2020年10月28日

ストレイ・ドッグ/わたしをゆるさないで

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善悪を無効化した絶対値のみを有効とするガンさばきで世界に負債を返し、ゼロを夢見ては消えていく人たちの行き来をノワールと呼ぶにおいて、自己愛の腐臭も自爆するセンチメントもその一切をあてにしないエリン(二コール・キッドマン)の道行きはもはや生きている者のそれではないようにも思え、棺桶から這い出るように車から降り立ったエリンが繰り広げる、石鹸台で用心棒を叩きのめし、殴りつけたグロックで弁護士ディフランコ(ブラッドリー・ウィットフォード)の頭をかち割り、かつての仲間ペトラ(タチアナ・マズラニー)を血まみれに潰して車のトランクに放り込み、娘シェルビー(ジェイド・ペティジョン)にまとわりつくジェイ(ボー・ナップ)を盗んだ金と引き換えに追い払い、クリス(セバスチャン・スタン)の仇サイラス(トビー・ケベル)を命乞いの間もなく射殺するサーチ&デストロイは、犯した罪に囚われて無間地獄を彷徨い続ける幽鬼の所業にも思えたのだ。復讐と贖罪の別すら手放して手当たり次第をゼロへと均し、そうすることで自分がこの世に生きた痕跡までも葬っていくエリンが最期にたった一つだけ自分に赦した記憶が何だったか、シェルビーもまたそれを赦してくれたからこそその光を見ながらエリンは消えていったのではなかったか。バーのカウンターで一瞬うつつを失ってグラスを倒し、あわてて我に返りショットの外にいる視えないバーテンダーに「ごめんなさい」と謝るシーン、たとえばカウンターから落ちて割れるグラスにエリンの刹那を託すよりは小さな正気の灯りが彼女の苛烈を煽ることを識るカリン・クサマの手さばきに息を呑みつつ、共に17年間を緩慢な死の中に過ごしてきたペトラとの、キャットファイトという言葉に喧嘩をふっかけるような凄惨で寄る辺のない潰し合いを、ローギアでアクセルをべた踏みするような回転数で追いまわすシーンには知らずワタシも歯を食いしばっていた。そして何より、それらすべての暴力を白日の下に晒して血と怒りの滾りを直射日光に乱反射させ、LAノワールの更新を得たジェリー・カークウッドのカメラの、消失点を光のなかに求めるような感覚はまるでアメリカン・ニューシネマの再構築とその継承への意志にも思えたのだった。銃創ではない肉体内部の破壊で徐々に死んでいくエリンに『サンダーボルト』のライトフットが重なったのも(共に車内に座って死んでいく)、これがあの時代のアメリカ映画の喉元に食いついてぶら下がっては、うっすらと笑みを浮かべながら揺れ続けていることの証なのだろうと考える。
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2020年10月23日

アウェイデイズ/ロマンスのシステム

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ストーリーからすれば「かつて遠征していたころ」とでもなるのか、”Awaydays”というその原題が既にすべてを語っている気もして、それは裏を返せば自分の居るべき場所(ホーム)から離れて生きる日々のことであったにちがいなく、プチブルと揶揄される中産階級でアートスクールをドロップアウトしたカーティ(ニッキー・ベル)と、フーリガンの労働階級でドラッグディーラーの顔も見え隠れするエルヴィス(リーアム・ボイル)が、互いの中にここではないどこかを見たことでその日々が交錯するも、互いが追うほどに遠ざかるすれちがいはその瞬間に始まってしまっていたのだろう。カーティはエルヴィスの暴力に倦んだ姿に成熟した屈託を誤認したことで、暴力を追い生の実感を手に入れようと躍起になり、一方、暴力で裂けた傷口をなめあうフーリガンの動物的な不良性を嫌悪するエルヴィスは、しかしそこに属するしかない絶望を抱えつつ、暴力を遠ざけたしなやかな屈託をカーティに見つけ、それを垂らされた蜘蛛の糸とすることで必死に手を伸ばし続けたのではなかったか。ひたすら青く欲望の達成に忠実なカーティよりは、彼を汚さないためには暴力から遠ざけるしかないことを知りつつも、彼とのつながりを絶たないためにはその欲求を受け入れるしかないエルヴィスの引き裂かれる感情こそがこの映画のハートであって、1979年のこの物語でエルヴィスの部屋にメメント・モリの象徴として吊るされた首吊用のロープは、程なくして起きるイアン・カーティスの悲劇の昏い予兆にも思えたのだ。エルヴィスが呪文のように繰り返すベルリンへの脱出も、分断された恋人たちをボウイが歌って以来、ある種の租界として夢想されたその響きを知ればこそその切実をワタシも理解する。目に映るのものを破壊しまくったパンクの焼け野原に立ち、帰る場所すら失い途方に暮れた若者が内省の中にそれを探したのがポスト・パンクだと監督が解釈したのであればワタシはそれを支持するし、パンクがいったい何を破壊しなければならなかったのかリアルタイムでは併走できなかったワタシに立ち込める靄の中でただただ彷徨することを赦したポスト・パンク〜ニュー・ウェイヴの、その終わらない日々に沈み始めたもう一つの1979年をここに重ねてみる時のあまりの容易さに、未だ自分がその靄の中にいるのかもしれないことを気づかせて郷愁というよりは少しだけ狼狽えた気分になってしまう。そしてこの1979年という年はマーガレット・サッチャーが労働党を打ち破って政権を取り、新自由主義を謳いつつ公営企業の民営化と規制緩和、消費税の大幅引き上げを断行した年であったのは言うまでもなく、この先ストリートカルチャーはサッチャーと保守党を敵と見据え政治の季節へと突入していく。インサートされるポスト・パンクのチューンにほぼ異論はないにしろ、うかがえるのは監督のウルトラヴォックスに対する偏愛で、”Just For a Moment”をほとんど心象表現の代替えとして序盤とラストで2度インサートして円環させたのはともかく、カーティ役のニッキー・ベルにはジョン・フォックスの面影キャスティング疑念すら湧いてくる始末だけれども、そういうのはまったくもって嫌いではない。
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2020年10月21日

スパイの妻/さようなら世界夫人よ

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「金庫の番号は?」「もう覚えました」この会話が符牒でもあったかのように新たな世界の法則が発動する。それに呼応するかのような津森泰治(東出昌大)の出現を受けて大陸へと渡る福原優作(高橋一生)はそれから起こる暗闘を予期していたかのように、世界の法則を手繰り寄せるべく自らの変質を促し複層をまとう人として帰国する。その優作にとって聡子(蒼井優)は果たして地獄の同志足り得るのか。開錠の番号を知る聡子の目の前でノートを金庫に仕舞う優作にとってそれはひとつの賭けであったのか。動かされたチェスの駒を見て急いた手つきで金庫の扉を開けた優作の表情の、何か決定的な感情を宿していながら、してやられたのかしてやったのか、それを微塵もうかがわせないここでの高橋一生こそは特筆されるべきで、この先に繰り広げられる愛と大義をめぐる聡子と優作の神経戦をピアノ線の緊張で拮抗させるこのゼロ地点にこそすべての成否がかかっていたといってもいいだろう。この映画をおおうすべての得体の知れなさに対し、観客にとって理解と共感が可能な唯一の存在である聡子をそのイノセンスゆえ生贄に捧げる苛烈はそのままワタシたちに向けられた眼差しでもあるわけで、戦場の恋人たちの風を装ってはヒールで地雷原を走らせながら、最終的に愛は感情の一つに過ぎないとにべもなく聡子を凝視する砂浜のショットこそはゼロ地点の恐るべき回収にも思えたのだ。劇中、聡子がいるシークエンスで何度か風の音が重ねられ、中でも旅館たちばなに文雄(坂東龍汰)を訪ねたシーンでは窓外の葉がまったく揺れていないにも関わらずか細い風の音が止むことはなく、それと同じ音がワタシたちと聡子に再び聴こえるのが1945年の精神病院でベッドに佇む彼女のシーンであったことを思い出してみれば、それがあの時以来彼女をずっと捉えていた虚無の音であったこと、そしてそれこそが世界の法則と渡り合う優作がまとった鎧なのではなかっただろうか。街角に貼られた『大空の遺書』のポスターの前で身を寄せ合う優作と聡子の姿が忘れがたくその映画について調べてみたところが、偵察に飛び立ちそのまま戻ることのなかった或る日本海軍パイロットの妻による手記の映画化という、まるですべてを解題したような内容で、そもそもが聡子の行く末はあの自主映画にすべて明かされていたではないかと、映像は世界のおそろしい分身であるというその確信とそれを手にする覚悟が謳われた点においてまごうことなき黒沢清の映画であったことに何度も首をうなずきつつ、監督にここまで射程の定まった映画を撮らせてしまう“現在”という世界の禍々しさこそをワタシたちは正当に恐怖すべきにちがいないと、コスモポリタンならずとも柄に手をかけた気持ちではあったのだ。あれが聡子の心象であったとはいえボブ登場シーンの照明や空間はまるでマイケル・マイヤーズにしか映ることがなく、黒沢版『黒い太陽』パートにしろ、いろいろと制約もあったであろう完全アウェイのプロダクションにおいて思わずその手が止まらなくなったところなのだろうと頬がゆるむ。シナリオにはない監督の付け加えたエピローグの字幕が一瞬仄かな救済をうかがわせるも、ワタシの頭をさっとよぎったのはアデルと化した聡子の姿であった。
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2020年10月20日

博士と狂人/演じるな炎じろ

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90年代後半以降、ブロックバスター化したニコラス・ケイジを「彼はアクターではなくパフォーマーになってしまった」と揶揄したのがショーン・ペンなのだけれど、それから四半世紀ほどが経った今、分裂症的なフィルモグラフィーの中で時折『マンディ』『カラー・アウト・オブ・スペース』のように覚醒した狂気で比類なくバーストする姿を届けてくれるニコラス・ケイジと今作でのショーン・ペンがどれだけ異なる地平にいるのか、ワタシには甚だ疑問に思えてくるのである。ニコラス・ケイジのそれがあくまで映画の要請としてスタートしつつ気がつけば後戻りできない場所まで映画や観客を連れ出してしまうのに対し、ここでのショーン・ペンは果たしてそれを初メガホンの監督は望んだのかという狂人のメソッドをリードに、アンサンブルよりは自分のソロをフリーキーな大音量で吹きまくるそのパフォーマンスの罪深い自己陶酔が映画のモードから逸脱していたように思ってしまったわけで、さすがにメル・ギブソンだけはショーン・ペンのソロを受け取って自分のパートに接続することが可能だったにしろ、そうやってメル・ギブソンが自分のポジションを意識するあまり、本来であれば博士にして狂人という二重人格性ゆえ共鳴するジェームズ・マレー博士(メル・ギブソン)とウィリアム・チェスター・マイナー(ショーン・ペン)の邂逅が博士と狂人という文字通りの関係から一歩もはみ出すことがないままだったように思うのだ。リチャード・ブレイン博士(スティーヴン・ディレイン)が新たな精神治療への野心を抱く者なのか単なるマッド・プロフェッサーなのか判然としないままなのも、ショーン・ペンが振りまくマイナーの狂気を増幅する役目を無理強いされて割りを食ってしまったからではなかったか。そうやってメル・ギブソンがショーン・ペンのセコンドから手を離せないせいか、妻エイダ(ジェニファー・イーリー)の理事会での演説やファーニバル(スティーヴ・クーガン)の口利きなど常に周囲の誰かが突破口を開いてしまうこともあってマレー博士が溺れる言葉の大海がもう一つの地獄と化すこともないわけで、ならばこれをウィリアム・チェスター・マイナーの数奇な人生として物語ってしまった方がいろいろと割り切りがついた気がしないでもない。いろいろと手が足りなくなるせいで、”Art”という言葉の持つ語義と使用法の変遷を語ることによって、そこに表現者としての意思表明が重ねられていくのかと思いきやあっさり肩透かしをくらったのにもいささか拍子抜けがした。いっそのことメル・ギブソンが自分で監督してしまえば丸く収まる問題もあったのにとも思うわけで「あのさショーン、ぼくがメリンできみがリーガンてわけでもないからね」って言えるのなんて他に誰もいないでしょ。
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2020年10月18日

シカゴ7裁判/おとなだろ、勇気をだせよ

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@シネ・リーブル池袋
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政治裁判だ!といきりたつアビー・ホフマン(サシャ・バロン・コーエン)に向かって「裁判には民事と刑事しかないんだよ」と話す弁護士クンスラー(マーク・ライランス)はまるで分別のない子供を諭すかのようであるのだけれど、そうやってあくまで法の下で闘う法廷闘争の勝算を図っていた彼が、政権の暗躍によって治外法権となっていく法廷で次第に分別の綱渡りを厭わなくする姿に、スピルバーグなら彼をメインにその対照として検事シュルツ(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)をすえて、その感情の移動を真ん中に据えたのかもしれないなと思ったのだけれど、アーロン・ソーキンはそうしたドラマの滋養や奥行よりも、行われた間違いと悪いことを福蔵なく描くことでそれを打ち負かす正義のありかを衒いなく謳い鼓舞することを選んでいたように思うのだ。それはいきなりアクセルを踏み込むトップギアのオープニングに明らかで、時代背景と登場人物の位置関係を当時のフッテージをインサートしつつ(キング牧師が暗殺時に追悼するボビーから頭をぶち抜かれたボビーへのつなぎ!)観客に俯瞰させながら、50年という時間を一気に遡っていくロックンロールの躁病的なビートこそがソーキンのマニフェストであったに違いない。サシャ・バロン・コーエンの演じるアビー・ホフマンとエディ・レッドメインが演じるトム・ヘイデンを観ながら、時代が時代ならそれぞれがエリオット・グールドとドナルド・サザーランドだっただろうなあと妄想したのも、この映画に通底する権力への嫌悪と諧謔と昏倒するロマンチシズムにロバート・アルトマンへの憧憬を嗅いだりしたせいなのかもしれない。リベラルはなぜ敗けるのか、それはリベラルもまたポピュリズムである以上、いつか捉われる自家中毒から逃げ切ることができないからだとしても、民主主義という壮大な実験において権力=定説を検証する仮説を繰り出し続けるためにリベラルは在らねばならないし、もしそれを負け戦のセンチメントと呼びたくて仕方がないのなら、まずは一度でも闘ってみてから煮るなり焼くなり好きにしてくれと土下座しながら叫んでいるような、そうまでされたら首を縦に振るしかないような映画だった。
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2020年10月14日

星の子/コーヒーをください

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善と悪、正と誤、常識と非常識、正気と狂気の境界線を背筋を伸ばしまっすぐ前を見据えてひとり進むちひろ(芦田愛菜)の歩みがいつしか鬼気迫る。すべては自分から始まったことなのだというちひろの覚悟が促すのは、境界線をはさむ争いが散らす火の粉を両親にふりかけることだけはしてはならないという決意であり、この物語の目的が宗教の欺瞞を暴くことでないのは言うまでもないにしろ、両親の愛こそが自分にとっての礎であり揺らぐことのない真理であると知るちひろの姿こそが、信仰に殉じた人の真の姿なのではないかという突きつけが、ちひろと家族をとりまく思惑をいつしか無効化していたのは確かだろう。そしてこの物語もまた決定論と自由意志をめぐる世界のあり方に気持ちをめぐらせていて、ちひろに決定論の小さな揺らぎを見て取った昇子(黒木華)がそっと残酷な揺さぶりを仕掛ける終盤から、ちひろの「信仰」を裏切ることのない両親の眼差しをあらためて見つめるラストに至る切なくも仄かな明かりの灯る感情のさざめきは、それまで繰り広げられてきた疼くような神経戦を優しくなだめつつも、寄り添う孤絶の色がひとときの儚さを誘い、あの星空の夜がちひろに残る最後で最良の家族の記憶となったであろう気もしてしまうのだ。南先生(岡田将生)から生まれて初めて大人の暴力的な悪意を逃げ場なくぶつけられたちひろをなべちゃん(新音)と新村くん(田村飛呂人)が彼女たちなりのやり方で慰める長回しのシーン、芦田愛菜をハブとしつつ間といいトーンの上下といい絶妙のアンサンブルで推移して、過去シーン以外ほとんどのシークエンスで出ずっぱりとなる芦田愛菜の透明な抑制の利いた求心力をもたらす、常に余白と余韻を残しながら映画を丸ごと背負う剛腕と知性のスイングこそが見ものだと言ってしまってもいいだろう。不幸を恐れるあまり幸福までも恐れ始めたらそこにはもう宗教も信仰も存在しないとだけは思う。
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2020年10月11日

エマ、愛の罠/産めよ燃やせよ

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これまでは、実在する人物を召喚してはその神話/実話の虚実を巧みにつづれ織ることで、彼や彼女が遂行したマージナルな反乱や革命の記憶を普遍へとすげ替える手続きにその天才を発揮していたパブロ・ララインが、今作ではエマ(マリアナ・ディ・ヒローラモ)というフィクショナルなキャラクターにその任を与えることで、より直截的で本能的なヴィジョンを塗りたくってみせていて、真夜中の信号機を火焔放射機で火だるまにするエマのオープニングがそれを宣言している。恣意と暫定とルーティンで麻痺したルールを一度亡きものとして肉体と精神をセットで再起動してみろという、システムに向けたというよりはそこにぶら下がって揺れるワタシたちに向けた原初的なアジテーションを、髪の先から爪先まで剥きだされた肉体の可動と機能の極限を理解することでそこに脅迫めいた畏怖を装填するダンサーという人間に託した点において、その意図は見間違えようのないところだろう。『NO』の主人公を最初に蹴り上げたのは別居中の妻であっただろうこと、『ネルーダ』で唯一ネルーダに、私は14歳から共産党員だけど共産主義の社会になったら私もあなたたちブルジョワのようになれるの?と問い詰めたのが清掃婦の女性だったこと、『ジャッキー』ではその神話のためにアメリカの寡婦となった彼女を幽鬼と描いたことなど思い出してみれば、エマとはパラダイムだ、と答えるララインがこれまで狙ってきたその機会を一気に浮上させたと捉えるのが自然でスムースな道行きだし、教師にして放火魔、そしてアナキストであるエマが妻にして母親、恋人にして愛人、姉にして妹という女性性を横断して獲得したのが母系共産体ともいえる家族であったのは、エマをイドの怪物として生み出したこの世界に向けた皮肉抜きの回答ということになるのだろう。ワタシがレゲトンの勃興と制圧に疎いせいで、エマの夫ガストン(ガエル・ガルシア・ベルナル)の主催するコンテンポラリーダンスをエスタブリッシュとするストリートとの対比に持ち込めなかったのがいささか悔やまれる。それくらいエマとレゲトンのチームをララインが洗練とクールのうちに捉えてしまっていたということでもあるのだけれど。
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2020年10月08日

ハースメル/ズ・ライク・ティーン・スピリット

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いつの頃からかベッキー(エリザベス・モス)には、俺の分け前をよこせとやって来るかつてクロスロードで契約した悪魔の影が視界にちらつき始め、やがてそいつがバンドのメンバーやマネージャー、元夫、母、そしてついには娘の姿を借りて現れては自分を苛むことで、彼らを信じたい善いベッキーと信じられない悪いベッキーとに彼女は叩き割られていく。第1幕として用意された終演後のバックステージでは、Riot Grrrlのパンクパンド、SOMETHING SHEのフロントウーマンであるベッキーの深刻な分裂とその悪夢に直撃される人々のさらなる悪夢が、周到かつ偏執的にのたうちまわるカメラとそれを煽りつづけるデモニッシュな色彩とサウンドデザインによって即席の地獄と化していく様子を名刺代わりに映してみせて、ああこれは良い意味で良くない映画だとこちらもポジションを修正することとなる。映画は5幕構成となっていて幕間にはバンドやベッキーが幸福だった頃をとらえたホームヴィデオの映像がインサートされつつ、第2幕でバンドメンバーのアリ(ゲイル・ランキン)とマリ(アギネス・ディーン)、第3幕で母(ヴァージニア・マドセン)との正面切った激突によるベッキーの喪失を経た後で再生を目指す幕開けへと向いはするものの、ベッキーが破滅型ロックンローラーのクリシェを終始かわし続けるのは、彼女をモンスターとして「狂気の愛」の淵に投げ込むのではなく「狂気」と「愛」の人に引き裂かれる断末魔を捉えつづけたからに他ならないからで、第4幕以降、狂気と狂騒から身を遠ざけつつも自分の愛を信じられないベッキーの脆さを狂気との完全な地続きで演じるエリザベス・モスの憑依と没入を見れば、『透明人間』での彼女ですらまだ手を余らせていたようにも思えてしまうのだ。オープニングへと円環するようにステージへの帰還を果たしたラスト、アンコールを求める観客のノイズも、それを促すマネージャーのハワード(エリック・ストルツ)や娘タマの言葉も受け流した上で「これで全部、これで終わり」とつぶやいてタマを抱きしめて目をつぶり壁にもたれるベッキーの姿と、そこからパンをしたカメラがとらえる”HER Smell”のネオンサインが、彼女が失くして探したその匂いを手にした今、彼女はもう自分のために歌うこともギターを弾くこともないのだという青春の終りを告げてみせ、成熟は死だとささやく世界の苛烈をなお傷跡に擦りこんだ気がしたし、オープニングのライヴシーンでのジ・オンリー・ワンズ、スタジオでかき鳴らすチャールズ・マンソン、娘のために切々と歌い上げるブライアン・アダムスという、局面でベッキーが奏でるのがすべてカヴァーであり分裂症気味に散らかったチョイスとなっていた点もこの映画のウィアードを誘った上に、観客がベッキーにコートニーの意匠を見ることをまったく厭わない監督と女優の確信犯ぶりがさらに果敢かつ誇大妄想的で、この映画への忠誠を最後まで忘れさせることをしなかったのだった。不意打ちの一発。
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2020年10月05日

マティアス&マキシム/きみの名前がぼくを呼んだ

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その度に世界と刺し違えては青ざめた貌で赤い血を流す季節は終わったのだと、外の世界を汎用的に借りることで内の強度を鍛える筆使いを普遍と定めるそれを、ドランにおいてはそれを成熟といってもいいのか、前作『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』ではその性急がどこかしら自罰的にも思えたセルフパスティーシュがほとんどやけくそのように片っ端から女性たちを母殺しの十字架にかけていったことを思うと、あくまでその視線は一歩引いて冷静を失わないまま、自罰と他罰のつづれ織りにくるまって窒息する試みはもう必要ないのだとばかり、喪失から再生にいたる風の通り道は澱むことなく確保されて最後にそれは然るべきところへと爽快に吹き抜けたように思ったのだ。マキシム(グザヴィエ・ドラン)の抱える屈託とマイナスの記号としての顔の痣は、彼と仲間達のコミュニティにおいては視えないものとして扱われつつも、しかしそうした庇護の下で一生を過ごすことの閉塞こそがマキシムをここではないどこかへと旅立たせるのだろうし、それは同時に母親と刺し違えることなく彼方へ脱出するという裏を返せば母親を見棄てる決断であったにしろ、ようやくにして通過儀礼を終えた作家グザヴィエ・ドランがその青春の終りをメランコリックな楽観主義を頼りに謳ってみせた一篇ということになるのだろう。そうやってマキシムがこれまでの言葉が通じない場所へ旅立つことを思い出してみれば、その語り口が一変したとしても、というかむしろ一変することをドランは自分に望んだのだとすれば、マティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)のマジカル彼女としてのサラ(マリリン・キャストンゲ)の自らを開放した人の眼に湛えられた孤絶の色をそっと添えたその手触りにおいて、将来的には彼女たちの歩き方までも物語るドランをみることも可能なのだろうと考えたりもした。
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2020年09月23日

TENET テネット/きみはぼくを忘れるから

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キャット(エリザベス・デビッキ)がセイリングヨットの船上で「ライジング!」と叫んだ瞬間それが蜂起の合図でもあったかのように、時間を神に押し戴く映画という決定論の世界でそれに抗う自由意志はいったいどこまで可能なのかとする異議申し立てを、この世界で繰り広げらるそれの代理戦争でもあるかのように闘ってきたクリストファー・ノーランの、その極北とすら言える闘いの幕が切って落とされることになる。その闘いにおいて時間に刃向かうことを選んだものはエントロピーの幽霊と化し、消失点を目指すかのように後ずさりながら逆回転の言葉で呻き続けるのだ。起きてしまったことは仕方がない、ならば起きなかったことを起こしてみれば未来を変えることができるのではないかというアイディアに点火すること、それはもう自己犠牲と言う名のやけくそとにも思え、二―ル(ロバート・パティンソン)にしろキャットにしろが最期には何をかなぐり捨てて決定論に挑んだのか、リクルートされたばかりの名もなき男(ジョン・デイヴィッド・ワシントン)に逆転世界についてレクチャーするバーバラ(クレマンス・ポエジー)の「考えるのではなく、感じなさい」というアドヴァイスにして結論である自由意志が打ち破るその姿を知らしめるために、ノーランは幾度となく世界の理を引きずり出してはワタシたちのまわりにめぐらしてきたのではなかったか。そしてキャットvsセイター(ケネス・ブラナー)の闘いに自由意志vs決定論の暗闘を見たからこそ、名もなき男はキャットの誠実にして忠実な下僕となり、二―ルもそれに従ったのではなかったか。「それがこの世界の運命だとしても、だからといって何もしないことの言い訳にはならない」「運命?」「好きなように呼べばいい」「だったらきみは?」「現実さ」という名もなき男とニールのラストにおけるやりとりこそが、この映画の、そしてノーランの動機にほかならないことは言うまでもなく、なにしろこの2020年という時にあっては冒頭のオペラハウスで満員(!)の観衆が空気中の物質によってバタバタと意識を失って座席に沈んでいく姿の忌まわしい象徴性が、なおさらその動機を発熱させていたに違いないのである。しかしその震えが上気すればするほどこの映画のエントロピーはそれを消滅しにかかるわけで、冒頭でふれたまるで黄泉の海上のようなシーン以降、幽霊と刺し違えつつ闘うこの映画が、目指すというよりはそこから逃れられないゼロ地点で拮抗し続ける内爆がカタルシスの不発と映らざるをえない点で、勝負に勝って試合に負ける、それはまるで決定論と自由意志のあくなき闘いのようですらあったし、それと無縁ではないノーランの巨大建造物に向けられたフェティシズムは自分を覆う世界の巨大に抱く畏怖と官能による愛憎の証なのだろうこともIMAXの巨大スクリーンに見てとれた気がしたのだった。ジャンボジェットも、巨大風車も、そしてエリザベス・デビッキも。
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2020年09月17日

幸せへのまわり道/わたしはあなたのロバになりたい

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まるで「トワイライトゾーン」や「アウターリミッツ」のように、ではこれからロイド・ヴォーゲル(マシュー・リス)というひとりの男の人生をのぞいてみましょう、といった風なオープニングから始まり、彼がフレッド・ロジャーズ(トム・ハンクス)という人間と出会うことでその人生観が歩みを変えていく姿を、ポジティヴシンキングや神のご加護といった教条主義的なおためごかしを排除したところで、ぐうの音も出ない知性と合理性によってなされるカウンセリングのもたらす幸福な成果を、それを導くフレッドがまとう人智による戦闘の最前線とでもいう薄っすらとした不穏の気配をサイドキックに描いていく。ロイドの抱えた父殺しというマチズモの発火装置を優しくそして辛抱強く解除していくフレッドは、言葉にできるものは対処できる、という方法論の下でロイドの深層が欲する言葉をそこにダイヴしてはすくいあげ、彼を包み込むタペストリーと編んでいくわけで、君が正しいことと間違ったことを見極める信念の人であることをぼくは知っている、だけどその信念を形作ることができたのは君とお父さんとの関係があったからこそで、それはお父さんが手助けしてくれていたんだよ、とロイドを揺らした後で、1分だけでいいから自分を愛し育ててくれた人のことを想ってみてはくれないか、ほんの1分でいいんだ、と穏やかだけれどしなやかな強さでたたみかけるチャイニーズレストランのシーンは、トム・ハンクスとマシュー・リスによる慈しむような神経戦の応酬も相まってまさにその真骨頂といってもよく、その1分間を言葉の比喩としてではなく実際に腕時計で計って終わりを告げるその姿には臨床医の冷徹すら漂ったのだ。このシーンで瓦解するより以前、いまだフレッドを訝しげな視線で見るロイドに、大勢の人たちの問題を受け止めることはあなたにとって重荷ではないのですか?と問い詰められたフレッドは、それを重荷だと認めるとも認めないとも言わないまま冗談めかした口調で、感情と折り合いをつけるにはプールで思い切り泳いでみたりピアノの鍵盤の低音のところをボン!ボン!と叩いてみるのもいいかもねとやり過ごすのだけれど、やがてそれらはそのまま他のシーンとは打って変わった静謐でダークなトーンで描かれて、誰もいないプールで黙々と泳ぎながら頭の中でロイドの家族の名前を一人一人祈るように呟き、収録を終えスタッフがいなくなったスタジオでひとりピアノを弾いては突然低音部分の鍵盤を叩きつけるように手を振りおろし不協和音を奏でるフレッドの姿は、彼の妻ジョアンヌ(メアリーアン・プランケット)の「聖人呼ばわりされるのは彼も私も好きじゃない」という言葉の奥の彼を同情や憐憫をはねつけるように描くと同時に、ポップでカラフルに描かれるミニチュアワールドにロイドの父ジェリー(クリス・クーパー)の家が加わったのを見た瞬間、ああこれはレクター博士の記憶の宮殿なのだ、フレッドにとっての永遠なる”ご近所さんとの素敵な日(A Beautiful Day in the Neighborhood)”なのだと、長老教会の牧師という背景を持ちながら感嘆符的なGod以外には神を引用する言葉でいっさい導くことをしなかったフレッドの、精神と肉体の存在をまるごと捧げた殉教者としての孤絶が否応なしに迫ってきては、ロイドに差した木漏れ日の温もりがさっと引いたような気がして少しだけ慄えた気がしたのだった。
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2020年09月13日

人数の町/リンゴ・キッドの帰還

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いつ頃だったのかビッグデータというワードが取りざたされ始めた時に感じた、集合知的な側面よりは全体主義的な回帰のサイクルに囚われることへのうっすらとした忌避感の向こうにちらついたのは、ビッグブラザーという名前で刷り込まれたディストピアの影であったことを今さらながら想い出してしまっている。この人数の町というシステムを考えた人間は、ビッグデータを自ら作り出しコントロールすることでビッグブラザーとして世界に君臨できることに気づいたのだろう。そしてそれを可能にするテクノロジーと経済のシステムを文明の発達という題目のもとに生み出し続ける人間は自分で自分の首を絞め続けているようなもので、では自分の首を絞めたくない人間はどうすればいいのか、それは他人の首を絞めればいいというその分断のラインがあのフェンスに象徴されていたのだろうし、フェンスを越えようとする彼や彼女を襲う激烈な脳内ノイズによって、彼らは自身が死ぬまで首を絞め続けられることを遅まきながら知らされると同時に、食欲と性欲、そして睡眠欲の三大欲求を無条件で満たしてやれば人間は容易に家畜化しうるというその証明がこの人数の町そのものでもあるわけで、一見したところ頼りなく曖昧なフェンスが象徴するかつてないほどのディストピアとユートピアの接近がこの映画に禁忌と不穏の香りをなお誘うこととなっている。もはやどちらがフェンスの「外」なのか「内」なのか、民意という意思決定もまた幻想であるという手の内の開陳といい、トラブルの予測と収束のシミュレーションを含め“人数の町”というシステムをフランチャイズ展開するにあたってのプロモーションビデオとしてこの映画は充分すぎるほどその任を果たしているように思われ、終盤で蒼山(中村倫也)と木村紅子(石橋静河)の繰り広げる逃避行がまるで早送りされたようにスキップされるのも、そうした人間性テストのようなドラマはそれら本題に影響を与えるものではないという怜悧な確信によっているのだろう。そんな風に感情移入を物欲しげに情動をなめすのではなく思想の輝度と硬度を磨くことに躍起になりつつ、メジャー感と実験性のポジティヴな同居を狙う爽快さに、新しい武器を手に入れた気がして少し胸が弾んだりもした。おそらく監督にとっては余白の残った部分をスッとデザインしたポール役の山中聡が、体制のにこやかで饒舌な暴力と懐柔を慈しむように演じてピカレスクの楔を打ち込む助演。この国で今この瞬間に確認されるのをこの映画は待っている。
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2020年09月08日

mid90s ミッドナインティーズ/夢みるように転びたい

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「おれの人生は最悪だけど、ほかのやつらを見てるとまだマシなのかなと思う」とスティーヴィー(サニー・スリッチ)に語りかけるレイ(ナケル・スミス)の言葉からいかにして自己憐憫の涙をぬぐい取りそこに血のクールを通わせることができるか、これは自伝的な物語というわけではないとしつつ、靴下すら買えない少年であったはずもないジョナ・ヒルが、あの時代にあそこにいたすべての十代を肯定し相対化することで普遍の存在とする賭けに出たあげく涼やかな勝ちをおさめた瞬間であったように思ったのである。スケートボードという独立と連帯を同時に叶える水平の夢がどれだけの不幸から子供たちを救ってきたか、ジョナ・ヒルにとってその傷だらけの多幸感こそが90年代アメリカの記憶であり世界との距離を測る物差しだったのだろう。そうした中、当時彼が見た風景のどこかにいた誰かとしてのサニーの兄イアン(ルーカス・ヘッジス)もまたジョナ・ヒルにとって描かねばならないメランコリーの一片だったようにも思えたのだ。男の出入りが激しかった母さん(キャサリン・ウォーターストン)はお前が生まれてから変わったよとサニーに言うイアンは、たびたび母親が男を連れ込むその家でたった一人の自分をそこから切り離すためにあのヒップホップの砦を作り上げてそこに潜むことにしたのだろう。イアンの不幸はその砦の中で身動きがとれなくなってしまったことである一方、サニーの僥倖はイアンというストリートカルチャーの無自覚なメンターのおかげでストリートへの接続がごく自然におこなえたことで、イアンがたびたび見せるサニーへの暴力は、自分が孤独の闇と引き換えに手に入れたファンタジーを無邪気に享受することへの苛立ちだったようにも思えたし、それだけに、Motorの面々とたむろするサニーに通りで出くわし、サニーの兄と知らないファックシット(オーラン・プレナット)にからかわれて追い払われるイアンの姿を見るにつけ、それもまたウェストLAの白人エスタブリッシュの家庭に育ったジョナ・ヒルが抱いた屈託ではなかったかと、その背中に塗された容赦のない痛々しさになお想いを馳せてしまうのだ。そしてサニーを見舞うため病室にグループが集まったラスト、フォースグレード(ライダー・マクラフリン)の撮ったムーヴィーが見せつける失われてしまった幸福に輝く時間からにじみ出す甘くて苦いペシミズムが彼らを包み、今だけを生きることで逃げ切ってきたそのスピードが初めて立ち止まってしまうその瞬間は、この先に行くには一度ここに立って自分の目であたりを見回してみるしかないという通過儀礼の瞬間でもあったわけで、みんなのその背中を押した、靴下すら買えない極貧にも関わらず手に入れたハンディカムをどんな時でも手放すことなくいつか映画を撮りたいんだと夢見るようにつぶやくフォースグレードもまた、ジョナ・ヒルのぬぐえぬ一片であったように思ったのだ。レイティングさえ気にしなければ13歳のセックス、ドラッグ&ロックンロールが可能なのも映画という虚構のシステムの懐の深さであることをあらためて知らされつつ、それがPG12でスルーされるこの国の無邪気と鷹揚をラッキーと13歳の彼や彼女は今すぐ駆けつけて一緒に転がってみるべきだろう。mid90sに13歳だった遠い目の大人よりは、今の13歳のうなじをこそ落ち着きなくチリチリさせる気がするものだから。
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2020年09月04日

ブルータル・ジャスティス/死ぬ、埋める、忘れる

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かつてコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で、それはその初めから我々と共にあったものだ、言うなれば神が創ったものだと検証した、暴力という私たちの特長かつ特徴にして特質であり特性の、その発現によって生命を奪われ召されていく者たちへのレクイエムをS・クレイグ・ザラーは故人の生前を偲ぶような語り口と遠くを見るような目つきで彼岸の光景として描いていく。したがって、生命を奪う者よりは奪われる者においてザラーの筆は厚く、『トマホーク ガンマンvs食人族』がそうであったように奪われる者たちの尊厳を念押しする一挙手一投足の連綿とした描写に比べ、今作における食人族であるヴォーゲルマン(トーマス・クレッチマン)とその手下の黒装束たちはあえて記号の枠に押し込まれたままあり続け、彼らがその生命を粉砕するケリー(ジェニファー・カーペンター)にこそ贅沢な時間が与えられるにおいて更にその意志が明確となっている。と同時に、暴力それ自体が神の思し召しである以上、その断罪を我々のこしらえた善悪によってなされることがあってはならないというザラーが自らに課した戒めを体現するかのように、ブレット(メル・ギブソン)とトニー(ヴィンス・ヴォーン)、分けてもブレットは暴力によって善悪を横断しつつ家族の幸せを夢想する男として最期の時まで神の子供としてあり続けるのである。ザラーの作品における暴力の描写がその容赦のない直接性にも関わらずどこかしら超然としめやかにあるのは、ザラーがそれを神のひと触れ、もしくは恩寵と捉えた上で施したからであったように思うし、そんな風に偏執的で一方的な論理をどこまで拡張することが可能であるのか、レイシストにして職務を逸脱した悪徳警官にして強奪犯となる男を主人公にモラルの荒野に差す光はワタシたちの網膜をいかに透過するのか、ザラーがシミュレートしているのは善と悪の支配するそれ以前に開けていた原初の風景であったのではなかろうか。そうやって世界の法則を取り戻す者たちが皆そうであるように、ザラーもまた長回しによって世界の角度と速度を執拗に再測定し続けていて、すべての時間が逃げ場を失って膠着する瞬間に開く扉を待ちわびるその姿の一途は宗教的とすら言える気がしたし、ワタシもそれに連なるにおいてまったくやぶさかではないのであった。高邁にして高潔な傑作。
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2020年08月31日

赤い闇 スターリンの冷たい大地で/きみの国がきみを殺す

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※できれば知らない方がいいある一点をかすっているので鑑賞予定の方は留意を。予定になかった方へは不意打ちされた傑作と伝えたい。

ガレス・ジョーンズ(ジェームズ・ノートン)はソビエトの地で三度の饗応を断り、四度目にして初めてそれを受け入れることとなる。そしてそれがこの映画で起きたすべてだと言ってしまってもいいだろう。1933年、スターリン体制下のソビエト連邦に渡ったジョーンズはロイド・ジョージの(元)外交顧問という肩書もあって、体制側の人間より3度の饗応を受けるのだけれど、世界恐慌の嵐の中で一人勝ちを謳うソ連の経済実態を調べることを目的とするジャーナリストとしてのジョーンズは、取材対象からの供与におもねることをしないのである。その3度のうちのひとつはニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長にしてピューリッツァー賞受賞者ウォルター・デュランティ(ピーター・サースガード)によるものなのだけれど、彼の自宅で開かれるパーティーのいかにも西側的な堕落と退廃の倦んだ空気の異様さに、なにしろホストのデュランティはビキニパンツ一つの姿でジョーンズを迎えるのだ、ジョーンズはジャーナリストとしてのデュランティに対し本能的に敵対することとなる。取材対象である政府に寄り添い同化することで情報を引き出すという名目もいつしか失ったデュランティは、求められる忖度によって西側を情報でコントロールするツールとなることと引き換えにモスクワで利益と便宜の供与を受けており、ひいてはソ連の対西側外交の裏側でフィクサーめいた役割すらを果たしているわけで、このあたりは先日放送された渡邉恒雄氏のインタビューで、取材対象の政治家の懐に夜討ち朝駆け的な感情で入り込むことによって距離を縮め情報を得るという手法と、その結果政治家の持つ光と闇、白と黒の線引きが混然となったグレーの中で共に泳ぎ回ったからこそ今の自分があることを、実際に政治の舞台裏でフィクサーとして動いたことも含め氏が自ら滔々と語るその姿の違和感に、現在のメディアが権力から独立した意志と矜持を持てないまま成熟を手放したのは、戦後の政治記者たちが多かれ少なかれ渡邉恒雄氏をロールモデルにしてきたからなのではないかと考えたその癒着と腐敗の構造そのままであったことに、驚くというよりは至極当然と腑に落ちたりもしたのだ。モスクワでの動きを封じられたジョーンズは、デュランティのスタッフでありながらグレーに染まることへの忌避を隠さないエイダ・ブルックス(ヴァネッサ・カービー)の助けを借り、政府の監視を振り切って疑惑の鍵であると同時にかつて彼の母親が暮らした地でもあるウクライナへと潜入していく。ソビエト連邦にとって黄金の穀倉地帯であったはずのウクライナは、華々しく喧伝された五カ年計画による農業の集団化の失敗でモノクロームの荒涼に覆われた飢饉と飢餓の生き地獄と化しており、道端に死体の転がるウクライナの地を衝撃と混乱の中で彷徨するジョーンズは、彼もまた行き倒れる寸前に貧しく幼い姉弟に差し出されたスープの椀を初めて受け取りそれを口にするのである。しかし、それまで饗応された豪奢な料理とは似ても似つかないそのスープに入っていた肉片はいったい何だったのか。フィクショナルな構築があるとはいえ実在の人物が実際に辿った壮絶な地獄めぐりの記録は、ワタシにそれらの予備知識がまったくなかったこともあっていつしかジョーンズの絶望と分かちがたく同化したあげく、ワタシはいったいどこまでこの風景の中を歩かねばならないのか、空調の効いた映画館の客席で途方に暮れて押しつぶされそうですらあったし、そうやってガレス・ジョーンズという一人のジャーナリストが観客に憑依することで彼の清廉と怒りと絶望と哀しみを知り、その知性と理性をある状況におけるひとつの理想とすることをアグニェシェカ・ホランドが求めたとするならば、この映画の原題がなぜ“Mr.Jones”であったのか理解できるようにも思ったのである。史実の枷を少しだけ弛めたジョージ・オーウェルとのクロスオーヴァーも、彼の「動物農場」がなぜ普遍たりえたのかその背景をよりクリアにして物語の刃渡りが増した気がした。ジェームズ・ノートン、ヴァネッサ・カービー、ピーター・サースガードが三様の速度と角度で鉈を払い互いに近づけないままうっ血していくアンサンブルが張りめぐらす疼くような虚無。2020年の日本、Mr.Jonesはどこに消えた?
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2020年08月28日

ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー/飛ぶのが遅い

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ミシェル・オバマとRBGの写真が見守る中、成功者のマントラを流しながら自身をフォーカスする儀式を済ませたモリー(ビーニー・フェルドスタイン)は、迎えに来たエイミー(ビーニー・フェルドスタイン)とそれが彼女たちにとってのハカでありチアなのであろうロボットダンスを踊り始め、彼女たちはそうやってハイスクールの毎日を闘い抜いてきたのだろうことを、しかしそこには血も汗も涙も、とにかくあなたたちに憐れんでもらうような理由などまったくないのだと、それはもう惚れ惚れするような手さばきで宣言してみせつつ、そのマニックの鎮魂がこの映画の行き先であることをそっと窺わせたりもするのである。これまで自分が仮想敵としてきたスクールカーストは自分の独り相撲が生み出したイドの怪物に過ぎなかったことを知った時、自分を憐れむでも恥じ入るでもなくそこに順応しなければと瞬時にシフトチェンジするモリーの姿は新たな強迫観念に捉われたようにも映り、既に性的指向をカミングアウトして世界との繋がりを再構築したエイミーに比べてみた時、相対の鬼としてのモリーはエコーロケーションでしか自分を認知できない病の中にいるわけで、映画としてはバディムーヴィーのスタイルをとってはいるものの、ラストでエイミーがモリーに言う「明日からはこのボルボを1人で運転するんだよ」というその言葉がオープニングに円環しつつ上昇するらせんとなる点において、一晩の地獄巡りをすることで自己肯定の呪縛から解き放たれた自分自身をモリーが世界にカミングアウトするその姿に監督は新しい自由の風を託したということになるのだろう。とはいえ製作陣にウィル・フェレルとアダム・マッケイの名前があることからもうなずけるように、そうした真剣さの照れ隠しかつ弱者からの一撃としての下ネタが爽快に飛びかいつつ(とはいえPG12)、しかし監督と脚本家たちに渦巻くのは、対称性で語るのは勝手だけどあたしらをあんたたちの悲劇と一緒にするなよ、というかいつまでもあたしたちを悲劇とかいうなよ、という笑いながら怒る人の凄味であって、何よりまずやるべきはわたしたちを壁の花へと追いやってきた壁をぶち抜くことで、そうすればそれが支えてきた例のガラスの天井とかいうあれも顔色が変わるにちがいなかろうよというひらめきと確信がオリヴィア・ワイルドとそのチームを怒涛のごとく駆り立てたように思うのだ。とはいえモリーに託したそれ以外がコメディで冗談めかされてしまうのはこのスタイルを選んだ功罪で、『スーパーバッド』あたりがたやすく参照されてしまう危うさははらんでいる気はするものの、なにより『スウィート17モンスター』のその先で世界と渡り合うためには、毒を食らわば皿まで舐めまわしあげくはそれを噛み砕くことすら厭わないのだというこのマニフェストが、ダン・ジ・オートメイターのどこまでも歩き続けるようなブレイクビーツで接続されて世界のどこかにいつも掲げられることを夢想している。
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2020年08月26日

グッバイ、リチャード!/ジョニーは戦場へ行った

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成熟なんてもんはずっと呑み込んできた惨めさの言い換えにすぎないんだよ、と吐き棄てるリチャード(ジョニー・デップ)に、俳優ジョニー・デップの毀誉褒貶を重ねてみることはいとも容易い。容易いだけに、リチャードが学生たちに向かってキミらが闘うべきは凡庸さだと煽るその言葉がそのままブーメランとなって突き刺さってしまうこの映画は、しかしそれが成立するのは彼がジョニー・デップだからこそであるという抜き差しならない構造となっているものだから、『いまを生きる』や『死ぬまでにしたい10のこと』のパスティーシュに過ぎないストーリーすらも、こういうのがいいんだろ?的な観客に対するあてつけと嫌がらせに思えてくる始末であって、それはジョニー・デップという俳優が2005年を分水嶺にスターシステムのてっぺんでサーフすることを、おそらくは権威主義へのあてつけとして選んだそのねじれたセルアウトのツケであり後遺症であるのは間違いないにしろ、果たしてそのどこまでをジョニー・デップは想定の内としていたのか、自らの野心に忠実なキャリアをある意味健康的に築いてきたレオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットに比べてみた時、この映画におけるリチャードの開き直りと言い訳がましさはあながちフィクションの自虐というわけでもなかったのかとも思ってしまうのだ。フェミニズムを論拠とする学生を、それは本当に自分をそこに潜らせてみた上での考えなのか?と足蹴にしつつカサノヴァ的な放蕩をおおっぴらにするリチャードのアンチPC的な露悪のふるまいや破綻した結婚生活が役者本人のトレースであることは言うまでもないし、終身教授のポジションに安泰することで自らをスポイルしてきた英文学者リチャードが死ぬまでに一つは自身の筆による傑作をものにしたいのだと語るシーンに至っては、それをショーン・ペン言うところのアクターではなくパフォーマーに身をやつしたジョニー・デップ自身の告白と捉えられることも既に承知の上なのだろう。となると、冒頭のセリフすらもデップがオルターエゴを装って吐きだした言葉だとすれば、2005年の変節は彼の盟友ティム・バートンがかつて『PLANET OF THE APES/猿の惑星』で行ったイノセンスとの訣別にも似た通過儀礼ということにもなるわけで、そのバートンによる非コスチュームプレイの『ビッグ・アイズ』ではデップに声がかかることなく“アクター”のクリストフ・ヴァルツが起用された時、彼は自身のナイーヴを思い知らされたのではなかろうかと邪推もしてしまうし、してみると今作はジョニー・デップという成熟を誤算したペルソナの清算であったようにも思うのだ。ではそんな異物を抱え込まされた映画が果たして監督本来の意図の達成であったかと問われればそれは怪しいとしか言えないながら、俳優ジョニー・デップによる告解の物語としては、むしろその凡庸さゆえの真摯に胸が打たれた瞬間があったことも確かだし、この稼業についてまわる曖昧で漠然とした危機を上手く切り抜けたレオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットに比べてみた時、曖昧で漠然とした幸福を信じ続けたジョニー・デップの失敗をむしろ近しく感じてしまうのだ。そんな風に30年経って気がつけば、もうお互い取り返しのつかない年齢になっていたことに今さらながら驚いた。
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2020年08月20日

ポルトガル、夏の終わり/幸せは優しくない

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今では他人と呼ばれるふたりに 決して譲れぬ生き方があった ―大貫妙子「風の道」

いつの頃からかイザベル・ユペールと大貫妙子を好きな理由が重なるような気がしていて、その生きる社会においては大きくない背丈を共にすっと伸ばし口元に緊張を遊ばせながら相手をゆるがぬように見据え、かといって人嫌いというわけでもない柔らかな光を目の片隅に湛えつつ孤独というよりは孤高の人としてそこに立ち、自らを律するその動作が自然と世界を手懐けてしまう佇まいはワタシにとって理想の輪郭にも思えるわけで、この2人が同い年というのはほんのたまたまであるにしろ、イザベル・ユペールの映画を観て帰った日に気がつけば大貫妙子のアルバムを再生してしまうのは何かしら必然の気配があるからなのか。最初の引用は、大貫妙子の書く透徹したラヴソングの強度とエッセンスを最上に抽出したフレーズだと思っていて、悲観と楽観、過去と未来、そして生と死のその精密な真中に立つ現在地でたずさえる、静かで穏やかな、それでいてもうどこにも後戻りをすることのない諦念はほとんどハードボイルドといってもいいように思える。そして映画女優フランキー(イザベル・ユペール)もまた、青空に永遠を透かすそのハードボイルドなまなざしで、自分がこの世から消えてなくなっても、あそこにいる彼や彼女たちはそれぞれに新しい生き方をしていくだろう、それはうまくいくかもしれないしうまくいかないかもしれない、でもそのすべてが愛おしく思える時がくることをあなたたちに知っておいて欲しいと私は願っている、とその笑みを小さく風に飛ばすラストのその一瞬のためだけにこの映画を設えた監督の潔さとイザベル・ユペールへの敬愛をワタシは称賛したい。それにしても、アイリーン(マリサ・トメイ)に袖にされるスクエアなリベラルのゲイリー(グレッグ・キニア)のやんわりと意地の悪い描き方といい、監督/脚本のアイラ・サックスはスピルバーグに何か含むところがあるのだろうか?個人的なあげつらいではなく、スピルバーグ=ハリウッド的な能天気への揶揄だとしたら今さらで、あまりスマートには思えないのだけれど。
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2020年08月15日

ディック・ロングはなぜ死んだのか?/馬鹿をポケットに入れて

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※ほんのちょっと肝心なところに触れています

「わたしパパを困らせてる?」自分が見たこと聞いたことをまっすぐな瞳で大人たちにしゃべるシンシア(ポピー・カニンガム)は、嘘にすらならないその場しのぎのでたらめや言い訳をあっけなく突き崩されてうろたえるパパのジーク(マイケル・アボット・Jr)に向かって、すまなそうにそう言うのである。それに対して、そんなことないわと言うママのリディア(ヴァージニア・ニューコム)にかぶせるように、そうだよ!とジークは言い放つのだけれど、よくよく思い出してみれば、劇中でジークが自分の家族に対して暴力や暴言といった暴な感情に振れるのはこの時だけで、自分の蒔いた取り返しのつかない種をリディアになじられ平手打ちをくらいながらも、彼女の逆鱗に触れて硬直したジークは、おぉ、とか、うぅとか呻きながら立ちつくすばかりだし、どつぼに嵌って進退きわまり感情が内爆した時ですら彼は電気スタンドを殴って壊す“フリ”をするだけで、その後ついに自らガラスを殴りつけて自爆はするものの、彼は窮地の只中であってもウェイトレスに対するアール(アンドレ・ハイランド)の失礼なふるまいを諌める男だし、最後に修羅場から遁走したジークがどこに向かって何をしたか、本来の彼は愚直なまでにピースフルな人間で、彼とアール、そしてディック・ロング(ダニエル・シャイナート)に共通するその愚直を超えた愚鈍と無邪気のためにディックは命を落とすにしろ、死ななかった2人が得た呼称は“人殺し”ではなく“変態”であったことが、全体にわたって振り上げた拳の行き場のないこの映画の途方に暮れっぷりを象徴していたように思うのである。そしてしその振り上げた拳は、町にいられなくなったジークとアールが場末のモーテルでニッケルバックの「ハウ・ユー・リマインド・ミー」を、自己憐憫する変態のテーマ曲としてがなりたてた瞬間、何とも情けない呆れ顔で夜空へと消えていくのである。もちろんジークという人間は、ステーションワゴンはゲイっぽいからいけてない、とかいう言葉を自分を棚に上げつつさらっと言ってしまうくらいには社会に対して無知で無頓着な男だし、―もちろんここでカメラは警官ダドリー(サラ・ベイカー)の表情をうかがうことを忘れない―、彼らにとって馬と姦ることは、大麻を吸ったりピンク・フロイトとかいう冴えない名前をつけたバンドでミュージシャンのマネごとをすることと変わらない人生のあるかなきかのアクセントに過ぎないにしろ、モラルや倫理のハードルの著しく低い彼らですらが慌てふためいて秘密にすることで、その行為の異常性というよりは彼らの尊厳に対するワタシたちの寛容が試されている錯覚すらしてしまうし、彼らを微罪にしか問えないことにいきり立つダドリーをやんわりとなだめるスペンサー保安官(ジャネール・コクレーン)の言葉は、どこかしらキャンセルカルチャーに対する鷹揚としたディフェンスであったようにも聞こえたのだ。しかしながら、感に堪えぬようにダドリーが口にする「人間って計り知れないものですね」という言葉に甘えてこの奇人変人ゴングショーを苦笑いで閉じてしまいそうになるところを、その計り知れない人間を夫として愛した妻たちの悲劇を忘れるなとばかり、ディックの妻ジェーン(ジェス・ワイクスラー)の慟哭を今作で最も美しくも切ないショットに仕立てて監督はインサートするのである。『スイス・アーミー・マン』がそうであったように、楽園などそこから追い出されるためにあることをいい加減キミたちは知るべきだとでもいう親切めいた口ぶりで全員を地獄へ向けて蹴り出す監督ではあるけれど、最期の時が来るまで自分たちが地獄にいることに気づかないであろうジークとアールにとって、楽園からの追放は新たな楽園に向かう旅立ちですらあるというどこか救済めいたエンディングに、ならばもうこの監督の性根を信じるしかあるまいと次はどんな風に不謹慎な死体を連れてくるのか手ぐすね引いて待つことにした次第である。それにしても、自分たちの曲があんな風に使われることにニッケルバックはよくOKを出したもんだと感心すらしたのだ。だってニッケルバックだものと言われればそれまでにはちがいないけども。
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2020年08月10日

悪人伝/その男、頑丈につき

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ピカレスクやアンチヒーローなどと言ってみるよりは悪漢といった方がより滋養が滲むというか、ことマ・ドンソクのアイドル映画とあってはそれがふさわしいように思うのだけれど、白石和彌が局所的に踏ん張っているとはいえ、プログラムピクチャー的なやり逃げの爽快と痛快を伴う邦画にはとんとお目にかからなくなったなあと、特にマ・ドンソクの大暴れする映画を見るたびに思うことたびたびなのである。政治にしろ社会運動にしろ韓国からのニュースでしばしば感じる転覆の気配とそのダイナミズムがもたらすのが、世情の不安定なのかあるいはパラダイムシフトによる活性化なのかそれは様々であるにしろ、そうしたオプションのない社会が当たり前のように馴らされてきたこの国では、悪漢がアンチヒーローとして跋扈する世界観というのはファンタジーとしての大きな目盛りが必要になって、それを回す手間ひまは娯楽にふさわしくないと判断されてしまうのだろう。だからワタシたちが、かつて存在したノスタルジーとしての悪漢ではない、今のこの世の中で大暴れする悪漢を見て快哉と昂奮を叫ぶとするなら、マ・ドンソクを一発打ちこむのが効き目といい即効性といいまず間違いがないということになる。今作では三すくみのアンサンブルに自らを押しこんでいるようでいながら、基本的には“気は優しくて力持ち”のバリエーションでのしあがってきたマ・ドンソクが、ここでは気は優しくての部分を侠客の矜持で、力持ちの部分を刺されようが轢かれようが起き上がる不死身の肉体で代弁する役得、そして何より人間としての度量をその肉体の輪郭と質量にトレースする造形の完璧さで、語るというよりは魅せるためのストーリーが幾重にも踏み抜く奈落の底を支え続けてみせるわけで、現状ではマ・ドンソクの気は優しくて力持ちマーケットを脅かす競合がいないことおよび、その卓越した自己プロデュース能力を考えると、彼の独り勝ちはこのまま続いていくことになるのだろう。マッシヴな突進で蹴散らすばかりかと思いきや、殺人鬼(キム・ソンギュ)が逃げ込んだカラオケ店のブースを探す中、怯えながら歌う客を小窓から見つけ、身ぶりで彼女たちに退避を促しながら奥のドアをぶち抜いていく静から動への細やかなアクションも存外に魅せて惚れ惚れとするし、面影に大和武士を想い出した刑事役のキム・ムヨルはじめ、ホッピー神山のようなサンドの副官など、たぎる者はたぎり続け、卑しい者はひたすら卑しく狡猾な者は地獄の底まで狡猾に、見ればうなずく劇画機能的な貌の面々にも唸らされることとなる。ドンスがナイフの刃を鷲掴みにして殺人鬼の動きを止めるシーン、松竹セントラル前での北野武vs白竜戦を想い出して少しだけ目をすがめたりもした。
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