い続けている。ウェイ・ブー(ポン・ユーチャン)、ファン・リン(ワン・ユーウェン)、ワン・ジン(リー・ツォンシー)の3人はチェンの彷徨う軌道の住人で、劇中で彼らが口にして語る満洲里の象はその世界のマイルストーンのような存在として座り続けていて、かつて『欲望の翼』でレスリー・チャンがテネシー・ウィリアムズから引用した脚のない鳥の一節を想い出させたりもする。その最終形を知ることはなかったとはいえ香港の『欲望の翼』と、台湾の『牯嶺街少年殺人事件』という「総合小説」の表現を目指して達成した先達がどれだけフー・ボーの頭にあったのか今となっては知る由もないけれど、その2作にあって、というよりはウォン・カーウァイとエドワード・ヤンにあってフー・ボーが持ち得なかったものこそがこの作品を4時間弱のあいだ推進していたように思うのだ。そしてそれは、ウォン・カーウァイとエドワード・ヤンが作品に託した美しい時代の美しい時間とその喪失がもたらした強烈なペシミズムの決定的な不在であったに違いなく、今この瞬間が永遠に続けばいいのにと請う時間はこの234分の間ラストに至るまで一瞬たりとも存在することがないまま、最期の最期にようやく天啓のような瞬間が訪れるのだけれど、中国第六世代の著名な監督にして今作のプロデューサーをつとめたワン・シャオシュアイ(『在りし日の歌』)とのラストをめぐる意見の決定的な相違を知ってみると、資本主義と物質主義が食い散らかした残飯の捨てられたゴミ箱の時代のみを知るフー・ボーが最期に求めた仄かな救いにリアリズムを嗅ぎとれなかったワン・シャオシュアイへの、あなたたちが持ちうる時代の感傷もメランコリーも自分たちには存在しないのだ、そしてそのことを描くために撮ったこの映画をついにあなたは理解しなかったという断絶がフー・ボーを追い詰めたことも、その夭折の顛末を知ってみると想像に難くないように思ってしまうのだ。すべてがワンシーン・ワンショットのみで構成されるスタイルもまた、カットによる省略や誘導を作為として排除する潔癖のあらわれに思えはするものの、永遠に終わることのない日常を相手に逆流する血の契約をすることで、泥のような倦怠と意識の遠のく窒息を手に入れたのだろうと考える。おれはすべての他人が嫌いだし、弟も嫌いだとうそぶくユー・チェンが、弟殺しの犯人ブーと邂逅していくつかの言葉をかわすうち、もしかしたらあったかもしれない弟への感情をブーの中にみとめて知らず微笑んでしまう瞬間から先、暮れていく夜に灯る街の明かりがそれまで蒼白だったこの物語にうっすらと血を通わせて、ここがどんなゴミ溜めだろうと自分たちはここから始めていくしかないことをフー・ボーは宣言したのではなかったか。世界が刑務所なのだとしたら脱獄を勧めよう。
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2021年04月26日

クリシャ/チキンを落としただけなのに

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クリシャ(クリシャ・フェアチャイルド)が乗りつけた薄汚れたピックアップトラックの運転席側のドアからはドレスの裾がはみ出していて、全体として彼女が“そういう人”であることを開口一番告げている。しかし、車から降りたクリシャは、「ちゃんと呼吸をして、だいじょうぶ、だいじょうぶ、ちゃんとやれる、落ち着くのよ」と自分に言い聞かせながら戦場にでも赴くかのような目つきで呼び鈴を押し、10年ぶりに再開した一族の妹やら義弟やら甥やら姪やら何やら血の繋がりがあるものないものたちとハグをかわしては「汗臭くてごめんなさい」と謝り続け、ここまでワンカットで描かれるアヴァンタイトルの最後、トレイ(トレイ・エドワード・シュルツ)とハグをしてこちらに向き直ったクリシャに浮かぶ希望や怖れ、緊張と倦怠がないまぜになったクロースアップから、そのすべての感情を失ったラストショットのクロースアップへと円環するまでの80分間、クリシャがいかにしてそれらを手放したか、もしくはそうせざるを得なかったか、その自暴と自棄の事情が薄皮を剥いで滲んだ血の文様で浮かび上がっていくこととなる。何とか自分を成り立たせておくための薬を飲んでは服用の記録をノートにしたためるクリシャに闖入者の不埒はないどころか、むしろ社交と礼儀を失すまいと懸命に細いロープを渡ってどこかへたどり着こうとするように思えるのだけれど、既に青年の年齢であるはずの甥たちが繰り広げるバカ騒ぎの嬌声や、義弟はじめ男親たちのところ構わぬ思いつきによる微細な秩序の崩壊がもたらす精神的なノイズがクリシャの自制と集中を静かに容赦なくそぎ落としていく。そうやって内部のアンサンブルを乱した最中、おそらくはクリシャにとってこの帰郷の目的の一つだったのだろう、ある事情から妹夫婦が彼女にかわって育ててきた実子トレイとの関係修復を決定的にしくじってしまうことで、それまで何とかクリシャをクリシャたらしめていたギプスは弾けとび(ある欠落を覆い続けた右手人差し指の包帯にそれが託される)、かつてクリシャだった何かが感謝祭のフェアチャイルド家を蹂躙し始めるのだ。しかしクリシャをモンスター化して語ることにさほど積極的になれないのは、それまでずっと自分に対してなんとかファイティングポーズを取り続けるようと苦闘するクリシャの姿を見ていたからに他ならず、いつしか思い浮かべずにはいられなかったメイベル(『こわれゆく女』)にあってクリシャになかったのが彼女の無私なる味方(メイベルにとってのニックと彼女の子供たち)であったことを考えれば、それを引き寄せたのもまた彼女であったとはいえ、誰も手を差し伸べないままクリシャが蟻地獄のように沈んでいく血のわだちこそがフェアチャイルド家にとり憑いた恐怖の根源であったように思ったのだ。クリシャが酒を飲もうが飲むまいがいずれ彼女はそこに沈められたにちがいなく、そうやって人間を停止させられた者の貌がスクリーンいっぱいに拡がるラストに、人間がホラー映画を撮り続けそれを見続ける理由が一瞬よぎった気もしたのだ。自分の人間にいい加減うんざりした者の心を、この貌は洗ってくれる。
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2021年04月22日

パーム・スプリングス/なんだかずっと眠いんだ

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※結末に触れています

「すみません、どこかでお目にかかってましたか?」というナイルズ(アンディ・サムバーグ)の返事に、サラ(クリスティン・ミリオティ)の計画がうまくいったことを知ったロイ(J・K・シモンズ)が小さく微笑むアフタークレジットシーン、ループに入らなかった場合、もしくは入る前のナイルズには、ワタシたちの知る傍若無人すれすれのあけっぴろげも人懐こさもないどころかむしろ真逆な結婚式のゲストとしての真っ当さをスーツとネクタイにまとっていて、このナイルスがアロハシャツに短パンで結婚式に乱入することを屁とも思わぬナイルスに変貌するまでの道のりにまずは想いを馳せてしまう。限定的とはいえ永遠の命と永遠の無罪を手に入れたことを知った人間がいつしか繰り広げる善いことと善くないことのTOP100リストと、それを制覇することで突き抜ける善悪の彼岸で得た明鏡止水が俗世にあっては得も言われぬオフビートを誘うわけで、それを愉しんだワタシたちからすれば11月10日をプールで迎えるあのエンディングでも十分だったところが、わざわざ使用前のナイルズを見せる種明かしで冷や水とは言わないまでも日なた水のプールに突き落としてみせるあたり、うっすらと意地が悪くてなおのこと好ましく思ったのだ。とはいえ、このシーンがもたらす最大の呪いがロイであることは言うまでもなく、愛憎半ばするとはいえたったひとり「話」の通じる人間だったナイルズのいなくなったあの世界で、永遠に繰り返される11月9日の牢獄にたった一人で耐えきれるのか、サラがどれだけ詳細な方法を彼に伝えたのかはわからないながら、ある夜全身にプラスチック爆弾を巻きつけて砂漠を歩くロイの姿を思い浮かべるのは容易いことのように思えはするものの、J・K・シモンズの一線を越えた笑顔が妻と子供たちを洞窟に誘う最悪がよぎったことも否定できないのだ。もちろん11月10日を迎えたナイルズとサラの2人が吊り橋理論を確認するにとどまる未来もまた気怠げに横たわっているわけで、そんな風にメランコリーとペシミズムは後味にまわして躁転の時間だけを徹底的に90分間抽出した知能犯と愉快犯の、マックス・バーバコウとアンディ・シアラという名前を覚えて追い回そうかと思っている。
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2021年04月19日

21ブリッジ/街で聖者になるのはたいへんだ

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アンドレ・デイヴィス刑事(チャドウィック・ボーズマン)によるマンハッタンのロックダウン、マンハッタン島に通じるすべての橋と鉄道を完全に封鎖すべしという桁外れな要請が拍子抜けするほどたやすく認められた理由が、ラストシークエンスでのマット・マッケナ警部(J・K・シモンズ)の長広舌からやがて浮かび上がってくる。命がけの仕事に精神をすり減らし狂ったバランスが自身および家庭生活をその犠牲に飲み込んでいく警官たちの不幸を解決するために、お前にとっては汚職でありお前以外にとっては互助となるシステムを私たちは現実的なビジネスとして機能させたのだというマッチポンプのプレイヤーにとって、閉鎖され密室と化したマンハッタンを丸ごとブラックボックスとする以外、致命的な自家中毒の夜を乗り切る術がなかったに違いなく、ひとつだけ彼らに誤算があったとするならば、アンドレがあらかじめ幸福を失った男でありかつその奪回への幻想を持ち合わせない男であったことだろう。製作陣の中にルッソ兄弟の名前を見るとき、ある一つの図式に思いが至るのを避けられないわけで、善悪を無効化することで還流するグローバリズムによって肥え太るアメリカに抱く拒絶と憂鬱こそがアベンジャーズを駆動させたことを思う時、ここで描かれたNY市警の醜悪なマッチポンプもまたそのミクロなアメリカとしてあったとも言えて、善悪の彼岸を超えた場所から彼らに鉄槌を下すアンドレの姿には自己犠牲を突き抜けたアベンジャーズの虚無が重なった気がしたし、アフガニスタンからの退役軍人であるレイ・ジャクソン(テイラー・キッチュ)とマイケル・トルヒーヨ(ステファン・ジェームス)をウィンター・ソルジャーになぞらえてみた時、警官殺しのはずの彼らに寄せるアンドレの憎しみ以外の感情にもそれが見て取れた気がしたのだ。アンドレとレイの攻防に巻き込まれて撃たれ横たわるホテルの従業員を一顧だにしない冷やかさが、ここには善と悪も正義と悪徳も存在しない、敵の視えない世界であることを告げていて、単なるエネルギーの交換として描かれる徹底してソリッドな銃撃戦がそれを饒舌に代弁している。『セルピコ』のナイーヴも『プリンス・オブ・シティ』の苦悩ももはや存しない昏睡した殲滅戦の終りなき水平を、すべてに通じる男アディ(アレクサンダー・シディグ)はたった一言 "coolhand" と名づけていた。
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2021年04月15日

ザ・スイッチ/振るか拭くかがちがうだけ

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2人だけになったロッカールームで、獲物を品定めするブッチャーの目つきをミリー(キャスリン・ニュートン)のモーションと受け止めて、ほんの一瞬たじろぎながらも「あら、あなたがそうならわたしはかまわないわよ」とそれまでの高慢ちきなガードを緩めるライラー(メリッサ・コラーゾ)や、いきなりジョシュ(ミシャ・オシェロヴィッチ)にキスをしては黙ってろよとすごむジョックなど、いずれブッチャー/ミリーに血祭りにあげられるとはいえアルファなスクールカーストの抱える憂鬱をさらり匂わせつつ、ジョシュやナイラ(セレステ・オコナー)をもはやマイノリティの揺らぎを一切必要としないキャラクターと据えることで、ミリーを含めた白人こそを寄る辺のないモブとする構図を組み立てた2020年の最新型によるストレスフリーの清々しさが、ある種ミリーの復讐譚ともいえる下剋上の痛快を蹴り上げながら駆け抜けていく。ブッチャー(ヴィンス・ヴォーン)が帰還するラストシークエンスで彼の言う「お前の体に入ってみて、なんでそんなにお前がみじめで弱っちいのかよくわかったよ」というセリフによって、ブッチャー/ミリーが血祭りにあげる相手が必ずしも手当り次第ではなくミリーの天敵リストの上位ランカーであったその理由が、ミリーの潜在意識の為せる業であったことは言うまでもないのに加え「死んだオヤジの思い出にしがみついてるせいでお前はそんなに惨めったらしいんだろ?酔っぱらいの母親のいいなりでお前の人生もどうしようもねえもんだな、まあいいさオレが叩き直してやる」とブッチャーが続けた瞬間、ケスラー家のキッチンではブッチャーを父親とする疑似家族が束の間できあがることとなり、ならばとミリーと母コーラ(ケイティ・フィナーラン)、姉シャーリーン(ダナ・ドロリ)が力を合わせてブッチャーを撃退することで、ケスラー家の女性たちは亡き父親の呪縛をようやく解いてみせたように思ったのだ。と書いてみると何やら再生と自立の光差す物語のように映りはするものの、冒頭から金持ちの坊っちゃん嬢ちゃんが切り刻まれるポップなゴアは、ミリーを虐めることに生きがいを燃やす木工教師(アラン・ラック)とブッチャー/ミリーの対戦における、スピリットはスラッシャーながら肉体は脆弱なままのブッチャー/ミリーが不敵なガッツで教師を血祭りにあげるその姿に喝采を叫ぶ瞬間をピークに、どうせブッチャーのやったこととして処理されるなら、片っ端から漏れなく殺っちまいなと肩入れするそのテンションでスラッシュするリフが最後まで煽りつづける、お仕着せでないラストガールの後ろ姿にはディアブロ・コディの『ジェニファーズ・ボディ』を思い出したりもしたのだ。黄金期がない代わりにシルヴァーとブロンズを鈍色に飾り立てるヴィンス・ヴォーンが、お望みとあらばとにこやかなサンドバッグになって新しいやり方をバックアップしている。
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2021年04月11日

水を抱く女/溺れたいのに

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冒頭、別れを切り出したヨハネス(ヤコブ・マッチェンツ)に「行っちゃだめ、あなたを殺すはめになる」と、脅すというよりは諭すようにウンディーネ(パウラ・ベーア)が告げたオープンカフェのテーブルをその数分後に隣の建物から見下ろすとき、彼女がそこで待つようにと言ったテーブルと一人そこに座るヨハネスはまるごと、先ほどよりも建物の壁際へと何食わぬ顔で移動していて、それではヨハネスの左側、すなわちウンディーネの右側から2人を捉えていたカメラはどこにいたのかと、ワタシの場合ここから位相がずれ始める。そんな風に運命のさざなみに気もそぞろなウンディーネのはずが、ガイドとしてベルリンの歴史をレクチャーする都市開発住宅局の見学者ツアーでは、“ベルリン”がかつて沼地であったことがその都市名の由来であることや、本来は西のはずれにあった王宮が都市エリアの発展に伴いいつしかそこが中心部となったこと、東ドイツ時代の都市計画とその建築物への濃密な共感の記憶などを、そこにいてすべて自分の目で視てきた者の感傷と郷愁の饒舌で繰り広げ、あなたを殺すと囁いたばかりの女が語るベルリンの都市論に、さらに位相がずれていくわけで、この後で起きるクリストフ(フランツ・ロゴフスキ)との出会いの時点で自分がどこにいるのか既に覚束なくなっている。人間の姿を借りた水の精ウンディーネは、クリストフとの出会いによって己の運命に倦んでいる自分を知り、最終的にはその運命に屈したとはいえ、束の間でもそれに抗ってみせた時間を新たな記憶に刻んだことを告げるのがあのラストであったということになるのだろうし、それはベルリンという未来に目を伏せ過去を継ぎ接ぎした歴史都市に憑いて離れることのできないウンディーネの、静かな諦念を揺らす希望のさざ波であったようにも思ったのだ。ウンディーネとクリストフが出会って以降の、水没したベルリンの水中に恋人たちを追うような重力と空間を曖昧に消失した酩酊はえら呼吸をする生き物のそれであった気もして、ヨハネスはそれに魅せられてしかし恐怖したのかもしれないと、最後には少しだけ彼の不憫を感じたりもした。水の中では何でも起こるのに視えない。
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2021年04月05日

ノマドランド/道はだれがつくったんだろう

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ファーン(フランシス・マクドーマンド)はヴァンがパンクしてもタイヤ交換をすることができないし、故障したヴァンの修理費も自分で賄うことができず姉ドリー(メリッサ・スミス)から借りるしかない。にも関わらず彼女は、借りた金の出どころである不動産業者の義兄に、人々に借金をさせて家を購入させることで金を稼ぐ偽善を説くのである。その後でファーンと姉の二人きりの会話から浮かび上がってくるのは、リスクを承知で人生の異なる側面を探らずにはいられず家を飛び出していった若きファーンの、遅れてきたビートニクのような(姉の言葉によればエキセントリックな)生き方は彼女生来のものだということで、必ずしもファーンが経済システムの犠牲者として選択の余地なくノマドの暮らしを送っているわけではないことを監督は誤解なく告げているし、「私はホームレスではない。ハウスレスだ」というもの言いにその矜持を宿らせてもいる。その一方で彼女はVANGUARD(先頭、先陣)と名付けたヴァンの中で、かつての「家」の生活にあった物や者の記憶に想いを馳せることを続けていて、誤ってデヴィッド(デヴィッド・ストラザーン)が昔なじみの皿を割った時には、烈火の如く怒ったあとで接着剤を使い修復すらして物に託した記憶への執着を隠すことをしないのだ。漂泊に誘われ続けるデラシネというには引きずったままの錨が背中に重く、しかしそれを断ち切った時の自分を手の内に実感できないでいるファーンは路上の先達たちとの邂逅を通して、手段でも目的でもないノマドとしての生き方がどこまで自分の本質を参照することが可能か否かを見つめていくこととなる。しかし、ファーンが路上で出会うリンダ・メイやスワンキーたちの駆るRVがドライヴァーと分かちがたくカスタマイズされ、まるでそれ自体が一つの思想であったように、ノマドという処し方を互換性のある概念としてとらえることの危うさは常について回るわけで、例えばビートニクがそうであるように、物質的および精神的な孤絶に自身を剥き出すことで実存と肉体が互いを定義し合う思想の状態であるのか、郊外の都市生活者ドリーが言うような、かつて開拓者たちが荷馬車で西部を目指したアメリカの伝統としてのスタイルを許容するのか、あるいはそうしたオプションすら許されないまま路上にはじき出された人たちの最後の縁(よすが)なのか、そのいずれでもありいずれでもなく混然としたこの物語はあくまでファーンというノマドの誕生を伝えたに過ぎず、次第に透徹していく名優フランシス・マクドーマンドの眼差しと、人間の思惑などお構いなしに荒涼かつ峻烈と横たわるアメリカの大地がつきつける普遍への誘いに目がくらみはするものの、なぜ劇中の彼や彼女らはみな白人なのか、もしもファーンがアフリカ系アメリカ人であったならガソリンスタンドの女性マネージャーは車中泊を見逃したりしただろうか、もしもそうしたさらなる底をファーンが見透かしていたとすれば、かつて最愛の人と過ごした「家」の裏庭からフェンスを通り過ぎ、果てしない砂漠の彼方へと透明な光差す絶望をまとって歩き出すショットで閉じるエンディングが監督によぎることはなかったのだろうかとも考えてしまう。あまりにも完璧なファーンのフェイドアウトに虚を突かれ心を乱した監督が、自身をなだめようとあのエンディングを書き加えたようにワタシにはみえた。
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2021年04月02日

ミナリ/汝、夢を祈るなかれ

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人里離れた山の中、一家を乗せたステーションワゴンはその「家」を目指す。かつて誰かが暮らしたその「家」で夫は次第に自らの野心の虜となり、妻は夫を愛しながらもいつしかその両手は我が子を抱きしめて離さず、息子は新たな「家」と土地の光と影に感応し、一人の老人がその知恵と奥底の力で一家を覆う影を祓うべく刺し違えてわが身を捧げる。とこの物語の連なりを解いてみると、新天地に向かうはずのオープニングからつきまとって離れない不穏と不安と緊張の正体が『シャイニング』の構造であったことに気づかされ、中盤でデヴィッド(アラン・キム)が友達の父親から聞かされる「家」にまつわるある出来事の残留が、「家」の中のある場所に反応する祖母スンジャ(ユン・ヨジョン)とポール(ウィル・パットン)の警戒と恐れによって知らされることとなる。してみると、スンジャの行為によってジェイコブ(スティーヴン・ユァン)があの部屋の隅へと引っ張られることなく清められたのだろうことは言うまでもなく、それはデヴィッドと2人セリを摘む彼の憑き物の落ちたような静謐に見てとれるのだけれど、自分の母親が夫に仕向けた不幸の顛末をその性質としてモニカ(ハン・イェリ)は決定的な負い目に背負ってしまうのではないかという、その先が描かれないことに少し気持はざわついたままなのだけれど、この物語において救うべきは、ジェイコブとデヴィッドという男たちが夢見たアメリカというマチズモの呪いだったのだとすれば、神話は往々にして残酷で寄る辺なくはあるものの、過去を断ち目の前の現在に拘泥し続けたジェイコブがダウジングに譲歩するのも大地の物語への宥和としてあったわけで、神話を持ち得た者にのみ許される言葉と声を手に入れた、孵化場の同僚の言う「それが嫌でここに来た人たち」が、その先で新たな物語を紡ぐ予感を頼りに祝福すべきなのだろう。しかし監督はあの同僚の、淵へと誘うような倦怠を切り捨ててしまっていたわけでもなく、それは、移民という「それが嫌でここに来た人たち」の連なりとして自分が負うべき視線のアウトサイダーの自負とインサイダーの覚悟によっているのだろうし、分断の裂け目から見つめるそのマージナルな視線に晒された移民国家アメリカの、約束の地を失った時代の新たな神話への切実がこの物語を呼び覚ましたようにも思った。役柄としては貧乏くじを引かざるを得なかったモニカ役を、決壊寸前の堤防の緊張と祈りとで演じて内爆するアンサンブルを支えたハン・イェリにこそ讃辞を贈る。
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2021年03月30日

テスラ エジソンが恐れた天才/世界の代わりに泣いている

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モルガン財閥の創始者J・P・モルガン(ドニー・ケシュウォーズ)の娘アン(イヴ・ヒューソン)を語り部とするこのバイオピックが終始いびつで奇妙な傾きを抱えている理由はといえば、これがニコラ・テスラ(イーサン・ホーク)という稀代の天才発明家のなした偉業のプロセスよりは、いかにして彼が自身の不遇を呼び込んだかというその足取りを、なぜならそれは彼が私を愛することをしなかったからなのだというアンの断罪で語っていたからに他ならず、それは例えば、愛を分けた人と行う幸福の追求は発明の才を曇らすのだというテスラのストイックな言い分と、彼がサラ・ベルナール(レベッカ・デイアン)に向ける即物/俗物的な愛とを冷ややかに等分する彼女の視線が、ニコラ・テスラという人の被虐を誘う諸刃の剣としての天才をそのナイーヴへの感傷とともに検証してみせている。世界の法則を解き明かすことで新たな強度と角度を備えた物質を本位とする時代にあっては、法則から物質を生み出すエジソン(カイル・マクラクラン)のある種山師的な目端こそが市場から求められたに違いなく、法則を解き明かし原理を手にすることで恍惚とするテスラの清貧とすらいえる思想が一敗地に塗れるのは当然の成り行きで、そうしたテスラの才と質を見抜いていたからこそ、アンは自分への愛と引き換えに彼のパトロン兼マネージメントを引き受ける野心を隠さなかったように思うのだ。アンのそれが、既にエジソンを取り込んでいた父親に対するある種の反発であったのかは分からないながら、そのエジソンにしてみても終盤のあるシーンで描かれるロマンティストとしての思いがけない一瞬に、この2人のヴィジョニストに対する監督マイケル・アルメレイダの共感というよりは跪いた思慕が伺えたりもして、アンという語り部を立てたのもテスラへの一方的で過剰な美化や憐れみを回避するためと考えればそれなりに得心が行くし、だからこそワタシたちは、テスラの受難を我が事のように言祝ぎながら言葉をつまらせるイーサン・ホークから立ち上る、極上にして鈍色の被虐を心ゆくまで味わえたのではなかったか。モルガンに大見得を切ったプロジェクトが立ち行かなくなり資金を絶たれたテスラが郊外の屋敷にモルガンを訪ね、テニスコートのモルガンにその継続を請うシーン、もはや招き入れられることもないまま植え込みの隙間からフェンス越しに泣き出しそうな子供の目で憑かれた早口で話し続けるも既にモルガンはにべもなく、ようやく振り返ったモルガンの目に入るのは植え込みの向こうに立ち尽くすテスラのズボンのひざ下だけで、もはやお前には言葉も顔も要らぬ、そのひざ下だけで十分だという嗜虐にイーサン・ホークの被虐は打ち震えたままテスラを抱えてどん底に堕ちて行ったにちがいなく、そんな極北の加虐プレイを目にした後では例のカラオケ絶唱とてチルアウトの調べに過ぎなかったのだ。捨て犬の濡れた目で、イーサン・ホークが声を殺して鳴いている、泣いている。
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2021年03月23日

ビバリウム/家を見に行くつもりじゃなかった

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アメリカ的な物資主義の墓場としてのサバービアというよりはシステムの牢獄としてのそれにデカダンスの爛れはなく、そうした囚われが生み出すのは無表情で無感情な人間もどきに過ぎないといういささか牧歌的な比喩と、侵略ものとしては「それ」1人というか1匹というか1体の生育に人間2人を消費して地味にマイナスを重ねていく悠長さが終わらない日常の倦怠と絶望の尻尾をつかまえてはいるものの、その終わらなさの質が完全に変わってしまっている2021年においてはどうにも他人事の手慰みにとどまってしまう点で、互いに運が悪かったというしかないように思えてしまう。人間しぐさを刷り込ませるにおいて、持家の購入を検討するライフステージにある男女を社会的に機能する人間のサンプルとして抽出し托卵させるマーティンたちの目のつけどころはなかなか秀逸で、成長したマーティンがトム(ジェシー・アイゼンバーグ)とジェマ(イモージェン・プーツ)に向ける視線が冷ややかかつ蔑むように変わっていくあたりに、これほど脆弱で卑しい存在に寄生しなければならない我が身への自己嫌悪をほのかに匂わせて、それは人間様の完コピもたらした人間性ゆえの帰結なのかマーティンとしての本質に芽生えたそれなのか、いずれにしろそれを成長の終わりとして、冒頭でトムがそうしたように穴は埋められてマーティンは町に帰っていく。システムを懐疑してそこから「自立」し「自由」であろうとした男女が最期にはそこに呑まれ喰われてしまう物語にあるのは、教訓と言うよりは巧妙なシステムのめぐらされた世界の反映に思え、だからこそルードボーイ賛歌としてのロックステディ「Rudy A Message To You/ルーディたちへのメッセージ」と「007(Shanty Town)/シャンティ・タウン」をわざわざオリジナルヴァージョンでインサートすることでその敗北を痛切にしてみせたわけで、ならばラストの1曲がなぜザ・クラッシュの「Rudie Can't Fail/しくじるなよ、ルーディ」でなかったのか、これがどれほどの画竜であったかはともかくとして点睛を欠いたのは間違いがないように思ったのだ。もちろんXTCには何の恨みもないけども。
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2021年03月17日

ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実/善き人のための戦争

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ウィリアム・H・ピッツェンバーガー(ジェレミー・アーヴァイン)は、なぜデズモンド・トーマス・ドスたりえなかったのか。苛烈な戦場における死力を尽くした自己犠牲にも関わらず、なぜピッツェンバーガーにはドスが授かったアメリカ軍人最高の栄誉である名誉勲章が授与されなかったのか。その始まりとなった1966年4月11日のベトナムのジャングルにおけるピッツェンバーガーをめぐる顛末を、その作戦に参加した部隊の生き残りであるトム・タリー(ウィリアム・ハート)、レイ・モット(エド・ハリス)、ビリー・タコダ(サミュエル・L・ジャクソン)、ジミー・バー(ピーター・フォンダ)、ケッパー(ジョン・サヴェージ)たちのフラッシュバックによって再構成する手際の明らかな停滞、同じシークエンスを角度を変えて繰り返しながら、それが必ずしも羅生門的な事実の乱反射を目的とするわけでもない意図の曖昧さがピッツェンバーガーの英雄的な行動の昂ぶりを抑え込んでしまうのを、デズモンド・ドスの献身を描いた『ハクソー・リッジ』が隠すことをしない愛国の直線的なヒロイズムに対する意図的な回避として捉えるか、あるいはそれから32年後のワシントンで、キャリアへの野心を隠さないペンタゴンの官僚スコット・ハフマン(セバスチャン・スタン)にとっては貧乏くじでしかない再調査の仕事が、戦争を知らない子供たちとしてのハフマンにとっての地獄巡りとなっていくその彷徨がもたらす覚束なさであったからなのか、もしくは単なる不手際か、そのいずれであるにしろベトナム戦争にまつわるすべての記憶と同様に終始歯切れが悪く口ごもったままの語り口が映画の通奏低音となっていく。この映画のミステリーとしての側面を補強する冒頭に述べた謎は、ピッツェンバーガーの使命感あふれる行動と対極をなすある卑俗な理由によっていたことがハフマンの尽力で明らかになり、ピッツェンバーガーの年老いた両親であるフランク(クリストファー・プラマー)とアリス(ダイアン・ラッド)が息子にかわって名誉勲章を受け取ることとなるのだけれど、監督/脚本のトッド・ロビンソンにとってそこに陰謀論的なサスペンスを塗すことが主眼にないのは、あくまで感情のまま粗雑と言ってもいい組み立てにおいて明らかで、それらいくつもの揺らぎやブレが、ベトナムとピッツェンバーガーの記憶に苛まれたまま年老いていく復員軍人たちとの邂逅を通してアメリカの記憶に触れていくホフマンの混乱や困惑と、それが次第にピッツェンバーガーの精神の継承へフォーカスされていく足どりに重なったその一点突破において、この映画は肉を切らせて骨を断つことを可能にしたように思うのだ。そして何より、アメリカ映画を支えてきた錚々たる俳優たちそれぞれの慟哭や告解がそのまま戦争国家アメリカの鎮魂歌となったのは言うまでもなく、図らずも今作が遺作となったピーター・フォンダとクリストファー・プラマーのうち、かつてのキャプテン・アメリカであったピーター・フォンダがシェルショックに苛まれるヴェトナム復員軍人を演じる帰結がその響きをいっそう忘れがたくしている。そんな彼らと比した自らを精神も肉体も小さく着痩せすることで、彼らを看取る存在としてかしずくセバスチャン・スタンの密やかな自在にも目を瞠る。
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2021年03月12日

野球少女/おおきく振りかぶらないで

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契約金の額を提示されたスインの母(ヨム・ヘラン)が、それを支払わなければスインは契約をしてもらえないと勘違いしてうろたえる姿に、持つ者が持たざる者からさらにむしり取る社会の仕組みとそこで痛めつけられてきた彼女が身に付けざるを得なかった、夢なんてものはそれを買える人のためのものだという諦めとそれが導く哀しい処世術の理由が明かされた気がして、それまで憎まれ役としてスインに立ちはだかり続けた母の姿が音をたてて崩れ落ちていく。スインにとって自分がプロ野球選手を目指すのは、自分は他の選手よりうまくプレイできるからその先のステージに進むのだという極めてシンプルな動機によるもので、そこには母がおびえる夢の幻影やガラスの天井を蹴破る理想の達成といった、マウンドとボールの手触りのない感情の入り込む余地はなく、それゆえ周囲の人々はコーチから友人、球団オーナーに至るまでが彼女の揺るがないピュアネスに映った自分を見て、なぜ自分はスインを阻もうとするのだろうという自問自答へと誘われてしまうのではなかろうか。一つだけスインにもたらされた新しい覚醒があったとすれば、速くて強いボールを投げなければいけないという力勝負へのオブセッション、それは常に肉体の優位を誇る男性を相手にすることで宿してしまった呪いでもあるのだろうけれど、そうした野球のマチズモ的側面を利用するプレイへの理解と実践を手に入れたことで、最初は野球部員にも痛打されたストレートで現役のプロ野球選手をピッチャーフライに打ち取ったピッチングでそれを伝えて見せて、題材の割にはそれをメインとしないプレーシーンのクライマックスをそこに凝縮させた監督の意図とその手腕はとてもスマートに思われる。正直に言ってしまえば、スインの体格と投球フォームで130km/h超えのボールを投げられるかといえばいささかの疑問符もついてしまうわけで、いくらCGで投球の軌道を描けるとはいえ、ワンカットで投球がキャッチャーミットにおさまるシーンが少なくほとんどの投球シーンをカットで割っているのもそうした理由があったように考えるのだけれど、それを不満に思わせないのは、マウンドに上がるまでのスインが起きてから寝るまで、おそらくは眠っている間でさえどれだけの視えないボールを様々な相手に投げ続けてきたかワタシたちが知っているからなのだろう。そして何より、そちらに振ろうと思えばいくらでも振ることができたロマンスを踏みとどまることで、スインに吹く孤高の風を捉え続けるそれ自体を目的とする清冽が遠くを見やることを可能にしていて、夜の職員室でひとり仕事を続けるキム先生(イ・チェウン)を目にしたジンテコーチ(イ・ジュニク)が声をかけようとしてためらい帰っていくシーンにすら、ここまで来てすべてを台無しにするつもりかと要らぬサスペンスすら生まれる始末で、だからこそ精一杯の譲歩としてジョンホ(クァク・ドンヨン)とスインの関係を爪保護のマニキュアに託した友情の甘酸っぱいゆらぎがことのほか愛おしかったのだ。スインの背番号が新たな「42」になる未来が待ち遠しい。
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2021年03月07日

あのこは貴族/私はあなたのココロではない

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幸一郎(高良健吾)が2度目に華子(門脇麦)の頭を撫でた時、華子は頭を振ってそれを拒否し、幸一郎はそれに一瞬戸惑いながらも無言のまま部屋の奥に消えていく。この直前、自分には夢なんかない、この家を継ぐように育てられてきてそうするだけだ、と初めて内面らしき欠片を吐露した幸一郎の言葉に、たとえ自分がここではないどこかをおぼろげな夢として思い描いたとしても、それが叶うはずもない現実をおそらく華子は人生で初めて面とむかって突きつけられている。そんな風にして自分より巨大な異物と出会って初めて知る違和感の正体を、そののち華子は美紀(水原希子)の部屋でとらえることとなる。人生とはこちらから手を伸ばして探し求め手に入れるものであったにちがいなく、しかしすべて与えられたもので出来上がった自分のそれは、私の人生というよりは「わたし用」に用意された人生と呼ぶ以外に言葉が見つからず、それを生きるしかないことを幸一郎はとっくに知っていたからこそ、夢などという言葉を持ち出した自分を哀れんだのではなかったか。そうして華子は、自分の結婚が失敗だと分った時にそこから逃げ出す足腰を私は今から鍛えておくのだと、かつて逸子(石橋静河)が自分と美紀の前で言ったことの意味をようやく手に入れることとなるわけで、わたしたちって東京の養分だよねと、健やかに自嘲する美紀と里英(山下リオ)の言葉通り、それを摂り込んで芽を出した華子は囚われの幸一郎を見つめる慈愛の眼差しすらをついには湛えてみせるのだ。おそらく遠くない未来、美紀と里英の立ち上げた会社が企画したイベントでヴァイオリンを演奏する逸子とそれを袖から見守る華子の姿をワタシたちは見ることになるのだろう、そうやって階段を降りてきた2人と昇ってきた2人は踊り場で出会って4人は友だちになるのだろう。そして東京を笑いながら走り抜けていくのだろう。ワタシが好きなのはそんな彼女たちのいる東京だ。というわけで、自分で手に入れたものと与えられたものの象徴としてある「東京」をいまだ東京タワーに託すしかないのは、4人が自分たちだけの東京をまだ発見していないことの顕れということにしておきたい。美紀の部屋でジノリでもロイヤルコペンハーゲンでもウェッジウッドでもないただのマグカップを手にとった華子は、なんかいつまでも経っても捨てられないものってあるよねと美紀に話しかけられながらも、自分の愛着や執着で生活を染めたことのない華子はきょとんとして言葉につまってしまうのだけれど、それに応える美紀の、わかんないかぁという言葉には蔑みや卑下のかけらもなく、それよりは今この場所であなたと話をしているそのことが、なんだか新鮮で楽しくて気持ちが明るいのだという浮き立つような喜びが愛おしく感じられて、なんだかこちらまでおめでとうと祝福したい気持ちでいっぱいになったのだ。原作を読んでいないので監督が何を生かして何を捨てたのかはわからないけれど、これを階級闘争として幸一郎を追い詰めることを目的としなかった監督のたおやかな視線は曇りなく頼もしい。
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2021年03月03日

カポネ/お前はおれを忘れるから

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はだけたローブからオムツをのぞかせて金色のトミーガンで目に入るものを片っ端からなぎはらった後で、健康のため葉巻代わりにくわえさせられたニンジンをペッと吐き棄てたつもりのそれは、情けなく弱々しい軌道でボタッと足もとに落ちていくばかりなのだけれど、この葉巻代わりのニンジンこそがここで描かれるアル・カポネ(トム・ハーディ)であったようにも思え、自身の過去が召喚した、葉巻をニンジンへと変える呪いに喰われていくその姿を、混濁して萎縮し夢と現の境界が決壊していくカポネの意識が映す緩慢な走馬灯として、ジョシュ・トランクはそれを悪意というよりは観察者の眼差しで追いまわしては垂れ流すように描いていく。垂れ流すようにと言ったのは、彷徨するカポネの意識と対比されるべき現実世界のフロリダまでもその足元があちこちで怪しくなっているからで、地の文のつもりで読んでいたらそれもまたカポネの独白であったというその侵食はバイオピックとしての使命を放棄しているように映りはするものの、梅毒に犯された体で小便と糞便を漏らしては襲い来る卒中の危機をかわしつつ過去と現在のあわいで茫漠とした時間を漂うカポネの姿に、濾過された狂気の上澄みがスッと透徹する瞬間を見つけるスリルは確かに存在したように思うのだ。1000万ドルともいわれるカポネの隠し財産の在りかをめぐって、病気の進行によって認知が緩みその隠し場所を思い出せないカポネのふるまいは果たして詐病なのか、それを見極めんとする家族や仲間、そしてFBIの思惑が交錯する神経症的なサスペンスの痕跡が認められはするものの、それをジョシュ・トランクの失敗とするのか、あるいは計算された幻視の目くらましとするかで評価が反転することを考えてみた時、批評家筋の評価からすればあらかたは前者であったのだろうこと、それに加えてジョシュ・トランクの業界的風評がマイナスのバイアスを誘ったことは瞭然であるのだけれど、唸り声以外ほとんどまともなセリフのない破壊されたカポネをトム・ハーディに託して創り上げた己と俳優への確信と、それを解き放った悪魔的な幻視のなめらかに震える催奇性をワタシは断然支持したいと思っている。そのキャリアを干されるどころか、トム・ハーディ、マット・ディロン、カイル・マクラクランといった界隈のスターをキャスティングし、カメラでリンチ組のピーター・デミングまでも招集した製作陣にはローレンス・ベンダーの名前も見てとれて、彼らもまたジョシュ・トランクの才能がスポイルされることを望まなかったのだろうことがうかがえた気もしたのだ。何はともあれ、ほとんどパントマイムといってもいいトム・ハーディの離れ業だけでも観ておくことをお薦めする。
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2021年02月25日

世界で一番しあわせな食堂/料理みたいな恋をした

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寂れた町にふらっと現れたよそ者が、女主人の切り盛りする店とそこに集まる町の人々の表情に明かりを灯すべく立ち上がる、と言ってみればまるで西部劇の幕開けのように思えるのだけれど、ここにはよそ者が打ち倒すべき敵がいないのだ。ワタシたちが思い浮かべる常套であれば敵が出てくるに違いないシーンのことごとくで、よそ者は笑顔と礼儀とで迎えられ、よそ者が町を救うというよりはむしろ町がよそ者を救おうとすることにより生まれる正のスパイラルがよそ者と町の人々の人生を祝福して幸福を高めていくわけで、とはいえそれが確信的な性善説の桃源郷として鼻白むことがないのは、これが30年間をブラジルで過ごしたミカ・カウリスマキが彼の地で目にした分断と負のスパイラルへのカウンターとなる実験にも映ったからで、それは弟アキが近作でついには流血する希望へ踏み込んだ後に筆を置いてしまったことへの呼応に思えたりもした。カウリスマキ兄弟の映画を観ていると他人に優しくすることがいとも簡単に思えてしまうのだけれど、この作品を観てあらためて思うのは、ことさらに優しくしなくても嫌ったり憎んだり遠ざけたりしなければ、そうする理由を探すことさえしなければ人間は自然と繋がるように造られているのだなあというただそれだけであって、この映画をともすれば寓話やおとぎ話と片づけてしまいたくなるのは、防弾ベストのように重ねたそれら理由を手放して丸腰になることへの照れというよりは怖ろしさがそうさせるのだろう気が我ながらしている。チェン(チュー・パック・ホング)とニュニョ(ルーカス・スアン)の主人公親子が中国人ということで、人種や文化が前景となるシーンではそこに始まるクリシェを予想して思わず身構えてしまうのだけれど、こちらのそうした反応を見透かすように監督は、それを衝突や軋轢ではなく新しい出会いへと軽やかに筆を走らせてみせて、その度にワタシは自分が益体もない知ったような顔の分断に毒されていることを知らされてどぎまぎしてしまうのだけれど、それを見透かしでもするようにチェンとシルカ(アンナ=マイヤ・トゥオッコ)やヴィルブラ(ヴェサ=マッティ・ロイリ)、ロンパイネン(カリ・ヴァーナネン)の交流とそこから生まれる更新がだんだんとワタシの毒を抜いていくわけで、冒頭でこれが西部劇だとしたら倒すべき敵がいないのだと書いたその敵は、何てことはない、実はワタシであったのだ。おれはお前の分断を知っているとミカ・カウリスマキは言っていて、しかし、気づいたならそれでいいとも言ってくれていて、このロハスでスローフードな邦題も、お前らにしちゃなかなか冴えたブラックジョークじゃないかと言ってくれるにちがいないと思ったりもした。
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2021年02月19日

すばらしき世界/空を見たかい

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※結末に触れています。

前科十犯、人生のおよそ半分ともいえる二十八年を刑務所で過ごしそこを生き抜いてきた男が、刑務所を出所してから一年もたたずして、撃たれたのでも斬られたのでも刺されたのでもなく、アパートの畳の上でひとり死んでしまうのだ。あの日、沸騰し逆流する血を脈打つ脳や心臓に抑えつけながら絞り出した「……似てますね」というその一言が、三上(役所広司)の時限爆弾にスイッチを入れたことをワタシたちは知っている。もし三上があの瞬間、見つめた裁ちばさみに誘われるがまま手に取っていたなら、その右手にコスモスではなく裁ちばさみを握りしめていたなら、三上の時限爆弾は解除されてあの夜を生きながらえただろうことを知っている。そして残りの人生をどこか刑務所の中で積み重ねただろうことを知っている。少なくともあの嵐の夜に、雨風が吹き込む畳の上で目を開いたままどこかへ消えてしまわなかっただろうことを知っている。三上はワタシたちに、ワタシたちの分身の津乃田(仲野太賀)や庄司勉(橋爪功)、庄司敦子(梶芽衣子)や松本良介(六角精児)に言われたとおり、全てに真っすぐ突っ込んでいくことをやめていい加減に、必要なこと以外は切り捨てて耳をふさいで逃げ、人生を損得勘定で生きようとしたあげく死んでしまったことを知っている。吉澤(長澤まさみ)が三上に言う、不寛容な社会にあって私たちははみ出た人間を許すことができずにいて、しかしそれを知りながら排除されるのが怖くて声を上げることをしないのだという言葉は、彼女がビジネスと打算の象徴のように描かれることもあり三上を丸め込む機嫌取りの甘言としてその場では響かせるのだけれど、結局は彼女の指摘した“ワタシたち”が三上を殺してしまったことをあのラストショットが告げていたように思うわけで、三上を自分たちの考える真人間へとけしかけた人たちが立ち尽くし座り込むアパート前のショットから上へ上へと向かうカメラが虚空を捉えた瞬間、そこに立ちのぼる「すばらしき世界」のタイトルにこめられた監督の皮肉を超えた悪意はこれまでになく直截かつ酷薄で、もはやこの世界にあっては自爆して立ち尽くす人間のセンチメントに普遍を彩ることは叶わないという自罰の徴にすら思えてしまったのだ。だからこそ、三上に対して彼の何者かを抜きに人間の言葉を話しかけたのがいったい誰だったか、リリーさん(桜木梨奈)、下稲葉マス子(キムラ緑子)、阿部(田村健太郎)、そして西尾久美子(安田成美)というそれぞれに抜き差しならない事情でレールを外れた人たちにしのばせたセリフとまなざしに、監督の置いた軸足の角度と重心が映し出されていたことは言うまでもないだろう。どのシーンにおいても三上を最後まで見届けて念を押し、余白でふっと切り上げて空気を抜かないショットは彼が囚われた世界の閉塞であった気もしたし、幾度となくインサートされる空のショットは放置され三上の視線と絡みつくことのないまま、マス子のいった娑婆の空はラストでようやく三上のその上へとやってきたのではなかったか。最初は遠くに霞む灰色のスカイツリーから、逃げるように福岡へ飛ぶ夜行便から見た東京タワーの他人事のようなきらめきをはさんで、最期の夜に久美子と繋がった電話で「死ぬわけにはいかんけん」と話す視線の先でやわらかく灯りのともったスカイツリーは、旭川でも福岡でもないその真ん中の東京に生きることを受け入れた三上に宿ったはかなくも確かな希望の光だったのだろうし、三上の脳裏を最期によぎったのが久美子の声とあの明かりであってくれたらと祈りながら、あんたみたいのが一番何も救わないのよ、と吉澤が津乃田を切り捨てた啖呵を思い出していた。
posted by orr_dg at 17:32 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする