2019年12月05日

ドクター・スリープ/エンジンルーム、ボイラールーム

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キングが指摘していたように、キューブリックはホラー映画とブラックコメディの世界が接する境界線を認識して、ある一線を越えると恐怖と共に笑いが生まれることを理解しそれを実践していたわけで、『シャイニング』の計ったような「ホラー」のアプローチとアタックはほとんど幽霊屋敷もののパロディといってもいいくらい余白までも完全にデザインした表層でものにされていて、ジャックの間抜けな凍死体はそこまで引きずりまわした観客への見事なあっかんべえだったのだろうとワタシは思っている。してみると、まずは『シャイニング』を「ホラー」のジャンルに取り戻さねばならぬというキングの復讐を達成するために、ジャンルに愛と忠誠を誓ったプロパーを据えるという点において、かつキューブリックのヴィジョンを理解し再構築する視点と胆力を持ち合わせるにおいて、ホラーのヴィジョンで状況ではなく情動を語ることのできるマイク・フラナガンは正鵠を射た起用だったというしかないし、このメジャー作品においてもこれまで同様に脚本と編集を手掛けることを認めた点でも、どれだけキングの後押しがあったかは不明ながら製作陣の慧眼は称賛されるべきだろう。したがって、キューブリックが何より興味を示さなかった善と悪のあわい、すなわちキングがいうところの“エンジン”にフラナガンはガソリンを注ぎ続けたわけで、善の為すことと悪の為すことを常に対比的に描くことによって最終的にはキューブリックの描いたヴィジョンにすら血を通わせて(しまって)いて、ほぼ40年を経てダニー(ユアン・マクレガー)とジャックが対峙するゴールド・ルームのトレースといい、その一歩も退かぬ確信と勇気はほとんど感動的ですらあったのだ。と同時に、ダニーとアブラ(カイリー・カラン)の立ち向かうべき相手は「悪」であって「狂気」でないことを念押しするためには野球少年の断末魔も厭わない躊躇のなさは、キングの刻印であると同時にフラナガンの譲れぬ矜持にも思えたのである。そんな風にして、『オキュラス』を観た時に思った、この監督にとって恐怖の対義語は愛なのだろうというその定義がここでは見紛うことなく爆発していて、キングにキューブリックを赦すことを促してみせさえしていたし、何よりそれは『シャイング』の嫡子ともいえるポスト/ポストモダンホラーの虚空に放り出す流体が支配する現在において、恐怖で往き愛で還ってくる物語もまた守るべきホラーの牙城であることを明確に示してみせたのではなかろうか。ある意味、彼女に今作の成否がかかっていたと言ってもいいレベッカ・ファーガソンが、右目に野卑、左目にノーブルを宿した女王蜂をしなやかで揺るぎのない重心でいわゆる良識の人のかけらもなく演じていて、ユアン・マクレガーと共に欧州の幽かにささくれたソリッドがジャック・ニコルソンの狂情を跪くように鎮めてみせていた。
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2019年11月30日

アイリッシュマン/キラー・インサイド・ゴッド

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「この件におまえを引きこまないとお前に阻止される」とラッセル・ブファリーノ(ジョー・ペシ)がフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)に言葉を絞り出した瞬間、自由と平等の国アメリカがその表情を一変させ寄る辺のない取り立てがフランクに始まることとなり、少女のペギー・シーラン(アンナ・パキン)が父に見てジミー・ホッファ(アル・パチーノ)に見なかったもの、それはおそらく暴力に人生のみならず夢と友情までも借りたその負債だったということになるのだろう。その負債と資産が流動するバランスシートをアメリカの後ろ姿と描いてきたマーティン・スコセッシが、ここではペギーの視線を借りることでその背中に拭いようのない唾を吐いていて、ついにペギーから赦されないままたった一人でこの世から消えていくフランクのバランスゼロに向かう彷徨を描きながら、それでもその最期の時まで救いの訪れを待つようにドアを開けたまま眠るフランクへ向けるスコセッシの視線は、『ミーン・ストリート』から始まってロバート・デ・ニーロと共に過ごした半世紀近い旅の終わりを慈しんでいるようにも思えたのだ。そしてもうひとつ、ペギーがジミー以外の男たちを忌避するのは彼らがその奥底では女性を人生の勘定に入れない生き物であることへの押し殺した憤怒であった気もして、例えば冒頭のやりとりがかわされるモーテルの食堂で、フランクのボウルにコーンフレークを入れたラッセルがテーブルに置いたその箱の、はみだした内袋をそっと押し入れるフランクの細やかな仕草は長年連れ添った夫婦のそれとしか映らないわけで、ラッセルがフランクに贈ったリングが実質的な結婚指輪であることは言うまでもなく、彼らのいうファミリーにおいて女性たちは血と暴力のアリバイとしてその贖いの祭壇として存在するに過ぎないことをこんな風な内部告発の視線で描いてみせたこともスコセッシの清算であった気がするのである。したがって、ある限界がラッセルによって告げられて以降、あのモーテルでの朝食を起点にほとんど投げやりといっていいくらい醒めたショットと弛緩した時間(例えばできそこないのタランティーノのような車内)の果てに描かれる、ケネディ暗殺と対をなすようなアメリカ殺しは結局のところ自分たちすべての自死でもあったのだという諦念と懺悔の監獄に彼らを放り込んだわけで、赦されないことを知っている者たちがそれでも赦しを請わねばならぬ煉獄で幕を閉じるためにこそ、時間の感覚を無効化していく210分という倦んだ時間を必要としたのだろうし、これがパラマウント作品として市場を考慮した180分に収められでもしていたら懺悔の値打ちはストーリーのメランコリーとして機能するにとどまり、冒頭に掲げられた「お前は家のペンキを塗るそうだな」という言葉が、あるアイルランド人の気の利いた墓碑銘として刻まれるに過ぎない作品となっていたようにも思うのである。ディエイジングという特殊効果によって若返った貌に首から下の動きが応じていないシークエンスがないこともないのだけれど、このあらかたがフランクの回想によって語られる物語であることを想い出してみれば、むしろそのぎこちなさこそがフランクの愚直に行っては帰る人生の揺れや震えだったようにも思うのだ。してみれば『沈黙』を撮り今作を撮ったスコセッシが、それを撮る人間の人生が投影されない映画を果たして映画と呼べるのか、とまるで映画学科の学生のような苛立ちをマーヴェルにぶつけたのも、ドアをあけたまま終わる映画をついに撮りきった/撮りきってしまった昂奮と寂寥のなせる業だと思えばこそ、ワタシたちはそれにうなずくしかないのではなかろうか。ジョー・ペシがまるで即身仏のようだった。
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2019年11月27日

ゾンビランド ダブルタップ/生きてるだけじゃダメかしら

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リトル・ミス・サンシャインmeetsアドベンチャーランドへようこそ的な前作の残り香はほとんど見当たらず、というかマイケル・ルーカーをウディ・ハレルソンにあてがったような『ウォーキング・デッド』って実はどこかでオレのアレに背中押されてるよな?ってルーベン・フライシャーがニヤついたかどうかはともかく、どうせ刺身のつまにするならここまでやれよってな風に、ゾンビをほとんど飛んでくるハエの扱いへと解体するため映画の基準線をブリングリングなマディソン(ゾーイ・ドゥイッチ)に設定した喰えなさ加減に、やはりこの監督に『L.A. ギャング ストーリー』みたいな“喰える”映画は向いてないことを自ら証明したように思ったわけで、今どきのイデアやらメタファーやらに捉まることなく最後まで見事にかわした逃げ足は称賛されてしかるべきだろう。なかでも特筆すべきは、メインの4人の中で前作からの10年の間に一番遠くまで行って還ってきたエマ・ストーンの一瞬たりともとどまることをしない顔芸で、隙あらば余白にそれを撃ち込んでくる反射神経は最近では松岡茉優に同じ香りを嗅ぐ気もするわけで、ジェシー・アイゼンバーグのノーブレスなまくし立てがやや頭打ちであったことを思えばこそ、鼻につくモード寸前にまで一気に切り換えるそのスイッチに恐れ入ったのだった。もはやロメロの新作が望めないこの世の中でゾンビが生き長らえていくための方策としては『ウォーキング・デッド』よりもむしろこちらに未来と誠実を感じたりもするのは見事な仁義を切ったオープニングがあればこそで、ゾンビを屠る快感を抜きにした真顔でジャンルへの愛情表現は語れないことを今一度作り手は肝に銘じておくべきだろう。ゾーイ・ドゥイッチは母親のイメージもあって『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』のベヴァリー的にカジュアルなエマ・ワトソンが道筋かと思っていただけに、ここでのイージーゴーイングなピンキーは思いがけない役得ではなかったか。2019年にしていまだ尽きないNINJAへの憧憬もまたモンドセレクション金賞受賞のめまいする趣き。
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2019年11月21日

ひとよ/まだはくよ

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稲村こはる(田中裕子)が恐れたのは父(井上肇)が子供たちにふるう暴力はともかく、いずれ3人のうちの誰かが父親を殺してしまうことになるのではないか、というそのことであったようにも思え、この生き地獄を終わらせるためにはあいつを殺すしかないという母と子の奥底で頭をもたげつつある殺意を認識したこはるの、ならば私がその役目を引き受けてしまえばいいのだという昏いひらめきと決意が、あの夜の彼女に「母さんは(殺人を成し遂げた)いまの自分が誇らしい」と言わせた気もして(事後の処理を指示する言葉からして、あの夜の行動は衝動的ではなく計画的だったことがうかがえる)、大樹(鈴木亮平)、雄二(佐藤健)、園子(松岡茉優)の3人が抜け出せないままもがき続ける日々の屈託は、人殺しの子供となったことよりも、母親にそれをさせたことへの痛切な悔悟が色濃かったように思うのである。したがって、時折誰かが口にする贖罪という言葉は、こはるではなく子供たちの胸にしまわれた言葉のはずであって、「おかあちゃんは間違ってない」というこはるの奇妙な明るさと悪びれなさが、自分たちが世界に負った負債の正体がその贖罪であることを子供たちに告げていくこととなるわけで、それをいったいどう認めればいいのか途方にくれる子供たちが、母を救い父親を殴り飛ばすはずの夜がはからずも再現されそれを疑似体験することで、向き合うべきものの正体を知る結末の荒ぶりと昂ぶりは、暴力を、回避できない感情の切実なデザインと描いてきた白石監督の真骨頂と言ってもいいシーンだったように思う。それが内向にしろ外向にしろ、白石作品ではいつも役者が気持ちよさそうに演じているなあという印象は今作でもそのままに、とはいえそれは自然体のナチュラルというよりはアップデートされた昭和感とでもいうある種のバタ臭さに満ちたケレンであって、戦後に直結した時代の生と死のぎらついたメランコリーを現代の新しい言語として翻訳する監督の幻視は邦画において群を抜いているのは間違いがないだろう。ただ、これは今作に限ったことではなく邦画の問題としてあることだと思うのだけれど、たとえば『楽園』や今作での外部的な悪の描かれ方が、十年一日のごとく地方共同体の排他的かつ匿名的な悪意に終始せざるをえないのは、良くも悪くも日本と言う国の偏執的な均質性のなせる業なのか、悪意の反射が映画にもたらす光の角度が扁平で凡庸に思えてしまうのがそのまま邦画の限界につながってしまう気がしてしまい、人種や宗教、性的指向など個人的な属性の分断から距離を置いてきた国の宿命と呑み込むしかないのだとすれば、それはもちろん映画の外側でこの不幸を打破するところから始めなければならないことを再認識させられることとなるわけで、映画に感じ入れば感じ入るほどその負債に気づかされる複雑な面持ちの傑作であったというべきか。ところで、前述した『楽園』といい映画の中の落書きって同じ人が書いてるんだろうかと思うくらいに、説明的に崩し方が整っているところでいつも気持ちがスッと引いてしまうのもワタシにとって邦画の密かに厄介な問題点で、ダイイングメッセージでもあるまいし悪意のぶちまけなのだから字なんかハッキリと読めなくたってかまいやしないと思うのだけれども、その度に素面に戻ってしまうのがほんとうに厄介この上ない。
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2019年11月17日

グレタ GRETA/待つわ

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※展開に触れています

クイーン・オブ・オブセッション、もしくは暗黒妖精としてのイザベル・ユペールという、その怪優のエッセンスだけを抽出し続ける試みの、あまりにもあまりで誰もが頭から振り払ってきたそれをただひたすら衒いなく行ってみたらどうなるだろうと考えて、実際に行ってしまった二―ル・ジョーダンの英断と言うか蛮勇を讃えるべきで、監督やキャストの映画史的な格からハイブロウな神経戦を装いつつも、むしろサスペンスの徹底した底の抜け具合にこそこの映画の本領があることは、例えばマイケル・マイヤーズがすべての警官やヒロインの理性的な行動を無効化してしまうことを想い出してみれば、それが瞭然なのは言うまでもないだろう。相対する誰よりも小さな身長と曖昧な頭身の醸すイザベル・ユペールの不穏が、これまた年を重ねるにつれそのいかり肩に攻撃的な角度を増すクロエ・グレース・モレッツとクロスするスリルと、しかしこの映画を最終的に縦断していくのはファンキーでタイトなマイカ・モンローであったという女性たちの『ピアニスト』vs『キャリー』vs『イット・フォローズ』な三すくみに加え、探偵(スティーヴン・レイ)やフランシスの父(コルム・フィオール)といった男性陣の役立たずにおいて、二―ル・ジョーダンらしい小さくも固く引き締まった握りこぶしの物語であったように思うのである。と同時にらしからぬトリッキーで多層なショットはニール・ジョーダンが秘めたヒッチコック〜デ・パルマへの偏愛であったのか、前述した底の抜け方がこれらへの前奏であったと思えばこそワタシは重箱の隅をつつく一切をしないでのある。ではモンスターとしてのグレタを打ち倒すラストガールの役割を誰がどのように担うのか、その三すくみの力関係においてクロエ・グレース・モレッツの善性よりはマイカ・モンローのエッジーを買ったニール・ジョーダンのアップデートされた嗅覚はさすがであったというしかないにしろ、と同時にクロエ・グレース・モレッツ受難の時代をうっすらと予感させたりもして少々切なくはあったのだ。イザベル・ユペールを観るたびに大貫妙子が俳優だったらなあと益体のない夢を見たりしていたのだけれど、やはり今回もそんな夢を茫漠と見てしまったりもした。ノーブルで毅然と悪魔的なハチドリの視えない羽ばたきをする人の笑み。
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2019年11月14日

永遠の門 ゴッホの見た未来/晴れた日に永遠が描ける

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ジュリアン・シュナーベルはゴッホの人生の最期を、世界と刺し違える芸術家の彩りとしての自殺から救い出す。『バスキア』がそうであったように同じアーティストならではの批評性の一切を放棄したバイオピックは、世界が“視えてしまう”がゆえ埒外に弾かれる人に向けた彼の愛情とそれゆえの哀しみを衒いなく綴ったラブレターといってもいい。精神病院で聖職者(マッツ・ミケルセン)とゴッホが交わす、神の意志と表現者の仕事に関する会話こそはシュナーベルがゴッホに見出した芸術家の神髄で、目に見えるものではなく目に見えないものにこそ心を向けなさいという神の言葉を私は実践しているだけなのだ、というゴッホの言葉は奥底で聖職者を凌ぎさえして、神はもしかしたら少し時間を間違ったのかもしれず、私はいまだこの世に生まれていない人たちのための画家としてつかわされたのかもしれないとすら言葉を紡ぐのだ。もちろんこれは、後世で定まったゴッホの評価と業績から導かれた言葉であるにしろ、シュナーベルはゴッホの狂気が作品を産み落としたのではないことを、表現者としての無垢の魂こそがそれを成し遂げたことを愚直といってもいい寄り添いで描いていくこととなり、そればかりかゴッホ視点によるショットで時折あらわれる接写と素通しの混在した不思議な映像によって、ゴッホの視たであろう世界を追体験せよと働きかけさえしてくるのだ。ただ、そうやってゴッホの心象へと溶けていくには、ウィレム・デフォーのしわくちゃの赤ん坊のような喜怒哀楽のチャームにともすれば目と心が奪われてしまいがちではあったものの、画家ゴッホについてまわる「狂気の」という枕詞の払拭という点でシュナーベルの野心が達成されたのは確かに違いなく、それはおそらく芸術という精神の在り方に対する、世界の根底にある違和の健全性を問う試みであったようにも思うのである。自然の音とゴッホの音とがあわい光の中に溶けていく白昼夢のような瞬間はミュジック・コンクレートのようでもあり、実を言えばそれだけでも良かったと思わなくもない。
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2019年11月11日

IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。〜長くていいのは親の寿命

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ベヴァリーを捉えた恐怖の源泉となっている自らの女性性に対する怒りや困惑をいささか体よく使っていたり(原作でもフクナガ版の脚本でも薬局のくだりや日光浴のシーンにセクシャルなあてこすりはない)、彼女をルーザーズのミューズではなくお姫様と騎士という定型におとしこんだジュヴナイルへと刈り込んだ前作に今一つ乗り切れなかったこともあり、年だけを重ね大人になった彼女や彼らが真の通過儀礼を果たすための代償をペニーワイズに支払うその痛みと哀しみは、この大人篇においてようやく純粋な身の丈として沁み渡ったように思うのだけれど、死とセックスのオブセッションがイノセンスを殺していくアメリカの蒼ざめた神話をデリーという町の衰亡に重ねていくマクロコスモスを、こんな風にかいつまんでイベントムーヴィー化することの必然と切実が最後までワタシには見つからないままだったように思ってしまう。ホラー映画としてはなるべくペニーワイズを登場させねばならぬとはいうものの、ならば『ファンハウス/惨劇の館』で事足りてしまうよねという野暮を透かすように臆面もなく『レディプレイヤー1』ばりにホラーの断片を切り貼りするどころか、ミセス・カーシュのシークエンスではシャワーキャップの裸踊りなどほとんど『インシディアス』の瓦解する恐怖すらをまんま引用する豪快さ(ミセス・カーシュのあからさまなエリーズ寄せ!)が愉しくはあったものの、それぞれが儀式のアイテムを探すエピソードではさすがにネタ切れが否めないままこれが人数分だけ繰り返されることになるのかと、あろうことか『エンジェル ウォーズ』の宝探しイベントすらを思い出す始末で、ホラー映画にとって「弛れ」を越えた「飽き」はほとんど致命傷といってもよく、中華料理店あたりでの何かは知らぬが更新されそうな気分はここで霧散したといってもいいだろう。縦糸と横糸をありえぬ配色で偏執的に織り込むうち、ある瞬間ふっと予期せぬ文様がそこに浮かび上がって恐怖と希望が加速するのがキングの長篇を読む醍醐味なわけで、その文様だけを手に入れたところでそれは一匹の亀であり一匹の蜘蛛でしかなく、いずれ負け戦であるとするならばいっそキューブリックのように戦いのルールを変えてしまうくらいのヴィジョンで塗りつぶして欲しかったと思ってしまうのが正直なところだし、そしてそれは第一稿の時点で「頼むからワーナーはこれをこのまま映画にしてくれ」とキングに絶賛されたフクナガ版のシナリオと彼のヴィジョンであったのは言うまでもない。逃した魚は大きすぎた。
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2019年11月08日

マチネの終わりに/愛とは決して反省しないこと

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空間をケチらないロケーションや的確にデザインされた陰影をとらえるカメラ、ハイプなキャスティングもなくアンサンブルのラインも真摯に維持される中、蒔野聡史を演じる福山雅治だけがどこかしらリハーサルの風情のままもう一段(二段かもしれない)腰を落とす気配がないものだから、こちらはいったいどこまで真顔で追ったらいいのか最後まで遠巻きにしたままだったのである。深淵で怪物に喰われかける表現者の喪失と再生を刹那の愛に託すという筋立ては非常にわかりやすいものの、そのプロットの実践が演出者と演者とで決定的に乖離したままどうして映画が完成してしまったのか、その道程が理解しがたいというよりは純粋に興味すらおぼえたわけで、ある種の躁病的な饒舌という設定なのかと思った蒔野の軽さはそれが本質のまま覆されることもないものだから、蒔野が小峰洋子(石田ゆり子)を見初めるのは彼の勝手にしても、自分の人生をリスクに晒してまで洋子がそれに応える理由が何なのか、洋子の母(風吹ジュン)が言う「男の人に惹かれるのに理由なんかありゃせん」というセリフのままに洋子ですらがわからないそれをワタシが知る由などあるはずがなかったのである。それを取り繕うかのようにリチャード新藤(伊勢谷友介)は次第に精神の深みを欠いたいけ好かない人物として描かれ始め、そして何より、本来は蒔野と洋子とで拮抗した三角関係を成立させなければならない三谷早苗(桜井ユキ)にしたところが、予告篇で印象的だった「わたしの人生の目的は蒔野なんです!」という彼女のセリフの絶望的な自己矛盾によってプレイヤーとして土俵にあがるべきところを単なる泥棒猫のような悪人として描いてしまう始末で、重力を無視した蒔野の磁場が映画空間を狂わせていくその様はなかなかに圧巻である。原作は未読ながら三谷の造型に関してはさすがに脚色のエラーだろうとは思うものの、これを蒔野と洋子の凡庸で下世話な悲恋に収束させるつもりであったならかなり意図的な書き換えということになるし、その目論見は鮮やかに達成されたといっていいだろう。そもそも恋愛とかいう人間の実存的な行為に対する問いも答えも明快に存在するわけはないにしろ、だからこそそこに至るまでの手続きは合理的かつ実際的に行われる必要があるに違いなく、さすがにハネケやファルハーディの綿密や緻密までを求めることはしないけれど、それを余白の抽象のまま投げ出してみたり(『楽園』)、あるいは今作のように破綻を来すほど矮小化してみたり、その責を観客に負わせることが映画の問いかけだというポストモダンの信念がいまだ邦画には顕著な気がして、断定のダイナミズムによる混乱と騒乱を待っているうちに何だか疲れて眠くなってしまうのだ。というわけで、あの暗証番号が目に入った瞬間、ブランキー者はいったい誰だ?と目が冴えた瞬間がピーク。
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2019年11月06日

ジェミニマン/おまえもウィル・スミスにしてやろうか

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※通常フォーマットで鑑賞したので、映像面での評価はまるで反映されていません。

初期アン・リーの父殺しならぬ父助けの三部作を嗅ぎつけてのオファーであったのか、父の救済という視点による父子関係というアメリカ映画ではなかなかスイングしにくい題材ではあるのだけれど、序盤のヘンリー(ウィル・スミス)とダニー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)の会話におけるダニーと父親の関係や、息子のやらかしで学校に呼び出される担当官パターソン(ラルフ・ブラウン)の父親としての顔を物語の本筋とは別にそっとインサートすることで、この映画の骨子が父子の変奏にあることをアン・リーはサブリミナルのように埋め込んでいく。のだけれど、いつしかそんなサブテキストなどおかまいなしにヴァリス(クライヴ・オーウェン)とヘンリーによるジュニアをトロフィーとする父親レースが国家を巻き込んだ陰謀を巻き起こしていくわけで、ほとんどジュニアの意向などおかまいなしに父親面をしては説教をかます2人の鬱陶しさを味付けするにあたり、それをアン・リーに託した製作陣はその点においてそれなりに慧眼であったのか、俺はまだまだお前になんか負けないぞ、なんなら今ここで競走してみるか?ほら!とかいうラストの小芝居を見るにつけ判断は保留せざるをえないものの、あくまでウィル・スミスなりにではあるにしろしばしば遠い目などしては枯れた風な味わいなど漂わせていたし、傷を負ったジュニアを自ら手当てするヴァリスの撫でるように柔らかな手つきに歪んだ愛情を塗布するあたり、この映画が『ラ・シオタ駅への列車の到着』と化してしまわないための艤装はあちこち見てはとれたように思うのである。通常であればロマンス要員であったであろうダニーも、すでにヘンリーの愛情がジュニアに注がれているとあってはジュニア奪回のためのパートナーとして敬意を払われた上で銃弾を食らったりもするわけで、放っておくと独り者ヘンリーのメランコリーがウェットにまみれがちになるところを彼女のドライな馬力が程良く湿気を吸い取っていた点もアン・リーの的確な采配といっていいのだろうし、それに文字通り体を張って応えたメアリー・エリザベス・ウィンステッドこそがこの映画のMVPに相応しいのは言うまでもなく、ハードな追跡劇を繰り広げる最中、それが不可欠であるにも関わらずこの手の映画で飲食が描かれることがまずない中で(イーサン・ハントが何かをパクつくシーンを見たことがあるだろうか)、湿気たクラッカーを親の敵のように貪るダニーの姿に、何からは分らないながら救われた気分になったのだった。『ヴァレリアン』に続いて余白のある悪役となったクライヴ・オーウェンだけれど、いったんこの枠にはまりだすとメインから遠ざかる気もしてしまうのが、野卑とノーブルとを兼ね備えた大好きな俳優なだけにやや心配。それにしても、愛息へのなりふりかまわぬ親バカっぷりといい善き父親への強迫観念でもあるのではなかろうかというウィル・スミスへの皮肉めいたキャスティングを知ってか知らずか、そして父になるヘンリーを味わい尽くすような笑顔で演じる姿に、ジェイデンの内なる無事を祈らずにはいられなかったのである。
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2019年11月01日

真実/目薬をほんの一滴

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ファルハディの映画のように切羽詰まったタイトルを戴いてはいるものの、あぶりだされた真実が実存を苛んでいくというよりは、信じたことが真実となるように裏切らないことを私は貴く思う、というファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の演技論が人生論を呑み込んでいく時の楽屋落ち的な軽やかさとペーソスでカトリーヌ・ドヌーヴというジャンル映画を仕立てたように思ったのである。そうした構造が示すように、ファビエンヌとリュミール(ジュリエット・ビノシュ)の母娘がマノン・ルノワール(マノン・クラヴェル)という女優との邂逅によって、2人が奥底では共有するある喪失と折り合いをつけて再生を果たすという、場合によっては真実と刺し違える覚悟を求めるような筋立ても常に光の射す中で描かれることもあり、語るべきは劇中劇「母の記憶に」に任せるという二重構造によって、孤絶した精神がだんだんと世界から透き通っていく是枝作品のメランコリーは意図的に封印されることとなるわけで、それを理解しつつも生前のサラとファビエンヌ、リュミールの3人が繰り広げたであろう真実と愛憎の物語をどうしてもワタシは夢想してしまう。したがって、どちらかと言えばファビエンヌとリュミールの母娘をとりまく人たちに是枝作品のカラーが滲んでいて、リュミールの夫ハンクを演じるイーサン・ホークの阿部寛的なうっすらとした自虐は目に愉しく、映画の実質的な小さなエンジンとなるシャルロット(クレマンチヌ・グレニエ)の演技を超えた転がり方もまた馴染みに思えたりもした。撮影を終えた終盤、マノンとファビエンヌ、リュミールによるサラの弔いといってもいい交流はいささか性急な物分かりの良さが気になったのだけれど、それもまたあくまでウェルメイドに収めるための野心ということになるのだろうか。ラストショットでシャルロットが落とした黄色い帽子は、それを拾うマノンの姿を象徴的に予感させることで、シャルロットにおけるサラとしてのマノンという物語の未来を伝えたようにも思える。作品の感触としては『誰も知らない』の後で新たなフェーズに向かう前に、あえて決め打ちのジャンルに正面から向かうことでスタイルを整理した『花よりもなほ』に近いように感じた。ファビエンヌがブリジット・バルドーを斬り捨てるセリフと表情はドヌーヴと監督のなかなか際どい共犯行為に思えたし、そうした関係性が言わせる「それが暴力的だろうが日常的だろうが、映画には詩(ポエジー)が必要でしょう?」というセリフが、いくたびか捉えられたドヌーヴの横顔を超然と浮かび上がらせたようにも見えた。イーサン・ホークの偏執的といってもいい目盛りによる「卑」の調節については言うまでもなく。
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2019年10月29日

楽園/地獄は足りているか

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ここではないどこかを夢想せざるを得ない人々の希望と絶望をつづれ織りに仕立てた群像劇という意図と狙いは紛うことなく理解できるし、役者陣もそれぞれの役柄に真摯な血を通わせていたことは言うまでもないのだけれど、ではなぜ、今連ねたような言葉の上っ面をこの映画はすり抜けていってしまうのか、二つの独立した原作短編をより合わせることでさらに強靭な普遍を呼び出そうとした試みが感情のサイクルを少し急きたて過ぎたことはともかくとして、『菊とギロチン』の時にも感じたのだけれど、シナリオはすでに叫びであって機能と合理で引かれた設計図ではないとでもいうその熱量をどう受け入れるかによって評価は真っ二つになるのではなかろうか。ただ、その熱量にしたところで、あらかじめ決められた不幸と絶望のレールを歩いていく人たちの裸足の足裏を熱するばかりな気もするものだから、それぞれの運命を襲う筋の通った不条理という矛盾それ自体の露悪にとどまった気もしてしまうのだ。要するにそれは「為にする」というやつであったと言えばいいのか、豪士(綾野剛)と善次郎(佐藤浩市)の生き地獄を紡(杉咲花)が串刺しにすることで彼女を「楽園」という主題の担い手にするための手続きにそれが顕著で、原作ではどのような比重の人物なのかわからないけれど、彼女を光の方へ覚醒させる触媒としての広呂(村上虹郎)という青年の扱いに戸惑いと言うよりは鼻白むのを避けられなかったわけで、そこに至る経緯も首をかしげざるを得ないのはともかく、同郷の2人が東京の青果市場で共に働くこととなるのはまあ仕方ないにしろ、いつしか広呂が病に倒れ(おそらく癌なのだろう)その頭髪やまゆ毛が抜けた風貌からすればそれなりの抗がん治療を受けた後なのだろうけれど、それほどの時間が経過するまで紡は広呂の病気のことを知らないまま、まるで交通事故にでも遭ったことを今しがた知ったかのような風情で病室にかけ込んでくるのだ。その後しばらくして、思い出しでもしたかのように紡に広呂から退院のメールが送られ彼の生存率を知ることで喪失と再生の種が紡に播かれるのだけれど、そもそもが広呂と紡では故郷を飛び出した動機と理由の質がまったく異なるにも関わらず、何の前触れもないまま広呂は突然「おまえが楽園を作ってくれよ」などと紡に言い出すわけで、ワタシはもしかしたら広呂は紡のイマジナリーフレンズなのかとすら思ったのだ。ならばと事態を巻き戻してみると結局は事件当日を描いたオープニングにまで至るわけで、ここで描かれる紡と愛華の関係がまずは消化不良のまま、紡の愛華に対する屈託がその場限りの子供の気まぐれなのか、それにしてはそれが紡の構造上の問題であるかのように思わせぶりなショットの落とす影はフーダニットのサスペンスを撹乱する意図であったのか、結局それは紡の人生をむしばみ続ける罪悪感を下塗りしていたに過ぎないにしろ、一事が万事この調子で逆算するものだからこちらの感情がなかなか併走していかないのだ。前述したように役者陣による入魂の演技によって折々の棘は刺さるのだけれど、それが抜かれることもないまま次の棘を刺されるものだから、その痛みがどの棘によるのものなのか次第に麻痺してしまうのも茫洋とした混乱を誘うことになる。特に邦画で気になるように思うのだけれど、脚本に綿密な整合性を持たせることでまるで余白や余韻が消えてしまうかのように、「描かない」ことを目的とするその筆致が観客であるワタシに負荷をかけているわけで、そしてその「描かなさ」によってワタシは「考えさせられる」のではなくワタシに「考えさせる」ことを求めてくる全体として説諭的あるいは教条的な口調に反発してしまうのだろうと、あらためて自分を把握したところである。セリフももっと字面から自由になればいいのにと思うし、書かれた言葉と話される言葉が互いの手を放してしまっていてワタシにはどうも他人事に聞こえ続けてしまった。ニュースのLIVE映像で故郷の事件を知った紡がすぐその最中に駆けつけられるくらいには東京から近い生き地獄だったのかと、もうひとつだけ意地の悪いことも言っておく。『二十歳の微熱』の時からずっと好きなので、一緒に時間を過ごしてきたような片岡礼子が観られたのはとても嬉しい。
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2019年10月26日

イエスタデイ/微熱老人

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64歳を目前にしたダニー・ボイル(63歳)とリチャード・カーティス(63歳)がオアシスをなぶりものにして笑いをとりにいくこのコメディに、かつてザ・ストーン・ローゼズのデビューアルバムを聴いた渋谷陽一が「これってザ・バーズのコピーバンドじゃねえか」とか、口調はともかくそんな風なことを言ったか書いたかしたのを想い出したりもしたわけで、誰がどんなアレンジで歌おうが演奏しようがビートルズの作品がいかに無敵かというただそれだけを繰りごとのように綴るその挿絵としてスラップスティックなラブコメを添えてみましたという、仕事に飽きた演出家と脚本家による昼下がりの茶飲み話のような塩梅の映画であった。というわけで面倒な細部は周到に避けて通っているのは言うまでもなく、主人公が作品を再現するに際してのハードルは歌詞が思い出せないというレベルにとどめて天才たちの仕事としてのアレンジワークについては触れることがなく、たとえば「アイ・フィール・ファイン」のイントロをいかに再現するかといった、ジャック・マリク(ヒメーシュ・パテル)がそれなりのビートルマニアであったら直面する難題が描かれることはないのである。何しろこれだけふんだんにビートルズの作品を使用しておきながら、主人公の心情とマッチするドラマのツールとしてサウンド的かつ視覚的に機能するのが「ヘルプ」のみであったという点で、制作コンビがそれほどの知恵を絞っていないのは瞭然に思えたし、大団円でのウェンブリーにおける告白にしたところで、せめて「オー!ダーリン」でも熱唱してみれば場が持ち直すところを、とりとめのないセリフ語りと益体のないフラッシュバックでお茶を濁してしまう体たらくにワタシは態度を決めざるを得なかったのである。劇中で唯一フォーカスが合った気がしたのが、あの人の登場するシーンであったことを思うと、この演出家と脚本が本来すべきなのは彼らのアナザーストーリー、アナザーエンディングを夢想してみることだったのではなかろうかと思わざるを得ないし、ビートルズが存在しなかったらオアシスが存在しないどころか、そもそも喜びも悲しみも世界の気分そのものが斯様に押し広げられていなかったに違いなく、ビートルズの存在しないディストピアのエリー(リリー・ジェームズ)や誰も彼もがアナザーワールドの彼や彼女と寸分たがわぬ人々であったのがワタシはなんだか理解できないのだった。すべてのイギリス人はビートルズを好き勝手に弄り倒せるライセンスを持っていると言われればそれまでではあるけれど。というか、たぶん言うにちがいない。
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2019年10月24日

ボーダー 二つの世界/もう靴下は履かない

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なんだ、私はこれでよかったのだ、孤絶していたのではなくあまりにも独立していただけなのだ、自由はすぐそこにあったじゃないかと気づかされたティーナ(エヴァ・メランデル)の束の間の安息の後で襲いかかる驚天動地は、新たな彼女が彼女(便宜上「彼女」とする)であるがゆえ逃れることのできない引き裂かれるような生き地獄でありながら、そこから手を伸ばしてくる憎しみの連鎖への誘惑を払いのけた彼女が最後にたどりつくのは「わたしは誰も傷つけたくない」という強く静かで美しい言葉だったわけで、原題(Gräns/Border/ボーダー)は“境界”に阻まれた者、ティーナとヴォーレ(エーロ・ミロノフ)がその“一線”を超えていく時の姿を謳っていたと同時に、この映画はその姿を、現実と非現実のさらなる境界を行き来させることで永遠につかまらない者として祝福したようにも思えたのである。ティーナとヴォーレが歩を進めるにつれそれまで視えなかった世界が顕わになっていく時、それはワタシたちのためのメタファーであるどころか一切の共感も共有も拒絶していて、それゆえその世界への畏怖にも似た感情がワタシたちの様々な罪深さを無効化するどころか、その意味すらも奪ってしまったようにも思え、それはすなわち世界から見捨てられたということになるわけで、それくらいこの映画の中からワタシたちは跡形もなくいなくなってしまうのだけれど、おそらくはそれゆえに純化した視線を最後には与えられた気もしたのである。まるで頁を繰るように積み重なっていく重層に沈む昂奮は文学にまみれる時の愉悦のようで、テキストでは可能な、説明をしないための説明という矛盾がここではすんなりと視覚に落ちているのは、ティーナとヴォーレの美醜を行き来するその容貌が奏功しているのだろう。美醜でいえばあきらかに醜いという印象を植えつけながら劇中では基本的にそれゆえの日常的な差別描写をしない一方、犬たちはティーナに対して、ティーナの家で飼われている犬ですらが彼女に対して狂ったように吠えかかり牙をむくわけで、社会的な表面と非社会的な内面の対比がより根源的な差別の残酷さを示していて秀逸に思える。物語があくまでこの容貌であることを譲らないのはやがてそこに真実の意味合いが生まれるからで、美醜のラインですらが次第に無効化されていくあたりもこの映画の実験的な醍醐味であるといっていいように思うし、何しろ最終的にはワタシたちの審美眼など及びもつかない世界までぶっ飛ばされるささやかな爽快すらも手に入るのだ。オープニングでティーナが掴まえた虫がラストではどうなるか、その遠くて近く、哀しくて力強く、優しくて荒ぶったひとつの魂の旅を、むしろありったけの予断を持って観ることをお勧めしたい。予断を持てば持つほどそれが粉砕された破片が突き刺さる傑作である。
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2019年10月21日

クロール −凶暴領域−/シーユーレイター、バリーペッパー

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生き残れなかった者が受ける仕打ちに悪魔的な凄惨を叩きつけることでサヴァイヴァーの血みどろに聖性を宿してきたアジャが、ストーリーテラーとしての成熟や深化を手に入れることで映画の尺は次第に100分を超えはじめ、前作に至ってはついに人死にの瞬間でスイングする術すら手放してみせさえしたわけで、しかしそうした現状のステージに何らかの飽和を見てとったのか、ここにあるのは、果たして自分はまだ糞袋としての人間が片っ端から屠られていくサヴァイヴァーの物語を90分以内で撮り切れるのだろうかという挑戦とそれを征服していくことへの高らかな昂揚であったように思うのである。本来がアクロバティックなショットのケレンにこだわるよりは状況と情報の出し入れでリズムを作っていくセンスに長けた人なうえに、ここのところの緩急の手配を身につけた語り口も相まって、見せるものと見せないものの間にはりめぐらしたスリラーの質がとても豊かになっている。原題の”CRAWL”がダブルミーニングであることを早々に明かすオープニングからソリッドシチュエーションに捉まるまでの間に充分なドラマと感情を貯め込んでおいて、あとはそれを血のあえぎと共に途切れなく流し続けることでヴィヴィッドな息使いを失うことがないそのスリラーは、ヘイリー(カヤ・スコデラーリオ)渾身のカモンサナバビッチ!が魂の叫びとしてどれだけ響き渡ったかにも明らかではなかったか。アリゲイターを複数登場させることでモンスターとしてのキャラクター化を防ぎつつ、自分の尻ぬぐいだけでは済まされないヘイリーへの負荷のかけ方によってこれが最後までサヴァイヴァーの物語であることを見失わないシナリオも、躁病的でなく懐深いアジャのテンションに奏功していたように思う。いつのまにか楯突く側から楯突かれる側に移っていたバリー・ペッパーにメランコリーを滲ませつつも、父と娘の絆を最終兵器へと仕立てていく一瞬の狂気をコメディぎりぎりでドライヴさせるあたりのアジャには、やはりこちらがホームグラウンドなのではなかろうかと思わせる眼のきらめきが見てとれる気がしたし、とりわけ火事場泥棒のシークエンスは、湧き出すアイディアに小躍りしながら撮っているアジャの姿が目に浮かんだりもしたのだ。ヘイリーが手放さない手回し式の懐中電灯は、電池切れとかそんな雑なサスペンスに頼ったりするかよというアジャの自信満々のカウンターにも思えて、絶対絶命をはぐらかすようなキュルキュルキュルキュルという素っ頓狂な音が何ともチャーミングに鳴っていた。
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2019年10月19日

ジョン・ウィック :パラべラム/走っても走っても

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ウルトラバロックノワールとでも言えばいいのか、機能とか合理とかを一切無視した情動の残滓だけを壮麗に塗りたくった壁で世界を密閉しつつ、そこで淡々と行われるのは生死を振り分ける事務的な手続きであって、ジョン・ウィック(キアヌ・リーヴス)が殴りつけるように銃を撃つとき、まるで注射器が血を吸い上げるようにその弾道を生命が逆流していくのが見える気すらしたわけで、チャプターが進むにつれジョン・ウィックの重力だけがどんどんと重くなっていき、トム・クルーズの10分の1ほども膝の上がらないままもがくように走るその姿は、一度寄る辺なき世界を棄てたがゆえ奪った生命を排出することができなくなったその代償でもあるのだろうか、ジョン・ウィックの肉体は絶えず「遅い」のである。走るのも遅く、階段を昇るのも遅く、馬上の人となった時ですら馬は遅いでのある。しかしそれでも彼は愚直なまでに歩みを止めないわけで、どれだけ華麗に振りつけられたガンアクションや近接格闘が繰り広げられようとそこに爽快さは一片のかけらもないまま、どれだけ懸命に地面を蹴って走っても前に進まない夢の中の不快をワタシは共有するしかないのである。では、最愛の妻という生きるよすがを失った彼がなぜその歩みを止めることをしないのか、ジョン・ウィックは砂漠の果てで主席連合の長老に「自分が死んでしまったら妻の記憶、生きた証がこの世界から消えてしまうからだ」と答えるのだけれど、無垢を食い尽くすようなショウビジネスの世界で、決して器用な生き方をしているとは思えないキアヌ・リーヴスがそれゆえ成熟したフィルモグラフィー(たとえばソダーバーグ・クラブやタランティーノ・クラブとは常に縁遠い)とはすれちがいながら、なぜ第一線に居続けるべく不安定な更新を続けるのか、もしかしたらそこにはリヴァー・フェニックスへの想いがあるからなのではなかろうかとジョン・ウィックのセリフに思ったりもしたわけで、自分がここに身を置く限り世界が抱くリヴァー・フェニックスの記憶もまたそこに生き続けるのではないかと、かつて彼は考えそれを心に決めたのだろうと、あの砂漠のシーンでジョン・ウィックにキアヌ・リーヴスが重なって見えたのである。死亡遊戯的な階層の中、セセプ・アリフ・ラーマンおよびヤヤン・ルヒアンのシラット組と繰り広げる闘いは、『ザ・レイド』での彼らのアクションを知っていればこそキアヌの遅さが絶望的に映ってしまうのは否めないのだけれど、それを承知でキアヌはなぜああまでして骨をきしませ肉を打たせるのか、自分はこうしてここで生き続けるのだというキアヌの決意と覚悟がそれを裏付けしてみせた時、劇中で最も心えぐられる闘いへと装いを一変した気がしたのは確かなのだ。そして完璧なクリフハンガーで幕を閉じた今、ワタシの期待はルーキー・オブ・ザ・フィルムといってもいい裁定人(エイジア・ケイト・ディロン)が果たしてどれだけのアクションを仕上げてジョン・ウィックを待ち伏せるのか、その一点にかかっている。あれだけ偉そうにしておいて、闘わずして逃げるなんてことはしないと信じているよ。
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2019年10月17日

ヘルボーイ/言うほど猫が好きでもない

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異形の者への愛だなんだいうのは、自分がその対岸にいる者だっていう意識が言わせてるんじゃないのか?あん?とデル・トロに喧嘩を売ったわけではないにしろ、X-MEN的に角を落とした博愛の丸みに対してそれくらいの勢いで中指を立てなければリブートする意味などなかろうよという意味で、ワタシはこのニール・マーシャル版を歓迎したい。自らの異形と実存の問いかけを人間臭さとすることで共感を描いたデル・トロのコンセプトは赤銅のダークヒーローを翻訳する術として確かに有効だったけれど、ミニョーラの描く虚無のしんと冷えた感じを愛でてきた者からすればいささか物分りが良すぎる気もしたわけで、「おまえは小便みたいに黄色い素敵な目をしてるじゃないか」とヘルボーイ(デヴィッド・ハーバー)をねめつけるバーバ・ヤーガ(エマ・テイト)のセリフはデル・トロ版にはそぐわないながら、キャラクターではなく魑魅魍魎の跋扈する人外魔境の世界そのものを描くのだとするミニョーラにおいてはむしろこちらが日常会話にも思えるわけで、何で人間の側に立つかってえと悪魔とか化けもんとか何しろあいつら品がなくていけねえや、ってな与太を飛ばしつつ修羅をいくかのような倦んだ洒脱をヘルボーイの新たな造形と目指したように思うのである。その割に、ブルッテンホルム教授(イアン・マクシェーン)との関係にデル・トロ版のナイーヴが残ってしまっているあたりの詰めの甘さは巷間伝え聞く制作トラブルの残滓であった気がしないでもないし、二―ル・マーシャルにとって自ら脚本を書かない初の劇場作品であった点もマイナスに働いたのではなかろうか。おそらく製作陣は、全権を与えようものなら『ドゥームズデイ2』をやりかねないと危惧したのだろうけれど、実際のところ今作のチャームはその『ドゥームズデイ』的なニール・マーシャルのジョイパックフィルム魂が発揮された瞬間に宿っているようにも思えるわけで、俺たちは結局のところ糞袋に過ぎないという認識とその発露としてのゴア描写はこのご時世においてもっと称賛されてしかるべきだろう。まさか順撮りしたわけでもないにしろ、猥雑にあふれたルチャ・リブレのオープニングから擬似的なワンショットを多用した白昼の巨人戦あたりまでのナンセンスなドライヴが次第に法定速度に落ち着いてしまうのは、やはり誰かが踏んだブレーキによる気がしないでもない。そして何よりミラ・ジョヴォヴィッチのニムエ/ブラッドクイーンに妖しさと爛れが決定的に足りていない点でヘルボーイとのバランスを欠いてしまっていて、モニカ・ベルッチとは言わないまでもせめてレナ・ヘディあたりをキャスティングできなかったのかと「巨乳の女王にいかれちまったのか」というセリフに至ってはもう嫌がらせとしか思えない始末にも思えた。ミラ・ジョヴォヴィッチという俳優はいつどこで観てもまったく同じ顔をしているものだから、局面に現れるとどうも興を削がれてしまうところがあって、ならばいっそのこと役名もすべてミラ・ジョヴォヴィッチにしてしまった方がこちらもあきらめがつくようにも思うわけで、何を言っているかというと要するに言いがかりではあるのだけれど、映画をプラスチック化してしまうクィーンのその能力をそれだけ恐れている証拠なのは間違いがない。
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2019年10月10日

ジョーカー JOKER/The King of Remedy

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確かにジョーカー・ライジングな物語ではあったけれど、これはアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)という男がジョーカーへ変貌していくその道程というよりは、ゴッサムシティにジョーカーという呪いがかかるにいたったその顛末を記した覚書のように思える。そうしてみた時、アーサーとブルースの年齢差やウェイン夫妻を手にかけた男の予兆のようなマスクも腑に落ちる気がしたし、その生い立ちに始まり次々に外部からもたらされる不幸によって追い込まれていくアーサーの「わかりやすさ」も、オリジンは往々にして単純で素朴であるということの裏書きであったようにも思うのだ。映画の終盤、カメラは「BLOW OUT(ミッドナイト・クロス)」の文字を映画館のサインボードにとらえていて、これが1981年の出来事であったことを密やかに、だがこれみよがしに示している。この時期のニューヨークはといえば、のちにジュリアーニが牛舎の大掃除を行う以前のニューヨーク・バビロン期における犯罪発生件数が天井をついた時代でもあり、劇中のゴミ収集ストライキもクリスマスを控えた12月に17日間にわたって行われてもいる(ストライキは明日で18日目に突入します、という劇中冒頭のニュース音声はそれを受けてのことだろう)。アメリカ全土ということで言えば、カーターを蹴落としてレーガンが新大統領となり、富裕層や大企業の優遇につながる経済政策によって富の集中が加速するそのスタートの年であったということになる。そうしてみると、アーサーが地下鉄で屠ったあの3人は80年代半ばに登場するヤッピーの萌芽と捉えることも可能だろうし、レーガンが銃で撃たれた暗殺未遂事件がこの年であったことを思い出してみれば、アーサーが初めて外側の世界とコンタクトし波長を合わせたそのツールが銃であったこともまた象徴的に思えてくる。まるでノーメイクでエレファントマンを演じるかのようにアーサー・フレックという男の凄惨なメランコリーに憑依するホアキン・フェニックスに心を奪われて、彼の履く靴が最初のドタ靴から次第に軽やかになっていき最後にはあの一足となったことは彼にとっての解放であったように映りはするし、右手に持ったナースコールを押さなかった母ペニー(フランセス・コンロイ)は贖罪としてその死を受け入れたようにも思ってみれば、ホアキン・フェニックスが演じたのはあくまでジョーカーの呪いに捧げられた生贄としてのアーサー・フレックであったのだろうという気がしてならない。したがって、せいぜいが「善悪は主観に過ぎない」などといった凡庸な論をふりかざしつつ、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に善悪問答を挑むことなく射殺してしまうアーサーにジョーカーの萌芽が見てとれないのは仕方のないところではあるにしろ、ニューヨークの片隅であがくように暮らす一人の男の銃と病気と欠乏の三題噺もまたアメリカの神話であることをトッド・フィリップスは記していたように思うのだ。果たしてアーサー・フレックのジョークを笑っていいのか悪いのか、そんなことを想ういとまもないままただひたすら大勢の人々がこの物語を受け入れているこの世の中こそゴッサムシティそのものであることが、彼が最後にうそぶいたジョークのパンチラインだったにちがいない。
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2019年10月03日

アド・アストラ/父よ、父よ!

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ロイ・マクブライド(ブラッド・ピット)が、少佐(=Major)、と呼ばれるたびにメイジャー・トムの残像がゆらいだ気がしたし、実際のところ「笑顔ですべてを見せない」「宇宙は理解できる」とうそぶくロイはメイジャー・トムのごとく宇宙の唯一性に神性を見た殉教者であって、月へのシャトルロケットのパンナム感皆無の不自由さや、中東の紛争地帯のような車列襲撃、火星の入国管理室の弛緩した殺風景は、宇宙を自身のサイズに矮小化していく人間の無様に対する殉教者の嫌悪と忌避の顕れにも思え、ケフェウス号のクルーに対するロイの独白は言葉によるその証左となっている。結果としてロイは、父クリフォード(トミー・リー・ジョーンズ)と同様にクルー殺しをすることで同じ罪を背負うこととなるわけで(「父の罪を子が負うのか」)、父の道程を追体験するようにたった一人で深宇宙への旅を続けるロイをむしばむ宇宙の絶対性は一人遊びとしての孤独など一顧だにすることなく、お前の存在に何か意味でもあるかとほんの一瞬でも思ったか?ならばこれでもくれてやろうと孤独という死に到る病を注入していくのである。そしてついに海王星で対峙した父マクブライドが見つけたのも、この宇宙には私たちしかいない、生きているのは私たちだけだという、人類の孤独を想えという答えに過ぎなかったわけで、これは星をめざした者(”ad astra=to the stars”)たちの終焉、言い換えてみれば永らくワタシたちを支配してきたスペイス・オディティ幻想の終焉を告げたようにも思え、その体現者であった父マクブライドの退場を見届けたロイがなりふりかまわぬ姿で孤独からの脱出に必死となり、冒頭と円環するように地上に落下した後で、差し出された手に自らの手を差し伸べるショットによってそれは決定的となるも、疎外された者としてのアウトサイダーの帰還とその叶わぬ夢を描いてきたこの監督にあっては、宇宙で孤独の本質を知ってしまった男が求める共感に潜む静かな破滅の香りを、イヴ(リヴ・タイラー)を待つロイの笑顔に漂わせた気もしたのである。俺はいま途方に暮れているが、俺の暮れている途方を君たちが知ったら生きていることを続けようと思うだろうか、というロイのメランコリーと「笑顔ですべてを見せることをしない」という独白は、ブラッド・ピットという俳優が懐に隠し続ける虚無の顕れであった気もして、それは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でのクリフ・ブースにも通じる死の甘く倦んだ香りであったのは言うまでもなく、どちらの映画にも共通する無意識のうちに鬼の玄人が素人を一閃してしまうシーンは、深淵で途方に暮れるブラッド・ピットが貼りつけた彼岸の笑顔に促されて、気がつけば監督がカメラにおさめてしまっていたように思えてならない。寄り添え、ワタシたちはこの宇宙で孤独なのだ、それを知ったら気が狂って死んでしまうくらい孤独なのだ、とブラッド・ピットの“水晶でできているようにさえ見える山中の湖―それも酸性雨が湖中の生物を残らず滅ぼしてしまったために純粋になった湖(ジョー・ヒル)”のようなまなざしが言っている。
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2019年09月27日

アナベル 死霊博物館/あっちへいかなければこっちからいく

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ああ、これはスリープオーヴァー(sleepover=お泊り会)のお話だったんだなあと気づかされた瞬間、この子供たちにとって最初の体験となるだろう目の奥とうなじが熱く疼く徹夜明けの昂揚が眩しげに降り注いだ気もしたのである。そもそもがこのウォーレン家において死人を出せるはずがないという決定的な縛り(このホラーでは誰一人死ぬことがない)の中で、コメディやメタ構造の楽屋オチに逃げることなく、捉えられたら死んでしまうという鬼ごっこの正攻法だけで一晩を逃げ切った巧みなシナリオと衒いのないホラー演出は、人生の因縁を歩き始めたばかりで逃げまどう少年少女たちのヴィヴィッドと相まって、ある意味では死霊館ユニヴァースらしからぬ爽快を残した気もしたし、アイディアと飛び道具先行で少しばかり腰高が目立つこのユニバースのスピンオフ群にあっては、むしろこちらの方が新機軸にも思えたのだ。冒頭のシークエンスにおいて車中のロレイン(ベラ・ファーミガ)のシーンで示される“いないいないばあ”がこのホラーの基本トーンとなっていて、余白の多用とワンカットでの静かな出し入れなどJホラーの洗練をうかがわせる神経の障り方がこの監督の地肩となっているようで、たとえそれがビックリ箱であったとしてもそこに幽かなワンクッションを入れてみせるあたり、この監督の“ホラーの人”としてのセンスは思いがけずワタシの好みであった。様子を見にジュディ(マッケナ・グレイス)の寝室を訪れたメアリー(マディソン・アイズマン)が、ジュディのベッドにもぐりこんで勝手に添い寝をしているアナベルを見て、しかしアナベルのなんたるかをまだ知らないメアリーが、なんだか分かったような分らないような顔をしてそっと部屋を出ていくシーンが物欲しげでなく印象に残っている。恐ろしさの正体を知っているからこそ恐怖に囚われてしまわないロレイン(それをオープニングでおさらいしている)と、その遺伝子を受け継いだがゆえ恐ろしさの正体を無理やり知らされてしまうジュディの恐怖とを端正に描くことで、無垢のメアリーと混乱のダニエラ(ケイティ・サリフ)と、それぞれの恐怖の質までも描き分けた細やかさによってパジャマパーティの狂騒を終始遠ざけていたことも記しておきたい。ただ、ダニエラについては火付け役としての一面性を解いてやるのに少し手まどったせいで、誰よりも辛く切ない恐怖を味わうことになるにもかかわらず、その哀しみが割りを食ってしまったのは少しかわいそうに思えた。人は死なないけれど鶏が一羽だけ殺されていて、しかしそのシーンでのボブ(マイケル・チミノ)はこの映画のというかこのユニヴァースというか、ひいてはジェームズ・ワンの善性を顕していたような気がしてちょっと良かった。
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2019年09月20日

荒野の誓い/マダムと軍人

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相変わらず手を汚さない監督だなあという印象は『クレイジー・ハート』『ファーナス』『ブラック・スキャンダル』からずっと一貫していて、個人の情念を社会背景で強化することで主人公が何だか崇高な理念を手に入れたように映るのだけれど、実はその互いが互いを借りものとしているものだから、本来避けては通れない救いがたさが露悪されることもないまま、やさぐれたハーレクインロマンスがマニュアル車でテクニックを競うようなハンドル捌きで繰り広げられることとなる。冒頭、ロザリー・クウェイド(ロザムンド・パイク)が後家となった瞬間から、あとはジョー・ブロッカー(クリスチャン・ベール)といかにして手に手を取り合うかという手続きが、先住民に対するジョーの罪と罰という障害によってなだめすかされつつ幾多の犠牲者の血を吸うことによって、その蒼ざめた顔に血の気を通わせていくわけで、早々とロックオンしたロザリーが煮え切らないジョーにしびれを切らしてテントに誘い、ついには殺戮の火ぶたを切る銃弾を自らぶち込むことでジョーの尻を蹴りあげることとなり、結果としてこの物語は疑似家族となる3人以外をいかに排除するかというその達成のために善悪のくびきを溶かしていくその腐心を奥行に変えていたように思える。なんと言ってもこの監督の才能はキャスティングを含めた座組みに尽きるともいえ、マサノブ・タカヤナギのカメラに加えて今回はマックス・リヒターの劇伴まで手に入れた布陣もあって、あとは馬なりに流してさえいればハイエンドなドラマが手繰り寄せられていくという寸法はさらに磨きがかかり、中盤で投入されるチャールズ・ウィルス(ベン・フォスター)にしたところで、それがベン・フォスターであるがゆえにジョーの漆黒の胸像として対峙するように映りはするものの、役割としてはジョーの手下を人減らしするだけの機能性の人でしかないという贅沢は、ここまでで既にティモシー・シャラメ、ジェシー・プレモンス、ロリー・コクレーンという手練たちを死屍累々と積み重ねることで死のインパクトを借り続けるそれにも繋がっているのは言うまでもない。作品ごとに時代と風土を変えてこの監督が描いてきたアメリカの原風景が、傑出したキャストとスタッフのパフォーマンスにも関わらずどこか芯を食っていないように感じてしまうのはなぜなのか。やはり俳優出身の監督としてこれもやはりシンガーを主役に据えた初監督作をものにしたブラッドリー・クーパーと比べて見た時、ブラッドリー・クーパーの描いたのが、そうならざるを得ない人生の半ばあきらめにも似た確信であったのに対し、一見したところ同じ諦念を漂わせたようでありながら、スコット・クーパーの描く諦念は、叶わなくても仕方がない、なぜならこれは俺の願望に過ぎないのだからという退路が透けて見えるからこそ、そこには地獄が透けて見えることがないように思うのである。だから御大イーストウッドやデヴィッド・ロウリーの映画を観た時のような、“なんだか困ってしまう”感覚がついてまわることがないのだ。イーストウッドになれなかった男という点では世界中の誰しもと横一線ながら、例えばブラッドリー・クーパーになれなかった男と呼んでみた時、その屈辱と屈託が彼に地獄の蓋を開けさせることになるのだとしたら、誰かがそう言ってやるべきだとワタシは考える。と散々な言いようながら、おそらくはその完璧な座組に絆されて次作も観てしまうのは間違いがないのだけれど。ロザムンド・パイクだけが本能的にはみ出そうとしていたように思う。
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