2019年10月10日

ジョーカー JOKER/The King of Remedy

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確かにジョーカー・ライジングな物語ではあったけれど、これはアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)という男がジョーカーへ変貌していくその道程というよりは、ゴッサムシティにジョーカーという呪いがかかるにいたったその顛末を記した覚書のように思える。そうしてみた時、アーサーとブルースの年齢差やウェイン夫妻を手にかけた男の予兆のようなマスクも腑に落ちる気がしたし、その生い立ちに始まり次々に外部からもたらされる不幸によって追い込まれていくアーサーの「わかりやすさ」も、オリジンは往々にして単純で素朴であるということの裏書きであったようにも思うのだ。映画の終盤、カメラは「BLOW OUT(ミッドナイト・クロス)」の文字を映画館のサインボードにとらえていて、これが1981年の出来事であったことを密やかに、だがこれみよがしに示している。この時期のニューヨークはといえば、のちにジュリアーニが牛舎の大掃除を行う以前のニューヨーク・バビロン期における犯罪発生件数が天井をついた時代でもあり、劇中のゴミ収集ストライキもクリスマスを控えた12月に17日間にわたって行われてもいる(ストライキは明日で18日目に突入します、という劇中冒頭のニュース音声はそれを受けてのことだろう)。アメリカ全土ということで言えば、カーターを蹴落としてレーガンが新大統領となり、富裕層や大企業の優遇につながる経済政策によって富の集中が加速するそのスタートの年であったということになる。そうしてみると、アーサーが地下鉄で屠ったあの3人は80年代半ばに登場するヤッピーの萌芽と捉えることも可能だろうし、レーガンが銃で撃たれた暗殺未遂事件がこの年であったことを思い出してみれば、アーサーが初めて外側の世界とコンタクトし波長を合わせたそのツールが銃であったこともまた象徴的に思えてくる。まるでノーメイクでエレファントマンを演じるかのようにアーサー・フレックという男の凄惨なメランコリーに憑依するホアキン・フェニックスに心を奪われて、彼の履く靴が最初のドタ靴から次第に軽やかになっていき最後にはあの一足となったことは彼にとっての解放であったように映りはするし、右手に持ったナースコールを押さなかった母ペニー(フランセス・コンロイ)は贖罪としてその死を受け入れたようにも思ってみれば、ホアキン・フェニックスが演じたのはあくまでジョーカーの呪いに捧げられた生贄としてのアーサー・フレックであったのだろうという気がしてならない。したがって、せいぜいが「善悪は主観に過ぎない」などといった凡庸な論をふりかざしつつ、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に善悪問答を挑むことなく射殺してしまうアーサーにジョーカーの萌芽が見てとれないのは仕方のないところではあるにしろ、ニューヨークの片隅であがくように暮らす一人の男の銃と病気と欠乏の三題噺もまたアメリカの神話であることをトッド・フィリップスは記していたように思うのだ。果たしてアーサー・フレックのジョークを笑っていいのか悪いのか、そんなことを想ういとまもないままただひたすら大勢の人々がこの物語を受け入れているこの世の中こそゴッサムシティそのものであることが、彼が最後にうそぶいたジョークのパンチラインだったにちがいない。
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2019年10月03日

アド・アストラ/父よ、父よ!

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ロイ・マクブライド(ブラッド・ピット)が、少佐(=Major)、と呼ばれるたびにメイジャー・トムの残像がゆらいだ気がしたし、実際のところ「笑顔ですべてを見せない」「宇宙は理解できる」とうそぶくロイはメイジャー・トムのごとく宇宙の唯一性に神性を見た殉教者であって、月へのシャトルロケットのパンナム感皆無の不自由さや、中東の紛争地帯のような車列襲撃、火星の入国管理室の弛緩した殺風景は、宇宙を自身のサイズに矮小化していく人間の無様に対する殉教者の嫌悪と忌避の顕れにも思え、ケフェウス号のクルーに対するロイの独白は言葉によるその証左となっている。結果としてロイは、父クリフォード(トミー・リー・ジョーンズ)と同様にクルー殺しをすることで同じ罪を背負うこととなるわけで(「父の罪を子が負うのか」)、父の道程を追体験するようにたった一人で深宇宙への旅を続けるロイをむしばむ宇宙の絶対性は一人遊びとしての孤独など一顧だにすることなく、お前の存在に何か意味でもあるかとほんの一瞬でも思ったか?ならばこれでもくれてやろうと孤独という死に到る病を注入していくのである。そしてついに海王星で対峙した父マクブライドが見つけたのも、この宇宙には私たちしかいない、生きているのは私たちだけだという、人類の孤独を想えという答えに過ぎなかったわけで、これは星をめざした者(”ad astra=to the stars”)たちの終焉、言い換えてみれば永らくワタシたちを支配してきたスペイス・オディティ幻想の終焉を告げたようにも思え、その体現者であった父マクブライドの退場を見届けたロイがなりふりかまわぬ姿で孤独からの脱出に必死となり、冒頭と円環するように地上に落下した後で、差し出された手に自らの手を差し伸べるショットによってそれは決定的となるも、疎外された者としてのアウトサイダーの帰還とその叶わぬ夢を描いてきたこの監督にあっては、宇宙で孤独の本質を知ってしまった男が求める共感に潜む静かな破滅の香りを、イヴ(リヴ・タイラー)を待つロイの笑顔に漂わせた気もしたのである。俺はいま途方に暮れているが、俺の暮れている途方を君たちが知ったら生きていることを続けようと思うだろうか、というロイのメランコリーと「笑顔ですべてを見せることをしない」という独白は、ブラッド・ピットという俳優が懐に隠し続ける虚無の顕れであった気もして、それは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でのクリフ・ブースにも通じる死の甘く倦んだ香りであったのは言うまでもなく、どちらの映画にも共通する無意識のうちに鬼の玄人が素人を一閃してしまうシーンは、深淵で途方に暮れるブラッド・ピットが貼りつけた彼岸の笑顔に促されて、気がつけば監督がカメラにおさめてしまっていたように思えてならない。寄り添え、ワタシたちはこの宇宙で孤独なのだ、それを知ったら気が狂って死んでしまうくらい孤独なのだ、とブラッド・ピットの“水晶でできているようにさえ見える山中の湖―それも酸性雨が湖中の生物を残らず滅ぼしてしまったために純粋になった湖(ジョー・ヒル)”のようなまなざしが言っている。
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2019年09月27日

アナベル 死霊博物館/あっちへいかなければこっちからいく

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ああ、これはスリープオーヴァー(sleepover=お泊り会)のお話だったんだなあと気づかされた瞬間、この子供たちにとって最初の体験となるだろう目の奥とうなじが熱く疼く徹夜明けの昂揚が眩しげに降り注いだ気もしたのである。そもそもがこのウォーレン家において死人を出せるはずがないという決定的な縛り(このホラーでは誰一人死ぬことがない)の中で、コメディやメタ構造の楽屋オチに逃げることなく、捉えられたら死んでしまうという鬼ごっこの正攻法だけで一晩を逃げ切った巧みなシナリオと衒いのないホラー演出は、人生の因縁を歩き始めたばかりで逃げまどう少年少女たちのヴィヴィッドと相まって、ある意味では死霊館ユニヴァースらしからぬ爽快を残した気もしたし、アイディアと飛び道具先行で少しばかり腰高が目立つこのユニバースのスピンオフ群にあっては、むしろこちらの方が新機軸にも思えたのだ。冒頭のシークエンスにおいて車中のロレイン(ベラ・ファーミガ)のシーンで示される“いないいないばあ”がこのホラーの基本トーンとなっていて、余白の多用とワンカットでの静かな出し入れなどJホラーの洗練をうかがわせる神経の障り方がこの監督の地肩となっているようで、たとえそれがビックリ箱であったとしてもそこに幽かなワンクッションを入れてみせるあたり、この監督の“ホラーの人”としてのセンスは思いがけずワタシの好みであった。様子を見にジュディ(マッケナ・グレイス)の寝室を訪れたメアリー(マディソン・アイズマン)が、ジュディのベッドにもぐりこんで勝手に添い寝をしているアナベルを見て、しかしアナベルのなんたるかをまだ知らないメアリーが、なんだか分かったような分らないような顔をしてそっと部屋を出ていくシーンが物欲しげでなく印象に残っている。恐ろしさの正体を知っているからこそ恐怖に囚われてしまわないロレイン(それをオープニングでおさらいしている)と、その遺伝子を受け継いだがゆえ恐ろしさの正体を無理やり知らされてしまうジュディの恐怖とを端正に描くことで、無垢のメアリーと混乱のダニエラ(ケイティ・サリフ)と、それぞれの恐怖の質までも描き分けた細やかさによってパジャマパーティの狂騒を終始遠ざけていたことも記しておきたい。ただ、ダニエラについては火付け役としての一面性を解いてやるのに少し手まどったせいで、誰よりも辛く切ない恐怖を味わうことになるにもかかわらず、その哀しみが割りを食ってしまったのは少しかわいそうに思えた。人は死なないけれど鶏が一羽だけ殺されていて、しかしそのシーンでのボブ(マイケル・チミノ)はこの映画のというかこのユニヴァースというか、ひいてはジェームズ・ワンの善性を顕していたような気がしてちょっと良かった。
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2019年09月20日

荒野の誓い/マダムと軍人

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相変わらず手を汚さない監督だなあという印象は『クレイジー・ハート』『ファーナス』『ブラック・スキャンダル』からずっと一貫していて、個人の情念を社会背景で強化することで主人公が何だか崇高な理念を手に入れたように映るのだけれど、実はその互いが互いを借りものとしているものだから、本来避けては通れない救いがたさが露悪されることもないまま、やさぐれたハーレクインロマンスがマニュアル車でテクニックを競うようなハンドル捌きで繰り広げられることとなる。冒頭、ロザリー・クウェイド(ロザムンド・パイク)が後家となった瞬間から、あとはジョー・ブロッカー(クリスチャン・ベール)といかにして手に手を取り合うかという手続きが、先住民に対するジョーの罪と罰という障害によってなだめすかされつつ幾多の犠牲者の血を吸うことによって、その蒼ざめた顔に血の気を通わせていくわけで、早々とロックオンしたロザリーが煮え切らないジョーにしびれを切らしてテントに誘い、ついには殺戮の火ぶたを切る銃弾を自らぶち込むことでジョーの尻を蹴りあげることとなり、結果としてこの物語は疑似家族となる3人以外をいかに排除するかというその達成のために善悪のくびきを溶かしていくその腐心を奥行に変えていたように思える。なんと言ってもこの監督の才能はキャスティングを含めた座組みに尽きるともいえ、マサノブ・タカヤナギのカメラに加えて今回はマックス・リヒターの劇伴まで手に入れた布陣もあって、あとは馬なりに流してさえいればハイエンドなドラマが手繰り寄せられていくという寸法はさらに磨きがかかり、中盤で投入されるチャールズ・ウィルス(ベン・フォスター)にしたところで、それがベン・フォスターであるがゆえにジョーの漆黒の胸像として対峙するように映りはするものの、役割としてはジョーの手下を人減らしするだけの機能性の人でしかないという贅沢は、ここまでで既にティモシー・シャラメ、ジェシー・プレモンス、ロリー・コクレーンという手練たちを死屍累々と積み重ねることで死のインパクトを借り続けるそれにも繋がっているのは言うまでもない。作品ごとに時代と風土を変えてこの監督が描いてきたアメリカの原風景が、傑出したキャストとスタッフのパフォーマンスにも関わらずどこか芯を食っていないように感じてしまうのはなぜなのか。やはり俳優出身の監督としてこれもやはりシンガーを主役に据えた初監督作をものにしたブラッドリー・クーパーと比べて見た時、ブラッドリー・クーパーの描いたのが、そうならざるを得ない人生の半ばあきらめにも似た確信であったのに対し、一見したところ同じ諦念を漂わせたようでありながら、スコット・クーパーの描く諦念は、叶わなくても仕方がない、なぜならこれは俺の願望に過ぎないのだからという退路が透けて見えるからこそ、そこには地獄が透けて見えることがないように思うのである。だから御大イーストウッドやデヴィッド・ロウリーの映画を観た時のような、“なんだか困ってしまう”感覚がついてまわることがないのだ。イーストウッドになれなかった男という点では世界中の誰しもと横一線ながら、例えばブラッドリー・クーパーになれなかった男と呼んでみた時、その屈辱と屈託が彼に地獄の蓋を開けさせることになるのだとしたら、誰かがそう言ってやるべきだとワタシは考える。と散々な言いようながら、おそらくはその完璧な座組に絆されて次作も観てしまうのは間違いがないのだけれど。ロザムンド・パイクだけが本能的にはみ出そうとしていたように思う。
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2019年09月16日

タロウのバカ/生きてないやつは死ねない

tarounobaka_01.jpgオフィシャルサイト

あたりまえのように「イワンのばか」を思い浮かべるのだけれど、自己肯定の怪物イワンに対するタロウ(YOSHI)は肯定や否定をする自己というやつがまずわからない自己不定の怪物として、こちらは自己否定の低空飛行で地面に腹をすりつけてはいつも血まみれなエージ(菅田将暉)と自分の中の自己肯定感をかきむしるように苛立つばかりのスギオ(仲野太賀)と共に、おれたちは今ここがここでないことだけを要求するという破壊衝動だけを絆に繋がっている。その絆について言えば、よく言われる登場人物への共感による感情移入など映画にまったく必要のないことを告げる好例ともいえるのだけれど、そうやってピカレスクの光すらを拒否するただひたすらの悪意と暴力によるダンスは、せっかく太陽がお前を照らしてくれているのだから上を向いて自分を肯定しろと迫る世界への、だったらお前が照らすせいで目に入るこのごみクズを先に何とかしろという徹底抗戦にも思えたし、そのダンスに魅惑されるかどうかというよりは、物語という体裁を拒否したそのあまりのやめなさ加減において次第に混濁していく善と悪とか生と死とか朝と夜とか昨日と明日とかいった感覚こそが、この3人の生きる日常なのだとただそれだけをこの映画は告げていたように思ったのだ。となれば踊れなくなった者から死んでいくのも当然と言えば当然で、ついに自己が内側を食い破って出てきたことで肯定と否定の決断を迫られることになったタロウが、グラウンドでサッカーをする少年たちを見て慟哭するその姿に、海を見てこの絶望から始めることを決意したアントワーヌの姿が浮かんだ気もした。避けられぬこととして暴力はふんだんに塗されているのだけれど、最初の殺人は拳銃によってなされねばならないという縛りもあってか、例の如く金属バットで滅多打ちされても人間は死なないという事例が多発していて、それはもう下着をつけたままのセックスシーンと同じくらいフィクションを意識させられてしまうわけで、人が死ぬにはその一閃で十分であることを晒してしまった「その男凶暴につき」の罪深さは海よりも深いままである。そして、彼らがどれだけ往来で人を破壊し襲っても警察が介入してこないのは、この悪い夢が覚めてしまわないための舵の切り方をしているからなのだろうと言い聞かせつつ観ていたところが、終盤でインサートされるある幻視によって時間はすでに夢とうつつのあわいに在ることを念押しのように告げていて、このアリバイは功罪すれすれで映画の救いとなっていたように思う。俳優として最初で最後のマジックを使いきったYOSHIの永続する一瞬を背骨とする危うさが監督の覚悟をうかがわせて冷汗が出続ける。ピザ屋のバイクを弄ぶくだりは、カットがかからなければ誰もいなくなってもあれを続けるのではなかろうかとすら思った。
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2019年09月12日

アス/はやくアメリカ人になりたい

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※展開に触れています

時代の切実な反映は幸福や平和よりもそこに充満する恐怖にあらわれるにちがいなく、ならば恐怖を思想とするホラー映画こそが炭鉱のカナリア足り得て断末魔を響かせることができるのだとジョーダン・ピールは確信しているのだろう。得体の知れない存在を実在のものへと形作っていくことで恐怖の質を現在地に地続きにする点において『ゲット・アウト』の構造を踏襲してはいるものの、今作において急カーヴをきって激突するハンドルさばきのスリルとでたらめは不謹慎なものであったかのように控えめなスパイスにとどまり、それに代わってたぎるような怒りが恐怖に火を点けることで隠されてきた二重性が世界を転覆させようと這い出して来ることとなる。そうやって恐怖を外部に実在化させる点において、既に『ヘレディタリー』がスタンダードとなったあなたがあなたである限りその恐怖が止むことはないという実存のホラーとは対極にあるように思うけれど、今そこにある存在の不安が恐怖を先鋭化する時代の落とし子として、内外を横断する恐怖の質を語る直接性はホラー以外にその手段を持たないとする作家の登場は必然だったと言うことになるのだろう。今作はドッペルゲンガーという、ジャンルにおいてはメランコリックともいえる存在をボディスナッチャーに仕立てることで分断と下剋上の劇的な闘争を目指し、自分が自分を殺しに来るという殺戮のステージまではまるで前払いのボーナスのように血と暴力のスプラッタが大判振る舞いされて、以降でドッペルゲンガーの正体が明かされる本題の講義に備えよと着席を促されることとなる。『ゲット・アウト』同様、良からぬことは地下で行われるというわけで、地下からやって来たドッペルゲンガーの正体が明かされていくのだけれど、すでにイドの怪物でも残留思念体でもない血肉を備えた存在であることが明かされているドッペルゲンガーが、ある失敗した実験の置き土産として打ち棄てられたクローンであることが告げられるものの、地下世界の悪夢的かつきわめて抽象的な描写とあいまって、アデレード個人の闘争がいかにして未曾有の階級闘争へと変貌していくのか、それらが「メタファー」であることは重々承知の上ではあるものの、“クローンではない”彼女以外のクローンたちから血肉の厚みが奪われてしまっているように思えてしまうのは諸刃の剣といったところでもあるのだろう。火事場の馬鹿力に見せかけて切り抜けた『ゲット・アウト』に比べた時、この後で見せなければならないラストのあれに向けて真顔を保たなければならなかった点である程度の失速を監督は覚悟していたように思うのだけれど、それがもし「人間の鎖」運動が自明であるかどうかによる彼我の差ということであれば、ワタシはそこで詰めてた息を吐いた気がしてしまっている。とはいえラストのあれはダイトーリョーが作りたくて仕方のない例の壁のホラーモデルとして最高だったと思うけれど。
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2019年09月08日

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド/夜をぶっとばせ

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※展開に触れています。

1969年8月がいかに紙一重だったか。8月9日に起きたシエロドライブの殺人を含む複数の殺人事件の犯人としてチャールズ・マンソンとそのファミリーが逮捕されたのはしばらく後の10月12日で、もし仮に現行犯に近いスピードで彼らが逮捕されていたならば、その6日後の8月15日から開催が予定されていたウッドストック・フェスティヴァルに地元自治体や住民とのカルチャーギャップに伴う軋轢で開催地の変更を余儀なくされた経緯があったことを考えてみれば、ヒッピーあるいはフラワーチルドレンの犯した凶悪で凄惨な事件の衝撃によって、ただでさえ緊張含みだった地元との関係は嫌悪や憎悪すらを巻き起こして開催が中止に追い込まれていたとしても不思議ではなかっただろう。その場合、ジミ・ヘンドリックスの国歌演奏が存在しなかったどころか、この世界に「ウッドストック」という概念すらが存在しないこととなるわけで、70年代以降のカウンターカルチャーの横顔はワタシたちの知るそれからは大きく修正されていたにちがいない。そしてタランティーノが幻視してみせたのは、その横顔を照らす光と影の違いこそあれやはり紙一重の世界であったのは言うまでもなく、シャロン・テートを救うことでハリウッドの甘くイノセンスな夢を生きながらえさせると同時に、チャールズ・マンソンという怪物の勃興を阻止したことでアメリカのカウンターカルチャーを救ってみせさえしたわけで、タランティーノがこれまで行ってきた歴史の修正がある極悪を叩き潰すことによってなされてきたことからすれば、この作品では叩き潰すのではなく救い出すという真逆の行為によって大きな転換の修正がなされたこととなる。この映画ではかつて片岡義男が“いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ”と解き明かしたその時間が、およそ120分を過ぎた頃までメランコリーと多幸感の強烈なないまぜとして描かれ、そして8月9日の逢魔時を過ぎてブールバードのネオンに灯がともり、ミック・ジャガーがベイビー、お前はもう時間切れだぜと歌い出した瞬間、さっきまで夢うつつに見ていたあれを守るためなら何だってする用意があることをタランティーノは宣言してみせるのだ。それまで執拗に繰り返されていた、存在の証をつなぎとめるように足元から全身をあおっていくショットは以降完全に封印され、ほとんどが黄泉の国の出来事でもあるかのような非現実の世界の中で、ヒッピーがハリウッドセレブを血祭りにあげるという構図は真っ逆さまに逆転し、シャロン・テート(マーゴット・ロビー)が「テス」の初版本を胸に抱いた世界は変わらぬままワタシたちの知らない8月10日の朝を迎え、この映画が存在する限りそれは永遠に続くこととなるのである。クリフ・ブース(ブラッド・ピット)は、本来リベラルの質を持った人間であったことがうかがえはするものの、グリーンベレーとして戦場のフィルターをくぐったことで無自覚で整理されていないリバタリアンとしてハリウッドを漂泊していて、ヒッピーやフラワーチルドレンに対する眼差しの暴力的な豹変もごく自然に行われ、それが何であれ思想への共鳴は優先順位のリストに入ることはなくその点においてリック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)よりは70年代をサーフすることの準備はできているように思われる。そうした佇まいもあってワタシにとっての主人公は終始クリフに尽きるということになり、1969年2月9日のクリフ・ブースはこの映画における最高最良であると言い切ってしまってもいいだろうと考える。なかでも、屋根のアンテナを直すべくリックの自宅に戻ったクリフが、ガレージの道具部屋から工具ベルトと作業グラブを取り出して針金をくわえ、劇中でたった一度見せるスタントマンの身のこなしで屋根にのぼり、アロハシャツとTシャツを脱いでタバコに火を点けるまでの一連はすべてのストーリーから解き放たれた完璧なモンタージュとして成立し、インサートされる回想シーンで彼のナイスガイが押しとどめている不発の気配を増幅した上で、その余韻をスパーン牧場の密やかな決闘へとつなげていくこととなる。ここでクリフが漂わせるのは、命のやりとりをして生き残ってきた者特有の倦んだようなアパシー、言いかえれば人殺しの匂いであって、それはランディ(カート・ラッセル)がクリフを忌み嫌う薄気味悪さの正体でもあり、車を停めてスパーン牧場におり立った瞬間、チャールズ・マンソンとそのファミリーが染みつかせた歪んだ精神の澱みに感応してリックの前では封印しているクリフのもう一つの顔が剥き出しにされていくわけで、ノンシャランなヒロイズムが暴力的なマチズモの領域に変質していく一連を物音一つたてず忍び寄る摺り足のシームレスで演じたブラッド・ピットには、息がつまるように圧倒されてしまう。それを日の下にさらけ出したその半年後、クリフのデーモンをいかにして解体し再構築してみせたか、“私たちに殺しを教えたやつらを殺すのよ”とナイフを振りかざす彼女たちに対し、でもまだこの殺し方は教えてないだろ?とさらなる暴力と殺人の新たな角度で世界を均していくタランティーノの、そうやって死を司ってきた者がここでは生を司ることすらを課したことによって今ここにいない者たちへの思慕が強烈に刻まれることとなり、それは例えば『甘い生活』のような、死の香りが立ち込める地獄めぐりを超えた天国めぐりの彷徨となることで、ついには生と死を円環する全体性を獲得していたように思うのだ。そうやってこの夜の紙一重をすりぬけた者たちが静かで親密に笑いながら退場していくラストは、図らずも神を気取ってしまったタランティーノの安堵のため息といくばくかの照れであったように思えて、ワタシまでもが疼くようにうんうんとうなずくばかりなのだった。テックス(オースティン・バトラー)が手にしていた優雅な銃身を備えたコルトはチャールズの愛銃バントラインスペシャルで、実際はこの夜2人の生命を奪い3人目にとどめを刺そうとして不発に終わっている。
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2019年09月01日

ロケットマン/愛していたと言ってくれ

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もういいかげんやめにしようやと言ってカートが吹っ飛ばしたセックス、ドラッグ&ロックンロールというスターダムとファンダムの共同幻想を、今の気分にデオドラントした上で絵に描いたような話として復活させたのが『ボヘミアン・ラプソディ』の勝因であったのだろうと思いつつ、やはり絵に描いたような話であった今作と決定的に異なるのは『ボヘミアン・ラプソディ』が「絵」に描いたような話であったのに対して『ロケットマン』は絵に描いたような「話」であろうとした点にあったように思う。だって映画だろう?映画のエは「絵」のことだろ?とすっとぼけては、あくまで正史としての「話」を描こうとしたサシャ・バロン・コーエンを一蹴した歴史修正主義者ブライアン・メイの強権は正しかったのだなあとあらためて恐れ入った上で、そうした現場処理にそれなりのほぞを噛んだであろうデクスター・フレッチャーにとって今作はある意味逆襲というか復讐というか、そうした熱量を内燃させて走らせたのは確かであったとは思うものの、そうやって描きあげた「絵」に描いたような「話」のバランスは、結果として「絵に描いたような話」に均されてしまったように思えたりもしたのだけれど、逆にそれがクリシェのオリジンとしての凄味につながっていたのは、祀られるためには(ブライアンの手によって)偶像の中に閉じ込められるしかなかったフレディに対し、そこから下りることで手に入れたエルトンの解放感がこの映画を撮らせたのは明らかで、なにしろこの映画のタイトルは『ロケットマン(Rocketman)』であって『僕の歌は君の歌(Your Song)』でなかった点においてさらに明らかだろう。そんな風にエルトン自身の完全なコントロール下で仕上げられたシナリオなだけに、トラウマというと聞こえはいいけれど彼がいまだ根に持ち続けていることがいろいろと明らかになっているのが愉しくて、『僕の歌は君の歌』誕生の微笑むようなエピソードよりは、トルバドールでお披露目ステージを大成功させてママ・キャス邸のパーティに招かれるという当時の界隈においてまさにスターダムへの扉が開いたその夜に、それを分かち合うことなくナンパした女性としけこんだバーニー・トービンを恨めしげに睨むエルトンの図が忘れがたいのも至極当然で、そこにつけこんだジョン・リードについて、絵に描いたような悪徳マネージャーというわけでもない陰影と愛憎をしのばせた点もエルトンの自虐史観の表れとして物語の強度を支えることとなる。そしてそれはソダーバーグの『恋するリベラーチェ』を観た時に感じた、人目を喰って生きる者の暴力性を当然のように思い出させることとなって、フレディ・マーキュリーもまたそれをまとい続けざるを得なかった人であったことを思ってみれば、それを無理やり脱がせてしまったブライアン・メイの罪深さをワタシはどうしても思わずにはいられないのだ。となれば、両者にとってのジョーカーたるジョン・リードのメランコリーを描く者はいないのかと思ってしまうのが人情というものではなかろうか。もちろんそれはマーティン・フリーマンに演じてもらうとして。
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2019年08月25日

鉄道運転士の花束/天国列車におまえを乗せて

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激突してひしゃげたメメント・モリと丹念になめした鈍色のアパシーと、地政学上の鬼っ子セルビアがシャツとズボンのようにいちどきに身につけたそれとこれはまるで鉄道運転士の制服でもあるかのようで、これはイリヤ(ラザル・リストフスキー)からシーマ(ペータル・コラッチ)へその制服が受け継がれる儀式の物語。ここは死を拭い死に涙することが必ずしも正気の沙汰として歓迎される素振りともいえない世界で、どれだけ線路で人を轢いたとしても罪に問われることのない俺たちが人並みの正気を欲してしまっては、あの世に送った人たちに申し訳が立たなかろうよと、けっして死を軽く想うわけではないけれど、死に捉まらないためにはそれを足蹴にせざるを得ないのだという、夜寝る時にしまいこみ朝目が覚めた時に身につけるその制服こそがこの国を生き抜くための薄日差すあきらめと仄暗い知恵なのだという、監督がセルビアに捧げた愛と苦笑いの讃歌であったようにワタシは思えた。倫理や道徳ではものさしにならない、生きているということは死んでいないということだという確認は、それは人間の右肩上がりの活動を阻害するざわめきとして顕著に忌避されてきたのは間違いがなく、例えば昭和のブルータルが戦争の残滓としてあったことなど思い出してみれば、そこで生まれて育ったワタシがこの映画に感じる親しみと懐かしさの正体を知るのはとても自然で容易なのは言うまでもなく、ペシミズムの色としかいいようのないくすみと退色の緻密な色彩設計がそれら感傷とメランコリーに拍車をかける。ラザル・リストフスキーとミリャナ・カラノヴィッチが身を寄せ合う姿はまるで『アンダーグラウンド』の白日夢のよう。
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2019年08月24日

感染家族/ゾンビあり〼

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※若干展開に触れています

感染と殺戮のスピードを加速し続けることで新しい風景を獲得した『新感染 ファイナル・エクスプレス』に挑戦するかのように(ラストのトンネル&ハワイはそういうことだろう)、ゾンビをカタルシスの獲物と屠ることなくどれだけダウンテンポで着地できるかというアクロバットを倒けつ転びつしながらクリアしていく姿が、ゾンビという愛と欲望のマネキンを押し頂いたこのジャンルの特異な懐の深さをあらためて告げていたように思ったのである。物語の中心となる家族が拝金主義の前に道徳も倫理も投げ捨てていることをあらかじめ描いた上で、ゾンビ体験を経てそれが教訓的に修正されたかというとまったくそんなことはないどころかその先の幸福な落としどころさえ描いてみせるわけで、『新感染 ファイナル・エクスプレス』に欠けていた慟哭するような悪趣味をノンシャランなピカレスクとしてしのばせた辺り、かなり念の入った知能犯であったのではなかろうか。ただ、大オチのためにゾンビ(というか厳密には感染者)の肉体を破壊してしまうわけにはいかないという制約があるせいで、敵陣を突破する軽トラは一人たりともゾンビを跳ね飛ばさないし、チェインソー代わりの草刈り機もアリバイ的に一度だけ誰かの片腕を切り落とすものの(しかし切り落とされた腕にはどこかすまなそうにモザイクがかかるのだ)、切り株上等なマサカーに至ることもなく、ガソリンスタンドの大爆発もロングショットで確認するにとどまって黒焦げたゾンビがいたのかいないのかお茶を濁さざるを得ないわけで、籠城からの脱出、「バブ」化したゾンビ、DIY武装といった王道を外さない分だけ、ゴアゴアの回避がそちらの好事家には物足りなく映るのもやむなしといったところだろう。飛び蹴りは2度ほどありますが。それと韓国映画には必ず先輩後輩ネタが仕込まれるけど、外にいるワタシには自明の文化として映るそれもやはり当事者には厄介で面倒なシステムとしてあるからこそああしてネチネチあげつらうんだろうなとつれづれに思ったりもして、そんなこんなを思いめぐらせることのできるくらい良い塩梅にレイドバックしたポストゾンビ映画の未知なる亜種。
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2019年08月21日

カーマイン・ストリート・ギター/それを作れば、やってくる

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なんだか『ブルー・イン・ザ・フェイス』を思い出したりもしたのだ。グリニッジ・ヴィレッジの小さなギター屋さんのドアをたたくあの人やこの人が、煙草をくゆらすかわりにリック・ケリーとシンディ・ヒュレッジの仕上げたカスタムギターを慈しむようにつまびき鳴らしては、こいつが手の中にあるおかげでぼくらはこんな風に真人間のような顔をしてられると思うんだ、とかそんなことを言いたそうにしてはお互いうんうんうなずき合うその姿に、時間の流れを自分の中に通してはそれを甘美な痛みと引き換えに操る人たちの軽やかなペシミズムを感じたりもして、だからワタシはこの人たち(音源が手元にあるのは半数ほどだけれど)の奏でる音楽に引き寄せられてしまうのだなあと、その秘密を少しだけのぞき見した気分だったのだ。そうやってドアの外とは時間の流れやまわり方が通じない空間だからこそ、時間の彼方に消えていったルー・リードやロバート・クワインといったここにいるべき人たちの不在も何だか一時的なことのように思えたりもしてしまうし、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の不機嫌なチェーンスモーカー、エヴァ=エスター・バリントが、35年?そんな時間わたしは知らない、といった風にすっとそこにいてギターをかき鳴らす姿に不意打ちをくらい、ああこれがNYの魔法ってやつか、と一も二もなくひれ伏したのだった。そしてジェフ・トゥイーディーの誕生プレゼントにギターを買いに来るネルス・クラインの、少し照れくさそうな顔と渾身の試し弾きは極上のボーナストラック。むかし何度かNYに行ったとき店の前を幾度となく通ってるのは確かなのに反応できなかったのは、ワタシがそういう人でなかったからなんだろうと思うとちょっと切なくてくやしい。
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2019年08月20日

HOT SUMMER NIGHTS ホット・サマー・ナイツ/幸せなら頰をたたこう

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※展開に触れています。可笑しくて可怪しい映画で、ティモシー・シャラメが嬉々として空っぽを演じます。

『ターミネーター2』が封切られフレディ・マーキュリーがこの世を去った年として1991年を名指しで呼び出しておきながら、CAN、リンダ・ロンシュタット、ゾンビーズ、スーサイド、デヴィッド・ボウイ、モダン・ラヴァーズ等々といった挿入曲は1991年のヒットチャートと無縁に散らかっていて、そもそもこの物語の語り手が誰なのかその素性と関わりが最後まで告げられないことを考えると、これら選曲は正体不明の語り手によるミックステープに過ぎないのではなかろうかと、デヴィッド・ボウイの選曲に関してはいささか食傷気味であったとはいえ、なかなか居心地のいいトラックリストによるそう遠くも近くもない過去への催眠効果はてきめんだったように思うのである。とはいえ、1991年に物語の舞台となるケープコッドを超大型のハリケーン・ボブが襲ったのは史実そのままで、してみるとこの物語は、地元ではいまだ語り継がれるハリケーンの年に起きたある殺人とその背景を名もない土地っ子が妄想を全開に幻視してみせたひと夏の顛末ということになるのではなかろうか。そう考えてみると、土地っ子のハンター(アレックス・ロー)やマッケイラ(マイカ・モンロー)の輪郭となる苦くて昏い屈託に比べ、よそからやって来た中途半端な通りすがりにすぎないダニエル(ティモシー・シャラメ)が空っぽなピカレスクでしかないのは、彼の役目が狂言回しに過ぎないことの顕れになる気もして、実際のところハンターにしろマッケイラにしろ、ダニエルと関わることで次第に内面は裏返ってキャラクターは奥行きを増し屈託を滴らせ始めるわけで、それとは対照的に父の喪失という餌を与えられながらそれに手を付ける素振りを一向に見せる気配のないダニエルは、倦怠した避暑地の底にたまった鬱屈に火を点けて破壊へのメランコリーをあぶり出す、いってみれば風の又三郎的な存在であったようにも思われたのだ。製作のタイミングからすると『君の名前で僕を呼んで』でのブレイクによってティモシー・シャラメをキャスティングしたわけではないようだし、その在り方のすべてが無邪気という邪(よこしま)でしかないダニエルという存在を、内省なしで主に視線の外し方と合わせ方および薄い胸となで肩によってデザインできる役者として彼をチョイスした慧眼は称賛されるべきだろう。到来したハリケーンが街を破壊したように、ダニエルが街にやってきたことで誰かが死に誰かが街を去ることで物語は収まりよく閉じられるのだけれど、映画のクライマックス自体はその少し前、ダニエルの正体が喝破され又三郎のマントが剥ぎ取られるシーンにあるわけで、それを執り行うシェップ(ウィリアム・フィクトナー)のあまりにもエレガントな緊張と緩和の乱射に見惚れるだけでワタシは料金のもとを取るどころかお釣りさえもらった気分だったのだ。伸るか反るかの大勝負に出たダニエルがドアをノックすると、開いたドアの先に立っているのはウィリアム・フィクトナーその人で、いつも相手の頭の上や横を見つめているようなその視線は先に相手の守護霊を殺しにかかっているようでもあり、「コーヒー呑むか?でも今の若いやつはコーヒーなんか呑まないよな、くくっ」と無精髭に寝起きの髪で小さく笑い、洗いざらしのターコイズブルーのTシャツにオレンジのショーツというノンシャランという名の虚無に身を包んで、よたよたとキッチンへコーヒーとドラッグを取りに行くその数十秒でああこれはダニエル血祭りだと思わせてしまうシナリオと演出のデザインが圧倒的で、しかもその後で事態はさらに圧倒的かつ悪魔的になり、詳細を書いてしまう野暮はしないけれどダニエルは生きながら殺されていくことになる。といった風に、これはティモシー・シャラメのとろけるようなナイーヴを溶かし込んだ「切なく、美しく、スリリングなひと夏の青春」というよりは、町いちばんの不良が死に、町いちばんの美人が町を出たその夏の裏側を、いつも遠くからあこがれの目でふたりを見ていたある土地っ子の少年が可能な想像力をすべてぶちこんで語り尽くす与太話とも言えるわけで、そのあたりの食えなさ加減はA24の面目躍如といったところだし、そのA24の信を得て自身のオリジナル脚本で長編デビューを果たしたイライジャ・バイナムという監督の名前をワタシはここに覚えたのであった。あそこでナメクジの話を持ち出せる書き手はそうそういないと思う。
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2019年08月13日

ゴーストランドの惨劇/ラヴクラフトならこう言うね

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※展開に触れているのでパスカル・ロジェという名前にそわそわしている鑑賞予定の方スルー推奨。一刻も早くそのそわそわを鎮められんことを。

肉体の先に宇宙(魂)を覗く実験であった『マーターズ』から始まり、監禁や誘拐によって真空でスウィングされる肉体こそが魂の共鳴を誘うのだという狂人の正論を整えた『トールマン』を経て、肉体の死か精神の破壊かそのどちらかしか途はないところに追いつめられた魂が肉体の記憶と手をたずさえた時、自動書記のように立ち上がる想像力の筆が描き始める世界は昏睡した現実へのいかなる乱入が可能なのか、魔道士パスカル・ロジェがまるで臨床試験を執り行うかのような冷徹と恭しさとで、ベス(クリスタル・リード/エミリア・ジョーンズ)とヴェラ(アナスタシアン・フィリップス/テイラー・ヒックソン)姉妹の心と肉体を文字どおり“折り”にかかることとなる。しかしパスカル・ロジェが単なる姉妹絶唱の残酷ショウそれ自体を目当てとするはずもなく、ベスによるエピグラフとして捧げられるラヴクラフト愛はいずれ想像力の強度を支えてめぐらされる梁となり、ヴェラ言うところにの“ロブ・ゾンビの家”で繰り広げられる肉体への即物的な恐怖と暴力の応酬との二重世界を築くことで、やがてこの物語にしのばされた目的が次第に明らかとなっていく。ベスの世界に現れる書物のタイトルがそのままこの映画のタイトルとなっていることを忘れさえしなければ、ラヴクラフトがベスに告げる「この傑作を一字一句でも変えたりしたら僕はきみを許さないよ」という言葉を聞いて、ベスが自らガラスを突き破りロブ・ゾンビの家へと戻っていったことの意味が、エピゴーネンからオリジナルへ、仮想敵に酔う世界から真の敵と闘う世界へ、ひとりの女の子の通過儀礼の物語として完結させることすら可能に思えたのだ。といったサイドストーリーを預けたことで、すべての痛覚描写は整合性と正当性を持ち始め、殴る蹴る刺す裂く噛む撃つそして嗅ぐといったおよそ考えうる肉体の破壊が綿密かつエレガントに創造されていくこととなる。特にベスとヴェラの姉妹に顕著な顔面崩壊が得も言われぬ素晴らしさで、それは例えば『トールマン』で犬に脚を酷く噛まれたジェシカ・ビールが映画の間ずっとその脚をひきずっていたりとか、時間が経つほどに腫れ上がっていくそのまぶたであるとか、暴力の結果が都合よく消えるはずなどないことを、ほとんど肉体への敬意といってもいい細やかさでそれを施していたのである。キャンディトラックの女が姉妹の母ポーリーン(ミレーヌ・ファルメール)を三度刺して殺すそのナイフのスピードと角度も絶品で、もしかしたらワタシは劇場でおかしな声を出していたかもしれない。終盤のクライマックス、ベスが絶体絶命となるシーンでからくり人形が絶妙なタイミングを得て笑い出すのはベスがこの物語をついに支配したことの現れだったのだろうことなのはともかく、ここでベスの口から吹き出す泡の色艶と質感に陶然と心奪われたことも付け加えておきたい。
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2019年08月11日

サマー・オブ・84/ドント・スタンド・バイ・ミー

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主人公デイヴィー(グラハム・バーチャー)の「郊外でこそイカれたことが起きる」という冒頭のモノローグによって、この物語がサバービアの憂鬱が引き寄せる暗黒神話というあらかじめ総括された批評眼によって語られる、感傷や郷愁による80年代再現ドラマでないことが宣言されることとなる。たとえば『サマー・オブ・サム』が、あいつがいようといまいがあの夏は俺にとっちゃとてつもなく酷い夏だったという物語であったように、この国の夏休みとは異なり新年度に向かっていったん何者でもなくなる季節であればこそ、鬼が出るか蛇が出るかどちらに転ぶかわからない季節の天国と地獄が「サマー」という言葉に治外法権のようにデモニッシュな響きを与えることとなるわけで、この映画はそれを残酷なまでに利用することによってジュヴナイルに潜むメメント・モリを弄ぶように増幅しては、いかにして1984年というオーウェルの夏が永遠に終わることのない呪いとなったのかを、まるでそれが彼らの罪と罰であるかのように書き記していく。カーペンターやらモロダーやらタンジェリン・ドリームやらの名前が浮かんでは消えていくシンセサウンドを時代の空気を醸す援用としつつ、躁病的な80年代ネオンライトを一切オミットしたくすんだ彩りは、核家族化したアメリカの家族制度がサバービアから崩れ始めたことの表れにも思え、劇中の類型的で貌の見えない大人たちに振り回される子供たちの抵抗こそが、隣人としてのシリアルキラー狩りへと向かっていったようにも思えたのだ。しかしその反逆はある悲劇的な犠牲を払っただけでなく、デイヴィーの視点によってオープニングと円環するラストの風景にあきらかなように、みんな壊れていなくなっていく明日を予感させて物語は幕を閉じるのである。ちょっとだけスマートな主人公デイヴィー、不良を気取るイーツ(ジュダ・ルイス)、太っちょウッディ(カレブ・エメリー)、メガネのファラデイ(コリー・グルーター=アンドリュー)という主人公と不良と太っちょとメガネの組み合わせがそのまま『スタンド・バイ・ミー』の引用であることは言うまでもなく、となればスティーヴン・キングの原作タイトル「死体(THE BODY)」が『スタンド・バイ・ミー』へと移ろうことで青い死と訣別の物語が感傷と郷愁の物語へと書き換えられたことを想い出してみれば、この映画こそが真の『スタンド・バイ・ミー』を名乗るにふさわしいように思うのである。スティーヴン・キングはかつて、“想像力豊かな人間は、自分が脆いという事実をしっかり見据えている。想像力豊かな人間は、物事がなんでも、いつでも、どうしようもなく悪い方向へ進むという可能性に気づいている。想像力豊かな人間は、シリアルキラーの犠牲になるのが自分以外のだれかだとは思わない。ヘンリー・リー・ルーカスのようなやつはこの世に現実にいて、そいつに出くわす確率はパワーボールくじで3億5000万ドル当たる確率よりも高いと思っている。”と書いたけれど、まさにこの映画を撮っているのがキングの言う“想像力豊かな人間”であるならば、それが“電子レンジは扉を開けたままでは作動しないことすら気にとめないそこいらのホラー映画”であろうはずがないのである。キングを信じよ。
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2019年08月06日

よこがお/わたしはそれがひまわりに見えない

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夜の公園で基子(市川実日子)の顔が闇に喰われていたように、喫茶店で茫洋と立つ辰男(須藤蓮)の顔もまた暗がりに喰われている。市子(筒井真理子)とある種の感情を交わした人がやがて自失してしまうのは単なる偶然なのか、市子と妹である道子との関係は参考書のくだりでうっすらと昏いものとして暗示され、やがて自死してしまうその道筋は既に敷かれていたようにも思われる。かつて市子が世話をしていた大石塔子は、余命2ヶ月と宣告された後で2年以上生きながらえながらも、市子が離れた途端ほどなくしてこの世を去ってしまう。娘である洋子(川隅奈保子)の呼びかけには答えず市子には言葉を返すショットの隅でフォーカスから漏れた洋子の姿や、「結婚ってそういうもんでしょ」とつぶやく戸塚(吹越満)を覆う昏いメランコリーは既に市子の暗がりに喰われ始めているようにも映る。「過去」と「現在」という時間軸が交錯する構成は、一見したところ復讐というゴールに向かうサスペンスをフラッシュバックで絞り上げていくように思えるのだけれど、それよりは白川市子という1人の女性が持ち得た「あちら」と「こちら」のよこがおの、それは二面性などという都合と聞こえの良いだけの解釈ではない、1人の人間の全体性として世界の法則に基づいた再構築は、不遜で禍々しくしかし真摯とすらいえる直接性によってそれは行われ、生きているだけで手繰り寄せてしまう罪と罰があるのだとしたら、その救済もまた生の中に見出すことができるのか、その両者が平行世界の物語としてむき出しの絶望と希望を縫い合わせるようにクロスカッティングされていくのである。そしてそれらは互いの存在を確かめるかのように侵食を始め、動物園からの帰り途、基子を追って走る市子のクロースアップは、その先の交差点で決定的に起きることを既に知っているかのような諦念をその貌に貼りつかせて真空を呼び出し、それは押入れから向こう側の光を見て恍惚とする市子を経て、広場で基子の幻影を見て卒倒する市子においてついに貫通してしまう。突き抜けた市子は、おそらく和道との関係も断ったのであろう白髪交じりの髪のまま辰男と贖罪の日々を過ごすことで自分を鎮めようとしたその時、お前はまだ転落と救済の最終試験を受けていないではないかという、人間の理(ことわり)などはなから考慮するつもりなどない世界の道理のひと触れによって究極の残酷に直面することとなり、たとえあの場で彼女がどちらを選んだとしても世界は素知らぬ顔を通したに違いないにしろ、しかし彼女はプライマル・スクリームとしてのクラクションを鳴らし続けることで再生を選んだことを知らせつつ、走り去った市子にはさらにもう一つの選択が待ち受けてたわけで、車はサイドミラーに市子のよこがおを映したまま街の喧騒の中を走り続け、そのノイズがミュートされたと思った瞬間カメラは左前方に駐車された白い車の後部をぼんやりとフォーカスするのである。無音のままその白の中へとホワイトアウトしたスクリーンに、ああ『淵に立つ』のようにここで止めるのかと思った瞬間、暗転したクレジットロールの中、ミュートされていた通りの喧騒が何事もなかったかのようにふっと再び浮かび上がってくるのだ。ともかく車は走り続けていて、市子はついにこちらとあちらを突き抜けることで世界への復讐としてふたつのよこがおを棄ててみせたのだろう。深田監督は市子を見てあなたの闘い方を知れと言っていた。
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2019年08月04日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.28 Sun

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昨晩の敗走中に見た、漆黒の濁流と化したところ天国のせせらぎや地獄の一丁目への橋渡しとなっていたオアシス脇の川に尋常ならざる事態を嗅ぎ取ってはいたものの、真夜中のタイムテーブルがキャンセルされたのはともかく、国道17号が一部通行不可になるなどそれなりに紙一重の状況であったことが明らかになったことで、DEATH CAB FOR CUTIEを見棄ててホテルに逃げ帰り、ゴアテクスのメンテナンスに努めたワタシは正しかったのだと立ち直りも早かったのである。この日のグリーンには、後背の山々が抱えきれずに漏れ出した雨水が小川となってのどかにさらさらと流れていたよ。

渋さ知らズオーケストラ@FIELDS OF HEAVEN
かつてはフジの祝祭サイドの顔としてグリーンすらを制圧していた渋さ知らズの7年ぶりのステージがヘヴンの一発目であったというそれだけで、オレンジコートの消滅を含めフジロックが精算してきたものたちの泣き笑いが浮かんでくる気もしたのである。とは言え、そんな邪推にはおかまいなしにすべての曲が最終曲であるかのような行き先知らずの情緒過多は相変わらずで、かつて苗場で見たいろいろな光景があれこれ押し寄せてきたりもしたのだった。変わるものも変わらないものもどちらもこの世にはある。

BANDA BASSOTTI@WHITE
音楽に政治を持ち込むなとか言う人がいるけれど、自由になりたいと歌った時、自由でありたいあなたと自由でないあなたの間にあるものをたどっていけばそこには政治がもたらした理由があるのは間違いないはずで、ワタシたちが社会性を帯びた/帯びさせられた社会的な動物である以上、政治から逃げ切れるはずはないことを、まずはあきらめと共に知るべきだろうと考えながら踊っていた。でも失敗した闘いへの感傷は要らないとも思ったよ。

THE PARADISE BANGKOK MOLAM INTERNATIONAL BAND@FIELDS OF HEAVEN
モーラムっていうタイの民族音楽もピンていう三弦の楽器もケンていう管楽器も申し訳ないくらいに知らなかったけど、まったくのゼロから得点と言う意味でこのバンドが今年のハイスコアを叩き出したのは間違いない。相当に強力なベースとドラムのタイトでモダンなリズムとアクロバットに浮遊するピンのリフレインとケンの切り込みは、アラン・ビショップあたりが泣いて喜ぶ東西折衷のモダンミュージックだろう。なんだかわけがわからないうちに圧倒的な多幸感に包まれて、ただひたすらにステージを崇めていたよ。

HIATUS KAIYOTE@GREEN
混雑に押し流された金曜日と土砂降りで押し流された土曜日の埋め合わせをするかのように、薄曇りの空はふんばりをきかせて人の波も退いた日曜日、苗場らしい祝祭の空間に跳ね回るこのバンドにようやく人心地がついた気がしたのだった。自由で軽やかに独立していて、しかしそれを手に入れるための強靭さこそが奏でられる音そのものであって、それをことさら何かに例えたりするような野暮はしなさんなとでもいうネイのにこやかな凄みに自然とこちらの丸まった背筋も伸びていたし、緊張を保つためにリラックスする音楽の極上として、野暮を承知で頭に浮かんだのはトーキング・ヘッズだったりもしたのだ。そういえば今年はあちこちで「リメイン・イン・ライト」の曲がよく流れていた。

VAUDOU GAME@FIELDS OF HEAVEN
ヴードゥーとかいうと人形に針ぶっ刺したりそういうもんだと思ってるかもしれんけど、実際はなんつうかカウンセリングのシステムみたいなもんなんだよ(適当過ぎる意訳)みたいなヴードゥーに関する説教をいきなり始めたりしつつ、しかし期待を裏切らないヴードゥー的なルックに心奪われるピーター・ソロさんの、JB’sみたいなバンドをJBのごとくビシッとコントロールしてクールでモダンなアフロファンクショーを指揮する一挙手一投足に目と耳は釘づけ。誰が昨日のお詫びをしてくれてるのかわからないけど、朝からずっと楽しいままで、左足の親指の爪が内出血してるのなんか気がつくはずもない。

その後はtoeを見て、ああやっぱり54-71をできたらWHITEで砂埃舞う中見たかったなあと思ってみたり、思いのほかアブストラクトだったVINCE STAPLESを見て、ああやっぱりクール・キースをDR. OCTAGONで見たかったなあと、おっさんらしくめそめそと無いモノねだりをしたりしてCUREに備えていたのだった。

CURE@GREEN
6年前に比べるとお客さんがいっぱいいるのが何だかうれしくて、気がつけばすぐ右で浅野忠信がGFと踊ってたりして、ほぼ完璧なロバート・スミス・ショウにあははと笑いながらたくさんの歌を歌ったのだった。前回は日付も変わって人もまばらになったGREENでBoys Don't Cry〜10:15 Saturday Night〜Killing An Arabのつるべ打ちに狂乱したのだけど、今のロバート・スミスはBoys Don't Cryで去っていくことでヴィヴィッドな一夜の想い出としたかったのだろう。ヘアスタイルのボリュームはそろそろかなあとは思うもののどの曲もキーを下げたりすることなく艶々と歌いあげるのは6年前のままだし、いいよと言われればあと1時間は喜々として続けただろう笑顔で名残惜しそうに去っていく姿に、信じる者は今度も確かに救われたと思ったのだった。この世代はアーティストもファンも本当にしぶとい。

というわけで、来年は例の国民的行事のため8/21、22、23の開催と相成ることに。梅雨の心配はないものの、土用波の時期ともなれば台風襲来が絵空事ではなくなるわけで、この土曜のことを思えば、おっさんは冗談抜きで生き抜くことを目指さねばならぬかと。

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2019年08月02日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.27 Sat

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午前中は例年のごとくドラゴンドラで天上に向かい、レストハウスでチキンカレーなんぞを食していたところがポツリポツリさあっと驟雨がやってきて、まあそりゃ雨くらい降るよね降らないわけがないよねなどとしたり顔をしてみせたこの時は、どうしてワタシの両手はこんなにふやけているんだろう、プールに浸かっていたわけでもないのに、と首をかしげることになろうなどとは知る由もなかったのである。

CAKE@GREEN
こういう天気はこのギターにはよくないんだよねえと冗談交じりに愚痴るジョンに、そうだねえギターにもワタシらにもみんなに良くないねえと胸の内でつぶやくくらいには雨が悪さをし始めていたのである。まあそりゃ雨くらい降るよね降らないわけがないよねなどとしたり顔をしてみせたこの時は、どうしてワタシの両手はこんなにふやけているんだろう、プールに浸かっていたわけもないのに、と首をかしげることになろうなどとはまだまだ知る由もなく、みんなカッコいいTシャツ着てるな、やっぱりTシャツは着丈が肝心だなあなどと能天気をかましていたのであった。バンドは愉しかったけど雨が降ってなければもっと愉しかったかな。こっちもTシャツで見たかったよ。

MATADOR! SOUL SOUNDS@FIELDS OF HEAVEN
この頃にはもう、加減を知らない幼子にキャッキャと帽子を叩かれているくらいの雨につきまとわれて、人間の子供ならやめさせることができるところがいつ終わるともしれないそれに気持ちは段々と下降線をたどりはじめ、ザ・ニューマスターサウンズmeetsソウライヴなどという極上のジャズファンクサウンドすらを雨を蹴散らすヤケクソのバックトラックにあてがう不埒に申し訳のなさでいっぱいなのだった。ギタリストとドラマーのみならず、クリス・スパイズというキーボーディストの切り裂くようなフレーズがまるで水切りのように跳ねまくっていてヤケクソを煽りまくっていたよ。

知らない大勢に頭や肩をバタバタと叩かれているような雨が、もう豪雨と言ってしまっていいだろう、そんな雨が降っている時は家の中に居ておとなしくしているよう現代の人間は出来上がっているわけで、ではそうしていないワタシに相応の目的があったとは言え、あとどれだけの時間この状態をやり過ごせばワタシは乾いた室内に寝転がって雨でぐずったソックスを脱ぎ捨てることができるのか、そんなことばかりを考えながら帽子のひさしから途切れなくおちる雫を捨てられた子供のニヒルで見つめるのであった。

GEORGE PORTER JR & FRIENDS@FIELDS OF HEAVEN
期せずしてアート・ネヴィルに捧げるステージになってしまったとはいえ、ああセカンドラインというのは本来こういうことかと、哀しみにつけ入るすきを与えないよう小刻みに踏み続ける笑顔のステップが途切れることのないまま永遠に上昇するスパイラルのようなビートに、ほんの一時だけ豪雨も音の粒と化したかのようであった。それにしても雨は降る。激しい雨である。ボブ・ディランやモッズがそんな風に歌うから雨もその気になってしまうのだ。溺れそうである。

AMERICAN FOOTBALL@FIELDS OF HEAVEN
この雨は、お前の気持ちがどれほどのものか試してやろうじゃないかという高いところの人の試練だったのだろう。そしてワタシは耐え抜いて、豪雨の雨音が喝采のように鳴り響く中、"Let’s just forget"と歌い出すマイク・キンセラの声を確かに聴いたに違いなかったのである。気がつけば水遊びをしすぎた子供のように両手はふやけ、手のひらにはちりめんのようなしわが浮かび上がり、思わず両の手のひらを合わせては「しわとしわをあわせて、しあわせ。なぁむぅ」とつぶやいてみたのだった。そしてこの日のワタシがどれほどギリギリのところに居たのかというとトリのDEATH CAB FOR CUTIEをあきらめて敗走したことに明らかで、そしてそのことをさほど悔いてもいないことに自分でも少しだけ驚いている。歳を取るとはこういうことだ。
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2019年08月01日

FUJI ROCK FESTIVAL'19@苗場/7.26 Fri

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THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES@WHITE

つい2〜3日前まで台風のタの字も言ってなかったのに、台風来るから各自の責任において現場処理よろしく的ないきなりの状況であったとは言え、苗場皆勤の身としてはそれなりに酸いも甘いも噛み分けてきたこともあり、まあ死ぬわけじゃないしと(とは言え死ぬ可能性は若干あがっている)高をくくりつつも出発前に東京で少しバタついたこともあって、おっとり刀で越後湯沢にかけつけた次第。

今年も苗場プリンスの部屋が取れず越後湯沢組。それにしても金曜で行きの道路がこれだけ混雑していた記憶もなくて、ひとつのバンドがこれだけ集客するもんなのかともはや自分にはどこにも見つからない忠誠心に恐れ入る。それは皮肉でもなんでもなく。

RED HOT CHILLI PIPERS@GREEN
どんな曲でも力技のバグパイプアレンジで踊らすのかと思ってたもんだから、前夜祭でその実態を見ていささか肩透かしをくらったところもあるので、あくまで客入れの音楽として箱バンのいなたさとにぎやかしを生暖かく半笑いで愛でる。

SHAME@RED MARQUEE
2周くらい回ったポストパンクの風情がツボだったアルバムの感じからもう少し斜に構えたバンドなのかと思っていたら、むちゃくちゃIQ高いのに進学しなかったやつらが組んだバンドみたいな確信犯的サボタージュの馬鹿ノリが針を振り切ってて、思わず顔がほころぶ。とりわけウィル・サージェント直系のギタリストは大変に好み。パジャマを着たヴォーカルはカート・コバーンていうよりはジョニー・フィンガース直系の英国男子の心意気か。

KING GIZZARD & THE LIZARD WIZARD@WHITE
大真面目なメタルのフレーズとアレンジをツインドラムのマシナリーなビートで担いで反復することで垂れ流すトランシーはこのバンドのサイケデリックな性根にちがいなく、そのうちなんだかバットホール・サーファーズのステージを思い出したりもしてた。ギビーがオイルかけて火を点けたシンバルを叩きまくるもんだからステージのあちこちに火が飛び散って、客は大喜びスタッフ大慌てで消しまくったホワイトももう17年前。そりゃワタシも歳を取るわけだ。

JANELLE MONÁE@GREEN
プリンス、マイケル、JBまで全部ぶち込んで、見失うな、あの道はここにある!っていう宣言を、健やかな茶目っ気とカラフルな気合と共にワンインチパンチで打ち込み続けるステージ。そして時折の裸足。この後のすべてが見劣りしてしまいやしないかといういくばくかの危惧。

THE WATERBOYS@FIELDS OF HEAVEN
前回(2014)のステージでそれなりに決着は付けたので、今回はほとんど通りすがり程度。本音を言えば”THIS IS THE SEA”のマイク・スコットを見られなかった時点でもう間に合っていないのは確か。

TYCHO@WHITE
ヴォーカルが入った途端、何を聴いても何かに聴こえてしまうモードで今回はコクトー・ツインズが発動。これやるならもう少し氷結したシンガーが必要な気がしないでもない。ステージの端に腰掛けて歌ったりの浮遊する自然体とかそういうのはもういいかと。それ以外はライトタイムライトプレイスな逸品のステージだっただけに。

THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES@WHITE
個人として何をやったところで付帯事項付きの称賛と批判からは逃れられないトム・ヨークが、そんなあれこれから煙幕を張るかのように実体を晒すことを拒否するその姿こそを表現の輪郭としてきた歪が、ここにきてようやく正されたような気がしたステージだったのである。そこに見えたのは、かつてブロンドに染めた髪でデヴューしたヴォーカリストが30年近くを経て成熟した姿であったように思えたし、もはや倦怠もわが友としたというその笑顔の意外な晴れやかさこそが彼の復興にも映った。ダブルアンコールで奏でた『サスペリア』の職能仕事が予期せぬセラピーとなったのか。いずれにしろ霧はさぁっと晴れていた。
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2019年07月25日

FUJI ROCK FESTIVAL '19 展望

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7.26 Fri
RED HOT CHILLI PIPERS
LUCKY TAPES
SHAME
KING GIZZARD & THE LIZARD
ORIGINAL LOVE
GARY CLARK JR.
JANELLE MONAE
SOUL FLOWER UNION
TORO Y MOI
THE WATERBOYS
TYCHO
THE LUMINEERS
THOM YORKE TOMORROW’S MODERN BOXES
BIGYUKI

7.27 Sat
蓮沼執太フィル
突然段ボール
キセル
JAY SOM
CAKE
CharxChabo
DYGL
MATADOR! SOUL SOUNDS
GEORGE PORTER JR & FRIENDS
AMERICAN FOOTBALL
SIA
DEATH CAB FOR CUTIE
GLEN MATLOCK AND THE TOUGH COOKIES featuring EARL SLICK

7.28 Sun
渋さ知らズオーケストラ
STELLA DONNELLY
BANDA BASSOTTI
勝井祐二 × U-zhaan
HIATUS KAIYOTE
INTERACTIVO
PHONY PPL
VAUDOU GAME
CHON
toe
VINCE STAPLES
THE CURE
JAMES BLAKE

今年のタイムテーブルはあからさまなステージかぶりがない分、往生際悪くあちこち走り回ることになりそうで痛し痒し。
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2019年07月23日

チャイルド・プレイ&ポラロイド/ラース・クレヴバーグはイイ男

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オフィシャルサイト

人形にチャッキーが宿る経緯を知らせるオープニングのシークエンスで、あれ今回はオカルトじゃないやと少し不思議に思ったのだけれど、このリブートでは弱者の立てた中指から始まった話がアンディ(ガブリエル・ベイトマン)の屈託に結びつくことで、イドの怪物としてのチャッキーが思いのほかダークサイド・オブ・トイ・ストーリーの語り口に説得力を与えることとなっている。オリジナルでのヴードゥーを最新のAIテクノロジーに置き換えるアイディアもスマートだし、リブートされたチャッキー(マーク・ハミル)のファーストショットにコレジャナイと一瞬たじろぐも、その後アンディの指示であれこれ行われる百面相を眺めるうちにコレジャナイフェイスにも半ば強引に馴染まされていくこととなるわけで、そうした気の利いた過不足のなさは、かつて80年代にはその過不足さゆえのささくれが刺さったりカーヴで滑ったりすることで忘れがたい時間を過ごしていたことを思うと、そうした浮世離れがスポイルされてしまうように思えたりもするのだけれど、それよりはそれらささくれやカーヴですらを自明としてデザインする洗練を愉しむポスト/ポストモダンホラーの現在にあってはその過不足のなさこそが愉悦となり得たりもするわけで、嫌味でもなんでもなくこちらもそれを欲する体になってしまっていることにあらためて思い至るような、期待に応え期待をを超えるリブートとなっていたのは間違いのないように思う。シェーン(デヴィッド・ルイス)殺害時の、子供の悪戯のような仕掛けとアタックをあえて過不足上等のチープで粗いカットのままつなぐことによって人形の片言なリズムが弾け出すシーンには、このジャンルへの監督の健やかな偏愛がみてとれてクラシカルな香りすら漂った気もしたのである。劇中のTV映画フッテージが『悪魔のいけにえ2』であったのも、趣味の良さに加えて自分が撮っている作品への正確で冷静な理解がうかがえてワタシは握手をしたくなった。といった風にことさら実存めいたトリッキーなショットや長回しには興味がなさそうに見えたラース・クレヴバーグ監督なのだけれど、高いところから落ちたり吊ったりが4回ほどありそれぞれに死んでしまったり重篤なダメージを負ったりして見せ場を作っていて、人形のサイズや動きにさほどダイナミズムが生まれないその分のバランスなのかなあと思っていたところが、


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オフィシャルサイト

続けて鑑賞した『ポラロイド』でもやはり天井裏からの宙吊りやら階段落ちやら首吊りやらが端々にしのばされていて、この監督には垂直性へのフェティシズムがあることなどうかがえてさらに信用が増した気もしたのである。出世作となったこちらでもやはりこの監督の過不足のなさがツイストの強度をじわじわと上げていて、どんでん返しと言うよりは気がついたら背後に回られていたような感覚を見抜いてフックアップしたプロデューサーの慧眼はさすがであったとしかいいようがない。疎外された者がそれゆえに邪を引き寄せてしまい、因果応報など踏みにじるように善人も悪人も等しく屠られていく腰の座った筆使いは、飛び道具に頼らないストーリーテラーとしての地肩の強さもうかがわせ、アンドレ・ウーヴレダルとはまた声音の異なるノルウェーのホラーマスターとの邂逅に、ラース・クレヴバーグという名前を即座に頭へと叩き込んだのだった。
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