2018年10月14日

リグレッション/泣くのが怖い

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※ネタを割っていますが、主演俳優の受難を愛でる物語なのでさほど問題ではないかと。

あんたたちのそういうところだよ、とまるで観客を嗜めでもするような終わり方にも不思議と腹が立たないのは、そこに至るブルース・ケナー(イーサン・ホーク)の倒けつ転びつする七転八倒をそれなりに愉しませてもらったからという理由が大であって、いささか潔癖症的な善意と正義の人ケナーがアンジェラ・グレイ(エマ・ワトソン)という若き毒婦にハニートラップまで繰り出されて翻弄されたあげく、絵に描いたようなパラノイアに囚われて行くさまをアレハンドロ・アメナーバルは不穏と不安と不条理のムードを総動員して追い込んでいくのである。とは言えミステリーとしてはやけにあっさりネタを割るカットがいきなりインサートされて拍子抜けしてしまうのだけれど、少し調子に乗ってイーサン・ホークをいたぶり過ぎたと監督は腰が引けたのだろうか、せっかくいい具合に心神喪失が上気しつつあるところだったし、ここからが彼の真骨頂と思えただけにその意気地のなさがいささか悔やまれるところではあったのだ。オチとしてはどちらに転んだとしてもそれなりに収束してしまう話であったことを思うと、やはり監督にはイーサン・ホークをどこまで蹴堕とすことができるかその深淵を覗かせて欲しかったし、セックスのオブセッション丸出しで淫夢に悶えるイーサン・ホークがけっこうなやる気をみせていただけに、突然正気に戻り事件を解決し始めるその姿には、話が違う!と憤ってみせたりもしたのである。というわけで、界隈の大御所感を醸し出しつつあり昨今からすれば、イーサン・ホークが半べそで疾走するこの2015年作品は貴重なフィルモグラフィーとなりそうな気もするので、彼のパセティックに焦がれる側の方々は現時点で東京1館、沖縄(!)1館というハードルの高さはあるにしろ取りこぼしのなきようにと言っておきたい。なかなか要領を得ないアンジェラの父ジョン(ダーヴィッド・デンシック)に苛ついたケナーが「帽子を取れ、いいからその帽子を取れ!」と八つ当たり的に激昂するシーンで、無表情のままおずおずと帽子をとったジョンの頭が、まるでこれが答えですとでも言うかのように落ち武者的な見事さで禿げ上がっていて、しかしそれが意味するところなどもちろんあるはずもないシュールな一発ギャグにはケナーならずとも攪乱されること必至で、ああ今日はもうこれで良しとしようと思わせる屈指の名シーンとなったのだった。そういうチャームの映画であることも念のため付け加えておきたい。
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2018年10月13日

運命は踊る/不幸なことに幸運

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戦争国家においては自業自得の事態だと言ってしまえばそれまでなのだけれど、この独自の視点はそうした国に生まれ育った者だけが持ち得る角度によっているわけで、声高かつリアルな息遣いで反戦を叫ぶというよりは、場合によっては世界のどこでも起きうる話として寓話の攻撃的な曖昧さで戦時下の憂鬱と倦怠、すなわち厭戦の気分を垂らしていく浸透性が新鮮かつ有効に思えたのである。軍が戦死の報を家族に告げる際の、そのショックに応じてあらかじめ薬物投与の注射器まで常備する効率化されたルーティーンワークは、遺族の感情などおかまいなしに送り込まれた軍付きのラビが淡々と進める葬儀の準備と進行の段取りにまで及び、しかしそれには同姓同名の戦死者を取り違える誤報であったという杜撰で間抜けなオチが用意されているわけで、全体としては三幕構成となるその第一幕において戦争というよりは軍に対する潜在的な反感と嫌悪があぶり出されてくことになる。当の兵士ヨナタン(ヨナタン・シスレイ)の父ミハエル(リオル・アシュケナージ)は、イスラエルにおける富裕層かつ知識階級にくくられるわけで、そうした舞台仕立てによってこれが階級闘争的に立てられた中指でないことをあらかじめ告げておくあたり国家の強権に対するアスガー・ファルハディの手さばきに通じているようにも思うし、してみればこの映画がイスラエル国内の右派から攻撃されたのも至極当然に感じられたのである。しかしこの映画が残酷でユニークなのは、前線からは遥か彼方のどこともしれぬ地の果ての検問所でヨナタンが過ごす奇妙に弛緩した日々を描いた第二幕によっていて、いったい自分はここで誰と何のために戦ってるんだろうか、と戦争の全体性が次第にデカダンスへと沈んでいく黒いオフビートは『キャッチ22』や『M*A*S*H マッシュ』といった先達を彷彿とさせつつ、しかしこの状況における最低最悪の幕引きがそこには用意されているわけで、一見したところ第一幕と第二幕がもたらした罪への罰として描かれる第三幕は、それと同時に喪失から再生へと向かう道筋とも言えて、第一幕では軍の投与した薬物によって激情をコントロールされた母ダフナ(サラ・アドラー)の感情は、この第三幕においてヨナタンの形見のマリワナによって解放されていくのだけれど、彼が最期に描いた絵の本当の意味をミハエルもダフナも永遠に知り得ることがない皮肉がイスラエルで戦争の庇の下で生きる人々へ向けられたことを考えてみれば、そこにはテルアビブに生まれレバノン戦争で戦ったサミュエル・マオズ監督の中道的な憂国がうかがえるのは確かなわけで、時折り決め打ちすぎる狙いが透けて若干鼻につくきらいがあるにせよ、運命の引き金を引くのはあくまでそこにあって逃れがたい現実であることをシニカルだけれどニヒルに沈まないバランスでしたためたこの映画が、『戦場でワルツを』がそうであったようにイスラエルという鬼っ子のくびきから一時離れて自由で今日的な声を獲得してみせたのは間違いないように思う。
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2018年10月07日

イコライザー2/お前に長寿と繁栄を

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かつて殺人マシンとしてウェットワークで殺めた数と同じだけ、自分は罪なき人々を救済せねばならないという意味でのequalizeなのではなかろうかと、置かれた本の位置をミリ単位で修正するロバート・マッコール(デンゼル・ワシントン)という男が自らの手で何人の生命を奪ってきたか正確に把握していないわけがないだろうことに思いを至らせた時点で、贖罪に憑かれた男の地獄めぐりという2作目にしてはやや性急とも言えるネタ割りが不意をつくように深々と沁みてきたのであった。前作では世界の法則の調停者として実存的な乾きすらみせたマッコールの、しかし知られざるその虚無には嵐が吹き荒れていることを告げるのがあのハリケーンだったのだろうし、そうした作用反作用的な足かせがイコライザーというポップアイコンから浮力を奪ってしまうことを承知の上でアントン・フークアは古風と言ってもいい落とし前を望んだのだろう。それはおそらくデンゼル・ワシントンという高貴と野卑をエレガントに飼いならす俳優を前にしての避けがたい誘惑でもあったのと同時に、国家のための殺人という灰色の世界に身をやつした男が自らの魂を救うためには、善悪/白黒の二元論にすがるようにして寄り添うしかなかった精神の麻痺と硬直をキャラクターに注入したことへの罪悪感のような薄暗さが、前作の拡大再生産という手管を良しとしなかったように思ったりもしたのである。かといって、鈍重まで重心が沈み込む寸前に切り上げる目配せの巧みもあり過剰なドラマツルギーに窒息する愚からはぎりぎりで逃れていたし、アマチュアからプロフェッショナルにシフトしていく闘いもアクションのインフレに陥ることなく、むしろよりソリッドにかたを付けていく凝縮のリズムがギアを上げて、なんと言ってもスーザン(メリッサ・レオ)による捨て身の反撃が囁いた寄る辺なき世界の哀しく切ない息づかいによって前作のファンタジーはもう必要ないのだと手放した潔さを思い出してみれば、彼女がもたらした一つの幸福と希望によって映画が閉じられることでこの映画があふれさせた血と暴力への清冽でしめやかな鎮魂としたようにも思うのである。構造としては通じるところがある『ジョン・ウィック』が閉塞から解放へと向ったのとは対照的に、一見したところ解放から閉塞へと向ったことでそれが失速に映る部分もあるかもしれないけれど、すべてはマッコールの閉塞した精神のなせる業であったことを明かした今作によって、これもまた閉塞から解放へと向かう物語であったことに気づかされるわけで、それは失速ではなく夢から覚めることで現実の重力に舞い戻ったに過ぎないことを諒解したのである。前作でテリーとかわした結婚指輪をめぐるやりとりを思い出してみれば、マッコールが指輪を右から左へとはめ直すのは彼にとっての喪の仕事が終わったことを告げているのだろうし、してみればワタシたちの知るロバート・マッコールはもういなくなったと考えるべきなのだろう。殺した分だけの人助けはやめないにしてもである。
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2018年10月02日

クワイエット・プレイス/あふれた涙が落ちる音

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※展開に触れています

これが「ホラー」であれば、サイロのシーンでリーガン(ミリセント・シモンズ)は自身の人工内耳が増幅する高周波がクリーチャーの集音機能との間で起こすハウリングが突破口となることに気づいていたはずで、そうした意味で「ホラー」としては物分かりの良くない話には違いなく、しかしそれは、言ってみればアボット家が「ホラー」的な状況を力を合わせて押しのけることで家族としての絆と生活を全うする物語を描こうとした監督の狙い通りということになるのだろう。したがって、状況の説明とルールを観客に告げるためのオープニング・シークエンスこそ研ぎ澄まされたマナーで描かれはするものの、そこからおよそ1年が経過した後に再スタートする物語はトーンが一新されて、状況の特異ではなく状況下の家族が抱える問題が映画の主眼となっており、言葉が封印された世界のエモーションをバックアップするマルコ・ベラトルミのスコアは情緒過多といってもいい鳴りを隠そうともしないまま、死と隣り合わせの「大草原の小さな家」が粛々と展開されていくこととなる。あらかじめ音を奪われているリーガンにとって襲来後の世界は自身に関する限りさほど変わりがないのだけれど、彼女が苛まれるある出来事にしたところで、彼女はあれが光だけではなくあんな風に音を出すことを果たして知っていたのかと考えてみれば、何をどうするとどんな音がどれくらいの大きさで発生するかを知らない彼女にとっては二重の困難がつきまとうわけで、その苛立ちと哀しみを『ワンダーストラック』でみせたドスの効いた佇まいに塗してみせたミリセント・シモンズの仁王立ちが、この映画を危ういバランスで何とか成立させたように思うのである。とは言え中盤の舵の切り方からすれば彼女だけが知る無音の世界の二重性がさほど活かされることのないまま単なるハードウェアとしてのオチに着地した点で食い足りなかったのは正直なところだし、音を奪い音が凶器となる世界の神経症的な体感をドラマの達成と引き換えに手放していくバランスがワタシには少しばかり邪魔に思えたりもしたのだ。何がセーフで何がアウトなのか、そのラインが恣意的に変動されることでゲームのスリルが失われるのは言うまでもないけれど、「恣意的な変動」が生むドラマの熱情と冷徹な「ゲームのスリル」が混交して、それを望んだわけでもないちょうど良い湯加減になってしまったのはワタシにとってエラーでしかなかったのである。その不条理な機能性に比べ手垢のついたクリーチャーデザインもいささか凡庸であったと言うしかなく、どこにいたとしても次元の裂け目から現れるような名状しがたき佇まいで心をかき乱して欲しかったと思ってしまう。「音を立てたら、即死。」というわけでもない。
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2018年09月30日

ザ・プレデター/俺のためなら死ねる

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※展開らしきものに触れています

『プレデター』の面白さというのはあくまでアーノルド・シュワルツェネッガーの異種格闘技戦としてのそれであったし、『プレデター』meets『リーサル・ウェポン』が予想外に弾けた『プレデター2』をみればわかるように、プレデターというキャラクターはあくまでかませ犬として非常に有効なのである。したがって、その役目を逸脱しないよう行動原理から何からほとんど人間でしかないプレデターはエイリアン、というかビッグチャップに比べると人外としての品格は比べものにならないこともあって(だからワタシはAVPが大嫌い)、プレデターがどんなとんちきな翻案をされようとまったく気に止めることなく午後ローでも見る気分でむしろもっとやれとヘラヘラしていられるのである。その点においてシェーン・ブラックはとても的確にプレデターというキャラクターを理解しているように思うし、かませ犬としてのプレデターにかませ犬軍団をぶつけてみせたアイディアはその冴えた表れで、ネブラスカ(トレヴァンテ・ローズ)、コイル(キーガン=マイケル・キー)、バクスリー(トーマス・ジェーン)、リンチ(アルフィー・アレン)、ネトルズ(アウグスト・アギレラ)といった、オレは自分の頭がおかしいのは知ってるし生きててもろくなことにならないのも知ってる、だからって多分おれより頭のおかしい知らない誰かの都合で殺されるのはちょっと勘弁なんだよな、どこでいつ死ぬかくらい自分で選ばせろよと格好をつける面々が恍惚としてプレデターに殺されていく姿こそ、この映画が立てた中指だったわけで、それはラストのブラックユーモア(死語か)がもたらす犬死に感によって実に見事な着地とあいなることになる。ローリー(ジェイコブ・トレンブレイ)が実質的には人を一人殺していることを本人も父親クイン(ボイド・ホルブルック)を含めたまわりの誰も気にしていないのも頼もしい。与太話に目くじら立ててどうするよというシェーン・ブラックの正しさであろう。それにしても、グラウンドから退却する時にバスめがけて走ってきたワンちゃんはその後どうしたんだろうか。助けてあげてよってローリーが騒ぎだして一悶着あるかと思えばまったく見向きもしないし、キャンディを口に放り込むだけのトレーガー(スターリング・K・ブラウン)をアップでまじまじと映し続けるカットにも幻惑された。そもそもラストのアレにしたところで、デカイやつがあれほど血相変えて追いかけてきたところからすれば無双ツールであることは間違いがないわけで、だとしたらなぜ小っちゃいやつはアレを使ってデカイのを撃退しなかったのか、小っちゃいやつは地球を救おうとしたというよりは自分たちの闘いに代理戦争として我々を巻き込みたかっただけなのではないかと、なお幻惑させられる始末で、それはおそらくワタシが相も変わらずドラマツルギーの奴隷であることの証左なのだろう。いろいろとまだまだである。
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2018年09月27日

死霊館のシスター/出すんじゃない、出るんだよ

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オープニングのシークエンスで、ドアの向こうの暗闇へと引きずり込まれたシスターが、“それ”とのコンタクトの後で闇の中からシスター・ヴィクトリア(シャーロット・ホープ)へ向けた血まみれの顔を見て、ああ、流血しちゃうんだ、アクセスじゃなくアタックしちゃうんだと落胆というよりは冷静に理解してしまったものだから、以降は様々な意匠をうっすらニヤニヤと愉しむことで過ごすことができたのはもっけの幸いと言っていいだろう。バチカンから送り込まれたオカルトハンターのバーク神父(デミアン・チゼル)とポテンシャル重視の見習いシスターのアイリーン(タイッサ・ファーミガ)という、言ってみればプロフェッショナル同士によって繰り広げられる闘いは神経戦とかいった段取りなどまどろっこしいとばかり終始の肉弾戦と相成って、何しろアイリーンが土壇場で繰り出したのがまさかの毒霧殺法であったというその揺らぎのなさは、むしろ清々しくすらあったのである。とはいえプロフェッショナル中のプロフェッショナルであるはずのバーク神父が過去にしでかした仕事のミスをグズグズと引きずるばかりでいっこうに役に立たず、八面六臂に活躍したのはむしろアマチュアであるはずのフレンチー(ジョナ・ブロケ)であったという腰くだけがさらなる笑みを誘い、どこかしら若きニコラス・ケイジの相貌を湛えたジョナ・ブロケのボンクラな翳りがこの映画を極北のメランコリックホラーというThe Conjuring Universeのくびきから解き放っていたように思うのだ。解き放たれてしまっては困るむきもあるだろうが、解き放たれていたものはもう仕方がないのである。修道院となった古城の過去の曰くを描くシーンで、中世に召喚された悪魔とそれを殲滅せんと城になだれ込んだ騎士団の闘いにほんの一瞬『ザ・キープ』が記憶をよぎりつつ滾ったりもして、どう考えてもやるならこっちだったよなあと真顔に戻って少しばかり慌ててしまい、これが最後の娑婆の空気とばかり意外とあれこれ私服を用意してきたアイリーンのお出かけ気分が台無しになるところであった。恐怖は異化であって同化ではないというシンプルな理解の実践がいかに困難かという好例として、おれの屍を越えていけと監督は叫んだに違いない。
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2018年09月17日

きみの鳥はうたえる/ストレンジャー・ザン・函館

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同い年の佐藤泰志と村上春樹は文壇デビューもほぼ同時期な上に芥川賞ノミネートという経歴で重なる部分もあるにしろ、冴えたやり方に鼻白む「僕」と冴えたやり方を解明する「僕」は、当然のこととして圧倒的に青春を違えていくわけで、自爆するセンチメントとして描かれる青春の蹉跌が時代の気分であった季節だからこそ、佐藤泰志はそこから目をそらすことなく抜き身で斬りかかっていったし、村上春樹は蝶のように舞い蜂のようにその時代を刺してみせたのである。佐藤泰志とその原作に関するそんな記憶をもとにこの映画を観た時、『風の歌を聴け』の中で鼠がロジェ・ヴァディムの言葉として語る「私は貧弱な真実より華麗な虚偽を愛する」というフレーズを思い出したりもして、原作からの大胆といってもいい脚色は、ならば今の時代の僕たちは華麗な真実を目指そうと宣言したように感じられたわけで、ではそれが何だったかと言えば自爆しないセンチメント、すなわち生きることに悪あがきする構えだったように思うのである。原作では僕(柄本佑)への意趣返しにチンピラを雇うというノワールめいた行動に出た同僚が劇中ではどう動いてみせたかと言えば、自ら正体不明の棒きれを持って窮鼠猫を噛むいじめられっ子のように無様で情けない白昼の闇討ちをしてみせたし、その三白眼にノンシャランよりは潜在的な卑屈が宿る柄本佑を「僕」に据えたのも、静夫による母殺しという青春の殺人者を完遂するラストを、大いなる不発としての「僕」へと変奏するための手続きに思えたのだ。原作ではあくまで異分子に過ぎない佐知子(石橋静河)の存在をより強力にしたのも、僕と静夫(染谷将太)とのトライアングルを抜き差しならない関係にするためだったのだろうし、あらかじめニヒルな世代にとって虚無への脱走は答えではないという認識はとても正しいと感じる。ただそうなってくると果たして佐藤泰志が必要であったのかという疑問も湧いてくるだろうけれど、何より今のワタシたちには存在を賭けてのたうち回る人が必要に思えて、青春に唾した人間が自分の成熟をどこに見出すのか、いつまでたっても冴えたやり方の見つからないワタシたちが佐藤泰志をあてにするのは自然な成り行きにも思えるし、『海炭市叙景』も『そこのみにて光輝く』も『オーバー・フェンス』も、それに関わった人たちそれぞれが新しい答えを見つけようと必死であった点にもそれが伺えるように思うのだ。たとえそれがスマホとLINEの水平世界に置き換えられようと、むしろそうだからこそ「僕」は走り出さなければならなかったし、佐知子は途方に暮れなければならなかったわけで、あのラストにはここから先はもう生きることが避けられないのだという佐藤泰志の烈しく清冽な意志が灯されていたことは間違いがないだろう。流麗で透明な蒼い夜から一転して白昼にさらけ出された異議申し立ての真摯で決定的な居心地の悪さこそが佐藤泰志のスピリットであったし、乾ききれない情景をためつすがめつ捉え続けるカメラの呵責のなさがラストカットの佐知子に集約されて少しばかり凶暴でもあった。
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2018年09月15日

ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男〜俺を踊らせろ

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ブラウン管の中で悪態をつきまくるマッケンロー(シャイア・ラブーフ)に向けた婚約者マリアナ(ツヴァ・ノヴォトニー)の「彼は集中できてないみたいね」と言う言葉に「いや、できてる」とボルグ(スベリル・グドナソン)が返した直後、見事なサービスエースを叩き込んでみせたマッケンローにボルグはうっすらと幸せそうな顔をする。いまやコーチ(ステラン・スカルスガルド)にもフィアンセにも見せないその顔は、まるで幼い頃生き別れになった異母兄弟を見るかのような親愛と慈愛が滲んだようにも見えて、世界でたった1人このアメリカ人だけが、いま自分が見ている風景の幸福と絶望を理解できるにちがいないというかすかな希望が、テニスの呪いによって光も時間も奪われたボルグを照らしているように見えるのだ。ボルグは自分の爆発するマグマを封じ込めるために張った結界の中に生きていて、おそらくその呪文を教え唱えたのは彼のコーチなのだろうけれど、手段と目的が逆転しつつある彼の生活は綱渡りをするような緊張に蝕まれ、高層階のベランダから階下を見下ろして身体を浮かせるその姿は、あまりに意識の淵を覗きこみ過ぎたことで肉体の境界が曖昧になった人の静かな狂気をワンショットで捉えてみせることで、この映画はストーリーを語ることにあまり興味がないのだという不敵な宣言となっていて、デビュー作『アルマジロ』において“芝居がかった”と“まるで映画のようだ”の危うい境界で戦場を捉えた監督の手管はさらに巧妙かつエレガントになっている。実録を新たな神話へと書き換える幻視の語り部としてはすでにパブロ・ラライン(『ジャッキー』『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』)が一頭地を抜けている感があるけれど、ヤヌス・メッツの猛追によってこのジャンルが昏い目つきの才能たちで活況を呈することになれば、いつしか「ビリー・ザ・キッド全仕事」の映像化も果たされるのではなかろうかと見果てぬ夢に胸を弾ませている。
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2018年09月12日

MEG ザ・モンスター/パパと呼ばないで

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この監督のリズムからすれば目指すべきは『トレマーズ』だっただろうし、少なくともジェイソン・ステイサムに関して言えばそのことを理解した上での振る舞いだったのは確かながら、終わってみれば大人から子供まであげくの果てには元嫁までがよってたかってリー・ビンビンとステイサムをくっつけようとする婚活映画であったとしか言いようがなく、誰が死のうがおかまいなしに送られる母と娘の秋波によって、ステイサムはオレがいい夫でありいい父親になるにはあのメガロドンを倒さねばならぬのだと洗脳されていくわけで、あげくには人間ルアーにすら身をやつすその献身には狂気の色すら漂い始め、ステイサムの頬をペチペチと張っては、日がな一日ビールと昼寝で頭を溶かすフリー&イージーな日々を手放していいのかと説教しかねない自分の目つきが振り払えないまま、正直言ってメガロドンどころではなかったのである。構造的な欠陥としては事態を悪化させる悪役が人間サイドにいなかったことで、役回りとしてはスポンサーのモリス(レイン・ウィルソン)がそれを担うべきところが中途半端な業突く張りに終始するばかりだし、終盤ではついに証拠隠滅のために基地ごと沈めるのかと思いきやそれなりに男気を見せたりもするわけで、彼もまた人の恋路を邪魔するには至らない期待はずれなのであった。なぜか劇中とエンディングと2度も聴かされる「ミッキー」は紆余曲折あって監督が取り上げられたパーティでビーチでシャークな映画のヤケクソな爪痕でもあったのか。Gレイティングのサメ映画なんて、そりゃイーライ・ロスも逃げ出すか。
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2018年09月11日

寝ても覚めても/ベランダから永遠が見える

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最初、朝子(唐田えりか)はドッペルゲンガーだと思ったのだろう。ドッペルゲンガーという言葉を知らなかったとしても、世界が自分につかわした運命に障る何かだと思ったのだろう。麦(東出昌大)が消えた時に持っていった自分の半身が、麦の形をした他人=亮平(東出昌大)となって帰ってきたと思ったのだろう。ならばそれを受け取った朝子が自分の空いた半身におさめれば済む話だし朝子はそうしてみるのだけれど、愛は共同幻想ではなく世界に2つと存在しない自分だけのリアルなのだとする組成へ、かつて麦によって変質させられている朝子は、その自覚と認識を知りえないがゆえ横たわる違和感とひとり向き合いながら自分を亮平と重ねて生きるべく苦闘する。鳴り響く爆竹の音が現実にひびを入れた日の麦との出会いを、地震が現実にひびを入れたあの日に朝子は亮平と繰り返してみせるわけで、その後描かれる亮平との福島への旅は朝子にとって共同幻想としての愛を身体になじませる静養の時間でもあったのだろう。だからこそ、亮平と過ごす朝食のテーブルで自分だけ「パン」を食べる朝子の姿がまとう不意打ちのような禍々しさに慄然としたし、それから先は「それ」がいつどんな風に彼女のところへやって来るのか、潜在的にはそれを待ちわびつつも恐怖する朝子の分裂はほとんどホラーの趣となっていき、ついに「それ」が朝子と亮平の前に現れる瞬間のほとんど幽霊映画といってもいい角度と速度の精度には思わずおかしな声が出かかったりもしたのである。その先で「それ」によって完全変異を成し遂げた朝子が、ああ、この世界の在り方をワタシは亮平に伝えなければならない、なぜならワタシは彼を愛しているからだと彼の元へ向かうことになるのだけれど、逃げる亮平を朝子が追いかけるシーンをとらえたロングショットで陽の光が2人の後を追って射していく聖俗すら超えた絶対性はそのままさらに戦慄するラストショットへと繋がっていき、朝子が示した世界に「きったねえ」と吐き棄てる亮平と「きれい…」とつぶやく朝子がじっと見つめるその先のワタシは果たしてその世界を見ているのか知っているのか。そういえば一度でも朝子はまばたきをしただろうか、とそんなことを考えて気を逸らさなければならないくらいあのショットにはおびやかされた。生気に乏しいわけでもないのに何を考えているのかまったく明瞭でない朝子が繰り出す、しかしドスのきいた断定の言葉が鈍器で殴られたように効いてきて、これ以外に朝子というキャラクターを成立させる術はなかったのではないかと思わせる演技と演出のプランとフォーカスが超絶であったというしかない。それにしてもパン、甘くないパンである。亮平も、そして朝子ですらが知らないパンのことをワタシが知っている映画の寄る辺のなさに震える。久しぶりに『アナとオットー』を見返したくなった。
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2018年09月09日

アントマン&ワスプ/毎日が君と日曜日

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井之頭五郎言うところの「ほー、いいじゃないか、こういうのでいいんだよ、こういうので」というまさにそんなひとときであった。見えない誰かのために世界を背負うマッチポンプの重荷もなく、善悪問答を肉体言語で繰り広げる自家中毒もなく、ただひたすら妻に会いたい母に会いたい、娘にいいところを見せたい、彼女にいいところを見せたい、とかいう私利私欲のために奔走するだけの面々からは観客に共犯関係を無理強いする浮き世のしがらみは微塵も感じることがなく、前作でエドガー・ライトのリリーフをしたペイトン・リードは、サブテキスト?何それ美味しいの?とひたすらシンボルとメタファーからベタと鉄板を振りかざしながら逃げ続けるのである。しかもあげくの果てに思わず漏らした彼のフェティシズムなのか、ズーム機能が故障して「ザ・ブルード/怒りのメタファー」のアレくらいのサイズになったスコット(ポール・ラッド)が彼からすれば巨女と化したホープ(エヴァンジェリン・リリー)のまわりをミゼットよろしく走り回りその愛らしさに思わず微笑むホープの図など、これはいったい「Theかぼちゃワイン」の実写化ではないか!と『アバター』でくらった酩酊が瞬時に甦ったのだった。今回やたらと口にされる量子世界はおそらく次のアヴェンジャーズの布石となるのだろうし、ということはその突破口を担うであろうシュリはサノスのひとひねりをかわしたのかなとささやかな妄想など可能にしてくれるし、ほとんどテッドやプーのように喋るぬいぐるみと化したマイケル・ペーニャの愛くるしさといったらいっそ彼にもスーツを一着くれてやればいいのに、そして小さくなったペーニャを見てみんな悶絶すればいいのにと妄想してただただひたすら絆されていたのである。操られてはカモメの餌となっていく蟻たちの不憫は相変わらずであったにしろである。モリッシーの愛され方はマリアッチのそれに近いのかもしれない。陽気で哀しい死の歌うたい。
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2018年09月05日

高崎グラフィティ。/大人みたいに悪いこと

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オープニング、吉川美紀(佐藤玲)をポートレイトのようにとらえたカメラが少しだけ後ずさると、彼女がおさまっているのはトイレのありきたりでせせこましい鏡の中で、自分で自分を睨みつけるその視線をさっと外してトイレから廊下へと歩き出す美紀の背中を追いかける青い癇癪と焦燥と性急がこの映画の色合いを一発で決定している。それを言い換えればここではないどこかへの希求とモラトリアムの嫌悪ということになるのだけれど、それが世界を壁際まで追い詰めて喉元を締め上げる気配に至らないのは、騒動の元凶となる美紀の父に渋川清彦をコメディリリーフ的に配することで生まれた浮遊感をそのまま青春のファンタジックな薄皮とした設計によっているのだろうし、それは定型に抗うためには定型を踏んでいかねばならぬという監督の決意でもあるのだろう。それが奏功するのは彼や彼女が攻防一体で相手を刺しにかかる時で、もうお互い制服とかいう鎧を脱いでしまったから刺せば血は出るよねという甘噛みの先を解禁することで解放されていく姿こそを監督は描こうとしたのではなかろうか。しかし、あえて配置した定型が無言の早足を減速させてしまう危険もあるわけで、例えば早朝のアーケードを走り抜けるシーンのスローモーションはここで使ってしまうのは少し早過ぎやしないかと思ったし、終盤で時ならぬ命がけに歯を食いしばる阿部優斗(萩原利久)によぎる刹那のフラッシュバックにこそとっておくべきだったように思うのだ。そしてもう一つ、やはり若者が世界へと蹴り出される「前夜」のビタースイートを描いた『アメリカン・グラフィティ』がそうであったように5人の彷徨をワンナイト・ストーリーに凝縮することで、ラストを美紀の自宅での朝食シーンで閉じて新しい日常の光景が定型を蹴り出すところを観たかったなと思ったりもした。とは言え渋川清彦に加えて川瀬陽太まで配する贅沢と拮抗するだけの灯りはこちら側からも照らされていたように思うし、青春のくすみを蹉跌ではない光の角度で描こうとする気概はもっとあちこちで目に止まるにふさわしいものだろうと考える。もう一度もう一つと言ってしまうけれど、彼女の服飾に抱く想いと亡き母親を紐づけなどできていれば、美紀の反転になお説得された気がしないでもない。ただ、そんな風に惜しいなあと思ってしまうのは、その他のあれこれが惜しくなかったからなのは言うまでもなく。
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2018年08月29日

タリーと私の秘密の時間/胸いっぱいのお乳を

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ともすれば品よく腰が引けるジェイソン・ライトマンと、ともすれば胸ぐらつかんで落とし前を欲しがるディアブロ・コディが組んだからといって、足して2で割った平均と中庸に落ち着くことがないのが映画の面白いところで、しかも今回産み落とされたのがカラフルでヴィヴィッドに迫りくる『ババドック』であったとなればそれも一入だったのである。まだまだ手のかかる子供を2人、しかもそのうち1人が世界に中指を立てっぱなしなところに加えて臨月のお腹を抱える母親の日常がどれだけニューロティックなサスペンスに満ちているか、その臨界点でマーロ(シャーリーズ・セロン)の前に現れるタリー(マッケンジー・デイヴィス)のあけすけな距離の詰め方に観ているこちらは若干の訝しさなど抱くも、マーロはその踏み込みに身を委ねることで束の間寛解するのだけれど、ここでディアブロ・コディはタリーをすべての切羽づまった母親たちのイドの怪物としてファンタジーにとどめるというよりは、マーロがケリをつけるべきオルターエゴと描くのである。夜明けの光が見たければまずはその目を開けな!という叱咤はディアブロ・コディのシナリオに通底する突きつけなのは言うまでもなく、マーロとてその例外としないのは、次男ジョナ(アッシャー・マイルズ・フォーリカ)の世話にかまけて長女サラ(リア・フランクランド)をほとんど顧みないことへの責任を問うているからであるようにも思われて、それは寛解中の彼女がカラオケで突然デュエットを始めた時にサラが浮かべた戸惑うような喜びやけなげに母親をシャンプーするその手つきにもサラの孤絶が見てとれるわけで、明日目覚めたら成長した子供はもう今日とは別の生き物なのよというタリーの言葉がどこからやってくるのかを思い直してみた時、その罪深さがいっそう沁みてくるように思うのである。もう少し妄想してみると、タリーすなわちマーロが吐露する男関係によるルームメイトとのトラブル話など思い返してみれば、そうした日々の中で生まれたであろうサラは果たしてマーロにとって心の底から望んだ子であったのか、折々で見せるサラの哀しげな表情がいっそう切なく頭をよぎるのである。とは言え夜明けの光をまわりでさえぎる者たちを刺すように追いつめるのもディアブロ・コディの独壇場なわけで、ここでは一見したところ理解ある夫を演じるドリュー(ロン・リビングストン)が真夜中にTVゲームを欠かさないその姿の、ヘッドフォンで音は出さないよと言いたげに没頭するあまり、コントローラーが立てる終始のカチャカチャカチャカチャが隣で眠るマーロにどれだけ耳障りであるかに思いが至らないその鈍感さを執拗に描いては、実はこういう類がいちばんタチが悪いとばかり彼の株をじりじりと下げていくのである。そんなこんなで、殴ってでもここから連れ出すというディアブロ・コディとそれを泣き笑いに歪んだ顔で見ているジェイソン・ライトマンというコンビの、互いの過剰をなだめ欠落をおぎなうことで新しい考えを生み出すマジックに今回もあっさり化かされた始末で、あなたはWeirdに、というコンビの意向を汲んだであろうマッケンジー・デイヴィスが時折見せる人間からはうっすらと離れた角度がそれを助長して心の奥がすぅっとざわめいた。
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2018年08月27日

検察側の罪人/家に帰ると妻が必ず胡弓を弾いています。

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最上(木村拓哉)も沖野(二宮和也)もそれが人生の手続きでもあるかのように一線を越えて善悪問答を無効化していくわけで、極めて即物的なカットを乱れ打ちしながら、現在の社会を覆う漠とした不安と不快を観念のモザイクとして組み上げていく監督の、ジャニーズのトップを据えた東宝メジャー作品でこんな風なヤリ逃げに近いジャーナルを撮ったことの快哉は叫ばれてしかるべきだろう。原作を読んでいないのでこの脚色が何を得て何を失ったのかわからないけれど、インパール作戦から連綿と続く無責任と傲慢の精神構造を押し頂く巨悪のシステムを倒すための通過儀礼として卑悪の抹殺を利用するあたり、かなり無茶をしたのだろうことは省略と拡張のリズムがあちこちで軋んでいる気配にうかがえはするものの、その違和感をこそ観客それぞれのきっかけとすることを望んだように思うのである。と言った具合に自分のケツを拭くことに忙しい2人のバランサー、あるいはワイルドカードを切りまくるジョーカーとして登場する諏訪部(松重豊)というキャラクターの映画的な発明が効果的で、まずは最上をヴィジランテとして仕上げることを己の役目と課してメフィストフェレスの囁きでアメとムチを使い分けるその佇まいがこの映画にマジックリアリズム的な浮遊を与えているわけで、目論見通り仕上がった最上が沖野を手中に収めるラストには諏訪部のにんまりとした笑顔が透けて見えた気もしたのである。となれば本当のお楽しみはこの3人に橘(吉高由里子)を加えた4人が丹野メモをもとに巨悪のシステムを転覆させる非合法活動なわけで、そんな風に永遠に撮られることのない続篇を夢想する愉しみがこの映画には確かにあったし、それはすなわち、そろそろ日本でもそういう娯楽映画を撮ったっていいんだぜという監督の手招きなのではなかったか。木村拓哉については、かつてトム・クルーズがかっこいいことはなんてかっこ悪いんだろうと悟ったあとで、かっこ悪いならそれを笑ってもらえばいいじゃないかと更にかっこいいことを突き抜けてみせたそちらにようやく歩を進めたようにも見えて、そうそう誰にでも与えられているわけではないその特権を行使するタイミングとしては絶妙だったように思うのである。最上の家庭内設定(有閑な年上の妻!)など、もうそれだけですこぶるスリリングといえよう。
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2018年08月22日

カメラを止めるな!/うそがほんとになりますように

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そこに身を置いたことはないからそれは妄想やファンタジーのなせる業に過ぎないのだけれど、ある種の映画を観た時に映画の撮影現場に対する憧憬や敬意のような無垢の感情がふわっと立ち上がったりもするわけで、なによりこの映画はその点において針が振れたように思うのである。アメとムチで感情をこじあけては現場処理のきらめきを血眼で探し、それを見つけたりなくしたりする右往左往は瞬間的に生死の問題ですらあり、そんな風にしてシクシク泣いたり笑いを噛み殺したりしながら転げ回っているにつれ世俗の屈託は削ぎ落とされて、最後の最後にC調(死語か)のプロデューサーまでがどれだけ清々しい笑顔を見せたことか、そこにあったのは映画が厳然として持つ「浄化」の力そのものだった気がしたし、たとえネタバレをしたところでなかなかその魅力を伝えることが叶わないこの映画が寡黙な集団ヒステリーを誘い続けているのも、ともすれば正気を失った報せばかりが繰り返される日々をサヴァイヴする人々によるシンクロニシティにさえ思えたのだ。先般、映画を撮った人たちに突然叫んでしまった彼も、おそらくは映画を観た後で自分があの場で浄化されなかったことのメランコリーに囚われたがゆえのちょっとした錯乱だったのではなかろうか。娘の写真を台本に貼りつけて禁酒を誓った細田(細井学)にならって、ある写真を台本に貼りつけた日暮監督(濱津隆之)の想いが最後にはどこへどんな風に届いたか、それを映画の背骨に埋め込んだ時点でこの泣き笑いのスラップスティックは上田監督が紡いだ物語になったのだろうとワタシは考える。冒頭のオンエア版で流れるふぬけたジョン・カーペンターみたいな劇伴や地面に転がった食人族カメラもニヤニヤと愉しく、酒が抜けたあとで見せる細田ゾンビの意味不明なキレも忘れがたい。
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2018年08月17日

オーシャンズ8/わたしたちは視つからない

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※内容にふれています

ハリウッドの顔見世興行的お祭り映画をそれらスタジオシステムとは一線を画し続けるソダーバーグが撮るというスカし方がいささか鼻についたのと、それでも何となく観てしまった時の、プロットはあえてザルなまま記号として脱構築してます的な無味無臭もあってまったくワタシは面白がれなかったものだから、そんな風に全体が悪い冗談のようなフランチャイズにいかなる勝算をもって挑んだのかそれなりにワタシは楽しみにしていたのだけれど、思ったよりも正攻法かつ生真面目なそれはゲイリー・ロスのいささか朴念仁な作家性の当たり前な反映で、なるほどすべてを真に受けてみることにしたのだなあと、製作にも名を連ねる主演女優サンドラ・ブロックの変わらぬいなたさにもなんとなく合点がいったのである。ロックンロールなケイト・ブランシェットを目で追っていればとりあえず事足りるにしろ、どうしてみたところで“女性版”という惹句から逃れられないのだとしたら、そんなノイズをかき消すようなグウの音も出ないタフでソリッドなケイパームーヴィーをモノにして欲しかったなあというのが正直なところで、例えば特殊な仕掛けをクリアしないと外せないはずのネックレスがなぜ走っているうちに落ちてしまったことを誰も怪しまないのか、そしてその発見者がなぜ誰からも疑われないのか、ハウダニットの根幹にも関わらずそれらイージーは少しばかり観客に甘え過ぎだろうと思ったのである。女優陣はみな、何だってやってやるつもりに映っていたことを思うと、60歳を超えたアルティザンの監督ではなく彼女たちと共闘できるクリエイターをなぜ選ぶことができなかったのか、あるいは選ばなかったのか、『チャーリーズ・エンジェル』でドリュー・バリモアがマックGをフックアップしたファンキーでスマートな目配せこそがこの映画には決定的に欠けていたように思うのだ。何だかもったいないことをしたなあという気持ちがずっとしている。
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2018年08月15日

インクレディブル・ファミリー/つよくて大きいアメリカの赤ちゃん

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※内容にふれています

MCUで苛烈なまでに稼ぎまくるディズニーへヒーローなんぼのもんじゃいと立てた中指のみならず、あげくの果てにはスクリーンを捨てよ町へ出ようとアジりまくるスクリーンスレイヴァー=イヴリン(キャスリーン・キーナー)が鏡像的に反射するヴィランだったこともあって、そういうお前はどうなんだ、かく言う自分はどうなんだとブーメランが飛びかっているうちに雨降って地固まった世界の水平性を見晴らす視点はブラッド・バードが自身に課したリセットでもあったのだろうし、ジョン・ラセターの名前をクレジットロールに見つけた瞬間にその仕掛けが完成するという皮肉というよりは必然こそをこの作品が求めたということになるのだろう。ヒーローとはそもそもがマイナスをゼロに戻すための存在であって、果てなきプラスを幻想する人々とそれを否定しないヒーローたちに向けられるイヴリンの敵意と嫌悪が正気の沙汰であるのは言うまでもないし、その代表者とも言えるイヴリンの兄ウィンストン(ボブ・オデンカーク)のまとう無邪気な危うさは、実の妹が自分を裏切るヴィランであったことを知ってなお一顧だにしないラストの笑顔に象徴的で、実は彼こそが潜在的なヴィランであった気すらしてしまうのである。ヘレン=イラスティガールを初めて目の前にしたヴォイド(ソフィア・ブッシュ)が思わず口にしたヒーロー=異能者としてのX-MEN的な疎外感に、今回はそこへも踏み込むのかと期待と危惧が半々でいたのだけれど、結局は祝福されるスーパーパワーの象徴としてのジャック=ジャック(イーライ・フシール)の活躍がすべてをかき消してしまうことになるわけで、イヴリンとヴォイドの共闘に光と影の屈託が感応したわけでもなかったのは少しばかりもったいないなあと思ってしまった。各自がエゴを剥き出しにするパー家にあって、弟にして長男という板ばさみにもかかわらず、せいぜいがやんちゃ程度でぐれることもなく家族の下支えとして文字通り奔走するダッシュ(ハック・ミルナー)が巧妙なシナリオの発明となっていて、ワタシがヴィランなら真っ先にダッシュを無効化したにちがいないのであった。エンドクレジットシーンでなくゴージャスでファンキーでソウルフルなエンドクレジットソングだったのは思いがけないカーテンコールでちょっと新しいスタイルに耳からうろこ。
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2018年08月08日

ミッション:インポッシブル フォールアウト/世界を救うまで待っててベイビー

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劇中で2度あった夢オチから抜け出せないまま、夢から覚める夢を見たとでもいうふわふわと足元の定まらないステップが、イーサン・ハント(トム・クルーズ)の薄ぼんやりとした寝起きのような頬のラインと相まって、なんだかワタシは夢とうつつの間でまどろむイーサンのレム睡眠を覗き込んでいる気がずっとしていたのである。これまでは状況の表面張力が限界となった瞬間、解き放たれるように飛びだし走り出していたアクションが、ここでは自分が再び眠って夢の中に堕ちてしまわないよう自分で自分の頬を張り続けるための作業であったようにも思え、爽快や痛快というよりはマイナスをゼロに戻す徒労をひたすら見守る閉塞に締めつけられる気もして、それは冒頭のベルリンにおける失策に端を発する敗戦処理の気分がこの映画を支配し続けるのと同時に、イーサン・ハントという稀代のエージェントに忍び寄るミッドライフクライシスにも似た精神の倦怠と沈澱との闘いがさらに拍車をかけていたように思うのである。ウォーカー(ヘンリー・カヴィル)の「彼は仕える相手にあれだけ何度も何度も裏切られてきた」という言葉が告げるように、抉るような裏切りがイーサンの動機と激情をキックし続けてきたことは言うまでもなく、その結果として生まれたのが狂気のノブレス・オブリージュ・マシンとしてのイーサン・ハントであったわけだし、ラストで3度めの夢から醒めるかのように目覚めたイーサンがジュリア(ミシェル・モナハン)に向って「許してくれ、すべてのことを許してくれ」と言う時、それはマシンであった自分の否定とそれが導く新たな人間宣言であったように思うのである。前作でイルサ(レベッカ・ファーガソン)をイーサンの鏡像とすることでローグ・ネイションの住人としてのメランコリーを投影してみせたように、今作ではウォーカーをその役にあてることでマシンvsビーストの構図によるスイングを狙ったのだろうけれど、存在自体がマクガフィンと化したソロモン・レーン(ショーン・ハリス)のまるで緊張感を欠いた介入もあってウォーカーが血の通ったキャラクターというよりはスマートなジョーズ(リチャード・キール)にしか映らなかった失敗は、やはり今作がイーサン・ハントのセルフ・カウンセリングに終始したことの功罪に依っているのは間違いがないところだろう。しかし、暴走するノブレス・オブリージュ・マシンとしてのイーサン・ハントを崇拝してきたワタシのような人間にしてみれば、人間宣言をしたイーサン・ハントが今後も常軌を逸したカリスマを保ち続けることが果たして可能なのか、出たとこ勝負で仕上げた(ように映る)今作のツケは存外に大きいものであった気がしてならないのである。ワタシが観たいのは躊躇なくヘリからパイロットを放り出して転落死させる洗練された合理的な運動としてのイーサン・ハントなのだけれど。
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2018年08月05日

ウインド・リバー/赤い雪のブルース

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吸いこんだ空気で肺すら凍る酷寒の中を6マイル走り続けなければならなかったのもその6マイルを走り続けることができたのも、ウインド・リバーに生まれ落ちたナタリー(ケルシー・アスビル)の血と肉が呼び寄せた運命に他ならず、しかしその運命を決定しているのは、おまえたちはここからどこへも行くことはできないというアメリカのかけた呪いであり、動き続けることで自由を獲得してきた彼の国にあってそれはほとんど死さえ意味するに違いなく、そんな風にして生まれながらに死んでいるものたちの土地で繰り広げられる殺戮は、それは例えば時折吹き荒れる吹雪のような自然のひと触れとしてやってくるに過ぎない。したがって、この地に生きることを決めたコリー(ジェレミー・レナー)は死に対して従順であることを受け入れていて、その見返りとして彼にいっさいの衒いも迷いもない引き金を与えている。病院のベッドでジェーン(エリザベス・オルセン)の流す涙は、自分の属する「アメリカ」がかけた呪いに殺されかけた衝撃と罪深さが、それまで彼女の与り知ることのなかった自身の内部を激することでこぼれ落ちた感情の滴なのだろう。コリーがジェーンに「きみはよくやった」と言う時、それはよく生き延びたというよりはよく殺したという言外を持つにちがいなく、定型であれば反目し合う内に理解と愛情が育つ関係になるところがコリーは端からジェーンにバックアップの手を差し伸べていて、そのメンターとしての役割は『ボーダーライン』におけるケイトとアレハンドロの関係を容易に想起させるわけで、してみれば、テイラー・シェリダンが囚われているのは抹殺された現実の告発というよりも、境界を超えた者に訪れる永遠の変質であるように思うのである。真夜中に強装弾を仕込むコリーのところに、起きてきた息子のケイシーが近づいて悪い夢を見たんだと小さく告げるシーン、自分の膝の上にケイシーをのせて束の間それぞれの静かな屈託に浸る時間はこの土地に生きるもの同士が呪いの感応を確認する儀式のようでもあり、しかしそれを悲劇というよりは静謐な諦念と彩る筆使いで描くテイラー・シェリダンが幻視するのはアメリカの原罪を解剖するメスさばきそのものなのだろうと、昏れていくアメリカの寄る辺ない語り部があらたに生まれたことを心の底から喜んでいる。
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2018年08月04日

FUJI ROCK FESTIVAL'18苗場7.29 Sun

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台風はとっくに逸れたものの、その置き土産なのか突発的な豪雨と強風にそれなりに心は削られていて、昨晩のFISHBONEのステージで土砂降りの中ヤケクソでがなった「EVERYDAY SUNSHINE」が既に笑えなくなっている。

THE FEVER 333@WHITE
というわけで今日もまた降り出したのである。しかしいつの間にかパンイチになったステージの3人にアジられる内にまたぞろヤケクソにはなるわけで、それなりに疲れもたまった最終日の午前中というなかなかキツめのスロットにあってほとんど初見の客をいかに騒ぎに巻き込むか、何ならあばらの一本くらいはくれてやるというほとんどjackass的な心意気こそがバカ正直な感動を生むのであった。

HINDS@RED MARQUEE
ふと外を見ると土砂降りである。しかしここには屋根がある。ステージはカラフルで朗らかである。午前中ホワイトでがんばったご褒美だろう。そういう風にできている。

ANDERSON .PAAK & THE FREE NATIONALS@GREEN
ファレルからお触れでも回ったのか、見たことないもん見せてやるから好き勝手に騒いどけとでもいうコミュニケーションブレイクダウンの回避が完全に奏功。ケンドリック・ラマーとは対照的に手の内をすべて晒した上でブレイクスルーをショウに翻訳して圧倒してしまう。ドラマーとしてリズムの芯を食った力点で回転する時のスリルはちょっと他に例えようがない。

KALI UCHIS@WHITE
ほとんど特攻服のような気合のシースルーでライヴヴァージョンとしての自分をトータルにデザインする術が実にスマート。見たきゃ見れば?とでもいう誘いかけもトラップのようなもので、鉄壁のバックバンドも含めたアンサンブルにじわじわと取り込まれていく。ホワイトの吹きっさらしにも関わらずここまで密室性の高いサウンドを可能にするコントロールの強靭さに痺れてしまう。

BOB DYLAN & HIS BAND
開演予定時刻の数分前にいきなり始まったのであった。常に現在の自分に忠実であることに努めてきた77歳のミュージシャンによる現在地としてのステージは、彼と一緒に自身を巡る旅をしてきた人にこそ測れるものなのだろう。来日すればほとんどの公演をフォロウする人に聞いた話では、ようやくシナトラのモードから解放されていた上に馴染みの曲も新鮮なアレンジで奏でられていて非常にフレッシュであったそうだ。チャリ坊などと呼んでいたチャーリー・セクストンのいぶし銀の佇まいなど見てみれば、そりゃあワタシもいい加減年を取るわけだと最後の曲だけでも一緒に口ずさんでみたのだった。

GREENSKY BLUEGRASS@FIELD OF HEAVEN
今年のベストステージ。懐古主義でも回帰主義でもなく、混沌を混沌として愛でるのでもなく、世界の水平性を規定するスタイルとして直結された無意識の肉体性。それはバンドスタイルを選択するヒップホップの潮流、ケンドリック・ラマーやアンダーソン・パークがそうであるように、と深層でリンクしているようにも思うのだけれど、それが批評として行われているわけではない健全さが親密なクラリティを彼らにもたらしていて、正気を保つためには音楽が絶対に欠かせないことおよび、やはりフジロックのマニフェストはヘヴンにあることを思い出させてくれるステージだった。これからは、毎年ヘヴンのクロージングは彼らでいいのではなかろうか。

流れていく時間と流れていかない自分とのズレ、と言ってしまうと良くないことのように響いてしまうけれど、その差異を一年に一回確認する場としてのフジロックを再発見したような気がしている。身に覚えのない小さな傷が手や足にいくつかあって、そういった鈍感の進行とも付き合っていかねばならないことも忘れてはならぬ。

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