2022年10月10日

LAMB ラム/ 「佯」【音読み:ヨウ 意味:@いつわる。だます。みせかける。Aさまよう。】

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※いろいろと触れています

オープニング、クリスマスにして懐胎の夜(まあそういうことなんだろう)を睥睨する主観映像を網膜に刻んでおきさえすればこの物語を支配する理(ことわり)を見失うこともなかったわけで、「禁断(タブー)が、生まれる」という惹句の品のないミスリードのおかげでアダ誕生の瞬間になぜマリア(ノオミ・ラパス)はイングヴァル(ヒルミル・スナイル・グドゥナソン)の超自然的な不貞を疑うことをしないのかと、品のないワタシはいぶかしげな目つきを誘われたことに軽い苛つきなどおぼえたりもしたのだ。しかし、その後ごく緩やかに明かされていく夫婦の深く静謐な哀しみの理由を知るにつれ、夫妻が一も二にもなくアダをわが子と溺愛する姿も、人知れず手に取ったライフルでマリアがおこなった凶行も、アダという幸福の妖精による催眠的な酩酊のうちにいつしか囚われてしまうわけで、それに耽溺しきったワタシたちはラストで鉄鎚のごとくふりおろされる彼方からの理によってどんでん返しのように天地を逆転されてしまうこととなる。その理とは冒頭の主観映像の視点の主である羊男がその血を繋ぐために施す托卵の行為に他ならず、その半羊半人の成り立ちゆえ雌羊にはおぼつかない赤子の生育過程を人間に託して巣立つまでの時間を、そんなこととは露とも知らぬお人好しのワタシは同じようにつけこまれた夫婦と共にアダの時間として見守っていたわけで、羊男によるイングヴァル殺しはマリアによる雌羊(アダの母)殺しの代償ということになるのだろうし、マリアの命を奪うよりは彼女の愛する者を2人同時に奪い奈落の孤独へと突き落す母殺しの罰は、羊男の世界においては当然にして最上級に苛烈な量刑であったに違いない。にも関わらず意外なほど後味として鉛玉を食らった気がしないのは、羊男にとってはごく自然な摂理が人間の絶望や哀しみを一顧だにしないまま遂行されていく冷徹の清々しさに加え、なにより人間の卑しい好奇に晒されぬままアダが真の人生に戻っていく後姿にハッピーエンドを見た気もしたからで、この国にあって件(くだん)の悲しく呪われた運命を知る身としてそれはなおさらなのだった。
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2022年09月07日

NOPE/ノープ/そんな目でおれを見るなよ

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ストレンジフルーツ・ホラーとでも呼べばいいのか、アメリカで黒人として生きることそれ自体がホラーなのだというその恐怖を悪夢のメタファーで描いてきたジョーダン・ピールが、それらにより暗喩の深度と洗練を施すことで、例えば『トレマーズ』的な表層で成立させることもスレスレで可能なラインを狙ったアクロバットによって、何かであって何かではない全体性の領域に図らずも近づいたあげく、禁忌の香る時空の裂け目を縫い付けて閉じるラストにはこれまでにない清々しさが満ちていたように思うのだ。OJ(ダニエル・カルーヤ)は、ビジネスのため白人相手にへりくだる父オーティス(キース・デヴィッド)に交錯した感情を抱いていたのかもしれず(あらかじめ目にコインが突き刺さると言う完璧な死者を見つめるオーティスの透徹)、必然的に白人が雇用主となる職場で相手の目を見て話すことをしないOJのそれは処世術であると同時にある種のレジスタンスにも思えたわけで、見なければ喰われないというGジャン(ジュープの言葉を借りるなら"the Viewers")に対する対処法をOJがいち早く手に入れた流れと、しかし見ることをしなければ倒せないというジレンマを妹エメラルド(キキ・パーマー)のピンチを救う咄嗟の行動で乗り越えて以降、この兄妹のコンビネーションがGジャンを退治するまでのストレートなガッツと熱量はジョーダン・ピールの新たなナラティヴにも思えたのだ。一方、その視線の呪いにおいてOJと対比して描かれるジュープ(スティーヴン・ユアン)は、かつて自分が見たあまりに圧倒的ゆえ世界の絶対値として映った暴力、それも人間以外の存在によって施されたがゆえ理解のブレーキの外れた純度の高い一発に自分の人間の奥底を破壊された男として生き続け、生と死が交錯した瞬間の絶望とはほど遠い昂揚と恍惚の正体を"the Viewers"(あの時ヴィニールクロスの向こうから彼を見つめたチンパンジーを彼に呼び起こしたのは言うまでもない)に見つけようとしたのではなかったか。しかしジュープはその動機と視線のよこしまにおいて逆襲され葬られなければならない運命にあるわけで、その姿は幸福な殉教者として描かれるホルスト(マイケル・ウィンコット)との対比においても念押しされジョーダン・ピールの切り裂くような潔癖の証左に映った気もしたのだ。近年の『すべてが変わった日』や『イエローストーン』『アウターレンジ』などにおいて、愛と暴力に裏打ちされた現代西部の正義をネイキッドなアメリカの再定義と試みる潮流が確実ある一方、決して牧場主にはなれない有色の者たちが周辺で馬を調教し代替えとしてのテーマパークを興すその姿をジョーダン・ピールはアメリカのエレジーとして綴ってもいて、だからこそ生き残ったOJには笑顔を、生き残れなかったジュープにはほんの一瞬の安らぎ(ああ全てはそういうことだったのか)を最期の瞬間に与えたように思うのだ。小さかったころ熱を出すたび、布団のような四角いものが次から次へと飛んできては自分に覆いかぶさってくる悪夢を見たことを、最終形態のGジャンが憤怒であらわにした口吻を見て久しぶりに思い出し、昨日見た夢も覚えていないのにそんな数十年前の夢をずっと忘れずに覚えているのは、自分の記憶の中で走馬灯のための取捨選択は既に終わっているのかもしれないなと、この映画の後味と相まって切なくも澄んだ気持ちになったりもしたのだった。
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2022年08月16日

ジュラシック・ワールド 新たなる支配者/あれ、おめえヘソねえじゃねえか

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脱出をはかるべく即席の松明をかかげて坑道を進むグラント博士(サム・ニール)が、その松明の火が思いのほか長く伸びて自分に届こうとした瞬間に小さく顔をそむけて身をよじるその姿の、リアルではあるけれど演技とはいえない、かといってNGテイクにもならない益体もない時間がいまだ記憶に残っているくらい、遺伝子操作という禁断の領域に手を突っ込んだ人間がその罪と罰として在る恐竜たちとどう決着をつけるのか、このフランチャイズが全6作を経てたどりつくその答えを予感させた前作ラストの荘厳は跡形もなく消し飛んで、この映画の目的がスタジオへの納品であることを隠しもしない取ってつけたような時間だけが神経症的なひたむきさで切り貼りされていたのだった。原作からすればかなり後退したとはいえパーク3部作にはうっすらと通底した、生命の進化の歴史から消えた恐竜を召喚することでそれを人間の行き過ぎたエゴの象徴とする自己批判のトーンは、ワールドのリブートに至ってあっけなく霧散して大恐竜アトラクションの精度を高めることに躍起となるばかりで、それでも『ジュラシック・ワールド 炎の王国』でバヨナがなんとか画策しようとした“フランケンシュタインの怪物としてのインドミナス・レックスとその鏡像としてのラプトルという構図のメランコリー”すらもどこ吹く風と“共存というおためごかし”で逃げ切りをはかる志の低さというか欠落には途中で何度か腕時計を見る始末で、かつてジョン・セイルズとウィリアム・モナハンが「4」のシナリオに設定した人間と恐竜のハイブリッドこそがメイジー(イザベラ・サーモン)ではなかったのかと、そもそもが納品仕事のために雇われたに過ぎないコリン・トレヴォロウにこのフランチャイズの幕引きなどできるはずのないことは『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』から彼をパージしたルーカスフィルム&ディズニーの判断にも明らかだったように思うのだ。スティーヴン・スピルバーグ、ジョー・ジョンストン、J・A・バヨナといった幻視に焦がれる監督たちからすると、トレヴォロウは撮らずにはいられないショットも語らずにはいられない物語も持ち合わせていないわけで、それは例えば、今作でオープニング(共存前)とエンディング(共存後)にインサートされる恐竜のいる風景にいったいどれだけの違いがあるのか、その間に繰り広げられた140分の旅がワタシをどこへも連れて行ってくれないものだから恐竜たちを見つめるワタシの視点が更新されるはずもなく、恐竜は人間が人間を断罪するツールの役割しか与えられていない。それどころか今作において黒幕となるルイス・ドジスン(キャンベル・スコット)の足元をすくうのは恐竜どころか黙示録気取りのイナゴであったという、無い袖を振る男トレヴォロウの愚策はそこにこそ極まっていたように思うのだ。明らかに『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』のヴァネッサ・カービーをなぞったと思しき闇商人ソヨナ・サントス(ディーチェン・ラックマン)も今作のキーワードとなる“とってつけたような”キャラクターとして冷やかな目に晒されたまま、誰の記憶にも残らないまま忘れ去られていく。そんな“とってつけたような”人々の群像にあって唯一一貫しているのはエリー・サトラー博士(ローラ・ダーン)で、人生の最終パートナーとしてロックオンしたグラント博士を我が物にするあけすけな貪欲だけが恐竜に太刀打ちできることを、30年を経て見事に証明してみせている。葬られたジョン・セイルズのシナリオを基に、次第に人間離れしていくメイジーがシーザーとなって王国を築き、年老いたウー博士を血祭りにあげるエピソード7をマット・リーヴスが撮る日を今は待ちたい。
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2022年08月07日

ブラック・フォン/ハローハロー、ハウ ロウ

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ソリッド・シチュエーション・スリラーとしてそのほとんどはフィニーが地下室に放り込まれて以降の時間で推移するジョー・ヒルの原作に、スコット・デリクソンとC・ロバート・カーギルが書き加えたブレイク家の物語、特に姉から妹へ書き換えられたグウェン(マデリーン・マックグロウ)の造形とその獅子奮迅の活躍によって、まるでスティーヴン・キング原作であるかのような必殺の泣き笑いで走り抜けるメメント・モリを手に入れたことで『デビルズ・バックボーン』にも通じるゴースト・ジュヴナイルの傑作へとたどり着いている。状況のエッヂを立たせるよりは状態のテクスチャーを敷き詰めるにおいて才を発揮するスコット・デリクソンにあっては、このジョー・ヒルからスティーヴン・キングへの脚色は狙ったというよりはスタイルの成立が連れてきたごく自然な結果に思われつつ、「パートリッジ・ファミリー」「悪魔のいけにえ」「燃えよドラゴン」「ティングラー」「チーチ&チョン」といった時代のシグネチャー使いもいつしかキングのセンチメントを息づかせて、そもそもこのジャンルに殉じた者でキングの子供たちでないものがいるのかというリスペクトフルな問いかけにも思えたりもしたのだ。一見したところ自身の屈託をアルコールと虐待に吐き出すタイプにも思えた父テレンス(ジェレミー・デイヴィス)も、彼が核兵器工場で働いていることや、彼の読む新聞の軍人年金に関する記事のインサートによって、復員兵としての過去とその影が彼や今は亡き妻にしてフィニーとグウェンの母を覆ってしまったのかもしれない背景をしのばせたあたり、共闘する兄妹が子供たちの敵に復讐する物語の悲観と楽観の余白として有効に作用したのではなかろうか。その行為以外に背景めいたことが描かれないグラバー(イーサン・ホーク)を、トム・サヴィーニ謹製のマスクをかぶりフィニーが罠にかかるのを待って椅子でうたたねする時のはだけたシャツからのぞかせた邪悪のみっちりとつまった腹の、しかし滑稽な曲線の一発で人外の底知れぬ始末の悪さだけを底上げする監督と俳優の企みに顔もほころんだし、かつては蛇蝎のごとく嫌われるその爬虫類性で忘れがたかったジェームズ・ランソンもここしばらくはヒールから転じたところで彼の本質に沁み入ることも多かったのだけれど(たとえば『囚われた国家』)、ここではコメディ・リリーフとしてあちらとこちらをノンシャランに行き来することで、子供たちが痛めつけられる物語の陰鬱を絶妙に晴らしてみせて影のMVPとなっていたのは間違いないだろう。そして何より、この世界から連れ去られ消えていく子供たちの魂を鎮めるために、すべての子供たちの復讐を請け負ったフィニーがグラバーを叩きのめすその姿を爽快な熱情で描く勧善懲悪の昂揚があるからこそ、イーサン・ホークは両義性の言い訳などない純然たるヴィランに身を任せたのではなかったか。その手を封印したかと思われたところで炸裂するジャンプスケアに思わずくぐもった声が漏れたその瞬間、MCUで縛られた両手両足を存分な自由で振り回すスコット・デリクソンの浮かべる満面の笑みが透けたように思えたのだった。繰り返すけれど傑作。
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2022年08月06日

X エックス/この道はいつか逝く道

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私にふさわしくない人生を私は認めない、と呪文のように繰り返すマキシーン(ミア・ゴス)の、単なる上昇志向というよりはここではないどこかを手に入れることの性急な希求へ何が彼女を駆り立てるのか、物語の最後に彼女がキリスト教原理主義者の宗教二世であり、そこからの逃亡者にして反逆者であることが明かされつつ、老婦人パールが次第に隠さなくなるマキシーンへの執着が、世界がふりかざす不可抗力によって人生を狂わされたことへの屈託と怒りにおいてマキシーンに感応したパールの暴走する共鳴であったことが告げられていく。レモネードのシークエンスでパールがマキシーンを認めて以降、カットバックやスプリットによって二人が潜在的な鏡像であることを、あくまでパールの妄想の産物として観客に示すことでテラーとサスペンスを維持しつつ、なぜマキシーンはああまで苛烈なやり方でその鏡像を破壊しなければならなかったのかを最後のワンカットでバラし、これって(パパも言ってる)聖なる干渉(Divine intervention)ってやつよねと口元をほころばせるマキシーンに、『パール』をプリクエルとする3部作のシークエルを見ることはたやすいだろう。どちらかといえば一撃で屠られるクルーの面々に対し、嬲るように息の根を止められる監督のRJ(オーウェン・キャンベル)はジャンルムーヴィーをアートムーヴィーに再構築(という名の偽装)するお題目を掲げた間抜けなスノッブと描かれて、そんなあてこすりをA24作品に刻印しつつひたすらスラッシャーに徹する一方で、怪物の深淵をのぞかせてはその呪いを解こうとする試みによって、老いさばらえたかつてのファイナル・ガールと若くして自覚なきファイナル・ガールがいつしか不倶戴天の敵として激突するラストに至っては、タイ・ウエストの新たな野心とその更新の高みとして諸手を挙げて讃えるしかなかったのである。すでに『パール』も傑作の予感しかしない。
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2022年07月22日

グレイマン/すずしい顔してババンバン

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※内容に触れています

義理や矜持のナルシスティックな奴隷に堕さないダンディズムと、しかしそのために破滅するだろうことを人生のある時期に受け入れているニヒリズム、そして何を考えているのかうかがわせないながら彼は答えを知っているにちがいないと確信させる不穏な信頼と全能の感覚。それらライアン・ゴズリングの眠狂四朗/市川雷蔵的な資質が、ルッソ兄弟の極めて硬質でタクティカルなアクションを白光と白熱の炎で照らしてみせている。『ウィンター・ソルジャー/シビル・ウォー』においてその清冽な合理性を快楽としていた白兵戦や市街戦が、ここでは物語の要請という枷を外されたことでさらに異常な精度の殺傷能力を兼ね備えていて、わけてもプラハの市街戦はシエラ・シックス(ライアン・ゴズリング)をある一点に釘づけにして三つ巴の大乱戦を彼の視点でスイッチすることで、今何が起きているのかをまったくストレスなく観客に理解させながら、シネマスコープを十全に生かした左右からの切り込みと水平の疾走によるその一つ一つがクライマックスとなるような見せ場をシームレスにつるべ打ちする銃声と爆発と跳弾のハーモニーはいつしかドラッギーですらあったのだ。血は流しても汗もかかない冷ややかな顔色のまま、致命傷を寸止めしては死地を脱するシックスの粋といなせ、色恋の気配にすら唾を吐く目つきとガンさばきでシックスに貸しを作るほど暴れまくるダニ・ミランダ(アナ・デ・アルマス)、最凶を示しつつ義理と矜持に生きる殺し屋として今後のキーパーソンになるだろうアヴィク・サン(ダヌーシュ)のアンサンブル誕生を謳う名刺代わりは、俺たち007撮れるんだけどというプレゼンも兼ねるルッソ兄弟のぬかりのなさ。ダニに助けられたシックスが、「ケガは?」と聞かれて「おれのエゴが少し傷ついたよ」というボンドごっこも、ここを起点に完全イーヴンでダニとシックスの猛烈な共闘が始まっていく。これを撮った君らは最高だが、スクリーンに忠誠を誓わないところは少し気に入らないねと、目だけは笑っていないトム・クルーズの笑顔が目に浮かぶ。
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2022年07月19日

エルヴィス/ぼくもプレスリーが大好き

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レイス・ミュージックであったブルースと、アイルランド/スコットランド移民から生まれたカントリー・ミュージックの融合が生み出したロックンロールを爆発させたエルヴィス・プレスリー(オースティン・バトラー)が、そもそもその最初から、黒人と移民という外縁からの未知で新鮮な刺激をエスタブリッシュが消費する搾取のシステムに囚われていたことをその悲劇としつつ、爆発するロックンロールの体現者としてのエルヴィスとグロテスクなシステムの体現者としてのトム・パーカー(トム・ハンクス)を契約された父子として描く試みは、たとえ一面的なカタルシスを手放すことになったとしても、それはエルヴィスの人生に対して尊敬と忠実を手放さないための誠実な回答であったように思うのだ。尋ねれば、おれはあの日聴いた「ザッツ・オールライト・ママ」を、あの日見たアーサー・クラダップみたいに歌いたかっただけなんだと答えるだろうエルヴィスがアメリカの宿命である父殺しを果たせるはずもなく、それを見抜いていたパーカー大佐もまた自身の境遇ではたどり着けるはずもないアメリカンドリームの欺瞞を知ればこそバックドアをくぐり抜ける術に長けるしかなかったわけで、世界中から責め立てられたパーカー大佐が絞り出した、私が彼を殺したわけではないという独白の苦渋に同情はしないけれどそれを理解はしたいとワタシは考える。パーカー大佐に命じられた“政治的な”対応への回答に窮したエルヴィスが思わず足を向けたメンフィスのビールストリートで、まるで凱旋した地元のヒーローを迎えるように色めき立つ黒人たちからの「きゃあ!エルヴィス」「よお、エルヴィス」といった声に気の置けない風な身のこなしで応えながらBBキングのいるクラブ・ハンディへと向かうエルヴィスの、おそらくは劇中で最も颯爽と軽やかな足取りこそが彼の幸福な真実の姿であったことをバズ・ラーマンは伝えたかったように思ったし、彼にとって人種は越えるべき壁でも渡るべき分断もでないその屈託のなさこそが彼にスペシャルをもたらしたと同時に、壁や分断をシステムとする人々にとっては底知れぬ脅威であったこと、そして彼はその両者が出くわしたクロスロードにひとり立って歌っていたことをもっと人々は知るべきだとも考えたのだろう。エルヴィスが夭折した1977年は大西洋の向こうのイギリスでセックス・ピストルズが彼の死から3ヶ月後にファースト&ラストアルバムをリリースした年であって、エルヴィスがRCAと契約して「ハートブレイク・ホテル」「ハウンド・ドッグ」「ラヴ・ミー・テンダー」などを片っ端からチャートの1位に送り込んだ1956年から20年の間にビートルズから何から「いろんなことが同時におこった(ボブ・ディラン)」そのあとで「ロックは死んだ(ジョン・ライドン)」ことにされたのは果たして偶然だったのか、誰が言ったのだったかロックとは疲れた身体に宿る昂揚した精神のことだという言を借りるなら(レニー・クラヴィッツはそれをA burning heart and tired eyesと歌っていた)、最期となったステージでピアノに磔となり冷たい汗をしたたらせながら恍惚とした眼差しで「アンチェインド・メロディ」を絶唱し終えたその時をもってロックは死んだのだと、陳腐で薄っぺらいばかりに思えた物言いに熱く赤い血が漸くにして通った気がしたのだった。
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2022年07月16日

リコリス・ピザ/走る夢をしばらく見ない

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フィリップ・マーロウを名乗るエリオット・グールドが深夜にキャットフードを買いにか、あるいは郊外のウェイド邸を目指してか、リンカーン・コンチネンタルをサンフェルナンド・バレーに転がした1973年のロサンゼルスを、かつてフェリーニが愛と幻想のローマを『フェリーニのローマ』や『甘い生活』でとらえたように、ポール・トーマス・アンダーソンは憂鬱なハッピーと狂騒のペシミスティックを偏執的な編み目でつづれ織っていく。始まってものの数分で、「ぼくは結婚したいと思う女性と出会ったんだ」と弟グレッグ(マイロ・ハーシュラグ)に告げるゲイリー(クーパー・ホフマン)は、5時の鐘が鳴っても家に帰らないアメリカの無垢とメランコリーの象徴として成長を求められない永遠の15歳を手に入れていて、もしここに推進されるべき物語があるとすればそれは、そんなボーイにミーツした10歳年上のガールとしてのアラナ(アラナ・ハイム)の目覚めということになる。ここでPTAが小骨を取り除くように避けたのは、成長という傲慢の香りする二文字を自らが謳う愚であって、相対を参照する生き方を強いられてきたアラナが、ゲイリーに振り回されながらサンフェルナンド・バレーで繰り広げられる、人種、政治、セレブリティ、マイノリティ、そして石油危機をめぐるささやかな地獄めぐりをすることで、自身の絶対性を手に入れるその姿をPTAは自身の投影としていたように思うし、その時の気持ちのまま今も自分は世界を見つめているだろうかという確認の時間がここにはあったようにも思うのだ。だからこそゲイリーとアラナは、かつてPTAがシネマスコープのスクリーンを手に入れた時の喜びを確かめるかのように、笑いながら息せき切ってシネスコの横長を右から左へ、左から右へとサンフェルナンド・バレーの通りを走りつづけるのではなかったか。そうやっていつしか映画の中で映画に溶けていくアラナ(「それって事実なの?ただのセリフなの?」)がその世界に殉じることで手に入れるハッピーエンドの永遠こそはPTAが映画を撮り続ける理由であり、ワタシが映画館で映画を観続ける理由なのだろうと、とても大切で決定的な答えを笑顔であっさりと手渡されて少しばかり茫然としてしまう。生まれ育った街に、屈託を飼い馴らす餌の手に入る映画館やレコード店や本屋があったことの僥倖をあらためて感じつつ、それを語ることがもはや遠い日の感傷や憧憬にしかなり得ない静かな憂鬱を知るからこそ、これまでずっと革新を更新してきたやアルフォンソ・キュアロン(『ローマ』)やケネス・ブラナー(『ベルファスト』)、クエンティン・タランティーノ(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』)といった監督たちがある種の終活でもあるかのように自らの三つ子の魂を映像化する熱情にうなずけもするわけで、だからこそ断絶や喪失を嘆くよりはその先でなお自らを鼓舞するPTAの青春プレイバックが眩しく愛おしくてたまらなく思えるのだろう。ニヤけた女たらしに思われたランス(スカイラー・ギソンド)が「ぼくはユダヤ教の家に生まれたユダヤ人ですが、自分の意志として無神論者となりました。この痛ましい世界に神がいるとは思えないからです。だからこの席であなたたちと共に祈ることはできないのです」とディナーに招待されたアラナの家で彼女の父親に言い放つガッツが好きだ。
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2022年05月31日

トップガン マーヴェリック/地球に飛んで来た男

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エスタブリッシュメントでオール・アメリカン・ボーイな、わけても『タップス』の役柄のその先でアメリカの国威発揚を引き受けた(ように見えた)トム・クルーズと、ケニー・ロギンズがひたすらデンジャーな機能美をシャウトする主題歌もあって、“太陽は僕の敵”だった1986年のワタシの射程に前作が入り込む余地があるはずもなく、誰だったか友人の家でTV放映の吹き替え版を断片的に見た程度で特段の思い入れもないまま今に至り、今回きちんと正対して見直したとて、かつて敬遠した自分を責める理由も特に見つからなかったのが正直なところに思えたし、この時はまだ、トム・クルーズという俳優が若きジョン・ウェインとして星条旗のマスコットとなるキャリアを一蹴し、作家性の強い監督をチョイスしてはその要求に応えることで自分の上限と下限と押し拡げながら、アートとビジネスを両輪に映画を人跡未踏の地へと走らせる馬力とスピードを手に入れる存在となることなどうかがい知れるはずもなかったのだ。そんな類の観客が今作を観てまず思うのは、前作でトム・クルーズを燦々と照らした太陽は今や西へと翳って悔恨と感傷の影を作り出すに過ぎず、しかしトム・クルーズはその太陽の角度も影の濃度も深度もすべてを把握して計算した上で、完璧なメランコリーをアクション映画としてデザインするという高みに挑んでそれを間違いなく達成したように思ったのである。ところでこれが戦闘機乗りの物語である以上敵は確実に存在するわけで、そのあたりの思想や信条については前作に引き続き曖昧にはぐらかしはするものの、今作において極めて重要な役割を果たすF-14がなぜアメリカから遠く離れたあの地にあったのか、前作が公開された1986年に全米を揺るがしたイラン・コントラ事件を思い出してみれば、その皮肉がアメリカに向けられていることに気づかされることにもなるわけで、これがその壮大で茫漠とした国を挙げての徒労の中で命を散らし続けるアメリカの若者たちに捧げたレクイエムとしてあるからこそ、マーヴェリックはチーム全員を帰還させるために我が身を差し出すことも厭わなかったのだろうし、ジョセフ・コシンスキー監督の前作『オンリー・ザ・ブレイブ』もまた“アメリカ”に殉じた者たちへの静謐で荘厳なレクイエムであったことを思いだしてみれば、トム・クルーズによって半ば封印されていたこの続篇がコシンスキーの手に委ねられた理由がうかがえる気もしたのだ。自分もまたいずれ消えゆく存在であることはわかっている、しかしそれは今ではないと、そのプライドと挟持をマーヴェリックに語らせたトム・クルーズではあったものの、それと同時に、夕暮れのサーキットの最終コーナーに突っ込んでいくキャリアのゴールを初めて意識させたそのメルクマールが黄昏を黄金のように輝せてなんだか切なくて仕方がないまま、あの笑顔に目が眩む。
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2022年05月24日

夜を走る/飲んだら殺るな

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何か決定的な分水嶺があったとしたらそれは、連絡先を教えてくれませんかと秋本(足立智充)が橋本(玉井らん)に尋ねた瞬間であったように思え、それまで描かれてきた秋本の像にはまったく似つかわしくないその積極性はそれだけ彼の決死の覚悟ともいえる一歩であったにしろ、望まねば裏切られまいという選んだつもりもないのに選ばされた生き方の中でずっと息を殺してきた秋本が、灯りとすら言えない光明に目を向けた瞬間、すべての均衡が狂い始めることとなる。洗車機に入った車それ自体は動かないものの、ゲート式のブラシが前から後ろへ移動することで車内からはまるで車が動いているように思える錯覚は谷口(玉置玲央)の幼い娘が口にしたそのままで、それは劇中で唯一秋本が自分の考えを自分の言葉で吐露した「自分は何も変わらないのに回りがどんどん変わっていく」というセリフの言い換えであると同時に、その洗車機のシークエンスが最初と最後とで円環する構成からすれば、希望にも至らないほんの少し明るい方へ身じろいだ者に与えられる罰とそれを与えるこの国のディストピアが、善悪というよりは精神の高低もしくは大小によってその横顔を変えながらまるで洗車機のブラシのようにやって来ては消えていくのではなかったか。そうやって無慈悲と絶望のブラシで精神の表皮を削られ続けた秋本が知らず剥きだされた自分に無垢の一触れを受けた時、善く生きようとすることで本性を完成させようとする意志が人間を人間たらしめているのだと、既に手遅れとなった人生にうずくまりながら気づくわけで、何も知らぬまま無痛で消滅することすら許されない秋本がその後に示す遁走の空白がただひたすらに切なくて仕方がない。しかし、その先に絶望だけがあったとしても一瞬の反転がほどこされた秋本にくらべ、欺瞞を如才のなさと言い換えるだけの谷口を待ち受けるのは永遠に続く生き地獄であって、彼が知らぬままその欺瞞も如才のなさもあっさりと妻の美咲(菜葉菜)に更新されていることを知るワタシたちの目には谷口家が偽装する幸福の姿がどう映るのか、ヴィデオ撮りしたホームムーヴィーのように画質も色合いも皮相なラストショットがまとう昏睡した白昼夢の寄る辺のなさは、一介のホラーフィルムを軽々と凌駕したように思うのだ。映画でも現実でも善行は静的に悪事は動的に行われることわりから、殺人や暴力が映画のダイナミズムと相性が良いことは今さら言うまでもないにしろ、あらかじめ帰る家の用意されたお仕着せを一蹴するこの地獄巡りからどうしてこうも目が離せないのか。狂気のバタフライエフェクトが紡ぐ因果がいつしか地獄の底さえ突き抜けるラインを描くのは、ここで行われるすべての行為から自己憐憫と断罪を排除することを監督が自身のダンディズムとして貫いていたからであったように思うのだ。罪とか罰とか言えなくなったところから本当の地獄が始まることを、そしてそれがこの国の原風景となりつつあることを、この怪物の無邪気な寝返りのような映画はあっけらかんと捉えてしまっている。異形の傑作。
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2022年05月19日

シン・ウルトラマン/そんなに人間は好きじゃないだろう、カラー。

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「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」ある局面でゾーフィがウルトラマンに投げかける言葉で今作のキャッチコピーにもなっているのだけれど、ウルトラマンが地球にやって来て以降の動向を注視していたゾーフィにしてウルトラマンがどうして人間にああまで入れ込むのか理解に苦しんでいるわけで、それはゾーフィならずともワタシも同様であって、ウルトラマンがよそで何を見聞きしたのかはわからないけれど、子供をかばって命をおとした神永(斎藤工)の自己犠牲より他にヒューマニズムの発露は見当たらず、あれがそこまでドラスティックな体験になるとは宇宙の美化委員を気取る光の星の人たちはそこまでナイーヴなのかと減らず口の一つも叩いてみるのである。その理由のおそらくは、いくつかのTV版エピソードをつまんでつなげたこの物語の構成がもたらしたもので、ウルトラマンで言えば全39話をかけて醸成された人間への感情や関係性を自明のこととして断りなく使い回してしまっているものだから、映画はここで何も育てることをしていないように思うのだ。それはウルトラマンと浅見(長澤まさみ)の関係にも顕著で、最期の闘いに向かうウルトラマンと浅見がそれを見送る屋上のシーンは、「ウルトラセブン」の最終話における“明けの明星”シーンをトレースする意志が明白だったにも関わらず、劇中では特筆すべき関係を育んでいないウルトラマン/神永と浅見の間にケミストリーが生じるはずもなく、血の通わないキャラクターで溢れかえる中いくばくかのカロリーが求められるたびに感情の要員として無茶振りへのリアクションを強要される長澤まさみが不憫でならなかったのである。そもそもが庵野秀明にしろ樋口真嗣にしろ、これまで「好き」が代弁する人間の絆や愛を衒いなく描けた試しがあったのかどうか、だからこそ手っ取り早く借り物に頼るしかなかったのではなかろうかと考えてしまうのだ。虚空に浮かぶゼットンの下、滅亡へのカウントダウンも知らないまま日々を過ごす市井の人々のショットなどそれらしくインサートはしているものの、例えば『世界大戦争』がたずさえた終末のメランコリーを真剣に欲したのだとすれば、禍特対のメンバーにおいて既婚者である田村(西島秀俊)や船縁(早見あかり)がそれぞれの家庭において、明かせぬ秘密を抱えたまま愛する人との時間をどう過ごすのか、透明な絶望を宿らせることはいくらでも可能だったように思うのだ。何ならある種の横断として田村のパートナーは女性である必要もない。そして何より、稀代のカルチャーアイコンを新たに更新するのではなく、ある種の人たちの感傷を慰撫するマーケットツールへ甘んじて転用した志には、それなりに慰撫されてしまった者としての後ろ暗さも相まって共感性羞恥を抱いてしまってもいる。地球における外星人の実存を問うやりとりがメフィラスとゾーフィと2度繰り返されるのもあまり上手くはないだろう。エスタブリッシング・ショットもないまま広角と仰角と俯瞰となめショット、すなわち実相寺アングルに明け暮れるドラマパートも思考の放棄をうかがわせて倦むばかり。それらすべてから解放されるファイトシーンだけずっと観ていたい。
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2022年05月17日

マイ・ニューヨーク・ダイアリー/言葉に目もくらみ

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それまでサリンジャーを読んだことのなかったジョアンナ(マーガレット・クアリー)が、「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んだあとでダニエル(コルム・フィオール)の悲劇をどう捉え直したか、あるいは「フラニー」を読んだあとで、カール(ハムザ・ハクドン)やドン(ダグラス・ブース)を遠ざけるしかなかった自分を見つめる新たな角度を手に入れたのか、いずれにせよジョアンナは、サリンジャーは残酷だ、という結論にたどりつく。それが、どれだけ願ったとしても世界は君を一顧だにしないにも関わらず、君は世界の法則から逃れることはできない、そして君が聡明で純粋であればあるほどそのシステムが君において暴力的なまでに機能してしまうとしても、君はその聡明さと純粋さで希望を照らさねばならない、なぜならそこにしか私たちの自我は可能性を持てないからだ、というサリンジャーの孤高が険しいことを知るばかりだったからこその言葉だとしても、それを知った以上、もうそれまでの自分ではいられないのだという清冽な痛みを伴う訣別によって、上昇するキャリアの成長物語とは一線を画している。編集者ではなくエージェントとして書く人をサポートするマーガレット(シガニー・ウィーヴァー)の、書かない人として捉える世界がいささか紋切り型のまま推移してしまうせいでさらなる複層に手が届かない物足りなさはあるものの、サリンジャーをことさら神格化せず“ひょこひょこおじさん”としての後姿を見つめるジョアンナの視点を譲らなかったことで、サリンジャー=ホールデン・コールフィールドの呪いというよりはサリンジャーという機能が描かれたのは新鮮なアプローチに思えた。リアルタイムの若い読者より他が「ライ麦畑でつかまえて」への耽溺でサリンジャーを語るのは、いまだにセックス・ピストルズによってしかパンクを語れない思考の停止にも似てうんざりするばかりなのでなおさらそう感じてしまう。紆余曲折あって今に至るも「ハプワース16、一九二四」が単行本として出版されていないアメリカとちがい、発表された作品のほとんどが翻訳された日本で「ハプワース」まで見届けたライ麦畑の読者はどれだけいるんだろうか。
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2022年05月12日

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス a.k.a. スペル 2

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愛とか恋とかいうよりは無自覚な父性の感情に衝き動かされてある女性の側に立ち、その彼女のナヴィゲートによる地獄巡りを経ることで、男も彼女もそれそれが自身の呪いを解いていく話と言えば、そのあらかたが『ドライブ・マイ・カー』に思えたりもしたのだ。そんな喪失と再生の物語において、愛されたり愛したりすることを厭うわけじゃない、怖れてるんだというストレンジの独白こそは子供じみたMCUの男たちの行動原理であったのかもしれず、ならばその恐怖と向き合いなさい、と間髪入れず返したクリスティーンの毅然は、彼らの尻を蹴り上げ続けたMCUの女性たちそのものであったといえるのだろう。一方で、新しいフェーズにおいてサノスに匹敵する仇敵の気配もいまだ見えぬ中、かつて繰り広げた闘いに生き残った者たちがその代償として引き受けた呪いそのものが敵として立ちふさがるのは『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』も同様で、そうした自家中毒の矛盾としてのワンダを仮想敵とするリスキーな物語の要請に対し、MCUのというよりはあくまで“スコット・デリクソンが監督した『ドクター・ストレンジ』”の続篇として、呪いに胸を貫かれた怪物の愛と狂気を敷き詰めるために自分は駆り出されたのだろうとサム・ライミが理解したのだとすれば、スナップオンで組み立て可能なプラスチックモデルのようなMCUのモダンな軽やかさに比べ、アイリスやオーヴァーラップといったクラシカルな技法を接着剤にして隙間なく組み上げた鈍色の塊がいかに異質でありながらも確信的であったか、ラストガールとしてのアメリカ・チャベス(ソーチー・ゴメス)を生き残らせるためなら、ワンダだろうが誰だろうがすべてを焼け野原にするのは当然だろうと薄っすら浮かべた笑みさえ透けて見えた気もしたのだった。ファイギも笑っているかどうかはわからないけれど。
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2022年05月02日

カモン カモン/永遠なんかいらない

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「録音が好きなのはさ、このいろんな音が永遠に消えてしまわないようにできるからなんだ」とジョニー(ホアキン・フェニックス)がジェシー(ウディ・ノーマン)に問わず語りをした瞬間、「いま自分が見ているこの瞬間のこの光景を、いつまでも自分のものとして持っていたいと願うこと。それがペシミズムの出発点だ」という片岡義男の言葉を想い出して、中年の大人と9歳の少年の関わりで避けがたく起きてしまう齟齬の芽は、ペシミズムに捉われた者といまだ自由な者とのコミュニケーション不全であったことに気づかされたように思うのだ。過去現在未来という時間の連なりを人生と学習した大人は、現在が失われれば過去も未来も壊滅してしまうという判断の切実さで、未来のために過去の経験を駆使して現在を維持しようと腐心するけれど、人生という概念とその維持という命題から自由な子供にそのロジックの理解を求めるのはほとんどエゴイスティックな行為ですらあって、劇中でジョニーのチームが行うアメリカの様々な子供たちのインタビューにおいて彼や彼女たちが精一杯語る誠実で懸命な言葉の数々に耳と心を奪われてしまうのは、それがペシミズムを寄る辺としない精神から湧き立ったものであるからこそ、もはやペシミズムから逃げることのできないワタシたちは憧憬に近い共感を無意識かつ無条件に抱いてしまうのではなかったか。してみれば、ジェシーとの邂逅がジョニーにもたらしたのが、たとえペシミズムと訣別できないとしてもその在りかを知りそれと向き合い飼い馴らす術であったことは、たとえ思った通りの未来にならなかったとしても(だからといってあなたの現在や過去を否定することなんかない)、ただひたすら先へ進めばいんだよ、さあ、わかった?というジェシーの言葉を啓示のように宿らせた点においても明らかだったように思うし、現実から色や温度を抜いて存在の意志だけをその濃淡で綴るモノクロームが生活の手触りよりは宗教的な静謐を誘い続けたのも、これがジョニーとジェシーを包んだ小さな宇宙で起きた全体性の物語であることを謳うためだったのだろう。いつの日か子供たちがペシミズムに捉われるのだとしても、それは彼や彼女が自らそれを知るべきでワタシたちがそれを継承させることだけは断じてあってはならず、ここに出てくる大人たちは必死にそれを持ちこたえていて、それはもうニューオーリンズのパレードの最中、熱気と寝不足と大音量の中で踊る子供を背負いながら練り歩き、ついには気絶してしまうくらいなのだった。
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2022年04月25日

アネット/騙されるな、それは愛だ

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ラストで刑務所の面会室に現れたヘンリー(アダム・ドライヴァー)の、短く切った髪と生やした口髭が容易くレオス・カラックスを想起させるまま、完膚なきまでにアネットから愛を拒絶されたヘンリーを自身に投影してみせるやり口は、かつてドニ・ラヴァンを依り代に元カノと今カノとをフレームの中で交錯させたカラックスの私小説的な渾然一体からすればいささか整理が効いて物分かりが良すぎる気もしたにしろ、愛がなければ生きていけないけれど、ひとたび手に入れたその愛は我が麗しき欠落(劇中では「深淵」と言い換えられている)をスポイルしてしまうに違いないというパラノイアを喰って生きる「私」という人間の告解を思わせる体をとりつつ、その実そんな「私」への全面的な憐憫に満ち満ちた今作は、前作『ホーリー・モーターズ』にあった底知れぬ苛立ちからすればカラックスとしての健康をうかがえたのは確かなのだ。ヘンリーを“フェミサイド”と糾弾しハラスメントを匂わす幻想シーンをインサートして彼を共感の不能へと突き落としておきながら、アン(マリオン・コティヤール)もまた伴奏者(サイモン・ヘルバーク)との関係を明かさぬまま妊娠をヘンリーとの関係に利用したのだと、あなたたち二人は自分たちそれぞれの都合のために私をいいように使ったではないかとその欺瞞をアネットに責め立てさせるに至って、世界を肯定するか否定するのかそのどちらかを選ぶことへの強迫観念に囚われた人々に向けたカラックスの仕草に、この作品はそのフィルモグラフィーで初めて観客の存在を意識して撮り上げたのだろうことを思ったし、とはいえモノローグでもダイアローグでもなくリフレインによって主題を定着させるための機能としてミュージカルというフォーマットを選んだあたり、これまで観客との信頼関係の一切を必要としなかったカラックスがいまだ観客を信用していないがゆえの、過剰ともいえる苦肉の策に思えたりもしたのだ。ヘンリーとアンが真夜中のタンデムで走り抜けていく時の圧倒的な移動の快感を最後にカラックスは幻視のエゴを鞘に収めて、それから後はひたすら言葉(=歌詞)を尽くしてワタシたちに、愛とはけっして後悔しないこととかいう戯言は忘れろと説いている。
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2022年04月11日

シャドウ・イン・クラウド/馬鹿と煙は高いところへ

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※展開と結末に触れています

おそらくは字面でバイアスがかからないよう「いかり肩」と表記されるのが概ねだとして、クロエ・グレース・モレッツの場合、童顔といかり肩のアンバランスがチャームを生む一方でそれを持てあます居心地の悪さとなっている気もするわけで、近作でいえば『グレタ GRETA』の場合、モンスターを打ち倒すラストガールの役割をマイカ・モンローに奪われ彼女は撒き餌にとどまってしまうのがもどかしくもあったのだ。果たして監督のロザンヌ・リャンもそんな気持ちでいたのかどうかはともかくとして、だったら「いかり肩」は素直に「怒り肩」でいいではないかという一点突破が、球形銃塔から機内を経て不時着後は機外へと、とりまく空間を獲得するにつれアクションに火が点いていくモード(クロエ・グレース・モレッツ)の姿は次第に枷が外れていくクロエ・グレース・モレッツという俳優そのものに映ったわけで、グレムリンが彼女の元夫を始めとする腐ったマチズモの象徴としてあったのは言うまでもないにしろ、ウィル・スミス以来で人外をベアナックルで一心不乱にボコ殴りにする彼女の姿は、ついに獲得した解放の雄叫びをあげているようにも見えたのだ。ラストでモードが赤ちゃんに授乳するシーン、3人の男性乗組員がそれに対して軽口をたたいたりしないのはもちろん、どぎまぎしたり目をそらしたりすることもなくごく自然な行為としてハッピーエンドの光景として描かれていたこともとてもスマートに思えたし、エンパワーメントをテーマにしのばせつつ、モードを一番口汚く罵っていたドーン(ベネディクト・ウォール)に赤ん坊を救うという見せ場を与える定石をきちんと残したあたり監督のヴィジョンの明確さと地肩の強さ、そして垣間見えるジャンルへの偏愛に敬意を表しないわけにはいかないのだ。それがなければ83分の映画など撮れるはずがない。
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2022年04月07日

TITANE チタン/E=mc2

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モーターオイルが体内をかけめぐりチタンのプレートが頭蓋から子宮へとクロームの輝きを増すにつれ、マンマシンもしくはサイバネティクスの宣言体に見えたアレクシア(アガト・ルセル)は、車への偏愛を失うと同時に殺人と暴力の衝動も手放していく。しかしそれは彼女が宿した母性の証というよりも、怪物的な愛情を災害的な肉体に宿したヴァンサン(ヴァンサン・ランドン)との出会いがもたらした変容であって、エンジン音とのハーモニー遊びにふけるアレクシアを彼女の父親が拒否することですべてが始まったことを思い出してみれば、頭蓋骨に埋め込まれたチタンは愛情を欠いたままの世界に彼女を閉じ込めたに違いなく、愛を自称する感情が自分に向けられた時、彼女が本能的かつ無意識に求め続ける愛とそれら感情との違和と軋轢がアレクシアにその感情は偽だと伝え破壊を促してきたのだろう。事故にあった時のアレクシアの年齢は特定されないながら、その年格好をヴァンサンの息子エイドリアンが行方不明になった時の7歳という年齢に重ねるのはたやすく思え、してみれば、かつて致命的に無償の愛を失ったアレクシアと無償の愛を与える相手を奪われたヴァンサンの邂逅は、もはや呪いと化した愛に苛まれては咆哮する2匹の怪物が絡み合い、それぞれの牙や爪を相手の鞘に納めて異形を閉じることで人間だった頃の幸福を想い出す再生の手続きともいえたはずで、ヴァンサンの元妻(ミリエム・アケディウ)が、エイドリアン=アレクシアの正体に気づきながらヴァンサンとアレクシアの関係をむしろ積極的に是認するのは、それがどれだけ行き先知らずであるとはいえ、その共依存の愛情にしか元夫の幸福は見つからないことを一瞬にして理解したからではなかったか。『RAW〜少女のめざめ〜』もまた、この世界でたった一点だけ曇りのない純度で存在する愛のありかにたどりつくハッピーエンドだったことを思うと、ここでジュリア・デュクルノーがアレクシアとヴァンサンに託した、愛とそれがもたらす人生を肯定することへの爆風のような飢餓と貪欲に吹き飛ばされる爽快は肉体的な快感すらを覚えるわけで、あえて名前をあげる無粋はしないけれど、それはジュリア・デュクルノーが血肉としたリファレンスを産み落とした監督たちがかつて掲げた、精神が肉体を変容するのではない、肉体が精神を変容するのだという宣言の最新の行使であったように思うのだ。そしてジュリア・デクルノーがここで捉えた、空間に占有する肉体の質量とそれが等価に交換するエネルギーの熱狂的な関係はアインシュタインが仮説した世界の法則を叫んだかにも見えたのだ。舌の根も乾かぬうちに先ほど書いた無粋をしでかすのは承知で、裏返った現実がもう一度裏返った時に極北で最適化される現実の目論見として、三池崇史『牛頭』がゆらっと立ち上がったことは記しておきたい。
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2022年04月04日

ベルファスト/月より遠くきみのとなりへ

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バディ(ジュード・ヒル)が知っているのはカトリックとプロテスタントは仲が悪いということで、ではその人たちは何が違うのかというとどうも告解をするかしないかのようだという9歳の少年の理解を答えに、不条理やメランコリーというあきらめの色眼鏡をかけずに眺める世界の囁くような息づかいや苛烈な身のこなしを一人の少年の発見と体験の記憶として描くことで、あの年のベルファストとブラナー家に流れた優しさも暴力もそのすべてが等しく均された時間はいつしか普遍を手に入れて、曖昧だった感情にまた一つ新しい名前がついた気もしたのだ。バディがTVで見ている『リバティ・バランスを射った男』や『真昼の決闘』といった西部劇の重層的な正義を貫く主人公は、アイルランドのアイデンティティよりも家族の幸福を最優先する父親の投影でもあったことは、『真昼の決闘』でやるべきことを為すため町に残るというゲイリー・クーパーにわたしは待っていられないと詰め寄るグレース・ケリーのシーンを、バディの父(ジェイミー・ドーナン)と母(カトリーナ・バルフ)が家族の行く末について電話でやりあうシーンに重ねたことにも見て取れる一方、カトリックの経営する雑貨店の略奪騒ぎに巻き込まれてわけもわからず商品の洗剤を持って帰って来たバディを、いまだ暴動の真っ只中にある店まで有無を言わせず引きずっていっては「今すぐそれをそこに返しなさい。今度こんなことをしたらお前を殺すからね」と烈火の如く怒鳴りつける母は、子供たちが日々の人生をまっすぐ健やかに歩くためにはいかなる献身も厭わない愛情の人として描かれて、かつて闘争の歴史において暴力と流血の代名詞となったベルファストにあの時生きていた人々が、いかにして愛を育みそれを慈しんでいたことか、自身にとっての揺るぎない過去であり記憶であり何より故郷であったベルファストを語り直すことで、ケネス・ブラナーはかつてそこに存在したすべての人たちを正しい時間に正しい場所に生きた人として鎮魂することを願ったのは、それを託す象徴として選んだ祖母(ジュディ・デンチ)の透徹した眼差しを捉えたしめやかで静謐なラストショットに明らかであっただろう。生活とは時間でそれは一方的に先へ先へと進むばかりでそれを受け入れるか抗うかを選択することしかワタシたちには許されておらず、時間をそこに止めおくことへの執着はペシミズムしか生み出すことはないわけで、「さあ行きなさい、ふりかえってはだめ」という祖母のモノローグと、その視線の先ですでにロンドンへと心が向いたかに見える車内のバディの無情にも映る対比こそは、ワタシたち人間が生きることの原罪のようにも思え、ジュディ・デンチのクロースアップがいまだ目に焼きついて離れないまま、あとどれだけ自分は前を向いて生きていけるだろうかとずっと自問を促されている。
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2022年03月29日

ナイトメア・アリー/この世界の穴ぐらで

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天賦ともいえる人たらしの才で、いつの間にか相手の懐に入りこんで信頼を手に入れては躊躇なくそれを利用しつつ、自らは誰一人として信頼を与えないことで非情と非道を操る術をストリートワイズとするスタントン・カーライル(ブラッドリー・クーパー)という男の、それでもある種の人間に時おり見せる損得抜きの共感が彼の内部のどこからやって来ていたのか、それは世界に流れ出すきっかけとなったある行いを実行した時に彼の中で宿った、おれはもうあらかたが死んだ人間なのだとあきらめてみることで希望や自尊の輪郭をもういちど夢見る試みだったのかもしれず、そうやって駆動した彼のピカレスクがついに息絶える瞬間、天啓のように彼を打つのは、自分はあの時に穴の中で一緒に死んだのではなかったかと記憶の扉を叩く音ではなかったか。これでようやくすべての呪いから解放されるという安堵とその先にある底なしの昏睡への微かな畏れがないまぜで押し寄せるスタンの表情に浮かぶのは、決定論と自由意思のあくなき闘争の果てに斃れる男がたどりつく仄明るい諦念の瞬間にも見て取れて、やがて顕れるだろう秘密の分身に本能を誘われたからこそスタンは野人に慈しみを示したのだろうし、リリス・リッター(ケイト・ブランシェット)はスタンの中に眠る分身を認めたからこそ、その暴発を自身の復讐に利用したように思ったのだ。精神的に無償の関係を他人に築けないスタンに「愛しているわ」と囁くことで揺さぶり瓦解させるリリスは自身の怪物性に自覚的な点で常にアドヴァンテージを保ちつつ、その診察室にたちこめる濃厚なメランコリーは彼女を襲った悲劇がファム・ファタールの怪物を生み出したことをうかがわせて、その恐ろしさは哀しみの背中にはりついてやってくる。精緻な細工が美しく施された青いガラス玉のような、それ自体は光が輝くことなくそこに世界を映すただそれだけのために磨き抜かれた、それゆえ世界のどこにも視点が合うことのないブラッドリー・クーパーの瞳を、何よりあのクロースアップのためにデル・トロは必要としたのだろうと、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のラストショットに磔られたロバート・デ・ニーロをいつしか想い出してみたりもしたのだった。珍しくも人間が人間を殺める陰惨な人死にを執拗に描くデル・トロは『クロノス』以来ではなかったかと、ブラッドリー・クーパーを殴り倒す盟友ロン・パールマンにうっすらと感傷を抱きつつ、これはデル・トロの原点回帰というよりは現在地の再確認。
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2022年03月21日

ガンパウダー・ミルクシェイク/フェミニストを撃て

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『オーシャンズ8』や『355』といったあたりの、界隈の刷新と更新を目指したはずの作品群が、功成り名遂げた俳優たちが気晴らしに集っては新春スターかくし芸大会(はたしてどの世代にまで伝わるかはともかく)的なノリではしゃぎまくるサロン系映画(ソダーバーグ・サロンやタランティーノ・サロン等々)の域を出なかったのは、手段の目的化という罠に落ち切実と必然を欠いた凡庸を誘ったからに他ならず、その点において監督/共同脚本のナヴォット・パプシャドは、すべてがうまく行ったとは言わないまでもこれは彼女たちにしか歩めないのだというその道筋を最後まで見失うことはなかったように思うのだ。それは、男性が行うことはあたりまえに女性も行うのだという書き換えというよりも、男性が行おうが行うまいが人間が行うことを私たちは行うし、それを塞ぐなら躊躇なく排除するというシンプルな原理であって、クライマックスのダイナーでサム(カレン・ギラン)の母スカーレット(レナ・へディ)が告げる「もう私たちは見ているだけでいるのはやめた。どちらにつくか決めることにするわ」というセリフと、そこから開始される大殺戮、すなわちバランスの破壊こそが冒頭にあげた作品に欠ける決定的な意志であったのは言うまでもない。アクションやその佇まいに散見されるクリシェやネオンカラーのポップとキッチュとグロテスクをシェイクしたオフビートの既視感にも関わらず、キャラクターたちが終始ヴィヴィッドな目つきと身のこなしを手放すことがなかったのは、そうした監督のヴィジョンへの信頼とその求心力によっていたことは間違いがないだろう。ラストシーンの車中で、運転してもいい?とねだるエミリー(クロエ・コールマン)をダメよとあしらったことで、母たちの世代からサムに継承された殺しの系譜をエミリーに及ばせるつもりのないことを暗示はするものの、8歳(と9カ月)の彼女が車の運転に味をしめるきっかけとなった地下駐車場でのサムとエミリーによる二人羽織のカーアクションにおいて、エミリーは知らないまでも(サムはエミリーに目をつむるように言う)追手の命を奪うという殺人の片棒を彼女にかつがせたのは、たとえそれがサムとワタシたち観客だけの秘密とはいえ少しばかり危うい道草ではなかったかと少しだけもやもやしたのは正直なところ。凄腕で不機嫌な女性の殺し屋という造型は「キリング・イヴ」のジョディ・カマーが登場と共にいきなり最高得点をたたき出してしまっていて、それをかわそうと意識すればするほど可動域を失う不利は、これから先いろいろなところで監督と俳優がそれを味わうのだろうなと少しだけ気の毒に思ったりもした。序盤で、ジョニ・ミッチェルやジャニス・ジョプリン(今作でもどこかで)に比べればほとんどインサートされることのない(『スーパーノヴァ』以来か)カレン・ダルトンの歌声が流れだした瞬間からワタシの点数は甘くなり始めたのだけれど、それをさほど引き締める必要のないまま幕を閉じたにおいて、カレン・ダルトンのハスキーがインサートされた映画にハズレなしという法則を、この先誰かがダメ押ししてくれることを願っておきたい。忘れるところだったけれど、クズにも質の良し悪しがあってだな、もちろん俺がどっちかは言うまでもないだろ、とはだけた胸元にクズの矜持をのぞかせたアダム・ナガイティスの分で星1つ上乗せしておく。
posted by orr_dg at 03:13 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする