2017年01月13日

人魚姫/チャウ・シンチー・イズ

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広川太一郎の吹き替えを思わず脳内変換するような蒸し暑い香港ギャグを塗りたくったオープングのシークエンスがいったいラストのどんな場面で回収されたか、それ一つ取ってみても、笑いながら暴れる人チャウ・シンチーの緊張と緩和、すなわちゲロと笑顔をいちどきにぶちこんでいく手並みはほとんどウルトラバロックといってもいい過剰の果ての洗練にすらあるように思うのである。前述したオープニングの脱力を経て、シャンシャン(ジェリー・リン)、リウ(ダン・チャオ)、ルオラン(キティ・チャン)の3人が順次なごやかに顔見せを済ませた後で、人魚族の棲み家へ戻ったシャンシャンはリウの会社による環境破壊で傷を負った少年の人魚に薬を与えるのだけれど、全身に負ったその損傷がコメディ映画で何もそこまでやらなくてもというくらいリアルでえげつなく描写されていて、しかしこれもまたチャウ・シンチーにとっては喜怒哀楽の爆風で客の首根っこをつかんでふりまわし、余白から日常が透けて見えるような興ざめなど恥と思えというサービス精神に相違ないわけで、もう後は推して知るべしという百花繚乱であり、武装チームによる人魚族への、排除でも捕獲でもないもはや殺戮としかいえない暴力の噴出も、人魚族長老による逆襲の一撃で壁にボロ雑巾のように壁に叩きつけられる彼らの死に様も、破れたハートで目に涙を浮かべながら水中銃でリウを貫く(しかも3発)ルオランの暴走する純情も、銛を撃ち込まれバズーカが直撃し美しい尾ひれは裂けなめらかな肌も切り刻まれた瀕死のシャンシャンがその力ない視線の先にいったい何を見たのかも、すべてはチャウ・シンチーがお客様のために精魂込めて手配したサービスに過ぎず、しかも全体としては現代中国の深刻な環境破壊への警鐘を鳴らす素振りのうちにあるという狂い咲きだったのである。それはすなわち『ツイン・ピークス』『エイリアン』『ブレードランナー』という前世紀の亡霊がいまだ待望される2017年の、永遠に更新されることのない終わらない日常をほんの100分足らずでも忘れさせてくれるのは狂気と言う名の正気であったという正論に他ならず、そんな映画をIMAX3Dで観ることが叶わない身の不幸を正月から嘆いたりもしたのである。いつの日かチャウ・シンチーとトム・クルーズがタッグを組んでくれないものだろうか。
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2017年01月09日

ピートと秘密の友達/セイントたちのいるところ

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アメリカのイノセンスは孤独を知った魂に宿る、とデヴィッド・ロウリーが再び宣言してみせる。そしてその魂が共鳴する響きこそがアメリカのグッドネスなのだという語りかけが、インディペンデントなクライム・ムーヴィーから、緑色をしたCGのドラゴンが空を舞うディズニー映画へと続く一本の道をあたりまえのようにつなげたことに何だか胸のつまるような疼きをおぼえたのであって、ピート(オークス・フェグリー)を探して夜の空を息せき切って舞うエリオットが、灯りのともった窓の向こうで見知らぬ人間に囲まれて微笑むピートを見つけて目を伏せる姿に、思わずあの夜のケイシー・アフレックを重ねてみたりもしたのである。そして黄金の陽光に向かう逆光のショットは世界を世界たらしめるものへの畏敬を込めたアメリカの原風景となり、リベラルであるとか保守であるとかいった分岐の上流へ向かう懐古というよりは回帰の自然な足取りに思え、おそらくそれはテレンス・マリックがかつて歩んでいながら見失ってしまった道筋のようにも思えるのだ。『セインツ』に続き監督とタッグを組んだダニエル・ハートのストリングスとブルーグラスのスコアも恩寵の調べのような荘厳とたおやかさを寄り添わせ、ボニー・プリンス・ビリーからレナード・コーエンまでをコンパイルした挿入歌のハイセンスにも唸らされる。その中でSt.ヴィンセントがカヴァーしたディノ・ヴァレンティの "Something On Your Mind" についてはやはりカレン・ダルトンのヴァージョンがとっさに耳に忍び込んでくるのを拒めず、となると失われたアメリカーナの歌姫カレン・ダルトンの物語をいつの日か誰かに紡いでほしいという願いがまたしても頭をもたげてくるわけで、ルーニー・マーラ、あるいはジェニファー・ローレンス(『ハンガー・ゲーム』の歌は素晴らしかった)をカレン役に据えたデヴィッド・ロウリー監督作を夢見ることにしたいと思うのだ。大きな笑顔と小さなメランコリーをまきちらすピート役のオークス・フェグリーとナタリー役のウーナ・ローレンスの子役2人がとりわけキラキラとして忘れがたく、特に『サウスポー』でギレンホールの娘役を演じたウーナ・ローレンスの、どこかしらケヴィン・ベーコンを思わせる風情に思わず顔がほころぶ。ディズニーのドラゴン映画ということでスルーを決め込んでしまうのはほんとうにもったいないし、とりわけ『セインツ−約束の果て−』に撃ち抜かれた人であれば絶対に観ておいた方がいいと思う。

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2017年01月07日

ワイルド わたしの中の獣/主に鳴いてます

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アニア(リリト・シュタンゲンベルク)のラストショットに、ああこれは断裁工場からの帰り途、ボリス(ゲオルク・フリードリヒ)の運転するヴァンの助手席で、窓を開けて風を受けながら目を閉じるアニアの見た一炊の夢だったのではなかろうかと、ふだんなら鼻白むであろう夢落ちをむしろ積極的に受け入れる気分になっていたわけで、それくらいこの映画には、ここではないどこか、ここにはいない誰かへの切実な夢想が、夢判断なら舌なめずりしそうなセックスのオブセッションとして溢れかえっていたように思うのである。そのあたりは「赤ずきん」における狼を引き合いにだすまでもなく、そのどちらかと言えば類型的な関係性と、潜在的な抑圧者としての祖父(は「赤ずきん」で言えば狩人か。射撃も祖父に手ほどきされたことをうかがわせる)とその死による解放が彼女の内面を放つことによる承認欲求の復讐といったストーリーが、アニアがダイヴした狂気を整理してしまう気もするわけで、それよりは、ホテルの部屋に閉じこもった2人が精神も肉体も頽廃していく『愛の嵐』の変質を、あの荒涼としたマンションの部屋で狼とともに選んで欲しかったなどと思ってしまう。アニアが現実のくびきから離れていくに連れ、映画が神経症的なミニマルから怠惰な長息を露わにしていく変更には時おりうっとりとさせられはするものの、暴力とセックスの投げやりがなだれ込んでこないのは、たとえば匂いが臭いになかなか書き換えられてかないあたり、監督は奥底でフェティッシュの人ではないのだろうなという清潔な精神が、アニアを新しい人とする妨げになっていた気がしてしまうのだ。むずかる狼の首に縄をつけてマンションの廊下を引きずる姿の、アニアにとっては恋人たちの逃走というロマンスも端から見れば底の抜けた狂気の沙汰なのだというおかしみをふりまいて、ああ、そもそもこれは『クリーピー』的な拉致監禁スリラーとして観るべきだったかと一瞬後悔したりもしたわけで、してみれば「まだまだ行くぞ〜」と彼岸を幻視するアニアのラストも存外に腑に落ちたかもしれないのだった。
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2017年01月03日

アイ・イン・ザ・スカイ/ドローンは踊る

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結局この戦いにおいて西側が戦うのは宗教や民族ではなく自分たちのシステムにほかならないという徒労と絶望は、紛うことなく『4デイズ』の既視感につながっている。生命は地獄の底までも等価であるべきだと謳う世界を目指す戦いにおいて、その合理は生命の軽重を計算することでリファインされるという皮肉なマッチポンプというか自家中毒というか、それに蝕まれていくパイロットの姿を描いたのが『ドローン・オブ・ウォー』であったことを思い出してみても、これが終わらない戦いであるどころか永遠の負け戦であることすらを前提にシステム化されている気がしてくるのである。この映画に時折漂うどこかしら底の抜けた苦笑いは、視えない戦争の洗練が進むにつれ当事者ですらそれが視えなくなってしまっているディック的な悪夢のスラップスティックによるものなのか、そういう醒めきった俯瞰がメランコリーにまみれた『ドローン・オブ・ウォー』と対照的なのは、これが南ア出身の監督による非アメリカ映画というポジションということもあるのだろう。しかし最後にフランク・ベンソン中将(アラン・リックマン)は、軍人は視るのが仕事であって視えていないのはおまえたち文民の方だと斬って捨てるわけで、彼にナイロビの少女と同じ年頃の子供がいることを告げながら作戦遂行の意志を微動だにしないその姿は、どれだけデオドラントされようがお前たち文民が始めたこれは殺戮によって歩を進める戦争であって、俺たちみんな戦時体制に首まで浸かっていることをお前らはもう一度よく考えてみるべきだろうとする通牒であったように思うし、作戦が成功したにも関わらずネヴァダとロンドンで流された涙は、既に決定的に変質して元に戻ることはない世界への絶望的な思慕であったのは言うまでもないだろう。そんな風にして戦場には泣かない者と泣けない者が残されて、それが新たな合理を生み出していくに違いないのである。個人がどのような思想を持とうがそれを否定するいわれはないけれど、ヘレン・ミレンについて言えば自身でもこの役柄には存外にフィットしたのではなかろうかと考える。トランプにとって最大最高となるオバマの置き土産はドローン戦争のシステムであったことはおそらく間違いないだろう。『4デイズ』で日和ったエンディング(寄る辺なきヴァージョンは日本公開版のみ)を採用した北米の腰抜けをせせら笑う黒くて硬いガッツに溢れた傑作。
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2017年01月01日

あけましておめでとうございます

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新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今年もなんとか、いろいろなあれこれから逃げきれますように。
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2016年12月30日

2016年ワタシのベストテン映画

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イット・フォローズ
キャロル
コップ・カー
SHARING
或る終焉
クリーピー 偽りの隣人
淵に立つ
エブリバディ・ウォンツ・サム!!
最後の家族
ドント・ブリーズ

すなわち、わけのわからぬ言葉は理解できないというのが、言葉の本質なのだ。それは人間の知性の自己防衛である。ところが、ある光景はたとえはっきりと説明はつかなくても、明瞭であり、理解することができる。そしてそのことが我々の髪の毛を逆立たせるのである。
− ベラ・バラージュ


とでもいう映画が10本。並びは観た順。それにしてもいつにもましてメメント・モリな映画ばかりが揃ってしまったなあという感じ。本来映画はそういうツールだと言えばその通りだけれども、とうに人生の折り返しを過ぎた無意識がそうさせるのだとしたら抗っても仕方がなかろうということで、日々映画によってそれを仮想し予行し粛々と備えていけば、たぶんハッピーエンドが待っているにちがいない。では皆様、良いお年を。
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2016年12月27日

MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間/ウィ・ウォント・チードル

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マイルス・デイヴィスという人が、例えばチャーリー・パーカーやチェット・ベイカーのような破滅型ではないどころか、むしろ凡人を寄せつけない超高圧の理性によってすべてを可能にしてきたことはワタシごときの聞きっかじりがいまさら言うまでもなく、そうしてみると天賦の才を獅子身中の虫と悶え苦しませるべく凡人が天才を自分の陣地に引きずりおろすドラマなど本来マイルスに関してはあてにできないわけで、ならばと隠遁期の空白をいいことに、チェットの映画同様“そうあって欲しいマイルス”を凡人にも理解可能な下世話なハンドルさばきでドン・チードルがドライヴしてみせたわけである。『ブルーに生まれついて』が“そうあって欲しいチェット”を可能にするためにジェーンという女性を作成したように、ここでは音楽ジャーナリストのデイブ・ブレイデン(ユアン・マクレガー)と若きトランペッターであるジュニア(キース・スタンスフィールド)をマイルスの人生に付け加えている。特にジャーナリストであるデイブについてはナット・ヘントフ的なジャズの崇拝者の役割を与えるどころか、自叙伝の中で「オレの物書きへの不信感は、会ったほとんどの連中が気に入らなかったこともあるし、特にでたらめな嘘ばかり書きやがった連中へのそれは強い。言うまでもないことだが、そのほとんどが白人だった」と書いてあることへのジョークのようにも思える薄っぺらの山師としていて、要するに伝記映画でありながらこの映画には信頼できる語り部が存在しないということになるわけで、そこまでしてタガを外さなければならなかったのは、どれだけどん底にいようと、なお我々には及びもつかない現人神マイルスのウルトラさ加減はこうでもしないとわかるまいというドン・チードルの妄執に近い思いがあったからなのだろう。確かにすべての先駆者であったマイルスが、ギャングスタ抗争についても先駆けていたことはわかったのだけれど、それ以上に忘れがたいのはフィッツカラルドにも似たドン・チードルのマイルス愛という狂気で、黒塗りした大泉洋にも似たドン・チードルが身も心もマイルスになりきって演じるその姿は次第にワタシの苦笑いすらを封じ込めていき、ラストシーンのステージでついに現実世界に躍り出てウェイン・ショーターとハービー・ハンコックを従えるに至っては、思わず神をも畏れぬ不届き者と呟いて、おそらくはポール・ハギスに『クラッシュ』で貼りつけられた“途方に暮れた善良な仮面”がようやく剥がれ落ちたように思ったし、「目や手なんかと一緒で、トランペットはオレの身体の一部だった。だから、いつでもその気になりさえすれば、再び吹けることはわかっていた」と言うマイルスがあそこまで惨めに吹けなくなった自身の描写を見たら怒髪天を衝いたにちがいないわけで、それを真顔で演出した監督ドン・チードルおよび真顔で演じたドン・チードルを心底恐るべしと思ったのである。ところであのオルガン・テープは "GET UP WITH IT" ってことでいいのかな。時系列的には遡っちゃうけども。
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2016年12月24日

ドント・ブリーズ/デトロイト最終出口

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「神の不在さえ受け入れれば、人は何だってできる」この箴言とでもいうフレーズはこの夜の闘いで生き残った者において実証され、それが繰り広げられたのが神に見棄てられた街デトロイトであったことでさらに寄る辺なく補強されることになる。盲人(スティーヴン・ラング)とロッキー(ジェーン・レヴィ)による激突の、神の不在を受け入れた者=正当な絶望者はこの世を縛る理性のくびきから既に自由であるというイーヴンが次第に被害者と加害者の関係を曖昧に溶かしはじめ、どれだけ銃声が響き渡りマズルフラッシュが輝こうと誰一人それを知る由もない漆黒のサバービアで繰り広げられるサヴァイヴァルは、奪われた者どうしが互いを引っぺがす内ゲバの陰惨とそれがたどり着いた極北にほのかに聖性すらを宿す始末だったのである。監督のフェデ・アルバレスは『死霊のはらわた』リメイク時に、「(リメイクの理由は)オリジナルの映画が完璧ではなかったから」「現代社会の中に潜む恐怖の要素を入れようと思ったのさ。麻薬の要素を入れたのも、それが理由だ」といった発言をかましたあげく、このジャンルでは0点よりも始末が悪いジャスト50点としかいいようのない凡庸なリメイクを仕上げていたこともあってまったく記憶の彼方の人であったのだけれど、やはりこの人は背景や動機づけからはじめてきちんと設計図を引くタイプであって、『死霊のはらわた』のようにとりとめのないジャムセッションの生み出すフレーズとグルーヴに身を任せるタイプではなかったのだろう。ただ、その前作において唯一刮目したバスルーム戦は計算された不随意が炸裂する忘れがたいシークエンスだったのだけれど、言ってしまえば今作ではそれが全篇に渡って展開されていたわけで、一軒家という空間をフルに利用した高低と奥行きが煽るサスペンスとしては、私的傑作である『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』を思い出させて秀逸だし、盲人が聴覚を頼りに距離を詰めていく感覚の予測できない不穏と不安に、犬による直線的なアタックのコンビネーションをミックスしたアイディアにもまんまと唸らされる。中盤以降、突如隕石のように激突するケッチャム的鬼畜とキング的知恵比べについては口をつぐむけれど、『イット・フォローズ』といいこれといいなぜデトロイトにアメリカは恐怖するのか、ついにはサバービアが転落のフロントラインとなりつつあるその衝撃によっているのだとしたら、ではいったいその先のどこへ逃げればいいのか、これはその混乱と絶望による阿鼻叫喚の遅すぎた始まりである気もするのである。そしてそのすべてを88分におさめたフェデ・アルバレスにはあらためて土下座をしておきたい。ようやくゴースト・ハウス・ピクチャーズにサム・ライミ以外の果実が実ったのではなかろうか。
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2016年12月19日

ローグ・ワン/渚にて

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情報提供者を無表情に屠ったのはともかく、ジェダ・シティの市街戦で帝国軍と抗戦するゲレラの兵であろうと状況のためには躊躇なく撃ち殺すキャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)をみて、サーガ屈指のメメント・モリがたちこめるこの作品の実質的な主役に彼を追うこととしたのである。熟慮の末に選択したわけではない、自身が口にしたようにたまたま6歳の少年が出くわしたに過ぎない大義をよすがに暗闇で両の手を血に染めてきた彼が、ついにその大義を鮮明な旗幟と掲げて燦々と降りそそぐ光の中へ殉じていくその姿に、ジン(フェリシティ・ジョーンズ)よりは彼の物語としてその墓碑銘が刻まれたように思うのだ。そんな風にしてこの映画は、というかギャレス・エドワーズは、帝国と反乱軍の戦いを大義の光が届かない殺し合いと諒解した上で未来に手を伸ばすための踏み台が屍の山でできていることを告げようとしていて、ソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)の死をローグの導火線に、ゲイレン・アーソ(マッツ・ミケルセン)、K-2SO(アラン・テュディック)、ボーディー・ルック(リズ・アーメッド)、チアルート・イムウェ(ドニー・イェン)、ベイズ・マルバス(チアン・ウェン)と繋ぐ死屍累々のリレーはそれがゴールにたどり着くまではと、足を止めて嘆くメランコリーすらワタシ達に許そうとはせず、たとえば爆風に吹き飛んだゲイレンの体はジンとの愁嘆場にふさわしくしめやかに横たわっていたかと言えば、神経が途切れたその体の手は縮こまり足はねじれて転がっていたわけで、そうした溜めのない死からするとチアルートとベイズの死はどこかしら特別扱いに思えてしまったのである。そうやってスター・ウォーズの表舞台ではオミットされてきた寄る辺のなさは、今までずっと不思議だった帝国の巨大建造物や巨大戦艦を可能にする資源と労働力についてもその一端を明かしていて、鉱山やそこに投入される労働資源としての強制労働収容所の存在を垣間見せてもいる。物足りなさがあるとすれば、それはクレニック(ベン・メンデルソーン)がまみれた屈託が燻らなかったことで、正直に言ってしまうとワタシは主人公としてのジンにさほど魅力を感じておらず、それよりはキャシアンとクレニックの反共鳴を見たかったなどと思ってしまうのだ。巷間あれこれ囁かれているけれど、あの終末の恋人たちとでもいう最期はギャレス・エドワーズのロマンチシズムそのものだったと思いたい。ところで、チアルートがトルーパーに向かって言う「彼らを通してやれ」がマインドトリックネタのギャグだったのかどうなのか、いまだにわからないのだけれどどうなんだろう。
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2016年12月17日

誰のせいでもない/Nobody's Fault but Mine

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自身にとって呪いの象徴となったフォークナーのペーパーバックを、そのページを破っては暖炉にくべながら「あなたはフォークナーは好き?」と訊ねるケイト(シャルロット・ゲンズブール)にトマス(ジェームズ・フランコ)は「好きでもきらいでもない、他の作家には興味がない」と答えるのだけれど、かつてヨーロッパ的独我論の彷徨から抜け出すためにアメリカを目指したヴェンダースが『パレルモ・シューティング』での写真家に続いて今作では作家という、普遍性を担保するにはいささか近道をしたような設定と造形に、アメリカ期のヴェンダースであったなら好きかきらいか主人公にはっきり答えさせたのではなかろうか、ああ、またこの霧の中から始めるのかと少しばかり面倒な気分になったのが正直なところだったのである。とは言え、独善と偽善を霧散させるのではなくそれらをままに俯瞰することで道を歩きだすトマスの変形そのものは興味深く、ある人物によるその正体/実像を暴かんとするサスペンスが不穏を煽るあたりはハネケやエゴヤンへの舵を一瞬思わせたりもするのだけれど、ヴェンダースが世界を修復しないはずはないのであって、非常にぎごちなくはあるけれどそれは果たされたように見えるのである。しかし、ある不幸な出来事によって半ば強制的に深淵をのぞき込まされ、それによって新たに変形した精神の奥行きを手に入れるという筋立てだけを取ってみれば『永い言い訳』を思い浮かべたりもするのだけれど、あの映画で幸夫と大宮一家が過ごした時間をこの映画はトマスとクリストファーが語り明かした一晩に凝縮させつつ、そこで語られたことについては明かされないままなのである。そもそもトマスは、特に事故の後では肝心なことについて時には不誠実とも思える態度で押し黙ってしまい、おそらくそれは失われた生命への贖罪というよりも、その出来事によって変形したことで新たにつながったシナプスが手に入れた思考をふりかざす作家としての欲求と、その入手元に対する呵責の板挟みによっているのだろうし、サインを求めてクリストファーが差し出す自著のうち ”Nowhere Man” と ”Lucky” のタイトルだけがこれみよがしに映されることで、クリストファーもそれに気づいていることを告げていたことを考えると、あの夜をトマスにとっての告解と理解するのが自然ではあるのだろう。ただ、憑き物が落ちたような翌朝の表情からは、その夜を経ることでトマスが作家として手放したものと一人の人間として手に入れたものの収支は判別できないままではあるにしろ、それをジェームズ・フランコという俳優が醸す誠実から背を向けるのもまたひとつの生き方なのだという佇まいがざわっと揺らすことで呼び込んだ不思議な清冽に、やはりヴェンダースは正直を譲れない人なのだなあとあらためて感じ入ったのである。現象ではなく感情の奥行きを増幅する装置としての3Dが“隔てられた向こう”の幻視を拡張していて何度か小さくため息が出た。そしてやはりのエドワード・ホッパー・ショット。とは言えRealDはやはり絶望的に暗すぎて、そのことがいっそうのメランコリーを誘っていたのでなければいいのだけれどと思う。
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2016年12月12日

最後の家族/世界の終わりとハードボイルド・ポーランド

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ポーランド映画祭2016

18歳にしてMITの正教授となりアンドリュー・ゴロタ(ポーランドの狂犬的ヘビー級ボクサー)と空手黒帯の強さを同時に兼ね備えたアリシア・シルヴァーストーンに、腹を蹴り上げられ頭に2時間ほどまたがられて顎を締め上げられた後、腕と足をへし折られてはその都度絶頂に達し、最後には痙攣して絶命するメタ・リアリティのヴィジョンを嬉々として語っては、分厚いハンバーガーにかぶりつく75歳。それがズジスワフ・ベクシンスキーという画家のまとうなんらかの特異性の一端であるとするならば、劇中で自身が言及したゆるぎない恒常性がそれに該当することになるのだろう。それは内部と外部、あるいは空想と衝動の完全な調和と同居とでもいえばいいのか、彼は一切の外部ドーピングを必要とすることなくあの損壊と決壊の痕跡が結晶化したマニエリスムを日常のありふれた作業として作品化して過ごしていて、闇と光が互いに侵食する前線にのたうち回ることであの心象を生み出しているわけではまったくないのである。この映画はそのベクシンスキーを家長としたホームドラマなのだけれど、前述したように完璧な恒常性をたたえたベクシンスキーが自らのアーティストエゴでヒステリックに家族をなぎ倒すシーンなどこれっぽちもないどころか、良き父、良き夫、良き子として、精神の不安定な息子トメク、最愛の妻ゾフィア、同居の実母と義母に対して献身的といってもいい日々を淡々と送り続けるのである。しかし、たった一度だけその家庭内のバランスがクラッシュする瞬間があって、母ゾフィアが掃除したばかりの息子トメクの部屋を何やら癇癪を起こしたトメクが完膚無きまでに滅茶苦茶にしてしまうシーンで、例えば机の上を掃除するにしても、そこに載っているすべてのあれこれをどかして綺麗に拭いた上で以前の配置を精確に再現し直す神経症的な段取りに、この家庭ではトメクの引き起こす緊張が日常に収れんされていることがうかがえるのだけれど、この時、そうした厄介な掃除を終えて一人煙草をくゆらすその目の前でトメクによってその成果を壊滅させられたゾフィアは、それまでに見せていたすべては起こるべくして起こったことだから仕方がないといった顔を捨てて、初めて怒りを顕わにしながら倒れた家具を引き起こし復旧につとめるのである。その時ベクシンスキーは何をしているのかと言うと、入手して以降、記録魔のように片時も手放すことのないヴィデオカメラでそれを撮影し続けているわけで、しかしそのことを咎め立てするでもないゾフィアは彼のメタ・リアリティに自分たちが存在していないことをおそらく知っていて、一方のベクシンスキーはといえば自分以外の人間に生じるリアリティとメタ・リアリティの内輪差を興味深く意識することはあってもそれを自身に顧みることをしないのは、その内輪差を自身に認めたことがないからなのだろう。義母、実母、妻、息子とまわりの人間が命を落としていなくなっても、彼はその恒常性によって瞬時に自律し取り乱すそぶりさえ見せないわけで、もちろんそれら諸々をもって彼を精神の怪物と糾弾し非難するいわれはこれっぽっちもなく、彼の作品(=メタ・リアリティ)に頻出する最後の世界における最後の一人への願望がリアリティを呼び込んでいく孤絶のメランコリーがとてつもなく哀しいと同時に、にこやかにそして飄々と地雷原を歩いて行く姿にはどこかしらのおかしみを感じたりもしたのである。彼の結末については悲劇的なアクシデントとして知ってはいたけれど、この道行きの果てに訪れた出来事として考えてみると、すべての家族を失った彼がやはり恒常性の鎧で守られようとした瞬間、ではこういうリアリティはどうだね?と差し出される何かしらの采配であった気もしてしまうわけで、めった刺しされるナイフを力なく避けようとかざされる彼の腕のはかなさと頼りなさをリアリティと生きるしかないワタシたちの凡庸と滑稽をあらためて突きつけられた気もしたのである。エンドロールで流れるThis Mortal Coil "Song to the Siren" の 'Did I dream you dreamed about me?' というフレーズが残響し続ける有終の傑作。
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2016年12月10日

聖の青春/羽生のように舞い、村山のように刺す

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村山聖という将棋指しの伝記物語には違いないのだけれど、事実の叙述的な再現というよりは村山聖(松山ケンイチ)と羽生善治(東出昌大)という駒を盤上に叩く音の震えを記録することを目指したような、与えられた持ち時間を焦がすように格闘する緊張に満ちた覚え書きであった。基本的には座った人間が喋ったり押し黙ったりするばかりの映画であるにも関わらず、気がつけば熱の疼きが急くようであったのは、まるで熱暴走するCPUのような村山のみならず、怜悧の人と描くかと思われた羽生が孤高ゆえの屈託を負けじと燻らせていたからで、全体として俯瞰するバランスを少々欠いてなおこの2人が互いを鏡像に恍惚と微笑み慄然と立ち尽くす物語を貫いた点で、村山聖の29年が闘うことと分かちがたい人生であったこと、しかしそこには病魔との闘いだけではない幸福な闘いがあったことを記憶しておいて欲しいという願いが溢れていたように思うのである。ただ、誰もがその結末を知っている展開に加え、メインとなるのが端から仕上がっているキャラクター達であるがゆえ上昇や下降の段差がつけづらいこともあるせいなのか、何者にもなれなかった棋士の総体として江川貢(染谷将太)というフィクショナルなキャラクターが用意されていて、闘いを止めることがそのまま人生の死を意味する村山の、闘いをあきらめた者に対する怒りや侮蔑をぶつけられるサンドバッグになったりその普通ゆえ将棋のルールから遠い観客の視点を請け負ったりもするのだけれど、さすがに染谷将太であれば空気を乱すわけなどないにしろ、江川の紋切りは空気を停滞させてしまうことにもなり、村山聖の対照物としては寸が足りないこともあって少しばかり策に溺れた気がしてしまうのである。ワタシは若き神々の黄昏だけを見つめていればそれで充分だった。
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2016年12月08日

ブレア・ウィッチ/振りかえらずに俺を見ろ

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密室芸の人アダム・ウィンガードとしては、「森」を囚われの密室に見立てることでこの負け戦ともいえる続篇に勝算を見出したのだろう。ただ、無邪気な若者たちが知らない間に少しずつ「森」に喰われていく姿の残酷ショーがBWPの真骨頂だったことを考えると、「森」が自分たちを喰うことを彼らもワタシたちも知ってしまっている不利は否めないわけで、ならばとドローンやGPSをはじめとするテクノロジーのアップデートで合理が不条理を迎え撃つ展開に持ち込むことで、例えば「エイリアン」と「エイリアン2」の展開のように徹底して開き直ってしまえばよかったようにも思うのだけれど、この映画の目的があくまでも「家」であった点で「森」が手続きにしかなり得なかったのが序盤の停滞を呼んでしまったのではなかろうか。木に引っかかったドローンを取ろうとしたアシュレイ(コービン・リード)の指が、突然回り始めたそのプロペラによっててっきり切断されるものだとばかり思っていたワタシをそういったゴアはこの映画のマナーに反するとばかりたしなめるようないなし方には少々萎えたりもしたし、せっかくキャンプに監視カメラを設置したのだから、魔女ではないにしても使い魔的な何かがうごめく様子ををチラとでも映しておけばこの映画が『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』ではなく『ブレア・ウィッチ』へと舵を切った意味がはっきりとしたようにも思うのだ。とは言え、そうやって何とか「森」を抜けた後で現れる「家」の真打ち感は格別で、轟音で流れる時間の奔流に呑まれてボロ雑巾のように時空の壁に叩きつけられながらも姉へザーを求めて一歩も怯むことのないジェームズ(ジェームズ・アレン・マキューン)の「このために来たんだから!」という絶叫にはどこかしらの崇高さすらおぼえたし、一方で時空のねじれに囚われたリサ(カリー・ヘルナンデス)の地下通路大脱出は閉所恐怖症気味のワタシにとって責め苦以外の何ものでもなく、作劇としての機能とは別筋ながら心臓を鷲づかみにされつつ鼻と口を塞がれた気分の、これがなお続くようだったらもう目を伏せるしかなかろうというところまで追い込まれたのである。閉所恐怖症についてはいったい何に起因するのか心当たりはないのだけれど、中学生の頃に教科書で見た産業革命時代の炭坑で働く少年の図版がセットで頭に浮かぶことだけは確かなのだった。そして最後の最後、なぜあの「家」の中に居る者は部屋の隅で壁の方を一心不乱に向き続けるのかその理由が明らかにされるわけで、正直言ってそれについては知りたくもあり知りたくもなしといったところではあって、とは言えそれを告げる覚悟があったのならばそこに至る道筋でBWPへの忠誠をかなぐり捨ててしまっても良かったのではなかろうかと、いささかの悔いが残るのは確かなのだ。人智のルールがまったく適用されない「家」の絶望が残した爪跡が、名状しがたい深さをえぐっていただけになおさらそう思ってしまう。密室芸の人アダム・ウィンガードへの信頼度はいっそう増したのだけれど。

※これが例の産業革命哀史
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2016年12月06日

マダム・フローレンス! 夢見るふたり/キジも喚けば撃たれまい

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フローレンス・フォスター・ジェンキンスという女性については、名著「ソングス・イン・ザ・キー・オブ・Z 〜アウトサイダー・ミュージックの巨大なる宇宙」の中で、ザ・シャグス、ヤンデック、ダニエル・ジョンストン、ザ・レジェンダリー・スターダスト・カウボーイといった殿堂入りの面々と肩を並べつつ語られていたこともあり、“勇敢にルールを破るのではなく、ルールの存在すら知らない”人たちの一人として最初に出逢ってしまっていたものだから、牙が抜かれたフローレンス(メリル・ストリープ)の人情喜劇に矯正されていたら残念だなあと思っていたのだけれど、そこはそれ、さすがのスティーヴィン・フリアーズであって、彼女を世情の無菌室でしか生きられないプリンセスとすることで、彼女にかしずくシンクレア・ベイフィールド(ヒュー・グラント)やコズメ・マクムーン(サイモン・ヘルバーグ)といったナイトたちが一人の女性の性善を守るべく奮闘する忠誠と奉仕によって、皆に救いが降り立つ物語へと、鮮やかに舵を切り替えてみせている。いつものヒュー・グラントであれば、フローレンスの財産を目当てに寄り添っているうちに彼女のピュアネスによって心を入れ替えるような役回りを定形とするところが、彼の演じるシンクレアはシェイクスピア俳優としての挫折という自身の屈託を見え隠れさせながら公認の愛人キャサリン(レベッカ・ファーガソン)との二重生活を行き来し、しかしその人生をフローレンスのバックアップに全身全霊で賭した男のうかがいしれない奥底を絶やさぬ笑顔につつんでみせて、この英国男子の暮れなずむダンディズムは今後のさらなる黄金期を予想させる。おそらくシンクレアは、コズメ・マクムーン(サイモン・ヘルバーグ)の中に自身に通じる屈託の香りをかいだことで戦友に引き立てたのだろうし、上流階級の有閑とタカをくくっていたコズメがフローレンスの無手勝流ながら絶やされることのない真摯な衝動に琴線が弾かれる瞬間を泣き笑いのようにとらえたサイモン・ヘルバーグが、メリル・ストリープとヒュー・グラントという怪物と互角に渡り合ってみせたことは特筆されるべきではなかろうか。レベッカ・ファーガソンは『ガール・オン・ザ・トレイン』に引き続き想定の範囲内のさざ波といった感じで、出番の少ないアグネス・スターク(ニナ・アリアンダ)がその一喝だけで場をさらったのに比べると、使い勝手のいいスーパーサブという印象につかまり始めているのが気にかかる。
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2016年12月05日

エヴォリューション/スペイン坂でつかまえて

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散りばめられる静脈の青と動脈の赤、骨のような白い家、器官としての母、そして少女なき世界で子宮となる少年。追い立てられるように羽化させられては社会的な生き物となるよう要求される女性の怖れを結晶化した『エコール』の、これは逆転というよりは進化(=Evolution)と言えばいいのか。繁殖の哀しみ、記憶への憧憬、生の欺瞞と死の正当、それらが誘うここではないどこかへの脱出は、『エコール』同様に少年を城壁の外へと連れ出すのだけれど、新たな城壁としてそびえるスカイラインは未来が後ろ手に隠し持つ悪意を予感させて、羽化よりは青虫の猶予を切望する男性へのささやかな呪いであった気もしたのである。そしてそれは、リンチ、クローネンバーグ、塚本晋也、ラブクラフトといった幻視者たちへの正統な忠誠を誓うことで監督が手に入れた、世界の舞台裏へ向かう扉の鍵と鍵穴の睦み合いであったようにも思え、その鍵穴から覗く眼差しこそは、最近観た映画の紐づけで再読した本の中で著者が引用したジョージ・スタイナーの“解釈のプロセスに自らの存在を投入している”表現者による“それらが属する継承およびコンテクストについての、解説的考察と価値判断を体現している”行為であって、その結果として生まれた“芸術作品の最良の読解はすなわち芸術である”この作品だったのではなかろうか。観ている間、監督の幻視の記憶を通してまるで胎内回帰でもしたかのような安寧にずっと包まれていた気がするのはそうした理由によっているのだろうし、そうやってどこまでも三つ子の魂を遡上しているうちに、その行き着く先はセゾン文化が伝播したポストモダンであって死ぬまでそこからは自由になれないことを再認識したのである。それだけに、シネマライズに間に合わなかったことの悔いが残る。
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2016年12月02日

ブルーに生まれついて/愛より高くて遠い音

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チェット・ベイカー(イーサン・ホーク)とジェーン(カルメン・イジョゴ)が互いを引き寄せるシーンは、明らかにウィリアム・クラクストンの撮ったチェットとハリマのポートレイトをモチーフにしているにも関わらず、ではなぜ彼女はハリマではなくチェットの人生には実在しなかったジェーンという女性に置き換えられていたのか。それはおそらく、チェットの人生にはジェーンに象徴される、彼の母を更新する母性としての女性が決定的に欠落していたことが彼にとっての不幸のいくばくかであったことを告げているように思え、ハリマではなくジェーンという存在を書き加えなければこのチェット・ベイカーのパラレルなファンタジーは成立し得ないということになるのだろう。そうやって虚構を入り乱れさせてまで監督が語りたかった物語というのは、ジャズという剥き出しの随意が直結した(と幻想される)音楽においてチェットのトランペットと歌声はなぜその随意を欠きながらも純粋な空気の震えとしてこうまで世界が忘れがたく成立しうるのかという疑問、それを口さがなく言い換えてみた時の、結局彼は「天からの才能を授かっただけの、単なるろくでなし」に過ぎないのだというジャッジへの、彼が内在するブルーズを描きその回答とすることで繰り広げる反論であったように思えるわけで、バードランドの楽屋において彼のデーモンとしてのワンショットを胸が張り裂けそうに哀しくてやりきれない言い訳として描いてみせたことに、それは明らかすぎるほど明らかだったのではなかろうか。チェットにあの誘惑を断ち切れるはずなどないことを嫌というほど知っていながら、あえてそのサスペンスを映画のクライマックスにあてがった監督の、チェットはジャンキーというよりは精神のダイバーだったのだとすら言いたげな口ぶりにはもはや降参するしかないだろう。そういった監督のどこか遠い目をした狂気に共震するかのように、青白い炎で焼きを入れたメランコリーで世界を辻斬りしていくイーサン・ホークは卑屈にもこれだけ甘美な角度があることを諭すかのようでもあり、こちらをじっと見つめ小さく笑いながら深淵に沈んでいく気高さはまさに独壇場であったとしか言いようがない。いつどんなタイミングでかはわからないけれど、トム・ウェイツを演るのもイーサン・ホークであるのだろうことも確信した。
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2016年11月30日

シークレット・オブ・モンスター/ライオンは寝ていた

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※ネタバレ気味なので未見の方スルー推奨

プレスコット(トム・スウィート)がおねしょした夜に見た夢が予知夢めいた啓示であったことは最後のシークエンスではっきりと告げられており、ということは既にその時点でプレスコットの未来は決定されていたことになるのだけれど、それにしてはセックスのオブセッションめいた環境決定論的な散らかしが少々常套に過ぎないかなあと思っていたところが、大人になったプレスコットのヘルムート・バーガーめいた怜悧な美貌など待ちかまえていてみればまさかの!によって、すなわちプレスコットはそういう子供であったのだと告げられた瞬間、呪われたセックスの子として父と母の爛れに中指を立て「もう祈りなんか信じない!」と絶叫するプレスコットの反逆がきりもみしながら腑に落ちたのである。そうしてみると「或る独裁者の幼年時代(THE CHILDHOOD OF A LEADER)」という突き放したような原題の方が好みではあるにしろ、ある一面のケレンを押し出した邦題もあながち的はずれというわけでもないわけで、とは言え、例えばロウソクの炎が燃え移りそうで燃え移らないシーンの、一度動き出した歴史は善にしろ悪にしろ見て見ぬふりをするものだというメタファーの饒舌は、前述したとりつく島のないオチへのアリバイめいたデコレーションにも思えてしまい、到達した飛距離のわりにその快哉を叫びづらいのはその測定方法のややこしさゆえである気がしないでもないのである。自分が匂わせたい香りがきちんと客席に届いているのだろうかという心配性と貧乏性が余白にまで香りをつけてしまっているように思えてしまい、監督の敬愛するミヒャエル・ハネケの完璧にデザインされた余白と、それによってワタシたち観客が逃げ場なく支配下におかれる被虐を愉しむには、この監督は切羽詰まり過ぎているのではなかろうか。ただ、ショットの深度や角度は相当デリケートに計算されて達成をみているので、スコット・ウォーカーの呪術的と言ってもいいエクスペリメンタルなオーケストレイションとの交歓を映画館のサウンドシステムで体験するだけでも確実に料金の元はとれるわけで、この映画が「OK!始めよう」というスコット・ウォーカーのかけ声から始まることを考えれば、むしろそうした愉しみ方がもっと喧伝されて然るべきだとすら思うのだ。それにしても、いったい何かの煮込みなのか何なのか、あの顔色の悪い料理は餌としか言いようのない絶望を漂わせて、プレスコットがぐれるのもやむなしと思える逸品に見えた。母(ベレニス・ベジョ)の理不尽な癇癪で馘になった家政婦モナの、ご一家を破滅させることに残りの人生を懸けます、という鈍器のような捨てゼリフをいつか機会があれば使ってみようと心に決めた。
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2016年11月26日

この世界の片隅に/わたしの名前を告げる声

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原作未読。お兄ちゃんの代わりに海苔を納めるおつかいに出たすず(能年玲奈)が、船に乗っている間下ろしていた風呂敷の荷物を背中に背負う船着き場の場面、別にこのシーンのないまま石段を上がって行く後ろ姿につないでしまったところで何の問題もないのだけれど、8歳の子供が大きな荷物を一人で背負い直すにあたり、石垣に荷物を自分の背中の高さに押しつけておいて、その力を緩めずに自分の背中をあてがいながら胸の前でしっかりと風呂敷の端を結わえてみせわけで、この一連から『風立ちぬ』の二郎が製図台に向かうシーンの異化作用など思い出して、こちらの胸ぐらをぐいとつかまれて引き寄せられた気分になる。と同時に、すずの仕草は非常に危なっかしいながら大方の期待に反して失敗することなく一人で荷物を背負ってみせるわけで、そんな風にただでさえ危なっかしく見えるすずが、なお危なっかしくならざるを得ない時代をかいくぐるには感情も体も何しろ動かさねばならず、何よりその違和をコントロールするアニメーションの生みだすサスペンスにおいて快感と愉悦をおぼえたのである。しかしその紙一重の寸止めはいつしかすずの頬をかすめることになるわけで、精神と肉体の一部を失ってなお、でも生きていて良かったというあきらめにこちらも染まりかけた瞬間、良かった?良かったってどういうことだよ、良いことっていうのは好きな絵を描いて家のみんなが笑っていれば過ぎていく日々のことだろう、そうやって良いことを奪っていくのは悪い何かでしかないし、いったいこのことの何が良かったのか。すずは直ちにその正体を戦争と名付けることはしないのだけれど、自分や大切な人たちを傷つけ破壊しようとする感情や意思の存在を現実として知ることで、それまですべてを肯定して生きてきたすずが否定を宿してしまう悲劇と絶望を戦争のミクロとして描いているのは間違いないにしろ、今となっては戦争や戦時が正気でないことなど既に承知の我々にとって、悪を悪と吐き捨ててひととき気を晴らすよりは蹂躙への本能的な吐き気で酩酊させる中毒がより有効であったのは、この映画がサイケデリックともいえる変性による後引きが生む余白を狙ってメッセージを転写していたことに明らかに思え、そうやって手段と目的が際どいところで時折入れ替わるスリルを映画の昂奮としたのがワタシの正直なところであったのである。孤児との出会いを導くシークエンスの凄惨はほとんど「アシュラ」のそれで、劇中で描かれるあの最初で最後の死体(道端にしゃがんでいた彼があの時点で亡くなっていたかどうかワタシにはわからない)が描かれないけれど亡くなったすべての人たちの代弁であったことを思えば、その怒りと無念を焼結したような容赦ない描写にもうなずけるし、そうやって最後の最後でつきつけるメメント・モリが“死ななかった人たち”を“生きる人たち”へと描き換えていたのではなかろうか。「呉のみなさん、がんばってください」というラジオアナウンスの無責任こそが戦争であった。
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2016年11月23日

ガール・オン・ザ・トレイン/わきを締め、えぐりこむように刺すべし

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※おそらく結末を予想させるので、鑑賞予定の方スルー推奨

わたしたち3人がいなかったらあんたなんてただの哀れなインポ男じゃない!と彼女が叫んだ瞬間、レイチェル(エミリー・ブラント)、メガン(ヘイリー・ベネット)、アナ(レベッカ・ファーガソン)の3人が、それまでの信頼できない語り部から真実の贖いを要求する刺客へと一気に血を逆流させていくこととなる。誰が彼女を殺したかという犯人探しのサスペンスについては、どでもいいと言ったら言い過ぎだけれどもどちらかと言えばオマケのようなもので、人生に操られる木偶として他者を求め依存してきた女性たちがどん詰まりからの失地回復を目指すにおいて、その地獄めぐりで流す血と涙をぬぐう姿の寄る辺なさこそがこの映画の動脈として脈打っていたのではなかろうか。それだけに、狂言回しとして終始這いずり回るレイチェルの狂態はまるでエミリー・ブラント版『失われた週末』のごとき様相を呈していて、この映画のほぼ2/3はブラックアウトによる時制の酩酊そのままに目の縁を赤く染めてタッチ&ゴーを繰り返し、『ボーダーライン』でもそうだったようにこの人は逃げ場なく追い込めば追い込むほど被虐で瞳が濡れそぼつように思うのである。レイチェルが酩酊に抗うことで、彼女の譫妄の存在としてのメガンとアナは実体を伴い息づかいを露わにし始め、それによってある殺人の記憶が意識の泥沼から犯人をサルベージするというニューロティックな構造はなかなか刺激的ながら、それゆえフーダニットが開示の手続きにとどまってしまうことでミステリとしての歩留まりは少々控えめにならざるを得ないわけで、それよりは永遠に勝どきをあげることのない夕闇の『デス・プルーフ』として、3人の女性が自身の立つ風景と刺し違えていく姿が胸を衝くことを監督は望んだのではなかろうか。この3人の対極で仁王立ちするライリー刑事(アリソン・ジャネイ)が共闘にしろ嫌悪にしろ、その造型に反して踏み込みが甘かったのは少しばかりもったいない。ヘイリー・ベネットは『ギフト』のころのケイト・ブランシェットを思い出させるメランコリーと、ジェニファー・ローレンスの肉厚との危ういアンバランスで、この映画で屈指の飛距離を叩き出していたように思う。同じブロンドのレベッカ・ファーガソンはその分だけ割りを食った。
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2016年11月18日

エブリバディ・ウォンツ・サム!! /きみのハートを名古屋撃ち!

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ついこのあいだの水曜日、何十年もの間アメリカから生まれた映画を観て音楽を聴いて本やマンガを読んできたくせに結局オマエは何もわかってなかったってことだよなと言われて、ハイそうですとうつむいて答えるしかなかったものだから、いずれ自分の足で立ってどこかへ向かうことが国民の義務というか強迫観念となっている人々の“だからこそいま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ(片岡義男)”という気分が嘆息するメランコリーの、しかしそれを拒絶するばかりの怒りや憎しみでかき乱すことをしない、青い空のような上澄みをすくってはぶちまけて歩くこの映画に心底救われたのである。彼らはスクールカーストでいえば最高位のジョックスでありながら、その優位性と役得は充分に自覚しつつも彼らはこれが人生の単なるいっとき、モラトリアムに過ぎずやがて終わりの来ることを知っていて、それゆえこの時間を慈しむようにしゃぶり尽くそうとするわけで、それに忠実である限り他人を否定も差別もしないのである。そうやってことさら敵を定めることなく自己批評のじゃんけんでグルーヴしていくあたりが80年代的というかリンクレイター的であって、それをナードではなくジョックスにやらせるというアイディアが、シニカルだけどユーモアを忘れず、女の子には敬愛の笑顔で迫り、ディスコもカントリーもパンクも食わず嫌いなく身を任せ、髪を伸ばし髭を生やし、屈託をけとばし、そしてなおかつ野球が上手いという、ありそうでなかった青春無双のファンタジーを可能にしたんだろう。コステロとかトーキング・ヘッズはどうよ?ディーヴォとカーズもいいよな、って言ってる彼のレコード棚にはニール・ヤングのベスト盤もちゃんとあるわけで、そういう筋の通ったロック少年の純情もいちいち愛おしい。60年代の『アニマル・ハウス』から80年代のここを経て、果たして2000年にこの桃源郷が受け継がれているかどうか考えてみると、ネットが接続したものと分断したものが否が応でも浮かび上がってくるように思うのである。ああ、もう一度観たいというよりは、もう一度あいつらに会いに行きたい。たぶんこれが最愛のアメリカ。今年のベストテン入り決定。
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