2021年10月27日

最後の決闘裁判/生きるとか死ぬとか神様とか

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第3章のみタイトルに付けくわえられた”TRUTH=真実”の文字。第1章にも第2章にも描かれなかった真実とはいったい何だったのかと言えば、それは藪の中の、藪の只中で寝台に抑えつけられたマルグリット・ド・カルージュ(ジョディ・カマー)の頬を伝い落ちた一筋の涙に他ならず、ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)にもジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)にも想像できるはずもないそれは、名誉とか誇りとかいった益体もない言葉遊びのずっと奥底で心臓の鼓動のように脈打つ人間の尊厳そのものであったに違いなく、自然を愛し文学を滋養としては自分がこの世界の理に連なっている手触りに確かめながら生きてきた一人の女性が、私は視えない人間ではないのだ、世界のここにいるのだと声をあげることで、顔色を変えた虚構と虚飾の世界がその口を押さえにかかる姿をワタシたちは何度目の当たりにしてきたことか。ここでは男たちがさして余白のない類型的な下衆として描かれる一方で、姑ニコール(ハリエット・ウォルター)や友人マリー(タルラ・ハドン)といった、声を上げたマルグリットによって声を上げない自らが脅かされたと感じる女性たちが後ろからマルグリットを撃つ姿の醜悪と哀れを繊細にとらえつつ、シャルル6世の妻イザボー(セレナ・ケネディ)やピエール2世(ベン・アフレック)の妻マリー(ゾーイ・ブリュノー)がふとした瞬間にみせる夫をとりまく世界への嫌悪をしたためることで、声を上げることのできない女性たちの屈託や怨嗟の諧調によって3部構成の物語がほどけてしまうことのないよう串刺しにしてみせていて、ともすればシナリオのコンディションに左右されがちなリドリー・スコットにあって二コール・ホロフセナー(『ある女流作家の罪と罰』)とベン・アフレック、マット・デイモンの仕上げたソリッドなオブセッションに満ちた脚本抜きにこの作品が成立し得なかったことは言うまでもないだろう。第2章でマルグリットが階段を逃げながら誘うように靴を脱いで裸足になったシーンは、第3章において慌てるあまり階段の角に靴をひっかけて脱げてしまうシーンへと書き換えられ、そうやって細部を催眠的に入れ替えながら三度繰り返してみせたあとで、その酩酊した頭のままなだれこんだ決闘場では、いつしか自分が目をぎらつかせ拳を振り上げる群衆の一人となって目の前の殺し合いに固唾をのんで身を乗り出していることに気づかされて、すべてが終わった後でマルグリットが馬上から夫と群衆に投げかける冷ややかで侮蔑し切った視線は図らずも人殺しを愉しんだワタシに向けられたようにも思え、あの不条理の極みともいえる空間を圧倒的な活劇の祝祭で抽出したリドリー・スコットのひんやりと暴力的な知性による剛腕に打ちのめされて二の句が継げないまま、真のサヴァイヴィーとなったマルグリットがこの世界で我が子だけに向ける笑顔に心の中で頭を垂れるしかなかったのだ。すべては頭の中で完成していて、あとはそれを汎用性のあるパッケージに移し替える作業でしかないとでもいうリドリー・スコットの、悪魔的とすらいえる澱みない解像度をいったいワタシはどれだけ認識できているのか胸に残るのは不安ばかりで、こんな風に何か自分が決定的な失敗を犯したような気分で映画館を送り出される監督が他に思い浮かぶことはない。ひとつ難をあげるとすれば、ピエール2世の倦怠と退廃がピカレスクとして成立してしまいそうなところか。ル・グリに邪な囁きを続けるルーヴェルを演じたアダム・ナガイティスをベン・フォスターの跡目として心に刻んだ。
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2021年10月20日

DUNE / デューン 砂の惑星 : Part1 砂の中のナイフ

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過去と未来が交錯する母と子の物語を怪物の咆哮とともに岩と砂の大地へと刻みつけ(「灼熱の魂」)、つきつけられた切っ先を運命と呼ぶならば、真の救済は運命を受け入れることではなくその刃渡りをしてさらに運命の先へ向かう人にこそ訪れることを告げつつ(「プリズナーズ」)、見間違えようもなく見ればわかるものを撮りながら、それが組み合わさった瞬間に意味は霧散し観客はそこに取り残される不安への恍惚とともに自らの経験と認識を頼りに彷徨を始め(「複製された男」)、運命論的な選択への諦念ではなく決定論に対する自由意志的な決断の疼きを確かめてみせ(「メッセージ」)、実存のパースを曖昧に狂わせ続ける巨大建造物へのフェティシズム(『渦』における巨大ダム、『複製された男』におけるトロントの高層ビル群)がより洗練されたシグネイチャーとして脱走を阻むかのように神経を塞ぎつづけるこの映画をヴィルヌーヴが現時点での集大成として撮り上げたことは言うまでもなく、おまえのいる世界を全身で知覚しろと常に語りかけてきたその作品こそがワタシたちの意識を拡張するスパイスであったことにどこか感傷すら覚えながら思い至ってしまう。ワタシたち人間が「個」であろうとすればするほどその「差」はいつしかシステムの強度を要求して政治を生み出し、しかしワタシたちは「個」であるがゆえそれと闘わなければならないというその「個」と「差」のメランコリックで暴力的な関係こそが「世界」であることを、ワタシの知る限り『渦』からずっと描き語り続けてきたヴィルヌーヴ自身の光と闇を潜った奥底からの心象であったからこそ、この映画はパーソナルフィルムのような密室性で砂漠すらを捉えつづけたように思うのだ。『プリズナーズ』において、常に備えよ(Be Ready)、すなわち世界の不安定を理(ことわり)で杭打つ存在であれと父親に育てられたケラーが偶然と必然の十字路でその祈りを拒絶されたことを思い出してみれば、そうした役割を予知し自認して生きてきたポール(ティモシー・シャラメ)が他者の生命を奪うことで殉教を拒絶し祈りを破壊した行為は、「個」と「差」を繋げる鎖としての暴力が未来を切り開くことを告げてもいたわけで、それこそがヴィルヌーヴ作品にまとわりついて離れない仄暗い不穏の正体であることを明かす瞬間をこのパート1のクライマックスに据えた点においてその確信を解き放つ覚悟と野心がうかがえたのではなかったか。そんな風にしてヴィルヌーヴによる記憶の宮殿といってもいいその一部屋一部屋に飾られた絵画のようなショットの連続でできあがったこの映画からワタシが一枚を選ぶとしたら、裸で椅子に沈みこんだ瀕死のレト公爵(オスカー・アイザック)を眺めながら食事を貪るハルコンネン男爵(ステラン・スカルスガルド)をまるでベラスケスのようにソリッドな光と闇で描いた題名「公爵と男爵」一択となるのは言うまでもない。今こうして『ヴィルヌーヴのDUNE』を観終えてみると、『メッセージ/Arrival』の一卵性双生児にも思えた『最後にして最初の人類』はヨハン・ヨハンソンが夢想したアラキスに他ならないことに気づかされ、彼の不在がかけた呪いにおいてこの映画は永遠の欠落を背負うことになった気もしている。
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2021年10月12日

007 ノー・タイム・トゥ・ダイ/最後にして最初のスパイ

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血にまみれた『スカイフォール』の手続きを経てMajestyでありMotherであるMを退位させたボンドは、まるで失われた青春を取り戻しでもしたかのようなその横顔で閉じられた『スペクター』で寄る辺なき世界からの逃走を成功させたのではなかったのか。冒頭、ヴェスパー・リンドの墓前で爆殺されかけたボンドは生涯の伴侶とすら思えたマドレーヌ(レア・セドゥ)をほとんどパラノイアにも思える激情で責めたてたあげくに打ち棄ててしまうのだけれど、この滑り出しはかつて愛しながらあるいは愛したふりをしては利用してきた女性たちの亡霊に深層で囚われつづけるジェームズ・ボンドの呪いを明かすことで、クレイグのボンドが最後に立ち向かう敵は自分自身であることを宣言したように思ったし、その寄る辺なき深淵にボンドをいかに誘い映し出すか、キャリー・ジョージ・フクナガを起用した理由がそこにあるとすればそれは慧眼であったように思えたのだ。駅でのマドレーヌとの別れまでは。しかしそれ以降、サム・メンデスが『スカイフォール』で行ったダークナイト的脱構築と、脱構築をさらに推し進めた『スペクター』が記号化した表層の狭間とで右往左往するジェームズ・ボンドは、旧友フィリックス・ライターから仇敵スペクターに至る彼の実存を裏付けるすべてを奪い取られるばかりか、彼に未来があったとすればその唯一の希望である存在すらが手の届かぬところへ追いやられてしまうのだ。そしてその死には優雅で感傷的な自己犠牲が許されるどころか、おそらくはジェームズ・ボンド史上初めての完全な敗北によって生還をあきらめるという、007というブランドの失墜すら招きかねないある種の無様で幕を閉じることとなる。しかし最期に彼がその表情にはりつける泣き笑いの表情こそは、かつてMが与えた人殺しの目つきと矜持との交換に差し出した素顔であったのかもしれず、すべてのジェームズ・ボンドたちがしでかした無邪気と無慈悲と乱痴気とそれらがもたらした恍惚とその詭弁への代償を払い続けたクレイグのボンドは、最期の瞬間に人間の復権を赦されながら、しかしその瞬間この世界から消えていくのだ。したがって、この映画が意味あることを語ったとすればそれは冒頭とラストの数10分のシークエンスに過ぎず、ジェームズ・ボンドを亡きものとするというこれまで誰も成し遂げなかったミッションを与えられたキャリー・ジョージ・フクナガがその間のおよそ2時間をどうしていたかといえば、口ごもったかと思えばどなり散らし哄笑したかと思えば泣き叫ぶ、ジェームズ・ボンドの躁鬱的な混迷と混乱をそのまま隠すことなく晒し続けたわけで、このシナリオが抱えるプロットの機能不全をそのままジェームズ・ボンドのそれへと照射する選択を、あらかたの開き直りといくばくかのあきらめとともにキャリー・ジョージ・フクナガは受け入れたのだろう。とは言うもののノーミ(ラシャーナ・リンチ)の実質的な007剝脱をわざわざ自主返納に言い換えるくだりだけは、これだけの手練たちが集まってなおあれほどの手抜きを許してしまうのかと、MCUの偏執的なブラッシュアップなら見過ごすことはしないだろう不完全に落胆はしたものの、その失敗の香りにうながされてようやく受身の準備をとれたからこそ、すべての元凶のはずのM(レイフ・ファインズ)がいったいどの面を下げてボンドを悼むのか心底理解に苦しむあのシーンですらも、ボンドもきみたちもすべてワタシと同じく失敗の産物なのだからと慈愛の気持でやり過ごすことができたのだろうと考える。たぶん世界は救って欲しくなどなくて、思い上がったものはこうして罰を受けるのだ。
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2021年10月07日

死霊館 悪魔のせいなら、無罪。/愛と幻想のエクソシスム

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ロレイン(ヴェラ・ファーミガ)とエド(パトリック・ウィルソン)のウォーレン夫妻にとって真の恐怖とは呪われた人形や悪魔や幽霊に生命を脅かされることではなく、自分ひとりを残して相手がこの世から去ってしまうことに他ならないにも関わらず、自分のこの力(ギフト)は絶望の淵に佇む人たちを救うために与えられたのだと確信するロレインのノンブレーキで疾走するノブレス・オブリージュ的な使命感と、それをいっさい押しとどめることなく必死の笑顔で併走するエドが繰り広げる命がけの婦唱夫随こそが死霊館ユニヴァースをハイカロリーで駆動するエンジンであることを、ここで今あらためて心高らかに宣言してみせている。これまでも夫妻はユニヴァースの欠かせない存在ではあったけれど、あくまでも怪異それ自体を主人公にそのサイドキック的な役割を担ってきたわけで、してみると既にオープニングからこの物語の責を負って夫妻が登場する今作は、例えば夫妻が出会ったなれそめのフラッシュバックなどパーソナルに迫る瞬間など垣間見せつつ、ロレインの能力が抱える両刃の剣としての危うさと、彼女の従者として我が身を省みずその切っ先に身を投げ出すエドの即死スレスレのコンビネーションこそをサスペンスの真っ赤な彩りに選んでいて、ジェームズ・ワンがマイケル・チャベスに託したこの新たな舵は、たとえばMCUが次第にアベンジャーズの物語へと収束していったようにウォーレン夫妻をユニヴァースの幹に据えるため、これまでのように怪異のキャラクターによって変化せざるを得ない話法を均す試みであったように思えたりもした。秘密は床下にあるとあたりをつけて、躊躇なくたおやかなブラウスとスカートのまま潜りこもうとするロレインに、そんなところに入ったら服を汚しちゃうよと心配げなエドを振り返り、だってあなたは心臓発作を起こしてステントを入れる手術をしたばかりでまだ歩くのにも杖をついてるでしょ?と言わんばかりの笑顔で、ちゃんと私のバッグを持っててちょうだいねとだけ言い残して四つん這いで暗闇に消えていくシーンのこまやなか愛情の溢れさせ方にワタシは頬がゆるんだし、CM出身の監督にしては抑制のきいたトーンを正当な手続きで積み重ねてレイヤーの色合いを決定していくマイケル・チャベスの正攻法(『ラ・ヨローナ〜泣く女〜』の愚直なまでの正面突破はジェームズ・ワンの与えた課題だったのかもしれない)は、人間様に軸足をおいた今作の重心を打つために必要な起用だったのだろう。もし今後、ウォーレン夫妻の活躍をより前面に打ち出していくのであれば、今作で密かに八面六臂であったドルー・トーマス(シャノン・クック)をよりアクロバティックに機能させてくれると心霊タスクフォースとしての痛快がいっそう増すのではないかと愉しみにしている。
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2021年10月03日

レミニセンス/死ぬまでROMってろ

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フィルム・ノワールやファム・ファタールの意匠を思う存分借り出してはいるものの、実際のところはニック・バニスター(ヒュー・ジャックマン)という屈託をためた一人の男の自爆するセンチメントが右往左往するに過ぎず、メイ(レベッカ・ファーガソン)にしたところが劇中で文字通り演じさせられるファム・ファタールの衣装をいったん脱ぎ棄てた時、では彼女は世界のどこからやってきていったい何を許して何を憎み、どのような血の轍にはまって抜け出せなかった人なのかが深彫りされることのないまま、ただただニックの追い求める妄想と理想の女性へと矯正されていくばかりだったのだ。しかし、その全てがラストで昏睡したままタンクに浮かぶニックが投影し続ける最良の記憶なのだとしたら、そもそもノワールの行きつくゼロ地点への胴体着陸を期待するのは無理筋というものだし、それよりはむしろ『ジェイコブズ・ラダー』のフォルダに放り込んでしまった方が収まりがいいように思うのだ。リサ・ジョイがショウランナーとして采配した『ウエストワールド』で記憶と実存をめぐる物語を吐き気がするような執着で描いた反動なのか、ここでの記憶はすべて劣化した記録映像として腰が軽く慰みものになるばかりで、もしかしたら水没都市のメランコリーも、乾ききった西部の大地で延々と彷徨し続けたことの反動だったのかもしれず、タンディ・ニュートンはともかくとしてアンジェラ・サラフィアンにまたしても薄幸をまとわせたあたり、年齢が邪魔さえしなければエド・ハリスをニックにすえたパラレル・ワールドの幻視を試みたようにも思ったのだ。それにしても、ここまで舞台を仕立てながら干潮と満潮によって晒される世界と覆われる世界を陰陽の理へとおとしこむ執着がリサ・ジョイにもジョナサン・ノーランにも見当たらなかったのが惜しまれる。
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2021年09月26日

モンタナの目撃者/This Land Is Not Your Land

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銃と暴力で脅せば当然のように相手を支配できるつもりの相手にいい加減しびれを切らして「さっさと撃って殺せ、胸張って死んでやるよ(I’m just gonna keep my dignity)」と、強がりでもなんでもなく逆切れするイーサン・ソーヤー副保安官(ジョン・バーンサル)は、結果として生まれてくる我が子の顔をみることなく消えていってしまうのだけれど、もし彼が父親になっていたら『ウインド・リバー』のコリーのように、アメリカの土地に生まれた者は生命と呪いを背中合わせに生きなければならないことを悲劇ではなく諦念として受け入れなければならないのだと、我が子に伝えるその姿を想像するのはいともたやすく、彼の妻アリソン・ソーヤー(メディナ・センゴア)が生き延びるために何度となく下す瞬時の判断もまた、生命と呪いの境界をすり抜ける生き方をしてきた者の冷徹を借りていて、ここに登場する者たちはオーウェン(ジェイク・ウェバー)とコナー(フィン・リトル)のキャサリー親子と、そのバトンを継いだハンナ・フェイバー(アンジェリーナ・ジョリー)は言うまでもなく、果てはパトリック(ニコラス・ホルト)とジャック(エイダン・ギレン)の殺し屋兄弟に至るまで、アメリカの原罪とその償いに囚われた憂鬱とそれを引き受ける矜持に衝き動かされていたように思ったのだ。特にハンナとアリソンの場合、アリソンはコナーとの関係が『グロリア』の母性を動機としてしまわないようそのキャラクターの背景が執拗に念押しされているし、アリソンは妊婦である点をアクションのデメリットとして一切斟酌しない演出で、観客が抱くバイアスをことごとくうっちゃっている。現状、アメリカの土着と土俗の風景を描く最良と思われるテイラー・シェリダンとデヴィッド・ロウリーのいずれもが、サバービアからランドへとカメラを持ち出しているのは偶然ではないだろう。『すべてが変わった日』が捉えたのもそんなアメリカの時間と場所だったし、クロエ・ジャオの描く荒野がその最新にして最右翼なのは言うまでもないだろう。分断の再興とその侵攻によって辺境が最前線と化している。
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2021年09月22日

ドライブ・マイ・カー/カーヴをまっすぐ曲がる人

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文章では家福と表記される“かふく”を口にしてみればそれは禍福となるのが何より自然でふさわしく、「禍福は糾える縄の如し」と言ってみるその縄の虜であり続ける家福悠介(西島秀俊)がその縄を解くに至る物語としては原作短編を逸脱したと言い難いにしろ、文章上では黄色のサーブ900コンバーティブルの車内で金言と箴言を駆使した超絶カウンセリングで家福を寛解へと導く、かつて家福が亡くした娘が生きていれば同い年であった23歳の渡利みさき(三浦透子)から村上作品ではなじみのマジカル二グロとしてのマジカルウーマンという衣装を恭しくはぎとっては、家福の心配よりきみはきみの心配をするべきだと濱口竜介は全力で彼女のバックアップにまわるのだ。近年映像化された村上春樹作品のことを少し思い出してみると、『ハナレイ・ベイ』ではラストの大胆と言ってもいい書き換えによって主人公サチに再生の光をもたらし、『バーニング 劇場版』では原作において漆黒の塗布にとどめた世界の断絶を暴力で裂いて光を招き入れる試みを告げていて、そのどちらも監督自らが脚色したことを考えてみる時、原作のその先、もしくはその周辺あるいはその下層に村上春樹が隠し埋もれさせたものを彼らの解釈として抽出したのだとすれば、漂泊する女性たちの救済と原初的な暴力への憧憬こそを彼らはそれと決定したわけで、言い換えればそれらを原作からこぼれ落ちた(こぼし落とした?)色合いと手触りとして特定していたように思うのだ。してみると、今作ではその両者をみさきの救済および高槻(岡田将生)との邂逅として脚色したことは至極納得がいくわけで、村上作品を映像化する場合それらが拡張というよりは新たな補填や補完として現れるのは、それらをテキスト上の特徴的な欠損として捉えたからに他ならないだろう。ここでの家福からは致命的な傲慢や悪意は魚の小骨のように取り除かれて、せいぜいが高槻の配役をアーストロフではなくワーニャに変更することで彼の間男を締め上げるにとどめ、この世界にあらかじめある暴力の発火と発熱については高槻にすべて任せてしまっているものだから、みさきの発火装置として涙を流し仮初めの娘に再生のやり方を導くことが彼の役割として次第に浮かび上がり、親と子が互いを救い合うことで生き延びるという村上作品ではついぞなし得ない地点に映画の真っ赤なサーブは到達するわけで、映画にとって主題など邪魔なだけでさほど興味はないし、それよりは作品のナラティヴそれ自体をぼくは愉しんだ、とかいった村上春樹のコメントなどを妄想してみるのだった。境界でゆらぐ緊張の解放と圧縮をシームレスにつなぐ四宮秀俊のカメラは『へんげ(2011)』から『きみの鳥はうたえる』『人数の町』といった作品と共に10年を経て、現状最強といえる芹澤明子氏の座るテーブルについたように思われる。端正と抑制が透徹した彼岸を映す今作にあって、高槻を送ったホテルから離れていくサーブのリアウィンドウに、エントランスで仁王立ちになってこちらを凝視する高槻を認めた瞬間、世界のフレームが瓦解するかのようにガクガクッと揺れるカメラの凶度に、『寝ても覚めても』を観た時の濱口竜介はいつか正面切ってホラーを撮るべきだという願いにそれも四宮秀俊のカメラでという新たな願いを加えてみたのだった。
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2021年09月13日

シャン・チー/テン・リングスの伝説〜いつもトニーから始まる

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MCUのTVシリーズ展開にあまり興味のないワタシのような観客にとって今作は『エンドゲーム』以来のMCU新作となるわけだけれど(『ブラック・ウィドウ』は『エンドゲーム』ではその死が偲ばれなかったナターシャの通夜語りだろう)、アベンジャーズを賄うために極限までインフレーションされた「悪」の生贄としてサノスを捧げる狂熱の儀式もしくは祭りの後の虚脱をどのように浄化して新たな清新から歩み始めるのか、それまでの物語をまずは根本から裏返して北米からすれば辺境であろう彼方を舞台に、アングロサクソンを完全なモブ扱いにする力技と悪=敵がいなければ成立しないMCU世界の忌まわしき呪いをその存在の色艶として両立させるアクロバットをトニー・レオンに託し切った慧眼に、恐れ入ると言うよりはその透徹したクリエイティヴィティの切れ味に背筋がひんやりとすらしたのだった。善悪のあわいで途方にくれたように立ち尽くす人の悔恨と自棄を夕暮れの儚さで灯して立ちはだかるウェンウーの障壁が高ければ高いほど、そこを超えていくシャン・チー(シム・リウ)にはヒーローの血肉がいつしか備わっていくわけで、神話の父殺しというよりは道教的な魂の救済にも思えるそれはそのままシャン・チーというヒーローにたおやかさと高潔の色を施したように思うのだ。しかしシャーリン(メンガー・チャン)について言えば、共闘にしろ反発にしろいま一つ機能として交錯しないことで、本来であればシャン・チーより歪んだ屈託を抱えたはずの彼女がいささか物分かりが良すぎる点、というか物分かりが良くならざるを得ないへの不満(ポストクレジットシーンがその穴埋めをするとはいえ)は、トニー・レオンがみせたミラクルの功罪という気がしないでもない。ウェンウーとイン・リー(ファラ・チャン)の出会いからやがて想いを募らせるロマンスを流麗なアクションで紡いでいくシーンが、かつてアン・リーが『グリーン・デスティニー』で魅せた官能的とすら言える剣術の交感を継承していることは、シャン・チーのメンターとして登場するミシェル・ヨーの凛として揺るがないたたずまいに明らかだろう。今後トニー・レオンは、シャン・チー絶体絶命のピンチ、もしくはシャーリンとの致死的な兄妹喧嘩にスピリットとしてあらわれて、にこやかに兄妹を救ってやって欲しいと切に願う。おそらくケヴィン・ファイギは何かのシナリオのどこかをトニー・レオン仕様にリライトすべく既に指示しているように思っている。
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2021年09月09日

アナザーラウンド/死ぬには少し酔いすぎた

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「朝起きて気分が非常にブルーになってると、そういう時に面白いもの書こうと思えばアップさせなきゃいけない。だから3合くらい日本酒を飲む。そうするとやっと普通の状態になって書けるようになる。」中島らもが徹子の部屋に出演したとき、こんな風にキックとしての酒をわかりやすく淡々と黒柳徹子に語っている。中島らもの場合、酒がキックで済まなくなったことで依存症の泥沼に沈んでいくのだけれど、この映画はアルコールやその依存症への糾弾や擁護の色を分けるわけでも、それをことさらに笑い飛ばしたり揶揄したりするわけでもなく、中島らもがいうところの“ブルー”の彩りを酒で濃くしたり薄めたりしてできる模様が今はなくしてしまったけれど自分の大切だった何かに似てはいやしないかと、人生を折り返した男たちがその帰り途で焦燥にとらわれながら落しものを探すその肩に、メランコリーの上着をそっとかけてやっていたように思うのだ。いつだったか大槻ケンヂが言っていた、薬を飲むだけで簡単に上がったり下がったりするんだとしたら後生大事にありがたがる「本当の自分」なんてものはそもそも幻想なんじゃないかといったことや、酒に自分の心を支配されている感覚になるから絶対に飲まないという蛭子能収の言葉を思い浮かべてみる時、ワタシたちは「本当の自分」という幻想に囚われて自分で自分の首を絞めているのではないかという考えを振り払うことができないでいるし、「本当の自分」と「現実の自分」の乖離の淵で彷徨するマーティン(マッツ・ミケルセン)は、好むと好まざるに関わらず社会との関係性において生きることを要請されるワタシたちそのものであるからこそ、彼の失敗はどこまでもワタシたちの後を付いてくるのではなかろうか。だからこそ、アルコールのキックによって社会的な動物としてつながれた首の鎖を永遠に解くことを選んだトミー(トマス・ボー・ラーセン)がその自爆によって仲間達の失敗に煙幕を張ったことや、最期にマーティンに託した、お前がお前について考えることなど何のあてにもなりやしない、それよりはお前が手を伸ばして触れたものの手触りを大事にしてそれを手放すなというメッセージが悲痛なまでに胸を打つわけで、妻からのメッセージを見たマーティンに宿った、ああこれでもう俺にはトミーの選択を追うことは叶わなくなったという安堵とあきらめの目元からの、未来に対する盲目的な希望にあふれた学生たちの前で泣き笑いするかのようにトミーへのレクイエムを踊り狂い海に飛び込むマーティンのストップショットは『大人はわかってくれない』のそれにも似たその先への止揚の突きつけに思え、その一瞬マスクの息苦しさが今さらながら耐えがたくて仕方がなかった。
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2021年09月07日

オールド/きみへ渚にて

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もしビーチに行かなかったとしたら、プリスカ(ヴィッキー・クリープス)はトレントとマドックスが成長した姿を目にすることなくこの世から若しくはカッパ家から去っていただろうし、ああしてガイ(ガエル・ガルシア・ベルナル)と終世を共に添い遂げることもなかっただろう。様々な基礎疾患を抱えた彼や彼女にとって、はじけ飛ぶように加速する人生の真の恐ろしさは、老化と死への恐怖はもちろんのこと、本来は緩やかであったかもしれない痛みや苦しみが高濃度に凝縮されて打ち込まれるオーヴァードーズのそれであって、わけても統合失調症と低カルシウム血症をそれぞれ患うチャールズ(ルーファス・シーウェル)とクリスタル(アビー・リー)の夫妻を襲う容赦のない断末魔を念入りかつ執拗に描くシャマランの麗しい趣味には惚れぼれするしかなかったし、ラストに用意されるツイストの意外な収まりの良さを思うと、今作はその錐揉みよりはそこに至る真空状態の酩酊こそを愛でるべきで、導入部分で6歳のトレントが出会う人に片っ端から職業を尋ねるシーンなど、通常の手続きで人物の相関を探り合うのももどかしく、私は一刻も早くビーチに行きたいのだ、行って人々をそこに放り込みたいのだというシャマランの焦燥にすら思えたわけで、なにしろ今回のシャマランはカメオというには少しばかりしつこく、しかも監視者/窃視者という役回りでスクリーンに現れ続けるのだ。物語はそれが行き着く場所ではなく運び続ける足取りを語る意志そのものを指すのであり、それを信じる者は救われるのだ、というかつて『レディ・イン・ザ・ウォーター』で明かしたマニフェストはいまだ誇らしげに掲げられ、ハッピーエンドとバッドエンドが互いを相殺するゼロ地点に着地する勇気は、イーストウッドをして晩年に到達した境地そのものであるようにも思え、監督への畏敬の念はいよいよ増すばかりなのだった。ホテルのマネージャーの甥っ子がトレントのIFもしくはスーパーナチュラルな存在だったらどうしようと少しだけドキドキしたけれど。
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2021年09月05日

孤狼の血 LEVEL2/ヒロシマ・モナムール

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昭和という戦争を抱えた時代ゆえ持ち得た生と死のもつれ合う刹那のスピードが撮らせた「やくざ映画」と、それを批評的な憧憬で追尾する「やくざが出てくる映画」の避けがたい断絶それ自体を松坂桃李が曖昧かつ茫洋とした横断で的確に演じ切った前作で、とっくに皆は気が済んだものだとばかり思っていたものだから、彼の演じる日岡を主人公にオリジナル脚本の続篇が撮られることを知った時、それは菊地刑事をメインに据えた『その男、凶暴につき2』なのではないかと、負け戦の香りが一瞬漂ったのは確かだったのだ。前作では色濃かった『県警対組織暴力』の構造はすでに出がらしとなり、ではどこに勝機を見出したのかといえばそれは、市中に放たれた上林成浩(鈴木亮平)という怪物をやくざと警察が血まみれで狩りたてることで超暴力を描写する言い訳を成立させるというモンスター映画としてほとんどやけくそで開き直るその一点にあったはずなのである。はず、と言ったのはワタシにはその目論見がいささか志半ばであったように思えたからで、さすがにそのストレート・アヘッドでやり逃げるには腰が引けてしまったのか、主に日岡の陰影欲しさに彼の周囲へとドラマを巡らす誘惑に屈してしまっていて、その好演は別として近田幸太(村上虹郎)のパートは停滞とプロットホールを誘うだけにしか思えず、幸太との関わりによって上林が過去に捉われるに至ってはアントン・シガーや大友勝利にフラッシュバックが必要か?とその湿度がノイズになったのは確かだったのだ。そうした点で、冷やかな暴力装置として尾谷組の花田優(早乙女太一)が白石映画には稀有な色艶を残したこともあり、できれば上林と薄ら笑いで激突して鶴の首でもへし折るように屠られる様を妄想したりもした。ラストの駐在シークエンスは明らかに『県警対組織暴力』エンドを想起させつつその執行は別の人物に向けられて日岡は原作通り命をつなぎ、もし原作に復帰してのLEVEL3を睨んでいるのなら、そこでは柚月裕子氏をシナリオチームに迎えて薬莢の鈍色に哀しみを映す筆を請うべきだと考える。
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2021年08月31日

FUJI ROCK FESTIVAL'21 雑感

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昨今の状況を鑑みれば決して褒められた選択でないのは重々承知の上で、まずは邦楽アーティストのみの出演というドラスティックな決定から始まった紆余曲折の中、行く行かないという選択肢が頭をよぎったことは一度もなかったように思う。それは苗場皆勤を途切れさせたくないわけでも、もう自粛はうんざりだ好きなようにやらせてもらうぜと中指を立てたわけでも、いま苗場で見ておかねば死んでも死にきれないというアーティストがいたわけでも、思い上がった使命感があったわけでもそのいずれでもなく、では何なのかと尋ねられても「それを造れば、彼が来る(If you build it, he will come)」的なうわ言にささやかれとしか言いようがなく、それについては申し訳ないとひたすら頭を下げるしかないのだ。そんな中、8月21日の深夜にホテルの部屋でNHKBSシネマが放映する『ゾンビ ディレクターズカット版』を見ながら、去年の春からいまだ続く籠城戦と撤退戦の最中にいるワタシたちはゾンビの脅威から逃れてモールに立てこもるピーターやフランそのものだなあと思いつつ、いやどちらかと言えば生前の記憶に衝き動かされてモールにやってくるゾンビがふさわしいのかもしれないと、何度見たかわからないこの映画に新鮮な親しみをおぼえたりもしたのだった。ワクチンは2回目がぎりぎりで間に合わないままだったのが心残りながら、出発前は一週間前から毎朝検温し、送付された抗原検査キットや所定のアプリへの対応およびCOCOAをアクティヴにし、シャトルバスは避けてタクシーで行き来することなど策定しつつ、東京で過ごす消毒と昏睡の日々を極力再現することを肝に銘じて苗場に向かった。

1997年に行われた第1回の天神山(ワタシは不参加)は台風の直撃で観客が半ば遭難して野戦病院と化し、その責任に対し運営が集中砲火を浴びたことで第2回は同地区での開催が叶わず、1998年は本来のコンセプトからは外れる都市型フェスとして一度体制を立て直した後(ワタシはここから参加)で、1999年の第3回から苗場に居を移すことになるのだけれど、天神山の惨劇で世間を賑わせたフジロックがやってくるという事態に当時の地元は受け入れに対して一枚岩であったとは言い難く、苗場開催のアナウンスがあってからほとんどドキュメント的にその経緯を知ってきた者たちは、運営はともかく自分たち客が決定的なエラーを犯したらこの場所も取り上げられてしまうのだというある種悲壮ともいえる決意で苗場に足を運び、とにかく地元に迷惑をかけてはいけない、粗相があってはいけないというそのストイックさがクリーンなフェスとしてのフジロックを築きあげていくことにもなったわけで、ワタシの胸の内を支配する何かがあったとすれば、この1999年のフジロックに臨むそれであったように思えたりはしたのだ。

そうやってゲートをくぐったいつもの苗場は、楽観と悲観、虚無と笑顔、静寂と爆音が水平に同居する彼岸の景色にも似て、百戦錬磨の甲本ヒロトをして「ああ、久しぶりでだんどりがわからなくなっている……」と手につかないハーモニカを嘆かせ「BEGINとしてのライヴはこれが2021年最後かもしれない」と吐露した比嘉栄昇はその後に「開催に賛成する人も反対する人も、その先に望むことは一緒のはずなんだから対立しても仕方がない。道筋を決めなきゃならないのは専門家の人なんだよ」と言葉を連ね、あの向井秀徳がステージでただの一滴もアルコールを口にせず、坂本慎太郎は「できれば愛を」で始めたステージを「ツバメの季節」で締め、電気グルーヴですらが驚くほどに音量を落として祝祭をなだめてみせていて、非常に身勝手な言い方をしてしまえば、ワタシが見たすべてのステージに通底したのは、「業」と言い換えることのできる人間の尊厳であったようにも思ったのだ。もちろんその「業」を「罪」に置き換えることをワタシは否定しないし、そうした意味では観客もアーティストも主催者もすべてが共犯であったことは言うまでもなく、これから先何らかの罪を負わねばならないとしてその誹りを受けることから逃げるつもりはないという決意を告げるべく、ワタシが見たすべてのアーティストはそのステージから観客席へと空気を震わせていたように思っている。帰宅後に受けたPCR検査でワタシは陰性だったけれど、東京都であれば無料で受けられる場所があるので参加者はその責任として査を受けて欲しいと思う。どんなことより優先すべきはあなたとあなたのまわりの人たちの生命である。


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2021年08月18日

ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結/盗人にも五分の魂

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※ある展開に触れてしまっています

凶悪なヴィランとしての決定的な欠落や危険な過剰がいっさい見当たらない、開きっぱなしで焦点の合わない瞳孔とみすぼらしくすり切れた体毛に身をつつんで、実存が一度でも彼に宿ったことがあったのだろうかという呆けた風でただそこに居て宙を見つめ、ではいったいその中にどんな特異能力を宿しているのかと言えばそれを誰も知らぬまま、子供を27人殺したという最悪のプロフィールだけが紹介され、あげくに洋上潜入作戦(しかも囮チーム)に徴集されながら彼が泳げないことを誰も知らず投下された水中で溺死したウィーゼル(ショーン・ガン)の、劇中ぶっちぎりで救いようなくバカでクズでゲスな扱いにはそれなりに気を惹かれはしたものの、その後くり広げられるバカでクズでゲスたちがいつしか救われていく鬼畜大宴会に少しだけ涙ぐんだりしているうちに、薄汚れたイタチのことなどすっかり頭からけし飛んでいたものだから、打ち上げられたウィーゼルの溺死体を映すポストクレジットシーンに何でいまさらこいつが?と訝しんだ瞬間、海水をげふっと吐いて蘇生したウィーゼルは虚空に通じる両眼をかっと見開いてやおら起き上がり、テケテケトコトコと砂浜を密林に向かって小走りで消えていったのだ。既に政府のデータベース上では死亡扱いとなっているウィーゼルは図らずも自由の身となったわけで、ああジェームズ・ガンはそうやってウィーゼルに自身を投影していたのだなあと、ドブネズミが世界を救う物語を爽快かつ痛快に語り終えて満場の拍手喝采をもらった後で、それを宣言しておかずにはいられなかったジェームズ・ガンの一つ二つ三つねじれた矜持を見たようにも思ったのだ。バカでクズでゲスだった自分への報いは甘んじて受けるし、悔い改めるために必要なことは何でもしよう、ただ俺から映画だけは取り上げないでくれないか、それがなかったらそのまま俺は溺れ死んでしまうから。俺を嫌いなあなたが俺のつくる映画を嫌いになるのは仕方がないし、それは当然だ。でも俺には、もう一度あなたが好いてくれるような映画を撮り続けることしかできないから、死の淵から蘇ってひとり走り去っていったウィーゼルがまた子供たちを殺しまくるのか、今度は子供たちを笑わせるのか、今はその先の彼にチャンスを与えてやってはくれないだろうかと俺はお願いしたい、という懇願に耳を貸すのも、かつて彼を断罪した人たちのその行為に生じる責任の一部だとワタシは考える。何よりこの映画は、ハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)もブラッドスポート(イドリス・エルバ)もラットキャッチャー2(ダニエラ・メルシオール)もポルカドットマン(デヴィッド・ダストマルチャン)もキングシャーク(シルベスター・スタローン)もフラッグ(ジョエル・キナマン)も、そしてピースメイカー(ジョン・シナ)でさえも、すべてその譲れない矜持をめぐる物語であったからこそ、呆けたように笑いながらも気がつけば少しだけ胸がつまっていたのではなかったか。ジム・キャロル「ピープル・フー・ダイド」が爆音で鳴らされた瞬間、いったいいつ以来だったのか全身を吹き抜けたライトタイム/ライトプレイスの至福に、泣かないワタシがぐらついた。
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2021年08月14日

すべてが変わった日/我らは廃馬を撃つ

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※知らない方がよい内容に触れています

マーガレット・ブラックリッジ(ダイアン・レイン)とブランチ・ウィボーイ(レスリー・マンヴィル)の2人の女性について言えば、陽の光を当然のものとしてそれが照らす道を生きてきたのか、それは求めなければ与えられないものだったからいつしか必要としなくなったのか、その違いに善と悪、正義と狂気という付箋を貼り付けてしまうのはあまりフェアとは言えない気がしている。それよりはここで行われたのが互いの正当性をめぐる激突であったこと、そしてそれら正当性が共に在ることを赦しているアメリカの混沌が彼の国の成熟を妨げ続けてきたことを、寓話と言うにはあまりに逃げ場なく苛烈に語ることに監督&脚本のトーマス・ベズーチャは憑かれてしまっている。彼が脚色した原作が同じ道をたどっていたのかどうかはわからないけれど、ここにあるのはコーマック・マッカーシーが「ブラッド・メリディアン」で見通した、暴力が初めにあったとするならばそれは神の創造物にちがいなく、ならばそれを私たちは崇拝しなくてもいいのか、というアメリカの原風景に連なる光景だったように思うのだ。物語の性質としてブランチの内部は短く凝縮して描かれているけれど、マーガレットの密やかだけれど烈しい屹立については、冒頭で孫を沐浴させるローナ(ケイリー・カーター)から赤ん坊を半ば強引に奪いとってうっとりと湯浴みをさせるその表情と、その背後で冷ややかに義母を見つめるローナのカットにしのばされているし、そもそもがそんな風にしてブラックリッジ家におけるローナの序列を隅へと追いやったマーガレットの独善が、ローナの不幸な再婚を呼び寄せたことは言うまでもないだろう。ピーター(ブーブー・スチュワート)に対する理解と愛情の示し方にも明らかなように、マーガレットにとって他者との関係は馬を馴らすことと変わらぬ力の伝達であって、その力の絶対値においてマーガレットとブランチは鏡像の関係にあったともいえるように思え、マーガレットにショットガンで吹っ飛ばされるブランチの最期の言葉が「どうしてなのよ(Why?)」であったのも、あんたとあたしは交わるべきじゃなかったのになんであんたは一線を越えたのよ、という断末魔の疑問符だったに違いないと思うのだ。イノセンスの無自覚な暴力性が世界を泥沼にひきずりこんでいくアメリカの修羅をマチズモのくびきから逃れた地平で捉えなおす野心とその震えるような達成を果たしてこの監督がどこまで確信していたのか、それぞれに罪深きものたちが互いを潰しあって生き残った蠱毒がアメリカのスピリットをずっと更新してきたことを告げるラストの、硝煙と返り血が彩る寂寥こそをアメリカのポートレートと綴る、S・クレイグ・ザラーもそこに浮き沈みする潮流へトーマス・ベズーチャが合流したのは間違いのないところだろう。ケヴィン・コスナーの右手指が手斧で切断される映画がいまだこの世界に存在しうるのだ。
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2021年08月11日

明日に向かって笑え!/気分はもう闘争

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フェルミン(リカルド・ダン)が感情の発火装置としてある一方、生まれついてのアナキストを自称するアントニオ(ルイス・ブランドーニ)は「われわれはこうしてアナキズムの父ミハイル・バクーニンの夢を追いかけている。個人は国家とその制度を超越するのだ」と、これが復讐ではなく正当な闘争であることを絶えず謳い続け、ファン・ペロンの時代にひととき労働者の楽園を夢見たロロ(ダニエル・アラオス)は飼いならし続けた屈託をペロン主義への憧憬として静かに解き放ち、そもそもの発端が農家の保護と雇用の創出を目的とした農協の再建であったことを思い出してみれば、政府の下部組織としてではない独立した共同体の再構築に伴う闘争の物語として、トーンは違えど『バクラウ 地図から消された村』に通じる“無政府主義の季節”が見て取れた気もしたのだ。もちろんここに『バクラウ』の血なまぐささはないけれど、最小限に止めるはずだった発電所の爆破が、雑ででたらめな作戦のため発電所のすべてを吹き飛ばしてしまっていて、嵐の夜に市中の全域を復旧不可能な停電に陥れた結果として予期せぬ不幸に堕ちた人間は果たしてどこへ消えたのか、この集団がいつしか纏ったのかもしれない薄っすらとした狂気も含め笑い飛ばすのが、特にアントニオにおけるマナーではあったのだろうし、物騒な手段に訴えるのは問題外として、アティテュードとしてのアナーキズムで自衛すべき時代の只中にいることを実感させられてばかりの世の中にあっては、それが健康的にすら思えてしまうのだ。とはいえアントニオがバールを振り回す代わりにいったい何をしたか、あれはこちらのそんな物騒を見透かした上でのクールダウンだったのだろう。俺の敵は国家でも政府でもない、あんたら益体もない大人たちだよ、とエルナン(マルコ・アントニオ・カポニ)が冷ややかに見舞う正義と悪のうっすらと苦い中和がカウンターで効いている。
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2021年08月05日

返校 言葉が消えた日/バック・トゥ・ザ・トーチャー

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過去を語ることを怖れるあまりそれを亡きものとしようとする時、葬られんとする過去がそうはさせじと現在を道連れにする。そんな時代と精神の暗闘が生み出す恐怖の在りかをえぐり出す必然をホラーというジャンルに託した野心と、なによりその当事者性こその哀切と痛切と使命感に傍観者の胸の奥が揺さぶられる。地政学上の継子として翻弄されてきた台湾を想う時、この白色テロの時代が日本の統治から連なるうねりの先にあることは言うまでもなく、その悲劇とワタシたちとの距離をいったいどう掴めばいいのか、その時代に生きた人たちが未来や希望を求めては打ちひしがれていく作品を見るたび、傍観者としてのワタシはことさら心が乱れてしまう。自由の闘士として曇りなく描かれる読書会のメンバーに心ならずも引鉄を引いてしまうファン・レイシン(ワン・ジン)だけが彼女を覆う鬱屈の背景をその家庭に描かれていて、社会に石を投げる前に自分と闘わなければならない18歳ですらが否応なしに巻き込まれていく政治の季節がいかに容赦がなかったか、殉教の蒼い恍惚すら知らないまま贖罪を果たさねばならなかったファンの屠られた青春がそこかしこに打ち棄てられていた時代を新たに語り継ぎその鎮魂としたことで、永遠に一人で目をさまし続ける放課後の教室からファンを解き放ったラストに、ひと時とはいえワタシまでもが救われる。原作のゲームをプレイしてないのでその構造はわからないけれど、ここではファンが囚われた煉獄を学校に置き換えて視覚化し、その中を彷徨する彼女に立ち昇るフラッシュバックをゲーム内の実写ムーヴィーとしてちりばめながら、それをファンが串刺して時間軸の再構成をすることでサスペンスを抜き差しならない角度へと尖らせていく寄る辺のなさにおいて、ゲーム原作の実写化としては『サイレントヒル』の達成を思い浮かべたりもした。『怪怪怪怪物!』がそうであったように、恐怖=テラーは社会の忌まわしい反映であるという大前提を死守しつつ、そこに巣食う深淵の怪物を繊細かつ匂い立つ露悪で娯楽に幻視する確信と志の高さにおいて台湾ホラーが開拓しつつある未知がワタシは眩しくて仕方がない。
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2021年07月30日

最後にして最初の人類/星が継ぐもの

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未来から過去へ向かって放たれるメランコリーの在り処を、『メッセージ/Arrival』の一卵性双生児としての今作に探して見つけた気がしてしまう。最後の人類として、既に人間としての個別の感情を超えた存在であるはずが、それをワタシたち最初の人類に伝えようと意識を翻訳していく中で次第にこみ上げてこぼれ落ちる喪失への悲嘆は、最終的にワタシたちは存在を運命づけられた生命であることの独白でもあったように思える。石化した結晶のように映るスポメニックは果てしなく巨大な宇宙船の遺骸のようでもあり、そうしたミクロとマクロの交錯によって意識の正規化が真空の静けさのうちに行われていく。ヨハン・ヨハンソンの手がけるサウンドトラックが、感情の増幅ではなくそれを結晶化してその内部に共振する揺らぎでショットを覚醒していたことを考えると、この作品世界こそが彼の原風景であったようにも思え、ユートピアよりはこの宇宙に終焉があることを想像するのだというヨハン・ヨハンソンの幻視ならぬ幻音の永遠なる欠損が、この世界のバランスを少し狂わせたのだとティルダ・スウィントンが囁いた気がしてならないのだった。
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2021年07月23日

プロミシング・ヤング・ウーマン/たったひとつの冴えたXXかた

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※未見の方スルーを強く推奨

ポール・カージーでもハーレイ・クインでもない、カサンドラ/キャシー・トーマス(キャリー・マリガン)は“極めて前途有望な若者”だったからこそ、キャシーをキャシーたらしめるその豊かな知性と細やかな感情が、傾いだ世界の矯正係として送り狼を狩りたてるハンターへと彼女を仕立てたのだろう。しかし、復讐の呪いと狂気の快楽の間を危うく行き来しながらそのどちらにも喰われてしまうことなく、内部の激情を倦怠に隠しながら綱渡りするキャシーのメランコリーは、ほとんど崇拝といってもいいニナへの思慕というよりはサヴァイヴァーズ・ギルトのそれにも思われて、自罰の証明としての実質的な自殺とそれによってアル・モンロー(クリス・ローウェル)をニナへの供物とする究極のトラップをキャシーに発動させたのが、一度は彼女を救済するかに思えたライアン(ボー・バーナム)にすらぬぐえない男性性の歪みであったことを考えてみた時、むしろキャシーにとってそれはグリーン弁護士が言うところの啓示だったのではないかと、山奥でたった一人灰となって土に還ったキャシーにそよぐ風の静謐が、ようやく訪れた彼女の安寧を祝福した気もしたのだ。しかしこの物語は、カサンドラ・トーマスというかつて前途有望だった一人の若い女性がなぜああして人生の幕を閉じねばならなかったのか、その最期の日々を描いたのはもちろんのこと、それを追うことで施される呪いの話でもあるわけで、ダンスフロアで男たちが踊りくるうオープニング、カメラはその男たちがチノパンに隠す下半身を執拗にクロースアップし続けて、これはお前らとお前らがそこに隠すそれにまつわる物語であってできればあたしはそのすべてを無効化したいと考える、というキャシーの宣戦布告であったことが時を追うに連れ忘れがたく付いて回ることとなる。そしてキャシーの最期を見届けた今、ワタシたち男に刻印されたのは、自称いいやつ(I am a nice guy)はわるいやつ(a bad guy)というシンプルにして強力な呪いであり、その無自覚で無邪気な傲慢によって自身をa nice guyにロンダリングし続ける男たちの罪深さを知れば知るほど、キャシーが放ったこの呪いが彼らの悪性を晒していくのだろうことを考える。エメラルド・フェネルが手がけた『キリング・イヴ』のシーズン3とケイト・ショートランドによる『ブラック・ウィドウ』が共に放蕩娘の帰還と過去の清算であったことを思ってみれば、世界の自浄をあてにしない勢力が既に破壊から再構築に向けた新しいフェーズに足を踏み入れた気もして、この風が追い払った雲の向こうに広がる光景の輝度と硬度をワタシは待ちわびようと思うのだ。この映画の鏡像として『狩人の夜』を映しこむ目配せも芳しく、おぉとなって息を少し深く吸った。
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2021年07月17日

ライトハウス/ケロシン&シガレッツ

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※ネタバレといえばネタバレな記述があります

わしがお前の想像の産物だとは考えないのか。わしもこの島も、カナダの森で膝まで雪に埋もれて凍えながら吹雪の中を彷徨い歩くお前の頭の中の想像の産物だとは考えないのか。とトーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)ががなりたてては、これを胡蝶の夢などと愛でるつもりの勢力に先回りして冷や水をぶっかけるとともに、おれの名前はトーマス・ウェイクだ、トムと呼んでくれと独りごちた瞬間、むさくるしい髭がふちどる異形の相貌とあいまってトム・ウェイクをトム・ウェイツと空耳したこともあって、イーフレイム・ウィンズロー/トーマス・ハワード(ロバート・パティンソン)と二人してくり広げる狂気に関する禅問答のようなやりとりが、ゴシックホラー版『コーヒー&シガレッツ』とでもいうニューロティックなオフビートコメディとして懐に落ちていく気がしたのだ。閉所恐怖症的なフレームの仕掛けよりほか、ここにはこちらを脅かし蝕む実存の深刻はさほど見当たらず、ただひたすら狂気のプロフェッショナルがアマチュアを弄び甘噛みする露悪のスラップスティックを光と影の悪魔的な移ろいが催眠していくばかりで、それを高みの見物とばかり桟敷席で酩酊する居心地が悪かろうはずがないのである。屹立した燈台は言うまでもなくセリフにちりばめられた男性器に関する卑語や隠語が指し示すのは、イーフレイムを捉えて離さないオブセッション、それは彼のホモセクシャルというよりはより直截的なソドミーへの渇望と嫌悪にも思え、イーフレイムは何ゆえ本物のイーフレイム・ウィンズローを殺さねばならなかったのか、そのフラッシュバックにおいて美しい光の中で煌めくように描かれる彼の殺したイーフレイムの姿には深夜の告白が明かさない理由が潜む気もしたし、人魚の妄執を手助けにイーフレイムが発散させ続けねばならなかったリビドーの正体はたった一度ウェイクとのニアミスとして描かれて、彼を生き埋めにすることでそれを封じ込めはするものの、他に見咎めるものもいなくなったことでついにそびえ立つ灯台のてっぺんに昇ってしまったイーフレイムは、まるで宇宙の深淵からほとばしるかのような光の精に貫かれて目を焼かれ半死半生で恍惚と岩場に横たわり、それが本懐でもあったかのように片目のカモメとその群れがついばむにまかせるように肉体を差し出してみせるのだ。ただ、あのラストショットに悲痛や悲惨の影が差さないのは、理性と野生、自然と文明の境目がまだまだ荒削りで、うっかりそこに立つとこの世の真理が超高速で頭をかすめていく時代だったからこそ、イーフレイムですらが薄汚れたイカロスとしてたった20メートルとはいえ墜落の栄誉にあずかったように思ったからで、まあそういうことってあるよね、と思わず象さんのポットを真似てみたりもしたのだった。生き埋めにされるウェイクが次第に顔面が土に埋もれつつ長広舌の長回しでイーフレイムにプロメテウスの呪いを吐き続けるシーン、口の中にあとからあとから土が入りながらそれをもぐもぐと咀嚼すらしながら朗々とセリフは澱みなく、実はあのクロースアップで顔にかけられるのは微細に砕いて土くれに固めたチョコレートか何かではないのかとあたりをつけながら観てみればウィレム・デフォーの顔が心なしか嬉しげで、ああこの土がチョコレートだったならと心を飛ばすその益体のなさこそがいつしか人を灯台に昇らせるのではなかろうかと、それだけは確かに理解した。
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2021年07月09日

ゴジラvsコング/ただちに東京を破壊せよ

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“最後にラドンがみせるあのしぐさをギリギリのラインにとどめて欲しいのが正直なところではあって、その巨大さと破壊の力に神々しさを宿らせておくためにも人間臭さなるものは可能な限り排除してもらいたいと考える”などと前作につけおいた注文が開口一番笑い飛ばされてはいるものの、しかしそれは、こんな底の抜けた便所の落書きみたいなシナリオでケツを拭かなきゃならないのであれば、手っ取り早い擬人化でドラマをショートカットして逃げ切るしかないと判断して私は今ここに立っています、というアダム・ウィンガードの誠実なマニフェストでもあったわけで、既に今季は「ゴジラS.P」で滋養あふれるゴジラ成分を摂取した余裕の身とあらば、かまわぬ良きにはからえといった気分でそれに手を叩くことも厭わないのである。それでもアダム・ウィンガードの爪痕を見つけるとするならばネオンカラーで彩った香港摩天楼と、あの子が乗っていやしないかと船内をのぞいて確認した後にHEAVEをぐしゃっと潰すコング、そして白目をむいてプルプルと震える小栗旬といったあたりで、人間ドラマは主役2人にまかせてあとは全員モブでいこう、といった低予算映画的な刈り込みがモンスターバース最短の113分というランタイムにも現れて、ジャンルへのノンシャランが絶妙な軽さと爽快を誘った点で、三池崇史が怪獣映画を撮ったらこんなだろうなとそのアルティザン的なドシャメシャに思いがけず肌が合ったのだ。それにしても、レジェンダリー案件ゆえなのか日本とアメリカの間をとってのことなのか、最終決戦の場が香港であったこと、そしてその摩天楼が壊滅的に破壊されるのをこの目で視ることの胸のざわつきは、ワタシたちは好むと好まざるとにかかわらず社会的な生き物で、その結果として政治から逃れることは困難であるという現実を不意打ちされたせいだったのだろうし、あそこで暴れているのが核と黒人奴隷の歴史が産み落としたイドの怪物であることを思い出してみれば、彼らが共闘して滅ぼしたあの不細工な金属の塊はワタシたちそのものだったに違いないのである。それよりは、主人の顔色をうかがって風向きを読むことに長け、涼しい顔で遁走に羽ばたき姿すら見せぬラドンこそがワタシたちにふさわしいのかもしれないけれど。
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