2016年08月30日

イレブン・ミニッツ/犬は往ぬ

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「現在の映画では、ものを言うのはテクノロジー、テンポの速さ、細切れに編集されたカットの数々ということになってしまっているけれども、個人的にはとてもじゃないが耐えられない。こんなものがスクリーン上に真実をもたらしてくれるわけがない。真実は、長く続く穏やかなショットの数々にこそ到来する」「現代映画は万華鏡みたいなものだ。刹那的な結びつきを要求しながら、映像の大群とともに押し寄せてくるわけだ。そして観客の心のなかに、混沌と空虚を残していく」とかつて語ったスコリモフスキが、まさにそうした映画を豪腕で撮りあげてしまっているのだけれど、5時11分過ぎのワタシをつつんでいたのがまさにその混沌と空虚であったことを想い出してみれば、監督の目論見は完璧に達成されたことになるのだろう。運命とは、ワタシ達のすべてが時間というシステムに相乗りせざるを得ないことによる喜劇であり悲劇であり、それらに対する形ばかりの抵抗として倫理やらモラルやらで空虚の穴を塞いでいるにすぎず、しかしそれらは滑稽なまでに無益な抵抗でしかないし、生死をわけるのはワタシ達の生き様でもなんでもなくエントロピーの増大がもたらす無秩序がかざすひと触れに過ぎないという、寄る辺ない真実の仮説をスコリモフスキは真顔でちゃぶ台返しを再現してみせることでぶちあげてみせる。しかしそうやって天の配剤を鼻で笑っておきながら、どこかしら天の介在をを示唆するような象徴を意味ありげに弄ぶ食えなさは、いっそこれらをコメディとして笑い飛ばしてしまえればいいのにという捻れたオプティミズムすら匂わせるのだけれど、『アンナと過ごした4日間』や『エッセンシャル・キリング』に通底した、本質とはかくも滑稽で無様なものであり我々はそれを隠蔽するために社会や制度といったすべてのシステムをまとっているのであって、私が行っているのはそのスカートめくりのようなものであるという大上段の余裕は、ここではあまりに性急な直接性に取って代わられていて意外なほどで、ニヒルすら突き抜けたその焦燥は果たして黒点から逃走する疾駆の足取りであったのか、追うものが追われる者になった恐怖を77歳にして知った歓びがこの映画を撮らせたのだとしたら、すべての逃走者が向かった果てのカタストロフを殴りつけるような官能で幻視する愉悦に誰あろうスコリモフスキが打ち震えていたことにワタシは打ち震えたのである。そして言うまでもなくサウンド最凶。ナグラ持ってジュールのようにぜんぶ録ってしまいたい。
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2016年08月27日

ダーティー・コップ/他人(ひと)より嘘が上手いだけ

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ああ、きみがイライジャか。何か最近はこっち側でたのしくやってるみたいじゃないか。まあ今後のこともあるからこのあたりで一回、本物の茶番がどういうもんか見て知っておくのもいいんじゃないか。これで飯食ってくのも傍で見るより楽じゃないんだよ。まず言っておきたいのはここじゃメソッドはクソの役にも立たないってことだ。メソッドはプロットを殺しちまう。いいか、プロットの邪魔をするな、プロットに乗れ、それだけを考えろ。内面とかそういう益体のないもんはしまっとけ。哀しい時や困ったときは眉毛を八の字にしろ。怒った時はそれを逆にすればいい。そしてプロットの鍵になるセリフを言う時は、いくらか体を半身にして、ええとキミは右利きか?そうか、そしたら半身にして右手で相手を指差して三白眼ぎみでツバ飛ばしてまくしたてろ。そうやって決めつけちまえ、プロットどおりにな。それと、キミのはそれ自毛か?ああそうか、それはそれとしてカツラもガワ作りにはかなり有効だからハゲても気にするな、むしろ自由度が増す。そういえばむかしショーン・ペンに、もうお前はアクターじゃなくてパフォーマーだとか嫌味を言われたことがあったけど、例えば今のあいつの『ザ・ガンマン』な。あの素晴らしい原作をどうにも凡庸で煮え切らないフィルムにしちまったのはあいつがパフォーマーに徹してプロットに殉じてないからなんだよ。オスカーなんか獲っちまうと自分で自分を演じ始めたりするから始末に終えないし、あいつはまだそれをわかってないんだよ…。それじゃとりあえず、金庫の中のブツがやばすぎて、これは自分たちの手に負える相手じゃないと気づいたキミが勝手に金庫を閉めちまったあげく、メモった解錠の番号も俺に見せずに消しちまったシーンをやってみよう。激昂した俺がキミの胸ぐら掴んで金庫の扉に叩きつけてそれを開けるようにつめよるところな。「開けてくれ!」「できないよ…」ドガシャン!「開けろ!ジム!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!開けろ!」さあ、俺はいま何回 “開けろ!”って言ったと思う?ん?どした、泣いてんのか?
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2016年08月23日

ゴーストバスターズ/ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ビーム

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意味のないものに意味を与えると、それが進んで意味を脱ぎ捨てていたとなればなおさらのことおせっかいで説教臭い窮屈に顔をしかめ反発してしまうのだけれど、この映画は気まぐれとでたらめと無責任が組み上げるモラトリアム、すなわち5時の鐘が鳴っても家に帰らず遊び続けるには、1日の終りによって積み重なっていく人生の意味を考えたりしなければそれにつかまることもないのだ、と得意気に開き直るオリジナルのハナタレ頭をよしよしと撫でつつも、でもあなたたちには遊ぶ相手がいたでしょう?それすらなかった私たちには友情こそが人生の意味なのよ、だからこうやって一緒に遊べるのが愉しくてしかたないのよねという解放感と多幸感のおかげでいっさい顔をしかめることのない笑顔あふれるリブートとなっていたのは確かなのである。ただ、ローワン・ノース(ニール・ケイシー)のパートがともすれば煮え切らないというか足が止まってしまうのは、友情というテーマで彼の孤独をバスターズの対称軸とするにしては彼を追い込む残酷を手加減していたからであるようにも思え、その曖昧さが『ゴーストバスターズ2』のヤノシュを思い出させてあまりありがたくないオマージュとなってしまった気がしないでもない。これはポール・フェイグとの相性の問題でもあるのだけれど、デバージでホルツマン(ケイト・マッキノン)が踊るシーンの80年代的ダレ場感などそこまでトレースしなくてもと思ったし、テーマの足腰を強くするために個々のキャラクター描写に時間を割きすぎたせいでなかなかバスターズの映画にならないこと、そして何より終盤の対決シーンをあまりにもCGで塗りたくってしまったことで、もっとドタバタが活かせたであろう4人の体技がいささか不発であったのがけっこうな不満に思えたのは正直なところであって、あろうことかその最中に一瞬とはいえ寝落ちすらした始末である。ケヴィン(クリス・ヘムズワース)のセックストークン的な扱いは笑っていればいいだけであるにしろ、あれをもってアーニー・ポッツの裏返しとするのは少々彼女に失礼ではなかろうかと思ってしまうし、そこまで徹底的に性を裏返すのであれば市長も市長補佐も女性にした上で、なおかつ市長補佐をバスターズに敵意を燃やす間抜けとするべきだし、彼女も加えてのああいった打ち上げ気分は少しずるいだろうよと拗ねてみたりもしたのである。好き勝手に遊び回ったしっぺ返しとして結局は厄介者扱いされるオリジナル・バスターズに比べると彼女たちの門出は少し祝福されすぎな気がしないでもないのだけれど、まあそれはそれでご祝儀として懐におさめておけばいいのだろう。それはともかく、これだけ律儀に仁義を切ったのだから次作はもっと好き勝手に底を踏み抜いてしまってもいいはずだし、第一ワタシにすれば男性が演じようが女性が演じようが本当にどうでもいいわけで、ガラクタな空想科学vs幽霊という胸躍るナンセンスが観たいだけなのである。No-Ghostサインを掲げてバスターズを名乗れるのは世界中にこの映画だけなのだから。
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2016年08月18日

ジャングル・ブック/けものに交われば狡いと為す

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キング・ルーイの家来サルの群れに仁王立ちのまま覆いつくされるバルーは、まるでソルジャーレギオンとガメラのようであったし、バルーとシア・カーンのファイトはまさに殺し合いと呼ぶにふさわしい爪と牙の応酬で、そういった擬人化のくびきを離れる瞬間こそがこの動物絵巻最大の醍醐味だったように思うのである。とはいえメインとなるのはモーグリがおのれを知るに至る道行きであって、それを支えるのは昨今のディズニーが自らへ積極的に課するダイバーシティの視線となるのだけれど、動物たちのガワが見紛うことなくそのものであればあるほど、ジャングルにおいては人間と一線を画すその掟と生態系が野暮な説明を求めてくるように思うわけで、カメラの陰でバギーラはインパラを食すのだろうし、モーグリとて「ネズミと捕りに行こうよ」というグレイのさりげない一言からうかがえるように、狼の子として育てられている以上彼らが組み込まれた食物連鎖から自由であるはずはないだろう。そしてそのことをあまり考えさせないためなのか、動物同士の闘いにおいてその獣性をあからさまに咆哮するのは冒頭でもふれたように主にバルーにまかされており、しかし事前にバルーの好物がハチミツであることをくどいくらいに告げておいたおかげで、彼はやむを得ずああして爪を立て牙を剥いているだけなのだと屠る者としての素性が免除されるようになっていて、それはモーグリの親代わりとなって育ててきたオオカミたちが獣性を極力明らかにしないのとは対照的で、劇中でモーグリが唯一口にするのが果物である点もそのあたりの煙幕だったのだろう。楽園(ジャングル)からの追放、大蛇カーとの邂逅と併せてみれば知恵を手に入れてしまった者の末路が、モーグリの目には“赤い花”が象徴するデモニッシュな世界と映る人間社会に向かうことはある意味腑に落ちるのだけれど、いくらワタシが野暮とはいえそこまで寄る辺のない話を求めているはずもなく、しかしシア・カーンの脅威が去ったとはいえジャングルにとどまるモーグリは自身の知性が発露していくのをどこまで抑えることができるのか、あのラストは束の間の楽園をとらえたようにしか思えなかったのである。また、シア・カーンは虎としての自身に忠実であっただけなのではなかろうかと思ってしまうのも、彼が“掟破りで遊び半分に狩りをする”ことを描写しないがゆえであって、擬人化によるリアルとリアリティの(どちらかと言えば都合のいい)混濁、人間の言葉は話すけれど思考が人間のそれと異なるとすれば虎であるシア・カーンの行為を快楽殺人と裁くわけにもいかず、ではモーグリのそれは果たして人間の理性が発する言葉なのかという回りくどさにとらわれたワタシは、野暮の極みとは知りつつ神なき世界の成り行きを真顔で追っては何だか疲れてしまっていたのである。そういえば血を流したのはモーグリだけであった。
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2016年08月15日

栄光のランナー 1936ベルリン/晴れた日に永遠が撮れる

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偉人の人間宣言的な浮気パートが、というかそこに至るまでがほんとうに眠たくて、ゲッベルス!ゲッベルス!リーフェンシュタール!リーフェンシュタール!と箸で茶碗を叩きたい気分だったわけである。だいたいが「きみの成績なら引く手あまただったろうに、どうして俺のところに来たんだ?」と訊ねるラリー・スナイダー(ジェイソン・サダイキス)に「ライリー・コーチがあなたを薦めたんだ」と答えるジェシー・オーウェンス(ステファン・ジェームズ)のセリフに突然名前の出てくるライリー・コーチって誰なんだよと思って調べてみれば、ジュニアハイ時代のコーチで実質的にオーウェンスを見出した人らしく、彼に道筋を与えたという意味ではバイオグラフィー的にはかなりの重要人物であるにも関わらず劇中にはそのセリフ以外まったく登場してこないわけで、恩師について語らずとも彼の浮気についてはまだるっこしく時間を割くことにより、これは彼の人生ではなく人間としての彼を描くのだということを告げているのだろうけれど、正直言ってこちらが待っているのは彼がどんな風にヒトラーとナチスドイツをコケにしたのかというただそれだけなのである。したがって、役者が揃ったドイツ・パートからの複層的に加速するスリルに明らかなようにこの映画は『アルゴ』タイプのポリティカルサスペンスを狙うべきだったように思うわけで、全米体育協会会長エレミア・マホニー(ウィリアム・ハート)とアメリカオリンピック委員会会長アヴェリー・ブランデージ(ジェレミー・アイアンズ)の暗闘を前哨戦に、トラックのオーウェンスは痛快かつ爽快に、ゲッベルス(バーナビー・メッチェラート)とブランデージ、ゲッベルスとリーフェンシュタールといったその舞台裏をキナ臭く描くことで、原題(”RACE”)のダブルミーニングがより立体的になった気もするし、オーウェンスとルッツ・ロング(デヴィッド・クロス)の純粋な交流ですらが、さらに切実で抜き差しならない色を帯びることになったように思うのである。リーフェンシュタールにしろブランデージにしろけっこうなキメ打ちをしていることを思えばネタ本あっての脚色映画化というわけでもなさそうだし、フェアネスを描くのに手段もフェアである必要がないことくらい重々承知であるはずのこの監督にしては人生の徳を積もうとするのはまだまだ早すぎるように思うのだけれど、『プレデター2』を撮った男よりはジェシー・オーウェンスの生涯を描いた男として爪あとを残したいのだと言われたらそれはそれで為す術がないのも仕方がないところなのである。酔狂はつらいよ。
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2016年08月13日

X-MEN:アポカリプス/つよくただしくかしましく

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それでも『フューチャー&パスト』には、マシュー・ヴォーンに蹂躙された非現実の王国を奪還しようとするブライアン・シンガーの息が乱れ頬の紅潮する昂ぶりが感情を引き裂く瞬間があったし、それにはエリック(マイケル・ファスベンダー)をマシュー・ヴォーンの落とし子とみなすことで格好の仮想敵足りえた僥倖も働いていたわけだけれども、いざ非現実の王国を掌握しヴィヴィアン・ガールズを指揮する将軍として君臨してみると、セックスと死の香りを忌み嫌うシンガーの潔癖症はエリックをどう扱っていいのか傍目にも気の毒なくらい混乱してしまうわけである。となれば、シンガーの傀儡として動くチャールズ(ジェームズ・マカヴォイ)の、彼がそうあって欲しいと願うエリックの記号にはめ込むことがせいぜいでしかないわけで、結果として、かつてピカレスクの色香によって善悪のくびきを波打たせていたエリックの身のこなしは完全に失われ、シンガーへの反逆罪に問われた罪人として完膚なきまでに去勢されてしまっている。残念ながら。したがって、真打ち登場ともいえるアポカリプス(オスカー・アイザック)にしろエリックを跪かせるための道具立てに過ぎず、誰に何ができて何ができないのかがあまりにも杜撰なまま放っておかれるものだから、できないことをカヴァーするためにできることを組み合わせるタスクフォース的な妙味もへったくれもないまま、最終的にはジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)をスペシウム光線にそそくさと幕引きをはかることになるわけで、結局のところシンガーが撮りたいのは“恵まれし子らの学園”を舞台にした非現実の王国版「ビバリーヒルズ青春白書」でしかないように思うし、MCUとDCEUのニッチを狙うとしたら、むしろそれしかなかろうという気さえするのだけれどいかがだろう。雪山に消えていくウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)の背中でむせび泣いたエレジーだけが忘れがたく、あとはずっとジェニファー・ローレンスにMind your own business!と言われ続けているような気分であった。それはそれで密かに疼いたりはするのだけれど。
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2016年08月09日

ハイ・ライズ/ぜんぶ、サッチャーのせい

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予告篇を見て、少し口数の多い映画だなあとあらかじめ気持ちを抑えておいたので、特に肩を落とすこともないままその貧乏性を淡々と確認してきたといったところである。口数の多いと言ったのは、原作の様々なシークエンスを映像化するにあたってそのイメージの達成に躍起なあまり、室内にしろエントランスにしろスーパーマーケットにしろプールにしろジムにしろ屋上庭園にしろその他もろもろをその都度完璧にキメこもうとしすぎることで、その集積としての超高層マンションがいっこうに有機的な総体として浮かんでこないということである。上層、中層、下層という居住階をそのままヒエラルキーとすることで、本来(というか原作)であればその内部における上昇と下降の移動により階級闘争が勃発するところが、では食料のライフラインとなるスーパーマーケットや、その占有をめぐって騒ぎの起きたプールはそもそも何階に位置するのか、下層の者がプールに行くには上昇せねばならぬ、上層の者がスーパーマーケットに行くには下降せねばならぬ、といった運動のダイナミズムを意識させることをまったくしないせいで、それぞれのシークエンスはそこに連続する力学が反映されないままぶつ切りの羅列にとどまり、その衝突が生み出す蛮性が日々を侵食し住人を魅了していく様を伝えることに失敗してしまっている。したがって、ではなぜ住人はマンションを出て行かないのか、なぜ警察を呼ばないのかというきわめてシンプルな問いへの答えを伝えそこなってしまっているのではなかろうか。そうした高低の意識に無頓着なのは住人の転落シーンに明らかで、そもそもあれを自殺にアレンジした点でも鼻白むのだけれど、ロングショットで捉えることで彼が失う高さを意識させるどころか、激突の瞬間をスロウで見せて悦に入る勘違いに軽く絶望すらしたのである。転落した彼はどこかしら超高層マンションの歪によって惑わされた犠牲者のように描かれているけれど、原作では蛮性の発露としての殺人が匂わされているわけで、その他にも、ラング(トム・ヒドルストン)の姉アリスがばっさりとカットされていることでその近親相姦的な接近も排除されているし、ヘレン(エリザベス・モス)に至っては妊婦として登場したあげくその出産が何か再生の象徴のようにすら描かれる始末である。そもそもバラードは、テクノロジーの粋をこらした超高層マンションがもたらす新しい自由によって人々が様々な抑制から開放されることで手に入れる新しい秩序を幻視してみせたのではないか。そこに風刺や皮肉はあったにしろ、少なくとも原作においてそれは仄暗い多幸感を伴っていたわけで、それを象徴するのがオープニングと後に円環するベランダのシーンで、ロイヤル(ジェレミー・アイアンズ)の飼犬であった白いジャーマン・シェパードの肉を焼くラングの満ち足りた表情のはずである(それすら焼くばかりで食うことをしない腰の引け方であったけれど)。だからこそ、最後に引用されるマーガレット・サッチャーによる資本主義賛美の演説(もちろんサッチャー政権以前に発表された原作にあるはずもない)の浅薄な皮肉が念には念を入れて映画をぶち壊していたとしか思えないわけで、結論としては監督の妻による当世風めいた脚色がどこまでも罪深かったとしか言いようがなく、役者もみなその凡庸に忠実であったというイメージにとどまるのみである。やはり脚本リチャード・スタンレー(『ハードウェア』監督脚本)と監督ヴィンチェンゾ・ナタリのプロジェクトで完成させておくべきであったのではなかろうか。ジェレミー・トーマスによる火中の栗拾い案件としては十全であるにしろである。
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2016年08月08日

アンフレンデッド/わたしのためなら死ねるはず

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図らずもブレア(シェリー・ヘニッグ)視点による83分間のワンシーンワンカット・ムーヴィーを達成している。図らずもというのは、あくまでそれは余禄に過ぎないからで、マルチカメラによる同時線形とでも言えばいいのか、カットをつなぐのではなく敷き詰めることで、目まぐるしく変わる登場人物の関係性のさざ波のような伝播を、ネットの暴力的な水平性の醍醐味として活き造りにしている。したがって、ローラ・バーンズ(ヘザー・ソッサマン)の復讐一つ一つについてはチャプターを区切るような段取り感が生まれてしまうこともあり、正直言ってスラッシャーとしての妙味はいささか退行してしまっているのだけれど、掃き溜めに捨てられたどす黒い孤独がイドの怪物と化して互いを食い尽くしていく様は、まさにSTAND ALONE COMPLEXが供給する幻想としての全体性に中毒した者の断末魔であったわけで、しかしそのプラットフォームから外れて生きることもまた恐怖であるとするならば、行くも地獄行かぬも地獄という現代の青春の蹉跌それ自体をホラーとして幻視したとしても何の不思議もないのである。ラストについては、あの動画がアップロードされたことで生殺しという選択がなされるかと思ったこともあり、ならばそこから永遠に解放されたブレアにとってはむしろハッピーエンドだったのではなかろうかとすら思ったわけで、これもまた、あらかじめオンラインされた世代にとっての新たな生き地獄との闘いということになるのだろう。この映画に関してはその特性としてPCモニター上(できればノートブック)でひとり観賞するのが最適な臨場感を生むのは間違いないにしろ、それゆえ好事家の方々はこの新たなブレイクスルーをあえて劇場で目撃しておくことが肝要なのは言うまでもないし、サーバーを漂流する永遠に消えない記憶が責め立てる、一度吐いた唾を呑めない世界に自分を人質に差し出すことで参加する最新型のチキンレースが撒き散らす躁病的なデカダンスに、知らず自分も巻き込まれていることを知っておいて損することはないはずである。
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2016年08月07日

ロスト・バケーション/生きて帰るまでが遠足

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『ジョーズ』のファースト・ヴィクティムとなるクリッシーが生き残るとしたら彼女がどんな人間で何が必要だったかとでもいう、どちらかと言うと動物パニックものというよりはソリッド・シチュエーション・スリラーに近く、なおかつ『老人と海』的な人生の寓話もまぶしてみせてジャウマ・コレット=セラらしいスマートな小品に仕上がっている。スリップストリームな題材を主戦場とするセラだけれども、最終的には心理的な采配で勝負をつける人なので、直截的に痛覚を刺激するようなアクの強い描写を尖らせてきていないこともあって、麗しきブロンドがサメに食いつかれ岩礁を裸足でふみ抜き毒クラゲに刺される姿の苦痛と苦悶を舌なめずりするフェティシズムがないのが物足りないと言えば言えないこともなかったのである。縫合のシーンはアプローチがスムース過ぎてアイディアの遂行にとどまってしまったのが何とももったいなく、肉と神経の反作用をもっとえぐってほしかったけれどセラの品の良さはそうしたグロをあてにしないのだろう。ただ一つ、かつてフジロックの初日に会場で買ったかちかちのカンパーニュを無造作に噛みちぎった瞬間前歯の一部を持って行かれ、残りの会期中を大変な不便で過ごした身としては、以後その種の食べ物に対する病的な及び腰につかまっていることもあって、ナンシー(ブレイク・ライブリー)がウェットスーツを事もあろうに歯で引き裂くショットに思わずうなじがぞわっと逆立ったのである。クジラの死骸がまとう禍々しさが捨ておけなかっただけに、できれば岩礁ではなくあの上に乗って漂流するナンシーが、飢えに苛まれてクジラの腐肉を口にしては嘔吐に耐えて悶絶するシーンなどをどうしても夢想してしまうのだ。それもこれも、最後まで医学生には見えなかったことはともかく、美しいボロ雑巾としての一人芝居に耐えうるブレイク・ライブリーの肉体言語が饒舌であったからなのは言うまでもないし、それはおそらく、出がらしのようなリメイク企画にパリス・ヒルトンをあてがわれたデビュー作でさえ、誠実にアイディアを注ぎつつ丹念な演出でパリスを生かしてみせたセラの映画製作に対する根性を、彼女が深いところで理解したことによっているのだろう。役者といい采配といい、なんとも小股の切れ上がった86分であった。
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2016年08月04日

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男/パパ グレてるゥ!

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「学校にお弁当を持って来られない子がいたらおまえはどうする?」「わけてあげる」「自分で働けとは言わないで?」「言わない」「お金を貸してあげるとも言わないで?」「言わない」「じゃあお前も立派な共産主義者だね」娘ニコラ(幼少期=マディソン・ウルフ)にパパやママは共産主義者なの?と聞かれたトランボ(ブライアン・クランストン)のやりとりに、ん?となったのはご多分に漏れずで、それが富の再分配の比喩であったのかといえば、『ヘイル、シーザー!』のカリカチュアを思い出してみても、知識層の認識がせいぜい社会主義と共産主義のいいとこ取りあるいはノブレス・オブリージュ的な施しにしか思えないわけで、そういったこの映画の「甘さ」、脇の甘さやビタースウィートのスウィート的な部分は、これが醜悪で殺伐とした魔女狩りの時代を描くというよりは、ダルトン・トランボという人間のチャームを描くことを掲げていたことによっているのだろう。そんな風に資本主義のアンチテーゼに端を発した苦難であるからなのか「お金」が随所で袖を引く物語でもあるわけで、スタジオのスタッフの賃金問題支援や、エドワード・G・ロビンソン(マイケル・スタールバーグ)による裁判費用カンパのための所蔵のゴッホ売却、もちろんトランボ家の生計を支えるためのゴーストライトは言うまでもなく、ルイス・C・K(アーレン・ハード)の遺児への思いやりが借金の棒引きにこれみよがしだった点では、実際のところはどうだったのかはともかく、ルイスの病状への無関心や今後の子供たちの生活に対する憂慮の言葉すらなかった点で、その後エドワード・G・ロビンソンからトランボに浴びせられる辛辣な言葉に彼が返す言葉などなかったのも当然であったし、名を捨てて匿名のひとりとして埋没しギャラを再分配する日々こそが彼の欲した共産主義的な献身ではなかったのかと、最後に名前を取り戻して終わる物語にいささかの皮肉を感じたりもしたのである。したがってこれはあくまでもトランボ家の物語として評価されるべきであって、ダルトン・トランボという男の物語としてはやや気分が良すぎるものだから、授賞式のスピーチ会場で独り涙をにじませるエドワード・G・ロビンソンの苦渋が何となく上の空になってしまうのを惜しむことにもなってしまう。ダイアン・レインは歯を食いしばって笑顔で燦々と立つ大きなアメリカの母親になった。
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2016年08月02日

シン・ゴジラ/会議は小躍る

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そういえばかなり昔の2ちゃんねるに「押井守がゴジラを撮ったら?」とかいうスレッドがあったなあと思ってキャッシュを探してみれば、案の定、実存としてのゴジラをメタ構造的に描くみたいなレスが続く中、2011年3月21日(月)に“押井とは関係ないが、今回の原発事故がまさにゴジラ退治だった”という書き込みがあって、このレスを書いた人はどんな気分で今作を観たのかなあと少しばかり遠い目などしてみたわけである。ただ、このレスが慧眼であったというよりは、このタイミングでゴジラを再び立ち上がらせるとすればそこを避けて通れないのは自明であって、もちろんギャレゴジとてそこを通過していたのは言うまでもないけれど、やはり我々には精神的にも物理的にも取り除きようのないフッテージが組み込まれているわけだし、それを当事者としての責任とクリエイターとしての仄暗い昂揚とによって新たなモニュメントを築いた点で、勝ち負けに意味はないとしても新作ゴジラとしてギャレゴジを圧倒したのは確かだろう。“押井とは関係ないが”の部分については、劇中で語られるスクラップ&ビルドのスクラップの意味合いが2011年以降決定的かつ永遠に変わってしまった点で、お台場は一度沈んだ方がいいと言い放った「都市」と「破壊」という押井的命題が無効化されてしまったのはやむをえないところではあるにしろ(2020年東京オリンピックによる再開発にどこかしら他人事な気分が漂うこともその一端ではなかろうか)、都市の存亡に踊るシヴィリアン活劇としてのフレームは特に劇場版パトレイバー1&2からの引用において明らかに思え、牧博士=帆場暎一であるとか、ほとんど符合と化したテクニカルタームの奔流で叙事を武装する手立てはともかく、『機動警察パトレイバー the movie』における久保商店2階シゲさんの下宿部屋は『ガメラ2レギオン襲来』では水野美紀の実家薬局の2階に引き継がれ、未曾有の危機における梁山泊としてのそれを今作において巨災対(=巨大不明生物特設災害対策本部)として花開かせたのは、今作で破壊されるランドマークが終着地としての東京駅であったことなど踏まえてみれば、東京を破壊するにあたっての庵野監督による押井守への仁義と敬意にあふれた引導であったようにも思えるわけで、ワタシはエヴァとそれに派生するもろもろと完全にすれ違ってきた人間ということもあり、主に庵野監督による兄殺しとしてこの映画を愉しんだくちである。とはいえこの映画の決定的な発明はゴジラ第二形態であって、直立歩行する生物に対する擬人的な同調と感情移入をノイズとして完全に断ち切るための方法としては思いも寄らない奇策であったし、そこに何が映っているのか考えるだけでおぞましいあの目には何か根源的な忌避や嫌悪があって、その人を人とも思わぬ災厄と狂気の嬉々とした行進には何かクトゥルフ的な神々しさすら宿っていたように思ったのである。それともうひとつ、ここのところの鶴見真吾が漂わせていた既視感の正体がイーサン・ホークであったことが腑に落ちてすっきりした。
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2016年07月31日

ブルックリン/私は克己心の強い女

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「忘れてたわ、ここがそういう町だってことを。あなたは何もわかってないだろうから教えといてあげる。わたしの名前はエイリシュ・フィオレロ。ブルックリンの女よ。」最後の一言はワタシの勝手だけれど、しびれるような啖呵である。ただその一言が「やっと気がついたわ」ではなく「忘れてたわ」であるように、この映画は単なるビルドゥングスロマンにとどまっているわけではない。あらかじめ世界の絶対性と闘う聡明なファイターとして登場するエイリシュ(シアーシャ・ローナン)が、自身の未熟さや愚かさによって人生の奥行きを知るドラマというよりは、正面を見据えあごを上げて行くべき道を闊歩する姿を活写するスリルを映画の輝度とすることで、性差や人種を超えたところで生まれるアメリカの理想的なダイナミズムを移民であるエイリシュに投影していたように思うのである。フィオレロ家に招かれたディナーの席でトニー(エモリー・コーエン)がふと口にした“俺たちの子供”という言葉に抱いたかすかな懸念と戸惑いの正体に、エイリシュならずともワタシたちは女性の背負う家庭とキャリアの問題を嗅ぎとるのだけれど、エイリシュにとってその両立と自立は背中合わせの自明であるとでも言うかのように、自身にある人生への野心に対してトニーがどれだけ誠実でいてくれるか、それさえ確認できればその他のオプションはさして問題ではないという豪胆は、もしかしたらデラシネとしての自分への倫理的な恐怖の裏返しだったのかもしれず、そうしてみるとまったく同じ時代の物語ながらアメリカのデラシネへと向かった『キャロル』との交錯が興味深いのだけれど、共に世界の絶対性から自身を奪還し相対化を試みる女性の物語としてみれば、その鏡像として互いがより鮮明に映し出されるように思うのである。ニック・ホーンビィの脚色はエイリシュを光とすることでそこに生まれる影も細やかに描き出していて、洗面所でのエイリシュとの会話の後でひとり鏡を見つめるシーラ(ノラ=ジェーン・ヌーン)を捉えるメランコリーや、冒頭のエイリシュの啖呵の後で寄る辺なさにつかまるケリー(ブリッド・ブレナン)の姿が、エイリシュとこの映画が楽観主義の産物と捉えられることに首を振っているのは言うまでもない。シアーシャ・ローナンは、何だか若い頃のヒラリー・クリントンにも通じるフリークとしての優等生の凄みも手に入れたかのようで、美少女からの脱出に肝っ玉を選択したのが完全に吉と出た。登場するたびに胸がざわついたのはエイリシュの上司となるフロアマネージャーを演じたジェシカ・パレで、エイリシュのメンターとして水着選びまでもプロフェッショナルにこなすクールな姉御肌にやはり『キャロル』を夢想したりもした。
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2016年07月29日

FUJI ROCK FESTIVAL'16@苗場/7.24 Sun

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1日でWILCOとTORTOISEとSQUAREPUSHERを見た昨日が今年のメインだったので、今日はベビメタ余波でグラスパーさんを心配するくらいしかないこともあり気楽なもんである。ところで、美しい音楽に聴き惚れる人間の心も美しいかというとそうでもないことをいろいろと目の当たりにするのは今に始まったことではないけれど、暑かったり疲れたりすると本性はいとも簡単に顔を出すことを自戒しときたい。

BO NINGEN @WHITE
まったくの初見。勝手にエクスペリメンタルなサイケデリアを予想してたものだから、時折のCOALTAR OF THE DEEPERS的な疾走感はかなり意外だったけれど、ハイプ上等な開かれたメジャー感も含めバンドのフォーカスはやたらとクリアなのでさほど鼻白むこともない。皮肉でもなんでもなく、戦略としてはRIJとかの方がいいんじゃないか。

dCprG @ FIELD OF HEAVEN
このバンドもROVOと共にフジロック奥地系の屋台骨となっていて、解釈と批評のアウトボクシングでブルファイターを倒す快感もなじみながら、今回はかなりブルファイトを仕掛けたなあという印象。ノーメイクの大村氏にベビメタの黒T着たお客さんが熱視線なのもフェスならでは。

このあと諸事情ではちみつぱいをチラ見で済ませたのが悔やまれる。オレンジカフェでしばし休憩したのち、在日ファンクすらを従えたケロポンズを確認し、既にパンパンに膨れ上がりつつあるホワイトにビビり、グラスパーさんで規制がかかったら洒落にならないと前倒しでホワイトに向かう。

ROBERT GLASPER EXPERIMENT @WHITE
実際のところマーク・コレンバーグのドラミングだけ見ていたといってもいいわけで、非常に細かく割ったビートを高速で連ねることによりほとんどシルキーといっても波を生み出し、そこに寄せては返すようなロバート・グラスパーの旋律とのインタープレイは神の気まぐれとでもいう天啓にすら思えたのである。あれがあの世ならあの世に行きたい。

BABYMETAL @WHITE
彼女たちがメタルの原理主義と無縁だろうとかまわないではないか。彼女たちは自分が角兵衛獅子であることを承知しているし、その上で何を成し遂げられるかについてどれだけ真摯でいるかはショー・マスト・ゴー・オンなステージを見ればわかりそうなものだろう。彼女らの歩くニヒルの淵もまたロックではないのか。

KAMASI WAHINGTON @ FIELD OF HEAVEN
かつてグリル・マーカスはギャング・オブ・フォーのライヴをみて、これがロックの未来なら僕は未来を待ちきれない、と言ったけれど、そうした意味でこれがジャズの未来なら、その未来は思いのほか自分と近しいところを走っていることに気づかされるような、精神の感応と肉体の快感のバランスをあわせもった、かといってそれは中庸ということではまったくなく、そのために巨大化された外枠のサイズにまずは圧倒されるわけで、その前置きや手続きを必要としない話の早さからすれば、ロバート・グラスパーのスロットと逆であったならなおのことジャズの布教が痛快かつ爽快になされたのではなかろうかと思ったりしたのである。"Henrietta Our Hero" の噛みしめるようなメロウに、泣いたらいいのか微笑んだらいいのか混乱してぐちゃぐちゃになった。

電気グルーヴ @GREEN
ふと大写しになった卓球の笑顔の隙間や、笑顔だけは貼りつけたまま次第に動きが鈍っていく瀧に、彼ら自身が背負ってきた20年という時間への倦怠をにじませつつ、その本心の動機など明かすつもりなどないにしろ、俺達には俺達なりの責任があるんだよとそれを茶化すこともせずに望まれたことをきっちり倍返しする偏執にこそあらためて恐れいったし、5時の鐘がなっても家に帰りたくないなら俺達と踊ってろという宣言のてらいのなさに男気すらを見た気がしたのである。もう来年からクロージングはずっと彼らに締めてもらうしかないのではなかろうか。満面の笑みで、まだまだいけるぞフジロックと歌ったのはキミらなのだから

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2016年07月28日

FUJI ROCK FESTIVAL'16@苗場/7.23 Sat

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SQUAREPUSHER @WHITE

午前中は目ぼしいステージがないのでドラゴンドラで天上へと向かう。草上をたゆたう人々をソフトクリームをなめつつレストハウスの窓ごしに眺めていると、あまり飛ぶ気のない蜂だかなんだかが窓枠のところで脚をガラスに叩きつけては延々もがいているのを見て、ああ、ガラスの向こうが見えているのにどうしてあちらに行けないのかわからないのだろうな、とそのうち蜂を我が身に置き換えそうな予感に世知辛くなったので、これはいかんと下界に向かったのであった。

jan and Naomi @GYPSY AVALON
青い空に強い日差しと乾いた風。陽炎みたいなサイケデリアには絶好のロケーションの中で朝霧シチューを昼食に呆ける。そういえばjanが坊主頭になっていた。

ROVO @ FIELD OF HEAVEN
ROVOもまた結成20周年とのことで、勝井祐二、山本精一、芳垣安洋といった面々がBOREDOMSや渋さ知らズなどなどの一員でもあったことを考えてみれば、このバンドが陰になり日向になりフジロックのジャパンオルタナティブの屋台骨を支えてきたといっても過言ではないわけで、古参の参加者にしてみれば彼らの生み出す祝祭空間こそがフジロックの空気感のいくばくかであると言い切ってしまいたいのである。そんな言わずもがなを鼻で笑うかのようにヘヴンへと集まった客が踊り狂って舞い上げる砂埃がまるでスモークのようにステージを演出していたよ。

CON BRIO @ FIELD OF HEAVEN
とっても愉しいんだけどその愉しさはパーティバンドのそれで、にしてもスチャダラ言うところの“夏のせい”的な一期一会のやり逃げとしては高性能高機能。

WILCO @GREEN
前半はアルバム「Star Wars」の曲を中心にニュアンスよりはノリで飛ばし、中盤以降はセットリストではお馴染みのWILCO的ルーツオルタナティブを連打したあげく、ラストは "Impossible Germany" のトリプルギターで胸をしめつける。5年前のような「Being There」3連発を多少は期待してはいたのだけれど今回の60分強と短いステージではやむを得ずか。それにしても、みな外に出したシャツ丈の絶妙な短さが思いのほかの洒落っぷりであった。そしてはっきりとしたのは、もうジェフは痩せないということである。

TORTOISE @WHITE
サウンドチェックで "Thunder Road" のイントロが一瞬鳴らされて既に盛り上がる。定番曲が外されていたのは新譜にあったどこかしら泳がせた感じがバンドの今の気分ということなのだろうし、"Yonder Blue" のヴォーカルなしヴァージョンにそれが最も顕著だったようにも思え、アメリカのおっさん5人がピーピーガーガードスドスバタバタと合奏する音が時には官能すらまとう不思議を今回も堪能したのだった。

SQUAREPUSHER @WHITE
フェンシングのスーツだか養蜂家の仕事着だかに見える、おそらくはプロジェクションマッピング用のスーツにマスクをつけて登場したジェンキンソン氏は、いまキミらが感じてる時間の流れはまやかしに過ぎない。ここはひとつボクがそれをひっぺがしてみせてあげようと、ドーピングして狂躁する時間の奔流を光と音の暗号に変換しては、さあこのスピードのままにそれを読み取りたまえ、読み取れないキミはどうにも不幸だねと言わんばかりにもはやビートとは言えない無数の音の粒を浴びせぶつけては、どうだ苦しいだろう、時間は苦しいのだともはや狂人の理論を振りかざしながら機嫌良さそうにどこまでも追いかけてくる。マスクを脱いでベースギターを抱えたアンコールでは、いやいやさっきのはドッキリだから気にしないでと取り繕ってみせはするものの、もはや騙されるはずなどないのである。ジェンキンス氏はちょっとどうかしている。
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2016年07月27日

FUJI ROCK FESTIVAL'16@苗場/7.22 Fri

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SIGUR RÓS @GREEN

豊洲からの皆勤なので今年で19回目、苗場は18回目となるハタチのフジロック。成人はめでたいながら、その分こちらも確実に年をとったのは言うまでもなく、外すタガすら錆びついたとなれば狂騒よりは恬淡と歩きまわることで馴染みの世界の生存確認などできれば幸いである、と好好爺の気分で越後湯沢の駅に降り立ったところが、新潟県警の粋なお出迎えになおのこと心もなごんだ次第である。

新潟県警謹製ティッシュ
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BOREDOMS @GREEN
ボアのサウンド・マントラを20周年の所信表明とする粋な計らいである。祝祭にあふれた開幕宣言を期待してグリーンに集まった人々が次第に所在なさ気になっていくのを後ろから見てニヤニヤしていると、俺はなにしろ高をくくられることが大っ嫌いなんだよというオーガナイザーのニヤニヤも容易に頭に浮んで何とも清々しい。

TRASHCAN SINATRAS @RED MARQUEE
世界の翳りに焦がれた青いネオアコが、年齢を重ねリアルな翳りに包まれた時にどう答えを出すのか、それにきちんと向きあった人たちにはこうやって淡く優しい光が差してくるわけである。ネオアコは死なず。

LÅPSLEY @RED MARQUEE
スタジオ音源の忠実な再生といった風で、パフォーマンスとして何を足して捨てたかの面白みには届かずか。全曲ピアノ弾き語りくらいでもよかったのに。

UA @FIELD OF HEAVEN
この人のいつも自分を持て余す焦燥が段々と息苦しくなって来た頃から離れたままだったのだけれど、久しぶりに見たステージにはその決着がついたかのような晴れやかさがあって、よくも悪くもあがりの人になったのだなあと、ある事情から開演が押しに押したON AIR EASTでのファーストライブの待ちぼうけなど思い出したりもしたのであった。

ROUTE 17 Rock'n' Roll ORCHESTRA @GREEN
ボウイの追悼映像がスクリーンに流れるとともに "The Jean Genie" の演奏が始まって、この場でこの曲を歌ってしまえる神をも畏れぬ輩は誰だと思った瞬間、スクリーンに大映しになるクリス・ペプラーに、お前が歌うんかいっ!と爆笑したのがこのステージのピーク。八代亜紀さんの唱法だと野外はちょっとアウェイかなと思ってしまった。ワタシのいた場所だと音が風に流されてただけかもしれないけど。

LEE "SCRATCH" PERRY @ FIELD OF HEAVEN
5年前のホワイトでは、入りを間違えてやり直したり次のトラックをいちいちMAD PROFESSORに確かめたりしてたものだから、正直言って今回で見納めのつもりだった80歳がどうしたことか、腕っこきを揃えたバンドを従えて縦横にトースティングし宙に向けてパンチを放ち蹴りを入れつつ60分強を全面的に支配し続けた驚愕。ドーピングがうまいこといったのか?そんなにSAKEが気に入ったのか?相変わらずこの世はわからないことだらけだ。

SIGUR RÓS @GREEN
とにかく寒くて寒くて、けれど同行者はわりかし平然としていたのでワタシだけが寒さに取り憑かれていたのだろうか。仕方がないのでこれはアイスランドの原野で遭難し八甲田山状態になった中でやってくる幻聴と幻覚なのだと思って寒々しさに身を委ねて歯を食いしばっていたら、いつしかヨンシーの声が彼岸の呼び声にも聴こえてきて軽いトリップに成功したのはもうけものであった。そして熱したニクロム線のように赤いライティングの禍々しさに、ギターを弓でギコギコ弾きまくるヨンシーの仄暗いシルエットがスクリーンに映されるたび頭に浮かぶレザーフェイスが拍車をかけて、シガー・ロスについてまわるそこはかとない奇形性の正体がようやく見えた気もしたのであった。
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2016年07月19日

シング・ストリート/ロックよ、愚かに流れよ

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背伸びした分だけ伸びていくコナー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)の背筋と髪と歌声は確かに眩しくて煌めいているのだけれど、観ていて抜き差しならなくなったのは「ロックンロールはリスクだ!」という蠱惑に囚われたブレンダン(ジャック・レイナー)であって、すべてを見通していたつもりがその一歩を踏み出すほどにはリスクに殉教しきれなかった世界中のブレンダンの亡霊に、今さら成仏を迫るような役どころはなかなか酷に思えたのである。主人公の脳天気な弾き語りから始まるあたりは『FRANK』など思い浮かべたりするのだけれど、そこでのジョンとFRANKの関係にあった現実的な痛みは、デペッシュもジョイ・ディヴィジョンも知らないおぼこなコナーとロック原理主義者ブレンダンとの関係において清々しいほどに反転していて、ボスキャラとして必要なバクスター神父(ドン・ウィチャリー)より他は祝福されたバンドに立ちふさがるものはなく、地元の英雄であっただろうU2のUの字もないままアイデンティティの相克は極力手控えられファンタジーが維持され続けることで、あのラストからかつてアントワーヌのラストショットに立ちこめた悲痛や悲愴を取り除くことに見事成功している。青春が夢見がちでいったいなにが悪いんだ?という開き直りというよりは闘争宣言の強度を高めるためであったにしろ、ブレンダンがコナーにぶつける屈託の苛烈はそれが大人気なければないほどブレンダンの悔恨とジレンマにえぐられるようで、そのどこかしらの他人事でなさは、コナーのファンタジーへの反作用にとどまらずいくばくかのノイズになりかけたほどである。そしてそれは、暴力をふるうアル中の父を持ち、いつだって一人だものねと母親に揶揄され、ロンドンでレコードの契約とって俺たちをこの掃き溜めから連れ出してくれよと笑わない目で告げるエイモン(マーク・マッケンナ)へのやるせない共感にもつながっていくわけで、しかしロックンロールが斃れた屍の上を転がっていく音楽である以上そうやって流れ去っていく風景が新たなリズムとメロディを生み出していくのは言うまでもなく、兄と別れバンドを振り切り、おそらくはラフィーナ(ルーシー・ボーイントン)とも離れ離れになるであろうコナーの正しさはすなわちロックの正しさであるはずで、なぜなら浅井健一が歌ったように、どれほど自然に/真剣に誰かを愛しても、僕たちは永遠に一人きりだということを知るのがロックの解だからなのである。ところで、当時ジョー・ジャクソンとザ・ジャムとザ・キュアーの愛聴者がホール&オーツを聴いていた記憶になじみがないものだから、フィル・コリンズを聴いてるような男を好きになる女なんていない!と言い切ったブレンダンが「マンイーター」をチョイスするのはありなのかと?が浮かんだのだけれど、今になってみればそういうセクト主義が自分で自分を生きづらくしていたことに容易に思い至ったりもすると同時に、85年と言えばタイガースが日本一になって代々木でスプリングスティーンをみた年であったにもかかわらず何だかその頃は下ばかり見て歩いていた記憶しかなくて、そんなこんなをいまだにノスタルジーで済ませることが叶わない自分にいい加減うんざりしているのも正直なところで、そんなつもりもなく観たこともあって何だか奇襲をくらった気分である。敵はどこにもいないのに。
posted by orr_dg at 19:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月18日

FUJI ROCK FESTIVAL '16展望

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こんなに晴れなくてもいいから、Don't Rain On My Parade

7.22 Fri
BOREDOMS
THE END
TRASHCAN SINATRAS
UA
ROUTE 17 Rock’n Roll ORCHESTRA
JUMP WITH JOEY
LEE “SCRATCH” PERRY
SIGUR RÓS
THE NEW MASTERSOUNDS
DISCLOSURE

7.23 Sat
THE COLLECTORS
MARK ERNESTUS’ NDAGGA
THE ALBUM LEAF
jan and naomi
ROVO
CON BRIO
WILCO
TORTOISE
SQUAREPUSHER

7.24 Sun
BO NINGEN
dCprG
DEAFHEAVEN
はちみつぱい
ケロポンズ
LEON BRIDGES
THE AVALANCHES
ROBERT GLASPER EXPERIMENT
ERNEST RANGLIN & FRIENDS
KAMASI WASHINGTON
BATTLES
電気グルーヴ

今年は身を裂かれるようなカブりも特になく、懸念があるとすれば日曜WHITEベビメタ前のグラスパーさんで、THE AVALANCHESをチラ見した後でどれだけおっとり刀で駆けつける必要があるのかということおよび、ベビメタ地蔵がエクスペリメンタルジャズにどう立ち向かうつもりなのかといったあたり。それにしても2016年とは思えない三つ子の魂だらけである。
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2016年07月16日

疑惑のチャンピオン/ジェシーよ銃をとれ

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フロイド・ランディス役のジェシー・プレモンスが『ブラック・スキャンダル』につづき無心の共犯者を演じていて、その無心ゆえに主犯者を告発することになる運命や共に実在の人物に準拠する物語である点など構造は非常に似通っている。そしてまた、その無心を罪に染めることでしか示せない忠誠が尽きた時、我が身の明日なき虚ろを知った青春の捨て身が主人の大罪と刺し違える復讐と浄化の物語を待ち望みつつ、それがついに果たされることのなかった悔いこそが作品の印象となってしまう点でも似通ってしまったように思うのである。ジョニー・デップがそうであったようにここでのベン・フォスターも、ランス・アームストロングはそうしたのだろう、あるいはランス・アームストロングならそうしたのだろうというその輪郭を超える解釈を目的としなかったこともあり、共感にしろ拒絶にしろの奥行きに欠けるのは否めないところで、だからこそ並走する共犯者としてのジェシー・プレモンスが口寄せしたザ・ライズ・アンド・フォール・オブ・ランス・アームストロングを観てみたかったと思ってしまうわけで、『フォックスキャッチャー』が図抜けていたのはチャニング・テイタムとマーク・ラファロを口寄せとすることでスティーヴ・カレルの異形の輪郭を口述していたからなのは言うまでもない。ランスについてはガンとの闘病の如何にかかわらずどのみちドーピングに突き進んでいったであろうことを疑いなく描いていて、いつしか肉体的なトレーニングと分かちがたく融合していくドーピングのプログラムそれ自体に人生を捧げるかのような手段と目的の逆転はある種のアディクトにも思えるほどで、鬼気迫るその姿の奥底に潜むものの正体がほんの一瞬あらわになるのが、カムバック後の現実を突きつけられ“3位だってよ”と自嘲気味に笑うシーンで、第四の壁気味にこちらを見据えて笑うと言うよりは崩れるように変形する顔の異様はほとんどホラーであって、スーパースターの栄光と引き換えに餌を与えてきたモンスターにその内部を喰い尽くされていることを断罪した怖ろしいカットであったとしかいいようがない。とはいえそれ以外は良く言えばジャーナリスティック、言い換えれば分別くさい視線のままなものだから、前述したフロイド・ランディスが介入する時のモンスターとすれ違う危うさが宝の持ち腐れに思えてしまうのは仕方のない事だし、もはや人外と言ってもいいあの笑顔を観たあとではいっそピカレスク仕立てでもよかったのではないかとすら思ってしまっている。どうせ射殺されるのであれば好きなだけ暴れさせてやればよいではないか。マット・デイモンがいる限り永遠の共犯者でありつづけるジェシー・プレモンスを当てはめたように、それを気兼ねなくするためのベン・フォスターではなかったのか。
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2016年07月13日

死霊館 エンフィールド事件/愛という名の悪霊

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ホラー映画のやさしさというのは、つまるところ人は死なないためなら何でもするという身も蓋もなさを諸手を挙げて受け入れてくれるところにあるのだろうなとあらためて思ってみたりもしたのである。それは柳下毅一郎氏の言う「広義には、すべての映画はセックス映画だとも言える」にも通じる人間の根っこのところにある欲望というか本能の追認でもあるのだろうけれど、それが“夫婦愛、親子愛、姉妹愛を一筆書きのように描けてしまえるホラーというジャンルの奥深さ(前作鑑賞時のメモ)”を可能にしているのは言うまでもない上に、少々そのことに拘泥しすぎたのかもしれないなと自省した監督がそれを『インシディアス』のデモニッシュなファンタジーでバックアップしたことによって、全方位への攻撃と防御をほぼ可能にしたホラー無双に開いた口がふさがらなかった次第である。クラシックなホラースタイルのアップデートを目指した『死霊館』シリーズでは、恐怖を与える直截的な対象はあくまでも登場人物であり観客を直接いじるドンガラドンのさらなる更新は『インシディアス』に任せてこちらでは切り札にしないというスタンスであったのが、今作ではまるで自身が開拓したホラーマナーを総括でもするような縦横無尽をみせていて、数年前に監督が公言した、もうホラー映画は撮らないよという宣言が頭をよぎってしまうほどの集大成に思えたのである。ドンガラドンの打ち上げ花火的な強度に拮抗させるためなのだろう、同一ショットですべてが起こるためのフレーム設計はさらに磨きがかかり、特にジャネット(マディソン・ウルフ)をめぐるショットでの彼女のぽつねんとした置き方とその空間の忌まわしさはジャネットの絶望を哀切に呼び続けていたし、『エクソシスト3』に端を発すると思われる横切り芸については『インシディアス』経由の積み上げがなかったのは残念だけれども、その代わりに一斉に家を飛び出したホジソン家が道を横切ってノッティンガム家に駆け込むショットの奇妙な祝祭感を見つけられたのは幸いだったのではなかろうか。(この際よその子のことなんかどうでもいいから)お願い行かないで!と泣き叫ぶロレイン(ベラ・ファミーガ)に、ごめん、後悔したくないから行かなけりゃならないんだ!と応えるエド(パトリック・ウィルソン)とのドア越しのシーンは、愛こそが恐怖を生むことを知らしめてロマンチストたるジェイムズ・ワンの面目躍如であったのは間違いない。それにしても、おもちゃの消防車が走ってくるだけでなぜあれだけ禍々しく鳥肌が立つのか、映画を映画たらしめるのはストーリーではなくストーリーテリングであることの格好の証となる名シーンだったのではなかろうか。エドのもみ上げが何に由来するのかまでタネ明かしされてしまうと、もしかしたら監督の脱ホラー宣言がいまだ有効なのかとそれだけが心配で心配で仕方がない。どこかしらジャック・ワイルド風なマディソン・ウルフ嬢がアメリカ娘であったのはちょっと意外な気もしたけれど、噛み締めた奥歯で涙をせき止めた彼女が実質的なMVPであったことは揺るぎがないのであった。
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2016年07月09日

ウォークラフト/汝、星くずの守護者となりて

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こんなカッコいいグリフォンは『シンドバッド黄金の航海』以来だなあとか、ほとんど伝統芸と化したベン・フォスターの転向クンっぷりとか、ぶっ潰してたたっ切る鉈のような重量の白兵戦とか、何だか意外とグルダン嫌いになれないなとか、ローサー(トラヴィス・フィメル)の喰ってる肉おいしそうだなとか、おお、そこで◯◯をぶっ殺しちゃうなんて豪気だな!とか、自家中毒みたいな内省や葛藤でドラマを偽装するよりは、こうやって騎士道の矜持が連れてくるプライドと尊厳の物語にした方が闘わざるをえない者たちの追い風としては健やかだなあとか、そもそもハイ・ファンタジーに現実の反映による共感とか持ち込むのは野暮だろとか、全米がコケた的な喧伝にそれなりの?はついたわけである。とはいえ、あらかじめトリロジーが約束されていたLOTRに比べると、スタートダッシュでタイムを稼いでおかなければ次のランナーにバトンを渡せないという足かせがあったことで少しばかり駆け足が過ぎたのは確かなところだし、特にガローナ(ポーラ・パットン)の人間とオークに引き裂かれた過去の陰影を十分に浸透させないままアゼロス側に寄り添わせたことで、続篇があるならば明らかに彼女が物語の主役を担うであろうことを考えた場合、彼女の苦渋の決断と偽りの女王としての葛藤(おそらくタリアとの対称となるはずである)がそれにふさわしい重荷となるには彫り込みが浅いままであったように思えてしまうのは否めない。そして、精神性も行動もその重荷を受け止めるためにあるのかと思われたデュロタンを退場させたのはシナリオ上のブースターとしては有効ながら、彼とローサーが種族を超えた絆を紡ぐまでには至っていなかったこともあってローサーの仕上がりは一面的なままだし、生き残った者たちが果たしてどれだけの恩讐を紡ぐことができるのかと言うと少々心許ない気がしてしまうのが正直なところなのである。ただ、撮影期間中の監督の父親と妻をめぐるタフなプライベートのことを思うと、絶対的な悪や闇といった存在を手近に置きたくなかったのではなかろうかという推測は可能だし、その細やかで柔らかいあくまでパーソナルな物言いにはブロックバスターで筆が荒れるのではないかという危惧とも無縁だったことに安堵はしているのである。荒んでいるのは生け贄が血を流すストーリーを欲しがってしかたのない客の方なのではなかろうか。
posted by orr_dg at 23:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする