2019年05月22日

アメリカン・アニマルズ/いつも同じ時間に退屈になる

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「彼らは楽をしようとしたのでしょう。成長のために経験を積もうという考えが彼らにはなかった」とベティ“BJ”ジーン・グーチ(アン・ダウド)が語る言葉こそが、この無様で滑稽な4人を断罪するにふさわしいのは重々承知の上で、どうしていつもいつもこの世界は世界のままなのか、何をすればその顔がほんの少しでも歪むのかと言いがかりのように苛ついた身の覚えのせいなのか、彼らを笑うことなどできるはずがないどころか同族嫌悪とも言える吐き気すら覚える始末だったのだ。バイト先の倉庫から肉の塊を盗み出し警備員を振り切った程度の逃げ足で「アイム・アライヴ(今おれは生きてる!)」と満面の笑みを浮かべるスペンサー(バリー・コーガン)とウォーレン(エヴァン・ピータース)にとって、1200万ドルの稀覯書はせいぜいがより高級な肉の塊に過ぎないわけで、美大生であるスペンサーがオーデュボンの版画に対する芸術的なアプローチの一切を見せないあたりに彼の死にっぷりが否でも窺えて、君は作品で何を表現したい?君は芸術家としてどうありたい?と質問されて答える言葉を持つことのないスペンサーの死んだ目こそがこの映画のトーンを決定したといってもいいだろう。そのあたり、運動部の奨学金で入学しておきながらスポーツ馬鹿ばかりだと毒づいてチームの一切にケツを向けるウォーレンもまた同様で、このすべては死人を自覚する彼らが自らに施した電気ショックにすぎないことを思えば、BJの言葉と彼らが100万光年を隔ててすれ違うのはやむなしとすら思ってしまう。そのうち当の本人たちがカメラの前に現れてかつての自分たちを自ら断罪するに至り、すべてを否定された2004年の彼らはまるで集団リンチを受けるように追い詰められていくこととなるわけで、どこかしらオフビートなピカレスク風に語られるこの映画を苦笑いとしてすら笑えなかったのは、その善悪や正誤に関わらず彼らなりに切実であった世界との接続がすべては身から出た有害な錆でしかなかったというその逃げ場のない痛々しさによっていて、「老人はこの社会では視えない存在なんだ」としたり顔でうそぶきつつ徒党を組んだ4人の老人が学生たちの只中に現れて浮きまくる笑えないコント、アムステルダムのバイヤー(よりによってウド・キアー)やクリスティーズの鑑定人といった楽をしてこなかった大人たちの前に現れた時の彼らがまとう圧倒的な借り物感と未熟さの惨めさ、などといった彼らが真顔でいればいるほど傷口に塩をすり込んでいく残酷な回想はいつしか2018年の本人たちへの不信すら呼び覚ました気がして、好むと好まざるに関わらず2004年の自分とそれ以外の自分との二役を永遠に演じていかねばならない彼らにいつしか憐れみや蔑みを抱かされている自分に嫌気がさしてしまう。NYの車中でチャズ(ブレイク・ジェンナー)に万死に値する致命的なミスをなじられて、どうして自分は今このまま消えてしまうことができないのか、むしろそのことの方がおかしいじゃないかとでもいう風に顔をゆがめ身体を捩らすスペンサーに憑依したバリー・コーガンが言葉を失うほどに凄まじい。揃いも揃っていなたいチェック柄のシャツを着た集団のバカ騒ぎに苛立って、彼らに殴りかかるエリック(ジャレッド・アブラハムソン)もまたチェックのシャツを着ているという底の抜けた哀しみにも引き裂かれる。レナード・コーエンの“Who by Fire(火に焼かれるのは誰だ)”が流れる中、踏みこんだFBIに次々と逮捕されていく彼らをスローモーションで捉えるシーン、頭に浮かんだのは「3年B組金八先生」で中島みゆきの“世情”が流れる中、機動隊に連行される加藤優の姿なのだった。なんというか加藤くんには申し訳ないのだけれど。
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2019年05月19日

オーヴァーロード/気分はまだ戦争

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ことさら冷えたわけでもない何なら水道の水を心ゆくまで飲み干したようなこの満足感は、おそらくこれがMCUの構造的欠陥ともいえる助ける者と助けられる者が交わす熱視線が縦横にめぐらされた英雄譚であったからだろう。ノルマンディー上陸作戦の先兵となったある空挺部隊が戦場におけるアマチュアとプロフェッショナルの危ういバランスの上でぐらぐらと揺れつつそのスイングを利用して、キャプテン・ナチスを誕生させんとするヒドラを壊滅させるこの物語において、アマチュアであるエドワード・ボイス二等兵(ジョヴァン・アデポ)とプロフェッショナルとしてのルイス・フォード伍長(ワイアット・ラッセル)がそれぞれに抱く「良心」のぶつかり合いが物語の推進力となって目的に向かい収束していくその構造をスティーヴ・ロジャースとトニー・スタークの黄金比に重ねてみれば、MCUでは語りきれない小さな大義がもたらす自己犠牲を心ゆくまで描くことで湧き出す浄化こそが、冒頭で述べた望外の満足感に繋がったのだろうと考える。そしてそれをなお可能にしていたのは、「良心」が容易に戦争を断罪してしまうことのないよう戦争映画としての装甲を徹底して強化していたことにもよっていて、敵地へ降下するまでのオープニングシークエンスでいきなり観客を阿鼻叫喚の地獄絵図に放り込み、生き残るためには手段を選んでなどいられない戦場の論理を全身になすりつけることでサスペンスの発火装置としての「良心」を弄び始める手口は非常にスマートだし、それを維持する(という建前もあって)ための暴力およびゴア描写をてらいなく加速させていくアイディアとそのサービス精神には胸が熱くなるばかりだったのだ。「良心」の命ずるままに迷走するボイスが、自分が蘇らせてしまったチェイス(イアン・デ・カーステッカー)の頭部をスイカでも潰すように粉砕して錯乱するシーンを合図に、「良心」の十字軍となった彼らとクロエ(マティルド・オリヴィエ)がナチスを虫けらのように血祭りにあげる怒涛の終盤と、ついには秘めた「良心」を全開にして「悪意」と一騎打ちするフォード伍長の侠気が打ち上げる花火の豪気、わたしは自分がわからないと眼を伏せたクロエが火炎放射器でぶちまけた焔に見つけた自分、そして止むことのない爆風を追い風に暗闇を走り抜けるボイスは光の中に飛び出していき、計画通り連合国はノルマンディー上陸を果たすこととなる。といった風に「良心」と「悪意」を消費する戦争エクスプロイテーション映画がなぜこれほど痛快で爽快なのか、MCUが様々に厄介な手続きをふみつつそれを食い止めてきた理由があらためてわかる気がしたようにも思うのである。暴力も戦争も初めから我々と共に在ったものだ、言うなればお前らの神がお造りになったものだ、崇拝しないでいいものか、とコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」の中で吐かせたあれは、やはりとても厄介だということなんだろう。
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2019年05月17日

ラ・ヨローナ 〜泣く女〜/水でも飲んで落ち着け

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『グリーンブック』では豚に真珠、もしくは掃きだめに鶴と崇められて映画の良心となったリンダ・カーデリーニが、ここでは主にサスペンスの発生装置としてやらかしては転げまわっている。ラ・ヨーロ誕生の哀しい経緯を現代(といっても舞台は1973年だけど)のネグレクトに関わる問題に絡める着想はタイムリーだし、主人公アンナ(リンダ・カーデリーニ)をそうしたケースを扱うソーシャル・ワーカーにしたことで、彼女を渦中に放り込む手筈も整っていたように思うのである。冒頭で彼女が担当する家庭の子供が不審死を遂げることでその母親がネグレクトを疑われ、その究明を進めるアンナも次第にその母親と同じ状況に追い込まれていく、というのがこの映画の神経戦としての構造となるのだけれど、ラ・ヨローナの脅威から子供たちを守る行為の特異性とその消耗が周囲には彼女によるネグレクトに映ってしまうという逆転があまりうまくいっていないことで、神経症的に苛まれる側面が霧散してしまっていて、たとえば修羅場の中で食事をつくるどころではなくなりTVディナーのような夕食となる場面があるのだけれど、アンナの息子を診察した医師が子供の腕に残るラ・ヨローナの徴を見てネグレクトを疑い、通報を受けたアンナの同僚とその刑事がアンナの家を訪ねることになるのだけれど、そのタイミングをなぜ子供たちがTVディナーを食べている場面にしなかったのか、それが育児放棄と映る格好の場面だったのにとその意図を疑うわけである。それともう一つ、アンナが巻き込まれるきっかけとなる母親が子供をラ・ヨローナから隠した部屋の扉の一面に描いた護符のような「目」の意匠は、その母親と同じ立場に追い込まれるアンナもまたそれを描くことになるとばかり思っていたものだから、それは『CURE』のうじきつよしの部屋を例にあげるまでもなく、恐怖の実体が自分に向かってくることを厚塗りする常套手段をなぜ手放してしまうのか、せっかくの伏線をなぜ活かさないのかもったいなく思ってしまう。とは言え、この神経戦の構造を維持するのが難しいのは、ラ・ヨローナのアタックが憑依型のそれではなく完全に肉弾戦を挑んでくるからで、ブヴァァァァという出囃子と共に現れてはただひたすら追い回して物理攻撃を仕掛ける猪突猛進はここのところのポスト/ポストモダンホラーの潮流からは完全に道を外れたモンスターのビックリ箱であって、そのドシャメシャが舞いあげる風が一瞬心地よかったのも確かではあるにしろ、本来はメランコリーに食い尽くされた化け物であるはずのラ・ヨローナさんが、いつしかキャシー塚本のように爆裂し暴走するその姿は彼女の本意であったのかといらぬ心配などもしてしまうわけで、死霊館シリーズ(The Conjuring Universe)において、前述したポスト/ポストモダンホラーの潮流とは異なる「見れば分かる」“ニューライン・シネマ”ホラーを新たな手口で研ぎ澄まし続けるジェームズ・ワンにとって、このスピンオフシリーズはある意味で実験的なアプローチの場であり、この直截性はあくまで一周回ってきた結果によっていると思うのだけれど、「見たまんま」と「見れば分かる」のカミソリ一枚ほどの違いをスリリングに感じるにはラ・ヨローナさんが少しはしゃぎ過ぎであったと、相応の呪いを覚悟で苦言を呈しておきたいと思う。
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2019年05月13日

ある少年の告白/ある少年の告発

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ジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)の父親マーシャルにラッセル・クロウを据えたあたりで、『ビューティフル・ボーイ』的な人生の更新を受け入れていく父親といった構造なのだろうとそんなふうな予見でいたところが、ジャレッドを罪悪感で沈めつつ矯正/強制収容所送りにした人権搾取者たちの手からわが子を救い出す母ナンシー(ニコール・キッドマン)が、自身もまた搾取される側の人生であったことに中指を立てるレベル・ムーヴィーのムチに横っ面を張られると同時に、無垢の者ジャレッドが魂の監獄とすら言える施設からはたして脱出できるのかという『ミッドナイト・エクスプレス』のような心胆を寒からしめるサスペンスに段々と身じろぎができなくなっていく。マーシャルはバプテストの牧師であると同時にフォードのカーディーラーの経営者でもあり、彼が隠さない宗教的強圧からすればピューリタンの労働倫理的なお務めによって従業員を煽りつつ「ビジネス」を成り立たせているのは想像に難くないわけで、説教壇から会衆に向かって「この中で完璧でない人は手を上げて」「では完璧な人は手を上げて」と“不完全な我々”(自分はその中にいない)の共感を抑圧にすり替える口調が、施設のセラピストであるジョン・サイクス(ジョエル・エドガートン)が入所者を前に“治療”について語る時の、1ドル札を使った目眩ましの口上と似通うことはもちろん偶然ではないだろう。ジャレッドは、大学や施設でヘンリー(ジョー・アルウィン)、グザヴィエ(セオドア・ペルラン)、ジョン(グザヴィエ・ドラン)、ゲイリー(トロン・シヴァン)と言った彼と同様に悩み困惑し傷ついた人たちと出会うことで(彼に大きな傷を残したヘンリーですら)、自分達は教会や施設の人間が言う悪しきものではなく、不完全な善であるという一点においてすべての人たちと平等であるはずだという認識を確かにすることで、あなたが変わらない限りこの距離が縮まることはないのだと正面から父親につきつけてみせるのである。このラストにおいて、それでも父マーシャルが捨てきれずすがるのがマチズモの系譜としての父殺しで、せめておれを殺してから行ってくれと途方に暮れるその姿は悲しくも哀れですらあり、一人の母としてジャレッドと向き合うことで自分を囚えていた抑圧をも知ってそこから自由になることを選んだ母ナンシーの飛び立つような軽やかさとは光と影の対照をなしている。医学を信仰で、信仰を医学で量ることはできないし、それをできるかのように語る人間のそれは騙りであることを、劇中半ばで真摯かつ正直な言葉にしていた医師も女性だったことを想い出してみればいい。男たちの他はみなとっくに気づいて知っているのだ。
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2019年05月10日

ザ・フォーリナー 復讐者/爆弾銃弾肉弾糾弾

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リーアム・ヘネシー(ピアース・ブロスナン)に揺さぶりをかけたクァン(ジャッキー・チェン)が、その後ヘネシー配下のチームにベルファストでの宿を急襲されるシーン、ヘネシーの事務所に仕掛けた挨拶代わりの手製爆弾の手際にクァンが何らかの殺傷スキルを持った者であることが観客には暗示されていて、となれば先を読んだクァンは既に宿をもぬけの殻にしているか、もしくは何らかのトラップで彼らを返り討ちにするのか、いずれにしろ完全にクァンが狩る側にまわったことを告げて次のシークエンスに移るものだと思っていたのである。ところが、居場所を探知されることなど想像もしていなかったクァンは襲撃に慌てふためき、熟練した近接戦闘の動きを見せつつも相応のダメージを受けて命からがら脱出することとなる。考えてみれば、ベトナム戦争での特殊部隊兵士としての往時から数十年の時を経ることで身体も神経も錆びついているのは当たり前だし、染みついた本能の残滓があるとしても命のやり取りをして生き残る最前線の感覚からはもはや程遠いのは言うまでもなく、そうしたクァンの背景をジャッキー・チェンという稀代のアクション・スターの夕暮れに重ねてみせることこそがこのキャスティングの狙いだったことがわかった瞬間、ジャッキー・チェンではないクァン・ノク・ミンという男の哀しい目や丸みを帯びた背中がスクリーンをみなぎるように支配し始めて、お仕着せとしてのジャッキー映画どころではない元IRAメンバーとベトナム戦争の元特殊部隊兵士が暴力に彩られた互いの過去に喰われていく様を、締め上げた緊張と寄る辺のない彩りで描いた身を切るようなアクション映画として成立させている。ヘネシーと1対1で対峙したクァンが、お前らが使った爆弾はセムッテクスか?と尋ね、そうだと返されると、あれは戦争の時にチェコ人がベトコンのために作った爆弾で、アメリカ人をたくさん殺したあの爆弾でIRAがおれの娘を殺すことになるなんてとんだ皮肉じゃないか、と問わず語りに独白するシーンは、アクションがまるで介在しないながら今作におけるジャッキー・チェンのハイライトといってもいいだろう。あくまで復讐するのはテロの実行犯であって、たとえ自分の生命を奪いに来る者であってもそれ以外の人間を殺すことはしないという枷に加えて、リタイアして錆びついた肉体と神経というハンディを背負うことでクァンのアクションには切迫したサスペンスが生じ、元英国特殊部隊兵士にしてヘネシーの甥ショーン・モリソン(ロリー・フレック・バーンズ)と森の中で人知れず繰り広げる近接格闘戦には、『ハンテッド』のトミー・リー・ジョーンズvsベニシオ・デル・トロ戦を想い出したりもした。さすがに「特捜班CI-5」の昔からイギリスの狭い室内で繰り広げられるアクションをハイスピードで立体的に組み立ててきたマーティン・キャンベルだけあって今作の流れるような手さばきは見事というしかないし、アクションにこめられたドラマの意図に対するジャッキー・チェンの嗅覚と、大義に喰われたヘネシーという男の野卑なメランコリーを燃やし尽くすピアース・ブロスナンの精密と、特にジャッキー・チェンという俳優の解釈については、どうして今まで誰もここに手を付けなかったのかという驚きもあって徹頭徹尾腑に落ち続け、そしてそれは静謐なうちに暗転したエンドクレジットでさらに決定的となるのである。お前が歌うんかい!
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2019年05月09日

アガサ・クリスティー ねじれた家/馬鹿が名車でやって来る

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※鑑賞予定の方スルー推奨

原作未読。観ていながら、?と思った某有名ミステリとの類似はとっくの昔から指摘されてきたのだろうし、それを今さらあげつらうのも無粋だろう。結末の寄る辺のなさということで言えば某有名作品の方が圧倒的に好みだけれど、グレン・クローズを役不足とすることだけは回避したい、いや回避せねばならぬ!という並々ならぬ熱意と強い意志が込められたこの結末の突然発火するようなスペクタクルが何より映画としての勝利であったのは間違いない。原作を読んでいないためどのような脚色がなされたのかわからないけれど、何しろチャールズ・ヘイワード(マックス・アイアンズ)がいかなる推理能力を持つ探偵なのかが明らかにされないまま平坦なプロットが順送りにされていくだけで、それをヘイワードが何らかのアイディアによって撹乱してみせることをしないものだから、容疑者となる他のすべての家族はそれなりに癖のある役者がそれなりに癖のある造型をしていたにも関わらず、誰が真犯人でもおかしくないというミスリードに至らないこともあり、真犯人が浮かび上がるプロットの組み立てにまったく立体的な陰影がつかないまま、なおさらグレン・クローズの力技が際立って見えたように思うのである。すべてはこれがバッドシードものであることの煙幕ではあったにしろ、そこに至る複層が某有名作品に比べると薄くてヤワすぎるし、原作を読まずして判断するのはフェアでないにしろ、これを自身の最高傑作と言ってしまうクリスティとワタシの相性が良くないのはやはり仕方のないことなのかとさして必要のない再認識をした次第。チャールズが駆るBristol405もグレン・クローズが駆る Triumph TR3Aを筆頭に、屋敷や衣装もふくめた美術デザインは腰の座った成果を発揮しているのがなおさら空疎をあおる。空虚じゃなくて。
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2019年05月08日

ハンターキラー 潜航せよ/信じる者は浮かばれる

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プロフェッショナルの矜持とそれを認め合った者同士の熱い義侠心が、彼らを取り巻く者たちの忠誠心をスパークさせて上昇気流を生んでいくという、肉体というよりは感情のハードアクションがほとんど東映エクスプロイテーションのようである。しかし、それらを渾然と際立たせるには何らかの異化が必要となるわけで、それらグルーヴの外側に居てなおかつノイジーな通奏低音を鳴らす者としてのゲイリー・オールドマンこそがその責を果たしていたように思うわけで、ジョー・グラス(ジェラルド・バトラー)、セルゲイ・アンドロポフ(ミカエル・ニクヴィスト)、ビル・ビーマン(トビー・スティーヴンス)といった面々と対峙するだけの矜持は持たされず、かといって彼らを向こう岸から脅かしつづけねばならない上に、ほとんどセルフパロディとすら言えるゲイリー・オールドマン的狂犬演技を装いつつ『男はつらいよ』のタコ社長のごとく腰の軽いお騒がせ屋でもあらねばならないというそれなりに厄介な役どころを、ちょっと目盛りを合わせただけであっさり演じてしまうような喰えなさ加減が、この不意打ちと舌打ちのような映画の下支えとなっていたのは間違いがないところだろう。それにしても、いつからかそれが当り前とでもいうような口ぶりで語られる理詰めで可能性を拡げたり潰したりする映画の所作に中指でも立てるように、俺はあんたを信じてる、あんたはあいつらを信じてる、だから俺はあいつらを信じてるという三段論法だかなんだかよくわからない確信だけを手持ちの札としつつ米ソ開戦の回避に賭けるグラスが浮かべるのはほとんど狂人の笑みにも映り、そういえばこんな風なシネパトスもしくはシネマミラノ案件は久しぶりだなあと、実家にでも帰ったようなだらしのないくつろぎを覚えた理由に思い至ったりもしたのだった。ルッソ兄弟は2人だけでいい。
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2019年05月06日

芳華-Youth-/わたしたちが軍人だったころ

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青春を知らされぬ者を青春が庇護する者たちの楽園に放り込む酷薄な仕打ちは、ホー・シャオピン(ミャオ・ミャオ)とリウ・フォン(ホアン・シュエン)の2人を観客がわが身へと焼き付けることの、ほとんど脅迫にも似た念押しにも思える。模範兵の憂鬱と政治に踏みつけられた者の薄倖が特権階級のノンシャランにとってかわる因果応報的な逆転は最後までないまま、祝福された過去を今に繋げる術などない者は漂泊し続けるしかないことをシャオピンとリウ・フォンが互いの中に認めるラストの哀切こそが監督の視点であり、この物語を現代に語ることの意志であったのは間違いがないだろう。それにしても、なぜリウ・フォンのように清濁の曇りない眼を持つ者が、持って生まれた幸運に無自覚なまま微笑むリン・ディンディン(ヤン・ツァイユー)に惹かれてしまうのか、それはシャオピンが彼の恋愛対象にはなり得ないことの裏返しにも思え、政治的なマスコットとして英雄を生きねばならないリウ・フォンにとって、リン・ディンディンが生きる時の人生の霞を食うような無邪気は彼の屈託に差しこむやわらかな光にも思えたのだろうし、シャオピンの思いつめたような清廉はそれが強くて善い生き方によるのだとしても、リウ・フォンにとっては自家中毒をおこしかねない感情だったのではなかろうか。シャオピンの重ねての不幸は彼女が自身のために踊る術を持たなかったことで、父を失いリウ・フォンが去った後ではもはや彼女にとって踊ることは意味を失い、その後で暴走するかのように突き進む献身のふるまいが彼女を破壊してしまうその運命はどうにも不可避だったようにも思うのだ。何も持たぬゆえただただ善く生きようとした者、と言ってみればそれこそが人民の美徳であったはずが、それゆえに背負ってしまう苦難と果てのない流転を容赦なく叩きつけるこの作品はそうした人々への鎮魂であるのか自己批判であるのか、前半で描かれるきらめくような青春の楽園と、楽園を追われたものが地獄へと堕ちていく後半の、ほとんど別の映画とすら言える変転が観る者の退路を絶っていく監督の鬼気迫る筆さばきは寄る辺ないまでに容赦がない。シャオピンとリウ・フォンの地獄巡りで描かれる戦場や野戦病院におけるあけすけな人体損壊描写を目にして、どこか儚げに描かれてきた白血病のイメージに冷水を浴びせるがごとく死斑の浮いた土気色の徹底的にリアルな描写で臨終を描いた『サンザシの樹の下で』を思い出し、これが大陸の気風なのかはともかく、ショッカーとしてのゴア描写ではない物質としての肉体に対するプラグマティックな対峙が素晴らしく映画的に奏功することを再認識したのだった。そして一つ、高原地帯での慰問でシャオピンが代役として急遽ステージに上がるシーンがあるのだけれど、そこでシャオピンがいったいどのような踊りをしてみせたのかが描かれていないのである。実はこのシーンを含め146分版からいくつかのシーンがカットされた134分版をワタシたちは観ているのだけれど、ここで彼女が圧倒的なパフォーマンスを示すことで、このステージを最後に踊ることをやめてしまうシャオピンがどれだけかけがえのないものを棄ててしまうことになるのか、そもそもシャオピンとは誰だったのかを映画が叫ぶ抜き差しならないシーンになり得たに違いないと思うものだから、この点において画竜点睛を欠いたとしか言いようがなく思ってしまっている。
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2019年05月03日

アベンジャーズ :エンドゲーム/史上最大の侵略 後編

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※もちろんネタバレしています

『エイジ・オブ・ウルトロン』を観た時に記した“いつの日か戦うことになるあの敵について考えてみた時、この先に綴られるのは獲得や奪還ではなく喪失の物語となることを覚悟せよと告げていたようにも思えて、例えばウルトラシリーズの最終回にあった仄暗い愉悦をこれからはあてにせざるを得ないのだろうかと、トニー・スタークの体現するロック魂、すなわち疲れた体に宿る昂揚した精神に依存してきたワタシとしては少々気が重いのも確かなのである”という文章そのままの着地だったことや、すべてのクレジットロールが過ぎた後でかすかに響く11年前のあの音が遊び続ける子供たちを家路につかせる5時の鐘にも聴こえたこともあって、悲しいとかいうよりは優しく鎮められた気もしたのである。かつて「自分は非常に無責任なシステムの一部だった」と自己批判したあげく、過去はなかったことにしよう、これからはオレがオレの責任においてコントロールする!と飛び立ったトニー・スタークの苦味に満ちたノンシャランが現実でも地獄巡りをしてきたロバート・ダウニーJrに重なった瞬間にこそ、『アイアンマン』が虚実の壁を破って誕生したことを思い出してみれば、この大団円でトニー・スタークが「私はアイアンマンだ」とあらためて宣言してみせて西の空に明けの明星が輝く頃に宇宙へ飛んでいく一つの光となったことで、トニー・スターク=ロバート・ダウニーJrのビルドゥングスロマンとしてのMCUが永遠に円環する神話になったのだろうと考えている。ワタシとしては、誰も彼もが『ダークナイト』のように責任をとるわけにもいかないのは当たり前だと『アイアンマン』が11年前にその呪いを解いてくれた時点でもう充分だったものだから、思えばずいぶんと遠くまで来てしまったものだなあという感慨もあって、鳴らされた5時の鐘を素直に聴くことができたのだろう。映画のラストシークエンスはキャプテン・アメリカのターンで終わったように見えるのだけれど、ベンチに座った老スティーヴのセリフに「トニー」と聞こえた気がしたので調べてみたところが、オリジナルのセリフ"After I put the stones back, I thought...Maybe I'll try some of that life Tony was telling me to get."(石を返した後で、トニーが言ってたみたいな人生を送ってみるのもいいんじゃないかと思ったんだ)から字幕では「トニーが言ってたみたいな」の部分がまったく抜け落ちていたことで、ワタシのように字幕(と多分吹替も)で観た場合スティーヴとトニーだけにつながる絆がふっと浮かび上がる瞬間を失ってしまうことになったのが、なんとも残念に思えてならなかったのだ。今後このシーンを観る時、とりわけトニーのビートニクを愛した観客は字幕を脳内で補完するのが必須となるだろう。今作で一番美しかったのはIMAXのスクリーンに大写しになったエンシェント・ワン(ティルダ・スウィントン)の超クロースアップで、その神々しさはほとんどスターチャイルドのようであったよ。
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2019年05月01日

幸福なラザロ/ただしくてかなしい

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無垢と善性の象徴として立つラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ)であるけれど、若きタンクレディ(ルカ・チコヴァーニ)の目には、母であるマルケッサ・アルフォンシーナ・デ・ルーナ公爵夫人(ニコレッタ・ブラスキ)は村人を搾取し、その村人たちはラザロを搾取するという構造の最下層にいるように映るのである。インヴィオラータ(=汚れなき村)の名で語られるその村自体はそうした搾取の構造の中にあるものの、ある酷薄な理由で世俗から隔絶され続けたことにより、経済や政治のシステムがもたらす格差とそれが培養する悪意から結果的に身をかわすこととなっていて、それゆえ誰に対してもノーと言うことをしないラザロが剥き身のままそこに在ることが可能なわけで、そうやってラザロは村にとっての炭鉱のカナリアと守護天使を兼務していたように思うのである。しかしラザロはタンクレディという清濁を泳ぐ者と出会うことで世界の思惑に感染してしまい、そうやって守護天使を失ったインヴィオラータの村も公爵夫人のシステムが崩壊することで新たな搾取のシステムへと地すべりすることとなる。劇場内で少なくとも2人の「あっ」という声が聞こえたあのシーンを経て、狼に乗って時間と距離を超えたラザロは渓谷の寒村から大都市の只中へと歩を進めていき、都市の片隅へと追いやられたインヴィオラータの村民たちが身を寄せ合うコミュニティは、ラザロという守護天使を再び押しいただくことで、アントニア(アルバ・ロルヴァケル)は再会したラザロにひざまずきさえする、かつての親密さと活気をつかの間取り戻していくのだけれど、年を重ねてより倦んだタンクレディ(トンマーゾ・ラーニョ)との再会がラザロの歩みを止めてしまうかつての構図が再び繰り返されることで、ノーと言わない人であるラザロはノーと言うことで維持される無慈悲なシステムに打ち倒されてしまうこととなる。ここに現れる狼は知恵と力の象徴で、人間と世界の間を行き来しバランスを発生させる存在でもあるのだけれど、その狼が斃れたラザロに他の人間にはない「善人の匂い」を嗅いだことで、この人間を維持することで保たれるバランスがあることを識った狼はラザロを立たせ目的地までを導くのだけれど、そこでラザロの身に起きたことを見届けた狼は、今度は斃れたラザロの匂いを嗅ぐこともないまま、この善人をお前たち自らが失ったことだけは忘れないでおけよと言い残すような一瞥をくれた後で行き交う車の間を「ラザロの匂い」だけをまとって走り抜け消えていってしまう。映画が始まり、最初にラザロを目にしてからずっとつきまとう落ち着かなさは、いつか彼が手ひどく傷つけられることの予感に他ならず、それがこの寄る辺のない世界で善を貫いたまま無傷でいられるはずがないというしたり顔によっていることを承知すると同時に、自分が彼を傷つける側の人間であることに気づいているからこそうろたえてしまうのだろうことも告白してしまいたい。しかしそうしたワタシのような人間が途方にくれてしまうことなど百も承知であるからこそ、監督はラザロの道行きにああした結末を用意したのではなかろうか。ラザロになれない者はラザロが斃れることのない世界の一部として生きようと決めればよいのだと、狼であるアリーチェ・ロルバケル監督は言ってくれている。
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2019年04月26日

魂のゆくえ/神は騙されている

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※展開に触れています

メアリー(アマンダ・サイフリッド)の呼び出しに応えて2度目に彼女の家を訪れたトラー(イーサン・ホーク)が停めた車を、最初の時に比べればぞんざいと言っていいはみ出し方で捉えたカメラは既にトラーの転調を告げている。よりよく闘うこと、すなわちよりよく殺すためのコンディションを御心にて維持すべく神と国に仕える従軍牧師の家に生まれそれを継いだトラーは、アメリカ兵の死を神の言葉でなだめる一方、従軍牧師を“継がせた”息子の死に際してはそれを恩寵とする言葉を持つ術もないままあっけなく瓦解してしまい、果たして従軍しない従軍牧師に神の声は聞こえるのか、聞く資格はあるのか、ならば自分が仕えているのは誰なのか、おそらくは人生で初めてトラーは無垢の人として在ることで神をとりまく世界の悪意を目の当たりにし、もはやプロテスタントもカソリックもなく宗派のくびきから解き放たれたトラーは、メアリーを懐胎したマリアに見立てでもしたかのように一人十字軍の途をひた走り始める。メアリーにとって牧師は神の代理人として全能であって、そうした無邪気と無辜がさまよえるトラーを強迫することで彼を覚醒させることとなり、実際のところ終始彼女の手のひらで七転八倒するばかりのトラーは、というかイーサン・ホークという人は、ファム・ファタルのリードするダンスでボロ雑巾のごとく振り回され息も絶え絶えに身悶えする瞬間にこそ後光を放つ稀有な俳優であり、このシナリオがアテ書きであったことを明かしたポール・シュレイダーの酷薄なまでの慧眼には恐れ入るしかない。うっすらと目を閉じ歯をくしばりながら白く緩んだ肉体に有刺鉄線を巻きつける姿は、恩寵のもたらす快感に抗う行為それ自体を官能として待ち構えていたようでもあり、もしもメアリー=マリアによる救済(「エルンスト!」)がなければ光年の彼方まで逝ってしまっていたに違いない。夫がライフルで自分の頭を吹き飛ばしたばかりの寡婦と笑顔でサイクリングに興じ、最後の晩餐をきどって刺身で晩酌をするトラーの羽の生えたような卑俗もまたイーサン・ホークの為せる技で、堕ちながら翔びそして激突する人の面目躍如というしかなかったのだ。サイクリングのシーンでの、自動車ならたやすいが自転車のスピードをどうやって掴まえようかと考えたあげくのファーストカットに『はなればなれに』の自転車とかそういった風な可愛らしさが飛び乗っていて思わず2度見する気分であった。つっかえ棒を全部外したとして映画は立ち続けるのかという試みに挑み、立ち続けるどころかありえないダンスをさせた前作『ドッグ・イート・ドッグ』がワタシは大好きでその年のベスト10に選んだりもしたのだけれど、今作ではそのつっかえ棒が映画を腹から背まで、脳天から肛門まで串刺しにしてしまっていてしかもそれを、この打ち棄てられた世界をなお愛し続ける証とすることで新たな信仰の礎へと再生してしまっていたのである。ある側面におけるイーサン・ホークの到達点にしてポール・シュレイダーの最終覚醒を告げる傑作であり、スコセッシにとっての『沈黙』、塚本晋也にとっての『野火』となる弩級のメルクマールであったし、何より40数年の時を経てあの映画を脚本家自らが更新するスリルへと、悪魔のような笑みが誘っていたのは間違いようがないのだ。
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2019年04月23日

ビューティフル・ボーイ/ローリング・ダッド

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彼ら(ジャンキー)は、泣きごとを言っても身動きをしても無意味だということを知っていた。もともと人間はだれも他人を助けられるものではないということを知っていた。他人から教えてもらえるような秘密の解決法などありはしないのだ。
― ウィリアム・S・バロウズ

両親の離婚、スタイルの英才教育、ブルジョアジーの憂鬱、などなどニック(ティモシー・シャラメ)が堕ちた中毒の理由などいくらでもドラマタイズできそうなところだけれど、それらを救済の口実として自身を慰めることなく、最愛の息子がジャンキーになったという寄る辺のない現実を理解し受け入れるために自身を更新し続けた点において、この映画とデヴィッド(スティーヴ・カレル)は極めて誠実だったように思うのだ。ジャンキーは病質ではなく、退化でもなく進化でもなく、ここからどこかへ変質した存在であること、そしてその変質は永遠であって帰還は一時的なものに過ぎないことを、ジャンキーへの偏見ではなく認識として持つに至るまでの道行きは、ドラッグとは切り離せないカウンターカルチャーの只中を生きてきたデヴィッドにとって季節外れの通過儀礼でもあったのではなかろうか。これがティモシー・シャラメであればこそ、どう転んだとしても画は維持されるにしろ、ニックの言動やパターンはこれまで見知ってきたジャンキーのそれと違わぬステレオタイプとしか映ることがないまま、ゾンビがみなゾンビとしてふるまうようにジャンキーはみなジャンキーとしてふるまうようになってしまう張りぼての哀しみを知らされることになる。継母カレン(カレン・バーバー)がニックとローレン(ケイトリン・デヴァー)の車を追いかけながら流す涙は愛情の通じない相手に対する怒りと悔しさのそれで、逃げ足のニックが見せる、罪の意識など光年の彼方にあって自分の不都合と不利から逃げ切ること以外何の意識も感情も持つことのない動物のような自我の残りカスに背筋がざわついて、これほど哀しくてどこへも行けないカーチェイスを今までに見たことはないと思った。劇中とクレジットロールで2度ニックによって朗読されるブコウスキーは、ニックが求めた人生の均衡を代弁すると共に、そのアディクトはバロウズ的なビートニクのダイヴが連れてきたことを匂わせてニックの物語としては理解と収まりを可能にする一方で、デヴィッドにとってはその実験精神を肯定せざるを得ないというジレンマに囚われるに違いなく、それはジョン・ゾーンをネタにスクウェアを笑うヒップな息子に育てた父親が受けてしかるべき報いであったといったら少しばかり意地が悪すぎか。
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2019年04月21日

マローボーン家の掟/想像する力を失ってはならない

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※ネタバレはしていませんが、観るならまっさらな状態でのぞむことを薦めます

語らないし語れないまま、思わせぶりというにはジャック(ジョージ・マッケイ)に顕れる傷や昏睡は彼をむしばむ一方で、本来であればそれを近くにいて見届けるはずのアリー(アニャ・テイラー=ジョイ)を差し置いて知らされ続けるワタシは、ジャックの苦痛に加えて彼女の分のそれまでも味わってしまっているものだから、ジャックをむしばみ続けるものの正体をついに知った時には、それが連れてきた考えうる最悪の絶望にも関わらず、ああこれでようやくジャックは(そしてワタシも)その苦痛から解放されるのだと、心かき乱されつつも安堵したのだ。それだけに、すべてを知ったアリーが彼女の苦痛を知る間もなく自身を立て直して事態を掌握し、勇猛果敢にアレを撃退する一連からの救済されたエピローグには、アニャ・テイラー=ジョイという女優の目と声と身のこなしに少しばかり縋り過ぎたのではないかという気もしてしまうわけで、その無償の愛が結びつけてしまう母性のジョーカー的な切り札がアリー自身の未来を閉じてしまうことはないのか、彼女の背景がいささか不足していることもあり(構造上アリーは蚊帳の外におかれ続けるとはいえ、彼女の場合の「親」と「家」が描かれることもない)、ある意味でジャックの役目をアリーが引き継ぐことを危惧してしまわないこともないのだ。このあたり、『永遠のこどもたち』におけるラウラの役割をジャックに背負わせたことにより、アリーの役割がクライマックスに向けて血が沸騰し逆流する展開の仕掛けにとどまった点で彼女の曖昧を誘ってしまったようにも思う。とはいえ、ワタシに関する限り『デビルズ・バックボーン』から始まった、失われた子どもたちによる闘争の物語としてその系譜を正面から受け継ぎつつ洗練された更新を果たした点で、すでにジャンルを超えて行ってしまったバヨナの、生を祝福するならば同じだけ死を想うことを忘れてはならない、という間(あわい)のヴィジョンをこのセルヒオ・G・サンチェスに継いでもらえればと思っている。
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2019年04月19日

荒野にて/僕らは廃馬を撃つ

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15歳のチャーリー(チャーリー・プラマー)が歩いていく苛烈なマージナルのラインと、人間の存在など意に介することなくひたすらそこに在り続ける原野の純粋な孤高と、彼が横断していくその聖と俗の出会う場所に湛えられた、生きることの責任としての孤独とその透明な哀しみこそが人間の本質であることをアンドリュー・ヘイは希望の色として染めようとこの映画を撮ったのだろう。勤勉を褒めるデル(スティーヴ・ブシェミ)に、しかし食事のマナーを豚のようだとたしなめられるシーンで、それを言われても腹を立てるでもなく小さく笑うだけのチャーリーには、卑ではないが粗にして野のまま育たざるを得なかった小さな闇の気配がうかがえて、細くて脆い綱の上を本人だけがそれに気づかないままうつむきがちに歩いていく姿は、アメリカが灯す最後のイノセンスがゆらめいているようにも見えたのだ。それがアメリカの流儀だとばかり、そんなものは早いところ吹き消して闇の中を歩く術を覚えろと彼なりの誠実で忠告するデルや、孫娘の体型をジョークのネタに笑い飛ばし、お前も軍隊に入って国に仕えたらどうだと初対面のチャーリーをつつくケンドール氏、それが規則であれ父を喪ったチャーリーを即座に養護施設につなげようと働きかける医師、チャーリーが稼いだ金を奪おうとするシルバー(スティーヴ・ザーン)、といったチャーリーを路上に追い立てるのがみな白人の男たちであったことを思い出してみれば、もちろんそこに父レイ(トラヴィス・フィメル)が含まれるのは言うまでもなく、そうした白人の男たちの社会で生きる彼女なりの諦めや苦渋を経て「チャーリー、ピートはペットじゃないの、ただの馬なのよ」とチャーリーを諭すボニー(クロエ・セヴィニー)や、アイスクリームをそっとおまけしてくれるダイナーのウェイトレスや食い逃げを見逃してくれたレストランのウェイトレス、よくやってくれたからフルで働いてくれないかと笑顔で話すメキシコ人の塗装屋、といった分断された境界の向こうで生きる人々こそがチャーリーを気にかけていたことを忘れるはずもなく、ワタシたちはどれだけ汚されたとしても自分で自分を汚すことはしないのだという真のアメリカの矜持がチャーリーを目的地へと繋いだに違いないと思っている。冒頭で、どこかへ向かうわけでもなく、もちろん自身に課したトレーニングとしてですらなく、ただとにかくここが現在地になってしまうことへの不安や恐れを振り払うかのように走っていたチャーリーは、たどり着いた目的地でもなお走り続けている。冒頭ではチャーリーを励ますように並走していたカメラは、チャーリーをそっと見守るように後ろから追い続けるのだけれど、そこを目指したわけでもない道の真中でふと立ち止まりこちらを振り返ったチャーリーの表情にあったのは、かつて海辺のアントワーヌ・ドワネルが浮かべた淋しさ(loneliness)から孤独(solitude)に向かう流転の徴にも思えたのだ。それは、自分が失ったもの、失わせたもの、失わさせられたもの、それらすべてへの悔恨と怒りとに訣別しなければ自分はどこにも行けないことを知った少年の精一杯で虚ろな懺悔ではなかったか。
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2019年04月17日

ハロウィン/これいただくわ

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※誰が死ぬとか死なないとかいったことに触れています

ローリー(ジェイミー・リー・カーティス)のファーストショットで一気に重心が沈み込み、40年の間ラストガールの呪縛から逃れられなかったベビーシッターが自身を鋼鉄化して待ち構える頂上決戦の予感に、あとはマイケル・マイヤーズ(ニック・キャッスル)の仕上がりを待つばかりということになる。やけにスタイリッシュでミニマルな精神病棟の中庭に若干の不安を覚えつつ、スノビッシュでいけすかないこの報道記者を早いところ屠ってくれないかな、まさかこいつらが狂言回しとかじゃないだろうなと気をもんでいたところが、わりとギリギリな少年殺しすらを肩慣らしにマスクを餌のようにちらつかせたお仕置きを男女等しく食らわせて、このガソリンスタンドの虐殺(最低でも4人殺ってる)では、誰かを滅多打ちするマイケルをガラス越しの遠景で捉えたショットがなかなかに美味しい。おそらくは護送中のマイケルを逃がす手助けをしたのであろう医師サルテイン(ハルク・ビルギナー)が魅入られたようにマスクを被るあたりで『ハロウィンV』的な悪の伝播に色気を出して薄味になるのは嫌だなあと思った瞬間の、あっけないまでのしかし完膚無きまでの粉砕は、お前はルーミス(ドナルド・プレザンス)の足元にも及ばないクソだと虚無の人マイケルですら苛つくこともあるのかといささか微笑ましかったりもする。本来マイケルはストロード家の血縁、もしくはそこに至る障害物を屠るわけで、してみると孫娘アリソン(アンディ・マティチャック)にまとわりつくキャメロン(ディラン・アーノルド)は当然排除されるかと思いきや、定型であれば死ぬことはない冴えないけれど気のいいお邪魔虫オスカー(ドリュー・シャイド)が顔面串刺しの刑で息絶えることになるのだけれど、これは彼のしでかした身勝手なあるいは意図的なコードの読み違いによるアリソンへのキス強要が今日的なタチの悪さとして書き換えられた結果でもあるのだろう。『サプライズ』での窮鼠が猫を噛むわけではないラストガールの暴走は痛快過ぎてなかなかフォロワーも生まれなかったのだけれど、土壇場でカレン(ジュディ・グリア)が見せる不敵はまさにソルジャーのそれで、2人の血走った目に自分の正統な血を嗅ぎ取ったアリソンの一撃によってもぎ取った勝利は、幾多のラストガールたちが囚われたトラウマまでも切り裂いたように思えたのだ。オープニングのジャック・オー・ランタンとオレンジ色のクレジットは78年版のほぼ完コピだし、意味ありげにそよぐ洗濯物のシーツや切り返しのショットによる逆いないいないばあ、窓ごしに見やる仁王立ちショット、などなど78年版へのリスペクトというよりは、またアレが起きているのだという不穏の醸成が冷静な手続きで行われていたことに感嘆するし、何よりマイケル・マイヤーズの中身に余計な詰め物をしなかったことをありがたく思っている。いかにも物欲しげな終わり方が気にならないではないけれど、あの包丁の意味深なカットがラストガールズのさらなる相克も予感させて、どうせやるならとことんやればいいと思ってはいる。
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2019年04月16日

ザ・バニシング -消失- /たらふく飲んで、堕ちていけ

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売店に向かうサスキア(ヨハンナ・テア・ステーゲ)がその途中で転ぶのだけれど、つまずくというよりは操り人形の糸が突然断ち切られたかのように、転んだ本人もその理由がわからないといった風に崩れ落ちる瞬間の、世界の組成が一変してしまうような感覚は、ワタシたちが存在する大前提としての法則を覗いてしまったかのような禁忌の畏れにも近く、それこそがキューブリックのいう恐ろしさの源泉だったように思うのである。レイモン(ベルナール・ピエール・ドナデュー)は、劇中において反社会性パーソナリティ障害という病名を与えられてはいるものの自らそれを隠れみのとするかのように、この世界は善悪の絶対値が完璧に等価だからこそそのバランスが保たれるのだとしたら、善悪のくびきを持たない自分のような人間が世界の法則に近づくためには、英雄的な善なる行動と、考えうる最悪の行為とで、それぞれが自分に働きかける感情にいったいどのような違いがあるのか、違いがあるとしたらどちらがどれくらい勝るものなのかを識らねばならぬというオブセッションへと沈んでいく。こうしたレイモンのなぜなに坊やのように邪気のない純粋な漆黒のオブセッションは、いつしかレックス(ジーン・ベルヴォーツ)を捉えることとなり、犯人を名乗り現れたレイモンの車に同乗しサスキアの運命をめぐるドライヴの最中、レックスはレイモンの常軌を逸した身の上話に笑顔を浮かべさえするわけで、まさかレイモンは実体化したレックスのオルターエゴなのではあるまいかと疑心暗鬼にすら陥る始末であったし、事ここに至ってワタシもレイモンのオブセッションに完全に憑かれてしまうこととなる。してみると、夢に現れる金の卵がここのところ2つになったと話すサスキアはその夢ゆえにレイモンと共鳴したのか、あるいはレイモンの接近がサスキアに予知夢を見させたのか、立ち往生したトンネルの闇の中でリアウィンドウに浮かぶ後続車のヘッドライトはまさに2つの金の卵に他ならず、サスキアを透過したそれは2枚のコインに形を変えて、彼女がそれを木の根元に埋めるよう仕向けたのだと思わざるを得ない。そのコインが財布の中にあったままなら彼女はレイモンに声をかけることはしなかったし、数年を経てそれを木の根元に見つけたレックスが、彼女の絶対的な不在に心を吹きとばされたあげくコーヒーを飲んでしまうこともなかったに違いないのだ。その後でレックスを待ち構えるバッドテイストな結末については、あまりにも鮮やかな伏線の回収に感嘆の嘆息が漏れたほどで、全体のバランスを崩しかねないほどに針を振り切ったところでブラックアウトしたまま終わる選択もあったように思うのだけれど、映画は家族と共に別荘にいるレイモンを捉えて終わろうとカメラはその表情を映し出すわけで、そこに浮かぶ彼岸のごとき静謐は昂ぶりの後の虚脱なのか、いまだ居座るオブセッションへの困惑なのか、それがいかなる道を往くにしろレイモン・ルモンの真の人生がここから始まることを告げていたように思うのだ。オープニングのナナフシからラストのカマキリへ。
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2019年04月14日

レゴⓇムービー2/わたしをバラさないで

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前作で果たした父殺しを経ての、思春期前にしておくべき脱マチズモのすすめをさっそうと展開する、さすが世界最強の知育玩具、のプロダクトプレイスメント・ムーヴィー。バットマン(ウィル・アーネット)はわがまま女王(ティファニー・ハディッシュ)に陥落し、その正体はと言えばエメット(クリス・プラット)のマッチョなオルターエゴだったレックス・デンジャーヴェスト(クリス・プラット)は、アルジャーノンのように消えていく。そんな風にして、すべては最高だぜ!といっぱしを気取って荒ぶる若気の至りに、いやいや世の中すべてが最高ってわけにはいかないけど、だからこそ一緒に最高にしていけるんだよ。スクラップ&ビルドを繰り返してね!と(末長くレゴで遊ぶための)水平性への意識改革がなされていくことになる。現実世界のプレイヤーがレゴ世界に投影されるというこのシリーズのルールというか縛りというか大前提についてはいささか苦労の跡がしのばれて、中盤あたりまではその投影がいったいどこへ転がっていく話なのか見当がつかないことが逆に奏功することで浮力のついた原色のサイケデリアが微熱の夢のように錯乱したこともあり、至極真っ当な収束に向かっていくにつれそれらが失われていくのが惜しまれたのも正直なところだし、アルママゲドンを経て生まれた兄フィン(ジェイドン・サンド)のボロボロシティと妹ビアンカのシスター星のハイブリッドシティが正直言ってさほど魅力的に映らなかった点で哀しいかな映画としては尻すぼんでしまったような気がするのである。それはおそらくレックス言うところの、子供が死のイメージを遊びに投影している(It's all just the expression of the death of imagination in the subconscious of an adolescent!)その作業にワタシがいまだとらわれていることの顕れであるに違いなく、三つ子の魂百までもとはよく言ったものだと、間に合わなかった大人の言い訳などしてみるのである。そしてこれは現状でのエンドクレジット・オブ・ザ・イヤー。ほとんどもうひとつのレゴムービー。
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2019年04月10日

バイス/おまえはなにをして来たのだ

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リン(エイミー・アダムス)に説教をくらっている間、顔にたかったハエを払うこともしないまま身じろぎ一つせずにいるディック・チェイニー(クリスチャン・ベール)の、リンに対する絶対的な忠誠心がそのハートへと打ち込まれた1963年の朝がすべての始まりで、トランプもブレグジットも元をたどればここに行き着くことになる。このシークエンスでリンの野心については出どころが明かされるものの、これが彼の伝記映画であるにしては、1963年のディック・チェイニーを育んだものはなんだったのか、何が多すぎて何が足りなかったのか、といった背景が描かれることはないまま、リンの最後通牒によって覚醒したこの日をアダム・マッケイはチェイニーの生まれた日としたのだろう。そしてチェイニーはラムズフェルド(スティーヴ・カレル)のタガが外れたスピーチを聴いて、ああ、これが許されるならこの世界は俺にも可能だと顔を小さくほころばすこととなり、自分が得意なのは相手が食いつくに違いない疑似餌を選んでおびき寄せては釣り上げる言うなればだまし討ちで、そんなことを繰り返していれば当然嫌われて敵も増えるに違いないにしろ、ここがその釣果だけが問われる世界ならば俺はかなり上手くやっていけるだろうと確信し実践した結果、リンに応え愛されれば愛されるほど世界からは忌み嫌われていくというその図式が鉄面皮で沈思黙考する怪物を生み出して行くこととなる。してみるとラスト近くで唐突に第四の壁を壊したチェイニーが「私は喜んであなたたちに仕えてきた。あなたたちが私を選び、私はそれに応えたのだ。」と語りかけてくる、らしくない言い逃れにも響くそれは、これこそが民主主義という終わりなき実験の証なのだ、というアダム・マッケイの注意書きであって、チェイニーをラスボスにして公開処刑したところで世界は後戻りするわけではないことをその後で真のラストとして付け加えたことに明らかなそれは「いっそう混乱するばかりの世界の中で、わたしたちの生活を一変させてしまう強大な力のことなど気にもとめず目の前ことしか気にしなくなっている。」という冒頭のナレーションへと再び引きもどすことになるのである。とはいえある時期におけるチェイニーの全能感はおそらく想像を超えていたに違いなく、自分たちにたてついた外交官の妻がCIAの秘密工作員であることを「リークしろ」と吐き棄てるたったそれだけのシーンが1本の映画(『フェア・ゲーム』)として成立するほどの事件(プレイム事件)をやすやすと引き起こしてみせるわけで、瞬間的にはほとんどサノスであったとすら言えるのではなかろうか。ここから派生する映画としてはマット・デイモンがイラクに大量破壊兵器(WMD)を探す『グリーン・ゾーン』があって、今作でジェシー・プレモンスを歩兵としてイラクに送り込んだのは計算ずくだろうと思っている。
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2019年04月07日

記者たち 衝撃と畏怖の真実/脇を締め内を狙いえぐりこむように書くべし

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この一連のアメリカに関しては、『グリーン・ゾーン』や『フェア・ゲーム』がそうであったように敗者の申し開きや繰り言をどれだけ誠実に自己検証してみせるかという負け戦が前提とならざるをえないこともあって、不発の響きが通奏低音となってきたわけだけれども、その意味で今作は数少ない真実の勝者の物語ではあるとはいえ、冒頭のシークエンスが湛える静かで正当な怒りのトーンによって、これもまた、開戦を防げなかったという事実において私達は負けたのだという悔恨と懺悔の物語であることを告げていたように思う。政治家やメディアの嘘や欺瞞に顔を上げて立ち向かってきたジョナサン・ランディ(ウディ・ハレルソン)やウォーレン・ストローベル(ジェームズ・マースデン)といったナイト・リッダーの記者たちではあるけれど、そのストローベルが劇中でたった一度だけ自らの無力に対する行き場のない怒りに心を折ってしまうのは、自分やリサ(ジェシカ・ビール)の父親といった市井の人々に自分たちが身を粉にして伝えようとしてきた真実が欠片ほども伝わっていないことを突きつけられた時に他ならず、それは「私たちは他人の子供を戦争に送り出す人たちにではなく、自分の子供を戦争に送り出す人たちのために書くのだ」という社主ジョン・ウォルコット(ロブ・ライナー)の言葉を矜持に真実を伝える覚悟を抱いた者にとっては、死刑宣告にも等しい絶望であったのだろう。しかし、後世においてその報道の正しさが評価されたところで時すでに遅し、というそのジレンマこそが記者たちを真実の追及と事実の解明へと駆り立てるわけで、そうしてみた時、前述した2作品のベースとなった事件および、今作でも政権の走狗として名前のとりざたされるニューヨーク・タイムズの記者ジュディス・ミラーこそが、凡庸な悪として闇も罪も深いように思うわけで、彼女の署名記事の掲載を知って怒髪天を衝いたウォルコットがインクワイアラー紙に自ら乗り込んだのは、それが彼にとって最大の侮辱であっただろうことがうかがえてうなずけもするのである。とはいえ、ランディとストローベルは悲嘆や憤りのメランコリーに沈むでもなく、まったくさ、記者になんかならなきゃよかったよ、ウッドワードとバーンスタインなんかのせいでさ。あつらは大統領を引きずり下ろしたけど、こっちの大統領は歴代の最悪をやらかしといて多分再選すらされるんだぜ、民主主義的の実験てやつに乾杯!とかいった感じの自嘲と自虐で自分にムチを入れるあたりはいかにもロブ・ライナーらしいし、そもそもが責任をとらないやつにはいつまでも指をさし続けていやがらせをしてやるぜという気概が撮らせた映画であるからこそ、自分のクロースアップをあれほどぶち込んできたに違いないのである。それにつけても思うのは、シドニー・ルメットの不在であることよ。
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2019年04月02日

岬の兄妹/岬で待つわ

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邦画インディーズならではの半径5メートルの映画にはちがいない。しかし、その這いずる底を踏み抜いて、あとは底なしの底を手に入れることさえすれば落下の距離はどこまでも果てしなく自由だ。そしてこの映画は自由になっている。さすがに良夫(松浦祐也)は二の足を踏むだろう。踏まない。とはいえさすがに今度こそ良夫は二の足を踏むだろう。踏まない。踏まないのでは踏めない。踏んだら底に激突してしまうからだ。真理子(和田光沙)はそんな良夫の脇で笑いながら落下していく。それまで人生が停まってばかりだった真理子はそのスピードに笑いっぱなしだ。と、真理子以外の誰もが最後までそう思ってこの映画を観続けることになる。身体障害者と自閉症と小人症とヤクザと高齢者といじめられっ子が周縁で出会う話であるけれど、そうした字面ほどには特殊な出し入れを必要とするわけでもないのは、それらの人たちが仮託されたメタファーではなく、良夫と同じように二の足を踏まない人として描かれ2人と同じ速度で落下し続けることでずっと等距離を保ち続けるからなのだろう。したがって、肇(北山雅康)や社長(中村祐太郎)といった踏み抜かない人たちは置いてきぼりの異物として描かれることになり、この清濁の逆転はなかなか痛快に思える。したがって、ことさらフリーキーを煽るようなカメラワークに頼ることなく観たいものと観せたいことをきちんと捉えてくれる点においてカメラはとても誠実で、とくにストーリー上避けては通れないセックスにまつわるあれこれをカット割りやフレームの操作でごまかすことをはなからする気がないこともあり、メインストリームの邦画が避けて通ることしかしない人間の営為を不自然にずらすことのストレスは、清々しいまでに感じられない。それどころか、真理子が次々と身体を躱していくシーンを叙述する変形のオーヴァーラップや、曇りガラス越しに一瞬わきあがる真理子の肢体など、むしろクリエイティヴィティはこちらに注力されているようにすら思う。夜でも朝でも昼でもない空を背に良夫が地獄のふたを開けていいかと真理子に尋ねる震えるようなシーンと、他人のカップ焼きそばを目の玉ひんむいてすすり上げるシーンをぐうの音も出ないポエジーで地続きに描く地肩の強さにも恐れ入る。あのカップ焼きそばの切実は『万引き家族』の比ではなかった。そうやって果てしなく続くかと思われた良夫と真理子の地獄めぐりは、ある変遷を経てふりだしに戻ったかのような円環を“真理子以外の誰もが最後までそう思って”うかがわせるのだけれど、ラストで振り返った真理子がたずさえるその目つきが、したり顔の円環を一瞬で血祭りにあげることになる。良夫はもちろんお前たちも、わたしが何も知らない人間、お前たちのように知ることのできない人間だと思っていただろう、良夫が夢の中で果たされぬ幸福を思い描いたように、わたしが夢の中で何を思い描いたかなど考えたこともないだろう、わたしが鎖でつながれるのは仕方のないことだと思っただろう、わたしには堕胎が切り裂くような心がないと思っただろう、わたしにはお前たちとは違う種類の幸せをあてがっておけばいいと思っただろう、わたしをひとりの人間として見たことなどなかっただろう。だからわたしは、わたしを取り巻くすべての世界を断罪する。覚悟しておくように。
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