2020年05月31日

隣の影/#stayhome

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いったいどこまでが本気なのか測りかねているうちに、気がつけばのっぴきならない状況で身動きが取れなくなっていく両家の総力戦に『ロリ・マドンナ戦争』を思い浮かべてみたりもして、70年代初頭のテネシーのヒルビリーな片田舎だろうが、現代の幸福度ランキングで上位に名を連ねる福祉国家アイスランドのサバービアであろうが、人間はどこまでもやるせなく寄る辺のない生き物であることだなあという嘆息に今さらながら包まれてしまうのだった。どちらの作品にも共通するのはある人間の死がバランスを喪失する引き金になっていることで、『ロリ・マドンナ戦争』では馬の事故で亡くなったフェザー家の三男の妻が、今作ではコンラウズ(ソルステイン・バフマン)の亡くなった先妻がそれにあたるように思われる。インガ(エッダ・ビヨルグヴィンズドッテル)と隣家コンラウズの先妻との関係が直截的に描かれることはないものの、後妻としてやってきたエイビョルグ(セルマ・ビヨルンズドッテル)に対するインガの感情は劇中のトラブル以前から好ましいものではなかったことがうかがえて、それはおそらく、長男が失踪(実質的な自殺)した喪失にとらわれ続けるインガにとって、さほどの時をおかずして後妻を迎えた隣家コンラウズと早速の妊活に励む夫婦の姿はそうした自身へのあてつけのように映ってもいたのではなかろうか。『ロリ・マドンナ戦争』では息子の嫁の悲劇的な死によって屈託に捉われはじめた父親が土地の所有権争いによってその精神のバランスを決定的に失っていくわけで、対称/対照となる隣の芝生のその色が日々の地獄を悪化させる構図は、隣家や隣人を選ぶことはできない社会生活の地政学的なストレスへの暴力的な共感をうかがわせて、こうした題材への覗き見的な昂奮を禁忌のように誘いもするのだろう。そしてまた、『ロリ・マドンナ戦争』における三男と人質女性の恋模様がそうであったように、基本的には横並びのストーリーを立体的にするための縦軸として、インガの次男アトリ(ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン)の離婚騒動がインサートされていくのだけれど、彼の情けなさとだらしなさの理由を長男(=アトリの兄)の喪失に求めるあたりで、さすがにそれは都合の良い言い訳に過ぎるのではなかろうかと思わせたのち、いつしかアトリなりの諦念を浮かび上がらせたところであの幕切れが訪れることとなり、すべてが終わった後でふと気づいてみれば生き残った3人はすべて女性で、それに引きかえ男たちはまったく華々しいところのないまま無様に退場していくわけで、正真正銘のラストショットで待ちわびたあれがスッと現れた瞬間、日本語ではあの男たちの死にざまを犬死(!)と言うんですよと監督に伝えたい衝動で胸がいっぱいになったのだった。
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2020年05月23日

ザ・ハント ナチスに狙われた男/そして私が逃がした男

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「こういう時こそ心で行動するのよ」息も絶え絶えのヤン・ボールスルド(トマス・グルスタッド)をかくまったグドゥルン・グロンヴォル(マリー・ブロックス)は、関わり合いになるのを嫌がる家族に向かって毅然と言い放ち、この映画で描かれたノルウェーの人々が示したレジスタンスのスピリットを代弁してみせるのである。ナチス占領下におけるノルウェーの破壊工作員ヤンは、12人の仲間と共にナチスの拠点破壊の任を受けるも失敗し仲間たちが捕らえらた中、ただ1人拘束を逃れ中立国スウェーデンへの脱出を試みる。では破壊工作に失敗し、かといって何らかの機密事項を手に入れたわけでもないヤンをナチス親衛隊の少佐クルト・シュターゲ(ジョナサン・リス・マイヤーズ)はなぜ執拗に追跡するのか、それまでノルウェー工作員の破壊工作を圧倒的に制圧してきた少佐にとって、ヤンは上手の手から漏れた水であり彼の完璧主義を傷つける道端の石ころなわけで、それすなわち裏を返せばノルウェーの人々にとってヤンはナチスの非道と傲慢を嘲う自由の象徴にちがいなく、ヤンが無事スウェーデンに逃げ切ることは彼らにとっての勝利に他ならないということになる。過酷な雪山を身体一つで逃げ続けるヤンが次第に消耗し、壊疽の始まった足を抱えて身体の自由が利かなくなっていくにつれ、行く先々で出会うグドゥルンの様な人々が彼をまるで自由を照らす松明のように掲げてはリレーしていくわけで、手を貸したことがナチスに知られれば命も危ういにも関わらず、我が身の危険をかえりみることなく手を差し伸べる人々こそが真の英雄であったことを、彼や彼女たちのその無私の微笑みを、戦争では善い人から死んでいくのだという苛烈なサスペンスへと変換しつつ、そこに暮らす雪の白さに反射する光のきらめきを希望へと映すことで描いていく。と書いてみると、何やらヒューマニズムの火照りが雪をも溶かすドラマのように聞こえはするものの、ヤンを松明とするため彼の自由を削いでいく容赦のない手続きは時折ホラーの様相を呈したりもするわけで、雪崩につかまって叩きのめされるシーンや壊死し始めた足の指を自分で切り落とすシーン、遠く離れて捕虜になった仲間が拷問を受けるシーンなど折々で体感温度を下げる作業を監督が怠ることはなく、それはヤンを狩り立てる親衛隊少佐シュターゲの描き方にも見て取れて、塩分濃度ゆえ水温が氷点下に達するフィヨルドに逃げた人間が果たして生命を維持できるのかどうか、それを知るため捕虜を片っ端から水中に追いやるも衰弱した人間ではその判断がつかないと見てとるや、シュターゲは時計片手に自ら水中に足を踏み入れていくわけで、そんな風にしてヒトラーに捧げることでしか持ち得た合理と知性を発揮できない男の狂気と哀しみが、この追跡劇に絶対零度の奥行きを書き加えていくこととなるのである。これがフィクションならば、回復しグロンヴォル農場を訪れたヤンの姿とそれに気づいて瞬時に顔をほころばせるグドゥルンのショットで幕を閉じるところが、エピローグに流れる「グドゥルンが結婚したのは20年後だった(Gudrun eventually married 20 years later)」というテロップが現実の素っ気ないままならなさを伝えては、彼女の微笑みとまなざしが切なく思い出されて仕方がなかったのだ。もしそれを「結局は」と訳すなら、”eventually”という副詞にしのばされた彼女の物語がこの映画を少しだけ淡く哀しく染めている。
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2020年05月15日

第三夫人と髪飾り/あした殺られる前に

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「どうか私に息子を授けてください。この家で最後の男の子を。」14歳にして地主の第三夫人となったメイ(グエン・フオン・チャー・ミー)は、ありったけの知覚と本能とを動員して導いた答えを、そのまま呪いともいえる願いとして仏堂に祈るのである。しばしばインサートされる蚕は、子供を産むこと、それも世継としての男子を産むことを求められる彼女たちの、人生を共にする一人というよりは替えの効く匿名的な妻としてのみ存在する、二の矢三の矢としての一夫多妻制が示す一方的で酷薄な合理性の象徴ともなっている。それと同時に、最初の結婚が社会的力学の結果として行われた場合、夫にとっての人生の彩りとして新たな妻を迎える側面もあるのだろうことは、第一夫人ハ(トラン・ヌー・イェン・ケー)の長男ソン(グエン・タイン・タム)の悲劇的な婚姻にも見てとれて、そうやって他者の感情を粉砕する経験の積み重ねが主人ハン(レ・ヴー・ロン)のまとう茫漠としたアパシーの厚みを増していくのだろうことがうかがえる。この主人を記号的な悪人と描いて観客の感情を誘導しなかったのは、監督にとっては物語の綴りよりも全体的な女性性の搾取のシステムを浮かび上がらせることが本意だったのだろう。水と光と植物の織りなす生命の息吹は同時にメメント・モリの企みでもあり、トラン・ヌー・イェン・ケーの佇まいと、エンドクレジットで目に止まる美術監修トラン・アン・ユンの名前に、土着を漂白することでノスタルジーやセンチメンタリズムを現代の地続きへと再構築するモダンの正体が見てとれた気がしていて、監督のこれら題材への直情に批評性をもたらす手管を貸している。とはいえ、それによってフォーカスされたものとスポイルされたもののバランスという点で、デビュー作ゆえの暴走と遁走がもたらす爪跡は少しばかり甘く優しいように思ったのが正直なところ。『青いパパイヤの香り』にあったざわめくような「手つき」への官能が、その料理シーンの実践も含めフェティシズムを欠いていたのもその要因か。さすがにトラン・ヌー・イェン・ケーだけはそれを分かっていて、彼女の手だけは一匹の生き物のように這いまわっていた。
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2020年05月08日

チャーリー・セズ マンソンの女たち/世界は終わらない

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あの時ほうきを投げ捨てて階段をほんの少し駆け降りさえしていれば、私の髪は長いままだったのではないか…、という叶わぬ妄想を叶えてみせたのが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だったことを想ってみれば、1969年8月はサマー・オブ・ラブの終焉というにとどまらないアメリカのイノセンスが永遠に昏睡した瞬間としていつまでもあり続けるのだろう妄執をあらためて知らされることとなるわけで、ここではシャロン・テートを救いだす代わりに、父親たちの支配する国アメリカで繰り返される父殺しの企てと、その敗北がもたらす怨嗟の犠牲となる女性たちの地獄が産み落とした私生児としてのマンソン・ガールズをメアリー・ハロンは取り上げてみせる。悪魔(=チャールズ・マンソン)崇拝の殺人者ではなく環境の犠牲者としての彼女たちに向き合うカーリーン・フェイス(メリット・ウェヴァー)は、ルル=レスリー・ヴァン・ホーテン(ハンナ・マリー)を突破口に彼女たちの洗脳外しを試みるのだけれど、エド・サンダースの著作「ファミリー」をベースにレスリーの視点を通してチャールズ・マンソンのポートレイトが描かれる回想シーンが、無垢の蹂躙をエゴからの解脱と幻想させるマンソンの手口とその生贄としてのレスリー、という計算された(もしくは手垢がついたといってもいい)構図をはみださないこともあって、現在地で対峙するカーリーンとレスリー、ケイティ=パトリシア・クレンウィンケル(ソシー・ベーコン)、セイディ=スーザン・アトキンス(マリアンヌ・レンドン)との間に生じる関係もまたカーリーンが“犠牲者”に抱くメランコリーに覆われたままその中へ仕舞われてしまう点で、1969年のレスリー・ヴァン・ホーテンがどこからやってきてどこへ消えていった女性なのかがお仕着せのまま終始したように思えてしまうのだ。中盤、スパーン・ランチに連れてこられた名もない女性が、バスタブから全裸で立ち上がって出迎えるチャーリーに「下品だ、あんたみたいな男に近づくなと父親に言われた」と吐き棄てて「豚みたいな顔をしたその女をパパのところへ送り返せ」と追い払われるシーンは、チャーリーが新顔の女性を籠絡する時にたびたび口にする、自らを「新しいパパ」とするイメージとの交錯において印象的なのだけれど、映画はそれ以上分析的になることもないまま、チャーリーに追い払われた女性とレスリーとを分けた“環境”を、カーリーンにとっては環境の犠牲者であるはずの彼女たちに見出すそぶりもなかった点でいささかもどかしくもあったのだけれど、レスリー・ヴァン・ホーテンのプロフィールを調べさえすれば容易に知り得る彼女があらかじめ備えた喪失と欠落からすれば、劇中の彼女にデザインされたマンソンの無垢なる生贄としてのイメージは、カーリーンがというよりはメアリー・ハロンによるいささか感傷的でファンタジックな設計がそうさせたということになるのだろう。そうやって筆を進めるにつれマンソンに囚われ始めたのか、マンソン・ガールズを彼に拮抗させるためのストーリーがやや強引かつ類型化し始め(例えば鹿革のくだりなど)、それに連れ現在地のカーリーンがストーリーから弾かれて舵を与える余裕がなくなっていった点でメリット・ウェヴァーの役不足を思わざるを得ないし、マンソン史観の更新よりはカーリーンとマンソン・ガールズとの神経戦にフォーカスされた物語こそを見たかったのにと口を尖らせてみたくもなったのだ。それだけに、メアリー・ハロンによるチャールズ・マンソン(マット・スミス)の仕上げには特筆すべき巧みさがあったものの、それがストーリーにおいて機能し始めた途端、理解可能な怪物として矮小化されてしまうことでマンソン・ガールズはもちろん彼女たちに対峙するカーリーンの屈託までもが共感可能な存在へと後退してしまうわけで、結局のところ彼女たちがなぜ凄惨な殺人を行うに至ったのか、理解できないということを理解したというトートロジーへの抗いとして、レスリーの抱くオルタナティブな悔恨で幕を閉じるしかなかったのはメアリー・ローハンの誠実な白旗だったのだろうと思っている。
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2020年05月02日

ある女流作家の罪と罰/わたしを許さないで

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逃げ続けるストリート・スマートとしてのジャック・ホック(リチャード・E・グラント)と、破滅的なブック・スマートとしてのリー・イスラエル(メリッサ・マッカーシー)がニューヨークの街角でほんの一瞬踊った叶わぬ夢は、それが恋愛のざわつきから完全に解放された2人であっただけに、最期にたどり着いた友情の欠片はそこに映されることを世界が望むような静かでやわらかなカタルシスを湛えてみせて、なんだか『真夜中のカーボーイ』のことなど想い出してみたりもしたのだ。おそらくは自分の物語を解き放つことの怖れから他人の人生を間借りして物語の代用としてきたのだろう伝記作家としてのリーにとって、手紙の偽造という行為はいつしか、実際には書かれなかった人生の物語のその先を夢想する行為へと手段と目的が逆転していくわけで、数百通にもおよぶそれら犯罪行為が、それが彼女のセクシュアリティによるものなのかその根っこを描くことはしないものの、彼女を苛み続けた様々な不安障害を癒すセラピーとして機能していく皮肉と希望の精密なバランスが、頭ごなしではない多様性が祝福する人間賛歌としての余韻を隅々まで沁みわたらせていたのは間違いない。そんな風にしてこの映画がオフビートなピカレスクにとどまらないのは、リーが闘わなければならない自分自身のメランコリーを俎上にのせて切り刻むことを避けないからで、古書店主アンナ(ドリー・ウェルズ)とのディナーが初デートの色を帯びていく時の逡巡と混乱、そしてリーがリーであるがゆえの拒絶が染めるアンナの哀しみと、かつてのパートナーであるエレイン(アンナ・ディーヴァー・スミス)が突きつけるこれもまたリーがリーであるがゆえの拒絶がとらえるリーの哀しみが織りなすハーモニーが、孤独をよく知りつつも孤絶が時に耐えがたい人生のままならなさに淡く美しい陰影をつけていくわけで、法廷での最終陳述で自ら落とし前をつけてみせるリーにあふれだす、彼女がずっと内にしのばせてきた真の知性が人間の形をとっていく瞬間に差す浄化の光は神々しくすら映ったのだ。一見したところストック・キャラクターとしてのマジカルなゲイに陥るかと思われたジャックではあるけれど、彼が誇示するマイノリティの尊厳とプライドだけでなくその内部に隠す傷や痛みに共振することでリーが変質していく構造に、バディ・ムーヴィーとしての『真夜中のカーボーイ』が浮かんだのだろう気もしている。役者が役を求め、役が役者を求めた時の完全がここではメリッサ・マッカーシーとリチャード・E・グラントの2人に同時に起きていて、永遠の光が射したような別れのシーンはほとんど天上の出来事にすら思えた。ブライアン・フェリーで始まりルー・リードで終る挿入曲の配置に至るまで文句なしの何よりニューヨーク映画の傑作。
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2020年04月25日

ルーベ、嘆きの光/鞭の血

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ルーキーのルイス(アントワーヌ・レナルツ)に「犯罪者を見分けることができますか」と尋ねられた署長ダウード(ロシュディ・ゼム)は、「ああ」と即答し「彼らのように考えてみるんだ」と笑わない目をした笑顔で続けるのである。87分署シリーズのようにルーベ中央警察とそこで働く警官たちの日常を群像劇のように活写する前半から、ある老女殺しの捜査へとフォーカスされていく後半の流れの中で一貫するのはダウードのソリッドな屈託の立ち方で、光と闇、清と濁、そのどちらにも俺は首までつかってきたのだというプラグマティストぶりは、いかにもデプレシャン的な事物を断定しないことを断定するトートロジーの冷ややかな熱気をその目に帯びて、断片的に描かれる彼の背景に見え隠れする対人関係の不幸は、彼が唯一笑顔を向けるのが競走馬に対してだけであるというその描写が無言で裏打ちをするわけで、老女殺しの犯人を特定して追い詰め自白させ逮捕した終盤、子供と引き離されて収監されるクロード(レア・セドゥ)の蒼ざめた貌と、引き離されたクロードの名前を呼び続けるマリー(サラ・フォレスティエ)のショットから一変して、彼女たちの嘆きや哀しみは俺が今まで見てきたいつもの一つに過ぎないとばかりダウードが心を泳がせる競馬場のショットをラストカットにするデプレシャンのニヒルは、ダウードのやわらかく穏やかな物腰がそれを目眩ましながらも相当にとりつくしまがないのだけれど、原題の”Roubaix, une lumière”を「ルーベ、ひとつの光」とでもしてれみれば、不眠症のダウードはルーベの光と闇を采配する常夜灯ということになるのだろう。一方でルイスは、常夜灯が作り出す光と闇の境界を綱渡りする不安に苛まれる者として描かれるのだけれど、その一切をモノローグで描いてしまう手っ取り早さゆえなのか、ダウードへの批評的なカウンターに成り得ていない強度の曖昧さが惜しまれる。それとは対照的にクロードとマリーのカップルは、レア・セドゥとサラ・フォレスティエの強靭なパフォーマンスがファイティングポーズを維持しつつも、ダウードが均す地政学的ローカルの見せしめとして一蹴されてしまう点で役不足を否めずに終わってしまった気がしている。やはり地政学的ローカルの憂鬱を描いた『レ・ミゼラブル』とは真逆の文法で描くことで獲得された(ようにみえる)詩情は一見したところ希望の灯りのようにも映るけれど、ダウードに倦怠をもたらしているのは父権の垂直性に対する水平性の侵食にも思えてならず、となればあのラストカットの先に夢想するのはダウードの愛する馬がアクシデントで廃馬となる未来であって、そうした不健全な収支のメランコリーに囚われたダウードがデプレシャンそのものに思えた点においてこの映画は成功したと考える。
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2020年04月19日

殺し屋/お前を請け負いたい

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初めて部屋に来たソフィー(ファムケ・ヤンセン)が、おそらくは先立たれた亡き妻であろう写真を目にとめて「あれは誰?」と尋ねると、アッシャーはワイングラスを片手に目を伏せ「人生の犠牲者だ」とつぶやくのである。ちなみに「おれは料理をする。毎晩8時に料理を作る。明日は2人分作っておく。来ればうまいものが食える。」と口説いた末の話である。老境に入りつつある殺し屋アッシャーは、仕事の流儀のみならず日々の生活においてもストイックで洗練されたスタイルを好みつつ、殺し屋という職能と人生の翳りがクロスする時期を迎えおのれと向き合うことを余儀なくされるというその設定からすれば『ラスト・ターゲット』のような実存の苦味ばしったトーンに覆われてしまってもおかしくないのだけれど、なにしろここでアッシャーを演じるのがジョージ・クルーニーではなく、リー・マーヴィン・コネクション(トム・ウェイツ、ジム・ジャームッシュ、ジョン・ルーリー)の用心棒のような風体の、大型犬の人懐こさと所在のなさを持て余す歩く違和感たるロン・パールマンなものだから、前述したような鈍色の艶を持つセリフが抑制の効いたミニマルなショットの中でその口から吐き出される時のペーソスが親密なオフビートを自動生成するようにも思え、さすがにジョージ・クルーニーとまではいかなくても、相手役がファムケ・ヤンセンということなら仮にリーアム・ニーソンをそこにあてはめてみた場合とりとめのないクリシェと感傷に流れてしまうところが、ロン・パールマンがそこにいるだけでパースとビートが変調する仕掛けとなっているわけで、それもこれも、ロン・パールマンと言う俳優のパブリックイメージでアテ書きをしない造型と演出の徹底によっているのは明らかで、とはいえこれがプロデューサーに名を連ねるロン・パールマンが10年以上あたためてきた企画であったことを知ってみれば、本人は単にド直球の二の線でタイトルロールを演じてみたかったに過ぎずこのテイストは狙った着地ではないと考えるのが自然で、となればそこに名バイプレイヤーの業や屈託を見てしまった気もしたのであった。実はアッシャーを覆う落日のメランコリーに誰よりも共振したのが監督のマイケル・ケイトン=ジョーンズにも思え、手広い商いができなくなった分だけ職能の純度と輝度をコンパクトかつ高密度に仕立てた手さばきはまったく悪くない。おそらくロン・パールマンだけはそう思っていなかった泣き笑いのノワールに最後の最後で捉まるラストカットで星が1つ増える。
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2020年04月13日

ロスト・マネー 偽りの報酬/私はあなたたちの妻ではない

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これまでずっと男たちが、益体もない夢を見るロマンのうわ言やたわ言として繰り返してきた強盗という行為が、ここでは彼女たちそれぞれが一人の人間として独立と自尊心を手に入れるための手続きへとその質量を加速度的に変えていく。妻という立場に隷属することでずっと自らをスポイルしてきたこと、そしてそれを常に働きかけてくる世界に生きていること、彼女たちはアウトサイダーとして放り出されることで次第にそのくびきから解き放たれ、自分の足で立って歩き必要なら引き金を引かねばならない日々のスピードに、目つきを絞り拳を握ることで自分を乗りこなし急カーヴに突っ込んでいく時の身震いが、それぞれの殻を静かにひび割っていく。そうやってピカレスクをある種のビルドゥングスロマンに染めていく語り口は特にアリス・ガナー(エリザベス・デビッキ)の場合において鈍色に輝き、夫フロレック(ジョン・バーンサル)が設えたDVと共依存の鳥かごに生きる小鳥でしかなかった彼女が、そこから飛び出た自由に困惑しつつ次第に自意識とプライドが羽ばたき始めるその姿には、彼女がこの物語の実質的な主人公であったといってもよい血の逆流が透けてみえたように思うのである。リーダーとしての強面を演じるしかないヴェロニカ・ローリングス(ヴィオラ・デイヴィス)が心折れた瞬間、その生き方や教養においてそれまで自分を見下していた彼女を、わたしたちは共にこの社会に生きる女だからあなたの涙がわかるのだと優しく抱きしめるアリスの切羽詰まった覚醒にいっそう胸を打たれてしまうし、そうやって彼女たちが光を求めて反転していく決断と行動が、社会に潜む分断を引きずり出してはそれをそっと繋げたり完膚なきまでに断ち切ったりしていくわけで、このあたりの群像劇としての鮮やかな立体化と、最後まで独善に陥ることをしない弱者のひりつくような内爆は、それぞれスティーヴ・マックイーンの渇いたモダンなブルースとギリアン・フリンがしのばせる血の味の巧妙なブレンドがそれを可能にしていて、特にスティーヴ・マックイーンにおいて今作が最高傑作となったことは間違いないように思う。血だろうが涙だろうが、それが私を縛る鎖ならすべて流れ出してしまえばいいのだと歯を食いしばるヴィオラ・デイヴィス、ミシェル・ロドリゲス、エリザベス・デビッキ、シンシア・エリヴォの4人に圧倒されつつ、クズを演じるリーアム・ニーソンの半開きになった口元が卑しくてとてもうなずける。『オーシャンズ8』には視えなかった世界、もし視えていたとしても手の届くはずのない世界がすべてここにあったことを思えば、劇場公開を中止した20世紀フォックス(当時)の正気を疑うとしか言いようがない。
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2020年04月06日

囚われた国家/いつかどこかの誰かのために

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※展開に触れていますが、侵略SFものというヴィジュアルイメージの向こうにあるのは、監督が参照を公言した『影の軍隊』『アルジェの戦い』の系譜に連なる自由をめぐる闘いのヴィジョンであって、その2作の名前を上げたのが決してハッタリではないことだけは記しておくので、いろいろと困難な状況ではあるけれどチャンスのある人には是非にと薦めておきたい。

平和と団結、そして調和。為政者が掲げるこの言葉の甘美な響きがどれだけの自由と尊厳を搾取してきたことか。それらの示すところはあくまで目的への手段でしかないにも関わらず、真の目的であるはずの人間の自由と尊厳の獲得が全体主義の達成のため為政者に利用され打ち棄てられるディストピアが、目の前のスクリーンからこちらの世界線へと侵食してくる時の被虐めいた共感の昂ぶりに抑え込まれて気がつけば身動きがとれなくなっていく。狂信も狂熱もない昏い目つきをしたレジスタンスが押し黙ったまますべての感情を行動へと変えていくその姿を神経症的にストイックなカットで立体化していくそのヴィジョンには、いつしか切れば血が噴き出るほどのロマンが宿り始め、それは人間性の復権を賭けた、ここではないどこかへの夢想ではない、この先にあるはずの自由と尊厳の場所へ向かう礎となる覚悟と歓びであっただろうことが、ラストカットのウィリアム・マリガン(ジョン・グッドマン)のマスクに覆われた瞳の中に瞬きはしなかっただろうか。ジェーン・ドウ(ヴェラ・ファーミガ)の部屋に掛かった絵を見逃しさえしなければ、この物語にしのばされた片道切符の疼くような手触りに想いを寄せることで、支配する者と服従する者の爛れた共生にあってその埒外を死者として歩む生者のメランコリーが発火する焔に心奪われる愉悦も許されるように思ったのである。「マッチをすり、闘争に点火しろ」というスローガンが示すとおり鏡像としてのレジスタンスとテロリストという構造を借りつつ、ルパート・ワイアットはその闘争をテロリストの暴力ではなくレジスタンスの意志として描いていて、それまでの感情を徹底的に殺して抑制したトーンから、全体主義が蹂躙して亡きものとした自由への感傷が決壊する終盤のたたみ掛けは、為政者についた者たちとの分断はすでに埋めることが不可能だという認識を否定していない点で内戦の予感すらをうかがわせ、スマートフォンとアナログモデム、廃棄された巨大ロボットとCRTディスプレイといった過去と未来の混在する世界はSF映画というジャンルを借りた告発と警告の目くらましとなって、まるでこの映画自体が「フェニックス」の符号にようにも思えたし、その「未来」に向けてアクセルを踏みこんだルパート・ワイアットは、ブレーキを踏みたければそれはもう自分たちで作ってくれという確信を隠しもしていないのである。支配と服従のシステムが負の永久運動のように機能すればするほど服従者は自律した番犬と化すというそれが、人間の普遍的に持ちうる資質なのかもしれないことはあたりを見回せばうなずくばかりで、気がつけばこんな遠くまで来てしまっているワタシたちは、いつからかとっくに彼方へとアクセルを踏みこんでしまっていたのだろうか。『裏切りのサーカス』が東欧ディストピアで繰り広げた、銃もカーチェイスも爆破もまったく必要としない“所作”による攻防がたびたび頭をよぎるくらい神経戦のスリラーを堪能しつつ、そこには蛇蠍の如く嫌われないジェームズ・ランソンに沁み入るという望外の愉しみまでも可能なこの傑作を、不要不急な生を生き延びる人のために。もしいまもフィリップ・シーモア・ホフマンがいたならば、監督は彼をマリガンに据えただろうか。
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2020年04月03日

デッド・ドント・ダイ/死者には何もやるな

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スクリーンに、ビル・マーレイ、アダム・ドライヴァー、ティルダ・スウィントン、クロエ・セヴィニー、スティーヴ・ブシェミ、エスター・バリント、イギー・ポップ、サラ、ドライヴァー、RZA、トム・ウェイツといった名前が浮かんでいくオープニング・クレジットを観ているだけで、そういう言葉があるのかどうかは知らないけれど、Personal Correctnessとでもいう、これがワタシにとっての正しいもの、善いもの、間違いのないもの、迷ったらここに帰ってくればいいのだという感覚でなんだか胸がいっぱいになってしまう。それから先は、あくまでも自虐のシニカル、ミニマルで涼やかな諦念、優雅な引きつりと緩やかな軋轢を散りばめながら、それらを永遠の青春ともいえる清潔な屈託でつづれ織りにしていくわけで、その総称がワタシにとってのオフビートということになるんだろう。そのデビューからずっと、ジャームッシュに脈打っているのがビート・ジェネレーションのスピリッツであること、そのbeatとは当時のアフロ・アメリカンがbeaten down(=打ちのめされる)の意味で用いたスラングであったことなど思い起こしてみれば、beatをかわすという意味でのオフビートがより反逆の意匠として立ち上ってくるように思うわけで、ジャームッシュがほぼ40年に渡ってその闘いを続けてきたことに今さらながら勇気づけられて、ワタシにとって何ものにも代えがたいその一つの筋が先ほどのPersonal Correctnessということになるのだろうし、ジャームッシュの映画を観るということはその大切な感覚を自分の中に確かめる手続きであることをあらためて確認させられたのだ。それに加えて、まるでエヴァがあのまま健やかに年を重ねたようなエスター・バリントに心を絆されたせいなのか、セレーナ・ゴメスとオースティン・バトラー、ルカ・サバトたち3人の水平な佇まいがアップデートされた『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のトリオのようにも思えたし、通りを歩き始めたティルダ・スウィントンをカメラが横移動で追い始めた瞬間、思わずエヴァ!と胸の内で掛け声を飛ばしてみたりもしたわけで、こういう時だからなのか、そんな風に映画に甘えてみることの歓びが思った以上に身に沁みて、映画館の暗闇に身を沈めることが不要不急とされてしまう世界の不幸をいっときとは言えふりほどくことができたのは、実質的な主役といっていいゼルダ・ウィンストンという役名のティルダ・スウィントンのレポマン的無双が、追いすがるそれを気合いもろとも斬り捨てくれたからに違いないのだった。
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2020年03月30日

ナイチンゲール/わたしの鳥はうたえる

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※極めて真摯で誠実な映画ではあるけれど、女性や子供に対する苛烈な描写があるので注意は必要かと。

クレア(アイスリング・フランシオシ)にとどめを刺されるジャゴ(ハリー・グリーンウッド)が最期に絞り出した「お母さん」という一言が、子供を殺された母としてのクレアに、私はいまその「お母さん」の子供を殺して奪ったのだという事実を正確かく無慈悲に伝えることとなる。誰かを殺すということは、どこかの母親のその子供を殺すことに他ならないのだという成り立ちに復讐の引き金を引けなくなったクレアが、女たちと子供という存在の弱者を暴力の餌にすることで肥え太る男たちの象徴ホーキンス(サム・クラフリン)を銃もナイフも使うことなくむきだしの理性で告発するに至る道のりは、クレアのいる世界それ自体がビリー(バイカリ・ガナンバル)にとっては酷薄な暴力装置でしかないことを知っていく時間でもあり、その共感と理解から始まる物語こそがジェニファー・ケントの求めた答えだったのだろうし、そしてその代償もまた暴力で支払われるこの世界への怒りと哀しみを、絶望に陥ることなくどんな風な色や形にかえていくことができるのか、それこそがジェニファー・ケントにとっての映画を撮る動機に他ならないのだろう。クレアを襲う被虐の描写からは正視に耐えない瞬間を切り離せなかったりもするけれど、暴力の向こう側へ行くには暴力そのものをくぐっていくしかないのだという監督の歯を食いしばった決意が、その痛みや恐怖をも彼女の生として真摯に伝えていた点で、たとえば『ブリムストーン』の残酷ショウとは似て非なる時間であったことは言うまでもないし、復讐の快感がそれらを覆い隠してしまうことのないようクレアとビリーの道行きをホーキンスたちのそれと繊細かつ綿密に対照させていく中盤以降は、荒野の誘惑を光と影の両面から描くことで侵略者の罪と罰を浮かび上がらせて、その性と人種を断絶する支配の歴史と構造をクレアの眼差しに刻んだラストが、既に目撃者となったあなたたちは知らぬふりなどできないのだとを告げていたように思うのだ。そしてなにより、それらすべてを言葉の説明に頼ることなくすべての人物の相貌や眼差し、身体の角度や速度といった身のこなしで語っていく演出の雄弁が映像の芳醇を呼び出して、乳幼児が惨殺されアボリジニが吊るされる道行きでありながら、詩情とすら言えるひそやかな息づかいと静謐なゆらめきが終始途切れることがなかったのである。視なければわからないことを視ればわかるように成立させること、すなわちそれこそは映画の必然ということになるだろう。彼を育てたマチズモの鞭が裂いた傷から入った毒で、奥底まで腐ってしまった男を演じたサム・クラフリンが暗くて深い闇の底に触れていて、彼とアイスリング・フランシオシ、バイカリ・ガナンバルの三者が織りなす誘爆のアンサンブルを狂熱の目つきで下支えしている。
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2020年03月23日

テリー・ギリアムのドン・キホーテ/リドリー・スコットにならなかった男

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オリジナル版では17世紀にタイムスリップするはずのトビーをせいぜいが十数年前の記憶の中へ呑まれていくにとどめる改変に、コスチュームプレイをやりきる予算も自身の胆力も既にあてにならないがゆえ、そこで手を打つしかなかったのだという戦術的撤退が瞭然と透けてしまうし、トビーというよりは彼を演じるアダム・ドライヴァーの肉体とアクションの存在感を頼りに、シナリオにはトビー怒る、トビー困る、トビー笑う、トビーバイクに乗る、トビー歌う、トビー踊る、トビー走る、トビー殴る、としか書かれてないのではなかろうかと思ってしまうくらい、どんなカットにもギリアムの情報が記されてきた彼の作品にしてほとんどアダム・ドライヴァーの記憶しか残っていないことに、『バロン』を終わりの始まりとするテリー・ギリアムの緩慢な終焉の物語がついに幕を閉じた気もしてしまうのだ。もはや想像力で闘うことを鼓舞するよりは遁走をすすめるモードにあることは『ゼロの未来』でもうかがえたとはいえ、すべてはこの物語のための雌伏の時なのだろうと考えた時期もあっただけに、我々は昏睡に見る夢の中で生きて行くしかないのだとするラストが洒落や諧謔でない心情に映ってしまうのが、もう俺をあてにしてくれるなというギリアムからの訣別にも思えてしまったのはともかく、それを特に感慨もなく受け入れた自分とそれを意外に思わなかったこと自分に少しだけ驚いたりもしたのだ。本来がストーリーテラーというよりは幻視の人で、この物語の時代、しかもそれがポストを果てなく重ねて透け始めたモダニズムが実体化のために求めた側(がわ)の物語とあっては、ロマンチストたるギリアムが徒手空拳となるのは必至だし、それゆえの妄執にも似たドン・キホーテへのシンパシーを抱きつつもうどこにも先がないことを受け入れる負け戦のロマンを謳おうにも、哀しいかな肉が落ちて痩せぎすの映像は自虐のメランコリーにしか映らなかったのだ。これで憑き物が落ちたとして、ギリアムにとっては『ローズ・イン・タイドランド』がセルフパスティーシュに陥ることなく時代と折衷できる幻視のサイズだと思っているので、撤退するならそちら方面を目指してくれればとその幸福を願ってやまないのである。デ・パルマもそうだけれど、ロマンチストかつヴィジョニストにとっては受難の時代であることはまちがいないだけに。
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2020年03月20日

ジョン・F・ドノヴァンの死と生/ぼくの次に世界が幸せになりますように

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ラストシーンでの無邪気と言ってもいい憧憬にあふれたタンデムに、ドランがこれまでの作品でしたきたように自分を切り刻んで投影させることよりはフィクショナルな主人公の行動と感情によって翻訳された物語を綴ること、すなわち外の世界を借りることで内の世界の強度を高める汎用的な作家性の獲得を先駆者ガス・ヴァン・サントをモデルに果たそうとする視点を見たようにも思えたし、そう考えてみればこの映画の外と内、青と赤、冷静と熱狂の歪なバランスの理由が納得できるような気もしたのである。いつになくプロフェッショナルな記号をまとった役者を配置してその側(ガワ)によって虚構を均しつつ、しかしそれをコントロールしてしまう自分を自分で信用できないせいなのか、ところどころそれを自ら踏み荒らさずにはいられない自分に向けた意地の悪さが映画をあちこちで断ち切ってしまっていて、とりわけ、ジャーナリストであるオードリー・ニューハウス(タンディ・ニュートン)が成人したルパート・ターナー(ベン・シュネッツァー)にインタビューする現在パートの座りが最後まで落ち着かないままで、本来は政治がメインの“シリアス”なジャーナリストが、ハイプなショービズ絡みの仕事を見下して気乗りのしないまま彼に向き合うという設定が既にオードリーの不利を誘っていて、その瞭然を当然のように見抜いたルパートが、個人の尊厳が踏みにじられるという点であなたが取材してきた世界の格差と僕のこの話のいったい何が違うというんだとここぞとばかり責め立てるわけで、このあたりは、これまで極めてパーソナルな表象としてそうした差別と断絶を描いてきたドランの鬱屈をぶちまけていたように思えてしまうし、ジョン・F・ドノヴァン(キット・ハリントン)とルパートに立ちふさがるのが、ジョンの母グレース(スーザン・サランドン)や彼のマネージャー(キャシー・ベイツ)、ルパートの母サム(ナタリー・ポートマン)、そしてジャーナリストのオードリーといったみな女性たちであって、これまでずっと母殺しとしての母親との関係が作品の背骨となってきた定型に対する批評からの指摘に向けた回答なのか開き直りなのか、そのいささか偏った対立構造が、目指したはずの普遍化を妨げてしまっているようにも思えてならない。しかもこれに加えて、出演パートがすべてカットされたジェシカ・チャスティンまでが女性連合に加わっていたわけで、彼女の役がルパートやジョンのどちら側にどんな風に立つ人なのかはわからないけれど、どうせ破綻するのであればそのさらなる爆風に吹かれてみたかったと思ってしまう。すべてはオードリーを前に自分とジョンの過去を語るルパートの回想であることを思ってみると、果たして彼は信頼できる語り手なのかという疑念も湧いてくるわけで、このすべてはルパートがそうあって欲しいと願い再構築したジョン・F・ドノヴァンの死と生の物語だとすれば、女性たちのいささか一面的で図式的な描かれ方にもうなずける気がするし、ジョンをある種のイマジナリーフレンドとすることで自身の尊厳を維持し続けたルパートの旅立ちと訣別の物語だと考えてみると、外の世界に向けて走り出す幸福の予感だけに彩られた明快なラストに拍子抜けすることもないわけで、それはおそらく、自分には開かれたハッピーエンドを語ることが可能なのだろうかというドランの実験結果ということになるのだろうし、ならば必要なデータは充分採ったように思う。ほとんどセリフすらあたえられないジョンの仮初めの彼女はその傷を誰が癒やすのか。ドランがすべての人たちに血を通わせてしまう分だけ残酷は捨て置かれる。
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2020年03月15日

レ・ミゼラブル/大人たちを夜露死苦

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ワールドカップの優勝に歓喜する人々を、その感情の奔流に同調するでもなく見つめるカメラと、つかの間解放された肉体の群れを不穏に彩る音楽とで捉えたアヴァンタイトルが、あそこにいた幻想としての「フランス国民」と現実との分断を既に告げていたようにも思え、あの群衆に内在する暴力的な矛盾を抽出して純度を高め、それをたった一人の少年に射ちこむラストへの苛烈な円環を為すすべもなく茫然としかし目をそらさずに見つめることを要求する監督の、せめてこれを第一歩としない限り誰もどこへも行けないのだという祈りにも似た悲痛な願いだけが、この映画にほんのわずかながら残された救いの余地ということになるのだろうか。もはや分断のバランスそれ自体が機能不全という機能として存在していることの象徴が市長(スティーヴ・ティアンチュー)であって、彼にとっては分断を煽ることで生じる隙間こそがビジネスであり、ムスリムとしてコミュニティを精神的に束ねるサラー(アルマミ・カヌーテ)を敵視するのはその障害であるからだし、自嘲気味にピンクの豚を自称する白人警官クリス(アレクシス・マネンティ)は白人vs非白人の構図に骨の髄まで倦んでしまっている一方、彼のラインに乗って分断を泳いでいくしか警官として生き延びる術がないことへの諦めと抵抗とで実は溺れる寸前でもあるグワダ(ジェブリル・ゾンガ)の、それゆえの曖昧と不安定が分断のバランスを破壊してしまう点においてこの状況の地獄のような救いがたさがいっそう浮かび上がってくることとなる。分断を悪しきことと断罪し善性の光で照らそうと砕身するステファン(ダミアン・ボナール)の、倫理と常識が打ちのめされ怒り悲しむ姿にぬぐえない無力感は彼がワタシたち観客の視点としてそこにいるからであって、ロマのサーカス団長がイッサ(イッサ・ペリカ)を彼なりの愛情をこめて手荒くしつけるシーンで、余裕なく縮み上がり拳銃を抜いたステファンへの嘲笑に感じる居心地のわるさは、それがロマの知る境界の向こうを何も知らない能天気な“善い人”に向けられたもの、すなわち彼を通してワタシたちに向けられていたからこその気恥ずかしさであったようにも思うのだ。ならばあのラストで、さあお前はいったいどうするつもりだと決断を突きつけられるのが市長でもクリスでもグワダでもないステファンであった点で監督がワタシたちを逃がすつもりなど一切なかったのは言うまでもないし、年端もいかない子供に自分たちが今までしくじってきたすべてのツケを回し、なおかつ悪魔的で残酷な精算を迫る大人たちに対してすべての子供たちから下された鉄鎚を避けるすべなどあろうはずもなかったのだ。子供のノンシャランで日々をやり過ごしていただけのバズ(アル=ハッサン・リー)が、大切なドローンを失ったことで淡い恋までも失ったことを知る青い寂寥をたたえたシーンは、分断の場所に生まれたというそれだけで否応なしに政治的な存在になってしまう子供たちの呪いをたったワンカットで語ってみせて、エピローグで引用される「レ・ミゼラブル」の一節とともに、すべての人種も政治も宗教も超えてこの世界のすべての恐怖と悪意と憎悪から守られるべき弱者が誰なのか、殴ってでもわからせるつもりで監督はこの映画を撮っている。
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2020年03月12日

スケアリーストーリーズ 怖い本/書かずに死ねるか!

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アンドレ・ウーヴレダルという監督の、怪異はあくまで手段であって目的ではないというトータルのバランスを見通す視点の深度と強度があればこそ、ジュヴナイル・ホラーだからといって、オカルトで道に迷わせホラーで閉じ込めてテラーで破壊するその手順に手心を加えるはずもなく、永遠にイノセンスを失うことをアメリカが受け入れた1968年という年のハロウィンに、ステラ(ゾーイ・マーガレット・コレッティ)という少女のイノセンスの喪失と自立とをそこに重ねることで、通過儀礼の物語を未知への恐怖と痛みとで彩ってみせたのである。暗い時代への予兆を彼方にしつつ、夜を超えた自身への確信を胸に旅立つラストはどこかしら『アメリカン・グラフィティ』の刹那的なオプティミズムに通じる香りすら漂わせた気もして、懐古趣味を裏返して普遍に封じるあたりはギレルモ・デル・トロの気配も見て取れるし、そこまでを嗅ぎ取りつつ正統なジャンル・ムーヴィーに幻視する地肩の強さをウーヴレダルに見てとったデル・トロの慧眼はさすがとしか言いようがない。ウーヴレダルが備える正解の一つは遅さの認識だろう。それはナイフで切り刻むのではない鉈で断つ恐怖の追求といってもよく、なにしろ彼の映画ではメタファーではない恐怖がきちんと視えるというかそれを視せることで物語が疼くように変調をきたすわけで、それは恐怖を精確にヴィジョンし目眩ましのカットやスピードを必要としないからこそ可能なスペクタクルであって、今作のようなジュヴナイルでは特にその歩幅が十全に奏功したように思うのである。こけつまろびつしながら立ちはだかるかかしのハロルドの圧力や足指なしが廊下の奥から角を曲がってゆらり現れる時の溜めは言うまでもなく、今作のモンスターではいささか性急な気配のあるジャグリーマンについては、屋外に飛び出してラモン(マイケル・ガーザ)を追撃する瞬間、いったん引きのカットにしてシークエンスをなだめているし、その巨体ゆえ遅々としか動けぬ青白い女がチャックを追い詰めるシーンでは、軽快と言ってもいいカットバックを多用することでモンスターの圧力を絶望に変える新機軸を見せさえするわけで、まだこんなアイディアが残っていたのかと舌を巻きつつ、たいていの嫌な目には免疫があるはずが、こういう目に遭うのはちょっと嫌だなあと思いがけずワクワクした気分で没入(=ジャック・イン ©黒丸尚)したのだった。アンドレ・ウーヴレダルとマイク・フラナガンがいれば界隈の未来は明るいにちがいない。
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2020年03月10日

ドミノ 復讐の咆哮/世界は泣き別れている

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窃視の角度に据えられたカメラによって生贄がクリスチャン(ニコライ・コスター=ワルドー)であることが宣言され、サイドテーブルに置き忘れられた拳銃をカメラがズームすることで益体のないゲームがそっとスタートする。彼が追いつくか逃げ切るか、生贄となった彼にとってはその存在を賭けたゲームに他ならないにしろ、主催者にとってはいつもの暇つぶしでしかないわけで、ここはひとつ趣向を変えて君たちにも分りやすいドミノ効果を用いることで、ある一つの世界線を見せてあげようではないかと主催者は手ぐすねを引きつつ上昇と落下を螺旋にまぶし、分割した時間を得意げに敷き詰めては世界の成り立ちをその断面で二次元化していくのである。それが偶然か必然かなど無い知恵絞った頭のカスを片付けてから言いたまえ、時間を逆回ししてみればすべては一連なりであることが瞭然ではないかとうそぶく光と時間の支配者にしてゲームの主催者デ・パルマにあらかじめ選択肢を奪われた男クリスチャンは、世界にかしずく小市民の常として偽装された自由意志を燃やしては知らず誘導路をひた走り、ただただあの屋上を目指すのである。そうやって彼が成し遂げたことと言えば、ひとつの思惑を葬るかわりに新たな思惑の誕生を祝福することでしかなく、それをニヒルなどというのは君たち特有の感傷であって、世界は絶えずアップデートされていることになぜ気が付かないのだと、既にしてデ・パルマはその結末に興味を失っているのだ。いくつもの交錯する視点が身悶えするようにより合わされることで形をなす世界の変形と奇形をあげつらったところで、モルワイデ図法とメルカトル図法のどちらもが地球を投影していることに違いはなかろうよと意に介さない地図製作者の業こそが、デ・パルマを巨匠サロンから蹴り出したのは言うまでもないことは、テロリズムという縮尺で投影したこの世界地図の恍惚と酩酊とを見れば瞭然だろう。あれほど呆れ果てて立ち尽くすガイ・ピアースをワタシは見たことがない。
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2020年03月08日

初恋/みんな〜殺ってるか !

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開始早々のゴロリに放蕩息子の帰還を喜ぶというよりは、今さらこういう露悪をカムバックの証だと考えているのなら、少し肩透かしくらうかもなと思ったのも束の間、その直後、加瀬を演じる染谷将太の拗ねた天使のような顔つきを見たことで、ああこの役者がこのラインで進むつもりでいる映画なら望みのものに違いないと合点し、三池映画なればこそあふれだす度外視の時間を、懐かしさのその分を手練れの円熟としてその帰還を歓迎した次第となった。とはいえ、これくらい条件さえ整えばいつでも撮れるから単純に状況の問題だし、それを帰還とか言って俺があえて遠ざかってみたいにされるのは心外だけどな、とでもいう余裕と笑っていない目つきのないまぜを感じたのも確かなところで、むしろその不在に首をかしげるべきではあるのだろう。これ、やっちゃっていいんですね、という俳優の共犯性を匂わせることによる解放区の演出という、そうそう誰にでもゆるされない方法をなぞっては玉砕してきた死屍累々を散々目にしてきたとはいえ、この映画がその復権を謳い上げたというよりはどこかしら感傷めいた口ぶりを隠していないのは三池崇史の冷静な現状認識であった気もして、葛城レオ(窪田正孝)とモニカ/桜井ユリ(小西桜子)という若き逃亡者を助けるのが、権藤(内野聖陽)とチアチー(藤岡麻美)という実質的なアウトサイダーたちだけに宿る仁義という失われた矜持であったことに、撤退戦を生きるしかない世界の哀しみと閉塞を二重に捉えたように思ったし、だからこそラストシーンに差す仄かな幸福の明かりをハッピーエンドとする精一杯に誠実すらを感じたりもしたのである。かつてであれば、全面展開したであろう2度ほどあった頭部破壊はショットの影に隠れ、排泄とわいせつの露悪も狂乱の息づかいのうち!という悪ノリや悪ふざけも前述した映画のトーンを維持するために鳴りを潜め、かつてまみれた悪食の愉悦という点では退行に映るかもしれないけれど、たとえば自身のイメージで許されるイージーさを逆手にとった、例えば通りすがりの酔っ払った看護師に状況説明させてしまうでたらめによるオフビートの出し入れは巧妙だし、「おれの部屋に来るか」とレオがユリに言った直後にベッドシーンを想像させるシルエットのカットをインサートしつつ、実はそれがクスリを抜くユリの悶絶であったという意地の悪さなど、そんな風に真顔で嘘をついて舌を出すたちの悪さこそが、ワタシの思う三池崇史の嫡子たち、例えば白石和彌が手にしていない一点であるようにも思えるのだけれど、ここで三池崇史が久しぶりに見せた気兼ねのなさがクレジットに名を連ねるジェレミー・トーマスの豪腕のいくばくかによっているのだとしたら、では誰が未来のジェレミー・トーマス足り得るのかという別の行き先も示されてしまうわけで、それはそれで遠くを眺めねばならない気もしてしまうのだった。
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2020年03月04日

1917 命をかけた伝令/この血がきみにつかないように

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あるいはこうした僕の考え方も、すべてある憂鬱と狼狽にすぎないかもしれない。もしふたたびあのポプラの樹の下に佇み、あの葉のそよぎに耳を澄ますときは、ほこりのように飛んでいってしまうものかもしれない。” レマルクの「西部戦線異状なし」でパウルが戦場の漂泊の末にたどり着いた透明な虚無に思いを至らせるこのパラグラフを、映画のラストはそっと引用したようにも思ったのだ。ただ、ウィリアム・スコフィールド(ジョージ・マッケイ)にとって、この日の戦いはドイツ軍を相手にしたというよりはパウルが喰われた虚無との戦いであったに違いなく、大戦最大の激戦となったソンムの戦いを生き延びて勲功のメダルを与えられたスコフィールドが戦場で失ったものは、おそらく人間の尊厳でありそこから湧き出す光の感情であったのだろう。メダルなんか持ち帰りたくなかったからフランス兵が持っていたワインと交換してしまったよと吐き捨てるスコフィールドが最後まであの写真を取り出すことをしなかったのは、汚れてしまった自身の手でそれに触れることができなかったからであるようにも思えたし、彼が心の底から自身を賭けて走り出したのは、トム・ブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)がスコフィールドの手放した光を見る人であったがゆえ生命を落とした、その瞬間からであったのは言うまでもないだろう。したがって、ディーキンスのカメラがウォームアップを終えて解き放たれたステップを踏み始めるのはトムの死以降となるわけで、カメラはまるでトムの意志が乗り移ったかのようにスコフィールドを追走し回り込んでは彼を鼓舞し続けるのである。伝令の役目を果たしたスコフィールドが、トムの兄ジョセフを探し出して遺品を渡し握手した瞬間カメラはそっとジョセフの隣へと歩を進め、そこに至ることでトムは、家族の写真をその手にすることを自らに許したように思うのだ。ここには血で血を洗う戦場の凄惨はないけれど、戦争の虚無に喰われかけた男が浄化を果たし再び心に明かりを灯すに際し3つの生命を奪うことを求められそれに応えざるを得なかった背反こそが戦争という矛盾そのものであるわけで、カメラの解放というよりはさらなる抑圧でしかない長回しの呪縛こそがその苦々しさそのものであったのだろうと考える。やむをえないとは言え、ワンカットの技巧をことさら喧伝することが必要な映画ではないと思う。
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2020年03月01日

ミッドサマー/夜がこんなに暗いはずがない

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私が求めているのは共感ではなく理解なのだと、上滑りする世界との軋轢にすり減っていくダニー(フローレンス・ピュー)の生き地獄に、むしろ出発前のアメリカパートで口の中が乾ききってしまう。鏡越しの会話に明らかなようにダニーとクリスチャン(ジャック・レイナー)の関係はもはや破綻しているにも関わらず、別れを切り出した方が悪人になるというチキンレースが互いのささくれを増やしていくばかりで、のどに刺さった小骨をひとつピンセットで取り除いては別のところへまた一つそっと突き刺していくものだから、痛みは常に更新されて生々しいままでしかない。この共感と理解の殴り合いというのはSNSが明るみに出した虚しく苦しい闘いであるのは言うまでもなく、理解を譲らないことでクリスチャンの側からは徹底して面倒くさいやつとして描かれるダニーに、しかし被害者的な色合いを一切用いることをしないアリ・アスターの透徹した虚無が既に怖ろしい。そうなってくるともはや善か悪か正しいか正しくないかといった断罪よりは、どちらがどちらを潰すかという殲滅戦でしかないわけで、共感の野郎どもの只中に一人乗り込んだダニーが圧力に耐えきれず崩れ落ちたバスルームから飛行機のトイレへと転換した瞬間の先は、お前が私たちだけの共感に身を委ねさえすればあいつらを屠ってやってもいいが?という大いなる誘惑との駆け引きと葛藤の神経戦にも思えたわけで、ひとたび感情を爆発させるやいなや、無印良品のごとき彼や彼女が押し寄せて共に泣き叫んでは感情を無効化してしまう共感の総攻撃こそは今この世の中のグロテスクな病巣そのものにも見えたのだ。この界隈の作品をある程度見て知っていれば、ホルガ・パートの展開や描写それ自体にさほど殺られることもないように思うのだけれど、それよりは、理解不能な世界にそれでも立ち向かっては傷を負い続けるダニーを懐柔し虜にしていく光と笑顔に内在する、たとえどこまで降りていったとしても永遠に分かりあうことのないだろう光を喰らう漆黒の存在を、それを否定する理由があるならぼくに言ってみてくれないかとうっすら笑みを浮かべながら問いかけるアリ・アスターという人が、ベルイマンやハネケが常に見据えて超えることをしない、むしろ超えないための緊張を作品の強度とした一線の先にあらかじめ居る人なのではなかろうかという気もしてきたのである。もちろんそれは先進とかそういった意味ではなくあらかじめその領域に在る人であったということで、そことこちらとの行き来による振幅をあてにしない点で極めて特異な作家であるのは間違いのないところだろう。したがって、こちらの世界で全面展開するあちらを描いた前作『ヘレディタリー』および今作の出発前パートから、あちらの世界で展開するあちらへの全面移行を果たしたホルガ・パートはアリ・アスターにとってチャレンジだったのは言うまでもないのだけれど、それゆえの奇妙な調和がもたらす破綻のなさが、たとえば街中で時おり見かける、自転車を手放し運転する人の真顔のイージーに収束していた点である種の飽和点に至ったように思えたりもした。アリ・アスターは『回路』を観ていつかあれをこの手でと決めていたのだろうか。しかしそれよりは、うっすらと赤みさすジュースの恥じらうような禍々しさよ。
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2020年02月21日

屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ/影が光りを喰うところ

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これがブコウスキーであったなら「粗にして野だが卑にあらず」とでもいう屈託に沈む日の黄昏をメランコリーに綴る物語にもなり得たところが、このフリッツ・ホンカ(ヨナス・ダスラー)という男というか生き物は、目盛りの粗い日々に野良犬のごとき卑屈にまみれつつ野生動物の直截な本能に衝き動かされた結果、アルコールとセックスだけが彼を人間社会につなぎ止めていたようにも思われて、殺人という行為が、ホンカにとっては何の意味もない社会と彼との間に生じる存在の誤差に過ぎない点で彼に快楽殺人者の美学も切実も備わるはずもなく、ならば死体などシュナップスの空き瓶や汚れた皿、吸い殻の溢れる灰皿と同じ日々の塵芥に過ぎないわけで、最初は真夜中に人目を忍んで捨てに行ってはみたものの、その手間に嫌気がさしたあげく自宅収納としてしまうあたりの脈絡を丁重に描くことで、監督はホンカに人格を植え付けることに成功している。思わず丁寧ではなく丁重と書いてしまったのは、映画の原題(”Der Goldnene Handschuh=The Golden Glove”)となっているバー「ゴールデン・グローブ」に集う客たちの「粗にして野かつ卑」な精神と生態を水平に活写する筆さばきの細やかさと温もりのある光の当て方こそが監督のヴィジョンであったように思うからで、それはホンカを見る人、ホンカに見られる人、ひいてはホンカに殺される人すべてが人格を備えた存在として描かれることにより、最終的に「ゴールデン・グローブ」へとたどり着いた彼や彼女たちの人生を肯定していたように思うのだ。何も注文しないなら店から出ていけと言われた文無しのお婆さんに、自分にしたところでさして余裕があるとも思えない女性が飲み物を注文してやるシーンの穏やかな交歓や、決して一線を越えることのない客同士の打ちつけるような甘噛みは、そこに自虐や被虐、自己憐憫の情動は一切ないし、ジャングルクルーズの気分でバーを訪れたブルジョアな若者への痛烈なしっぺ返しは、おれと同じ人生を歩んでなお酒を飲む金を持っていたらここへ来るがいいという矜持の現れにも思えて、ホンカも含め第二次世界大戦が産み落とした私生児としての彼や彼女たちを、ファティ・アキンはこれまで彼が見つめてたきたのと同じ視線と視点の角度で生かしたり殺したりしていくのである。それだけに、一度は酒を絶ちまっとうな仕事についたホンカが、酔って人生の屈託を吐露する職場の女性ヘルガ(カティア・シュトゥット)に促されてついには酒を口にしてしまい、再び転げ落ちるように瓦解していくペーソスの救いのなさは残酷ですらあるわけで、バラバラにした4人の女性を部屋のあちこちに隠したまま粛々と日々を営む殺人鬼に対してすらそう思わせる世界の引きずりおろし方こそは、世界に負けを背負わされた人間の見る光景を翻訳するこの監督の真骨頂といってもいいだろう。何より殺された彼女たちはみな、殺されるその時まで確かに生き続けていたのだ。この映画を観ていて最初に頭の中で繋がったのは、Anders Petersenの”Cafe Lehmitz” という写真集で、1967年に当時20歳だったスウェーデンの若者がハンブルグの場末でカメラを抱えて彷徨した夜ごとを安酒場“Cafe Lehmitz”を舞台に焼き付けたモノクロームの覚え書きは、この酒場の外では一体どう生きているのか想像も難い真夜中の人々に向けた透明で均質な視線に貫かれ、深夜の気高さを纏った人々をしてまるで鏡でも見るかのようにカメラのレンズを覗き込ませていて、それはまさにこの映画が持ち得た眼差しをそのものだったように思うのだ。トム・ウェイツのアルバム「RAIN DOGS」でカヴァーとして使われたのがこの写真集の中の1カットで、ワタシもそこから遡って虜になったのだけれど、突然昔懐かしい知己に出会った気がして少しだけ脈が早くなってしまったりもした。おいそれとは薦められない空気と描写の映画ではあるけれど、『女は二度決断する』を観て血が逆流した人なら覚悟ができていると思うので是非。


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