2017年09月25日

奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール/あかり、PRESSやめるってよ

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原作未読。奥田民生になりたいボーイのコーロキ(妻夫木聡)はわりとどうでもよくて、それよりは出会う男すべて狂わせるガールたる天海あかり(水原希子)が男たちをみな躁病的に走らせることで彼らの仕事までもブーストさせるその劇薬というか合法的シャブの狂躁的なトリップに身を委ねさえしていればいいわけで、そもそもが30過ぎてロールモデル頼みのボーイでもなかろうよという情けなさを隠しもしない点で既に青春の通過儀礼という共感すらあてにしておらず、まさかイノセンスの喪失というわけでもあるまいしと、ラストで妻夫木聡が流す涙は『マイ・バック・ページ』のパロディであったのかと思うくらいに他人事だったのだけれど、一貫して被虐の男を描き続ける大根作品にあっては、感傷の苦笑いではなく未練たらしくさめざめと泣いてみせることでこの男の本質が変わったわけではないことを告げていたのだろう。それはクレジットロールでの、ハドソン湾で浮き沈みするPARCO内田裕也のごとく東京湾で波に洗われ続けるコーロキの姿によってその受難はダメ押しされていたように思うのである。そしてそういった、幻想の終わりのようでいて実はその自己憐憫さえいまだ醒めぬ夢の中にとどまり続けるあたり、岡本かの子風に言えば質的なフェミニズムというよりは量的な女性崇拝を隠さない大根作品の筋はここに極まれりという感じであった。これに限らず大根作品を観た時の、連続ドラマを1本のドラマに再編集したかのような極めて効率的なカットとその編集はストレスフリーではあるのだけれど、映画は時間を出し抜いてなんぼだろうというその愉しみからすると少々時間に対して従順と律儀が過ぎるのではないかなあと、いつも終盤に向かうに連れ不感症に取りつかれてしまう理由はそのあたりにあるのではなかろうかと思ったりもした。何かというとベロチュウでベッドシーンを代用するアイディアはフレッシュだけど、誰もが水原希子みたいにキッスで殺してくれるわけじゃないし、洋画観てればなんてことない普通なことなんだけど何だかやたらと神々しかったよ。
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2017年09月22日

三度目の殺人/おまえの罪とおれの罰

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それが正当であれ不当であれ、そもそもその正当性の根拠すらを怪訝にうかがうわけで、人が人を裁くことの矛盾や理不尽、残酷や暴虐が食い散らかしたおびただしい残滓が層をなすどこか底の方から、そのイドの怪物として三隅高司(役所広司)はこの世に浮かび上がってくる。そして自らを「器」として近くに来た誰かにその中を覗き込ませては、そこに映ったその者が自身を自身と知らず裁いては光を見失い転落していくことを待ちかまえているかのようであり、それは復讐とかいうよりはこの世界の原初のバランスを回復する作業でもあるかのように、三隅は重盛(福山雅治)を秤の重しと抱きかかえていく。と書いてみれば何となく胸がざわざわしてくるのは、これがかつて役所広司が重盛的な逸脱を演じた『CURE』の反転にしか見えなくなってくるからで、接見室で三隅に喰われ始めて以降、あちこちに見え隠れする十字の意匠は次第に三隅から重盛に手を伸ばし始め、ついにはあまりにもあからさまなラストにおいて重盛が永遠に背負うことになる重荷を突きつけてはほくそ笑んでみせるのである。一見したところ、法のシステムが抱える矛盾によって手段が目的化していく法の現場を舞台立てとしつつ、しかしそれは人間が人間を裁くという本来相討ちのような行為を無傷で行うために用意された鎧に過ぎないのではなかろうかと、三隅の怪物は裁くものが負うべき覚悟と激痛を知らしめるべくその鎧をガラス越しに剥ぎ取っていく。その結果、三隅による汚染によって弁護士としての正気/勝機を失っていく重盛の処刑は、三隅への死刑宣告によって完遂されたように思うのだ。とはいえ確かに三隅の元雇い主かつ咲江(広瀬すず)の父は河川敷で焼かれて死んでいるわけで、フーダニットの筋から言えば実行犯は三隅であるにしろ、なぜ夜の河川敷に被害者を呼び出すことが可能だったかと言えば、それはおそらく咲江がそこにいたからなのだろうとワタシは考えていて、それは劇中で咲江が告白するある事情からすれば不自然ではないのだけれど、なにしろ咲江は三隅が嘘をつく子と呼ぶ娘でもあるしワイダニットについては完全な藪の中に収まったままで、何しろ監督が全身全霊で注力しているのはすべてを藪の中に収めてなお物語を成立させるアクロバットに違いなく、同じ殺人でも怨恨と金目的では量刑が異なってくるという物語前半での会話が、法のシステムにおいては真の動機が無効化されることで罪と罰が成立することをあらかじめ示唆していることを思い出してみると同時に、この世界には生まれてこなかった方が良かった存在もある、というたびたびの言葉が、人を裁くということはその全存在を否定する行為であることを言い換えていたことに気づいたりもするのである。最後に三隅が殺意のように吐き出す「理不尽」という言葉は、罪に至るすべての人生を検証されることなく人は裁かれ罰として命すら奪われる行いを指していたのだろうし、監督が手練手管のアクロバットを総動員したのは、ひとえにこの「理不尽」を回答として着地させるためであったに違いないと思うのだ。三隅が仕掛けた相打ちによって「理不尽」の毒を盛られた重盛は、おそらく弁護士としては緩慢に死んでいくことになるのだろうし、してみるとミステリーというよりはホラーに舵を切らざるをえなかった監督の決断も必然ということになるのではなかろうか。ホラーは原理であると同時に不条理だから、逃れようがなく怖ろしいのである。いけすかないノンシャランをサバンナで捕食されるトムソンガゼルのチャームで包んだ福山雅治を仕立てたのは監督の慧眼。エヴリマンの凡庸によって自分の堕ちた運命に最期まではっきりと気がつかないからこそ、あのラストの残酷な忍び笑いではやし立てるような余韻がいつまでも途切れることがないのだろう。それにしても、広瀬すずのおでこの完璧すぎるRであった。
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2017年09月19日

エイリアン:コヴェナント/神様の憂い奴

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プロローグでピーター・ウェイランド(ガイ・ピアース)がデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)に向かって語る「わたしたち人間はいったいどこからやってきたのか、その答えをわたしとお前とで探し出すのだ、わが息子よ」という問いかけこそが『プロメテウス』の出発点であったはずが、その続篇とされた今作においていともたやすく「エイリアンはどこからやってきたのか」という問いかけにすり替わっていて、それはおそらく、寝起きのエンジニアに永遠の命をねだったあげく、どの口が寝言をほざくか身の程知らずめ、もうお前は永遠に死んどけと一蹴された創造主ウェイランドの醜態に愛想が尽きたのであろうデヴィッドが、我こそが永遠の創造主たり、我が業を崇めよと名乗りをあげたことによっているわけで、と同時に先だっての問いかけの答えは「エイリアンはどこからやってきたのかと言えば、それは私が創り出したからだ」というリドリー御大による今さらながらの自負と自尊として提示されていたように思うのである。当初バカ正直に『プロメテウス』の旅を続けるつもりでいたワタシは呆気にとられはしたものの、そんなつもりが毛頭ないことを知った上でそちらへと合流してみれば、私こそが創造主たり得るのだ、どれだけ優秀だろうと哀しいかなキミには創造することが許されていないのだと新型アンドロイドのウォルターを憐れみ蔑むデヴィッドこそがリドリー御大であったことに気づくわけで、ダニエルズ(キャサリン・ウォーターストーン)のタンクトップに始まるほとんど『エイリアン』のセルフパスティーシュと言ってもいい今作の構造は一体誰がこれを始めたか思い出してみろと言っているようでもある。『プロメテウス』以降、トニーのためのピラミッドとして『エクソダス』を撮り『オデッセイ』では死の香りのしないコズミックサバイバルを仕上げ、と先進の楔を打ち込むよりはどこかしら心ここにあらずな風を感じ取っていたところが、今作においてリドリー・スコットは初めて後ろを向いて映画を撮っていたように思うわけで、AVPに心を痛めた者にとってはゼノモーフ神話の再興はそれなりに胸がすく思いであるにしろ、御大の幻視する視線が立ち止まってあたりを見回していたことに少なからず驚きをおぼえてしまったのだ。とはいえ緊張と緩和が同時に炸裂する隔離室の血滑り地獄は、はからずもカメラがとらえた質量がフレームを超えてしまう映画ならではの一瞬でもあったわけで、それを2度立て続けに繰り返した軽い狂気のひらめきにほっと胸をなでおろしたりもしたのだった。H・R・ギーガーもダン・オバノンもいない宇宙空間をリドリー御大がひとり虚空を睨みながら漂っている。
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2017年09月14日

散歩する侵略者/Before We Punish

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オープニングの、水の中をひらひらと泳ぐ金魚にああ気持ちが良さそうだなあと思った涼やかな気持ちは意外にも加瀬鳴海(長澤まさみ)がそっと蜜柑の香りをかぐ最後までさほど変わることがなく、ここから先は一人で歩いて行きなさい、だけど世界は変わってしまったからキミの知ってる道はもうないけどね、と丁重に追い払われては、わかりましたそれはご親切にどうもと頭を下げる被虐の愉しみはないものの、死が幻であるのに比べれば愛は実体として現実にあるものだ、と語った監督の描く愛に関する叙事詩を、ワタシは最後まで追い払われることなく見届けることが許されたように思うのである。本来であれば桜井(長谷川博己)が世界の変質を代弁しつつ新しい世界を規定していくところが、世界の正体は愛であるという認識にはからずもたどりついた鳴海と真治(松田龍平)の加瀬夫妻が世界の守護者としてそれを迎え撃つことを許しているわけで、その結果がもたらすゼロ地点の見晴らしが冒頭で述べた涼やかな気分を良しとしたにしろ、そんな風に二項の相殺によって世界を均すやり方に、ああ、桜井の愛は打ち棄てられなければならないのだなと、わかっていたこととは言え戸惑いをおぼえたのも確かだったのだ。戯曲にも原作にもふれていないので脚色の出し入れについてはわからないのだけれど、おそらく監督の興味をひいたのは人間の概念を奪う宇宙人による侵略モノというその設定に過ぎなかった気もして、そうしてみると桜井といういかにも黒沢清的な人間はラブストーリーにサスペンスを施すための装置として投入された意味合いが強いのだろう。一方で、変質して帰ってきた夫によって再生する夫婦の物語という点では『岸辺の旅』の変奏とも言えるわけで、真治の着るシャツのオレンジが浅野忠信のコートを想起させる点などこちらの参照を待ちかまえている素振りすらある。そして参照と言えば、立花あきら(恒松祐里)と車田刑事(児嶋一哉)の格闘シーンが、『Seventh Code』 で前田敦子と鈴木亮平が繰り広げたそれの、体格で劣る女性が男性を撃破するアイディアやコレオグラフをほぼ踏襲していることで、他にもあきらの見せる機関銃のガンファイトや、かつての東映ヒーローもののように桜井が爆破の花道を駆け抜ける長回しなど、すべてはこれらアクションを撮るための方便だったのではなかろうかとも思った次第で、ともすれば言葉で規定されてしまう世界の鬱憤をはらすかのようなオーヴァーキルとも言えるたたみかけに、現場でひとりほくそ笑む監督の笑顔が浮かんだ気もしたのである。そもそも愛と表裏をなす死の概念を真治はどうやって手に入れたのか。どうせ死ぬなら真ちゃんが殺してとせまる鳴海をどうして真治は突っぱねたのか。彼女を殺せない理由こそがその時点では真治が未だ知らぬ愛だったのだとしたら、殺すこと=死の概念を真治はいったいどう理解していたのか。ワタシはそこでけつまずいてしまったこともあって、最後の爆撃をくらって垂直にポ〜ンと飛んでいく桜井の後ろ姿をピークと収めることにしたのである。「それでも宇宙人かよ!」とかいう吉岡教授愛にしびれた。
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2017年09月11日

ダンケルク/そして兵士になる

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時間の再構成については、そうすることで時間の概念すら失われる状況の只中に観客を放り込み、時間軸を取り上げられてただただ眼前の時間に身を任せる喪失と混乱のためのデザインであったということになるのだろう。したがって、戦場における死そのものを描かないのは観客が追想し没入すべきは死の感覚ではなかったからに他ならず、戦争で生と死を分けるものなど誰にもわかりやしないことを鋼の叙事で描きつつ、にも関わらず自己犠牲という行動をわれわれ人間の本能としてとらえる叙情をいつになくストレートに描くことで最終的に人間は期待と信頼に値する存在であることをノーランは告げていたように思うのである。とはいえ戦争という物語である以上、人間は、というよりはイギリス人は、という描かれ方になるのだけれど、それは愛国的というよりも戦争のミクロを描くことで普遍を探るための手続きだったのだろうし(戦闘機以外ドイツ軍を一切描写しないのもそのためだろう)、生きのびた者もすべて何かしらの代償を払わされていたことで平衡を保っていたのは言うまでもなく、ジョナサンがクレジットされない単独脚本ということもあってか、ノーランの映画についてまわるある種のご都合主義とも言える暗闇の楽観がこれまでにない衒いのなさで正直に発揮されていたのではなかろうか。だから、CGを蛇蝎のごとく嫌い実写に拘泥するのも、懐古や回帰というよりは映画という嘘八百の中で自分に課した嘘つきの矜持に関わる問題であり、無い袖を振るにしてもそこにはほんのわずかでも世界の切れ端がなければならぬというノーランの資質としての(馬鹿)正直の現れであるように思うわけで、その振る舞いが傲慢と言うよりは依怙地に見えるのもそういう根本があるからなのだろう。それは同時に、最終的にカメラが撮した/撮してしまったものへの崇拝とそれに身を委ねることへの恍惚であり、作品ごとの博打はともかくその点においてタランティーノにそうであるようにノーランを信用している。足元に漂ってきた死体を無言でそっと押しやる、らしからぬ詩情の昏睡がむしろ刺さる。
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2017年09月08日

新感染 ファイナル・エクスプレス/おれの目の黒いうち

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※物語の展開にふれているので未見の方スルー推奨

スアン(キム・スアン)をハブとしつつ、ある種の群像劇として自己犠牲のバトンで繋がっていく物語の感情とスピードが絶えず均衡を保ち続け、感情を乗客、スピードを列車としてみればそこに慣性の法則という言葉など思い浮かべたりもしたわけで、その的確なバランスがもたらすストレスフリーがページを繰る手の止まらない快感を呼んだということになるのだろう。それによってゾンビものの見せ場ともいえる籠城戦の倦怠とメランコリーを手放してしまうことにはなるものの、見方を変えればその停滞からは自由になったとも言えるわけで、スピードに慣れてきた頃合いに行われるギアチェンジのタイミングと、『大陸横断超特急』的な大団円を予想させつつそっと肩に手を置くようにひそやかな減速で停車するラストも含め、スムースに先回りする巧みな操車によって最後まで足元がふらついてしまうことはなかったのである。しかしそうやってクリアに輪郭化された半ば記号の動きですべてが腑に落ちてしまうからなのか、つまずいては脛を打ちつける痛みや素手に刺さったささくれの不快が恋しかったのも正直なところだし、そのスピードを維持するためなのだろう瞬時の発症パターンがワタシの好みとしては少々落ち着きがなかったわけで、主要キャラクターによってはそれなりの猶予があったものの、そのタメのなさもあって密室の潜伏サスペンスを不可能にしていたのもやや食い足りず、例えばあの老姉妹の妹が実は噛まれていたことを言い出せずにいたのであれば、ついに発症した彼女が独善的な集団を片っ端から屠るシーンを手に入れられただろうし、その消えゆくかすかな理性を頼りに姉と邂逅を果たす切なさまでも可能としたのではなかろうかなどと妄想してしまうのだ。だいたいがワタシはさほど「泣き」に興味がない観客なので、要するに慟哭する悪趣味が足りなかったということである。乗り合わせたバス会社常務の定型な役回り(しかし最期に理性が燃え尽きる瞬間の哀しみは忘れがたい)を見るにつけ、思い出すのは『タワーリング・インフェルノ』のリチャード・チェンバレンであって、それなりのフィルモグラフィーを持った俳優なのに何だか申し訳なく思ってしまう。「アロハ・オエ」があんな思いつめたような歌詞だったのは初めて知った。火だるまで疾走する列車が『宇宙戦争』だとすれば、泣きべそをかきながら世界を守護するスアンの一途はダコタを奈落に蹴落としていた。『ディストピア パンドラの少女』の低速突破とこれで一対のゾンビ新世紀か。
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2017年09月04日

パターソン/エンドレス・バケーション

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NYブランク・ジェネレーションというおそらくはビートニク最後の直系ムーヴメントに若きジム・ジャームッシュが名を連ねていたことは今さら言うまでもないし、界隈の仲間であったクリス・パーカーを主役に据えた処女作『パーマネント・バケーション』をこの世界の棚に並べて以来、ジャームッシュが控えめだけれど譲らぬ光と音のつづれ織りで書き記してきたのが都市のビートニクによるささやかでロマンチックな抵抗であったこともなおさら言うまでもなく、階層された社会に分断されどこにもいけないボヘミアンが漂泊への憧憬を語るメランコリーが、本来ワタシたちがあるべきいるべき場所を幻視させることでビート・ジェネレーションの水脈を今に至り繋げてきた気がするのである。そうしてみると今作は、ビートニクたちの祖先たるソローの謳う土地と人間のプリミティヴな関係やホイットマンが市井の人々に見出した可能性の光を礎に描くことをテーマとした点で、ジャームッシュにとっての穏やかで深々とした原点回帰であったように思うのだ。したがってパターソン(アダム・ドライバー)はどこへも行けないのではなくどこにも行かないのであって、バスの運転席という人々の歩く道路からは少しだけ浮遊した場所から世界を眺めては、彼だけに見える角度でこの世界の様々な横顔やそこに映る自身のポートレイトを、自身と世界の意識の分断を阻むべくネイキッドな言葉を探り出しては書き留めていくわけで、彼が携える秘密のノートは彼の魂が出入りした世界のスタンプが押されたパスポートということにもなるのだろう。してみると、バスの故障による視線の喪失とノートの破壊すなわちパスポートの紛失という彼を襲った不幸は、彼が無意識に規定しつつあった世界の自由がもたらした揺り戻しであったとも言えるわけで、茫然自失のパターソンがベンチに座り澱まない流転の象徴ともいえる滝を眺める時、彼に話しかけたのがいったい誰であったか、その日本から来た詩人(永瀬正敏)こそは詩神の使いであったのでなかろうかと思うわけで、過ぎた日々に拘泥するな、きみのやり方で動き続けろ(意訳)というメッセージを残し新しいパスポートを渡して去っていく救済の儀式は、ジャームッシュが自身にあらためて言い聞かせた言葉でもあったように思えるし、ここで新しいノートを抱いたパターソンに向けて行われる劇中ただ一度の静かでひそやかなカメラのズームアップはそれを天啓とした徴にも見えたのだった。そうやって自身を更新しては、さあまたこの道をずっと行くのだと告げるラストの、清々しさと微かな倦怠の入り交じったやわらかな不穏の見覚えは、かつて遠ざかるニューヨークを船上から見つめたクリス・パーカーのまなざしであったことを想い出し、30年を経てなお得るものよりは失うもののブランク=空白に可能性とロマンを待ちわびるジャームッシュの止まないパンクに暗闇でかき乱されてしまうのだった。とはいえ、違うけど同じ、同じだけど違う韻の象徴としての双子という発明のチャーミングも、いつもどおりの変わらぬ一端。


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1978 Bowery, New York
Outside CBGB
Klaus Nomi, Chris Parker, Jim Jarmusch
photo by godlis
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2017年09月01日

ワンダーウーマン/vsドクターポイズン 女がひとりで眠るには

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思いのほか『ローマの休日』タイプのロマンスと成長に支配されていて、取りざたされるガル・ガドットの出自がさしてノイズとなるほどの角度を持った主張や思想が書き換えられていたわけでもなく、それは”man”に向けられた愛なのかそれとも”mankind”になのか、その逡巡や困惑も自覚されないまま暴れまわるダイアナの一人相撲に、ようやく王道を歩むDCEUが生まれた気がしたのである。したがって、セミッシラ島でお勉強はもういや!と逃げ回るダイアナの、ではアマゾン族の帝王学としてダイアナは善と悪をいかにして識り世界の理をどう理解したのか、そのお勉強のステップを告げておいた方がその後のダイアナの肯定と否定のドラマに奥行きが生まれたであろうことも、チーフ(ユージーン・ブレイヴ・ロック)に侵略の過去を語らせながらではなぜそれを善き人(であるはずの人)がそれを行ったのか、そもそも金で雇われて遂行される善とはなんぞや、といった疑問を解き明かすことも、その運命としてひたすらギャオスを追うガメラのようにアレスのいる戦場を求めるダイアナの前にあってはそれに割く時間などあるはずもなかったわけで、しかし内省でドライヴするMCUを物欲しげにながめることをやめたその割り切りこそが、軽やかに吹っ切れた戦場の跳躍を可能にしたのだろう。それは、前述した『ローマの休日』が胸を締めつけるように言葉を呑み込んで死守した「愛」などどこ吹く風とあっさり同衾を許してしまう豪快さにも見て取れるわけで、けっこうな境界を越えたにしては何の上書きも感じさせない翌日の2人の描写といい、そうした些細なことに拘泥する自分もまたMCUの奴隷になっていることに恥じ入るばかりであったのだ。待ち望んだアレス=パトリック卿(デヴィッド・シューリス)に対峙しつつ、あ、ルーデンドルフ(ダニー・ヒューストン)を串刺しにしたままで剣がない!と気づいたダイアナがもういちど屋根にのぼって剣を抜きまた戻ってくるまで、部屋の中でゆらゆらと立って待っているアレスの優しさも五臓六腑にしみわたる。酔いどれスナイパーのチャーリー(ユエン・ブレムナー)がここぞの一撃を見せるのをワクワクと待っていたところが、シェーン・マッゴウワンばりに歌い上げるのが唯一の見せ場であったという定石外しにもしてやられた。ところで、第二次大戦から第一次大戦への改変はアレスがなりすますのがある一人をおいて他に考えられず、もしダイアナがかりそめもろとも彼を倒したら体制と戦線は崩壊してしまい、今回のオチが成立しなくなるからということでいいのだろうか。だとしたらやはりとってつけたような話に思えてしまうのは否めないのだけれど、これを乗り越えていくのがドラマのアンビバレンツに悶絶しその関係性をしゃぶりつくしては恍惚とするただれた思春期にいまだ沈むワタシたちの成長痛ということになるのだろう。ハニートラップ以降のマル博士(エレナ・アナヤ)とダイアナの残酷な対比であるとか、監督が血を滲ませたかったであろう爪痕によだれをたらしてしまうワタシはまだまだ品がないということになるのだけれど。
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2017年08月29日

エル ELLE/終わったら教えて急いでるから

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※展開に触れているので未見の方一応スルー推奨。

例の一件の後でミシェル(イザベル・ユペール)とレベッカ(ヴィルジニー・エフィラ)が通りでかわす一言二言には、台風一過とまではいかないまでもそれを共にやり過ごした者ゆえの戦友的な連帯感が目配せしていたようにも思えたし、せっかくやり直すんだから好きなようにやらせてもらうわとでもいう晴れ晴れとした足取りで去っていくミシェルとアンナ(アンヌ・コンシニ)の後ろ姿に、これが復讐譚というよりは復活譚、さらに言えば復旧譚であったことが見て取れた気がしたのである。したがって、タイトルの“ELLE”が指し示すのはミシェルのみならず、災害としての男性に直撃されたアンナやレベッカ、ジョジー(アリス・イザーズ)ら生き残ったすべての女性たちということになるのだけれど、なかでもミシェルの特異点は男性がもたらす災害を天災として諦めてしまうのではなく、それを人災として自分も避けがたく発生のメカニズムに組み込まれていることを前提に罪と罰の配分を決定している点であり、被害者というよりは免責されないゆえに対等なプレイヤーとして災害を利用し乗りこなす姿であったように思うのだ。それは少女の頃からおそるべき災害として認知され扱われてきたミシェルが身につけた処世術というか殴り方であって、彼女がパトリック(ロラン・ラフィット)を当初告発しなかったのも、彼の中の災害を同情はしないけれど理解したからであったのだろう。自分が面会に来ることを知った父が独房で首を吊った知らせを聞いても、顔色一つ変えずにはいるもののどこかしらしらけた感じで、それからは自分を襲うパトリックに説教したり自らアンナに旦那との浮気を告白したりと、相対化のモンスターとしてのミシェルが急遽バランサーを調節して彼女なりに真人間へと浮上していくおかしさといくばくかの哀しみや、彼女が深淵の怪物をのぞき込むことをやめさせたのが災害とは永遠に無縁であろう息子ヴァンサン(ジョナ・ブロケ)の一本気であったという皮肉はヴァーホーヴェンなりのハッピーエンドということになるのだろうし、ヴァーホーヴェンにしてはという但し書きなしに、ラストには爽快とすら言える追い風がそよいだようにも思えたのである。右目では別にこれが初めてってわけでもないしと呟き、左目ではだってこれで最後ってわけでもないしとささやくイザベル・ユペールがあたりを凝視して立つ場所の屹立したニヒルゆえ気やすく手は伸ばしづらいにしろ、ヴァーホーヴェンが描き続けてきたワンダーウーマンの最新型として、ミシェル・ルブランならこうするね、と語り継がれていくであろうハマチ好きのハードボイルドクイーンの誕生を祝福したい。
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2017年08月27日

ビニー/信じる男vs石の拳 Let's Get Ready To Fumble !

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「何かって言うと、ビニー、そう単純な話じゃないんだよ、って言われ続けてきたけど、いざやってみれば、っていうか俺がやってみせたみたいにさ、なんだって単純な話なんだよ」とはからずもビニー(マイルズ・テラー)が語ったように、基本的にボクシング映画は地獄の底にタッチして還ってくる地獄めぐりの定型からほとんど逃れられないわけで、『レイジング・ブル』が異質かつ孤高なのは地獄に行きっぱなしの人生を描ききることに空前絶後で成功しているからである。したがって、あらかじめ往復切符をポケットに突っ込むしか選択の余地がない場合、地獄の光景がそのまま帰還のドラマを質量ともに決定してしまうことを考えてみれば、ここではボクシングで勝ち得た自身の存在証明をアクシデントによって奪われたことによる精神と肉体の「痛み」との闘いがビニーにとっての地獄めぐりとなるのは当然なのだけれど、精神の「痛み」については世界に見捨てられた孤独と怒りという常套をなぞればいいにしろ、ビニーに取り憑いたはずの肉体の「痛み」がどうにも致命的に描かれていないのである。頸椎を折りながらも外科手術を拒み保存治癒を選ぶことでほとんとヘルレイザーの拷問器具のような固定装具を装着するあたり、何しろ頭蓋骨に直接ビス止めするといった豪快さにワクワクしたのだけれど、その後ビニーが痛みを露わにするのは車に乗り込む時に装具が当たってうめくといった程度に過ぎず、頭部へのパンチを受けるにしろかわすにしろボクサーにとって生命線となる首の致命的なダメージがもたらす、痛みそのものに対する恐怖と克服への不安がまったく描かれないこともあっていっこうに地獄が地獄に映らないのである。このあたり、監督の痛みに対するフェティッシュはともかくとして、肉体と精神がそのダメージにおいて直結するボクシングという競技自体へのフェティッシュが足りていないように見えてしまうのがどうにも物足りないわけで、ビニーの肉体と精神の回復はなによりその痛みを目盛りにして復活の足取りを刻むべきだったように思うのだ。そしてもう一つ、トレーナーであるケヴィン・ルーニー(アーロン・エッカート)の無駄づかいがある。なぜ酒浸りで腹の出たトレーナーがポルシェなど転がしているのか。彼もまた世界の居場所を奪われた男であることは、カス・ダマト亡き後ドン・キングによってチーム・タイソンから放逐されたその過去に言うまでもなく、彼とビニーの共闘がアンダードッグの逆襲であることを告げていれば地獄めぐりを加速する格好のブーストたり得たであろうだけに、ケヴィンすらも何とはなしの定型におさめてしまったことも歯がゆくて仕方がない。監督の目的がボクシング映画を撮ることではなく、ビニー・パジェンサというあらかじめ酩酊したドラマを抱えたボクサーのバイオグラフィを映像化するに過ぎなかったことはほとんど手続きと化したファイトシーンを見れば瞭然だし、そのドラマにしたところでマイルズ・テラーというペインジャンキーを馬なりに走らせたに過ぎず、クレジットロールで実録映像をインサートしては、どうよこれ、バッチリ再現してるっしょという得意顔には、だったらロベルト・デュランもせめて髪型くらいは似せとこうぜとか、実際には3-0の判定を気を持たせてじらすためにイーヴンを入れ2-0の判定に改竄するのは気にしないんだ、とカウンターで嫌味を一つ二つ返してみるのであった。


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『ハンズ・オブ・ストーン』

そのロベルト・デュランをエドガー・ラミレスが演じた、やはりボクシング映画というよりはパナマの英雄としての伝記映画。祖国パナマとアメリカとのねじれた愛憎を背景にしたことで破壊的な天才ボクサーとしてのデュランの剥き出しに紗がかかってしまい、タイソンの噛みつき事件に匹敵するスキャンダルといってもいい「ノー・マス事件」についても何だかお茶が濁されてしまっているのが残念というか気概不足。全盛期のシュガー・レイ・レナードのシルキーなアウトボクシングを役者で再現すること自体がそもそも無理だったという言い訳はあるにしろである。ならば「私が悪いやつに見えるのは、私が業界でただ1人の黒人プロモーターだからだ」と開き直るドン・キングに「そんなの関係ないね、あんたにはボクシングってものに対する責任てものがあるんだよ」とやり返すレイ・アーセル(ロバート・デ・ニーロ)たちが蠢く周辺の人間模様をもう少し掘り下げて活写すべきで、前述の2人に加え、ジョン・タトゥーロ、エレン・バーキン、ルーベン・ブラデスといった滋養深い手練れがあまりにも手持ちぶさた過ぎた。ほんの一瞬、デ・ニーロのシャドーが見られるという僥倖でワタシは手を打ったけれど。
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2017年08月22日

ベイビー・ドライバー/ベイベー、逃げるんだ

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青春の蹉跌を振り払って立ち上がる話に『ホームカミング』のターンがダブって見えたりもしたのだけれど、間違っても大上段の話を語る気などさらさらないこの後腐れのなさこそがエドガー・ライトであったというか、やはり親子の相克よりはスコットと三バカの話で振り回したかったであろう『アントマン』降板もやむを得ないだろうなあとあらためて納得したのである。誰かを傷つける(もちろん物理的に)ことに対してあれほど潔癖であったベイビー(アンセル・エルゴート)が相手はともかくとしてあっさり銃をぶっ放したあげく、デボラ(リリー・ジェームズ)を暴力の連鎖に巻き込むことにもさして頓着しないノンシャランの、ベイビーにしろドク(ケヴィン・スペイシー)にしろデボラにしろ、行動原理を曖昧にうっちゃって尻尾を隠したまま笑って駆け抜けるパンキッシュにこそ快哉を叫ぶべきで、エドガー・ライトの場合それは弱点というよりはほとんどダンディズムに近いといっていい。これまでは無駄口を叩きながらダラダラと歩くことがほとんどだったこともあるのだけれど、今作ではとにかく逃げまくるスピードとリズムが生来のスキゾフレニーをことのほか加速させていたように思うのである。エドガー・ライトのそうした生来ゆえ投影があちこちに散らばって集中した主人公が成立しないという手癖も相変わらずではあるのだけれど、ここではそうやって曖昧につながったチームを裏切るというサスペンスがそのまま通過儀礼を兼ねるというシナリオの妙もあり、逃走への喝采が無邪気で無責任に許されていたことでエドガー・ライトらしからぬ無条件の痛快と爽快がポケットに残されたように思うのである。ベイビーを追ってデボラが部屋に入ってきたのを見たドクの、ああ、まったくもうしょうがねえな、自分が即死寸前の状況にいるのも知らないでそんな目をしちまうんだ、その上なにがめんどくさいって、昔そういう目で俺を見た女の子がいたことや、結局その娘にしてやれなかったことやなんかを思い出しちまったんだよな、ああ、わかったよ、その娘込みでの罪滅ぼしをしてやるよ、っていうコンマ5秒の変調をとらえたシーンがマイベスト。WALKMAN(レコード)からDISCMAN(CD)になって一番変わったのはMIX TAPEを作らなくなったことだったのだけれど、iPodはそれ自体がひとつのMIX TAPEでもあったのだなあと今さら気がついたりもした。だからさ、盗られた人はけっこう凹むんだよ、ベイビー。
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2017年08月20日

ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦/プラハ心中

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人が人を殺すことに希望を見出す時代の、ワタシたちだけが知っていて映画の中の彼や彼女が知り得ない凄惨と絶望が、それはワタシ達の快適で完全な安全が保証されているからこそなおのこと容赦なく全身全霊で苛んでくるわけで、ヨゼフ・ガブチーク(キリアン・マーフィー)やヤン・クビシュ(ジェイミー・ドーナン)への理解や共感、同情を求めるというよりは、彼らの道行きを知りつつ指を加えて見ているしかない圧倒的な無力感できみたちは崩れ落ちればいい、そうやって胸をしめつける強拍と腹にくらった鈍痛の調べをレクイエムとすべく私はこれを撮ったのだとでもいう、ショーン・エリスによるルドヴィコ療法のような120分であった。この人は死んでしまう、この人も死んでしまう、この人もおそらくは死んでしまう、この人は確実に酷く死んでしまう、といつしかスクリーンの中はたくさんの死人が歩き回ることになり、それら死人が笑ったり恋や未来を語ったりするのを見るたびに何だかワタシも死んでいく気がしたのだ。監督自らがカメラを手にすることで感情の距離を最優先にデザインすることを選んだ前作『メトロマニラ』では、異邦人ゆえのエキゾチシズムへの陥穽を意識するあまり、カメラの強硬なリアリズムがマジックリアリズムへと近づいてしまった是非が否めないにしろ、今作に向けた習作というには既に圧倒的なリズムと角度を手にしていたし、ここに至ってカメラは神の目を放棄することでメッセンジャーとして共に血涙にまみれることを宣言していたように思うのである。その目に映ることだけを世界のよすがにしつつ、息を止めて潜水を続ける時間の緊張と強圧がほとんどヨゼフの視点に憑依していたからこそ、最期の時にたった一度だけ彼とこの映画が自らに許した夢想が、この壮絶な地獄めぐりの美しくも儚い救いとなったのではなかろうか。最期に大聖堂で繰り広げられる悪夢的な激闘は、終始途切れることのない銃声と跳弾の音を祈りの声と彼らを送る葬儀のようでもあり、それは人間が尊厳と共に生きる正気の世界へと一人ずつ脱出していく儀式に他ならず、となればこれを『ダンケルク』の異形の双子として目撃しておくことは必須であるように思ったのだ。ロマンチック・コメディ、ニューロティック・ホラー、犯罪ドラマと作品ごとにテーマとスタイルをゼロから立ち上げてきたショーン・エリスだけれども、それらすべてを貫いているのは、世界と切り離された人間がその手を伸ばし夢想された約束の地へたどり着こうと挑む姿であって、それがどんな結末になろうとも哀しみで覆い尽くされてしまわないのはその試みの絶えざる純度が透明を誘うからなのだろう。そしてそこに透ける明かりを識るために映画館は彼に暗闇を用意しているように思うのである。本当に知るべきは彼らの功罪ではなく、床に転がった青酸カリがなければ私は“死んでしまう”のだという想像を絶する恐怖なのは言うまでもない。
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2017年08月18日

君はひとりじゃない/犬は吠えるが幽霊は微笑む

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白昼堂々、やおら歩き出した首吊り死体に狐につままれたような気分になったところで、つづく父ヤヌシュ(ヤヌシュ・ガイオス)と娘オルガ(ユスティナ・スワラ)が向き合う父子2人の食卓には、何やら切り抜かれた人型のような物体がひっそりと同席していることに気づき、しかし冒頭の死体同様それに干渉することもされることもないという、マージナルの補助線が早々に取り上げられてしまうことで、この映画はそれ自体を問いかけにしているわけではないという意思表示でもあったのだろう。そこから先は幽霊も交えてふんだんにスピリチュアルな意匠をこらしつつ、しかし重心を置くのはあくまで原題でもある ”BODY” なわけで、ヤヌシュを日常的に死体(=BODY)を扱う職業に就かせた設定もその意図があってのことだろうし、摂食障害を抱えるオルガが自分の肉体を自傷することや、セラピストであるアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)の行うセラピーが乖離した肉体と精神を互いに意識させることで再び繋がりを取り戻すことを目指していたことなど、全体を覆うのはもうここには永遠にいない者への尽きぬ喪失でありながら、生きているものがその喪失の先へ進むには肉体のもたらす手ざわりを確認することで喪失を見据えること、しからば宙を見つめるのではなく足元を探れという笑顔の荒療治がこの映画のなんとも愛すべき痙攣を呼んでいたように思うのである。果たして喪われた者はどこかに“居る”のかという、本来クライマックスとなるべき降霊会ではほとんどパロディと言ってもいい舌の出し方を見せつつも、かつて倒れた娘を死体でも扱うようにかつぎ上げた父と、私にさわらないでと叫んだ娘をひとつの目的に向けて手をつながせたのは誰であったのかを考えてみれば答えはおのずと明らかであったし、仮に幽霊がイマジナリーフレンドだったとしてそれは問題だろうかという柔らかな居直りが、生きている者の芯の強さになり得たように思うのだ。起きながら見る夢の素っ頓狂なモザイクとしては『ヒアアフター』あたりにも近い。犬のデカさだけでアンナのパースを非日常化するアイディアには少し唸った。食事が片っぱしから不味そうなのも心根が悪くていい。
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2017年08月15日

スパイダーマン:ホームカミング/あるいは(無垢がもたらす予期せぬ奇跡)

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それは果たしてケヴィン・ファイギだったのかどうか、『COP CAR』を観た誰かもまた、火線と死線をかいくぐった少年が泣きべそで解決しない世界のことわりを時速100マイルで超えていくラストの加速Gによって蒼い血が逆流したに違いなく、ジョン・ワッツに求められたのがまさに青春のデッドエンドをぶち抜くギアチェンジであったことが、ピーター(トム・ホランド)がリズ(ローラ・ハリアー)の家のドアを開けることで開始されるアヴェンジャーズ版アカデミック・デカスロンの、苛烈で寄る辺ないひとりぼっちの闘いによって告げられていたように思うのだ。そしてトゥームス(マイケル・キートン)の運転する後部座席から彼を睨みつけるピーターに渦巻くのは、自分と自分に関わる人達(リズを含め)を脅かす/脅かした男への復讐(revenge)なのか、あるいは彼の持つ善からぬ力への本能的な鉄槌(avenge)なのかいまだ混沌とした感情であったにしろ、最愛のリズが傷つくことになるのは百も承知の上で、より多くの人が傷つくことを今ここで阻止できるのは自分しかいないという使命感の熱情と焦燥だけを頼りにホームカミングを後にするのである。この闘いの中、瓦礫に埋もれたピーターを襲う絶望的な孤独と恐怖があげさせるプライマル・スクリームによって、そのリミッターが外れていく姿の仄昏い高揚はかつて『COP CAR』に刻まれた爪痕を否が応でも思い出させるし、そんな風に全体のバランスを崩しかねないピーキーな通過儀礼を手なずける手腕をジョン・ワッツに求めたことが何と言っても最大の勝因なのは間違いないだろう。とにかくこのスピードを落とさないままあの急カーヴに突っ込んで抜けていかねばならない、信号は黄色だけれどアクセルをベタ踏みしたままこの交差点を突っ走らなければならない、それによって起きる混乱も巻き添えもその是非を問うことは今はまだしないでおこうという熱に浮かされたモラトリアムの危うさこそが、まだ何者にもならないトム・ホランド・スパイディの魅力だし、アヴェンジャーズに取り憑くマッチポンプの憂鬱をサラッとかわしたことで手に入れた自由時間こそが他のマーヴェル・ヒーローとは一線を画す徴となったように思うのだ。それだけに、彼を取り巻く大人たちの中でもメンターとしてのトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr)がその真情をあらわにせざるを得ない瞬間も多々あったわけで、自己犠牲は手段であって目的ではないと説教する姿が浮かび上がらせるのはどこかしらキャプテン・アメリカの危うさでもあり、劇中でアメリカのメンターとして様々に登場するキャップを見るたび、『シヴィル・ウォー』を知ってしまっているワタシたちはその反語としての切なさと苦さを味わうこととなるわけで、トニーがピーターに思わず本音で応えてしまう“お前に何がわかる”的なあるセリフが胸に刺さったりもしたのである。そしてもう一つ特筆すべきは、トニーとピーターを擬似親子とした上での父殺し的な通過儀礼に目もくれなかったことで、最後まで青春のサボタージュが大人たちの足元をすくうアップサイドダウンの痛快を手放さなかった確信が、ピーター・パーカー=スパイダーマンを赤(アイアンマン)でも青(キャプテン・アメリカ)でもない赤と青のヒーローとして再生することに成功したのではなかろうか。15年前、サム・ライミがスパイダーマンを生け贄に語り始めた内省と苦悩のマーヴェルヒーロー受難の時代が『シビル・ウォー』によって極北に達した後で、そこに新しい風を吹かせてみせたのがスパイダーマンだったことの皮肉と言うよりは眩しさに新たな神話の天啓を感じた気もして、いったいMCUはいつになったらけつまずくのだろうと、少しばかり意地の悪い気分にすらなり始めたところである。
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2017年08月08日

デ・パルマ/Watching is Believing

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カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2017

死角からの執着、神経症的な主観カット、クローズアップの憂鬱といったデ・パルマの意匠は、今さら言うまでもなくヒッチコックへの忠誠と耽溺なのだろうと思っていたのである。ところがである、カメラを持って父親を浮気現場のオフィスへと追い、ナイフを父親にちらつかせ「相手はどこにいる?」とせまったブライアン少年の記憶をあっけらかんと語るその姿から浮かび上がるのは、紛うことなき窃視のオブセッションと脅威への陶酔であり、彼が映画より先にとっくに囚われていた人間であったことに新鮮な衝撃を受けたし、『ブラック・ダリア』についてはエルロイの原作に手を加えることをしたくなかったと語るその姿に、エルロイもまた幼少期の「わが母なる暗黒」的なオブセッションに呪われ続けた作家であったことなど思い出してみれば、両者に生まれた漆黒の感応に深くうなずけたりもしたのである。そしてもうひとつ驚いたのは『スネーク・アイズ』のオリジナル・エンディングで、暴風雨による巨大な波がカジノを襲いすべてを押し流してしまうというカタストロフは、あの映画で描かれた善悪の皮肉なくびきをニヒルに葬るにふさわしい結末だったように思うし、オープニングの超絶長回しを殴り返すフリーキーなバランスによってカルト作品としての純度がより高まっていただろうにと、思わぬ悔いが残ったのだ。インタビュアーが喧嘩腰も辞さない批評家ではなく、ノア・バームバックとジェイク・パルトローという自分の崇拝者であり理解者ということもあってか、光と影の行き来をあけすけに語るその語り口にまずは魅了されたし、スタジオとの対立と矜持ある順応、映画を志すなら学校なんかに行かずとにかく低予算映画を撮ることだという現場主義への憧憬と信仰、そこにはアルチザンとアーティストのある意味理想的な姿がうかがえはするものの、それゆえの不遇と呪詛も見え隠れはするわけで、しかしそれらをすべてひっくるめた上でのブライアン・デ・パルマという映画監督のチャーミングな記憶を手に入れることができた点で予想外に刺さるドキュメンタリーとなって、彼に関わるすべてがいっそう愛すべきものに思えたのである。

「キャリー」は続編もリメイクも全部観てるよ、自分が回避したミスを全部やってて笑ったよ、ウハハハハ!
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2017年08月05日

ザ・マミー 呪われた砂漠の王女/恐怖の白い歯

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まったくトム・クルーズである必要のない映画を初めて観た気がする点でわりと衝撃的だし、さらに言ってしまえば、ラッセル・クロウである必要も、ソフィア・ブテラである必要もないように思え、その刺身のツマに終始する扱いに、そもそもミイラである必要があったのかという最大のクエスチョンマークが、マミーとしてのアマネットがほとんどゴーストバスターズのゴーザにしか見えなかったことも含め、最後まで浮かんだまま消えることがなかったのである。では刺身は何だったのかと言えばそれがトム・クルーズであることは言うまでもなく、要するにトム・クルーズが一皮むけるための踏み台としてミイラが召喚されたに過ぎないわけで、ヘンリー・ジキル(ラッセル・クロウ)率いるプロディジウムをBPRDに例えるならば、セト神が憑依したニック・モートン(トム・クルーズ)は諸刃の剣となるその力を得たヘルボーイとしてこの先モンスター退治にいそしむことになるのだろうし、と言うかこの映画を観る限りそうならなければどうにもおかしいわけで、それを暗示するかのようなダークナイトエンディングによってダーク・ユニバースの基本スキームを告げていたように思うのである。とは言えそこまで底の抜けた誇大妄想的な計画に自己プロデュースの鬼神トム・クルーズがつき合うつもりでいるのかどうなのかはなはだ疑問であって、あのエンディングも実は脱兎のごとく泥舟から逃げ出しているようにしか見えないことを思い浮かべてみれば、ソフィア・ブテラの壮絶な無駄死だけがなおのこと哀れを誘うのである。『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』ではイムホテップの物語を丁寧に彫り込んで描いたからこそ、甦った彼の呪いが最後まで映画を支配し続けたのに対し、今作冒頭の古代エジプトパートではアマネットの心象と動機をすべてナレーションで語ってしまうという手抜きっぷりなのに加え、ニックがアマネットに魅入られた理由であるなど彼女が現代に持ち込んだ企みを死者ヴェイル(ジェイク・ジョンソン)を語り部としていちいち説明してしまうものだから謎解きのサスペンスも皆無だし、修道院でニックがジェニー(アナベル・ウォーリス)を置きざりにトラックで一人逃げ出すシーンの不可解や、クライマックスの闘いで短刀を奪われたことに気づかないアマネットのありえない間抜けさ(宝石を外して無効化するのだろうと思っていた)などなど、ショットやシーンをつなぐ力学の葛藤のなさはTVドラマを主戦とする監督アレックス・カーツマンのサイズがノイズとなっているのだろうことは、J・J・エイブラムスの過分な物分りの良さにも通じる気がするし、バストショットと日の丸構図的な説明ショットの多用も映画の色つやを捨ててしまっていたように思う。何より最大の敗因はトム・クルーズという常に善性の後光が照らす人を、ハン・ソロあるいはインディアナ・ジョーンズ、要するに半身を陰に置いたハリソン・フォードの皮肉と諧謔とが必要な役柄にあててしまったことで、一つしかないパラシュートをジェニーに譲ることなどトム・クルーズにしてみれば当たり前すぎる行為を善の証しとしてみたり、あるいはトム・クルーズならばするはずのないジェニーを置き去りに一人車で逃げ出す行為など、トム・クルーズがトム・クルーズであればあるほど映画が沈没していくという蟻地獄のような有様になっているわけで、そうした意味で極めて希少な作品となっているのは間違いない。誰のアイディアか知らないけれど、こうやってユニヴァーサル・モンスターズをホラー・クリーチャーとして便利屋扱いするなら、誰がやってもまた敗けるだろうと思う。
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2017年08月04日

FUJI ROCK FESTIVAL'17@苗場/7.30 Sun

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昨日、一日券のリストバンドをつけて代々木公園にでも行くような格好でグリーンで雨に打たれていた若いカップルは、仲違いしないで帰るべきところに帰れただろうか。でもね、疲れた身体に宿る高揚した精神こそがロックなんだよ。まあそれで幸せになれるかどうかはまた別として。

RON SEXSMITH @GREEN
最近では新譜をチェックすることも怠けてしまっているけれど、小さなあきらめとやわらかな希望を真正面を向いて歌う声を聴いていると、90年代の近い時期に一緒に世に出ていったエリオット・スミスやジェフ・バックリーのことなどどうしても思い出してしまう。すべてを生き抜いた妖精は、たぶんステージの彼のような姿で現れるのだろうと思う。

DYGL @ RED MARQUEE
EDENの時にちょっとだけふれた、あらかじめ水平につながった世代ゆえの是々非々のうち、関係性の構築から始めることをあてにしない風通しの良さこそは完全に世代の是であって、全曲英詞なのもそれが自然だからというただそれだけの理由なのだろうし、だからこそあらかじめの文脈や血脈から離れた自然な音楽としてワタシは彼らを愉しめるのだと思う。年齢層の高いフジの客の中でもとりわけ若い衆がつめかけていたのも良かった。自分たちのバンドがあるのは幸せなことだよ。

JET @GREEN
なぜみんな、髪を伸ばし髭を伸ばしウォーレン・エリスのようになりたがるのか。最近とみに視力が落ちているワタシには、ここのフロントとファザー・ジョン・ミスティの区別をつけることはむずかしい。全く関係ないが、ウォーレン・エリスはまだ52歳である。

SLOWDIVE @ RED MARQUEE
2014年には見られなかったのでこれが人生初slowdive。シューゲイザーはなまじムーヴメントとして祭り上げられたせいで無理やり幕引きされてしまったのだけれど、やはりこれは永遠に“ボクたちのウォール・オブ・サウンド”であって、情動に直結する機能性音楽としていまだ完璧に前線の音として鳴っていたし、あんなにキラキラと弾む”Crazy for You”が聴けるなんて本当に思ってもみなかったよ。

TROMBONE SHORTY & ORLEANS AVENUE
今年これまで何が足りてないかといえばそれはファンクだったわけで、餌の匂いを嗅ぎつけた客ががっつくことこの上ない。もちろんDirty Dozen Brass Bandなんかに比べたら腰は軽いけど、それが無責任をうまいこと煽ってくれてようやくここで花火があがった感じ。

THUNDERCAT @ FIELD OF HEAVEN
例えば、冒険家がその偉業を達成する足跡をとらえたドキュメンタリーフィルムにおいて、真に讃えられるべきはそのカメラマンなのではなかろうかというその同じ気分で、途中からドラマーのジャスティン・ブラウンから目が離せなかったのである。すさまじい手数にもかかわらずその一発一発は撃ち抜くように重たくて、それらをバスドラにまとめて乗っけては蹴散らして解放するそのグルーヴの快感をワタシ風情が言葉にするのは到底無理にちがいない。などと呆けながら我に返るとそこではサンダーキャットがくるくる回りながら、光速の音数をシルキーに溶かしたベースラインと天上の歌声で紡いだ羽衣をふわぁっと広げては、突き抜けていくリズムを笑いながらくるんでいくのである。こういう風にうなじがドクドクと脈打ちながら同時にチルアウトしていく多幸感はこれまで味わったことのない感覚で、できれば彼岸の出迎えはこれくらい派手にやってもらいたいものだなあと思いながら、もう動かない足をひきずってはヘラヘラとうごめいていたのである。

お前らごとき愚民風情がたかをくくった生き方なんぞをしたら、なおさら目もあてられない始末だろうがよお、とリチャード・D・ジェームスに鼻で笑われ唾されて目がパッチリと醒めたので、あの苗場大空襲の夜を忘れることなくこの1年を過ごしていこうと思います。ありがとう、エイフェックス・ツイン!


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2017年08月03日

FUJI ROCK FESTIVAL'17@苗場/7.29 Sat

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目当てのとぼしい午前中をみはからって、そぼ降る雨の中ドラゴンドラで天上へと向かう。まだ時間も早かったこともあって頂上からのゴンドラには誰も乗っていないことが多く、すれちがうそれらをぼんやり眺めながら、次に来るゴンドラには1人だけ乗っているけれどガラスによりかかったままぐったりと動かず、次のゴンドラには2人乗っているけれどなにやら1人がもう1人におおいかぶさっており、次に来るゴンドラでは2人が1人を抑え込んでいて血しぶきが飛び散ったガラスごしに断末魔の表情だけが見え隠れし、ここに至って頂上では何やら人間ならざるものによる殺戮が行われているのではないかという確信に近い疑念が頭をもたげてくるものの、ワタシが乗ったこのゴンドラは粛々とその真っ只中へと向かっていくのだ、というまだみぬゾンビ映画のオープニングなど夢想してみたのであった。阿呆である。

WESTERN CARAVAN @ FIELD OF HEAVEN
既にそぼ降るなどとは言っていられない篠突く雨の中、ゴアテックスに身を包んで乾いたカントリーミュージックの陽気なフィドルに身体を揺らす時間がこの先の人生にふたたびあるとは思えないわけで、そんな中であってもアメリカの楽観性についてまわる感傷が光景として瞬時に浮かぶカントリーミュージックの機能性にあらためて恐れ入ったのであった。とは言えやはり、青空の下で砂埃が舞う中、見よう見まねで陽気なふりなどしてみたかったなあと確かに悔いは残る。

THE GOLDEN CUPS @ FIELD OF HEAVEN
サポートドラマーのグリコ氏が最年少というそれが当たり前なバンドだし、エディ藩は終始冗談めかした口調を止めないのだけれど、時折異常にソリッドな切っ先で切り込んでくるそのストラトとそれに瞬時に反応してブーストさせるルイズスイス加部のベースラインには思わずため息なども出てしまうわけで、ああ、ジョニー、ルイス&チャーを苗場で見たならおそらく鼻血が出てしまうにちがいないというところまで瞬時に妄想してみたりもしたのだった。

THE AVALANCHES @GREEN
やまない雨に少しうんざりしはじめたこちらの心持ちもあったのか、バンドセットの割に緩急自在が縛られた若干の単調にいささか棒立ち気味。ハートがTHE CLASHなのは確かに届いたんだけど。

CORNELIUS @GREEN
例えば映画のネットオンリー配信なんかも革新されたプラットフォームとして新陳代謝されていくのをまったく否定はしないけれど、家を出て電車に乗って映画館に行ってチケットを発券して、大勢がいる中で自分の席に座るっていう段取りの手ざわりがやはり体験を個人的に刻んでいくわけだし、音楽のデジタルリリースに対してCDやレコードをフィジカルって呼ぶのがなんだか好きなのは、自宅に持ち帰ったあるいは届けられたパッケージから取り出したディスクを自分の部屋の装置にセットして再生する時の、そこにある“自分”の介在こそが手ざわり(=フィジカル)を体験に変える儀式でもあるからで、あくまで肉体的な引用と注釈で精神の白い部屋を作り上げる小山田圭吾のステージにどうしようもなく共感して心奪われてしまうのは、やはりそうした抜き差しならない手ざわりへの共振なのだろうと考える。そしてそれはラストまでとっておかれた「あなたがいるなら」で切々とした希望として吐露され、手をのばすことをまったく堂々とてらいなく訴えていたのだった。小山田圭吾が。

APHEX TWIN @GREEN
雨に打たれ続けた一日の終りに待っていたのは、精神を爆撃して焼け野原にする強制デフラグ、あるいは荒んだ心を廃液で洗うルドヴィコ療法ショウだったのである。筆舌に尽くしがたいとはまさにこのことで、あの日あの時にあの場所でノイズとレーザーとストロボと松居一代になぶられた続けた者でない限り、もはや護摩修行とさえ言えるあの90分の記憶を分かち合うことは不可能だろう。最後の10数分、すべての音がミュートされ全身の感覚が消えたように思える瞬間があって、アルタード・ステーツが始まるのかと思った。
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2017年08月02日

FUJI ROCK FESTIVAL'17@苗場/7.28 Fri

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豊洲からの皆勤なので今年で20回目となるフジロック。越後湯沢の駅に降り立ったとたん、つい先月にもここに来たような錯覚にとらわれるどころか、既に帰りの新幹線を待つホームの倦怠まで夢想する始末でオッサンのせっかちはなんとも始末が悪く、そんな訳知りを矯正する3日間とすべくシャトルバスに乗り込む。

DOCTOR PRATS @WHITE
MANU CHAOやFERMIN NUGURUZAといったスペインの偉大な先達に連なる戦闘的なミクスチャーバンド、となればWHITEの無骨は絶好の空間で、まだまだ満タンの燃料抱えた客の後先かえりみない大騒ぎに、ああ苗場に来たんだなあと腕組みを解いてみたのだった。

原始神母 @FIELD OF HEAVEN
どうしてワタシはここで「吹けよ風、呼べよ嵐」や「エコーズ」を聴いているのかさっぱりわからない。そしてそのステージ中央でチョーキングをきめているのがSHAKEなのかもさっぱりわからない。しかしワタシがわからないだけで、バンド自体は凄まじくわかっているのだろうことは門外漢のワタシにすらわかるのであった。これこそ今はなきオレンジの香り。

RAG'N'BONE MAN @GREEN
音も姿もまったくの初見。確かにシンガーソングライターには違いがないだろうけど、例えば今のトム・ウェイツをそう呼ばないのと同じ意味で、ブルーズやラップ、ソウルミュージックを横断する全体性みたいな存在感に少し驚かされた。非常にタイトで音数の少ないバンドの演奏も凄みを強めていて、こんな人が31才になるまでどうやって世界と折り合いをつけていたのか不思議でならなかった。

EDEN @RED MARQUEE
ダブリナーのメランコリーゆえか、逆説的に名乗る楽園の蒼さに親密さが湧く。しかし、21歳にしか鳴らせない通過儀礼の曖昧で不定型な美しさに閉塞感はなく、それはあらかじめSNSで世界とつながった世代ゆえの是々非々(とあえて言う)なのかもしれないなとも思う。

GALLANT @RED MARQUEE
感情をぶちまけつつ、しかしそれをまたつかまえようと腕をばたばたさせて抑えがたくステージを動き回る様は、なんというか宮本浩次のようであった。にも関わらずいっさい乱れることのないファルセットに、フェスだろうが野外だろうが暑かろうが寒かろうが、弘法筆を選ばずという芸の凄みにまずはやられる。

FATHER JOHN MISTY @ FIELD OF HEAVEN
ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズの、サウンドではなく在り方というか立ち方みたいなものがロールモデルになっているのだろうかと思えばこそ冷え冷えとしかし熱く体に沁みてくるわけで、曲終わりの静寂をかき消すようにがなり立てる外国人観客の声に「ああ、どこにいってもイングリッシュアメリカンが騒がしいね、彼らを代表してお詫びするよ、Silence makes us nervousなもんだから」なんていうMCが今も記憶に残る。

THE xx @GREEN
このバンドはデビューの時から最新のニューウェーヴとして聴いていたし、それはYoung Marble Giantsの嫡子としてだったりもするので、ロミーがヴォーカルをとっている姿を見ているだけでもう何かかけがえのないものをもらっている気分になってしまう。だから今夜も胸がいっぱい。

QUEENS OF THE STONE AGE @WHITE
いまや針の穴でも通すようなコントロールでしか投げ込めない"ROCK"のストライクゾーンに、しかも1時間のあいだそのど真ん中にストライクを投げ続けるバンドに度肝をぬかれ、それを可能にするジョシュ・オムのクロスロードで悪魔と契約したかのような、オレはもうすべてを見たから死ぬまで目をつぶっていてもいいんだとでもいう安らかな笑顔のままつばを吐き、髪をとかし、腰をくねらせるその一つ一つから目を離すことなどできるわけもなく、この一日で見た中で最も人間そのものを更新していたその姿に畏怖し崇めてみたワタシは、法悦の笑みをうかべて足の痛みもかまわず止まらぬ早足でホテルへと向かう。Runnin' with the Devil


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2017年07月26日

FUJI ROCK FESTIVAL '17展望

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7.28 Fri
グループ魂
DOCTOR PRATS
原子神母〜PINK FLOYD
ROUTE 17 Rock'n Roll ORCHESTRA
GALLANT
ヒカシュー
FATHER JOHN MISTY
THE XX
RHYE
QUEENS OF THE STONE AGE
GORILLAZ

7.29 Sat
THE RAMONA FLOWERS
KYOTO JAZZ SEXTET
WESTERN CARAVAN
THE GOLDEN CUPS
CHRONIXX
THE AVALANCHES
DEATH GRIPS
CORNELIUS
ELVIN BISHOP
APHEX TWIN
LCD SOUNDSYSTEM

7.30 Sun
RON SEXSMITH
REAL ESTATE
DYGL
MAGGIE ROGERS
LOVE PSYCHEDELICO
SLOWDIVE
BONOBO
LORDE
ÁSGEIR
THUNDERCAT
MAJOR LAZER
G&G Miller Orchestra plays Elvis Presley

とまあ、こんな感じでしょうか。今年はCORNELIUSとELVIN BISHOPの被りが致命的なくらいで、あとはワタシのやる気次第。一度レッドまで下りちゃうと奥地行きはほとんど苦行だし。とりあえずはオザケン待ちのシニアがDEATH GRIPSのコンフリクト・ビートにHP吸い取られる様をニヤニヤしながら見ます。

posted by orr_dg at 16:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | Live | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする