2018年07月20日

ジュラシック・ワールド 炎の王国/喰われるように眠りたい

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閉まりきらない水中ゲートの隙間を巨体をくねらせて外洋へとすりぬけていくモササウルスを、その数分後には自動ドアの隙間をすり抜けるクレア(ブライス・ダラス・ハワード)にトレースさせるJ・A・バヨナのウィアードな執着は、最期にイアン・マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)が宣言する「ジュラシック・ワールドにようこそ」という『ウェストワールド』的な反乱への密かな疼きがその正体であった気もして、仮にバヨナがストーリーを含めたクリエイティヴを完全掌握していたら、洋館で出会ったブルーとメイジー・ロックウッド(イザベラ・サーモン)がクローンの哀しみと高揚とで感応する「恐竜はささやく」物語へ舵を切ったことだろうと、シェルター代わりのベッドにもぐりこむメイジーをめぐるインドラプトルとブルーの三角関係までも妄想してみたりしたのである。したがって、そこかしこにうかがえるバヨナのスケッチした仄昏いペシミズムの残滓にプリンス・オブ・オプティミズムたるクリス・プラットが今ひとつそぐわないままなのは、彼にとって最強の武器であるオフビートがバヨナにとってはノイズでしかないという予見しうる相性の結果に過ぎず、バヨナにしてみれば早く島を出たくて仕方がなかったというところだろうし、イーライ・ミルズ(レイフ・スポール)に「お前たちがしたことと俺がしたことのいったいどこが違うんだ?」と問い詰められて押し黙るオーウェンとクレアの姿にも、今作の主役が既に彼と彼女ではなくなっていることは明らかだったように思うのである。特にクレアについては、パンプスを脱ぎ捨てたことで(ブーツを履いた足元が執拗に映される)女性版オーウェンとなってしまったのが彼女の魅力を削いでしまってはいるものの、それを棚ぼた的に肩代わりした形のジア・ロドリゲス(ダニエラ・ピネダ)のべらんめえなチャームが今作で最も血の通ったキャラクターを生み出して、思わぬ機転と男気をみせたフランクリン・ウェブ(ジャスティス・スミス)の顔を愛犬をもみしだくようにムニュムニュするシーンなど、終始張り詰めてばかりの今作で息を継げるシーンはほとんど彼女がさらっていったのではなかろうか。それに比べて、出て行けと言われていつの間にか出ていってしまうアイリス(ジェラルディン・チャップリン)は、バヨナの潰えた野心と混乱の象徴にも思えた。前作を観た時の“フランケンシュタインの怪物としてのインドミナス・レックスとその鏡像としてのラプトルという構図のメランコリーも望むべくもなく”とかいった愚痴をやはりバヨナもこぼしたのではなかろうかという妄想はともかくとして、かつてジョン・セイルズとウィリアム・モナハンが「4」のシナリオに設定した人間と恐竜のハイブリッドへと心なしか頭をもたげた気がしないでもないので、いっそそちらに舵を切って「粘膜戦士」をめざしてはくれまいかと茹だった頭で夢を見たのであった。「チェアアアア!」はバヨナ精一杯のやけくそなのか。笑ったけど。
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2018年07月18日

ブリグズビー・ベア/映画は撮らせてくれる

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ブリグズビー・ベアが新しい世界を独り歩きすればするほど、茫洋と広がる世界と渡り合うだけの知識と社会性とをジェームス(カイル・ムーニー)に蓄えさせたコンテンツ「ブリグズビー・ベア」をゼロから築いた仮親テッド(マーク・ハミル)の偏執的な天才とそれを支えた愛情とに気を取られてしまう。世界を再構築して規定し直すためには古い物語を終わらせるための新たな物語が必要であることにジェームスが思い至るのも、世界を投影するスクリーンとしての物語を信じたテッドの「教育」がもたらした成果であって、けれども分水嶺を超えて世界に侵食した物語によって人生を囚われ続ける男マーク・ハミルがテッドを演じることを皮肉と映すことをせず、物語ることへの肯定と祝福を唱え続けることへの決心こそがこの映画の野心であったということになるのだろう。かつてはテッドが一人二役で演じていたブリグズビーとサン・スナッチャーの、ブリグズビーを継承したジェームスがサン・スナッチャーを撃退するラストはそのまま父殺しの物語となるわけで、これこそはマーク・ハミルにとってついぞ果たされることのなかった結末ということになるのではなかろうか。『ワンダー 君は太陽』がそうだったように現実世界でジェームスの存在そのものを脅かす悪意が登場することはなく、ことさらに負のスイングで見かけの奥行きを作ることをしないのは予定調和の破壊でもあるわけで、当たり前の感情を抱いて当たり前の行動をつなぎ、当たり前のように自分の世界を手に入れることを描くのがラディカルに映ってしまうワタシ達の身の回りこそがいかににっちもさっちもいかなくなっているか、エラーと困難を引き換えにしないと希望や幸福は得られないのだという出所不明のしたり顔にいい加減でうんざりしている正気の人たちにこそ寄り添いたいとワタシは思う。テッドのみならず、ホイットニー(ケイト・リン・シール)の救済もまた優しく綺麗に行われるのがとても良い。いささか唐突だった施設収容は『カッコーの巣の上で』な逃亡シーンをやりたいがためだった気がしないでもないけれど、そうやって自分たちの「映画」を撮っていたデイヴ・マッカリーやカイル・ムーニーこそが劇中の彼や彼女たちそのものでもあったのだろうと思えばこそ、この映画が既にノスタルジーのような気分を獲得していることの理由が分かる気がしたのである。それは多分、これが二度とこんな風には撮れない最初で最後の映画だから。
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2018年07月14日

パンク侍、斬られて候/日本の猿なめとったらどついたるぞ!

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「曖昧な欲望しか持てず、曖昧な欲望を持て余す」「おまえの頭を開いてちょっと気軽になって楽しめ」「すべてが終わった後で何が残るか俺は知らない俺はおまえを正確にやる」「俺はのうのうとしてきた奴の子孫を傍観して俺の屈辱をたたき込みたい」「俺はおまえを夢の中にひきずり込みたい」「俺の存在を頭から打ち消してくれ 俺の存在を頭から否定してくれ」「一口飲めばスカッと地獄 全てを忘れてあんた最高」「俺の方から不安と恐怖に何時でもやったんぞ」「偽善の快楽と安らぎが少しだけ欲しいなら俺の家に来い」「むしろ異常なのはおまえ自身むしろ環境とはおまえ自身お前が退屈なのは当然」「ええ加減にせんと気い狂いて死ぬ」とまあこういうことである。INUである。この国屈指のパンクアルバム「メシ喰うな!」の映像化である。闘争どころか遁走のパンク、スキゾ・キッズの冒険、ベイビー!逃げるんだ。逆噴射家族、突如80年代の亡霊が憑依した石井聰亙(やっぱりこっちの方がしっくりくる)が復活の逃げ足で、そんなつもりは毛頭ないパンクアンセムを目眩ましに、考えるために考えるなら考えるだけムダ!と走り去る。この映画の既視感というよりは、三つ子の魂百まで的な胎内回帰の気分は主にその逃げ足の光景によるのだろう。とは言え石井聰亙がまだこんな脚を残していたことには正直言って驚かされたし、何より石井聰亙ですらない石井岳龍に大金(けっこうかかってるよね)をぶちこんだ慧眼というよりはキチガイ沙汰にこそ喝采をおくるべきで、これほど勇猛果敢に金をドブに捨てる姿を目にしたのは果たしていつ以来だったのか、今いちばん足りていないのはこうした街場のバカによる撹乱であることをあらためて痛感したのだった。永瀬正敏vs浅野忠信の因縁はまたしても決着つかずということで、虚空に消える永瀬正敏と虚空に囚われる浅野忠信は、まんま『ELECTRIC DRAGON 80000V』の変奏であったよ。原作未読につき宮藤官九郎の脚色がどれくらいジャンプしたかは不明ながら、役者がみな口も身体もやたらと気持ちよさそうに動かしていたのは間違いがないように思えた。それにしても、今の時代にまだこんなでたらめ(=punk)が可能だったことに少しだけ沁み沁みしている。
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2018年07月13日

菊とギロチン/愛と幻想の内無双

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花菊(木竜麻生)の内無双がいつ炸裂するのかと、終盤のあるシークエンス以降はそればかり固唾を呑んで待っていたものだから、こうやって今に至るも我々は負け続けているのだ、と夢を見るなら夢から鍛えよとでもいう全方位へ立てられた中指の気概は受け入れるにせよ、だとするとそもそもがギロチン社と女相撲が共闘するにはそれぞれの蹉跌が質を違えていたように思ってしまうのだ。それはおそらく十勝川(韓英恵)の出自にまつわる暴力世界と中濱鐵(東出昌大)の満州ユートピアのクロスがバランスを崩していたからで、本来であれば女相撲が十勝川を守るシェルターとなったはずが、彼女をアナーキストの感傷に巻き込んでしまうことにより女相撲がいささか都合のいい背景となってしまった気がしてしまう。あくまで主軸は女相撲とした上で、巡業先で出会った中濱と古田(寛一郎)と交流する日々に、2人の屈託や不穏が徐々に滲み出て素性が晒されていくその感応によって、彼女たちもまた自身の闘いにフォーカスしていく物語をワタシは少し予見しすぎたのかもしれない。おそらく監督は、きれいに鉋をかけてしまうよりは、ささくれが手に刺さる痛みを残そうとしたのだろうし、出奔して気ままに死ぬ自由すら与えられない女性の時代にあっては、夫に内無双を仕掛けた花菊のその先の未来を夢想するよりも、古田という捨て石の残酷にかじりついて生きることを理解すべきだということなのだろう。概して女相撲の面々はみな完全に役柄へと没入していて揺らぎがないのだけれど、なかでも玉椿を演じた嘉門洋子の、肉体に精神が隙間なく張りついた佇まいの凄みに目を見張った。東出昌大は人たらしの色気が決定的に欠けてしまっているのがなかなか辛い。いつの時代も益体のない夢を見ては泣きじゃくる男たちと、見たくもない夢のおこぼれで涙をふく女たちが果たして「同じ夢をみて闘った」のかどうか、「同じ夢をみて闘うことを夢みた」映画だと思ったワタシは、またそこから始めるのかと何だか遠くを見た気分になってしまった。
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2018年07月08日

バトル・オブ・ザ・セクシーズ/やっちまいな

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これは『1973年のビリー・ジーン・キング』というタイトルがふさわしい、自身の野心に対する尊敬の念を曇りのない視点でみつめつつ、しかし自身のヴィヴィッドなゆらぎを慈しむように生きるひとりの魅力的なファイターが駆け抜けた時間の個人史であって、原題タイトルが連想させる闘争史による参照はどちらかと言うとこの映画の本意ではないように思う。テニスドレスが買えずに母の作ったテニスショーツを着た12歳のビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)が、それではみんなと一緒に写真は撮れないよと言われてムカついたその日から彼女はあくまで自分を不当に扱う世界を相手に闘って来たわけで、WTAの設立にしてもそもそもはその流れの中で起こしたアクションにとどまっていたのではなかろうか。そうした何者にも従属しないはずのビリー・ジーンがマリリン(アンドレア・ライズブロー)と出会うことでもたらされた覚醒によって、自分で自分を抑圧し続けてきたこととそれを強いてきた社会への怒りと恐怖を認識し、世界の悪意を粉砕する意志と力のある者はそれを行使する義務があるとでもいう大きな意志に衝き動かされたことで、自分のためだけではない闘いへと舵を切っていったのだろう。したがって、マーガレット・コート(ジェシカ・マクナミー)の惨敗を見届けたビリー・ジーンが意を決してひとり立ち去るシーンこそがこの映画のピークといってもよく、ほとんど手続きにすぎないボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)とのゲームよりはそれを取り巻く悪意の群れがことのほか執拗に描かれて、ビリー・ジーンが一敗地に塗れた時に群がるであろうジャック・クレイマー(ビル・プルマン)らハゲタカたちの醜悪な色付けにはまったくもって容赦がない。なかでも、中継のゲストに招かれたロージー・カザルス(ナタリー・モラレス)の肩にことさら庇護者よろしくねっとりと腕を回すハワード・コゼルの姿はフェミニストをはき違えた絶滅すべき恐竜に対する悪意以外のなにものでもないし、ボビーに負けるということはそれらすべてにひれ伏すことになるのだという死の宣告を突きつけられた闘いであることを承知していたからこそ、勝利の後のロッカールームでビリー・ジーンが流す涙は、喜びというよりは戦場を生き延びた安堵の嗚咽にしか映らなかったのである。神輿にかつがれた道化としてのボビーを強調するのは、敵はその後ろにいてしたり顔で腕を組む者たちであって、それを見誤ってはならないという念押しだったように思う。ビリー・ジーンが本当に愛しているのはテニスだけで、そこを邪魔でもしたらボクもキミもすぐに棄てられるさ、と“浮気相手”のマリリンに怒りをぶつけるでもなく諭すように語るラリー・キング(オースティン・ストウェル)はビリー・ジーンの野心に対する全面的な崇拝者であって、そうした愛の形を選んだ彼にうっすらとした哀しみを見て取ってしまうのは、それがワタシという人間の限界ということにもなるのだろう。涙をふいて歩き出したビリー・ジーンを抱きしめてテッド・ティンリング(アラン・カミング)が囁く言葉が、ほんの一瞬にしろこの世界を美しく均して遠くどこまでも見渡せたような気持ちになる。いつかありのままの自分でいられる日がくるだろう、そして誰でも自由に人を愛せるようになるだろう。少しうろ覚えではあるけれど、ビリー・ジーンはその日を願って独りコートで闘ったにちがいない。
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2018年07月07日

ウィンチェスターハウス アメリカで最も呪われた屋敷/空室有り応相談

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サラ・ウィンチェスター(ヘレン・ミレン)とプライス医師(ジェイソン・クラーク)が面談するシーン、窓から差し込む日光だけが照らす部屋のはずがどのカットでも2人を燦々と照らす光源不明のヒプノティックな光に落ち着きを奪われる。巻き込まれるようにして異界に踏み込むプライスは定型のゴースト・ストーリーであれば異界へのカウンターとして機能するところが、ここでの彼は異界への同化があらかじめ運命づけられているわけで、定型であれば闇堕ちのような敗北として描かれてしまうそれは、プライス自身の喪失と再生をめぐる物語となっている。そんな風にしてプライスを往って帰すことにより、それを促したサラの振る舞いは狂気の沙汰から贖罪へと姿を変えていくことになるのだけれど、劇中で命を落とした2人(執事と大工頭)が共に彼女の贖罪を信じていなかっただろうことを思い出してみれば、彼女と屋敷が手にしたさらなる変質と力を窺わせるラストによって、やはりこれは感染する狂気の物語であったことに気づかされるのである。『デイブレイカー』にしろ『プリデスティネーション』にしろ、スピエリッグ兄弟がつけ回すのは自らを磔にする人の憂鬱と官能であるのは間違いがないだろう。描かれる感情自体はメロウであろうとそれがいつも躁病的に上気して息を切らしているようなのもこの兄弟独特のトーンであって、脇に回ったとは言えセーラ・スヌークこそがこの兄弟のミューズということになるのだろう。『ツイン・ピークスTHE RETURN』での、破壊的に底の抜けたクズっぷりで脚光を浴びたエイモン・ファーレンは、クローネンバーグ顔の怪優としてこのまま健やかに歩んでいって欲しいと思う。そもそもなぜウィンチェスター銃の製造を止めてしまわないのかと問われれば、そうしたらいつの日か犠牲者がいなくなって屋敷の工事を止めなければならなくなるでしょう?と真顔で返してきそうな壮大なるブラックジョークと弄るのもまた格別の趣き。
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2018年07月04日

オンリー・ザ・ブレイブ/燃える森の生活

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燃えるものがなくなれば火は消える、という真理というか事実というか取り決めというか、業火に対峙する男たちの内部にもそれは同じように適用されて、消したい者、消えない者、消してしまいたくない者たちはいずれにしろ火に支配されかつ魅了されている趣すらあり、妻アマンダ(ジェニファー・コネリー)が“消防士中毒!”と吐き捨てるエリック・マーシュ(ジョシュ・ブローリン)の場合、燃やすものがなくなる日々への畏れが火に向けた愛憎入りまじる忠誠を誓わせてもいるようにも思えるし、エリックはその美しさと怖ろしさを闇の中を火だるまで疾走する熊の記憶にうつして自身にとどめている。そうやって内部を喰われた者ゆえに可能なスペシャリティという点で『ハートロッカー』が頭をよぎったりもしたのだけれど、エリックが戻らずの河を渡ってしまわないよう頬を張り続けるアマンダの眼差しがこの作品の正気を象徴するだけに、ついにエリックが地に足をつけた瞬間に起こる無慈悲に向かっていささか紋切り型に崩れ落ちるアマンダの慟哭にも鼻白む隙などなかったように思うのだ。エリックが自身の過去を投影して手元に引き寄せたブレンダン・マクダノー(マイルズ・テラー)が、夫妻に対照するかのように、ある意味では子供の存在によって生かされたといえるのも酷薄な運命の仕業と言えるのだろう。劇中でどれだけ業火に巻かれようと不思議と熱さを感じることがないのは、ここに登場する人たちのふるまいひとつひとつがアメリカの根幹をなす自然思想とプラグマティズムの沈着な実践のようでもあったからで、人里離れた山の中で祈りのように軽口を叩き一心不乱の労働に明け暮れるグラニット・マウンテン・ホットショットの面々はどこかしら修道士のようにも思えたし、ピーター・バーグ的なアメリカン・イシューとはほど遠い地の塩的な原風景を見渡すような映画であったことに、どうにも虚を衝かれた。
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2018年07月02日

ハン・ソロ:スター・ウォーズ・ストーリー/粗にして野でも卑でもない

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※展開に触れています

ドライデン(ポール・ベタニー)の船に還ってきて以降、ハン(オールデン・エアエンライク)とチューイ(ヨーナス・スオタモ)、キーラ(エミリア・クラーク)が取る行動の、どうしてチューイはハンを裏切ったトバイアス(ウディ・ハレルソン)にさしたる理由もなくヒョコヒョコと付いて行ってしまうのか、ドライデンを倒したなら2人で手に手を取って逃げ出せばいいものをなぜハンはキーラと別行動をとることをあっさり受け入れてしまうのか、本来であれば苦渋の選択が決断を鈍らせて危機を招き、予期せぬ悲劇へとなだれこむクライマックスによってハン・ソロ・ライジングの仕上げとなるはずが、各自が段取りの消化としかいいようのない駒の動きをするにとどまって一滴の血も涙も通うことがないせいで、その後に起きる2つの裏切りにまったく血潮が逆流することもなく、キーラが乗った船を呆然と見上げるハンの、何だか一雨きそうだなあくらいに気の抜けた顔にはワタシの知るハン・ソロが身を沈めるシニックの鎧の一片も見てとれなかったように思うのである。そもそもが、ハンとキーラ、ドライデンの三角関係を正面切って物語の要素にする覚悟のない腰の引き具合からして鼻白むばかりだったし、その程度の切った張ったですらディズニー・コードに抵触したせいなのかどうなのか、おそらくロン・ハワードは想像を超えて自分ががんじがらめであることを知った時点で、師匠譲りの低予算早撮りモードへとあっさり自身を切り替えたのではなかろうか。愛をアドレナリンとチャージした若く無謀なカップルが、自分たちを捉えた運命を笑顔で引っかき回しならがバニシング・ポイントへと向かう『バニシング in Turbo』の狂躁をワタシはオープニングのシークエンスで見て取った気もして、欲しがったのがこれだったのならば監督交代もやむを得ないし、むしろキャスリーン・ケネディの慧眼だったのではなかろうかとすら思ったのだ。しかし唯一エゴが感じられたのはそのコレリアで繰り広げるスピーダー・チェイス・シーンまでで、それよりはカジノを2度、ドライデンの部屋を2度、と使い回すあたりの目端をこそ、クリエイティヴィティ?なにそれ美味しいの?とばかり製作陣は求めたとしか思えなかったのである。冒頭でふれたシークエンスで、同じカットを繰り返しては最初はチューイ、次はハン・ソロと自動ドアの向こうへ消えていく死んだ魚のような目をした編集の月曜ドラマランドっぷりにはロン・ハワードのあさってに向けた捨て身すら感じた始末で、かつてそうであった映像の実験場としてのスター・ウォーズの終焉を見た気もしたのだった。巷間囁かれてきたハン・ソロの出自やチューイとの出会い、ミレニアム・ファルコン入手の経緯、果てはケッッセルランに至るまですべてをハン・ソロ正史と取り込んではいるものの、それらすべてのエピソードがこの作品には役不足であったのは言うまでもなく、あなたのハン・ソロをハン・ソロとしてとどめておきたければ今作をスルーしたところで何の問題もないように思う。他の誰よりもウディ・ハレルソンこそがハン・ソロのスピリットを哀しい目と小さな微笑みでドライヴしていたよ。
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2018年06月29日

ワンダー 君は太陽/おまえもがんばれよ

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ダメージを背負った主人公が学校という新たな世界で理解者を得ることにより、自分の居場所を見つけて歩き出す物語としては、監督の前作『ウォールフラワー』とほぼ同じ見かけで語られていくのだけれど、実は主人公のオギー(ジェイコブ・トレンブレイ)はあらかじめ成熟した知性とユーモアを持ち合わせていて、人間を見かけで判断する愚かさへのカウンターとしてほとんど記号化された存在といってしまってもいいくらいオギーはオギーのまま頑としてあるのである。したがって、ここで描かれるのは彼よりは彼によって変化を促される人たちの成長譚であり、それは「オギーの見た目は変わらない。ならばわたしたちが変わればいいんだ」という校長先生の極めてプラグマティックな情動の実践ということになる。原作は未読なのでどのような脚色がなされたのかわからないのだけれど、オギーとの関わりで更新されていく人たちを「○○の場合」といった風に章立てした構成にもそれは明らかで、その点でオギーはほとんど狂言回しと言ってもよく、彼に対する同情や憐れみはそのままそれを向ける者へと反射されていくこととなる。母イザベル(ジュリア・ロバーツ)や姉ヴィア(イザベラ・ヴィドウィッチ)がオギーの家族となったことで舵を切り直したその人生も、オギーのいない場所で語られる衒いのない口調によってその笑顔に重ねられたレイヤーの模様をワタシたちは知ることになるし、オギーとヴィアそれぞれの親友であるジャック(ノア・ジュープ)とミランダ(ダニエル・ローズ・ラッセル)についてもそれは同様に、独り言のあけすけな口調でオギーという舵を語ることによって自身の道筋を確かめ直すわけで、この映画がことさらにウェットな感情を溜めてはそれを涙に絞り出すことをしないのは、そうしたある種の緊張が成熟した人間関係の証として張りめぐらされているからなのだろう。そうしてみた時、ではチャプターを与えてもらえなかったジュリアン(ブライス・ガイザー)がどんな風に自身を立て直したことで修了式の笑顔を見せていたのかを思うと、オギーへの暴力装置として描かれる彼が偏狭な両親の呪縛をどうやって断ち切ったのかを描かないのは、構成上ジャックとの重複が邪魔になるのは承知するものの、慈愛と理性に満ちた大人たちばかりのこの物語にあってジュリアンだけがバックアップされない不幸を思えば、それは少しばかりフェアではないだろうと思ったのである。オギーの父ネート(オーウェン・ウィルソン)と母イザベル、トゥシュマン校長(マンディ・パティンキン)、ブラウン先生(ダヴィード・ディグス)、ジャックの母(ニコル・オリヴァー)といったオギーを取り巻く大人たちはみな、自分がこうありたいと思う大人であると同時に、子供の頃に出会う大人たちはみなこうあって欲しかったといういずれの理想も満たす完璧な造型がなされていてほとんど夢見心地ではあるのだけれど、それはすなわち世界の正気を思い出す作業に相違ないわけで、ふだんのワタシたちがどれだけの狂気や邪気をあきらめ顔で受け入れてしまっているのか、その知覚の麻痺に一度愕然とするべきなのだろう。オギーを憐れんでいるつもりのワタシたちこそが、オギーにそっと憐れまれている。
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2018年06月26日

梅雨の晴れ間のケイジ祭り/「ダークサイド」「マッド・ダディ」

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ダークサイド

いつも通り益体のないケイジ映画を益体のない気分で観にきたつもりだったものだから、オープニングのクレジットにティム・ハンターの名前をみた瞬間、ん?え?本人?同姓同名?と思わずフガフガしてしまって、それならそれでそう言っておいてくれないと、だったらそういうつもりで観ちゃうけど知らないよと、とっさにギアを叩き込んでしまったのであった。というわけで以下、現場では本人確認の確証を得ないまま(結局本人)、ティム“リバース・エッジ”ハンターの監督作品として観た繰り言になるのだけれど、まず言ってしまうと、どうしてこの題材が主戦場をTVに移して久しい基本クソマジメな齢70の老監督に持ち込まれたのか若干理解に苦しむわけで、おそらくは脚本家のインスパイア元であろうゲイ・タリーズ「覗く モーテル 観察日誌」という大ネタを大ネタとしてまったく生かし切れていないのが何よりも致命的だったように思うのである。実際のところフーダニットについてはプロットも結末もまったく妙味がないわけで、ワタシとしてはというよりも益体のないすべての観客にとって、屋根裏の散歩者よろしく冥府魔道のピーピングトムと化していくケイジを三時のお茶よろしく嗜みながら、うっすら笑って小さくため息をつくことさえできれば誰もが幸せであったのは言うまでもない。だからこそ、あのシーンでケイジは夢精していなければならなかったわけで、一体何を言っているのか意味がわからないかもしれないけれど、それはご覧になった方であれば瞭然のはずで、何よりこの映画に必要だったのは妻の目から隠れてこそこそと自分のパンツを洗うケイジのポエジーとペーソスだったに違いないのである。フェラーラ版『バッド・ルーテナント』がいまだハーヴェイ・カイテルのアレに紐づけされるように、何よりその点でケイジ史に燦然と名を残すチャンスを逃したのが悔やまれてならない。



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マッド・ダディ

“MOM AND DAD”という原題からうかがえるとおり『ザ・チャイルド』の反転ではあるのだけれど、親が殺意を抱くのは我が子に限られるという点でいろいろな象徴性やらメタファーやらを投影しやすくなっているとってつけた思索感がいい塩梅にペラッペラだし、ケイジ安定のキレ芸も出し惜しみなく開陳される上に、ネタ切れになったらとっとと逃げ出すスマートな分のわきまえ方は85分という上映時間にも明らかで、ケイジ映画としての表面張力に特化した潔さというかヤケクソは称賛されるべきだろう。さすがに子殺しのシーンは基本的に直截的なカットを回り込んでしまっていることもあって、そちらからの新たな切り崩しを期待するといささか拍子抜けするかもしれないけれど、、ニコラス・ケイジvsランス・ヘンリクセンという血闘がそれを補ってあまりあるのは言うまでもない。ミッドライフ・クライシスに内部を喰われたケイジが地下室のビリヤード台をめぐって心情をデストロイに吐き出すシーンの焼身するような演技に、オスカー俳優の演技派レイヤーが透けて見えたりもして、他の追随を一方的に拒絶する漂泊のキャリアに思いを馳せたりもしたのだった。
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2018年06月23日

レディ・バード/今はこれでいい

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『フランシス・ハ』の前日譚とも言える私小説的な主人公にシアーシャ・ローナンをあてる監督の豪快な役得はあっぱれというしかなく、いっそ邦題は『グレタ・ガーウィグのレディバード』くらい振り抜いてしまってもよかったように思うのである。自分の居場所はここではないどこかにしかないとデラシネを気取りボヘミアンを夢見ては世界の中心でレディ・バードと叫ぶクリスティン(シアーシャ・ローナン)のしぐさや振る舞いは、自伝というにはいささか定型に過ぎる気がしてケリー・フレモン・クレイグのそれ(『スウィート17モンスター』)があちこちで記憶に蘇ったりもしたのだけれど、逆に言えばシアーシャ・ローナンの割には思いの外微笑ましく浅はかで間抜けであるという見立てこそが青春の不発をより煽った気がしないでもなく、『フランシス・ハ』にもみられた清潔な悲愴感という身の置きどころのなさこそがグレタ・ガーウィグの空気なのだとすれば、毅然とした面持ちで自爆するシアーシャ・ローナンの歯を食いしばる口元あたりを監督はあてにしたということになるのだろう。カイル(ティモテ・シャラメ)の書き割り然とした造型で明らかなように逐一フォーマットの反転がなされた場合、娘がなすべきは父殺しではなく母殺しということになるのだなあと、妖精の微笑みで母と娘の間をとりもつ父親の後方支援にワタシも過分に苛まれることなく心安らいで見物できた気がするのである。ただ、自分の物語ということで誇張や省略をわきまえ過ぎたのか、グレタ・ガーウィグの歩き方としてこちらが思い描いた道筋からさほどコースアウトすることもなく、身を乗り出すよりは達者だなあと腕を組んでしまうことの方が多かった気がしたのは正直なところで、青春の殴り込みとしては前述した『スウィート17モンスター』の通過儀礼がいまだフレッシュなままにも思えた。この映画の焦燥と衝動よりはどこかしらそぞろ歩きをするようスピードは、6フィート近い身長のグレタ・ガーウィグならではの視点と身のこなしが反映されたテンポによっているのだろうなとも思うわけで、それはおそらく、あごを上げるナタリー・ポートマンが決定してしまう事と同様なのだろうと考える。『ジャッキー』がどこかで真ん中の奥の方にタッチしてしまったのは、この視線が交錯した一閃にもよっていたのは言うまでもない。
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2018年06月20日

30年後の同窓会/生きのびたやつらはだいたい友だち

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自由の国アメリカを守ろうと身を投じた軍隊の、ならば自由への殉教者になれとばかり戒律のごとき軍規をふりかざす不条理やら矛盾やらを笑い飛ばしつつ、いつしか運命の涙がにじんでくる『さらば冬のかもめ』で描かれたアメリカの敗残兵を、しかし彼らこそがこの国の光と影を知る者ではあるまいかと、反戦ではあるけれど厭戦で睨め付けることをしない眼差しで、家に帰る彼らにそっと肩でも貸すかのようにリンクレイターは道行きを均していく。戦場で生命を奪った者は永遠に変質してしまい、かつて居た自分の場所に戻ろうとしてもそれは許されないことがどの兵士にも後出しで伝えられるものだから、生き残ったものは生き残れなかった者の分まで途方に暮れることを求められて身も心もすり減らしてしまうのだろうし、その感覚を共有できるのはやはり居場所を弾かれた者でしかないという「疎外感」こそは『スラッカー』からずっとリンクレイターが陰に陽に変奏してきた感覚に他ならず、それはおそらくアメリカという国の曖昧で茫漠とした広がりに脅える強迫観念的な帰属意識の副作用ということになるのだろう。『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』もこれもそうした内部の自家中毒こそがアメリカの原風景であることを告げるに他ならず、笑おうが唇をかみしめようが絶対値としては同じ数値を叩き出しているにちがいない。前作(とあえていう)では疎外された自分を知っていくことでメドウズはその逆へ走っていこうとしたのだけれど、今作ではワシントン(J・クィントン・ジョンソン)がこの3人と出会うことで自分に巣食う疎外感を飼いならす術を獲得していくサイドストーリーを成立させてもいる。ドクの息子ラリー・Jrと同じ部隊だったワシントンまでもがなぜイラクから帰国しているのかと言えば、それはラリー・Jrの最期を看取ることになった場所で大勢の民間人をも撃ち殺してしまった彼の精神的なメンテナンスの意味合いがあったのだろう。この旅においてワシントンは物言わぬラリー・Jrのある意味よりしろであったと言ってもよく、ラリーの家に泊まったワシントンが家の中に飾られたラリー・Jrの写真を見つめる時に彼もそのことに気づいていたように思うし、それによってはからずも、バグダッドで昏倒したワシントンの魂を寛解する旅となったようにも思うのである。ドク(スティーヴ・カレル)が懲役をくらう羽目になった30年前のベトナムでの出来事は最後まで詳細が語られることはないまま、その事件で命を落としたらしいハイタワーという兵士の母親をドクとサル(ブライアン・クランストン)、ミューラー(ローレンス・フィッシュバーン)の3人が訪ねるシーンがあるのだけれど、その出来事の詳細をあえて曖昧なままにしていることもあってか、名誉の戦死という欺瞞をドクの息子ラリー・Jrの死につきつけた勢いを借りてドクの重荷を解くと共に自分たちの贖罪をもなしてしまおうという風に映ってしまう点で、いささかこのエピソードの据わりが悪いように思ってしまうし、ラリー・Jrの時には死の真相を明かすことに抵抗したミューラーがここではサルの思いつきにあっさり乗ってしまうことや、そもそも母親を訪ねドアを叩くに際し彼らの間にドクを含め何の躊躇も悶着もなかったのはリンクレイターらしからぬ急ぎ足にも思えた。メドウズが盗んだ40ドルは軍隊の募金箱から盗んだ金だったけれど、この旅の費用は(おそらくは携帯の代金もふくめ)ドクのために軍の同僚が集めた募金で賄われていて、メドウズのささやかなリターンマッチにもなっている。
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2018年06月17日

万引き家族/そして凛となる

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「寒いなあ、雪でも降るんじゃねえか」と治(リリー・フランキー)が祥太(城桧吏)に言ったその言葉が本当になる頃、ではいったい何が嘘のままだったのかというその時間の移ろいを、世間という名前の下世話な予断を迎え撃つがごとくねめつけるように即物的な視線でこの映画は映し続けていく。そこに描かれるのは脱構築家族という監督が幾度となく綴ってきたテーマの極北ともいえる家族のシミュラクラであって、シェルターとして装ったはずのそれが十全に機能しつづけることで自我に目覚め、その結果として血は水よりも濃いという常套に刃向かわざるを得なくなっていく痛ましい純粋を、まるでデッカードを揺さぶるロイ・バティのような哀切で搾り取っていく。治が「それしか教えてやれることがなかった」と語る万引きという行為は、この家族を貫くすべての共犯関係を互いが確認し続ける目配せのような行為でもあり、それが祥太には家族の絆のように映って見えたからこそ、駄菓子屋の主人(柄本明)に妹にはそれをさせるなと優しく諭されたことで混乱し、それが車上荒らしという窃盗へと姿を変えた時に烈しく拒絶をしたのだろう。かつて車上荒らしの車内にみつけた幼い祥太も、りん(佐々木みゆ)と同じようにネグレクトの犠牲者だったのだろうし、そんな彼らを救ったセーフティーネットが救われた彼らの成長によって破壊される皮肉にこそ、あらかじめ機能不全すらを機能と備えた家族とシミュラクラとの悲劇的な差異がうかがえたように思うのである。りんの歯が抜けた朝に初枝(樹木希林)が息を引き取るのもその残酷な代償だったのかもしれない。しかし、社会から隠れた人間たちが社会から隠された子どもたちを陽の当たるところに連れ出したことは確かなわけで、祥太とりんのそれぞれが自分の目と足を頼りに行き先を選んだラストによってあの家に生きた者たちすべての救済としたことは間違いがないだろうし、治と信代(安藤サクラ)はその確信を抱くことによってようやく自らの罪を罪として向き合うことができるように思うのである。そんな中、ひとりだけ孤絶のレイヤーが異質な亜紀(松岡茉優)を投入することで不穏のバランスを崩す「お話」としての配分を厭わない抜け方も鮮やかで、社会を転げ走り回りながらもネオリアリズムの社会派映画として収束される気のない攻め方は図太いことこの上ない。念入りだった信代の化粧がことの後にはすっぴんになっているあたりとか、歯のない初枝が吸い付くようにミカンにかぶりつく姿とか、りんの口に煮込んだ麸が押し込まれる時の角度であるとか、そんなところから人間の質量は立ち上るように思うし、何より先に肉体をフェティッシュな解釈でとらえる視線が官能ともいえる生命の気配をあらわにするからこそ、言わずとも感情に血が透け始めるように思うのだ。初枝が産んだ女の子が信代に育つことは想像しがたいけれど、砂浜で信代に「ねえさんよく見るときれいだね」と言った初枝は、海辺の風に吹かれながらいっときそんな想像をしてみたようであったし、その夢想が初枝を底なしの寂寥へ永遠にとらえてしまったのかもしれないとも思ったのである。その瞬間の兆しとして「わあ、すごいシミ」という言葉を初枝に与えた監督には少し震えがきた。
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2018年06月14日

ビューティフル・デイ/死がふたりを穿つまで

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フロリダにあるモーテルの管理人ボビーは崖から落ちてしまわないよう子供たちをつかまえるキャッチャーだったけれど、ジョー(ホアキン・フェニックス)は不幸にも崖から落ちてしまった子供たちを奪回するファインダーとしてそこにいる。ジョーもまた、かつて崖から落ちた子供の一人だったのだけれど、そこで彼を捉えた絶望と恐怖が、崖を登る道筋を探りハンマーをピッケル代わりに崖を登りきる能力を、その極限で彼に与えたということになるのだろう。しかしそれは崖の下に幾度となく堕ちていくことで自分の過去と向き合い落とし前をつける作業であると同時に、その代償として崖の下の狂気に自らの正気を差し出す続ける行為でもあり、ともすれば深淵に身を投げ出すことでその苦行から逃れる誘惑に折れてしまいそうな日々を、母親への愛情と薬を頼りに息も絶え絶えとなりつつ何とかやり過ごしているに過ぎない。ニーナ・ヴォット(エカテリーナ・サムソノフ)は崖の下に捉えられつつも最終的な善くないものに喰われてしまわない力を自分の中に育てていて、”You Were Never Really Here(ほんとうのあなたはここにはいない)” という原題こそがその呪文だったように思うのである。そしてそれはかつてのジョー少年がクローゼットの中で無意識に唱えた続けた言葉だったのかもしれず、ジョーに奪回されたニーナが呪文の奥から出てきたのは彼の中にその共鳴を見たからだったのだろう。そうやって束の間、無痛の殻から足を踏み出していたからこそ、モーテルから連れ去られるニーナが叫ぶ「ジョー!」という声には心の底からの絶望と哀しみが込められていたのだろうし、母親を喪ったことでいったんは深遠に沈むことを選んだジョーを押しとどめたのがニーナの幻影であったのは、ジョーの中の深いところに彼女の叫び声が刻み込まれていたことの何よりの証だろう。この映画は、そんな風にして2つの魂が出会い結びついていくラブストーリーを極北のプラトニックで謳う一方、ニーナによって喉を裂かれ事切れた知事の死体を見たジョーは、あの時に父親を屠ることができなかった自分を責めては「おれは弱い、おれは弱い」と慟哭する寄る辺なき戦場の理性でバランスをとってみせさえするのである。それら清らかさと凄惨を繋ぐピアノ線の緊張を担うのがジョニー・グリーンウッドのサウンドデザインで、ほとんどセリフらしいセリフを喋らないにも関わらずジョーの内面に渦巻く激情と虚無を音響として奔出させることによって説明ではなく直観で観客を直撃するよう仕向けては強迫的に脳髄を一閃しようとする。ジョーが雑踏に踏み出した瞬間、人と車の織りなす喧噪がインダストリアルノイズの圧力と切っ先でスコールのように降りそそぎ、ジョーの耳には世界の音がこんな風に聴こえているのだろうかと、『クリーン、シェーヴン』の滴るようなノイズサウンドを想い出したりもした。今にして思えば『シクロ』で決定的に鳴っていたのはトム・ヨークの歌声というよりもジョニー・グリーンウッドの不意打ちで殴りかかるギターのアタックだったわけで、彼の創り出す音が映画に愛されるのは既に必然だったということなのだろう。自分が土手っ腹に風穴をあけた相手の隣に横たわり星条旗のウェットワークをメランコリーで共有しつつ「愛はかげろうのように」をレクイエム代わりにその死を看取るジョーは、既に崖の下の司祭のごときであった。
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2018年06月12日

友罪/夢罪

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藤沢(夏帆)の部屋で猫を見つめ、白石(富田靖子)と待ち合わせたデパート屋上に遊ぶ子供たちを眺める鈴木(瑛太)に向けるワタシたちの訝しむような視線を瀬々監督は否定しない、というかむしろそう誘い込むように撮っている。それは殺人という罪よりもそれをどう行ったかという行為に対する私刑のような視線であるのは間違いがなく、山内(佐藤浩市)の息子が犯した過失による交通事故死が贖罪の道筋で語られることの対照となっている。山内の息子は車を運転さえしなければ再び同じ罪を犯すことはないのだけれど、鈴木の場合、鈴木という内部そのものが罪であるという存在の怪物化がワタシたちの視線を無意識の石つぶてへと変えていくわけで、鈴木の内部に彼の飼うものの気配を知るためには白石のように自分の内部すらを犠牲にしたある種の同一化によってようやく深淵を覗き込むことが可能となるという、そうした視点を社会が共有することの不可能は、その達成と引き換えに白石が失った家族の絆がつきつける不幸によって裏書きされることとなる。ここに登場する全ての悼むべき人たちが告げるのは一度壊れたものが元に戻ることはないという絶望のようなあきらめであり、たとえ戻ったようにみえたところで内実の決定的な変質を目の当たりにするものにしてみれば、では戻ったことにして生きていこうとする社会をあげての欺瞞がさらに彼や彼女を壊し続けていくことになるわけで、前述した一度壊れたものが元に戻ることはないという一文へさらに付け加えるとするならば、一度壊したものが元に戻ることはないという加害者の絶望もそこにあるわけで、この映画が喪失と再生という気楽で都合の良い呪文を忌避し続けるのはその峻険こそを描こうとしていたからであるように思うのだ。他人の命を奪った者が、しかしそれを踏まえた上で今の自分は生きてみたいと思うんだという言葉は身勝手な矛盾にとどまるのか、そうした意志が水平に並ぶ場所はこの世界にあり得ないのか、この映画は鈴木と益田(生田斗真)をその世界の陰と陽とすることで今ここにはないそこを夢想してみせたのではなかろうか。そしてそれは、そんな世界があったらきみはどう生きるつもりだ?という日本のどこかにいる少年Aというたった一人の観客だけに向けた監督の問いかけだったように思うのである。それだけに軽重のバランスとしてメディアの描写など外部の装置が記号的に均されたのは諸刃の剣といったところか。しかし、いつも所在なさげな瑛太に鈴木の無痛が憑依したかのようなこの棒立ちはキャリアハイだし、夏帆は早足で被虐をかいぐぐる人として『予兆』の先へ歩み出した。感情の省略ではない慟哭を生田斗真は打ち鳴らされる鐘と響かせたように思う。ゲロがあんな風に心を溶かすのは初めて観たかもしれない。
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2018年06月10日

海を駆ける/シーバウンド・エクスカーション

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突然現れた正体不明の闖入者が日常に投じた波紋がやがて巨大な渦を巻き起こして日常の意味そのものを変えていくといった定型にのっとってはいるものの、たとえば『南東からきた男』のように闖入者の正体がこの世ならざる者であるかどうかという境界をうかがうサスペンスを担保しつつ、そこからいかに遠ざかってみせることが可能かというアクロバットそれ自体を試みる映画であった。ラウ(ディーン・フジオカ)という男(そもそも男と特定していいのかということもある)の行動を人間の論理で語らずに語ること、しかしその尺度を人間の論理とした時点で常に人間の論理が強烈に意識されてしまうという矛盾を、ならばそれをそのまま描いてしまえばいいのではなかろうかという野心が、ホラーでもSFでもない明るさと昏さ、希望と禍々しさの同居する、しかし死の在りかだけはしたたかに提示し続ける奇譚として最期には小さなあぶくを悪戯めいて破裂させてみせさえもする。劇中でラウは直接的もしくは間接的な描写として6人の命を奪い、2人の病気を治癒する。もちろんそこに人間的な善と悪の認識はあるはずもなく、もしもラウの姿が透明であったならそれらの死は事故や病気、大往生といった運命の所作として呑み込まれたにすぎないわけで、人智を越えた存在に触れた時、果たして人は絶望するのか解放されるのか、それがなぜか青春のバカヤロー!とクロスして語られる不可思議なヴィヴィッドは、しかしそれも裏を返せばメメント・モリの影であったかもしれないわけで、『淵に立つ』のラストを染めた“人間などはなから考慮されない道理のひと触れ”そのものを監督は描こうとしたのだろうかと、海へと消えていくラウのブラックホールのような笑顔を見せられてようやく思いが至ったのである。相変わらず芹澤明子氏のカメラは怜悧で透明で禍々しく、フィクスになるたび四隅や空白を目で追っては凶兆を探す黒沢清のモードへと強制的に切りかわってしまうのだった。左にサチコ(阿部純子)の佇む崖上のトーチカ、右にはタカシ(太賀)の泳ぐ海を配置したショットの拮抗した調和ゆえ、何かが何かを思いあぐねているかのようなショットに首筋はちりちりと胸はざわざわと慄えたのを自覚した。
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2018年06月07日

デッドプール2/ライアン!ライアン!

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全身タイツでどれだけカッコつけたところで所詮生き恥を晒すだけであることを身をもって知るライアン・レイノルズは、絶え間なく全方位的に自虐と加虐のジョークを雨あられとぶちまけてはすべての現実を液状化させつつ、かつてスティーヴン・キングがそうしたように膨大な固有名詞で武装することでポップカルチャー=リアルのテクスチャーをそこかしこにスクラップして映画を子供部屋の居心地へと変えていく。さらに今作では監督がデヴィッド・リーチに交代したことでドタバタの過剰なキレが上積みされて、誰もが心おきなくサーカスの観客のように呆けた顔で手をたたき足をバタバタさせながら退行するのが許されることになり、その澱みと衒いのなさは最早エレガントとすら言えるほどであると同時に、今のこの世の中で何ものにもつかまらず逃げ切るにはここまで針を振り切らないとエンジンはブーストされないのだというオーヴァーキルに、いったいお前は何と闘っているのだという正体不明な事態の深刻ささえ嗅ぎ取ってしまう始末なのであった。とはいえ上下左右を完全に取っぱらった情動の絶対値だけを見てみれば『アべンジャーズ』や『ウィンター・ソルジャー』と数値そのものは変わらないのではなかろうかと考えてみた時、ライアン・レイノルズが己の全存在を賭けた逆張りには強迫観念とすら言える執念を見てしまうわけで、それは劇中でどさくさ紛れに遂行される過去の亡霊たちの抹殺によってさえ浄化が追いつかないほどのどす黒いメランコリーが突き動かす、トラウマに向き合うプライマル・スクリーム療法にも思えたのである。ニコラス・ケイジしかり、ロバート・ダウニー・Jrしかり、実人生の屈託、すなわち自分の糞をキャリアに向かって投げつけ晒すことを厭わない役者の愛され方には無尽蔵なところがあって、ここにライアン・レイノルズもその倶楽部に晴れて入会したといっていいのではなかろうか。そこではオスカーよりはラジー賞が勲章だったとしても、永遠にゴズリングのいない世界であることは間違いがない。
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2018年06月05日

犬ヶ島/きみが吠えればキャラバンは進む

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あけすけに言ってしまえば、『グランド・ブダペスト・ホテル』を観た時に書いた“前作『ムーンライズ・キングダム』でも顕著だったシンメトリーのフィクスによる緊張と横スクロールによる緩和、感情を記号化したキャラクターのミニマル、夢の記憶を彩色したような色彩”“これは前作(『ムーンライズ・キングダム』)でも感じたことだけれど、この映画のすべてが『ファンタスティック Mr.FOX』ばりのストップモーションアニメに置き換え可能である”という感想メモから特に更新されたこともない、結果として見事に置き換えられたストップモーションアニメだったのである。「悲しき熱帯」的な揶揄をねじ伏せる強迫観念的なディテイルの躁病的な奔流に、特に日本人であればその度外れた幻視に驚愕しないわけにはいかないし、人間の最良の友たる犬たちを中心に据えることでたやすくあけっぴろげに距離を詰めてくるのも確かではあるものの、何しろ今の日本で生きる者には小林市長が見せる改心に裏打ちされた公平さへの性善と楽観こそがこの映画最大の絵空事に思えてしまう点で、何だかうなだれざるを得なかったのである。結果的にはこれがイノセンスによる革命であったことが告げられるエピローグで寓話は完結するのだけれど、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』から『ファンタスティック Mr.FOX』まで続いた「父帰る」のテーマを完了して以降、大人の教科書、あるいはユニヴァーサルな知育絵本として、美しく明かりの灯る人生のルールを忘れがたい挿絵のようなフィクスで焼き付けるポスト構造主義的な方法論の洗練にウェス・アンダーソンは殉じ続けるのか、もはや『ホテル・シュヴァリエ』の沖に流された孤独は役立たずの自家中毒でしかないのか、正直に言ってしまうとワタシはそれがちょっとだけ寂しい。
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2018年06月04日

ゲティ家の身代金/世界を視てから死ね

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老境のうつしみと終焉の予感がもたらす、物質主義の手ざわりへの尋常ならざる執着という『エクソダス』以降見え隠れする御大の死生観は、ジャン・ポール・ゲティ役がクリストファー・プラマーに交代されたことでよりあからさまになったのではなかろうか。その結果、すべては映像化されうると信じて疑わぬサブテキスト殺しの御大が、それゆえ体温が立ちのぼらぬ者たちが低温火傷でのたうちまわる、その映像の殺傷能力だけで撮りきったとすら言える極北のサスペンスとなっている。それはすなわち冷血であればあるほど怜悧に光輝くという御大の法則が存分に発揮されたということであって、となればやはりお蔵入りしたケヴィン・スペイシーのヴァージョンに涎が出るのを止めることはできないにしろ、前述した死生観の発露に限って言えばクリストファー・プラマーの破壊される老人こそが御大の心持ちにジャストフィットしたということになるのだろう。したがって、体温など一度も測ったことのないゲスとして颯爽と登場するフレッチャー(マーク・ウォルバーグ)が、なぜか感情を規範に行動し始めるに連れどんどんと阿呆のようになっていくのは当たり前で、変温動物であればこそ唯一ゲティと正面から渡り合ったゲイル(ミシェル・ウィリアムズ)の奮闘が、サスペンスとしては明らかにバランスを失したこの映画をあくまで異形の屹立として送り届けたのは言うまでもない。それにしても『プロメテウス』で組んで以降スピルバーグにとってのカミンスキーと言ってもいいくらい御大の右目と左目と化したダリウス・ウォルスキーの、ハイパーリアリズムのような質感で現実と非現実を溶かしてしまうカメラは叙事殺伐な御大の肌によほど合うのだろう。今作ではまるで『列車の到着』のようにあらわれた蒸気機関車の煙がフレームの内部を埋め尽くすかのように充満していくショットの突発にやおら押し込まれたし、男たちに抑えつけられる3世よりも医者が自分の脱いだコートとジャケットを首尾良く壁のフックに掛けるまでの動きに視点を誘導する牽制球のようなカメラが、これから起きるルーティーンのひんやりとした凄惨を予感させて3世と共にこちらをも抑えつける。そんな風な演出家とカメラマンの仕業とあって相変わらず食べ物が暴力的に美味そうでないのは言うまでもなく、あの死骸のような分厚いステーキは3世の心を折るに十分であった。
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2018年05月30日

ファントム・スレッド/いいと言うまで動かずに

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約束の場所にレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)が乗りつけたブリストル405のドアを自分で開けて乗り込んでしまいそうになった一瞬、アルマ・エルソン(ヴィッキー・クリープス)はハッと手を引いてレイノルズが開けてくれるのを待つことになる。この瞬間、オートクチュールという美の儀式を亡き母に捧げ続ける妄執のモンスターたるレイノルズの手中に、海辺の小さな町で暮らすおぼこいアルマが新たな生け贄として堕ちたと思わされたワタシ達とレイノルズは、アルマの目を逸らすことをしない笑顔にひそむ愛とは常に共同正犯であるという確信と野心の刃など知る由もなかったのである。レイノルズがアルマを最初に連れ出した夜のレストランでおかまいなしに食い気をほとばしらせるアルマをレイノルズは優しく黙殺する。初めて自室にアルマを呼び入れた次の日の朝、朝食の席でアルマのノイズをレイノルズは叱責する。レイノルズが倒れる日の朝食で、アルマはノイズを出すことなく静寂をコントロールしてみせている。ハネムーンの旅先での朝食、何らはばかることなくノイズを出すアルマをレイノルズは苛立ちを押し隠しながら黙殺する。こうして都合4回あるレイノルズとアルマの食事のシーンを追ってみると、ただ一度ノイズを出さなかったのは彼女の仕立てた策略の内であったことを思いだしてみれば、最初から「むしろ面倒を歓迎するわ」と言い放ちノイズを出し続けるアルマは「わたしはいつだってここにいる」と自らを揺るぎなく変えないことによって状況を逆転していったわけで、してみると自分を誘うだろうことを見透かしてあらかじめメモをしたためていたアルマに声をかけた時点でレイノルズは彼女の軍門に下ってたということになるし、食いしん坊さん!とレイノルズを子供扱いしたようなメモの走り書きはやがて2人が獲得する異形の関係が既にここから始まっていたことを告げてもいる。確かにアルマがレイノルズにしたことは道義的あるいは倫理的に道を外れるかもしれないけれど、アルマはレイノルズと一つ屋根に暮らすうちに彼が奥底にくゆらせるオブセッションの源泉を見抜いていたのかもしれず、ハウス・オブ・ウッドコックにおいては異物であるはずのアルマがシリル(レスリー・マンヴィル)にとって排斥の対象とならずにいることや母親の幽霊ですらがアルマとの代替わりを促すかのように消えていく様子からするに、アルマがレイノルズを救うだろうことを女性達は深層で知っていたようにも思うわけで、レイノルズが新たに呪いを更新する必要があったとするならばアルマこそがその守護天使であったということになり、キノコを料理するアルマの姿を押し黙って凝視するレイノルズが、のたうち回りながら女性たちに仕えていくことが自身の宿命であることを確信として悟りつつ「倒れる前にキスしてくれ」という酷く美しい言葉でそれを受け入れる覚悟を示すクライマックスの愛の形は前人未踏であるだけに怖ろしくはあるものの、そこに踏み出していく2人の昂揚を確かに光が照らしたようにも思えたのだ。たとえそれが地獄の業火の照り返しだったとしても、問わず語りにその愛の彼岸を夢想するアルマはむしろそれを望んでいるようですらあるのは言うまでもない。では果たしてレイノルズのクリエイティヴィティは彼方への片道切符として差し出されたままなのか、この一連がやがてくる享楽のスインギング・ロンドンに向けてレイノルズが忌まわしきシックを超えていくための通過儀礼であるならば、清冽で硬質な屈託をヒールの音に重ねて歩くシリルの揺るがぬ眼差しがそれを受け入れたようにも思えたわけで、それは完璧主義者の人体実験としてもひどくロマンチックであることに変わりはない。ヘンリエッタがハウスを離れたのは、彼女に仕立てたドレスをショーでアルマが完璧に着こなしたことを知ったからではなかったのか。ヘンリエッタとてバーバラと同じ穴の狢なのだろう。レイノルズの駆るブリストル405のリアからルーフ越しの疾走ショットはまるで御者台から馬を捉えたかのような荒ぶるむき出しであった。アスパラガスの夜が明けてキノコの朝を迎える瞬間のまるで水の中で爆発音を聴いたように圧縮された不穏のサウンドデザインに、ため息のような鳥肌が立つ。完璧な平凡が完璧な非凡を喰いつくす倒錯はポール・トーマス・アンダーソンの自罰と自虐の白日夢でもあるのだろうか。より騒がしく水を注ごうとアルマが高く掲げた水差しが電灯の傘を揺らした瞬間、新たな世界の法則が回復されるのを見た。
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