2017年11月16日

彼女がその名を知らない鳥たち/おいしく食べるキミが好き

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※展開に触れています。結論から言えば傑作。

ついには陣治(阿部サダヲ)がジェルソミーナと化したのである。さあ種明かしをしますよと言われて見せられた種明かしがそうしたのである。となれば十和子(蒼井優)は当然ザンパノである。しかしイル・マットの不在により、ザンパノを惑わす者としての水島(松坂桃李)と黒崎(竹野内豊)の笑みすらさそう非道っぷりがこの映画を暫定サイコホラーへと引きずり込むわけで、『道』が降りてくるラスト数分まで誰もが誰にも感情移入など一切認めるはずもないまま、ちぎっては投げちぎっては投げ、いったい何を投げるかというとそれは糞であったというクズどもの動物園をサファリバスに乗って巡り続けるうち、いつしか俗は聖へと寝返りをうって、ああそういえば陣治の枕元には今もあの水槽があったなあなどとすべてのピースが啓示のように降り注いでは、宙に舞った陣治をキャッチした天使たちが明るい方へ明るい方へと飛んでいく光景すら見えた気もしたのだ。それもこれも陣治のジャンプに至る助走の、その背中を蹴り足を掛け首を絞め唾を吐きかける観衆の下衆が神々しいまでの歓喜に満ちていたからで、それを誰よりも煽動する十和子(蒼井優)でありながら、しかしその助走を止めることなど私にできるはずがないのだという譫妄と血の香りがする共依存の生み出す、これはもう誰も無傷で帰ることなどできそうもないというサスペンスの予感が煉獄の日々を撫でさすっては震わせ続けることになるのである。今作では白石監督の張りめぐらしたこの撫でさする感覚の厭わしさが主役といってもいいくらいで、それを充填した陣治、十和子、水島、黒崎が互いをまさぐって蠢くさまは俗の極みにおいてエレガントですらあり、ここまで余白や担保なく糞を描ける監督の地肩には惚れ惚れするとしか言いようがなく、十和子の髪を鷲づかみにしてダッシュボードに叩きつけ、トーキックで肋骨を粉砕する黒崎には竹野内豊の愉悦が、水際の遊歩道で十和子を跪かせてチャックを下ろす水島には松坂桃李の恍惚が滲んだようにも思えるし、何より阿部サダヲと蒼井優という、スペックの圧が強すぎてアンサンブルではそのコントロールに甘んじるように見受けられる2人が知らずそのリミッターを外したかのように映る爽快感こそが特筆されるべきで、この2人の生理的ホラー感があってこそ成立する作品などそうそうお目にかかれるはずがないように思うのだ。今作に限ったことではなく、善とか言う仮想敵を必要としないその凡庸に均された悪の世界、善い人のいない、悪い人たちと悪くない人たちが角突き合わせる世界をニヒルも絶望もなく生き生きと描く白石監督の颯爽をワタシはこれからも頼りにしていきたいと確信した。阿部サダヲと蒼井優の名前で高をくくった人にこそ薦める傑作。
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2017年11月14日

ノクターナル・アニマルズ/愛のヴィジランテ

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※未見の方にはノイズとなるかもしれないのでスルー推奨

フリーキーでモンドなダイアン・アーバス的インスタレーションを背後にひとり腰を下ろし、心ここにあらずといった風で放心するスーザン(エイミー・アダムス)の瞳がその2時間後に何を見ていたか、その軌跡をたどる物語はあえてミスリードのカーヴに突っ込んでコース取りに終始してスリリングではあるものの、愛の忠誠を知る者がその責任を果たすべく選んだたったひとつの冴えたやりかたは、それゆえ残酷な賭けとも言える問いかけを伴うことになるわけで、結論から言ってしまえばスーザンは失敗するのである。エドワード(ジェイク・ジレンホール)がスーザンに送った小説「夜の獣たち」をスーザンがどう読み解いたのか、現実で小説を読んでいるスーザン、それを読むスーザンのヴィジョンが投影された小説世界、スーザン史観により回想される過去、による3つの様相が互いをマウントしながらスーザン・モローという女性の実存をえぐり出すように彫塑していくわけで、トム・フォードの開陳するこの罪と罰のあまりの容赦のなさには「シングルマン」にただよった甘美な自罰の香りは一切見当たらなかったように思うのである。スーザンの投影によって小説内の登場人物トニーはエドワードの貌を持ち、妻ローラ(アイラ・フィッシャー)と娘インディア(エリー・バンバー)にはそれぞれスーザン自身とスーザンの娘サマンサ(インディア・メネズ、偶然にしろインディは一致すらする)の面影をしのばせている。その回想においてスーザンが自身の母親アン(ローラ・リニー)を否定すればするほどその呪縛に陥っていく悲劇は、既にエドワードが君は自分で自分を封印してしまっていると指摘した通りであって、「夜の獣たち」という小説内でトニーが獣性を解放し正義と復讐を遂行するその姿こそはスーザンが自身の封印を自らの手で解くことの暗喩だったように思うし、もう失うものは何もないとトニー(=スーザン)の復讐に法の埒外で手を貸し続けるボビー・アンディーズ(マイケル・シャノン)こそはスーザンの従者としてのエドワードだったのではなかろうかと、「妻はいない、子供は遠くにいるが助けにはならない」と絞り出すように答えるその姿にだぶって見えたのだ。しかし、前述したトニー(=スーザン)に託した暗喩を現実のスーザンが我がものとすることでしか彼女の幸福はあり得ないのだとするエドワードの願いが果たしてスーザンに届いたのかどうかと言えば、小説の暴力性に現実が揺らされるほど震えおののいた彼女は、その筆致をかつて自分がエドワードに指摘した彼の「弱さ」の克服と捉えたにちがいなく、エドワードを棄ててその元へ走った夫ハットン(アーミー・ハマー)との空疎な夫婦関係に倦んだ彼女は結婚指輪を外してどぎついルージュをぬぐい、エドワード好みのスーザンを装っては自分の望む男へと変貌した(であろう)彼との逢瀬に向かうのである。しかし小説内でのボビーが癌を患って余命いくばくもない男としてトニー(=スーザン)の前から消えていく運命にあったことを思い出してみれば、それこそはエドワードがスーザンに問いかけた最終テストであったに違いなく、スーザンがエドワードの願いどおりトニーを我がものと読み解いていれば、火曜の夜あの場所にエドワードが現れるはずなどないことに当然思い至るわけで、かつてエドワードがきみの瞳はお母さんと同じ悲しい瞳だと指摘した、もはやこの世界のどこを見つめたらいいのかすらままならないその瞳をラストショットに磔としたトム・フォードの、愛を信じることをしなかった人への静かな憐憫と酷薄な拒絶には身の凍る想いすらしたのである。そうやって愛という信仰に背いた人の地獄巡りを描くエレガントかつソリッドなショットは、次第に突発する暴力すらを宗教画の啓示と語り出し、ハイ・アートとテキサスの出会う場所に赤いソファを沈めては地獄の底と見立てるわけで、しかし実はそれすらも小説を読むスーザンのヴィジョンに他ならないことを想う時(例えばスーザンの自宅に飾られたアートフォトの中で、荒野でライフルを向けられる男の相貌はルー(カール・グルスマン)そのものではなかったか)、このすべては、寄る辺なく相対化され続ける世界の犠牲者たるスーザンへ捧げられたレクイエムだったようにも思うのだ。冒頭の外世界でほんの1秒ほどその影を見せて消えていくエドワードこそは、喪い続ける世界に愛を手向ける人トム・フォードのイドではなかったか。この人は愛こそがすべてと絶望している。
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2017年11月10日

シンクロナイズドモンスター/酔った断った勝った

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『ヤング≒アダルト』ミーツ『パシフィック・リム』と言ってはみたところで曰くいい難い映画なのは間違いないのだけれど、『ヤング≒アダルト』の部分が執拗に誘う痛みのせいで『パシフィック・リム』的な激突、というか喧嘩に思いがけないライヴ感が生じてくるわけで、けっきょく最後に決着をつけるのは“大人になる”という必殺技だったということになるのである。まるでAI化したかのような世界がすべてを先回りしてお膳立てしてくれるおかげで、ワタシたちは大人になったふりをした大人として何となく生きて行けてしまっているわけで、ただそれを端から見た時に、果たしてワタシたちはどんな風なスポイルの怪物として映るんだろうねという自戒と自虐と自爆が、この映画を笑うに笑えないけれど笑うしかないコメディとして綱渡りさせていたように思うのである。自分に都合のいいセーフティネットを見つけてはそこに逃げ込んで責任を逃れる術だけが次第に手慣れていく姿はまるで他人事ではなく、ああして世界の真ん中に晒されることで自分が何者で誰を傷つけているのかをようやく知ることになる残酷ショーは、グロリア(アン・ハサウェイ)の鏡像としてオスカー(ジェイソン・サダイキス)を配置することでその痛みの応酬がグロリアの目を覚ます手助けとなって、最後にグロリアが彼方へと放り投げたアレこそが彼女に巣食う怪物に他ならなかったということになるのだろう。と言った具合に予告篇のノンシャランでファンシーな印象からすると、40超えた大人の通過儀礼とあっては次第に口数が減っていくのもやむ無しといったところなのだけれど、例えば今作のナチョ・ビガロンド監督(スペイン)や『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』のマイネッティ監督(イタリア)、あるいは『マジカル・ガール』のベルムト監督(スペイン)といったように、サブカルチャーネタをメタ構造のツールとしてではなく人生に直結する手がかりとする虚構の借り方はヨーロッパの監督に共通する意識や思想なのだろうかとも思うわけで、サブだろうとポップだろうと人間が考えだしたことならそれはリアルな全体性としてのアートではないのか?という前提は日本はもちろんアメリカ映画にもあまりない距離感で、ギレルモ・デル・トロの真っ赤な幻視とティム・バートンの真っ青な幻視の違いもそんなところにあるのではないかと思ったりもしたのである。してみれば、リュック・ベッソンの恐るべき無邪気と無節操も、本人にとってはそれがあくまでアートの達成であるという点でまったく筋は揺らいでいないようにも思うのだ。今作にしたところで、監督は当初ゴジラとマジンガーZでヴィジョンを組み立てていたらしく、劇中のアレはグロリアとオスカーの子供時代に市販されていたソフビ人形に過ぎないというコンセプトからすればうなずけるとは言え、それを公式の場でおおっぴらにアナウンスしたことで東宝に怒られたエピソードも含め、ワタシたちはいかに自分で自分に枷をはめてしまっているのか考えさせられて、観終えて残ったのはどこか清々しいとしか言いようのない気分だったのである。アン・ハサウェイも何だかそんな顔をしていたではないか。
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2017年11月08日

IT/イット“それ”が見えたら、終わり。の優雅で感傷的な始まり

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当初キャリー・フクナガがメガホンをとると知った時に、もはや日常がホラーでしかない少年少女たちの孤絶と友情の物語がすぐさま頭に思い浮かんだのは、『闇の列車、光の旅』で描かれた痛切に引き裂かれる青春がキャリー・フクナガという名前と分かちがたく記憶されていたからで、その後『ジェーン・エア』にしのばせたゴシック・ホラーの香りなども思い出してみればプロデューサーは素晴らしい選択をしたものだと感嘆したのを思い出す。その後スタジオとの“創造上の相違”によってフクナガ監督は降板してしまったけれど、彼が脚色したシナリオが今作の背骨になっているのは間違いないように思うわけで、ビル(ジェイデン・リーバハー)の青白い傲慢やベヴァリー(ソフィア・リリス)を引き裂く光と影、そして登場する大人たちがすべて彼らや彼女に立ちふさがる存在であることなど、残酷な試練に満ちた通過儀礼の片鱗はあちこに見て取れる。恐怖の質については、あくまでも彼や彼女たち少年少女の抱える恐怖の投影であるために、Jホラー以降の裏打ちよりは80年代ホラーの頭打ちのリズムを反映させたこと(劇中の映画館で上映されているのは『エルム街の悪夢5』)もあって、神経を蝕むというよりは直情的にアタックする仕掛けとなっているのだけれど、開始早々にある人体破損を見せつけて今回のペニーワイズがどこまで何をするかあらかじめ宣言することで、その通奏低音が恐怖を鳴らし続けるようデザインしてみせたのはスマートだったように思う。原作を読んだ人には言うまでもない映像化不可能なあのシーンのオミットについてその是非をあれこれ言うつもりなど全くないにしろ、ベヴァリーが抱く恐怖の源泉となっている自らの女性性に対する怒りや困惑がいささか体よく使われていたこと(フクナガ版の脚本では薬局のくだりや日光浴のシーンにセクシャルなあてこすりはない)、とりわけベン(ジェレミー・レイ・テイラー)がキスすることで昏睡するベヴァリーが正気に戻るシーンはやはりバランスを欠いてしまうように思うのだ。ベヴァリーの部屋に緑色の表紙の「かえるの王様」の本があったことがその伏線になっているのだろうけれど、原作ではその行為によって自身の女性性への拒絶を母性に捉え直すことで仲間を鼓舞し絆を一つにしたベヴァリーの捨て身を、まったく正反対の扱いにした意図がワタシにはよく分からないのである。ジュヴナイルの構造以外を極力刈り込むことで善悪の図式を単純化した意図や、それによって広範な娯楽性を獲得したことは理解するけれど、そのためにあの同志たちがお姫様と騎士という定型になってしまうのだとしたら、あの夏に彼らと出会ったことで一瞬とは言え牢獄から解き放たれたベヴァリーがあまりにも浮かばれないように思ってしまうのだ。正直に言ってしまうと、ワタシはやはり第一稿の時点で「頼むからワーナーはこれをこのまま映画にしてくれ」とキングに絶賛されたフクナガ版のシナリオで観たかったと思う。これこそがベヴァリーだろう。

[STUDIO DRAFT 3-18-2014 Written by Chase Palmer & Cary Fukunaga]
BEVERLY : Guys, stop it. Focus.
Everyone turns to Bev. Their muse. Their light.
SHE TAKES EDDIE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES STAN'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES RICHIE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES MIKE'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES BEN'S FACE IN HER HANDS
SHE TAKES Will'S FACE IN HER HANDS
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2017年11月06日

マイティー・ソー バトルロイヤル/風雲!アスガルド城

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MCUフェイズ3の幕開けとなった『シビル・ウォー』で起こした自家中毒が思いのほか重篤だったとマーヴェル的にも診断を下したのだろう、続く『ドクター・ストレンジ』『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.2』『スパイダーマン:ホームカミング』ではそのリハビリにつとめるかのように“成長”をキーワードに通過儀礼を描くことで、行って帰ってくる物語の風通しによってひたすらユニバース内の洗浄をしていたように映ったのである。そして今作では、あらたに登場した生き別れの姉ヘラ(ケイト・ブランシェット)を黒幕とすることでこのシリーズならではの家庭争議を継承しつつ、あくまで家庭の事情以上の共感や理解を求めもせずに犬も食わない喧嘩の高みの見物にとどめた無責任こそを、その全快宣言としていたのではなかろうか。入り乱れるキャラクターを、内省=サブテキストに頼ることなくセリフと動きによって作用と反作用の関係性を描き分けてなおかつ浮力を失わない立体的な演出は、タイカ・ワイティティ監督の過去作『シェアハウス・ウイズ・ヴァンパイア』で見せた小回りの効いた大騒ぎそのものだし、作品のコンセプトを十全に生かす能力さえあればキャリアの大小など一切不問とするマーヴェル・スタジオの慧眼恐るべしといったところで、そうしたケヴィン・ファイギの思想がトップダウンで浸透しているのがDCとの哀しくも決定的な差異となっているのだろう。今作ではクリス・ヘムズワースのみならずマーク・ラファロまでもが沖から次々とやってくる波を嬉々として乗りこなしてみせて、何しろトム・ヒドルストンの繰り出す丁々発止を基本ラインとする躁状態が最後まで途切れることがないし、白い方との契約が満了にでもなったのか、黒いケイト・ブランシェットが世界を跪かせるべくウキウキと満面の笑みで浅野忠信を串刺しにしてこちらも眼福このうえない。しかし、神話にオフビートのテイストが有効であることを探り当てた最大の功績は1作目におけるカット・デニングスの神様いじりにあったことは言うまでもなく、そんなこともあってムニョムニョ(ムジョルニア)の退場が少しばかり切なかったりもしたのである。そんなこんなで観終えてみれば、意味不明なのはともかく調子に乗った景気づけとしての“バトルロイヤル”はさほど悪くない気もしたわけで、つまりは徹頭徹尾そういう映画だったということに他ならず、そもそもどでかいハンマーをもって雷撃をぶちかましながら笑顔で暴れまくる赤いマントの神様が主人公なのだからこれで正解なのである。というか大正解。
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2017年11月03日

ゲット・アウト/怪奇!悪魔のホワイトサバービア

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※ネタバレはしてないつもりだけれど、念のため未見の方スルー推奨

リベラルを自称しつつ黒人の使用人を雇う恋人の両親、そしてなぜか黒人の主人公に向けられる使用人の敵意、といった導入が『招かれざる客』を下敷きにしているのは言うまでもないにしろ、50年前に撮られた映画の設定がいまだ有効であるという事実こそがこの映画に悪意と諧謔のツイストをもたらすわけで、ダイバーシティ時代のブラックスプロイテーション映画として隅から隅まで敷き詰められた確信が、ああこういう逆襲の仕方もあるんだなあとやたら痛快だったのである。白人が黒人に抱く超肉体への幻想は劇中でヒトラーの名前を出すことにより優生思想へと接続されつつも、お前ら白人はいつまでたってもどうしようもなくてホント笑わせてくれるよな、と都市伝説的な与太話として笑い飛ばしてみせるわけで、「トワイライトゾーン」風に罪と罰を検分してはサッと切り上げるラストも、超肉体とは程遠い黒人ロッド(リルレル・ハウリー)が悪の白人組織壊滅に一役買うという皮肉がまた愉しい。とは言え、黒人が外部的もしくは内部的に閉じ込められた社会の二重性を象徴する「沈んだ場所」というヴィジョンこそがこの映画の芯なのは間違いなく、土壇場のクリス(ダニエル・カルーヤ)がソファから詰め物の綿(これについては言うまでもない)を引きずり出して耳に詰めることで「沈んだ場所」に彼をしばりつける催眠術をかわすあたりのたたみかけには唸るしかなかったのだ。前述の『招かれざる客』や例えばロジャー・コーマンの『侵入者』にしてもあくまでリベラルな白人の送り手によるものだったことを思うと、そのリベラルすらを血祭りにあげて笑い飛ばす真っ当なやり過ぎの平衡感覚はようやくにしてだなあという気もして、『ムーンライト』の対極でこうした映画も喝采を浴びる健康はやはり眩しく感じられてならないのである。あらかじめクズとして登場し、そこからさらに腐っていく時のスピードでグルーヴする新種のホワイト・トラッシュとして、その地位を急速に確立しつつあるケイレブ・ランドリー・ジョーンズが期待に違わぬ登場と退場っぷり。キャスリーン・キーナーのキム・ディール化が烈しい。
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2017年11月01日

ブレードランナー 2049/泣いたふりをして遊んだ

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それがどうあれ、1匹の犬があれほどの神々しさを湛えていた点で何はともあれ継承は果たされたように思うのだ。物語の骨子としては思いのほかピノキオ神話の系譜に連なって、メランコリーの質としては『A.I.』との親和性を感じたりもしたわけで、K(ライアン・ゴズリング)はじめレプリカントたちはその諦念のようなロジックが声なき断末魔の中で幻視した「共感」と「自己犠牲」という人間固有のコードへと誘われるように没入してはみるものの、それら「共感」と「自己犠牲」を手放すことで可能となる合理を礎に進化を図る人間世界との逆転が、レプリカントにとってのディストピアをさらに進行させることとなり、終始物語を支配する静けさは降りしきる雪のように積もり続けるメランコリーがその叫びや嗚咽を無表情に吸い込んでしまうからであるのと同時に、人間たちはみんなどこかへいなくなってしまったという寂寥の徴でもあったのだろう。したがって、この世界でどこにも行くあてのないレプリカント同士の闘いはそれが主人たる人間に対する「共感」と「自己犠牲」の証明となるだけに熾烈を極め、わけてもラヴ(シルヴィア・フークス)はウォレス(ジャレッド・レト)への絶対的な忠誠と、人間の揺らぎを垣間見せるKへの同族嫌悪ともいえる敵愾心によって、ウォレスを脅かす世界を憤怒の形相で切り裂いていくのである。しかし彼女を単なる敵役として捨て置くわけにいかないのはマダム(ロビン・ライト)殺害時に流したその涙に虚を突かれたからで、それは果たせなかったウォレスへの忠誠とはまた別の、レプリカントとして、しかも女性のレプリカントとして胸に宿したある希望がむごたらしく打ち砕かれたことへの怒りが流した涙であったようにも思え、既に息絶えたマダムの髪を鷲づかみにして顔認証させた後でゴミでも捨てるようにその頭部をデスクに叩きつけた激情は、ネクサス8のレジスタンスたちの抱くそれと果たして違いはあるのだろうかと、Kの鏡像としての彼女もまたピノキオに取り憑かれた一人であることを知らされて胸に忘れがたく、2人が雌雄を決するシーンでスクリーンを埋めつくした逃れようのない苦しさは、必ずしも窒息を迫る描写のその凄まじさだけではなかった気もするのだ。彼女もまた夢を見たに違いなく、それこそはままならぬ者がままならぬ夢を見るという人間そのものの営みではなかったのか。彼女こそは孤児院で生き別れたもう一人のKであったというメロドラマすらを一瞬ワタシは夢想した。一方でKはさらにままならず、彼が何らかのスリーパーであったとするならばサッパー(デイヴ・バウティスタ)解任がトリガーであったかのようにKは緩やかに逸脱を開始し、ホログラフィーの恋人ジョイ(アナ・デ・アルマス)との関係を深めるためにエマレーターを購入しつつ、人間の上司ジョシ(ロビン・ライト)の誘いをやんわりと拒絶して、レイチェルとデッカードの関係を憧憬するかのようにジョイを抱きしめてみせるのである。Kはその優秀さゆえデッカードまでたどりついてしまうのだけれど、今作で明かされるレイチェルとデッカードと“タイレル”の関係(これには座席に座ったまま腰がくだけた)からすればKもまたデッカード同様に操られた男ということになり、カーヴを曲がりきれずスリップする男性性というヴィルヌーヴのラインをそこに見ることができる。ジョイの巨大ホログラフィーを見上げるKがすべてはままならぬ夢であったことを悟るシーンの、確かに哀しいけれどそれは君たちが考えているような哀しみではないとでもいいたげな笑わぬ笑みこそはライアン・ゴズリングの真骨頂だろう。ポップアイコンとしてのハリソン・フォードにもあらためて楔を打ち込まれる。今作において書き下ろしとなる外LAの光景、なかでも廃墟ラスヴェガスの創造はシド・ミードの手によっているようだけれど、スピナーから降り立ったKが彷徨う赤茶けた死の街はまさにベクシンスキーの描いた死滅した終末世界そのものであったし、既にヴィルヌーヴと切り離せない巨大建造物へのフェティシズムは実存のパースを曖昧に狂わせ続け、記憶の亡霊のように明滅するプレスリーやショーガールのホログラフィーにオーバールックホテルのボールルームが頭をよぎったりもしたのである。オープニングでクロースアップされる眼のショットに始まり、レプリカントに命を救われたデッカードは運命の女性に再会し、しかしそのレプリカントは降りしきる雨/雪の中で息絶えるというラストに至る2019年版への相似を信用するなら、これからデッカードは娘を連れて逃亡者となるに違いないはずで、もちろんその先の物語を求める気などさらさらないにしろ、ここまで歩みを進めたヴィルヌーヴの勇気ある挑戦こそは、35年前にリドリー・スコットを駆り立てた創造の闘いへのリスペクトであったに違いないと思うのだ。爆撃にえぐられる廃棄場で鈍色の空から降りそそぐ土塊を、スピナーを背に目を開けたまま見つめるKの視点ショットに宿った透徹した認識とそれゆえの完璧な虚無、それこそがこの世界の詩情だと描いたヴィルヌーヴの回答にワタシはうなずきたいと思う。でも、青いポリススピナーが翔ぶところは観たかったな。
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2017年10月27日

女神の見えざる手/アトミック・スローン

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エリザベス・スローン(ジェシカ・チャステイン)の怪物がもう一匹の怪物に喰らいついては躊躇なく喉笛をかっ切るサーチ&デストロイの、備えた暗闇に敵を引きずり込んではベアナックルとトーキックで殴る蹴るをためらわない理性と本能の神経戦はほとんどエスピオナージュとも言えて、そのあまりの寄る辺のなさに思わず「バケモノにはバケモノをぶつけんだよ」という名ゼリフを引き合いに出してしまいたくなる。したがってこの物語は、スローンの怪物の正体を描いて両義的な共感を引くというよりは、怪物の咆哮と蠢きによる畏怖と嫌悪という絶対的な感情を抽出して映画の強度を鍛えることにひたすら力を注いでいて、その怪物にして刺し違えることでしか突破口を見いだせないアメリカの怪物を可視化しつつミス・スローンの神話を書き記していくのである。エリザベスが生来の怪物なのか、深淵を覗いて生まれた怪物なのかその出自を知る由はないにしろ、怪物の牙と爪を維持する代償を払い続ける日々もまた神話の手がかりとして記されていくわけで、なかでも仕事の利害のはたらかないフォード(ジェイク・レイシー)を相手にくり広げる感情の殴り合いでは「わたしをマデリンと呼ぶのは母だけだった」「勝つためにはすべてを偽らなければならない」「だから普通で“まともな”生活など捨てた」と吐き捨てては、それを受け止めようとするフォードを、このまま自身の脈打つ内臓を晒し続けたら二度と怪物に戻れなくとばかり猛烈に拒絶するのである。エリザベス同様に自身を偽る職業でありながら劇中で唯一“まともな”血の通った人間として登場するフォードはその後もあるシーンでエリザベスの正気を下支えする働きをして、出番は限られながらもジェイク・レイシーが繊細に表したその孤独に伸びた背筋もまた忘れがたい。この映画がというか脚本が優れているのは、これをエリザベス・スローンの喪失と再生の物語、要するに行って帰ってくる雛形から蹴り出したところにあって、冒頭で女性の銃規制に対する風向きを変える仕事を名指しでオファーしてきたNRA(劇中では明示されていないけれど、まあそうだろう)の代表ビル・サンフォード(チャック・シャマタ)に対する破壊的な哄笑、それなりに私は自分の怪物を自覚してはいたけれど、そこまで破廉恥な案件を引き受けると思うほど私は下衆な怪物だと思われていたのか、と呆れるや何やらでおかしくてたまらないというバカ笑いが映画の最期でどこにたどり着いたのか、刑期を終え刑務所から出てきた彼女の、私はこの世界でたった一人自分だけを信用し自分だけを信頼することで闘いを勝ってきたし、それ以外に方法があったとは今も思っていないけれどなるほど世界に一人とはこういうことなのか、と諦めでも哀しみでも後悔でもない透明な孤独に吹かれる姿に、キリマンジャロの山頂6000メートル近くで凍りついていた豹の屍のことなど想い出したのだった。ほとんど彼女のペルソナにも思えるマデリン・エリザベス・スローンに向かうジェシカ・チャステインの憑依は、いったい役者として幸福なのか危険なのかそのラインからして既にスリリングとしか言いようがなく、やはり怪物を見たという以外にいまだ言葉が見当たらないままである。
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2017年10月25日

バリー・シール/オーバーワールドUSA

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トム・クルーズにもみあげが!そしてムーニングまで!とかいったレアなファンキーが跳ねまくってはいるけれど、ウェットワークによるマッチポンプを政治のダイナミズムとする集票と集金のシステムが国家レベルで構築されていくカーター〜レーガン時代の真っ只中で、バリー・シール(トム・クルーズ)がああやって人知れず散っていくのは時代の徒花として必然だったということになるのだろうし、パブロ・エスコバルを追いつめる実録映画『潜入者』で既に彼の末路を知っていた身としては、バリーをリクルートしたシェイファー(ドーナル・グリーソン)が差し出した最新鋭の小型機にクリスマスプレゼントをもらった子供のような目を輝かせた時点で、既にそのメランコリーは発動していたように思うのである。実際のバリー・シールはいろいろと毀誉褒貶の烈しい人だったようだけれど、ここではトム・クルーズが演じることによって、一度青春を終えた男が悪魔と契約することで再びファンダンゴの時間を手に入れるその罪と罰を狂躁の時代に重ねて見せつつも、まだまだ徒手空拳のピカレスクが可能だったRAWな世界をノスタルジックなファンタジーとして託したのが、トム・クルーズのもみあげだったのではなかろうか。妻への愛、子供への愛、アメリカへの愛、そして働くことへの愛、そうやって愛に溢れた人たちを、愛のない人たちが愛ゆえにと利用しては使い捨ててきたのがアメリカという国家であり、一方で愛こそがすべてと願い、愛なんて…とニヒルになれないでいるアメリカの、その馬鹿が付かない正直を一周した先の笑顔で演じるトム・クルーズには、顔で笑って心は真顔という倦怠がいい塩梅に滲んできたように思われて、いわゆる性格俳優的にではなくあくまで走りながら枯れていく前人未踏に今作でさらに踏み込んだように思うのである。そしてAeroplane StuntのクレジットにTom Cruiseの名前を見つけては、いったい製作費のうちトム・クルーズの保険にかかる費用はどれくらいなのだろう、邦画なら軽く1本撮れてしまうのだろうなと、狂気の沙汰と化したであろう現場にあふれるひきつりまくった笑顔の数々を想像してみるのだった。してみると、おそらく今作はさらに阿鼻叫喚の撮影となるであろう『トップガン2』で正気を失うための肩慣らしであったに違いない。今度はジェット機だ。
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2017年10月23日

アトミック・ブロンド/そのとき、私は…

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『裏切りのサーカス』ミーツ『ジョン・ウィック』とか、それってどえらいカッコイんじゃね?と広げた大風呂敷の気概は買うけれど、さすがに無い袖を振りすぎた感があるのは否めないわけで、もしエスピオナージュを本線とするならば、神経戦の圧力が最高に高まった瞬間、弁が吹っ飛ぶように炸裂するアクションこそがカタルシスを呼ぶのであって、それを最高の品質でやってのけた希有な例がグリーングラスのボーンなのは言うまでもなく、007がマクガフィン探しに徹しているのもあくまでアクションで大見得を切りたいからに他ならない。そもそもがダブルエージェントでも手に余るところをそれより先を欲しがるやんちゃっぷりには、はなから苦笑いで許してもらおうという魂胆が透けて見えていて、それはオープニングのニューオーダーから始まる脳天気な80sサウンドの乱れ打ち(ニューオーダーが脳天気というわけではないよ)にも明らかで、ア・フロック・オブ・シーガルズやリフレックスが壁崩壊前夜のベルリンにどうはまるのか、a-haが聴こえてこなかったのがいっそ不思議なくらいで、さすがにDAFとは言わないまでもデペッシュ・モードやソフト・セルにかすりもしない尻の軽さこそがこの映画の本線であることは早めに見抜いておいた方がいい。トビー・ジョーンズやジョン・グッドマンに涎を垂らしていると最後までおあずけを喰らうことになるのは間違いない。アクションに関しては、互いに疲労とダメージが蓄積していく消耗戦の描写、特にロレーン・ブロートン(シャーリーズ・セロン)がダニエル・バーンハードと室内を破壊しながら繰り広げる肉弾戦の息詰まる緩急にはさすが一日の長があって、デヴィッド・リーチが第2班監督であれば、せっかくの滋味溢れるアクションを監督が生かし切れてないのがなんとも残念、と斬って捨てたくなるくらいに、偏執的な長回しで生中継化するアクションは突出していたである。原作のグラフィック・ノヴェルを未読なので脚色については解釈しようがないのだけれど、正直言って回想形式が必要だったのかという疑問は残るわけで、おそらくそれはある理由によってジョン・グッドマンをある程度見せておかなければならないという事情もあるにしろ、ロレーンを信頼できない語り手として思わせぶりをコントロールしつつ、過去と現在の振幅をスリリングに増していく才まではこの映画に見当たらなかったように思う。しかし回想シーン最後でみせる黒髪のロレーンはほとんどイーオン・フラックスであったし、『ウォンテッド』『ソルト』といった香り漂う映画だとあらかじめ知ってかかればもう少し優しい気持ちで薄ら笑いをしていたのに、と悔いてはいないが少々愉しみそこねた気分ではある。トビー・ジョーンズ、エディ・マーサンといった名前、そしてベルリンという響きに夢を見すぎた罰にちがいない。しかし、あれだけ無節操に80sビートを塗りたくっておきながら肝心のこれが聴こえてこないあたり、やはりあてがいぶちのフェティシズムだなあと負け惜しみをやめることはないのであった。

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2017年10月22日

ブラッド・スローン/ジェイコブの剃刀

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ジェイコブ(ニコライ・コスター=ワルドー)が犯した唯一のミスといえば、運転中に後部座席を振り返ったそのほんの一瞬に過ぎなかったのである。しかしそれ以降、ジェイコブは刑務所でのサヴァイヴァルという負けたら終わりのトーナメントにおいて、生きのびるというその一点のため最適解とあれば殺人にも手を染め、地方予選からの連戦連勝の先にのみ甲子園の優勝があるように、状況の精確な判断とその実行能力において彼は勝ち続けるわけで、そのすべてが生きて家族の元に帰るのだという苛烈な動機から始まっていることを考えてみれば、そこにはどこかしら『ブレイキング・バッド』に通じるダーク・ビルドゥングスロマン的な側面も見てとれるのだけれど、ジェイコブがウォルター・ホワイトのごとく怪物化していないことは冒頭で獄中から息子に宛てた手紙に見てとれるし、何よりラストに用意された血のツイストは刑務所に収監されたその日からジェイコブの中身がまったく変わらずにあることを告げていて、すべてはただ家族のためにという彼の人生を賭けた想いを吸い込むサンタフェの高く遠い青空には、厳罰主義国家アメリカの虚無すらを見た気がしたのである。それは、もはや刑務所というコミュニティが社会と切っても切れない状況がもたらす犯罪の生活化とでもいう、法の番人としての警察すらも組み込まれた永久機関の憂鬱といってもいい。一度塀の中に足を踏み入れた人間は決定的に変質してしまい、もはや心は塀の外に居られないことをジェイコブは悟ったからこそ、家族を守るために究極の合理を弾きだしそれを実行したということになるのだろう。したがって、ジェイコブが食物連鎖の頂点に登りつめたとしてもそこにピカレスクの香りが一切しないのは、彼の装う怪物がすなわち家族を守る鎧になるという絶望的な皮肉によっているからに他ならず、怪物の装いとしてあえて全身に施した刺青の、胸元に並べた2つの名がかつての妻と一人息子のそれであったこと、そしてそれを2人が知ることは永遠にないことをワタシに告げては、では、お前ならどうした?と答えを聞く気などないまま問いかけてくるのだ。お前のいる世界が既に監獄だとしたら、理想を否定し現実を肯定する以外に道はないことを俺は証明した、反証を希望する、と脚本および演出を鋼の意志で完成させたリック・ローマン・ウォーが凍てつくような目つきで煽っている。
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2017年10月19日

アナベル 死霊人形の誕生/ユー・アー・ノット・マイ・サンシャイン

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※展開に触れていますので、未見の方スルー推奨

幽霊のファーストショットが白昼の暗闇であったというその宣言で、ああこれは大丈夫だと確信する。一番弱いものが狙われるというその寄る辺のなさと、その一番弱いものが逆転していくことによる奥底の屈託や憎しみの解放、などと言ってみればどこかしらキャリー・ホワイトの仁王立ちなど思い出したりもするわけで、納屋でビー(サマラ・リー)の貌をしたものに呑み込まれて以降のジャニス(タリタ・ベイトマン)は、その内部でかつてジャニスだったものが抵抗の素振りすら見せることのないまま、特にリンダ(ルル・ウィルソン)を弄ぶように追い回しては甘噛みするその半笑いに悪魔のというよりは思春の残酷を見た気もして、『ライト/オフ』をプロデュースしたジェームズ・ワンが有無を言わせずデイヴィッド・F・サンドバーグを今作に投入した理由に深々とうなずけた気もするのである。この監督は不協和音で不穏をつのらせるというよりは、光と影を倍音のように重ねていくことで、その濃淡のハーモニーに思わず気を許したこちらを光と影の落とし子たる闇へと誘い込む手管に長けていて、しかしそれを理詰めで追いつめない分だけ前作『ライト/オフ』などは冗長と捉えた向きもあったようだけれど、そのたおやかと言ってもいい手つきこそがこうしたクラシカルなゴシック・ホラーにあってはど真ん中で奏功したように思うのである。基本的にはチャッキーのような人形によるアタックはしないという前作『アナベル 死霊館の人形』のラインを踏襲していることもあり、光と影を駆使した予感と予兆によって悪魔と人形の二人羽織が真綿で首を絞めるように追いつめるやり口の妙については、これをある種の幽霊屋敷譚として名作『たたり(The haunting)』を参照していることを既に監督が公言しているわけで、たとえばスコープサイズの手前端に人物のクロースアップを置き、その反対側へと配置した背景奥に状況の変化をあるかなきかで映し出すショットなどそのオマージュとして麗しくも怖ろしく機能していたし、隙間から覗く、あるいは見えてしまうショットの多用も視る者の神経を知らずすり減らしていくこととなり、やはりホラーは削られてなんぼだなあと、目の奥の疼きと共に明るくなったスクリーンを見つめながら小さくため息などついてみたのだった。ジャニスを演じたタリタ・ベイトマンは、先だって観た『ヴェンジェンス』でもほとんどケイジを喰ってしまうような主役級の演技をタイトに凝縮した感情の出し入れによって見せていたのだけれど、ここでも遠い目と凝視、孤独と共感、無垢と邪の境界をたったひとり漂っては光と影の裂け目に消えていく役柄を嬉々として演じていたようですらあり、何だか小さなジェニファー・ローレンスを見ている気分にも思えたのである。ワタシはもう彼女の名前を記憶した。そう言えば母エスター(ミランダ・オットー)の部屋がまるで安藤忠雄であったよ。
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2017年10月17日

猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)/A Bathing Ape Shall Kill Ape

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原作に透ける政治的社会的な暗喩はともかくとして、オリジナルシリーズの猿が人間を支配する逆転世界のモンド風味を愛でる面白さに、エイプが完全な主人公となった今作でようやく手が届いたように思うわけで、このシリーズをあえてリブートするための言質で武装したようなドラマの重奏にこれまでいささか辟易としていたこともあって、これくらいの行き先知らずと出たとこ勝負がワタシにはちょうどいい湯加減となった気がするのである。しかし、正式ではないにしろプリクエル的なトリロジーを観終えた後でつくづく思うのは、結局エイプの進化というのは人間の「猿真似」なんだよねということで、オリジナルシリーズでは寓話的な入れ替わりに過ぎなかった社会性の獲得をこうやって真顔で説明されてみると、言語が思考を決定するという言語相対論(『メッセージ』で脚光をあびたサピア・ウォーフの仮説など)の適用がなされた結果(ある理由による人間の退化が言語の喪失から始まることにも明らかだろう)、人間の言葉をマスターしたことでエイプの思考はあくまで人間のトレースに収まってしまうのではないかという考えに至るわけで、単にガワが違うだけで感情も行動もまんま人間だよなあというエイプへの感嘆には、それは結局「猿真似」であってエイプ本来の性向をスポイルしてしまっているのではなかろうかという倒錯した気分もついてまわり、人間のような苦悩に人間のように悶々とするシーザーは既に一人の人間としか言いようがないことを思うと、オリジナルシリーズ『猿の惑星』におけるザイアスが何をああまで怖れたのかが今にして根本から理解できた気もするのである。だからこそリブートシリーズにおけるサブタイトルなしの『猿の惑星』が為すべきは「猿真似」から脱却した、まずは服を着ないエイプとその社会の成立であることに間違いないように思うのだ。リブートシリーズ中もっとも騒がしいケレンの中、その上滑りを抑えつけるようなシーザー=アンディ・サーキスの眼力は、かつて大物俳優としてスリップストリーム映画に先陣を切って名前を連ねたチャールトン・ヘストンの重厚をも思わせて、ウディ・ハレルソンと対峙するシーンの火花散るスリルにはオスカーノミニーもさほど非現実というわけでもなかろうと、思わず猿を忘れたのであった。それにしても、エクソダスの最中あの大群の胃袋を満たす水と食料はどうしていたのだろう。彼らの神が果物を降らせたりしたのだろうか。最早それならそれでかまわないとは思うのだけれど、前作冒頭にわずかばかり狩りのシーンはあったにしろ、北米の低中緯度地帯の植生でどうやって彼らが生きているのか、次作があるならこのシリーズが避けて通る食糧問題の答えを早急に提示していただきたいと思う。ワタシがずっと悶々としているのはその点なのである。
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2017年10月16日

オン・ザ・ミルキー・ロード/長い蛇には巻かれろ

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羊飼いの老人がコスタ(エミール・クストリッツァ)に叫んだ「お前が死んだらいったい誰が彼女のことを覚えているんだ?」という言葉こそが、おそらくはクストリッツァのすべての動機なのだろうと思ったわけで、かつてセイラー・リプリーが自らの蛇革ジャケットを「魂の自由を信じるオレという人間のシンボル」と語ったように、クストリッツァにとって映画は侵されざる自由のシンボルそのものなのだろう。したがって、シンジケートの証文と化した映画の状況こそが彼にとっての内戦なのだろうし、動物もワタシたちもすべては自由に生きるために存在しているのだという確信とその活力への忠誠が死すらをその横糸とつづれ織りにしていて、地雷原すらをファンタジーのフィールドに爆殺された羊が次々と宙に乱舞するシーンの、彼岸に突き抜けたような昂奮をクストリッツァ以外に誰が伝えることができるのかワタシにはちょっと思いつかない。生=若さというマーケットの要請からも自由になったコスタと花嫁(モニカ・ベルッチ)の愛とその逃避行もクストリッツァの握った拳に他ならず、マジック・リアリズムではないマジック・フォー・リアリズムの息づかいの何とヴィヴィッドであり続けたことか。様々な意匠や手癖が想起させはするものの、もはや『アンダーグラウンド』の闇鍋的なカオスと破壊力のオプティミズムはそれを必要な成熟として追いやることで、愛とは生きることというシンプルにして絶対なまなざしを持ち得ているし、何より“現場の力”という点では狩りでとらえた獲物をその場で解体して絶品の料理をふるまうような繊細な野趣に溢れて、自分がどれだけスポイルされデオドラントされていたのかそれを知らされては元に還っていく心地よさは何だかデフラグでも済ませたような気分だったのである。モニカ・ベルッチの、息せき切ったように上気する笑みにひれ伏しながら生きる天国と地獄のなんと甘美なことよ。
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2017年10月14日

エルネスト/正しき事は美しき哉

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医学への道半ばで大学を辞めボリビアでの革命戦線に身を投じたフレディ前村ウルタード(オダギリジョー)の、その主がいなくなった部屋でクラスメートたちは「おれたちはいったい彼の何を知っていたんだろう」とかいったセリフで嘆息するのだけれど、日系二世のボリビア人フレディがなにゆえ危ういほどにはりつめた蒼くて高潔な革命の志を持つに至ったか、最初からそんな風な佇まいのまま現れてそんな風な佇まいのまま死んでいった彼の内側にあった彷徨を映画を観終えた今とてワタシもいまだ知らないままで、そしてそれはプロローグとエピローグで円環するチェ・ゲバラ(フアン・ミゲル・バレロ・アコスタ)のパートに登場する森(永山絢斗)も同様などころか、彼はフレディ前村の存在すら知ることがないのである。プロローグについては、ゲバラを突き動かす原動力となる怒りのエッセンスを日本に寄せて伝えるパートであることは理解するものの、それがフレディ前村という日系人のアイデンティティとその後クロスして行くのかと言えばそれが表立って行われることもなく、それは殊更な「日本寄せ」を品のないこととして避けたというよりは、実際の人生がそうであったからそれに即したに過ぎないという、誠実な筆致に努めたということでもあるのだろう。したがって、移民だった父親の想い出をルイサ(ジゼル・ロミンチャル)に語るシーン以外、フレディ前村は自分の中の日本人を意識することもないあくまで革命の思想と理想に殉じる1人のボリビアの若者として描かれて、タイトルからうかがえる“ふたりのエルネスト”としての瞬間もほんの一瞬の邂逅として描かれるに過ぎないのである。そうやって物欲しげにドラマを捻らないストイックに象徴される、「正しさ」の律し方は、ほとんど聖人君子のようなフレディ前村の醸す「正しさ」の直情と相まって映画全体としては「正しさ」のインフレを起こしてしまっているようにも思うわけで、「正しさ」の作用を描くその反作用としての「正しくないこと」がルイサを妊娠させて責任をとらない同級生程度にしか描かれていないことで、すべてが絵空事のように流れてしまうきらいはどうしても否めない。しかしそんな風に「正しさ」の一本道を脇目も振らず突き進んだからこそ、その最期におけるハシゴの外され方には残酷な革命のニヒルが宿るのだけれど、この映画の目的はそこにたどり着くことではなかったはずだし、人の命を救うために医学の道に進んだ彼が「正しくない」相手を殺すために銃をとることの矛盾や葛藤とどう落とし前をつけたのか、そうした青春の蹉跌を震わせることでワタシたちはフレディ前村という人と共振していくのではなかったか。そんな揺らぎすらないほど選ばれた人であったのであればもう何も言うことはないのだけれど、あの時彼を罵倒し銃口を向けたかつての幼馴染が胸の奥に抱え続けた屈託をおそらく彼は理解できないまま死んでいったのだろうことを思えば、自転車でさっそうと掘っ立て小屋に乗りつけた少年のノブレス・オブリージュこそが彼の罪と罰を決定し続けた皮肉に、ワタシはため息をつくしかなかったのである。オダギリジョーはいっさい客人の気配もなくキューバの風と光を友にして文句なしの好演だっただけに、そうした映画の回答がやや不幸に映る。しかし彼の少年時代を演じた子役に日系の気配すらなかったのはどういうわけか。
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2017年10月11日

アウトレイジ 最終章/レクサスレクサスベンツセルシオセンチュリー

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東銀座松竹セントラル前を猫背の早足で通り過ぎるビートたけしの背後に、セントラル3で上映中の『孫文』の看板をしつらえた柱の陰から白竜がすっと忍び寄る。最後の一足を白竜が詰めてナイフを繰り出した瞬間、さっと振り向いたビートたけしは自分めがけて突き出されたナイフを、その切っ先を左脇腹にくらいながらもそれ以上の刺しこみを防ぐべく、その刃もろともを左手で鷲掴みにして手のひらを犠牲に致命傷を食い止める。一瞬の均衡の後、ビートたけしの振幅の小さい頭突きをくらって仰向けに倒れこんだ白竜は右手をふところに入れてリヴォルヴァーを取り出すも、その銃口が自分に向けられる寸前、ビートたけしはリヴォルヴァーを持った白竜の右腕を左脚で蹴りつける。予期せぬデイフェンスによって白竜の右腕はなすがままに振り払われつつも引き金を引き、外れた弾道はセントラル2で上映中の『エマニエル6カリブの熱い夜』の看板脇で棒立ちとなっていた若い女を目指してその頭をぶち抜き、彼女は足から地面に崩れ落ちる。今さら言うまでもない『その男、凶暴につき』屈指の名シーンは、ロングショットから一気に流血のクローズショットへとかぶりついた後で、息を切らすように切り刻まれたショットが突発する人死にをめくるめく一連によってたらし込んでみせて、これはただ生まれては消えていく暴力を執拗につけまわす、“暴力的”では済まない“暴力”の映画だとそれまでに薄々勘づいていた昂奮が一気に決壊して、映画を観るための新しい感情がワタシの中に生まれたその瞬間のことを今でも忘れるはずがないのである。だからこそ、まるで年老いた我妻のような大友(ビートたけし)の最期を看取るのが死ねなかった清弘ともいえる李(白竜)であったその落とし前の、四半世紀を超えた因縁と宿命に何だか胸がいっぱいになってしまったのである。しかしこの映画は、そうした感傷を冒頭から隠さないことや狂言回しであるはずの大友による自己言及的な破壊を認めている点で、西野(西田敏行)をはじめとする花菱会のパワーゲームに前作ほどの強靭な軋轢が発生しなくなってしまっているのは正直なところで、西野よりは中田(塩見三省)のさすらうような風情が奏功しているのも映画が染める退廃と倦怠の色に彼が透かされていたことと無縁ではないだろう。それにしても、カーチェイスがあるわけでもないのにこれだけ車の残像が頭から離れない映画も珍しく、会話は座ったまま、ガンファイトは突っ立ったままであるにも関わらず絶えず奥底でうごめく感情が途切れないのは、ゆっくりと暗い海底を泳いでいくホオジロザメのように暴力を内に蓄えてスクリーンを横切り続ける黒い車たちのおかげなのだろう。大友と市川(大森南朋)が西野たちと対峙する白昼の屋上駐車場はその真骨頂とも言えて、黒い感情の塊が陽光のもとに晒される軽い禁忌の感覚はほとんど官能的ですらあった。タイトルショットのベンツといい、野村(大杉漣)が中田を言いくるめるべく弁を弄するソファーのシーンにおける奇妙で催眠的なカメラのパンといい、手前から奥へと過去を遡るかのように展開するワンショットといい、ひそやかで伏し目がちな技巧が隅々に張りめぐらされた映画ではあるのだけれど、突堤で釣りをしていた大友が市川に「もう帰ろうや」と声をかけて立ち上がるシーン、市川にまかせることなく自らもタモ網とクーラーボックスを手にして大友は歩き始めるわけで、そうやって人物をつづる一筆のさりげなさこそが、暴力ですらを感情のひとひらと戦がせる北野映画のエッセンスであることをあらためて知らされたように思うのである。ワゴン車内での銃撃戦において、鬼神の表情で銃弾を叩き込んだ後で「若い衆撃っちまった」と絞り出すような声で途方に暮れる大友の、暴力に対する愛と哀しみの共依存こそが北野映画を“暴力的な映画”とは一線を画した“暴力の映画”たらしめていることにあらためて気づいてみれば、国内ではいっこうにその跡目を継ぐ者の気配のない現状において、このトリロジーの終焉には途方に暮れざるをえないのだった。やはり愉しい時間はいつか終わって、5時の鐘が鳴ったら家に帰らねばならないのだろうか。などとぼやいては、このシリーズを観ると必ず見たくなる『3-4x10月』を今日もこの後で再生するはずである。
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2017年10月07日

ヴェンジェンス/となりのケイジ

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ジョイス・キャロル・オーツの原作は「RAPE:A LOVE STORY」となっていて映画のタイトルでは "RAPE" が "VENGEANCE" に差し替えられている。原作が未読なので推測に過ぎないにしろ、あるレイプ事件の被害者と加害者、そこに関わる警察、法廷へと広がっていくアフターマスを狂気の共食いと正気のサヴァイヴァルとして描いているのだろうと、キーツの名前から思い描いてみれば、"VENGEANCE(復讐)" と改題した時点で良くも悪くもこうした一本道の話になることは避けられなかったように思うのである。しかし、アクション映画としての自警主義的カタルシスに頼らなかったがゆえの不発は、推測される原作のエッセンスに誠実であろうとした証でもあるのだろうという気がしないでもなく、それはあくまで主役はベシー(タリタ・ベイトマン)であってジョン・ドロモア(ニコラス・ケイジ)はそのバックアップに過ぎないという筋を維持し続けたことに伺えて、ニコラス・ケイジもそれを理解したかのように見慣れた顔芸も眉芸も封印して終始ストイックを崩さないのである。それでも審判で被告側のカートパトリック弁護士(ドン・ジョンソン)に圧倒された後で、誰もいなくなった法廷に一人残ったニコラス・ケイジにヴィジランテのパイロットランプが点灯するシーンでは、目をゆっくりと半分から1/3ほどにまですがめて感情を殺し始めるというこれまでのテンプレートにない新たなパターンの顔芸を披露するわけで、ワタシとしてはこれでほとんどチケット代の元は取れた気もしたし、何より自分の気持ちが折れてしまったらお母さんを支えられなくなってしまうと、歯を食いしばり涙を隠して笑ってみせるベシーを演じたタリタ・ベイトマンの壊れそうな健気が出色だったこともあり、彼女の物語としてはとても善い風を吹かせることができたように思うのだ。それだけにドロモアによる裏仕事が、例えば右利きの人間が左手で銃を持って自殺はしないのではなかろうか、など単なる手続きのようにおざなりであったのはもったいないし、湾岸戦争の英雄および帰還兵であるドロモアがなぜここまでこの母娘に感応したのか、もう一筆があっても良かっただろう気もしてしまう。ベシーの祖母アグネスを演じたデボラ・カーラ・アンガーに漂う埒外の既視感が気になって仕方がなかったのだけれど、『クラッシュ』でジェームズ・スペイダーの妻を演じていた女優だと知り、さもありなんと納得したのであった。ドン・ジョンソンがマルボロマンと化すワンシーンは愉しいボーナストラック。いつものケイジ・ムーヴィーのつもりでのぞむと肩透かしを食うけれど、ケイジ版あしながおじさんとしての一件落着には悪食を優しくたしなめられた気分であって、素直に頭を下げるに全くやぶさかではないのであった。
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2017年10月05日

ドリーム/KO コンピューター

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返り血で涙を洗い流すようなところの一切ない、清冽で曇りのない感情で描かれた映画だった。それは正義は我にありと相手を叩きのめすというよりも、私が願いたいのはフェアであって欲しいというただそれだけのことで、そうでありさえすればあとは煮るなり焼くなり好きにしていただいて結構、世界を圧倒する自信は準備してあるから、というファイティングポーズに込められた荒ぶる合理の美しさである。そしてその強さが何に裏打ちされているかと言えば、冒頭で描かれるキャサリン(タラジ・P・ヘンソン)のエピソードが告げるように、いま自分が立っているのは数えきれないほどの人達が礎となってくれたその歴史を綴る最新の1ページであって、自分にはそれを新たに書き記していく義務と責任があるのだという、社会的かつ政治的な存在であることを引き受ける宿命をまとったその鎧ということになるのだろう。それはアメリカン・ドリームという個人の輝かしい達成を祝福するオプティミズムとは軌を一にすることのない闘いであり、この映画のガッツは、アル・ハリソン(ケヴィン・コスナー)、ポール・スタフォード(ジム・パーソンズ)、ヴィヴィアン・ミッチェル(キルステン・ダンスト)といった白人たちそれぞれに様々なグラデーションを与えつつ、アル・ハリソンですら無自覚なその断絶を描くことで、終わることのない問題として今に至る身の覚えを促してくる居心地の悪さを拭わなかった点にあるように思うのだ。「けっしてあなたたちに偏見があるわけではないの」というミッチェルへの「わかってるわ、そう思いたいってことはね」というドロシー・ヴォーン(オクタヴィア・スペンサー)の返答は、ミッチェル的な一群がこの地平から自由になるのは不可能なことを諦めるというよりは容赦なく正確に認識したからこその言葉であって、だからこそ、同情や理解よりはただただフェアであることを望むのだというこの映画の叫びへと繋がっていくのではなかろうか。そしてそれは、キャサリンと初めて出会った場でのジム・ジョンソン(マハーシャラ・アリ)や、メアリー・ジャクソン(ジャネール・モネイ)の夫レヴィ(オルディス・ホッジ)から無意識のうちに滲み出るマチズモによって示される、後ろからも撃たれてきた彼女たちの全方位的な困難から導かれた思想であることも忘れてはならないだろう。彼女たちと関わる白人の中でなぜジョン・グレン(グレン・パウェル)だけが断絶を越えたのか、それは彼が兵士として自分だけを頼りに命をかけて闘うことを知っているからであって、キャサリンとの邂逅はほぼ戦友としての感応に導かれたのだろうと考えている。物議をかもした邦題だけれども、映画を観終えてみれば“私たちのアポロ計画”というサブタイトルはやはり論外だし“ドリーム”でさえも手ぬるい絵空事のように感じてしまうわけで、ワタシの著しい気分としてはスライが歌った“スタンド!”のタフネスとファンキーがふさわしいように思うのだ。そもそも劇中で彼女たち3人は一言も“ドリーム”と口にしていないし、手にしていない現実を夢と考える気持ちなどさらさらないのは見ての通りだったのだから。
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2017年10月03日

僕のワンダフルライフ/きょうも犬だから

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こちらも今年公開された犬映画の傑作『トッド・ソロンズの子犬物語』とはあらゆる意味で天使と悪魔ほどの対極にある作品で、早稲田松竹あたりで2本立て上映などしてもらうと軽い阿鼻叫喚が予想されて微笑ましいのだけれど、そんな両者であるにも関わらず、犬の最終目的は飼い主の幸せを願いその役に立つことであるという点で一致を見ていたのが、とは言えトッド・ソロンズの考えついた役立ち方をここで書けるはずなどないにしろ、ワタシたちが犬に求めていることを犬もまた求めているのだという幸福な妄想と妄執を伺わせて、犬か猫かと問われれば犬かな程度で眺める人間には、聖性すら宿すその無償の関係に黙ってひれ伏すしかなかったのである。したがって、この世に善くない犬など生まれてくることはなく、犬がどこかしら十全でないとしたらそれは人間に問題が在るのだという気持ちにすら洗われていくわけで、かつて少年のワタシが犬屋敷と化した裏の家に回覧板を持っていくたび、門扉を開けた瞬間聞こえてくる肉球が地面を蹴る音と競争するかのように回覧板を玄関口に放って駆け出しては時折ふくらはぎを噛まれたりしていたのも、ワタシが彼らを信じる気持ちが足りていなかったことの罪と罰であったことを今更ながら思い知らされたのである。そしてまた、近所の県議会議員の少しだけ精神のゆるやかな息子がセントバーナードを檻から出してしまい、公園で遊ぶワタシたちが阿鼻叫喚で逃げまどう中、つかまってマウントをとられて泣き叫ぶワタシが顔といい髪の毛といいベロンベロンのベチョベチョに舐め回されたその充血した赤い目の記憶が「クージョ」に凄まじいリアリティをもたらしてくれたことについても感謝しなければならないだろう。後にも先にも動物に喰われる!と思った瞬間などあれきりであって、それはもう『レヴェナント』ですらワタシはあの熊にセントバーナードを見たのだ。そうやって人間は犬によって豊かになっていくのだろう。とはいえ、やはりワタシはその搾取に思いを馳せたトッド・ソロンズと文字通り我が身を捧げたダックスフントの方に、善い犬と善くないワタシたちのどこへも行けない共依存の哀しみを見てしまうわけで、こちらで泣いたならあちらでも泣くべきなのではなかろうかと、それだけは声を大にして言っておきたいのである。犬には犬のための犬の愛が犬にある、と矢野顕子も歌っているではないか。
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2017年10月01日

プラネタリウム/私だけがいない夢

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昼でも星を視たいならこの陽の光りを消してやればいい、と何やらワタシたちが映画を観る理由をたった一言で射抜くような感覚と感情をせきたてる洗練と野蛮の日々へとローラ(ナタリー・ポートマン)の回想は沈み込んでいく。しかしこれがケイト(リリー=ローズ・デップ)とローラが執りおこなう降霊術の真贋を問い質すことに執着しているわけではないのは、最初のショーにおいてローラが対象者に放った「お子さんの名は?」という質問において基本的なトリックの存在を明かしておきながら、直後にコルベン(エマニュエル・サランジェ)の邸宅で行われた3人だけの降霊術における予期せぬ暴走を続けて描くことで境界線を曖昧に溶かしてしまっている点にうかがえて、それよりはデラシネたちが異邦の地で交錯した一瞬を“戦前”という人間が人間らしく夢を見ることを許された時代に託し琥珀に閉じ込める手続きにこそ、心を砕いていたように思えるのである。だからこそ、ケイトもコルベンもいなくなってしまったパリで、忍び寄る昏い全体の影に光が遮られる時代に視る星へ祈りを託すラストの、いまだ真の悲痛を知らぬ悲痛に微笑んでみせるローラを誘う終焉の甘い香りがこの映画のゴールとなるのだろうし、そういうペシミズムですらを嗜みとするために、芯を食うのではなくかすめるようなスリルをアンサンブルで弄ぶピーキーはアメリカ映画がなかなか目指すことのない感覚だろう。監督がそのことに極めて自覚的だったからこそ、それを手に入れるために、あるいはいっそう強く念押しするためのガイドとしてリリー=ローズ・デップを投入したのは明らかだし、それくらい彼女がすり抜けていく時の猫背や真顔で激突するスピードの目くらましがこの映画のトーンを決定してしまっているわけで、それをポイントの甘さや捉えどころの無さとするかどうかで評価が一変してしまうのもやむを得ないところではあるにしろ、ナタリー・ポートマンの徹底した計算とリリー=ローズ・デップの湧き立つ計算外のマッチメイクで、ワタシは十分に新しい時間を過ごせたように思うのである。そしてケイトが呼び出したそれはコルベンの倒錯した予知夢であったのか、その或る昂奮を彼に視るケイトの、すべての哀しみと諦めが結晶したまなざしに宿る異形の慈愛を見過ごすことのなきよう。
posted by orr_dg at 23:49 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする