2021年09月22日

ドライブ・マイ・カー/カーヴをまっすぐ曲がる人

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文章では家福と表記される“かふく”を口にしてみればそれは禍福となるのが何より自然でふさわしく、「禍福は糾える縄の如し」と言ってみるその縄の虜であり続ける家福悠介(西島秀俊)がその縄を解くに至る物語としては原作短編を逸脱したと言い難いにしろ、文章上では黄色のサーブ900コンバーティブルの車内で金言と箴言を駆使した超絶カウンセリングで家福を寛解へと導く、かつて家福が亡くした娘が生きていれば同い年であった23歳の渡利みさき(三浦透子)から村上作品ではなじみのマジカル二グロとしてのマジカルウーマンという衣装を恭しくはぎとっては、家福の心配よりきみはきみの心配をするべきだと濱口竜介は全力で彼女のバックアップにまわるのだ。近年映像化された村上春樹作品のことを少し思い出してみると、『ハナレイ・ベイ』ではラストの大胆と言ってもいい書き換えによって主人公サチに再生の光をもたらし、『バーニング 劇場版』では原作において漆黒の塗布にとどめた世界の断絶を暴力で裂いて光を招き入れる試みを告げていて、そのどちらも監督自らが脚色したことを考えてみる時、原作のその先、もしくはその周辺あるいはその下層に村上春樹が隠し埋もれさせたものを彼らの解釈として抽出したのだとすれば、漂泊する女性たちの救済と原初的な暴力への憧憬こそを彼らはそれと決定したわけで、言い換えればそれらを原作からこぼれ落ちた(こぼし落とした?)色合いと手触りとして特定していたように思うのだ。してみると、今作ではその両者をみさきの救済および高槻(岡田将生)との邂逅として脚色したことは至極納得がいくわけで、村上作品を映像化する場合それらが拡張というよりは新たな補填や補完として現れるのは、それらをテキスト上の特徴的な欠損として捉えたからに他ならないだろう。ここでの家福からは致命的な傲慢や悪意は魚の小骨のように取り除かれて、せいぜいが高槻の配役をアーストロフではなくワーニャに変更することで彼の間男を締め上げるにとどめ、この世界にあらかじめある暴力の発火と発熱については高槻にすべて任せてしまっているものだから、みさきの発火装置として涙を流し仮初めの娘に再生のやり方を導くことが彼の役割として次第に浮かび上がり、親と子が互いを救い合うことで生き延びるという村上作品ではついぞなし得ない地点に映画の真っ赤なサーブは到達するわけで、映画にとって主題など邪魔なだけでさほど興味はないし、それよりは作品のナラティヴそれ自体をぼくは愉しんだ、とかいった村上春樹のコメントなどを妄想してみるのだった。境界でゆらぐ緊張の解放と圧縮をシームレスにつなぐ四宮秀俊のカメラは『へんげ(2011)』から『きみの鳥はうたえる』『人数の町』といった作品と共に10年を経て、現状最強といえる芹澤明子氏の座るテーブルについたように思われる。端正と抑制が透徹した彼岸を映す今作にあって、高槻を送ったホテルから離れていくサーブのリアウィンドウに、エントランスで仁王立ちになってこちらを凝視する高槻を認めた瞬間、世界のフレームが瓦解するかのようにガクガクッと揺れるカメラの凶度に、『寝ても覚めても』を観た時の濱口竜介はいつか正面切ってホラーを撮るべきだという願いにそれも四宮秀俊のカメラでという新たな願いを加えてみたのだった。
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2021年09月13日

シャン・チー/テン・リングスの伝説〜いつもトニーから始まる

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MCUのTVシリーズ展開にあまり興味のないワタシのような観客にとって今作は『エンドゲーム』以来のMCU新作となるわけだけれど(『ブラック・ウィドウ』は『エンドゲーム』ではその死が偲ばれなかったナターシャの通夜語りだろう)、アベンジャーズを賄うために極限までインフレーションされた「悪」の生贄としてサノスを捧げる狂熱の儀式もしくは祭りの後の虚脱をどのように浄化して新たな清新から歩み始めるのか、それまでの物語をまずは根本から裏返して北米からすれば辺境であろう彼方を舞台に、アングロサクソンを完全なモブ扱いにする力技と悪=敵がいなければ成立しないMCU世界の忌まわしき呪いをその存在の色艶として両立させるアクロバットをトニー・レオンに託し切った慧眼に、恐れ入ると言うよりはその透徹したクリエイティヴィティの切れ味に背筋がひんやりとすらしたのだった。善悪のあわいで途方にくれたように立ち尽くす人の悔恨と自棄を夕暮れの儚さで灯して立ちはだかるウェンウーの障壁が高ければ高いほど、そこを超えていくシャン・チー(シム・リウ)にはヒーローの血肉がいつしか備わっていくわけで、神話の父殺しというよりは道教的な魂の救済にも思えるそれはそのままシャン・チーというヒーローにたおやかさと高潔の色を施したように思うのだ。しかしシャーリン(メンガー・チャン)について言えば、共闘にしろ反発にしろいま一つ機能として交錯しないことで、本来であればシャン・チーより歪んだ屈託を抱えたはずの彼女がいささか物分かりが良すぎる点、というか物分かりが良くならざるを得ないへの不満(ポストクレジットシーンがその穴埋めをするとはいえ)は、トニー・レオンがみせたミラクルの功罪という気がしないでもない。ウェンウーとイン・リー(ファラ・チャン)の出会いからやがて想いを募らせるロマンスを流麗なアクションで紡いでいくシーンが、かつてアン・リーが『グリーン・デスティニー』で魅せた官能的とすら言える剣術の交感を継承していることは、シャン・チーのメンターとして登場するミシェル・ヨーの凛として揺るがないたたずまいに明らかだろう。今後トニー・レオンは、シャン・チー絶体絶命のピンチ、もしくはシャーリンとの致死的な兄妹喧嘩にスピリットとしてあらわれて、にこやかに兄妹を救ってやって欲しいと切に願う。おそらくケヴィン・ファイギは何かのシナリオのどこかをトニー・レオン仕様にリライトすべく既に指示しているように思っている。
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2021年09月09日

アナザーラウンド/死ぬには少し酔いすぎた

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「朝起きて気分が非常にブルーになってると、そういう時に面白いもの書こうと思えばアップさせなきゃいけない。だから3合くらい日本酒を飲む。そうするとやっと普通の状態になって書けるようになる。」中島らもが徹子の部屋に出演したとき、こんな風にキックとしての酒をわかりやすく淡々と黒柳徹子に語っている。中島らもの場合、酒がキックで済まなくなったことで依存症の泥沼に沈んでいくのだけれど、この映画はアルコールやその依存症への糾弾や擁護の色を分けるわけでも、それをことさらに笑い飛ばしたり揶揄したりするわけでもなく、中島らもがいうところの“ブルー”の彩りを酒で濃くしたり薄めたりしてできる模様が今はなくしてしまったけれど自分の大切だった何かに似てはいやしないかと、人生を折り返した男たちがその帰り途で焦燥にとらわれながら落しものを探すその肩に、メランコリーの上着をそっとかけてやっていたように思うのだ。いつだったか大槻ケンヂが言っていた、薬を飲むだけで簡単に上がったり下がったりするんだとしたら後生大事にありがたがる「本当の自分」なんてものはそもそも幻想なんじゃないかといったことや、酒に自分の心を支配されている感覚になるから絶対に飲まないという蛭子能収の言葉を思い浮かべてみる時、ワタシたちは「本当の自分」という幻想に囚われて自分で自分の首を絞めているのではないかという考えを振り払うことができないでいるし、「本当の自分」と「現実の自分」の乖離の淵で彷徨するマーティン(マッツ・ミケルセン)は、好むと好まざるに関わらず社会との関係性において生きることを要請されるワタシたちそのものであるからこそ、彼の失敗はどこまでもワタシたちの後を付いてくるのではなかろうか。だからこそ、アルコールのキックによって社会的な動物としてつながれた首の鎖を永遠に解くことを選んだトミー(トマス・ボー・ラーセン)がその自爆によって仲間達の失敗に煙幕を張ったことや、最期にマーティンに託した、お前がお前について考えることなど何のあてにもなりやしない、それよりはお前が手を伸ばして触れたものの手触りを大事にしてそれを手放すなというメッセージが悲痛なまでに胸を打つわけで、妻からのメッセージを見たマーティンに宿った、ああこれでもう俺にはトミーの選択を追うことは叶わなくなったという安堵とあきらめの目元からの、未来に対する盲目的な希望にあふれた学生たちの前で泣き笑いするかのようにトミーへのレクイエムを踊り狂い海に飛び込むマーティンのストップショットは『大人はわかってくれない』のそれにも似たその先への止揚の突きつけに思え、その一瞬マスクの息苦しさが今さらながら耐えがたくて仕方がなかった。
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2021年09月07日

オールド/きみへ渚にて

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もしビーチに行かなかったとしたら、プリスカ(ヴィッキー・クリープス)はトレントとマドックスが成長した姿を目にすることなくこの世から若しくはカッパ家から去っていただろうし、ああしてガイ(ガエル・ガルシア・ベルナル)と終世を共に添い遂げることもなかっただろう。様々な基礎疾患を抱えた彼や彼女にとって、はじけ飛ぶように加速する人生の真の恐ろしさは、老化と死への恐怖はもちろんのこと、本来は緩やかであったかもしれない痛みや苦しみが高濃度に凝縮されて打ち込まれるオーヴァードーズのそれであって、わけても統合失調症と低カルシウム血症をそれぞれ患うチャールズ(ルーファス・シーウェル)とクリスタル(アビー・リー)の夫妻を襲う容赦のない断末魔を念入りかつ執拗に描くシャマランの麗しい趣味には惚れぼれするしかなかったし、ラストに用意されるツイストの意外な収まりの良さを思うと、今作はその錐揉みよりはそこに至る真空状態の酩酊こそを愛でるべきで、導入部分で6歳のトレントが出会う人に片っ端から職業を尋ねるシーンなど、通常の手続きで人物の相関を探り合うのももどかしく、私は一刻も早くビーチに行きたいのだ、行って人々をそこに放り込みたいのだというシャマランの焦燥にすら思えたわけで、なにしろ今回のシャマランはカメオというには少しばかりしつこく、しかも監視者/窃視者という役回りでスクリーンに現れ続けるのだ。物語はそれが行き着く場所ではなく運び続ける足取りを語る意志そのものを指すのであり、それを信じる者は救われるのだ、というかつて『レディ・イン・ザ・ウォーター』で明かしたマニフェストはいまだ誇らしげに掲げられ、ハッピーエンドとバッドエンドが互いを相殺するゼロ地点に着地する勇気は、イーストウッドをして晩年に到達した境地そのものであるようにも思え、監督への畏敬の念はいよいよ増すばかりなのだった。ホテルのマネージャーの甥っ子がトレントのIFもしくはスーパーナチュラルな存在だったらどうしようと少しだけドキドキしたけれど。
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2021年09月05日

孤狼の血 LEVEL2/ヒロシマ・モナムール

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昭和という戦争を抱えた時代ゆえ持ち得た生と死のもつれ合う刹那のスピードが撮らせた「やくざ映画」と、それを批評的な憧憬で追尾する「やくざが出てくる映画」の避けがたい断絶それ自体を松坂桃李が曖昧かつ茫洋とした横断で的確に演じ切った前作で、とっくに皆は気が済んだものだとばかり思っていたものだから、彼の演じる日岡を主人公にオリジナル脚本の続篇が撮られることを知った時、それは菊地刑事をメインに据えた『その男、凶暴につき2』なのではないかと、負け戦の香りが一瞬漂ったのは確かだったのだ。前作では色濃かった『県警対組織暴力』の構造はすでに出がらしとなり、ではどこに勝機を見出したのかといえばそれは、市中に放たれた上林成浩(鈴木亮平)という怪物をやくざと警察が血まみれで狩りたてることで超暴力を描写する言い訳を成立させるというモンスター映画としてほとんどやけくそで開き直るその一点にあったはずなのである。はず、と言ったのはワタシにはその目論見がいささか志半ばであったように思えたからで、さすがにそのストレート・アヘッドでやり逃げるには腰が引けてしまったのか、主に日岡の陰影欲しさに彼の周囲へとドラマを巡らす誘惑に屈してしまっていて、その好演は別として近田幸太(村上虹郎)のパートは停滞とプロットホールを誘うだけにしか思えず、幸太との関わりによって上林が過去に捉われるに至ってはアントン・シガーや大友勝利にフラッシュバックが必要か?とその湿度がノイズになったのは確かだったのだ。そうした点で、冷やかな暴力装置として尾谷組の花田優(早乙女太一)が白石映画には稀有な色艶を残したこともあり、できれば上林と薄ら笑いで激突して鶴の首でもへし折るように屠られる様を妄想したりもした。ラストの駐在シークエンスは明らかに『県警対組織暴力』エンドを想起させつつその執行は別の人物に向けられて日岡は原作通り命をつなぎ、もし原作に復帰してのLEVEL3を睨んでいるのなら、そこでは柚月裕子氏をシナリオチームに迎えて薬莢の鈍色に哀しみを映す筆を請うべきだと考える。
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2021年08月31日

FUJI ROCK FESTIVAL'21 雑感

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昨今の状況を鑑みれば決して褒められた選択でないのは重々承知の上で、まずは邦楽アーティストのみの出演というドラスティックな決定から始まった紆余曲折の中、行く行かないという選択肢が頭をよぎったことは一度もなかったように思う。それは苗場皆勤を途切れさせたくないわけでも、もう自粛はうんざりだ好きなようにやらせてもらうぜと中指を立てたわけでも、いま苗場で見ておかねば死んでも死にきれないというアーティストがいたわけでも、思い上がった使命感があったわけでもそのいずれでもなく、では何なのかと尋ねられても「それを造れば、彼が来る(If you build it, he will come)」的なうわ言にささやかれとしか言いようがなく、それについては申し訳ないとひたすら頭を下げるしかないのだ。そんな中、8月21日の深夜にホテルの部屋でNHKBSシネマが放映する『ゾンビ ディレクターズカット版』を見ながら、去年の春からいまだ続く籠城戦と撤退戦の最中にいるワタシたちはゾンビの脅威から逃れてモールに立てこもるピーターやフランそのものだなあと思いつつ、いやどちらかと言えば生前の記憶に衝き動かされてモールにやってくるゾンビがふさわしいのかもしれないと、何度見たかわからないこの映画に新鮮な親しみをおぼえたりもしたのだった。ワクチンは2回目がぎりぎりで間に合わないままだったのが心残りながら、出発前は一週間前から毎朝検温し、送付された抗原検査キットや所定のアプリへの対応およびCOCOAをアクティヴにし、シャトルバスは避けてタクシーで行き来することなど策定しつつ、東京で過ごす消毒と昏睡の日々を極力再現することを肝に銘じて苗場に向かった。

1997年に行われた第1回の天神山(ワタシは不参加)は台風の直撃で観客が半ば遭難して野戦病院と化し、その責任に対し運営が集中砲火を浴びたことで第2回は同地区での開催が叶わず、1998年は本来のコンセプトからは外れる都市型フェスとして一度体制を立て直した後(ワタシはここから参加)で、1999年の第3回から苗場に居を移すことになるのだけれど、天神山の惨劇で世間を賑わせたフジロックがやってくるという事態に当時の地元は受け入れに対して一枚岩であったとは言い難く、苗場開催のアナウンスがあってからほとんどドキュメント的にその経緯を知ってきた者たちは、運営はともかく自分たち客が決定的なエラーを犯したらこの場所も取り上げられてしまうのだというある種悲壮ともいえる決意で苗場に足を運び、とにかく地元に迷惑をかけてはいけない、粗相があってはいけないというそのストイックさがクリーンなフェスとしてのフジロックを築きあげていくことにもなったわけで、ワタシの胸の内を支配する何かがあったとすれば、この1999年のフジロックに臨むそれであったように思えたりはしたのだ。

そうやってゲートをくぐったいつもの苗場は、楽観と悲観、虚無と笑顔、静寂と爆音が水平に同居する彼岸の景色にも似て、百戦錬磨の甲本ヒロトをして「ああ、久しぶりでだんどりがわからなくなっている……」と手につかないハーモニカを嘆かせ「BEGINとしてのライヴはこれが2021年最後かもしれない」と吐露した比嘉栄昇はその後に「開催に賛成する人も反対する人も、その先に望むことは一緒のはずなんだから対立しても仕方がない。道筋を決めなきゃならないのは専門家の人なんだよ」と言葉を連ね、あの向井秀徳がステージでただの一滴もアルコールを口にせず、坂本慎太郎は「できれば愛を」で始めたステージを「ツバメの季節」で締め、電気グルーヴですらが驚くほどに音量を落として祝祭をなだめてみせていて、非常に身勝手な言い方をしてしまえば、ワタシが見たすべてのステージに通底したのは、「業」と言い換えることのできる人間の尊厳であったようにも思ったのだ。もちろんその「業」を「罪」に置き換えることをワタシは否定しないし、そうした意味では観客もアーティストも主催者もすべてが共犯であったことは言うまでもなく、これから先何らかの罪を負わねばならないとしてその誹りを受けることから逃げるつもりはないという決意を告げるべく、ワタシが見たすべてのアーティストはそのステージから観客席へと空気を震わせていたように思っている。帰宅後に受けたPCR検査でワタシは陰性だったけれど、東京都であれば無料で受けられる場所があるので参加者はその責任として査を受けて欲しいと思う。どんなことより優先すべきはあなたとあなたのまわりの人たちの生命である。


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2021年08月18日

ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結/盗人にも五分の魂

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※ある展開に触れてしまっています

凶悪なヴィランとしての決定的な欠落や危険な過剰がいっさい見当たらない、開きっぱなしで焦点の合わない瞳孔とみすぼらしくすり切れた体毛に身をつつんで、実存が一度でも彼に宿ったことがあったのだろうかという呆けた風でただそこに居て宙を見つめ、ではいったいその中にどんな特異能力を宿しているのかと言えばそれを誰も知らぬまま、子供を27人殺したという最悪のプロフィールだけが紹介され、あげくに洋上潜入作戦(しかも囮チーム)に徴集されながら彼が泳げないことを誰も知らず投下された水中で溺死したウィーゼル(ショーン・ガン)の、劇中ぶっちぎりで救いようなくバカでクズでゲスな扱いにはそれなりに気を惹かれはしたものの、その後くり広げられるバカでクズでゲスたちがいつしか救われていく鬼畜大宴会に少しだけ涙ぐんだりしているうちに、薄汚れたイタチのことなどすっかり頭からけし飛んでいたものだから、打ち上げられたウィーゼルの溺死体を映すポストクレジットシーンに何でいまさらこいつが?と訝しんだ瞬間、海水をげふっと吐いて蘇生したウィーゼルは虚空に通じる両眼をかっと見開いてやおら起き上がり、テケテケトコトコと砂浜を密林に向かって小走りで消えていったのだ。既に政府のデータベース上では死亡扱いとなっているウィーゼルは図らずも自由の身となったわけで、ああジェームズ・ガンはそうやってウィーゼルに自身を投影していたのだなあと、ドブネズミが世界を救う物語を爽快かつ痛快に語り終えて満場の拍手喝采をもらった後で、それを宣言しておかずにはいられなかったジェームズ・ガンの一つ二つ三つねじれた矜持を見たようにも思ったのだ。バカでクズでゲスだった自分への報いは甘んじて受けるし、悔い改めるために必要なことは何でもしよう、ただ俺から映画だけは取り上げないでくれないか、それがなかったらそのまま俺は溺れ死んでしまうから。俺を嫌いなあなたが俺のつくる映画を嫌いになるのは仕方がないし、それは当然だ。でも俺には、もう一度あなたが好いてくれるような映画を撮り続けることしかできないから、死の淵から蘇ってひとり走り去っていったウィーゼルがまた子供たちを殺しまくるのか、今度は子供たちを笑わせるのか、今はその先の彼にチャンスを与えてやってはくれないだろうかと俺はお願いしたい、という懇願に耳を貸すのも、かつて彼を断罪した人たちのその行為に生じる責任の一部だとワタシは考える。何よりこの映画は、ハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)もブラッドスポート(イドリス・エルバ)もラットキャッチャー2(ダニエラ・メルシオール)もポルカドットマン(デヴィッド・ダストマルチャン)もキングシャーク(シルベスター・スタローン)もフラッグ(ジョエル・キナマン)も、そしてピースメイカー(ジョン・シナ)でさえも、すべてその譲れない矜持をめぐる物語であったからこそ、呆けたように笑いながらも気がつけば少しだけ胸がつまっていたのではなかったか。ジム・キャロル「ピープル・フー・ダイド」が爆音で鳴らされた瞬間、いったいいつ以来だったのか全身を吹き抜けたライトタイム/ライトプレイスの至福に、泣かないワタシがぐらついた。
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2021年08月14日

すべてが変わった日/我らは廃馬を撃つ

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※知らない方がよい内容に触れています

マーガレット・ブラックリッジ(ダイアン・レイン)とブランチ・ウィボーイ(レスリー・マンヴィル)の2人の女性について言えば、陽の光を当然のものとしてそれが照らす道を生きてきたのか、それは求めなければ与えられないものだったからいつしか必要としなくなったのか、その違いに善と悪、正義と狂気という付箋を貼り付けてしまうのはあまりフェアとは言えない気がしている。それよりはここで行われたのが互いの正当性をめぐる激突であったこと、そしてそれら正当性が共に在ることを赦しているアメリカの混沌が彼の国の成熟を妨げ続けてきたことを、寓話と言うにはあまりに逃げ場なく苛烈に語ることに監督&脚本のトーマス・ベズーチャは憑かれてしまっている。彼が脚色した原作が同じ道をたどっていたのかどうかはわからないけれど、ここにあるのはコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で見通した、暴力が初めにあったとするならばそれは神の創造物にちがいなく、ならばそれを私たちは崇拝しなくてもいいのか、というアメリカの原風景に連なる光景だったように思うのだ。物語の性質としてブランチの内部は短く凝縮して描かれているけれど、マーガレットの密やかだけれど烈しい屹立については、冒頭で孫を沐浴させるローナ(ケイリー・カーター)から赤ん坊を半ば強引に奪いとってうっとりと湯浴みをさせるその表情と、その背後で冷ややかに義母を見つめるローナのカットにしのばされているし、そもそもがそんな風にしてブラックリッジ家におけるローナの序列を隅へと追いやったマーガレットの独善が、ローナの不幸な再婚を呼び寄せたことは言うまでもないだろう。ピーター(ブーブー・スチュワート)に対する理解と愛情の示し方にも明らかなように、マーガレットにとって他者との関係は馬を馴らすことと変わらぬ力の伝達であって、その力の絶対値においてマーガレットとブランチは鏡像の関係にあったともいえるように思え、マーガレットにショットガンで吹っ飛ばされるブランチの最期の言葉が「どうしてなのよ(Why?)」であったのも、あんたとあたしは交わるべきじゃなかったのになんであんたは一線を越えたのよ、という断末魔の疑問符だったに違いないと思うのだ。イノセンスの無自覚な暴力性が世界を泥沼にひきずりこんでいくアメリカの修羅をマチズモのくびきから逃れた地平で捉えなおす野心とその震えるような達成を果たしてこの監督がどこまで確信していたのか、それぞれに罪深きものたちが互いを潰しあって生き残った蠱毒がアメリカのスピリットをずっと更新してきたことを告げるラストの、硝煙と返り血が彩る寂寥こそをアメリカのポートレートと綴る、S・クレイグ・ザラーもそこに浮き沈みする潮流へトーマス・ベズーチャが合流したのは間違いのないところだろう。ケヴィン・コスナーの右手指が手斧で切断される映画がいまだこの世界に存在しうるのだ。
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2021年08月11日

明日に向かって笑え!/気分はもう闘争

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フェルミン(リカルド・ダン)が感情の発火装置としてある一方、生まれついてのアナキストを自称するアントニオ(ルイス・ブランドーニ)は「われわれはこうしてアナキズムの父ミハイル・バクーニンの夢を追いかけている。個人は国家とその制度を超越するのだ」と、これが復讐ではなく正当な闘争であることを絶えず謳い続け、ファン・ペロンの時代にひととき労働者の楽園を夢見たロロ(ダニエル・アラオス)は飼いならし続けた屈託をペロン主義への憧憬として静かに解き放ち、そもそもの発端が農家の保護と雇用の創出を目的とした農協の再建であったことを思い出してみれば、政府の下部組織としてではない独立した共同体の再構築に伴う闘争の物語として、トーンは違えど『バクラウ 地図から消された村』に通じる“無政府主義の季節”が見て取れた気もしたのだ。もちろんここに『バクラウ』の血なまぐささはないけれど、最小限に止めるはずだった発電所の爆破が、雑ででたらめな作戦のため発電所のすべてを吹き飛ばしてしまっていて、嵐の夜に市中の全域を復旧不可能な停電に陥れた結果として予期せぬ不幸に堕ちた人間は果たしてどこへ消えたのか、この集団がいつしか纏ったのかもしれない薄っすらとした狂気も含め笑い飛ばすのが、特にアントニオにおけるマナーではあったのだろうし、物騒な手段に訴えるのは問題外として、アティテュードとしてのアナーキズムで自衛すべき時代の只中にいることを実感させられてばかりの世の中にあっては、それが健康的にすら思えてしまうのだ。とはいえアントニオがバールを振り回す代わりにいったい何をしたか、あれはこちらのそんな物騒を見透かした上でのクールダウンだったのだろう。俺の敵は国家でも政府でもない、あんたら益体もない大人たちだよ、とエルナン(マルコ・アントニオ・カポニ)が冷ややかに見舞う正義と悪のうっすらと苦い中和がカウンターで効いている。
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2021年08月05日

返校 言葉が消えた日/バック・トゥ・ザ・トーチャー

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過去を語ることを怖れるあまりそれを亡きものとしようとする時、葬られんとする過去がそうはさせじと現在を道連れにする。そんな時代と精神の暗闘が生み出す恐怖の在りかをえぐり出す必然をホラーというジャンルに託した野心と、なによりその当事者性こその哀切と痛切と使命感に傍観者の胸の奥が揺さぶられる。地政学上の継子として翻弄されてきた台湾を想う時、この白色テロの時代が日本の統治から連なるうねりの先にあることは言うまでもなく、その悲劇とワタシたちとの距離をいったいどう掴めばいいのか、その時代に生きた人たちが未来や希望を求めては打ちひしがれていく作品を見るたび、傍観者としてのワタシはことさら心が乱れてしまう。自由の闘士として曇りなく描かれる読書会のメンバーに心ならずも引鉄を引いてしまうファン・レイシン(ワン・ジン)だけが彼女を覆う鬱屈の背景をその家庭に描かれていて、社会に石を投げる前に自分と闘わなければならない18歳ですらが否応なしに巻き込まれていく政治の季節がいかに容赦がなかったか、殉教の蒼い恍惚すら知らないまま贖罪を果たさねばならなかったファンの屠られた青春がそこかしこに打ち棄てられていた時代を新たに語り継ぎその鎮魂としたことで、永遠に一人で目をさまし続ける放課後の教室からファンを解き放ったラストに、ひと時とはいえワタシまでもが救われる。原作のゲームをプレイしてないのでその構造はわからないけれど、ここではファンが囚われた煉獄を学校に置き換えて視覚化し、その中を彷徨する彼女に立ち昇るフラッシュバックをゲーム内の実写ムーヴィーとしてちりばめながら、それをファンが串刺して時間軸の再構成をすることでサスペンスを抜き差しならない角度へと尖らせていく寄る辺のなさにおいて、ゲーム原作の実写化としては『サイレントヒル』の達成を思い浮かべたりもした。『怪怪怪怪物!』がそうであったように、恐怖=テラーは社会の忌まわしい反映であるという大前提を死守しつつ、そこに巣食う深淵の怪物を繊細かつ匂い立つ露悪で娯楽に幻視する確信と志の高さにおいて台湾ホラーが開拓しつつある未知がワタシは眩しくて仕方がない。
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2021年07月30日

最後にして最初の人類/星が継ぐもの

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未来から過去へ向かって放たれるメランコリーの在り処を、『メッセージ/Arrival』の一卵性双生児としての今作に探して見つけた気がしてしまう。最後の人類として、既に人間としての個別の感情を超えた存在であるはずが、それをワタシたち最初の人類に伝えようと意識を翻訳していく中で次第にこみ上げてこぼれ落ちる喪失への悲嘆は、最終的にワタシたちは存在を運命づけられた生命であることの独白でもあったように思える。石化した結晶のように映るスポメニックは果てしなく巨大な宇宙船の遺骸のようでもあり、そうしたミクロとマクロの交錯によって意識の正規化が真空の静けさのうちに行われていく。ヨハン・ヨハンソンの手がけるサウンドトラックが、感情の増幅ではなくそれを結晶化してその内部に共振する揺らぎでショットを覚醒していたことを考えると、この作品世界こそが彼の原風景であったようにも思え、ユートピアよりはこの宇宙に終焉があることを想像するのだというヨハン・ヨハンソンの幻視ならぬ幻音の永遠なる欠損が、この世界のバランスを少し狂わせたのだとティルダ・スウィントンが囁いた気がしてならないのだった。
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2021年07月23日

プロミシング・ヤング・ウーマン/たったひとつの冴えたXXかた

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※未見の方スルーを強く推奨

ポール・カージーでもハーレイ・クインでもない、カサンドラ/キャシー・トーマス(キャリー・マリガン)は“極めて前途有望な若者”だったからこそ、キャシーをキャシーたらしめるその豊かな知性と細やかな感情が、傾いだ世界の矯正係として送り狼を狩りたてるハンターへと彼女を仕立てたのだろう。しかし、復讐の呪いと狂気の快楽の間を危うく行き来しながらそのどちらにも喰われてしまうことなく、内部の激情を倦怠に隠しながら綱渡りするキャシーのメランコリーは、ほとんど崇拝といってもいいニナへの思慕というよりはサヴァイヴァーズ・ギルトのそれにも思われて、自罰の証明としての実質的な自殺とそれによってアル・モンロー(クリス・ローウェル)をニナへの供物とする究極のトラップをキャシーに発動させたのが、一度は彼女を救済するかに思えたライアン(ボー・バーナム)にすらぬぐえない男性性の歪みであったことを考えてみた時、むしろキャシーにとってそれはグリーン弁護士が言うところの啓示だったのではないかと、山奥でたった一人灰となって土に還ったキャシーにそよぐ風の静謐が、ようやく訪れた彼女の安寧を祝福した気もしたのだ。しかしこの物語は、カサンドラ・トーマスというかつて前途有望だった一人の若い女性がなぜああして人生の幕を閉じねばならなかったのか、その最期の日々を描いたのはもちろんのこと、それを追うことで施される呪いの話でもあるわけで、ダンスフロアで男たちが踊りくるうオープニング、カメラはその男たちがチノパンに隠す下半身を執拗にクロースアップし続けて、これはお前らとお前らがそこに隠すそれにまつわる物語であってできればあたしはそのすべてを無効化したいと考える、というキャシーの宣戦布告であったことが時を追うに連れ忘れがたく付いて回ることとなる。そしてキャシーの最期を見届けた今、ワタシたち男に刻印されたのは、自称いいやつ(I am a nice guy)はわるいやつ(a bad guy)というシンプルにして強力な呪いであり、その無自覚で無邪気な傲慢によって自身をa nice guyにロンダリングし続ける男たちの罪深さを知れば知るほど、キャシーが放ったこの呪いが彼らの悪性を晒していくのだろうことを考える。エメラルド・フェネルが手がけた『キリング・イヴ』のシーズン3とケイト・ショートランドによる『ブラック・ウィドウ』が共に放蕩娘の帰還と過去の清算であったことを思ってみれば、世界の自浄をあてにしない勢力が既に破壊から再構築に向けた新しいフェーズに足を踏み入れた気もして、この風が追い払った雲の向こうに広がる光景の輝度と硬度をワタシは待ちわびようと思うのだ。この映画の鏡像として『狩人の夜』を映しこむ目配せも芳しく、おぉとなって息を少し深く吸った。
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2021年07月17日

ライトハウス/ケロシン&シガレッツ

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※ネタバレといえばネタバレな記述があります

わしがお前の想像の産物だとは考えないのか。わしもこの島も、カナダの森で膝まで雪に埋もれて凍えながら吹雪の中を彷徨い歩くお前の頭の中の想像の産物だとは考えないのか。とトーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)ががなりたてては、これを胡蝶の夢などと愛でるつもりの勢力に先回りして冷や水をぶっかけるとともに、おれの名前はトーマス・ウェイクだ、トムと呼んでくれと独りごちた瞬間、むさくるしい髭がふちどる異形の相貌とあいまってトム・ウェイクをトム・ウェイツと空耳したこともあって、イーフレイム・ウィンズロー/トーマス・ハワード(ロバート・パティンソン)と二人してくり広げる狂気に関する禅問答のようなやりとりが、ゴシックホラー版『コーヒー&シガレッツ』とでもいうニューロティックなオフビートコメディとして懐に落ちていく気がしたのだ。閉所恐怖症的なフレームの仕掛けよりほか、ここにはこちらを脅かし蝕む実存の深刻はさほど見当たらず、ただひたすら狂気のプロフェッショナルがアマチュアを弄び甘噛みする露悪のスラップスティックを光と影の悪魔的な移ろいが催眠していくばかりで、それを高みの見物とばかり桟敷席で酩酊する居心地が悪かろうはずがないのである。屹立した燈台は言うまでもなくセリフにちりばめられた男性器に関する卑語や隠語が指し示すのは、イーフレイムを捉えて離さないオブセッション、それは彼のホモセクシャルというよりはより直截的なソドミーへの渇望と嫌悪にも思え、イーフレイムは何ゆえ本物のイーフレイム・ウィンズローを殺さねばならなかったのか、そのフラッシュバックにおいて美しい光の中で煌めくように描かれる彼の殺したイーフレイムの姿には深夜の告白が明かさない理由が潜む気もしたし、人魚の妄執を手助けにイーフレイムが発散させ続けねばならなかったリビドーの正体はたった一度ウェイクとのニアミスとして描かれて、彼を生き埋めにすることでそれを封じ込めはするものの、他に見咎めるものもいなくなったことでついにそびえ立つ灯台のてっぺんに昇ってしまったイーフレイムは、まるで宇宙の深淵からほとばしるかのような光の精に貫かれて目を焼かれ半死半生で恍惚と岩場に横たわり、それが本懐でもあったかのように片目のカモメとその群れがついばむにまかせるように肉体を差し出してみせるのだ。ただ、あのラストショットに悲痛や悲惨の影が差さないのは、理性と野生、自然と文明の境目がまだまだ荒削りで、うっかりそこに立つとこの世の真理が超高速で頭をかすめていく時代だったからこそ、イーフレイムですらが薄汚れたイカロスとしてたった20メートルとはいえ墜落の栄誉にあずかったように思ったからで、まあそういうことってあるよね、と思わず象さんのポットを真似てみたりもしたのだった。生き埋めにされるウェイクが次第に顔面が土に埋もれつつ長広舌の長回しでイーフレイムにプロメテウスの呪いを吐き続けるシーン、口の中にあとからあとから土が入りながらそれをもぐもぐと咀嚼すらしながら朗々とセリフは澱みなく、実はあのクロースアップで顔にかけられるのは微細に砕いて土くれに固めたチョコレートか何かではないのかとあたりをつけながら観てみればウィレム・デフォーの顔が心なしか嬉しげで、ああこの土がチョコレートだったならと心を飛ばすその益体のなさこそがいつしか人を灯台に昇らせるのではなかろうかと、それだけは確かに理解した。
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2021年07月09日

ゴジラvsコング/ただちに東京を破壊せよ

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“最後にラドンがみせるあのしぐさをギリギリのラインにとどめて欲しいのが正直なところではあって、その巨大さと破壊の力に神々しさを宿らせておくためにも人間臭さなるものは可能な限り排除してもらいたいと考える”などと前作につけおいた注文が開口一番笑い飛ばされてはいるものの、しかしそれは、こんな底の抜けた便所の落書きみたいなシナリオでケツを拭かなきゃならないのであれば、手っ取り早い擬人化でドラマをショートカットして逃げ切るしかないと判断して私は今ここに立っています、というアダム・ウィンガードの誠実なマニフェストでもあったわけで、既に今季は「ゴジラS.P」で滋養あふれるゴジラ成分を摂取した余裕の身とあらば、かまわぬ良きにはからえといった気分でそれに手を叩くことも厭わないのである。それでもアダム・ウィンガードの爪痕を見つけるとするならばネオンカラーで彩った香港摩天楼と、あの子が乗っていやしないかと船内をのぞいて確認した後にHEAVEをぐしゃっと潰すコング、そして白目をむいてプルプルと震える小栗旬といったあたりで、人間ドラマは主役2人にまかせてあとは全員モブでいこう、といった低予算映画的な刈り込みがモンスターバース最短の113分というランタイムにも現れて、ジャンルへのノンシャランが絶妙な軽さと爽快を誘った点で、三池崇史が怪獣映画を撮ったらこんなだろうなとそのアルティザン的なドシャメシャに思いがけず肌が合ったのだ。それにしても、レジェンダリー案件ゆえなのか日本とアメリカの間をとってのことなのか、最終決戦の場が香港であったこと、そしてその摩天楼が壊滅的に破壊されるのをこの目で視ることの胸のざわつきは、ワタシたちは好むと好まざるとにかかわらず社会的な生き物で、その結果として政治から逃れることは困難であるという現実を不意打ちされたせいだったのだろうし、あそこで暴れているのが核と黒人奴隷の歴史が産み落としたイドの怪物であることを思い出してみれば、彼らが共闘して滅ぼしたあの不細工な金属の塊はワタシたちそのものだったに違いないのである。それよりは、主人の顔色をうかがって風向きを読むことに長け、涼しい顔で遁走に羽ばたき姿すら見せぬラドンこそがワタシたちにふさわしいのかもしれないけれど。
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2021年07月06日

スーパーノヴァ/誰がきみを一番愛してくれるのかわからない

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「なくなってしまうのが悲しいのなら、それは善いものだったということだ」「年老いた星は最期に巨大な花火のように爆発して粉々に散り、長い長い時間をかけて宇宙を旅したその星の欠片が私たちを形づくっていく」というタスカー(スタンリー・トゥッチ)のセリフと、残り数分にしてようやくスクリーンにあらわれる“SUPERNOVA”のタイトルがこの物語の公式な感情を伝えつつ、美しい光を放って夜空に輝くあの星が既に存在しないことをぼくは知っているけれど、それが輝く限りその光と欠片を集めてはぼくだけの星を押し頂いて生きていくのだというサム(コリン・ファース)の悲愴な決意は、「いまや僕は(人生の)乗客であって乗客ではない、なぜならその行先はぼくが行きたい場所ではないからだ」と冷静に知覚するタスカーの声にどこかしら耳をふさいだようにも思え、「愛の挨拶」を弾くラストシーンのサムは世界でたった一人タスカーのためだけにその旋律を紡ぎつつ、果たしてその時のタスカーにサムの音色やタッチが届くことがあるのかどうか、ほとばしる感情を倦んだ眼差しで押し殺すサムもまた彼岸の彼方を歩んでいるように映ったのだ。もうそこには君がいないとしても、ぼくには息をする君が在りさえすればいいのだとすべてをかなぐり捨てて懇願するサムのわななきは、かつて最愛の人を失って「ネクタイはウインザーノットで」と遺書までもしたためたある男が憑かれた孤独(シングル)のオブセッションを知ればこその狂気じみた切実であった気もするし、サムへの愛ゆえ尊厳を棄て文字通りの我が身を差し出すことを受け入れたタスカーの決断もまた新たな極北にあって、さっと冷ややかにうなじを撫でられる。そうしてみると、この映画がどこかしら起伏を失っているのはこれがサムとタスカーの死出の旅、すなわち二人で世界から消えてしまおうかという心中の道行きであったからなのだろうと、彷徨の果てにNYの片隅に消えたカレン・ダルトンの歌声がレクイエムのように誘いかけた瞬間に確信し、あとはもう生き霊のように透けていくばかりの二人なのだった。
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2021年06月29日

グリード ファストファッション帝国の真実/ボノの歌を聴け

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グローバリズムと名乗る搾取の構造について言えば、ここで語られるのは誰もが知った気でいるその内実とさして変わらない念押しに過ぎず、とうことはおそらくこうした実態で間違いはないのだろうし、そこにあらためての新鮮味が見つかることはない。たとえばダニー・ボイルであれば、その下降するらせんのてっぺんとどん詰まりをポップな露悪で衝突させるマニックで病質を絞り出してぶちまけたかもしれず、しかし今さらそれをしたところでスコセッシ(『ウルフ・オブ・ウォールストリート』)の二番煎じでしかなかろうよと目端をきかせて手を出すことをしないそのテーマに、マイケル・ウィンターボトムはなぜ愚直と言ってもいい構えで斬りつけていったのか。そしてポップな露悪で衝突させるマニックをなぜ不発のままにしてみせたのか、それはこの物語が最終的にてっぺんのリチャード・マクリディ(スティーヴ・クーガン)の世界とどんづまりのアマンダ(ディニータ・ゴーヒル)の世界が揺るぎなく継続することを告げるラストに見てとれた気もして、ではその2つの世界の間で揺るぎ続けることで物語を推進させたのは誰だったのかを考えてみた時、監督が真の主役に据えたのはライターのニック(デビッド・ミッチェル)であったことに思い至りさえすれば、この物語の煮え切らなさと露悪に由来しない居心地の悪さの理由が腑に落ちる気もしたのだ。マクリディの伝記をまとめるライターとして彼の虚像を仕上げることに手を貸す一方、その偽善と搾取のシステムの直接的な被害者であるアマンダへの思いやりを失うことはなく、しかしその思いやりがマクリディと彼の世界への怒りに変換されることのないまま、俺は魂を売ったかもしれないが魂を売ったと言うことを知っている俺は本当に魂を売ったわけではないし、俺は手を汚して闘うことはしないけれど手を汚した人の秘密を黙っていることで俺も闘ったことになると考えたい、と安全地帯から目つきだけを変えてみせるニックこそは、揺るがぬてっぺんとどん詰まりの間で揺るぎつづけることでその2つの激突を吸収しながら支え続けるワタシたちそのものであることを監督は告げたのではなかったか。てっぺんのやつらが心を入れ替えることも、どん詰まりの人たちにそれをひっくり返す力などないこともよくわかっただろう、だからもしこのシステムを転覆させる可能性があるとしたら、それは無自覚の共犯者であるあなたたちにしかないのだと毎日が知った風な顔と口ぶりのワタシたちに突きつけながら、とはいえ自分もまたこの世界のニックたちの一人に過ぎないけれどというブーメランが誘う負け戦のメランコリーにマイケル・ウィンターボトムの黄昏を見るワタシもまた、いつからかその黄昏に包まれて気がつけば途方にくれている。
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2021年06月24日

クワイエット・プレイス 破られた沈黙/ものすごくうるさくて、ありえないほど優しい

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アヴァンタイトルのDAY1シークエンス、ドラッグストアの棚におかれたスペースシャトルの玩具が前作のアヴァンとの残酷な対比をなすことで、リーガン(ミリセント・シモンズ)の塞がらない傷口に塩をすりこむその痛みをワタシたちにすら呼び覚まし、それは取りも直さず彼女がシークエルの牽引者であることを新たな沈黙のうちに告げることとなる。この世界では何がセーフで何がアウトなのか、冷徹なはずのホラーサヴァイヴァルをドラマの熱情で恣意的に解凍する腰高にいささか鼻白んだ前作からしてみれば、弟を自らの過失(とリーガンは考えつづける)によって失い父は自分を守って命を散らし、ならばそうやって生き延びている自分にできることは何なのか、ホラーはあくまで発火装置としてセットしつつ喪失の呪いを贖うためにわが身を投げだすリーガンと、その同じ呪いに囚われたエメット(キリアン・マーフィー)を投入することで、運命に逆流する血のたぎりへと針を振り切ったジョン・クラシンスキーの渾身が胸を焦がす。そのリーガンとエメットのコンビネーションとて、擬似父娘としてしまえばたやすく発火できるところをあくまで対等なパートナーもしくはエメットをリーガンの従者とすることで(キリアン・マーフィーの青い目にかしずく者のメランコリーを見てとったキャスティングは慧眼と言える)、困難と無秩序の世界でアパシーと獣性に陥った大人たちに理性と知性こそが希望をつなぐことをつきつけるリーガンを烈しくそして健やかに掲げてみせている。そしてついに監督が物語への点火を解き放つラストシークエンス、海をはさんだむこうとこちらでリーガンとマーカス(ノア・ジュープ)の姉弟が繰り広げる死闘を串刺す火の吹きでるようなクロスカッティングは、まるでピンボールマシンの2つのバンパーの間を猛烈に行き来するボールが叩きつけるようにハイスコアを獲得して世界を更新する熱狂と覚醒の瞬間を捉えて離すことがない。不条理かつ暴力的に音を奪われた世界、それはリーガンが生きる世界そのものであったに違いないのだけれど、自分より他のすべての人たちにその奪われた音を取り戻すこと、それを成し遂げることでリーガン自身が世界の拠りどころとしての”A Quiet Place(静謐な場所)”となることを予感させて、ジョン・クラシンスキーの構想するトリロジーとしてこの物語が完結するとしたら、次なるシークエルでリーガンは喪失の呪縛を解き放った証として裸足を捨てて靴を履くのだろうと考えている。メクサムファッキンノイズ。
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2021年06月18日

Mr.ノーバディ/殺るか殺られないか

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「この素晴らしき世界/What A Wonderful World」が流れ始めた中盤、正直言って食傷気味なインサートだなあと思っていたら、普通なら最初の2つの有名なVerseで切り上げるところが、そのまま“空にかかった素敵な虹の色が、道行く人たちの顔にもあふれているよ”と始まるBridgeまでこの反戦歌は流れつづけ、それを歌うルイ・アームストロングの声を聴きながらカメラは虹ではなく真夜中の月を見上げてみせて、寄る辺なき修羅の世界を生き抜いてきたハッチ・マンセル(ボブ・オデンカーク)にとって美しい月明かりだけが彼の世界を照らしていたことをそっと告げた気がしたのだ。とはいえ、普通の幸福を手に入れて愛する人たちと普通の人生を過ごす日々は確かに愛おしいけれど、俺が一番上手く踊れるのは底抜けに気のふれた悪党を相手にした時なんだよと、次第にハッチの方こそがユリアン・クズネツォフ(アクレイセイ・セレブリャコフ)に執着していくその姿に見つかるのは、かつてウェットワークに手を汚した自身への悔恨というよりもそうした過去ゆえに陥る歪んだミッドライフ・クライシスを打破するためのスリルジャンキー的な渇望で、そうした狂気の徴があればこそハッチは暴力の理由としてのメランコリーに喰われることなく逃げ切ることが可能だったのだろうし、バスでひと暴れして帰って来た夜、なんだか昔を思い出さないかとささやくハッチの脇腹に開いたナイフの刺し傷を接着剤を使って慣れた手つきでふさぐベッカ(コニー・ニールセン)もまた、地に足のつかない過去の激情を内部に飼う人間であることをうかがわせて、そのまなざしは流血する世界を優しく寛容に見つめる術を知っているかのように見えたりもしたのだ。身も蓋もなく言ってしまえば一人の男のオーヴァーキルな気晴らしにすぎないこの話を、俺には血も涙もあるけれど、そうした叙情よりは暴力の叙事にこそ平等と品性をみつけてしまうのだと、洗練のガンさばきとハンドルさばきで血と涙を振り切るダンディズムのそれに書き換えてしらを切れるのはボブ・オデンカークの逆流するペーソスのノンシャランあってこそで、それゆえか、これがコメディであることをガイダンスする役割を負った父デビッド(クリストファー・ロイド)の造型を少しばかりうるさく感じてしまうのが悔やまれることとなって、あえてタイプキャストを外したマイケル・アイアンサイドの持ち腐れを考えると、この2人が入れ替わったキャスティングを思い浮かべてみたりもしてしまう。カーチェイスシーンでチョイスされるパット・べネターが、全力で叩き出されるイージーの真骨頂となって血が頭に沸き昇る。
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2021年06月08日

アメリカン・ユートピア/天国に行けないあなたに

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「リメイン・イン・ライト」リリース時に渋谷陽一が張った植民地主義的なかっぱらいの論陣をおよそ30年前のロッキングオン読者は懐かしく想い出しもするのだけれど、そもそもロックが黒人音楽からどれだけのかっぱらいを働いてきたのかを冷静に考えてみれば、どちらかといえば渋谷陽一の批判は運命共同体としてのバンド幻想、あくまで自分たちのバンドのギタリストやベーシスト、ドラマーが手に入れたグルーヴこそを掲げるべきで、そうやってロックは突破してきたのではないかという苛立ちだったことがうかがえるし、その後たどったバンドの足取りを知ってみれば、決して民主的な運営が為されていたわけではないトーキング・ヘッズというバンドの楽曲を、いまや無敵のコスモポリタンとしてのデヴィッド・バーンが歌い上げる姿に何周かした後の皮肉をうっすらと感じたりもしたのである。都市生活者の憂鬱をスノッブ上等と痙攣して自虐するポストモダンが、アメリカの囚われ人としての上着を脱ぎ棄てるために必要とした裸足のポストコロニアルが世界を巡って帰還したアメリカでユートピア幻想を歌うその足元に、それはもうお見事としかいいようがなかったのだ。そして唯一手持ちに欠けた時代性をスパイク・リーとジャネール・モネイにあけっぴろげで頼る屈託のない完璧な風通しにはぐうの音も出ないわけで、これはもう皮肉でもなんでもなく、周到かつ綿密な戦略で遂行しなおかつそうと悟られない闊達をまとうスマートの凄味にひれ伏したのは言うまでもない。しかし、デヴィッド・バーンとスパイク・リーの共犯がもっとも辛辣かつ容赦なく行われるのはそのラストで、デヴィッド・バーンを先頭に客席を練り歩く楽隊に歓声をあげる、けっしてたやすくは入手はできないであろうチケットを手に詰めかけた白人客たちの自分たちは完全にデヴィッド・バーンの側にいることを信じて疑わない多幸感に包まれた表情は(もちろんスクリーンのこちらのワタシとてそこに接続されている)、ジャネール・モネイのカヴァーである「hell you talmbout」演奏時にインサートされる犠牲者たちの遺影と悪趣味とすら言える残酷な対比をなしていて、今ぼくがキミたちを連れ出したこの場所この瞬間こそがアメリカン・ユートピアなんだよねと笑わない目でにこやかに踊るデヴィッド・バーンがハーメルンの笛吹にも見えたのだった。
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2021年06月02日

ファーザー/私は誰だった

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見当識を失えば失うほど腕時計とフラットへの執着が妄執と化していくアンソニー(アンソニー・ホプキンス)に、時間と場所という座標軸を失った人間がいかにして寄る辺なき存在になっていくのか、認知症は死の恐怖を緩和する麻酔薬であるといった言説に否定や肯定を下す術など持たない自分ではあったものの、いつ終わるとも知れぬ走馬灯の暴走に蹂躙されるその間は死を怖れることすらままならないという点において有効な考えではあったことを、おそるべき彼方から知らされたように思ったのだ。父のことを想うアン(オリヴィア・コールマン)が現実に介入すればするほどアンソニーの記憶はさらなるシャッフルとカットアップに切り刻まれて氾濫するモザイクと化し、しかしアンは自分が波紋となって父が囚われるヴィジョンやサウンドの一切を識ることが叶わないという断絶が、これまでであればアンの哀しみと困惑の視点で描かれた物語の向こう側にアンソニーが彷徨する漆黒の宇宙空間の恐怖と混乱が存在する構造を成り立たせ、オープニングに代表されるアンの一人称と、フラットを漂うアンソニーの一人称が切り分け不能に思えるのは、その2つがたとえば『インターステラー』の並行世界のように互いを串刺ししていたからで、かつて父に注がれたアンの愛情は時空を超えてアンソニーを包み続け、彼が特異点へと向かう後ろ姿を見守り続けたのではなかったか。最期に自分が誰の名を呼んで家に帰りたいと泣くのか、それを知る術がないことに悔いは残るけれど、一片となって虚空に消えていくラストがああして訪れてくれるのならばそれだけでありがたいと考えている。ワタシの一番好きな色もブルー。
posted by orr_dg at 23:14 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする