2020年03月23日

テリー・ギリアムのドン・キホーテ/リドリー・スコットにならなかった男

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オリジナル版では17世紀にタイムスリップするはずのトビーをせいぜいが十数年前の記憶の中へ呑まれていくにとどめる改変に、コスチュームプレイをやりきる予算も自身の胆力も既にあてにならないがゆえ、そこで手を打つしかなかったのだという戦術的撤退が瞭然と透けてしまうし、トビーというよりは彼を演じるアダム・ドライヴァーの肉体とアクションの存在感を頼りに、シナリオにはトビー怒る、トビー困る、トビー笑う、トビーバイクに乗る、トビー歌う、トビー踊る、トビー走る、トビー殴る、としか書かれてないのではなかろうかと思ってしまうくらい、どんなカットにもギリアムの情報が記されてきた彼の作品にしてほとんどアダム・ドライヴァーの記憶しか残っていないことに、『バロン』を終わりの始まりとするテリー・ギリアムの緩慢な終焉の物語がついに幕を閉じた気もしてしまうのだ。もはや想像力で闘うことを鼓舞するよりは遁走をすすめるモードにあることは『ゼロの未来』でもうかがえたとはいえ、すべてはこの物語のための雌伏の時なのだろうと考えた時期もあっただけに、我々は昏睡に見る夢の中で生きて行くしかないのだとするラストが洒落や諧謔でない心情に映ってしまうのが、もう俺をあてにしてくれるなというギリアムからの訣別にも思えてしまったのはともかく、それを特に感慨もなく受け入れた自分とそれを意外に思わなかったこと自分に少しだけ驚いたりもしたのだ。本来がストーリーテラーというよりは幻視の人で、この物語の時代、しかもそれがポストを果てなく重ねて透け始めたモダニズムが実体化のために求めた側(がわ)の物語とあっては、ロマンチストたるギリアムが徒手空拳となるのは必至だし、それゆえの妄執にも似たドン・キホーテへのシンパシーを抱きつつもうどこにも先がないことを受け入れる負け戦のロマンを謳おうにも、哀しいかな肉が落ちて痩せぎすの映像は自虐のメランコリーにしか映らなかったのだ。これで憑き物が落ちたとして、ギリアムにとっては『ローズ・イン・タイドランド』がセルフパスティーシュに陥ることなく時代と折衷できる幻視のサイズだと思っているので、撤退するならそちら方面を目指してくれればとその幸福を願ってやまないのである。デ・パルマもそうだけれど、ロマンチストかつヴィジョニストにとっては受難の時代であることはまちがいないだけに。
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2020年03月20日

ジョン・F・ドノヴァンの死と生/ぼくの次に世界が幸せになりますように

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ラストシーンでの無邪気と言ってもいい憧憬にあふれたタンデムに、ドランがこれまでの作品でしたきたように自分を切り刻んで投影させることよりはフィクショナルな主人公の行動と感情によって翻訳された物語を綴ること、すなわち外の世界を借りることで内の世界の強度を高める汎用的な作家性の獲得を先駆者ガス・ヴァン・サントをモデルに果たそうとする視点を見たようにも思えたし、そう考えてみればこの映画の外と内、青と赤、冷静と熱狂の歪なバランスの理由が納得できるような気もしたのである。いつになくプロフェッショナルな記号をまとった役者を配置してその側(ガワ)によって虚構を均しつつ、しかしそれをコントロールしてしまう自分を自分で信用できないせいなのか、ところどころそれを自ら踏み荒らさずにはいられない自分に向けた意地の悪さが映画をあちこちで断ち切ってしまっていて、とりわけ、ジャーナリストであるオードリー・ニューハウス(タンディ・ニュートン)が成人したルパート・ターナー(ベン・シュネッツァー)にインタビューする現在パートの座りが最後まで落ち着かないままで、本来は政治がメインの“シリアス”なジャーナリストが、ハイプなショービズ絡みの仕事を見下して気乗りのしないまま彼に向き合うという設定が既にオードリーの不利を誘っていて、その瞭然を当然のように見抜いたルパートが、個人の尊厳が踏みにじられるという点であなたが取材してきた世界の格差と僕のこの話のいったい何が違うというんだとここぞとばかり責め立てるわけで、このあたりは、これまで極めてパーソナルな表象としてそうした差別と断絶を描いてきたドランの鬱屈をぶちまけていたように思えてしまうし、ジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)とルパートに立ちふさがるのが、ジョンの母グレース(スーザン・サランドン)や彼のマネージャー(キャシー・ベイツ)、ルパートの母サム(ナタリー・ポートマン)、そしてジャーナリストのオードリーといったみな女性たちであって、これまでずっと母殺しとしての母親との関係が作品の背骨となってきた定型に対する批評からの指摘に向けた回答なのか開き直りなのか、そのいささか偏った対立構造が、目指したはずの普遍化を妨げてしまっているようにも思えてならない。しかもこれに加えて、出演パートがすべてカットされたジェシカ・チャスティンまでが女性連合に加わっていたわけで、彼女の役がルパートやジョンのどちら側にどんな風に立つ人なのかはわからないけれど、どうせ破綻するのであればそのさらなる爆風に吹かれてみたかったと思ってしまう。すべてはオードリーを前に自分とジョンの過去を語るルパートの回想であることを思ってみると、果たして彼は信頼できる語り手なのかという疑念も湧いてくるわけで、このすべてはルパートがそうあって欲しいと願い再構築したジョン・F・ドノヴァンの死と生の物語だとすれば、女性たちのいささか一面的で図式的な描かれ方にもうなずける気がするし、ジョンをある種のイマジナリーフレンドとすることで自身の尊厳を維持し続けたルパートの旅立ちと訣別の物語だと考えてみると、外の世界に向けて走り出す幸福の予感だけに彩られた明快なラストに拍子抜けすることもないわけで、それはおそらく、自分には開かれたハッピーエンドを語ることが可能なのだろうかというドランの実験結果ということになるのだろうし、ならば必要なデータは充分採ったように思う。ほとんどセリフすらあたえられないジョンの仮初めの彼女はその傷を誰が癒やすのか。ドランがすべての人たちに血を通わせてしまう分だけ残酷は捨て置かれる。
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2020年03月15日

レ・ミゼラブル/大人たちを夜露死苦

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ワールドカップの優勝に歓喜する人々を、その感情の奔流に同調するでもなく見つめるカメラと、つかの間解放された肉体の群れを不穏に彩る音楽とで捉えたアヴァンタイトルが、あそこにいた幻想としての「フランス国民」と現実との分断を既に告げていたようにも思え、あの群衆に内在する暴力的な矛盾を抽出して純度を高め、それをたった一人の少年に射ちこむラストへの苛烈な円環を為すすべもなく茫然としかし目をそらさずに見つめることを要求する監督の、せめてこれを第一歩としない限り誰もどこへも行けないのだという祈りにも似た悲痛な願いだけが、この映画にほんのわずかながら残された救いの余地ということになるのだろうか。もはや分断のバランスそれ自体が機能不全という機能として存在していることの象徴が市長(スティーヴ・ティアンチュー)であって、彼にとっては分断を煽ることで生じる隙間こそがビジネスであり、ムスリムとしてコミュニティを精神的に束ねるサラー(アルマミ・カヌーテ)を敵視するのはその障害であるからだし、自嘲気味にピンクの豚を自称する白人警官クリス(アレクシス・マネンティ)は白人vs非白人の構図に骨の髄まで倦んでしまっている一方、彼のラインに乗って分断を泳いでいくしか警官として生き延びる術がないことへの諦めと抵抗とで実は溺れる寸前でもあるグワダ(ジェブリル・ゾンガ)の、それゆえの曖昧と不安定が分断のバランスを破壊してしまう点においてこの状況の地獄のような救いがたさがいっそう浮かび上がってくることとなる。分断を悪しきことと断罪し善性の光で照らそうと砕身するステファン(ダミアン・ボナール)の、倫理と常識が打ちのめされ怒り悲しむ姿にぬぐえない無力感は彼がワタシたち観客の視点としてそこにいるからであって、ロマのサーカス団長がイッサ(イッサ・ペリカ)を彼なりの愛情をこめて手荒くしつけるシーンで、余裕なく縮み上がり拳銃を抜いたステファンへの嘲笑に感じる居心地のわるさは、それがロマの知る境界の向こうを何も知らない能天気な“善い人”に向けられたもの、すなわち彼を通してワタシたちに向けられていたからこその気恥ずかしさであったようにも思うのだ。ならばあのラストで、さあお前はいったいどうするつもりだと決断を突きつけられるのが市長でもクリスでもグワダでもないステファンであった点で監督がワタシたちを逃がすつもりなど一切なかったのは言うまでもないし、年端もいかない子供に自分たちが今までしくじってきたすべてのツケを回し、なおかつ悪魔的で残酷な精算を迫る大人たちに対してすべての子供たちから下された鉄鎚を避けるすべなどあろうはずもなかったのだ。子供のノンシャランで日々をやり過ごしていただけのバズ(アル=ハッサン・リー)が、大切なドローンを失ったことで淡い恋までも失ったことを知る青い寂寥をたたえたシーンは、分断の場所に生まれたというそれだけで否応なしに政治的な存在になってしまう子供たちの呪いをたったワンカットで語ってみせて、エピローグで引用される「レ・ミゼラブル」の一節とともに、すべての人種も政治も宗教も超えてこの世界のすべての恐怖と悪意と憎悪から守られるべき弱者が誰なのか、殴ってでもわからせるつもりで監督はこの映画を撮っている。
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2020年03月12日

スケアリーストーリーズ 怖い本/書かずに死ねるか!

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アンドレ・ウーヴレダルという監督の、怪異はあくまで手段であって目的ではないというトータルのバランスを見通す視点の深度と強度があればこそ、ジュヴナイル・ホラーだからといって、オカルトで道に迷わせホラーで閉じ込めてテラーで破壊するその手順に手心を加えるはずもなく、永遠にイノセンスを失うことをアメリカが受け入れた1968年という年のハロウィンに、ステラ(ゾーイ・マーガレット・コレッティ)という少女のイノセンスの喪失と自立とをそこに重ねることで、通過儀礼の物語を未知への恐怖と痛みとで彩ってみせたのである。暗い時代への予兆を彼方にしつつ、夜を超えた自身への確信を胸に旅立つラストはどこかしら『アメリカン・グラフィティ』の刹那的なオプティミズムに通じる香りすら漂わせた気もして、懐古趣味を裏返して普遍に封じるあたりはギレルモ・デル・トロの気配も見て取れるし、そこまでを嗅ぎ取りつつ正統なジャンル・ムーヴィーに幻視する地肩の強さをウーヴレダルに見てとったデル・トロの慧眼はさすがとしか言いようがない。ウーヴレダルが備える正解の一つは遅さの認識だろう。それはナイフで切り刻むのではない鉈で断つ恐怖の追求といってもよく、なにしろ彼の映画ではメタファーではない恐怖がきちんと視えるというかそれを視せることで物語が疼くように変調をきたすわけで、それは恐怖を精確にヴィジョンし目眩ましのカットやスピードを必要としないからこそ可能なスペクタクルであって、今作のようなジュヴナイルでは特にその歩幅が十全に奏功したように思うのである。こけつまろびつしながら立ちはだかるかかしのハロルドの圧力や足指なしが廊下の奥から角を曲がってゆらり現れる時の溜めは言うまでもなく、今作のモンスターではいささか性急な気配のあるジャグリーマンについては、屋外に飛び出してラモン(マイケル・ガーザ)を追撃する瞬間、いったん引きのカットにしてシークエンスをなだめているし、その巨体ゆえ遅々としか動けぬ青白い女がチャックを追い詰めるシーンでは、軽快と言ってもいいカットバックを多用することでモンスターの圧力を絶望に変える新機軸を見せさえするわけで、まだこんなアイディアが残っていたのかと舌を巻きつつ、たいていの嫌な目には免疫があるはずが、こういう目に遭うのはちょっと嫌だなあと思いがけずワクワクした気分で没入(=ジャック・イン ©黒丸尚)したのだった。アンドレ・ウーヴレダルとマイク・フラナガンがいれば界隈の未来は明るいにちがいない。
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2020年03月10日

ドミノ 復讐の咆哮/世界は泣き別れている

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窃視の角度に据えられたカメラによって生贄がクリスチャン(ニコライ・コスター=ワルドー)であることが宣言され、サイドテーブルに置き忘れられた拳銃をカメラがズームすることで益体のないゲームがそっとスタートする。彼が追いつくか逃げ切るか、生贄となった彼にとってはその存在を賭けたゲームに他ならないにしろ、主催者にとってはいつもの暇つぶしでしかないわけで、ここはひとつ趣向を変えて君たちにも分りやすいドミノ効果を用いることで、ある一つの世界線を見せてあげようではないかと主催者は手ぐすねを引きつつ上昇と落下を螺旋にまぶし、分割した時間を得意げに敷き詰めては世界の成り立ちをその断面で二次元化していくのである。それが偶然か必然かなど無い知恵絞った頭のカスを片付けてから言いたまえ、時間を逆回ししてみればすべては一連なりであることが瞭然ではないかとうそぶく光と時間の支配者にしてゲームの主催者デ・パルマにあらかじめ選択肢を奪われた男クリスチャンは、世界にかしずく小市民の常として偽装された自由意志を燃やしては知らず誘導路をひた走り、ただただあの屋上を目指すのである。そうやって彼が成し遂げたことと言えば、ひとつの思惑を葬るかわりに新たな思惑の誕生を祝福することでしかなく、それをニヒルなどというのは君たち特有の感傷であって、世界は絶えずアップデートされていることになぜ気が付かないのだと、既にしてデ・パルマはその結末に興味を失っているのだ。いくつもの交錯する視点が身悶えするようにより合わされることで形をなす世界の変形と奇形をあげつらったところで、モルワイデ図法とメルカトル図法のどちらもが地球を投影していることに違いはなかろうよと意に介さない地図製作者の業こそが、デ・パルマを巨匠サロンから蹴り出したのは言うまでもないことは、テロリズムという縮尺で投影したこの世界地図の恍惚と酩酊とを見れば瞭然だろう。あれほど呆れ果てて立ち尽くすガイ・ピアースをワタシは見たことがない。
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2020年03月08日

初恋/みんな〜殺ってるか !

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開始早々のゴロリに放蕩息子の帰還を喜ぶというよりは、今さらこういう露悪をカムバックの証だと考えているのなら、少し肩透かしくらうかもなと思ったのも束の間、その直後、加瀬を演じる染谷将太の拗ねた天使のような顔つきを見たことで、ああこの役者がこのラインで進むつもりでいる映画なら望みのものに違いないと合点し、三池映画なればこそあふれだす度外視の時間を、懐かしさのその分を手練れの円熟としてその帰還を歓迎した次第となった。とはいえ、これくらい条件さえ整えばいつでも撮れるから単純に状況の問題だし、それを帰還とか言って俺があえて遠ざかってみたいにされるのは心外だけどな、とでもいう余裕と笑っていない目つきのないまぜを感じたのも確かなところで、むしろその不在に首をかしげるべきではあるのだろう。これ、やっちゃっていいんですね、という俳優の共犯性を匂わせることによる解放区の演出という、そうそう誰にでもゆるされない方法をなぞっては玉砕してきた死屍累々を散々目にしてきたとはいえ、この映画がその復権を謳い上げたというよりはどこかしら感傷めいた口ぶりを隠していないのは三池崇史の冷静な現状認識であった気もして、葛城レオ(窪田正孝)とモニカ/桜井ユリ(小西桜子)という若き逃亡者を助けるのが、権藤(内野聖陽)とチアチー(藤岡麻美)という実質的なアウトサイダーたちだけに宿る仁義という失われた矜持であったことに、撤退戦を生きるしかない世界の哀しみと閉塞を二重に捉えたように思ったし、だからこそラストシーンに差す仄かな幸福の明かりをハッピーエンドとする精一杯に誠実すらを感じたりもしたのである。かつてであれば、全面展開したであろう2度ほどあった頭部破壊はショットの影に隠れ、排泄とわいせつの露悪も狂乱の息づかいのうち!という悪ノリや悪ふざけも前述した映画のトーンを維持するために鳴りを潜め、かつてまみれた悪食の愉悦という点では退行に映るかもしれないけれど、たとえば自身のイメージで許されるイージーさを逆手にとった、例えば通りすがりの酔っ払った看護師に状況説明させてしまうでたらめによるオフビートの出し入れは巧妙だし、「おれの部屋に来るか」とレオがユリに言った直後にベッドシーンを想像させるシルエットのカットをインサートしつつ、実はそれがクスリを抜くユリの悶絶であったという意地の悪さなど、そんな風に真顔で嘘をついて舌を出すたちの悪さこそが、ワタシの思う三池崇史の嫡子たち、例えば白石和彌が手にしていない一点であるようにも思えるのだけれど、ここで三池崇史が久しぶりに見せた気兼ねのなさがクレジットに名を連ねるジェレミー・トーマスの豪腕のいくばくかによっているのだとしたら、では誰が未来のジェレミー・トーマス足り得るのかという別の行き先も示されてしまうわけで、それはそれで遠くを眺めねばならない気もしてしまうのだった。
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2020年03月04日

1917 命をかけた伝令/この血がきみにつかないように

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あるいはこうした僕の考え方も、すべてある憂鬱と狼狽にすぎないかもしれない。もしふたたびあのポプラの樹の下に佇み、あの葉のそよぎに耳を澄ますときは、ほこりのように飛んでいってしまうものかもしれない。” レマルクの「西部戦線異状なし」でパウルが戦場の漂泊の末にたどり着いた透明な虚無に思いを至らせるこのパラグラフを、映画のラストはそっと引用したようにも思ったのだ。ただ、ウィリアム・スコフィールド(ジョージ・マッケイ)にとって、この日の戦いはドイツ軍を相手にしたというよりはパウルが喰われた虚無との戦いであったに違いなく、大戦最大の激戦となったソンムの戦いを生き延びて勲功のメダルを与えられたスコフィールドが戦場で失ったものは、おそらく人間の尊厳でありそこから湧き出す光の感情であったのだろう。メダルなんか持ち帰りたくなかったからフランス兵が持っていたワインと交換してしまったよと吐き捨てるスコフィールドが最後まであの写真を取り出すことをしなかったのは、汚れてしまった自身の手でそれに触れることができなかったからであるようにも思えたし、彼が心の底から自身を賭けて走り出したのは、トム・ブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)がスコフィールドの手放した光を見る人であったがゆえ生命を落とした、その瞬間からであったのは言うまでもないだろう。したがって、ディーキンスのカメラがウォームアップを終えて解き放たれたステップを踏み始めるのはトムの死以降となるわけで、カメラはまるでトムの意志が乗り移ったかのようにスコフィールドを追走し回り込んでは彼を鼓舞し続けるのである。伝令の役目を果たしたスコフィールドが、トムの兄ジョセフを探し出して遺品を渡し握手した瞬間カメラはそっとジョセフの隣へと歩を進め、そこに至ることでトムは、家族の写真をその手にすることを自らに許したように思うのだ。ここには血で血を洗う戦場の凄惨はないけれど、戦争の虚無に喰われかけた男が浄化を果たし再び心に明かりを灯すに際し3つの生命を奪うことを求められそれに応えざるを得なかった背反こそが戦争という矛盾そのものであるわけで、カメラの解放というよりはさらなる抑圧でしかない長回しの呪縛こそがその苦々しさそのものであったのだろうと考える。やむをえないとは言え、ワンカットの技巧をことさら喧伝することが必要な映画ではないと思う。
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2020年03月01日

ミッドサマー/夜がこんなに暗いはずがない

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私が求めているのは共感ではなく理解なのだと、上滑りする世界との軋轢にすり減っていくダニー(フローレンス・ピュー)の生き地獄に、むしろ出発前のアメリカパートで口の中が乾ききってしまう。鏡越しの会話に明らかなようにダニーとクリスチャン(ジャック・レイナー)の関係はもはや破綻しているにも関わらず、別れを切り出した方が悪人になるというチキンレースが互いのささくれを増やしていくばかりで、のどに刺さった小骨をひとつピンセットで取り除いては別のところへまた一つそっと突き刺していくものだから、痛みは常に更新されて生々しいままでしかない。この共感と理解の殴り合いというのはSNSが明るみに出した虚しく苦しい闘いであるのは言うまでもなく、理解を譲らないことでクリスチャンの側からは徹底して面倒くさいやつとして描かれるダニーに、しかし被害者的な色合いを一切用いることをしないアリ・アスターの透徹した虚無が既に怖ろしい。そうなってくるともはや善か悪か正しいか正しくないかといった断罪よりは、どちらがどちらを潰すかという殲滅戦でしかないわけで、共感の野郎どもの只中に一人乗り込んだダニーが圧力に耐えきれず崩れ落ちたバスルームから飛行機のトイレへと転換した瞬間の先は、お前が私たちだけの共感に身を委ねさえすればあいつらを屠ってやってもいいが?という大いなる誘惑との駆け引きと葛藤の神経戦にも思えたわけで、ひとたび感情を爆発させるやいなや、無印良品のごとき彼や彼女が押し寄せて共に泣き叫んでは感情を無効化してしまう共感の総攻撃こそは今この世の中のグロテスクな病巣そのものにも見えたのだ。この界隈の作品をある程度見て知っていれば、ホルガ・パートの展開や描写それ自体にさほど殺られることもないように思うのだけれど、それよりは、理解不能な世界にそれでも立ち向かっては傷を負い続けるダニーを懐柔し虜にしていく光と笑顔に内在する、たとえどこまで降りていったとしても永遠に分かりあうことのないだろう光を喰らう漆黒の存在を、それを否定する理由があるならぼくに言ってみてくれないかとうっすら笑みを浮かべながら問いかけるアリ・アスターという人が、ベルイマンやハネケが常に見据えて超えることをしない、むしろ超えないための緊張を作品の強度とした一線の先にあらかじめ居る人なのではなかろうかという気もしてきたのである。もちろんそれは先進とかそういった意味ではなくあらかじめその領域に在る人であったということで、そことこちらとの行き来による振幅をあてにしない点で極めて特異な作家であるのは間違いのないところだろう。したがって、こちらの世界で全面展開するあちらを描いた前作『ヘレディタリー』および今作の出発前パートから、あちらの世界で展開するあちらへの全面移行を果たしたホルガ・パートはアリ・アスターにとってチャレンジだったのは言うまでもないのだけれど、それゆえの奇妙な調和がもたらす破綻のなさが、たとえば街中で時おり見かける、自転車を手放し運転する人の真顔のイージーに収束していた点である種の飽和点に至ったように思えたりもした。アリ・アスターは『回路』を観ていつかあれをこの手でと決めていたのだろうか。しかしそれよりは、うっすらと赤みさすジュースの恥じらうような禍々しさよ。
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2020年02月21日

屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ/影が光りを喰うところ

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これがブコウスキーであったなら「粗にして野だが卑にあらず」とでもいう屈託に沈む日の黄昏をメランコリーに綴る物語にもなり得たところが、このフリッツ・ホンカ(ヨナス・ダスラー)という男というか生き物は、目盛りの粗い日々に野良犬のごとき卑屈にまみれつつ野生動物の直截な本能に衝き動かされた結果、アルコールとセックスだけが彼を人間社会につなぎ止めていたようにも思われて、殺人という行為が、ホンカにとっては何の意味もない社会と彼との間に生じる存在の誤差に過ぎない点で彼に快楽殺人者の美学も切実も備わるはずもなく、ならば死体などシュナップスの空き瓶や汚れた皿、吸い殻の溢れる灰皿と同じ日々の塵芥に過ぎないわけで、最初は真夜中に人目を忍んで捨てに行ってはみたものの、その手間に嫌気がさしたあげく自宅収納としてしまうあたりの脈絡を丁重に描くことで、監督はホンカに人格を植え付けることに成功している。思わず丁寧ではなく丁重と書いてしまったのは、映画の原題(”Der Goldnene Handschuh=The Golden Glove”)となっているバー「ゴールデン・グローブ」に集う客たちの「粗にして野かつ卑」な精神と生態を水平に活写する筆さばきの細やかさと温もりのある光の当て方こそが監督のヴィジョンであったように思うからで、それはホンカを見る人、ホンカに見られる人、ひいてはホンカに殺される人すべてが人格を備えた存在として描かれることにより、最終的に「ゴールデン・グローブ」へとたどり着いた彼や彼女たちの人生を肯定していたように思うのだ。何も注文しないなら店から出ていけと言われた文無しのお婆さんに、自分にしたところでさして余裕があるとも思えない女性が飲み物を注文してやるシーンの穏やかな交歓や、決して一線を越えることのない客同士の打ちつけるような甘噛みは、そこに自虐や被虐、自己憐憫の情動は一切ないし、ジャングルクルーズの気分でバーを訪れたブルジョアな若者への痛烈なしっぺ返しは、おれと同じ人生を歩んでなお酒を飲む金を持っていたらここへ来るがいいという矜持の現れにも思えて、ホンカも含め第二次世界大戦が産み落とした私生児としての彼や彼女たちを、ファティ・アキンはこれまで彼が見つめてたきたのと同じ視線と視点の角度で生かしたり殺したりしていくのである。それだけに、一度は酒を絶ちまっとうな仕事についたホンカが、酔って人生の屈託を吐露する職場の女性ヘルガ(カティア・シュトゥット)に促されてついには酒を口にしてしまい、再び転げ落ちるように瓦解していくペーソスの救いのなさは残酷ですらあるわけで、バラバラにした4人の女性を部屋のあちこちに隠したまま粛々と日々を営む殺人鬼に対してすらそう思わせる世界の引きずりおろし方こそは、世界に負けを背負わされた人間の見る光景を翻訳するこの監督の真骨頂といってもいいだろう。何より殺された彼女たちはみな、殺されるその時まで確かに生き続けていたのだ。この映画を観ていて最初に頭の中で繋がったのは、Anders Petersenの”Cafe Lehmitz” という写真集で、1967年に当時20歳だったスウェーデンの若者がハンブルグの場末でカメラを抱えて彷徨した夜ごとを安酒場“Cafe Lehmitz”を舞台に焼き付けたモノクロームの覚え書きは、この酒場の外では一体どう生きているのか想像も難い真夜中の人々に向けた透明で均質な視線に貫かれ、深夜の気高さを纏った人々をしてまるで鏡でも見るかのようにカメラのレンズを覗き込ませていて、それはまさにこの映画が持ち得た眼差しをそのものだったように思うのだ。トム・ウェイツのアルバム「RAIN DOGS」でカヴァーとして使われたのがこの写真集の中の1カットで、ワタシもそこから遡って虜になったのだけれど、突然昔懐かしい知己に出会った気がして少しだけ脈が早くなってしまったりもした。おいそれとは薦められない空気と描写の映画ではあるけれど、『女は二度決断する』を観て血が逆流した人なら覚悟ができていると思うので是非。


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2020年02月14日

ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密/キャピタル・アメリカ:ノー・タイム・トゥ・ライ

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※当然のごとく展開に触れています

マルタ・カブレラ(アナ・デ・アルマス)は家政婦というわけではないけれど、『マダムのおかしな晩餐会』『ROMA』そして『パラサイト』と続く、持つ者が持たざる者の価値を決定する社会への中指をさらなる持たざる者としての女性がつきつけるサスペンスを解とするミステリに、かつてあったものの失敗と退場だけでできあがっていた『最後のジェダイ』のことがふと頭をよぎりつつ、希望とは善くあることを望むことだと皮肉や絶望を封じ込んだ『ルーパー』にまで思いを馳せてみれば、ライアン・ジョンソンと言う人が常に変わらぬ気分で彼方の光を見つめていることをあらためて確信したのだった。誰がなぜどうして?というミステリをミステリたらしめる要素それ自体は刺身のツマだと言わんばかりに早々と投げ出され、慇懃無礼な紳士探偵ブノワ・ブラン(ダニエル・クレイグ)は、マルタの備えたある重要な2つのポイントを頼りに彼女を補助線とすることで、謎解きというよりはいわば人間性テストの仕掛け人としてスロンビー家の寄生虫をあぶり出していく。とはいえ下衆をおちょくることに生きがいを見出しているかのようなこの探偵が途中経過的な素ぶりを中盤以降見せなくなることもあり、おそらくはこれをマルタの闘争とするためのさじ加減ではあるのだろうけれど、では伏線も使い果たした一本道のその裏でいったい何が進行しているのか、そもそもこの物語はどこへ向かおうとしているのか、その目隠しされたような曖昧がサスペンスを持続させるという摩訶不思議なミステリが展開されるわけで、本人いうところの“ドーナツの穴”に徹するこの探偵のややこしいチャームがあればこそ、まるで隣のレーンのピンを全部なぎ倒すような逸脱したミステリをアクロバットのように着地させた気がしたし、そのある種のでたらめさは原作脚色ものでは不可能な味わいと言ってもいいだろう。その最たるものと言っていい、嘘をつくとゲロを吐いてしまうというマルタの特性を思いついた時点でライアン・ジョンソンは小さくガッツポーズをしたのだろうし、おかげでマルタは4回にわたりゲロを吐くことになるどころか、目の前でいきなり植木鉢に吐くマルタを見て「文字通り吐くとは思わなかった…」と感嘆するブランの図から始まり、ついにはとどめのゲロをぶっ放すことで見事に円環を閉じる離れ業に、アカデミーはよくぞこの脚本をノミネートしたものだと、その闊達が『パラサイト』への底抜けの祝福を誘った気もしたのであった。それにしても、誰も殴らず銃も撃たず車すら運転しないアメリカの探偵となるとそうそう記憶になく、ホームズはともかくポアロまでがマッシヴなヒーロー化することで隠さないフランチャイズへの貪欲をせせら笑うようなこの探偵はそんな昨今にあっては新たな発明といってもいいのだろうなと思っていたところが、どうやらスタジオは探偵ブランの次作にGOを出したようなのだけれど、よくよく思い出してみればこの事態を解決に導いたのはマルタと彼女の善きゲロのおかげであったことに気づくわけで、ならばいっそのことマルタをワトソンにしてしまえばいいのではないか、彼女の能力を外部感応型に改良するくらいライアン・ジョンソンなら朝飯前だろうと煽ってみておくことにする。南部なまりでフレンチネームの探偵とプランテーションの地主のような屋敷、そしてスワンピーなストーンズとくれば、ラストシーンの逆転の構図がさらに味わいも増すわけで、そうやってアメリカを解放していくのだろう探偵ブランのさらなる活躍を楽しみに待ってみたい。
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2020年02月05日

リチャード・ジュエル/ドーナツの穴があったら入りたい

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リチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)が犯人でないことなど観客であるワタシたちは百も承知であるにも関わらず、監督はワタシたちが彼に対して苛立ちや侮蔑の気持ちを抱くよう、まさにその一点のために微に入り細を穿つ手管を駆使して止まないのである。もちろんそれは、キャシー・スクラッグス(オリヴィア・ワイルド)による記事が喚起し醸成していくリチャードへの悪意を観客までも巻き込んで再現していく試みであるのは言うまでもないのだけれど、ここ最近のイーストウッド作品の、主役以外はみんな書き割りで済ませてしまう憑き物の落ちたような執着のなさもあって、いきおいリチャードの情動のみがこちらを直射し続けることとなり、してみるとそれはもはやメディア論であるとか衆愚の時代であるとかいった告発の筆というよりも、社会に追い詰められた人はそれが偽物/偽者だと心の奥底でわかっていても信じるふりを許してくれるものを信じてしまうのであって、その上っ面をもってそうした人々を蔑んだり理解を止めてしまうことの愚かしさを今さらながら説いているようにも思え、そんな風な映画を撮って大統領選を控えた年に公開することの意味を、それを知るべき人々は知るべきであるというイーストウッドのメッセージに思えたりもしたのだ。リチャードに訪れるエスタブリッシュと訣別することで独立した個人となる瞬間は、リバタリアンとしてのクリント・イーストウッドの揺るぎない信念にちがいなく、30〜40代の低学歴の白人という現在のアメリカで下層に追いやられる人たちのプロフィールを集約したようなリチャード・ジュエルが主役となる題材を選んだのも、その投影としてコントロールしやすいキャラクターだったからなのは間違いがないだろう。では、本来であればトランプの支持層となるはずのリチャード・ジュエルがリバタリアンとして覚醒したあとでどこに向かうのか、まずはアメリカの「リチャード・ジュエル」を正面から理解しようと務めることだと、めずらしくイーストウッドがお節介を焼いているようにも思えたのだった。書き割りとしての機能のみを要求された助演たちの中でオリヴィア・ワイルドは見事に役回りを全うしたものの、それが見事であればあるほど貧乏くじを引かされることとなり気の毒なほどである。一方でクライヴ・オーウェンの失敗したクローンのようなジョン・ハムはその木偶っぷりで役得。アメリカの無謬と誤謬を肥大した体内でシェイクし続けるポール・ウォルター・ハウザーについては、痩せたら負けという過酷なキャリアを道連れにしたネッド・ビーティ的な横断を末永く見守っていきたいと思わされた。でもこれが2010年代の事件だったらイーストウッドは本人をキャスティングした気がしないでもなく、果たして役者の振れ幅をあてにしているのかどうか、常に中央値を見つけて並べていった結果の完璧なメディアンという少々薄ら寒さすら感じる透徹した叙事はどこか彼方で流れる水のよう。
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2020年01月31日

パラサイト 半地下の家族/下を見たらきりがない

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ギウ(チェ・ウシク)がトム・リプリー的野心を独りくすぶらすピカレスクロマンではもうどこへもたどりつけない世の中なのか、という判断よりは、巧妙に水平化された世界にあってはもはや階級闘争など骨抜きにされ、革命のロマンや感傷はカリカチュアの対象にすらないことを『スノー・ピアサー』で愚痴ってしまった監督にしてみれば、金持ちは世界に、貧乏人は金持ちに寄生するそのシステム自体を共生と呼ぶ以外何があるのか、というこれまでで最も寄る辺のない結論を、それはもうにこりともしない真顔のまま導いていたように思うわけで、下降するらせんとして円環するラストでのギウのモノローグがどこかしら遺書のように聴こえたりもしたのである。実際のところ、キム家の面々が追い落として取って代わる相手は見上げたブルジョアジーの面々ではなく自分たちと同じ分け前に生きる人間たちだし、父ギテク(ソン・ガンホ)がパク社長(イ・ソンギュン)にふるう刃は、おそらくは立志伝中の人であろうパク社長が(ギテクの匂いを臭いとして嫌悪するその言葉「切干大根のにおい」「地下鉄のにおい」からして、かつてその臭いの中にあったことがうかがえる)、ギテクのみならずパク社長を地下深くから敬愛するグンセ(パク・ミョンフン)までもその臭いで全否定する品性の下劣さに対し、お前も金持ち連中に寄生してきた一人ではないかとする怒りであって、そこにあるのはもはや内ゲバの陰鬱な内圧でしかなく、おそらくはブルジョアの家庭に生まれ育ったパク社長の妻ヨンギョ(チョ・ヨジュン)の“金持ち喧嘩せず”的な健やかさを褒めたたえ、自分が追い出した前任の運転手の行く末すら案じるギテクにとってパク社長の言動は許しがたい背信以外の何ものでもなかったのだろう。一方で、そうした怒りを外部に向かって持ち得ないギウにとって、それは家族の窮状を招くことになった「計画」を持ち込んだ己に対する自罰として向かうしかなく、俺たちは「計画」を持つこと自体が分不相応なのだと撤退戦を選んで生きる父ギテクに対する反抗というよりは捧げものとしての「計画」に家族が喰われてく絶望が、ギウに山水景石を抱かせて殺人を「計画」させもしたのだろう。しかしまたしてもその「計画」が破綻することで殺戮が殺戮を呼び、しかも当のギウは死ぬことすらを叶えてもらえないという残酷こそはギウの世代と属性がはまりこんだ先の見えない地獄の象徴に他ならず、だからこそギウが夢想する「最終計画」の哀れと儚さと透明な狂気こそがポン・ジュノの怒りと絶望の上澄みに思えてならなかったのだ。そうした社会において、なお女性であることの理解されないあきらめと苛立ちとを、汚水の逆流するトイレをフタして座り込みタバコを吹かすギジョン(パク・ソダム)のニヒル一発で焼き付けたポン・ジュノの殴りつけるような幻視にもひりついて、異物との邂逅によって変容した自身が世界に踏みとどまるために差し出す贖罪、というポン・ジュノのメインラインを時々見失いすらした。いいのかこの映画をこんなにもてはやして。
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2020年01月27日

マザーレス・ブルックリン/バース・オブ・ザ・フール

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ローラ・ローズ(ググ・バサ=ロー)がライオネル・エスログ(エドワード・ノートン)の背中からそっとすべらせたその手でうなじを慈しむように撫でてみせては彼を母親の記憶に恍惚と染めていく、その伏線と回収の切羽づまったような生真面目さこそが1957年のニューヨークという鈍色のソリッドな時代に4ビートの赤い血を通わせていく。原作での“マザーレス・ブルックリン”はライオネル、トニー(ボビー・カナヴェイル)、ギルバート(イーサン・サプリー)、ダニー(ダラス・ロバーツ)の4人の孤児を総称した“おふくろのいないブルックリン”だったけれど、エドワード・ノートンはそれを、ロバート・モーゼスをモデルにしたであろうモーゼス・ランドルフ(アレック・ボールドウィン)ら権力者が弱者を蹂躙することで産み落とされる“私生児としてのブルックリン”へとさらに解題し、アメリカという国と人が抱える闇と業を普遍と捉える物語とすることでその複層の交わるところを発熱させては運命のメランコリーを疼かせてみせる。終盤にかけて拍車がかかっていくローラの反転に『チャイナタウン』のそれがよぎるだろうことを監督は隠しもしていないし、となれば目指したのはノワールのゼロ地点、せいぜいが振り出しに戻るだけの倦怠が麻痺させる昂揚であったのは言うまでもないだろう。しかし監督はラストのゼロ地点をほんの少しだけらせん状に立ち上らせていて、孤児としてあり続けたライオネルと今や孤児となったローラが互いに寄り添うことで“私生児としてのブルックリン”と新しい家族を築くであろうラストの予感は原作からの正気と希望に満ちたジャンプとなっていたし、原作では最後の一文となった「話は歩きながらしろ(Tell your story walking)」からこの映画が始まっていたことを考えると、エドワード・ノートンはこの物語を変奏した続篇として描いた気もしてくるわけで、ならばほとんど20年を要したそのアクロバットをワタシは完全に受け入れた上で、なお原作に抱くのと変わらぬ愛情でこの映画を胸にとどめようと思うのだ。そして、トランペット・マン(マイケル・K・ウィリアムズ)としかクレジットはされないものの、明らかに「カインド・オブ・ブルー」誕生前夜のマイルス・デイヴィスとしか思えないトランペッターとの忘れがたい邂逅や、ライオネルを救うために彼が台無しにしたトランペットがまるでディジー・ガレスピーの愛器のように映るあたりもまたエドワード・ノートンが内部に育てていた偏愛の表れに思えたし、この物語にどれだけ取り憑き、あるいは取り憑かれ、一転してそれを醒めた目で解いた後にいかにして自分の物語として語り始めたのか、そんな風に世界でたった一人彼だけがあきらめることなく過ぎていったいくつもの夜があったのだろうことを想うとなおさらこの映画が愛おしくなってしまうのだ。ライオネルが叫ぶいくつもの”IF!”は、エドワード・ノートンがこの映画と共にあった日々に浮かんでは消えていった数え切れない可能性への鎮魂のように響いて仕方がなかった。立てたピーコートの襟がニューヨークの屹立を透かすように睨みつけている。
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2020年01月17日

フォードvsフェラーリ/おれの車にのりたいか

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レオ・ビーブ(ジョシュ・ルーカス)がキャロル・シェルビー(マット・デイモン)に向かって「マイルズは、あれはビートニクだ…」と吐き棄てた瞬間、フォーカスがクリアになる。「フォードvsフェラーリ」というよりは「シェルビーvsビーブ」という構図に終始するこの映画でキャロルがレオと闘い続けたのは、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)という自らの肉体をラボに人間復権の臨床実験を行う男の、すなわちビートニクの体現者への憧憬と同志愛のなせるわざであったのは言うまでもなく、すでにケネディは斃れ、ヒッピーという大量生産されたビートニクの気配が忍ぶこの時代は、身体ひとつでシステムを打ち負かすアメリカの騎士を描くことのできる最後の時代でもあったのだろう。7000回転の向こう側へフリークアウトしたマイルズが疾走するミュルサンヌ・ストレートの真空のような静寂は、たとえば『断絶』のラストでドライヴァーが溶けていく虚無を想い起させつつも、しかしマイルズはそこから引き返すことを選ぶわけで、それはついに見るべき風景を見た達成感であったのか、シェルビーへの友情と仁義であったのか、あるいは永遠に思われた思春期の終わりであったのか、いずれにしろビートの天使マイルズはその翼を差し出して他者の幸福を願うことを選んだのであり、となれば、あのシフトダウンはいずれ彼を襲う悲劇のカウントダウンがスタートした合図ということにもなるのだろう。イノセンスの喪失とはすなわち死を想うことであり、本来なら映画一本が費やされるそのテーマをセリフもないたった一つのシークエンスで抉りだしてしまうクリスチャン・ベイルに、いったい役者というものはどこまで可能なのかと、自分が何の映画を観ているのか覚束なくなるくらいワタシも向こう側へと溶かされた気がして胸がこわれそうだった。スピードとは時間で、時間は生命あるものすべてを支配することを思えば、スピードに抗う者たちは束の間ドライヴァーズシートで神を演じることが可能であると同時にそれを求められることとなり、そのためには下界の合理を棄て去る必要があることを識らなければならないわけで、そのキャリアをドライヴァーからスタートさせたエンツォがフォードを醜いと言うのはそこに神の合理が宿るにふさわしいシートを持ち得ていないからだし、してみればシェルビーがフォード2世をドライヴァーズシートに縛りつけてスピードの只中に放り出した荒療治に涙を流したフォード2世はそこに神の気配を感じたのだろうし、激闘を終えたマイルズとそれを見つめるエンツォの視線が交錯する時の昂揚に絡みつく、いささかの倦怠の正体が神々の憂鬱であったことは言うまでもないだろう。妻モリー(カトリーナ・バルフ)のみならず息子ピーター(ノア・ジューブ)もまた家族というよりは同志として描くさわやかな緊張感が神話にさらなる聖性を与えてやまない。不幸な天才の屈託と苛立ちを半ば嬉々として演じるマット・デイモンがクリスチャン・ベイルと取っ組み合いをする姿に『グッド・ウィル・ハンティング』の20歳が重なって見えた瞬間、アメリカ映画という在り方になぜ心惹かれてやまないのか、それは楽観も悲観も引き受けた上で世界の最善性を問い続け試みる生き方の証明だからなのだろうと、腑に落ちる音が聴こえた気すらした。
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2020年01月10日

ロング・ショット/セックス、ドラッグ&ボーイズUメン

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理想を笑わずそして現実もあきらめない貪欲を清々しいとさえ感じてしまう時点で、ワタシたちはいい加減スポイルされてしまっていることに気づかされるし、それはグレタ・トゥーンベリが変人扱いされる世界の笑えなさとどこかでつながって、この映画から漏れ出す忍び笑いの多幸感はそんな時代を足蹴にする混じりけなしの正気をウォッカで流し込んで血管の隅々までめぐらせるその酩酊によっているのは言うまでもなく、すなわちこれが効かない相手は今後のアナタやワタシの人生から整理してしまっても差し支えないということになるだろう。どれだけ下ネタやドラッグネタでくすぐりを入れようとそれが露悪的にならないのは、そこを潜った上でどれだけ身ぎれいにして目は澄んだままでいられるかという2020年代の闘いの流儀としてそれらが描かれているからで、シャーロット(シャーリーズ・セロン)やフレッド(セス・ローゲン)の水平性と流動性が垂直性の支配に立てた中指なのは言うまでもないし、2人のロマンスを生餌に観客を誘いこむのは、すべてのシステムをカルチャーとして捉えなおすことで見晴らせる世界の広がりであって、政治もまたカルチャーであってビジネスではないと記した石つぶてをアゴを緩ませ開いた瞳孔で彼方へ雨あられと投げつけてみせる。フレッドはシャーロットによって狭量なセクト主義を、シャーロットはフレッドによってポピュリズムの轍を、それぞれがそれぞれを更新していく関係のそれゆえ避けられぬほろ苦さとそれがもたらす幸せの甘さは、この世界で人がよく生きるためのやり方が尽きることはないのだなあと、まさかこの監督&主演のコンビに人生の指針を示されるとは思ってもみなかったわけで、かつて最右翼かと思われたトッド・フィリップスがああやって一抜けしたとあっては、絶えて久しいチーチ&チョンの名跡がようやくのこと継がれた気もしたのだった。それがどれだかアメリカを痛めつけてきたかはともかくとして、ドラッグをカルチャーとして芽吹かせたその歴史こそがアメリカをアメリカという概念たらしめていることをあらためて思い知らされる。そこにとても冴えたやり方でさっと力を添えたシャーリーズ・セロンの頭抜けた嗅覚に相変わらずうっとりとしてしまう。笑う門には福来たるよ。
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2020年01月05日

テッド・バンディ/おまえももう死んでいる

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テッド・バンディ(ザック・エフロン)による凶行の犠牲となった女性たちが過ごしたであろう地獄の時間を、何らかの理由で彼に生命を奪われることのなかった女性たちは、しかしその生がある限り、引き延ばされたその時間を永遠の囚われの中で過ごさねばならなかったのだろう。なぜ自分は殺されないのか、それはテッドが私の中に彼と同じうごめきを見つけたからなのか、一度でも彼を愛した私はすでに彼と同じ悪に違いないのか、そうやって破壊を逃れた肉体の内側で精神が喰われていく緩慢な殺人をワタシたちはリズ(リリー・コリンズ)を通して追体験することとなり、既にテッド・バンディの犯した罪を知るワタシたちに、いったんそのことは頭から追い出してテッド・バンディに見初められた者の曖昧な生き地獄を共に過ごすことを強要しては、カワート判事(ジョン・マルコヴィッチ)がテッドに「きみはとても聡明な若者だし、ならば優れた弁護士としてここで私の前に現れてくれていたらと思っている」という言葉をかけた瞬間が、テッド・バンディの悪魔のような二面性とその呪いを図らずも強化してしまいさえするのである。果たしてテッドはリズを愛していたのだろうかと言えば、そもそもワタシたちの言う愛などという代物がテッドのそれを解題できるわけなどなく、それよりはお前を殺さないでいることで他の女性たちをもっとよく殺せるんだ、とでもいう彼なりのバランサーだったのだろうとワタシは考えていて、リズとの最後の面会で彼がとったある行動によって足もとから瓦解したリズを見つめるテッドの、もしかしたらおれはもう一人の女性も破壊できないかもしれないから、お前のその表情を人生のデザートにさせてもらうよとでもいうその貌に「テッド・バンディ」という記号が刻まれて完成するのをようやく見た気がした。そうやって冤罪と闘うテッド・バンディという狂気を徹底する手続きをとることで、この映画はリズやキャロル(カヤ・スコデラリオ)といった言わばバンディ・ガールズとくくられてしまう女性たちを、騙される方が悪いのではなく騙す方が悪いに決まっているのだと正当な犠牲者として描き、彼女たちの冤罪を晴らすことを願ったようにも思うのである。欲望が感情のフィルターで濾過されることなく行動に決定され、理性をその道具と従えた人間の亜種テッド・バンディを実物の倍増しのチャームで演じたザック・エフロンがほとんどキャリアハイのきらめきをみせていて、まるで洗練された教育とマナーで調教された千葉真一のようだった。『ザ・バニシング −消失−』のレイモンはある意味でバンディのコピーキャットだったことに今さらながら気づく。
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2020年01月01日

あけましておめでとうございます

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あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

僕に残されてる夏はあと何回?と歌う片寄明人の詞に込められた刹那の意味が、二ヒルの白熱ではなく瞬間を慈しむことなのだとようやく分りかけてきた今日このごろの、その気持ちで今年を過ごしていきたいと考えています。
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2019年12月31日

2019年ワタシのベストテン映画

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ミスター・ガラス
岬の兄妹
荒野にて
魂のゆくえ
オーヴァーロード
ガルヴェストン
ゴールデン・リバー
ゴーストランドの惨劇
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
ボーダー 二つの世界

観た順番。
秋口からあまり映画館に行けていなかったりして、劇場鑑賞数は例年より30本程度減少。でも、さほど悩むこともなく無理矢理でもなく10本が決まったのだから、今年は良い映画に恵まれた年だったんだろう。

私は通りすがりの映画館に入って目を酷使した。呼吸のざわめきや、いやなにおいをたてるぐにゃぐにゃと温かい皮膚にみたされ、たえまなしに色と音が変わりつづけているその闇にもぐりこんでいると潮のように迫ってくるものからしばらく体をかわすことができた。―開高健

なのに、そんな風に映画館に逃げ込んだ、なんだかあまり健康的とは言えない記憶が残る年になった気がしてしまっている。来年は、スクリーンの緊張に顔を上げて向き合える年になりますように。
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2019年12月26日

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け/死なばもろとも

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※もはやどうでもいいので思い切り展開に触れています

“見てみろ、この慌てぶりを。怖いのだ。怖くてたまらずに覆い隠したのだ。恥も尊厳も忘れ、築き上げてきた文明も、科学もかなぐり捨てて。自ら開けた恐怖の穴を慌ててふさいだのだ。”と大佐の言を引用してしまえばそれで済んでしまう気もしたのだ。センスはあってもそれはセンス・オブ・ワンダーになりえないことに絶望しワンダーを抹殺する人生に身をやつすことを選んだカイロ・レンの荒ぶるフラストレーションへと自身の屈託をしのばせたJJに、フランチャイズのリサイクラーとしてではない作家性を初めて垣間見た『フォースの覚醒』はその点においてスリリングですらあったし、強大な父を乗り越えるために要求される男らしさ=マチズモの支配する枠組みを解体するため、父殺しをしなければ更新されない世界を鎮めるべくフォースの持つ破壊と再生という側面を最後の父殺しレンと殺すべき父を持たないレイに分け与えた『最後のジェダイ』も、ならばとワタシは心穏やかに受け入れたのである。それがなぜ前作を恐怖の穴と唾棄し、応急処置のしかもマッチポンプとすら言えるつぎはぎで覆い隠したような、新たな地平を目指すつもりなど一切ない言い訳だらけの撤退戦に終始したのか、自ら産み落とした若者たちを信じることすらできず幾多の亡霊たちの力を借りては急場を凌ぐうち、亡霊その一のパルパティーンに至っては実体化をするどころかついにはレイの祖父すらを名乗り始める始末で、前作の「幻想にしがみつくのはやめろ!」というカイロ・レンの叫びがどれだけ虚しく響いたことか、ベン(カイロ・レン)とレイという均衡の双子かつ理力のソウルメイトにキスをさせるに至っては、JJの思春期朴念仁っぷりが『スーパー8』から何一つ成熟していないことすら晒してしまう始末ではなかったか。本来であればエピソードの半分は費やすべきレイの両親の出奔をほんの数カットで片づける逃げ足はまるで打ちきり漫画の最終回のそれとしか思えず「――すべて、終わらせる。」というのはまさに字義通りの意味だったのかと、四角な座敷を丸く掃く体裁だけの大掃除に、ああそう言えばほうきをスッと手繰り寄せたあの少年は今頃何をしているのだろうと彼方を見つめたりもしたのであった。とはいえ、そもそも語るべき物語などそれ自体が罪なのだとでもいう全方位マーケティングへの強迫観念的な奴隷労働こそは、キャンセル・カルチャーという時代の気分をヴィヴィッドに反映させた最前線の140分であったということになるわけで、ワタシたちの誰もが罪深いファントムメナスなのだろう。もはやストーリーに組み込むことすらあきらめたのか、昏睡するファンが今際の際に見た走馬灯にしか映らないイウォークを、ならばそっと後ろ姿にとどめおくことすらしない野暮がどこまでも念入りにとどめを刺してくる。
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2019年12月19日

ラスト・クリスマス/ルック・アップ・イン・アンガー

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※展開に触れています。

「普通」なんていうのは、他人を傷つけるだけの醜い言葉でしかない、と諭しつつも吐き棄てるように言うトム(ヘンリー・ゴールディング)の正体が明かされた瞬間、ああこれは分断が蝕む時代のクリスマス・キャロルでもあったのだなと、この映画が失わない清冽な灯りの理由がわかった気もしたのである。どうして私が、なぜ私だけがと人生の分け前にこだわるあまり、失ったもの(私の心臓)に屈託をぶつけるばかりで自分が生かされている理由(誰かの心臓)を省みることをしないケイト(エミリア・クラーク)にトムは、下ばかり見ていないで上を見てごらんとそっとアドバイスをする。そうやって上を見上げて背筋を伸ばし胸を張り、自分が気づかないだけでいつもずっとそこにあるものを知ることは新しい旅への第一歩であるに違いなく、ケイトの場合それはカタリナというもう一人の自分へと立ち還る道行きとなることで、自分はどんな連なりの最後尾にして最前線にいるのかを再確認しつつ今自分がここにいることの意味を知っていくこととなり、疑うことなく自分を「普通」だと考える人たちによって断ち切られた繋がりをもう一度結んでみることによって、かつて断ち切ったカタリナの輪郭がもう一度ケイトに重なっていったように思うのだ。大切なのは、ありもしない普通であろうとすることよりも自身の自然であることなのだというその眼差しは、離脱と分断の恍惚に焦がれるイギリスへの絶望よりは衒いなく真っ直ぐな希望に照らされた気もして、しかしそれは、シニックが有効なのは最低限の正気が担保された社会相手のことだったのだという、あきらめの先で行われる笑顔の逆ギレにも思え、すなわち現実がいかに救いがたいことになっているかというその証明であった気もしてしまうわけで、『ラブ・アクチュアリー』から15年経ったイギリスがこんなふうに真顔でクリスマスを迎える無常に想いを馳せたりもしてしまう。奇しくも自転車で事故った若者の物語でありながら、かたや大英帝国の誇りを歌い上げたあの映画の楽天性が犯罪的な鈍感としか映らなかったことも、今この世界の忠実な反映であったのだなあとようやくその役割に気づいた気もしたのだった。今作がクリスマス映画の新たなスタンダードになりますように。
posted by orr_dg at 17:26 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする