2020年08月10日

悪人伝/その男、頑丈につき

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ピカレスクやアンチヒーローなどと言ってみるよりは悪漢といった方がより滋養が滲むというか、ことマ・ドンソクのアイドル映画とあってはそれがふさわしいように思うのだけれど、白石和彌が局所的に踏ん張っているとはいえ、プログラムピクチャー的なやり逃げの爽快と痛快を伴う邦画にはとんとお目にかからなくなったなあと、特にマ・ドンソクの大暴れする映画を見るたびに思うことたびたびなのである。政治にしろ社会運動にしろ韓国からのニュースでしばしば感じる転覆の気配とそのダイナミズムがもたらすのが、世情の不安定なのかあるいはパラダイムシフトによる活性化なのかそれは様々であるにしろ、そうしたオプションのない社会が当たり前のように馴らされてきたこの国では、悪漢がアンチヒーローとして跋扈する世界観というのはファンタジーとしての大きな目盛りが必要になって、それを回す手間ひまは娯楽にふさわしくないと判断されてしまうのだろう。だからワタシたちが、かつて存在したノスタルジーとしての悪漢ではない、今のこの世の中で大暴れする悪漢を見て快哉と昂奮を叫ぶとするなら、マ・ドンソクを一発打ちこむのが効き目といい即効性といいまず間違いがないということになる。今作では三すくみのアンサンブルに自らを押しこんでいるようでいながら、基本的には“気は優しくて力持ち”のバリエーションでのしあがってきたマ・ドンソクが、ここでは気は優しくての部分を侠客の矜持で、力持ちの部分を刺されようが轢かれようが起き上がる不死身の肉体で代弁する役得、そして何より人間としての度量をその肉体の輪郭と質量にトレースする造形の完璧さで、語るというよりは魅せるためのストーリーが幾重にも踏み抜く奈落の底を支え続けてみせるわけで、現状ではマ・ドンソクの気は優しくて力持ちマーケットを脅かす競合がいないことおよび、その卓越した自己プロデュース能力を考えると、彼の独り勝ちはこのまま続いていくことになるのだろう。マッシヴな突進で蹴散らすばかりかと思いきや、殺人鬼(キム・ソンギュ)が逃げ込んだカラオケ店のブースを探す中、怯えながら歌う客を小窓から見つけ、身ぶりで彼女たちに退避を促しながら奥のドアをぶち抜いていく静から動への細やかなアクションも存外に魅せて惚れ惚れとするし、面影に大和武士を想い出した刑事役のキム・ムヨルはじめ、ホッピー神山のようなサンドの副官など、たぎる者はたぎり続け、卑しい者はひたすら卑しく狡猾な者は地獄の底まで狡猾に、見ればうなずく劇画機能的な貌の面々にも唸らされることとなる。ドンスがナイフの刃を鷲掴みにして殺人鬼の動きを止めるシーン、松竹セントラル前での北野武vs白竜戦を想い出して少しだけ目をすがめたりもした。
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2020年08月05日

カラー・アウト・オブ・スペース -遭遇- /宇宙からの啓示

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中心的な驚異に関して、登場人物は現実の人生で人がそういう驚異に示すのとおなじ、圧倒的な感情を示すべきです。驚異が当然のものとうけとられることはないのですから。”―「怪奇小説の執筆について

これはラヴクラフトがしたためた自身の小説作法の中の一節で、この前段には“驚異の存在そのものが、登場人物や出来事の影を薄くさせるはずのものなのです。”という一文と共に、主題としての驚異を描写するためには、それ以外の部分において注意深く現実主義を維持しなければならないことを念押ししているのだけれど、ではそうしてみた時、ニコラス・ケイジという異物はミスキャスト以外の何物でもないのではなかろうかという当たり前の疑問が生まれることになるだろう。しかし、ある種の記録文学の体をとったがゆえ、だいたいにおいてラヴクラフト作品はそうだけれど、ラヴクラフト言うところの現実主義的描写で驚異の出し入れを精密な客観性でコントロールした原作を映像化するには、登場人物の主観描写としてその驚異を直截的に描くというハードルをクリアしなければならないわけで、“最大の力点は微妙な暗示に置かれるべき”とするラヴクラフトが自ら傑作としたこの原作のアトモスフィアをスポイルすることなくそれを行うために、原作では最期まで正気を持ちこたえたネイハム(劇中ではネイサン)を、「驚異」の翻訳者、もしくは増幅器、あるいはハブとすることでそれを観客にリレーするために、ニコラス・ケイジというあらかじめの劇薬を投入したのだろうと考える。それは、今作において正気と狂気の狭間で闘い続ける実質的な主人公をラヴィニア(マデリン・アーサー)と描いてることにもうかがえて、ネイサンを『シャイニング』におけるジャックとしてとらえてみれば、なぜネイサンがニコラス・ケイジでなければならなかったのか腑に落ちる気もしてくるわけで、この脚色のアイディアとキャスティングこそが今作最大の勝因であったと言ってもいいだろう。そして何より、テレサ(ジョエリー・リチャードソン)とジャック(ジュリアン・ヒリアード)の名状しがたき融合体がロブ・ボッティンのモンスターを烈しく想起させるのも、『遊星からの物体X』の原作「影が行く」がジョン・W・キャンベルによる「狂気の山脈にて」へのオマージュであった(とする論にワタシは与する)ことへのアンサーであったことはもちろん、ネクロノミコン片手に虚しい抵抗を試みるラヴィニアといい、ラヴクラフトに対するリチャード・スタンリーの深く捻れた愛情と敬意の念がそこかしこにうかがえたことは言うまでもない。手塩にかけて育てたにも関わらず名状しがたき野菜と成り果てたトマトに怒髪天を衝いたニコラス・ケイジが、スラムダ〜ンク!と叫んで跳び上がりながらそれをゴミ箱に思い切り叩きつける後ろ姿に、自分の居る猟場とそこで何を狩り立てればいいのかを熟知した猟犬の矜持と薄っすらとした孤独を見た気がして、緩んだ頬がほんの一瞬戸惑った気もしたのだった。その背中は、わたしは第68回アカデミー賞主演男優賞受賞者、誰の演出でも受けてみせると言っていた。
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2020年08月01日

ブラック アンド ブルー/できれば私はそうしたい

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ナオミ・ハリスをオスカーノミニーへと推し上げた『ムーンライト』の原作が”In Moonlight Black Boys Look Blue”であったこと、彼女の演じたアリシア・ウェストが身につけた防弾ベストの下の身体はおそらく青あざだらけ(Black and Blue)であっただろうこと、そして何より黒人にして警官(Blue)であったこと、良くも悪くもそれら全てが焦燥と切迫のうちにぶちこまれることで、それが正しい場所に刻まれたかどうかはともかく、この映画それ自体が一つの見過ごせない爪跡と化している。ハリケーンと貧困が人々を食い尽くしたニューオーリンズのある街を飛び出したウェストは、軍隊に入ってアフガニスタンへ従軍し現地で幾多の戦闘を経て除隊した後で、かつて自分が飛び出した街へ新人警官として戻ってくる。着任間もないある夜のパトロール中、踏み込んだ廃墟で市警麻薬課の刑事マローン(フランク・グリロ)とその部下が闇取引の相手である麻薬の売人を口封じに銃殺する瞬間を彼女は目撃し、それは同時に彼女の防弾ベストに装着されたボディカメラ(警官の行動を可視化するための記録装置)にも録画されることとなり、それが明るみに出れば身の破滅となるマローンとその仲間は自らもウェストを追い詰めると同時に、黒人の売人殺しの罪をウェストに被せることで黒人ギャングにも彼女を追わせるよう画策し、ウェストはボディカメラを胸に正義の遂行を賭けた一晩のサヴァイヴァルをニューオーリンズの夜に繰り広げることとなる。といったメインプロットからは『トレーニングデイ』を連想するのが容易いし、実際この映画のサスペンスはあらかたがここから発生していて、しかもその醸成と維持が巧みでスリリングなあまり、中盤でウェストが言う「私は良い人間と悪い人間の対立よりも、もっと人間そのものと向き合うために軍隊より警官を選んだのだ」という言葉がともすれば行き場なく宙に浮いてしまうわけで、かつて自分が捨てた街で警官として生きる彼女のBlack and Blueなアイデンティティに反発する黒人コミュニティとの断絶と理解の物語は、主に彼女と旧友マイロ(タイリース・ギブソン)およびかつての親友ミッシー(ナフェッサ・ウィリアムズ)の間において、彼女の逃亡劇のオプションとして語られるにとどまってしまうのがやや物足りなく思えるのは否めない。特にマイロに関しては、序盤で白人警官にジョージ・フロイド氏のケースを彷彿とさせる強圧的なマウントを取られ恐怖と屈辱のあまり涙を流すシーンが彼のスタートとして用意されていて、当初は事なかれのスタンスでウェストを遠ざけていた彼が、正義の遂行に身を賭してのぞむ彼女の姿に当事者意識が点火され、最終的に彼が警官相手に何をしてみせたのかというそのゴールへの物語が用意されているだけに、街を出たウェストと残ったミッシーとの対比も含め、ウェストという清冽な劇薬によるコミュニティの再生という全体像をよりクリアにするには、既に自身の中に答えを見つけているウェストに更なる試練を与えるよりは、彼女を中心にスイングする群像劇の構造をより徹底すべきだったように思うのだ。とはいえそれもこれもダンテ・スピノッティ(『ヒート』『L.A.コンフィデンシャル』)のソリッドに不穏を扇情するカメラの疾走するメインプロットが圧倒的に仁王立ちしていたからで、劇中のあるセリフのように「あちらにつくか、こちらにつくか」どちらか一つを選べと言われた選択の結果であればそれもまたやむなしと思えてしまうくらい、ウェストが生き延びた夜にかかげられた血と銃弾と絶叫のタペストリーを否定する術はワタシにしたところで持ち合わせてはいなかったのである。アメリカの白人外道を一手に引き受けるフランク・グリロが、あまりにも迷いなく一途にクズで既に神々しい。
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2020年07月28日

海底47m 古代マヤの死の迷宮/わたしたちが水中だったころ

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※誰それの生死に関する点に若干触れています

本来ならそこでは死んでいるはずの人間が背中のボンベだけで生かされている、いわば仮死状態で漂う黄泉の国の静寂をかき乱す者として彼女や彼らはあるわけで、下界では居場所のない主人公がその境界を越えることで喪失を再生に変えながらも、そこには多大なる犠牲が伴うことを容赦なく告げる監督のオブセッションは前作「海底47m」からより苛烈に更新されることとなる。予兆としてのオープニング、姉妹の相克、意志にそぐわぬ越境、それら報いとしてのサメ、そして屠られ捧げられる者、彼女が世界から分捕った居場所と失ったすべてとの地獄のバランス、という一度語られた物語を倍増された予算でさらに語り直す監督の妄執は、実際に死の祭壇をしつらえ、倍増どころではない数の生贄を捧げるその熱狂に強化されたあげく、ミア(ソフィー・ネリッセ)に沁み込んだ死の匂いに蹴散らされ目をそらし身をそらすキャサリン(ブレック・バッシンジャー)をとらえるミアの視線の、私が二度と戻ることのできない世界の住人であるこいつ、から、しかし私にとっては既に道端の石ころでしかないこいつ、への刹那のスイッチこそをミアの暴力的な覚醒の証とし、それが彼女にとっては幸福なのか不幸なのか、前作では描かれなかったそのラストの先のフェイドアウトの真空にまで監督は手を伸ばしたように思ったのだ。9割方を占める海中シーンにも関わらず、音と光の炸裂をストーリーに焚きつけるアイディアによる単調さの回避、幽鬼のような盲目サメのデモニッシュな造形と質量の彼岸のたゆたい、プロフェッショナルではないアマチュアゆえの全身を賭した闘い、そしてこれらをパッケージする幻視の悪夢のようなケレンと書き連ねてみれば、異形の傑作『ストレンジャーズ/戦慄の訪問者』の続篇を正攻法で押し切った地肩の強靭さにもうなずけるわけで、今後ヨハネス・ロバーツという名前を界隈で見過ごすわけにはいかなくなったのは言うまでもない。盲目サメに背中のボンベを捉えられ、このまま喰われるかボンベを捨てて自死を選ぶかという究極の選択を迫られたアレクサ(ブリアンヌ・チュー)の最期は、かつてこれほど切ない溺死があっただろうかと心震わされて個人的なピーク。一方では、もしやマヤ/アステカ文明の遺跡に寄せるためなのかというアズテック・カメラ(AZTEC CAMERA)による導入および凄まじく状況説明的に響き渡るロクセット、にも関わらず「愛のプレリュード」については水中での響きを考慮してあえてカーペンターズとは異なるヴァージョンを選んだというインサート曲への奇妙な執着が絶妙に収まりの悪さを誘っていて、その全体を見渡してみれば、このジャンルにおける『ディセント』以来の洞窟スリラーの傑作という称号までも合わせて獲得したことを伝えておかねばなるまいと思っている。ぜひ劇場で。
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2020年07月24日

レイニーデイ・イン・ニューヨーク/たどりついたらいつも雨ふり

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当時82歳の監督兼脚本家が孫のような年恰好の俳優たちに「これが現実さ」「現実なんて夢をあきらめた人のものよ」と諦念と達観を語らせたあげく、美しい主演男優(ギャツビー/ティモシー・シャラメ)は、ぼくは一酸化炭素の香りとタクシーの騒音、そして灰色にくぐもった空の下でなきゃ生きられない都会のバガボンドだと宣言し、もう一人の美しい主演女優(アシュレー/エル・ファニング)をおぼこなカントリーガール扱いをしては、慇懃無礼にほっぽり出すのである。そしてアレンは、1930年代のNYにうっすらと死生観を湛えた『カフェ・ソサエティ』、1950年代のコニーアイランドを愛と幻想のアサイラムと描いた『女と男の観覧車』と再び私小説のタガを外し始めたその仕上げとして、ティモシー・シャラメをピーターパンに、セレーナ・ゴメスをティンカーベルにあつらえることでマンハッタンをネヴァーランドと幻視しては、君たちがこれを昏睡の夢と思うならもうそれでかまわないと居直ってみせてすらいる。したがって、ネヴァーランドの住人となることを許されないアシュレーに施されるはりぼてのスノッブ描写には当然悪意が漂うわけで、『女と男の観覧車』におけるケイト・ウィンスレットといいブロンドの白人女性へのネガティヴな執着に加え、今作のセレーナ・ゴメスの黒髪を見るにつけその役回りに託した黒い屈託をアレンはすでに隠す気すらないわけで、プロットを探りシナリオを仕上げ、撮影編集すべてのプロダクションを経てなお希釈されるどころか洗練すらされるその「悪口」に陶然としてしまうのをワタシは否めない、というか否むつもりもないのだ。アレン史上、もっとも眉目秀麗な彼のヴァージョンとなったティモシー・シャラメのどこまでもヴィヴィッドな猫背のノンシャランは、いかにもリアル・アレン的なブラウンコーデですらを洒脱に着流して、ほとんど腹話術の人形的なやり過ぎすら感じさせるのもアレンの止まらぬ執着ということになるのだろうし、分割されたアルターエゴとしての映画監督ローランド(リーヴ・シュレイバー)と脚本家テッド(ジュード・ロウ)にはさらりと自己憐憫の場も与えつつ、などと書いてみればいかにも神経症的なスラップスティックに辟易しそうなものだけれど、前作で狂気の光と屈託の影で煽りまくったヴィットリオ・ストラーロのカメラは一転して、既にすべては赦されたのだとでもいう柔らかな光と影のあわいでギャツビーを押しいただくだけにたちが悪く、そしてそれは映画でしかなし得ない口上のたちの悪さであると同時に、ウディ・アレンにしかなし得ないたちの悪さであるからこそなおのことたちが悪いのだ。ちなみにワタシは、今のところはそうする判断ができるほどの手持ちがないのでアレンを断罪する側に回っていないし、彼の問題に限らず「彼の本を買わなければいいし、映画に行かなければいいし、音楽を聴かなければいい。金を投じなければよい。」というスティーヴン・キングのスタンスに準じることにしている。
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2020年07月21日

パブリック 図書館の奇跡/STAY HOME STAY FREE

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「私は図書館という公共機関を行き来する情報の自由を守るために人生を捧げて来たんだ。この国では公共図書館こそが民主主義の最後の砦なんだよ、それをお前らみたいな悪党が戦場に変えやがったんだ!」と館長のアンダーソン(ジェフリー・ライト)がブチ切れた瞬間こそ、悪党呼ばわりされたラムステッド刑事(アレック・ボールドウィン)と地方検事デイヴィス(クリスチャン・スレイター)を悪役とする構図が浮かび上がりはするものの、一般市民(The Public)を虐げる公僕をとっちめて溜飲を下げることが監督・主演・脚本をつとめたエミリオ・エステヴェス(スチュアート役)の目的でなかったことは、それゆえ時おりふらついてしまうプロットにも見てとれて、監督がこの物語を通して謳い上げたのは、人種や階級など人々の平等を妨げるすべての問題に関係なく一般市民(The Public)には情報を公開したり利用する自由があり、言うまでもなくそれは言論の自由であり基本的な人権でもあること、そしてそれが実践される公共図書館こそが民主主義の砦であるとしつつ、その「情報の自由」が脅かされつつある現在のアメリカを一晩の寓話に圧縮してみせたということなのだろう。アンダーソンのセリフにもあった「情報の自由」はけっして装飾的な言葉として使われているわけではなく、1966 年に制定された情報自由法(Freedom of Information Act)を承認したジョンソン大統領の『民主主義は国家の安全が許す限りにおいて、すべての情報を国民が知る時に最もうまく機能する』という言葉の最前線の実施機関として公共図書館が在ることの宣言でもあるわけで、例えば劇中で来館者が「ジョージ・ワシントンのカラー写真が見たいんだけど」と尋ねるシーンも、それはけっして図書館員はつらいよというオフビートな緩和というよりは、情報を見たい知りたいといういかなる類のアクセスをもまずは尊重するべきなのだという姿勢のあらわれであるのだろう。前述したように物語上の対立要素としてラムステッド刑事と地方検事デイヴィスが描かれはするものの、寓話としての楽観性や性善を維持するために彼らがふるう法と秩序の鉄槌もあいまいな腰砕けに落ち着くしかなく、それは現在のアメリカで実際に起きている苛烈な軋轢からすればいささか夢見がちであるのは否めないにしろ、それを冷笑するよりは、ともすれば見失いがちな正気を確認するためにどこまでも正論が愚直に遂行される姿を新しい記憶の一つとして留め置くべきだと考えたいし、最後のバスの車内でひとりだけ浮かぬ顔を隠しきれなかったスチュアートに、何よりシニカルを抑え込むことこそを目指したエミリオ・エステヴェスの隠せぬ徒労が影とよぎった気もしたからこそ、ワタシは彼も映画も信用するのだ。

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2020年07月16日

透明人間/もうあなたしか視えない

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※若干展開にふれています

キッチンでコンロのフライパンを焦がすシーン、シドニー(ストーム・リード)の部屋に向かうセシリア(エリザベス・モス)がカウンターを離れた瞬間、彼女が置いた包丁がひらっと舞いあがって姿を消し、それから次第にコンロの火力があがって炎が立ち上り、水をかけようとしたセシリアを制したシドニーが消火器でその炎を消して一応は事なきを得たようには見える。このシークエンス以外では追いかけ回り込み切り込む神経症的なカメラワークがセシリアの心象を煽り続けるだけに、ここでのフィックスの長回しシーンは一種異様な静けさを湛えていて、劇中で数度インサートされる監視カメラのモニター映像がそうであったように、すべての感情や意思が排除された場所で永遠に記録され続ける世界の禍々しさ、それは例えば光などとうに届かない深海でカメラの眼が捉える人間の意志など介在したことのない世界への畏れにも似つつ、何も見ていないがゆえすべてを映してしまういわば死者の眼とも言えるカメラの眼に人間の眼を重ねることで生じる禁忌の震えとでも言えばいいのか、しかもそこにはカメラが映すことのない存在があることを先だっての包丁によってワタシたちは暴力的に知らされているわけで、カメラが視つづければ視つづけるほどそこにないものが脳内に膨らんでいく時の、その乖離の淵に投げ出されるような言い知れぬ不穏と不安においてこのシーンが映画のピークとなることで、以降はその余韻が、セシリアを襲う視えない恐怖の通奏低音として映画を支配し続けていくこととなる。そうやって、セシリアが攻勢に転じて以降、存在が視認されることで恐怖が失速しないために打ち込まれたくさびとしての機能は、綱渡りをする恐怖ではなく綱渡りを見る恐怖を塗りたくるにおいて傑出するリー・ワネルの面目躍如にも思えたのだ。前作『アップデート』でも顕著だった、脇のキャラクターに不可避の陰影をつけつつもそれらのストーリーを最低限しか主人公に交わらせないことで遠近を際立たせ、物語が止まっているときでさえ推進するスピードの感覚を手放さない手管はより洗練され、物欲しげな語り手であればマーク(ベネディクト・ハーディ)をセシリアの新たなロマンスの相手とすることで嫉妬の血祭りにあげられるシークエンスに手を出してしまうところを、エイドリアン(オリヴァー・ジャクソン=コーエン)でもジェームズ(オルディス・ホッジ)でもない、外部の世界がセシリアの備えるチャームを認知する目としてすれ違うにとどめ、これがセシリアという一人の女性がみずからを開放していく物語であることを考えてみれば、このシーンを踊り場をしたことの意図も自然とうなずけてくるのだ。姿の視えぬストーカーに悄然とし、どうしてわたしなの?と打ちひしがれてつぶやくその答えを、限界を超えて追い詰められたセシリアは知性と勇気と思いやりを武器に闘うことで明らかにしていくわけで、セシリアの内部に眠る汚れのない輝きを見抜きそれを弄び飼いならし屈服させるにおいて発揮されるエイドリアンの醜悪で歪んだサディズムは、それゆえ彼女を欲し続けたにちがいなく、ついに事切れたエイドリアンから颯爽と顔を上げて歩き去るセシリアの、威風堂々とすら言える佇まいこそが本来そうして世界にあるべきセシリアという女性その人だったのだろう。だからワタシは、この先の彼女がガラスの箱に閉じ込められた女性たちを救う視えない闘いに身を投じたとしてもなんら驚くことはしないのだ。
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2020年07月13日

SKIN/スキン〜首輪のない犬

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『SKIN』(短編)も今作も劇中に登場する黒人はあくまで物語上の装置としてあって、行って帰る旅、もしくは行ったままの旅に出るのは白人なわけで、一人相撲をとっては右往左往するばかりのその姿を見るにつけ、黒人問題というのは結局のところ白人問題に過ぎないということがあらためて突きつけられる気がした。それを少し乱暴に言ってしまえば、白人にとって黒人が共存すべき存在でないのは、黒人がもはや共生のための存在となっているからで、優生思想の成立が劣った種を求めるように、白人至上主義者が至上を謳うためには非白人の存在が不可欠で、自身の確立だけでは為し得ない彼らのアイデンティティの脆弱と不安定こそが白人問題であって、ブライオン(ジェイミー・ベル)が身を投じるのは、レイシズムの洗脳を解く以前にまずは自律した社会的存在として立つための苦闘であり、人生の選択を与えられなかった人間がそれを勝ち取るという点において、ブライオンが知らず辿るのもまた尊厳の抑圧とその解放をめぐる物語となっていくわけで、One Peoples Project(OPP)の活動家マイク・コルター(ダリル・ラモント・ジェンキンス)が急進にはやる若者をたしなめて説くのも、そうした白人問題に黒人がいかに向き合うことが可能かというその場所へ行きつかざるを得ないことを知っているからなのだろう。ブライオンの養父であるシャリーン(ヴェラ・ファーミガ)とフレッド(ビル・キャンプ)のクレイジャー夫妻が疑似家族としてピューリタニズム的家族愛を鎖とすることで白人至上主義カルトを運営していくやり口の狡猾とえげつなさは、問題の根深さをより顕わにするし、フレッドが拾って来たギャヴィン(ラッセル・ポスナー)やジュリー(ダニエル・マクドナルド)の娘デズリー(ゾーイ・コレッティ)に対するシャリーンの蛇のようなアプローチは、たとえ彼女に後にあかされる過去があるとはいえ、かつてのブライオンもおそらく同様だったのだろう犠牲になるのが不幸を抱える子供である点において、より醜悪の度合を増していくように思うのだ。とはいえ、そうした事実に派生する背景と状況の描写を優先したこともあって、ブライオンとジュリーの関係も含め造型されたキャラクターの感情の行き来がいささか不自由であったことや、寓話としての『SKIN』(短編)が補完していた肌の色とタトゥーが交錯する呪われた意味性を欠いてしまうことなど、あくまで秀逸なレポートとしての機能で高止まりしてしまったのが惜しくもあったのだけれど、『SKIN』(短編)における監督の貫くような幻視を見る限り、今作では伝えるべきことを伝えるというその役割に徹して自身のエゴを収めたのだろうと考えておきたい。
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2020年07月10日

アングスト/不安〜殺人鬼には手を出すな!

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『ザ・バニシング−消失−』にしろ『ヘンリー』にしろ80年代のある領域に生息した映画のまとう文学的と言ってもいいロマンチシズムは、深淵の怪物に対する未知の憧憬とでもいえばいいのか、探究者の抱く上気した情熱から発熱していたように思うのだ。そしてこの映画もまた、傑出した先達の眼差しを頼りに殺人者に憑依することによって、怪物の内面を辿る冷熱の航海へと乗り出していくわけで、主人公(アーウィン・レダー)をK.と名付けた魂胆に素直にのってみさえすれば、K.にとっての不条理な世界を彼の視点で偏執的に描くことでミクロからマクロへの突破を図るその野心の、予想を超えた達成にはしめやかに敬意を捧げるしかなかったのだ。ステディカムらしきカメラをいったいどのようにセットしているのか、主人公だけが確固として立つ周囲を背景が曖昧に揺れ続けるショットや、ひとたび彼を離れるや縦横の動きで彼の行動を監視し始めるクレーンショットは、全編にわたる彼のモノローグおよび、リンチもかくやという超絶クロースアップとクロスすることで異様な立体感を醸しだしていくこととなり、それらカメラの自由が奪われる室内シーンでは彼にのしかかる殺人の徒労がただただひたすら逐語的に描写されていくことになる。ここでの、現実とは異なる計算尺をもった人間が行う弛緩した(ように映る)演算の無駄と無理とムラは、90年代を迎えて先代の探究者たちの成果をもとに実を熟した、シャープな陰影とエッジの効いた色彩でアーティフィシャルにレイアウトされた解剖学的なゴア(『セブン』『羊たちの沈黙』)では真っ先にデオドラントされた悪食で、それゆえマーケットの口には合ったにしろ、実は誰もその正体を知らないがゆえの始まりも終わりもない本質の曖昧さや不穏、茫漠をかすめたという点において、K.の繰り広げる人間の合理を打ち棄てた動きのすべてとそれを捉えたカメラの虚飾を排した崇高さに、否応なく心が動かされてしまうのだ。人生のオプションに殺人を備えてしまうことや、そうした人間をトレースする妄執といい、人間はなんと、何でもしてしまうことか。それにしても、血の色がほんとうにいい。
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2020年07月07日

カセットテープ・ダイアリーズ/都会で聖者になれなかったわたしたちに

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1980年代、一緒にレコードを買いに行ったりキュアーとかバニーメンとかスタイル・カウンシルとかビッグ・カントリーとかジュリアン・コープとかサイケデリック・ファーズとかペイル・ファウンテンズなんかのライヴに行ったりして、それが何かを生み出すでもなくダラダラ過ごした5〜6人の友だちはみな基本的に聴く音楽はUK一辺倒だったのだけど、どういうわけか全員がスプリングスティーンが好きで、中でもその一人のO君は、その頃既にジャベド(ヴィヴェイク・カルラ)のようなボス麻疹にかかった時期はとうに過ぎていて(とはいえ彼がジャベドのように浮かれ騒ぐ姿はちょっと想像できないのだけど)、O君のスプリングスティーンに対する穏やかな愛情と理解はアーティストと作品に対する理想のファンの姿のようにも思えたのだ。O君の信頼できる審美眼の基準は“えらそうでないこと、いばっていないこと”で(たぶんザ・スミスのシングルを仲間内で最初に手に入れたのも彼だったかもしれない)、シニカルでありながらもそれで世界を断罪しない腹の座ったノンシャランとでもいう佇まいもふくめワタシはO君のファンでもあった。そんな中、85年の来日も仲間内では当然のように一大イベントとなったわけで、年が明けたころから出回り始めた来日の噂が確定事項になっていき、ワタシたちはチケット確保の算段をし始めることとなる。当時は外タレの場合、チケットぴあ以外にプロモーターでも直売りをすることが多かったので、おそらくウドーもそうするだろうことを見込んで、2月下旬あたりから順番で新聞販売店が近くにある仲間内のアパートに泊まっては、まだ夜も明ける前トラックが配達した朝刊を買って来日公演の告知をチェックし、その日が来たら始発で青山のウドーに向かい整理券を手に入れる体制をとっていて、そうした努力の甲斐もあって全員が4日分のチケットを手に入れることができ、その時は、あとは心配なのは直前のケガとか病気、身内の不幸だな、などと浮かれた気分で言い合っていたのだ。そして初日の4/10を間近に控えたある日の午後、ワタシはO君の部屋でCISCOかどこかで買ってきたばかりの新譜かなにかを聴いたりTVを見たりしていつも通りのんびりとしていたのだけれど、そこで1本の電話がO君の実家からかかってくる。電話で話すO君の口調が親に対するぶっきらぼうからだんだんと真剣な口調に変わり、電話を切ったあとで「なんだかおふくろが事故にあったらしくて、詳しいことはまだわからないみたいけどまったくこういう時に困ったもんだ」みたいに冗談めかして笑ってみせたりもしていたのだけれど、それからしばらくしてまた電話がかかってきて、手術中らしいけれどかなりまずい状況とのことで、自然とワタシも口が重くなり、その時つけっぱなしのTVでは女子プロレスの中継でダンプ松本が暴れていて、「こんなもん見てる場合じゃないな」とぼそっと言ったO君のその声を今でも思い出す。結局、その後の3度目か4度目の電話でO君の母親が亡くなったことが告げられ、「わるい、これからすぐ帰るわ」と立ち上がって、とりあえずスーツ着ないとだめだよなと、それでも取り乱すこともなく淡々と身支度をしていたO君が、「だめだわ、手が動かなくてネクタイ締められないから締めてくれないか」とワタシの前に立ち尽くし、それからはお互い口をきくこともなく彼のアパートを出て、手持ちがないから近くの親戚のところに寄って新幹線代を借りる(ワタシもその場で貸してやれるほど手持ちがなかった)というO君と別れ、考えれば考えるほど大変な状況だったのに何もしてやれず言ってやることもできなかったなと情けない気持ちで家に帰った記憶を、今でもさっと思い出すことができる。その後、ワタシが受けたのか誰が受けたのかは忘れたけれど、おれは行けないと思うと連絡があって、一番その場にいるべき人間を欠いたままスプリングスティーンとEストリート・バンドは来日し、今のところ最初で最後のバンド・ツアーは「ボーン・イン・ザ・USA」で幕を開け、まあ現金なものでワタシは追加公演を含め5日間を熱狂と共に見届けることになるのだけれど、その後なんとか都合をつけたO君は最終日に上京し、その日のチケットが5日間のうちで一番アリーナ前方の良席だったワタシは、彼のチケットと交換することで少しだけ罪ほろぼしをした気持ちになったのだ。人の数だけブルースはいる。
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2020年07月03日

はちどり/ベネトンとキム・イルソンとミチコロンドン

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※未見なら知らずにいた方がいい、あることについて触れています

「いまのこの時間は不思議な気分だね」と、ウニ(パク・ジフ)がボーイフレンドのジワン(チョン・ユンソ)に公園で語りかける。そうだねと答える彼に、ジワンはどんな感じ?とウニがたずねてみれば、「寂しい(って感じ)?」と答えるのだ。この映画に登場する男たちの例にもれず、身勝手で腰の座らないジワンが思いがけず口にする「寂しさ」という言葉に思わずハッとしてしまうのは、相手に気持ちを寄せれば寄せるほど、どこまでいってもわたしはあなたに近づき切れないことに、わたしはあなたになれないことに、わたしはあなたではないことを思い知らされて、しかしそれらを知ることでワタシたちは、寂しさ(loneliness)から孤独(solitude)へと世界から独立した自身の輪郭を意識することを促され、やがてはその不可侵の魂が放つ光が照らす道を歩き始めるその第一歩こそがジワンの口にしたその言葉であったからなのだ。物語は、ウニの前に現れたヨンジ先生(キム・セビョク)がウニの中に孤独の原石を見出して以降、彼女をメンターとすることでウニは日々の出来事を新たなまなざしで見つめることを知っていく。なぜわたしたちは世界に対してファイティングポースをとらなければならないのか、この世界は不条理だからこそ、あなたはあなたを世界に明け渡してはいけないのだ、だからあなたは殴られてはいけない、殴られたら黙っていてはいけない、立ち向かっていかなくては、と伝えるヨンジ先生は、そうすることでかつて自分が打ち破れた喪失に向き合っているかのようにも思えてならず、誰もいない一人だけの教室で自分の体をぎゅっと抱きしめたその背中には、ウニたち世代に対する責任にも似た悲痛な覚悟すらをまとった気がしたし、彼女が塾を辞めたのはウニと向き合うことで新たな再生の予感を自身に感じとったからなのだろうと考えてみる時、その結果もたらされる彼女の最期はウニの独り立ちへの力ずくの最終試験にも思えたのだ。突然自分を裏切る親友を、流血の夫婦喧嘩の翌朝に笑いながらTVを見る父と母を、あれほど血が流れていた父の左腕の白いガーゼを、街中で呆けたように歩き去る母親を、病院の廊下で自分の病気を想って人目もはばからず泣く父親を、知っていると思っていた人たちがふとした裂け目から垣間見せる知らないその人を、ただひたすら見つめては立ち尽くすばかりだったウニはそれにどう応えたのか、「あなたが顔を知っているたくさんの人たちの中で、その心の中がわかるのは何人いる?」というかつてヨンジ先生が投げかけた問いかけを心の奥底で反芻するかのように、ラストシーンで自分のまわりのクラスメートたちを静かに顔を上げて見つめるウニの視線が湛えるのは、孤独を知った人の優しさと厳しさのないまぜになった静謐ではなかったか。そしてそれら感情の流転を監督はその余白の隅までもミリ単位の感覚とすらいえる精緻な筆でデザインしていくわけで、映ってしまうものの蓋然性に対する潔癖症的な嫌悪を漂わせつつ、しかしそれが観客を一切圧迫することのない光と影の恍惚とした溶かし方は中毒性すらを帯びるわけで、突発的に完璧なショットが目の前に現れる時の震えはどこかしら黒沢清を想起すらさせ、例えば、塾が始まるまでの時間を建物の前の広場で潰すウニが一人遊びのように段差を駆け下りては昇るその運動をロングショットでとらえたシーン、とっさに立ち上ったのは『岸辺の旅』で深津絵里が道路を斜めに横切ってやにわに駆け出すその後姿だったのだ。そしてなんといっても、ウニという少女の感情を発火する回路を組み立てるパク・ジフの理解と解釈と表出が傑出していて、ウニが自身を襲う不条理に出くわした時、監督はカットを割ることなく変転するウニの表情と仕草だけでほとんどサイレント映画のように文脈を語ってしまうのだけれど、それに対して完全かつ幾ばくかの余韻まで加えて応え続けるパク・ジフのパフォーマンスを観ているだけで知らず映画体験の幸福に捉われてしまうし、138分の間ずっと地雷原を歩き続ける少女の物語でありながら、それが不穏や不安の残酷ショーに陥らないのはある高みの映画だけが放つ愉悦や快感が最後まで途切れることがないからなのだろう。半径5メートルの日常がその向こうに茫洋としてある社会や政治と分かちがたくあることを今のウニは無意識の感覚として知り始めていて、ならばそこに生きる自分はどうすれば世界と自分を見失わないでいられるのか、それは目を開き心を開き、自分を知るように相手を知ることで起きる出会いこそが世界と自分を繋げてくれることを確信したからこそ、かつて海辺でアントワーヌを捉えた孤独のその先で、既にウニは世界を見渡すことを始めていたに違いないと思うのだ。ワタシではない、新世紀の10代に差し出されたマスターピース。
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2020年07月01日

ワイルド・ローズ/夢でもくらえ

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歌が上手いやつなんてこの世にいくらでもいる、では聞くがおまえのその上手な歌はいったい何を伝えようとそこまで空気を震わせるのか、という真実の問いかけにローズ=リン・ハーラン(ジェシー・バックリー)が巡り合うための物語であって、本当の才能とは出口を見つけるためではなく正しい入口を知るために備わっているにちがいなく、才能と表現の出会いを分けるその一線を、彼女はナッシュビルで潜りこんだライマン公会堂のステージで知ることとなるわけで、この映画を凡百のサクセスストーリーと分けているのは答えではなく問いを探すその七転八倒に彼女のリアルを見つけたからなのだろう。元をたどれば海のこちらから持ち出されたものだとはいえ、グラスゴーでカントリーという脈絡のなさ(そしてそれが説明されることも特にない)も、ロックあるいはパンクというジャンルで観客の訳知り顔がノイズになることを阻止すると同時に、ワタシたちもスザンナ(ソフィー・オコネドー)と同じ初見の視線でローズと彼女の音楽への距離を詰めることに奏功したように今となっては思うのだ。とはいえ、エルヴィス・コステロがカントリーソングのカヴァー・アルバムを”Almost Blue”と名付けたことや、劇中でローズが「カントリー&ウェスタンじゃない、カントリーなんだよ、そしてカントリーはスリーコードが奏でる真実なんだ(Three chords and the truth)」と叫んだことを思えば、日々のメランコリーをレベルソングに書き直す挑戦がカントリーであることを知るべきなのだろうと考えたりもしたのだ。それもこれも、アテレコなしで豪快かつ繊細に歌い上げるジェシー・バックリーの頭抜けたパフォーマンスこそがこの映画を可能にしていたのは言うまでもないし、何より彼女と彼女のバンドが鳴らす大音量のサウンドに琴線を揺さぶられることで、精神の自粛を強制され萎縮して過ごすこの数ヵ月で自分がどれだけ不健康に強ばってしまっていたのかをあらためて知らされた気がしたし、自分の居場所を再確認して新たな中指を立てるためにも今一番「必要な」映画なのかもしれないと思ったりもした。ツアー出られるよね彼女と彼女のバンド。
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2020年06月29日

ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語〜シャラメのシャはノンシャランのシャ

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少女のグレタ・ガーウィグは、ジョーの結婚を認めることも許すこともできなかったのだろう。良き伴侶とめぐりあい良き家庭を築くことを女性のゴールとしない生き方、すなわち自分という人間をそのままでは不完全なピースと見なす世界に対し蜂起したはずのジョーが、なぜいともたやすく軍門に降ったのか、オルコットが自分を騙したのか、オルコットもまた世界のからくりに騙されるしかなかったのか、そうすることで成り立つ世界との落とし前をつけることで私はジョーの復讐をするのだ、というガーウィグの闘争宣言が「若草物語」に交錯する光と影のうつろいを、欠かせぬ真実の奥行きとして描き加えることを可能にしていたように思うのだ。したがって、それまでの清冽なアンサンブルからすればジョー(シアーシャ・ローナン)とベア(ルイ・ガレル)のゴールインがほとんどやけくそのように描かれるのは、既に心ここにあらずのオルコットやガーウィグにとってあれが真実のジョーではない証ということになるのだろう。そうやって虚実の構造を行き来することを求められるジョーが最終的にはどこかしら記号化してしまうのに対し、経済としての結婚を否定して彼女なりの通過儀礼を果たすことでローリー(ティモシー・シャラメ)の愛を手に入れるエイミー(フローレンス・ピュー)は真実の愛の覇者のように映るのだけれど、それは画家として生きる表現者の自分に見切りをつけることの代償として与えられたとも言えるわけで、最終的にはジョーの総取りというハッピーエンディングの露払いとしてありはするものの、ピューリタニズムの欺瞞とモダニズムの予感との間で苛立つ直感の存在としてロマンスの血肉が通ったのはエイミーであったという、いささか皮肉な着地となった気がしないでもない。ローリーがジョーに言う「ぼくらがいっしょになったら殺し合いになるからね」というセリフは啓蒙主義から個人主義へとうつろう時代の予感でもあり、来たる20世紀はまさに両者殺し合いの世紀となっていき、世紀を超えて膠着したワタシたちはといえば、過去を振り返ってはこうして想いを馳せている。
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2020年06月24日

ペイン・アンド・グローリー/ヘロイン・アンド・グルーミー

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かつて自分を精神の奥底まで決定づけた、そしてそれゆえ人生を共に進めることのできなかった恋人が30余年を経てある日突然自分を訪ねてくるその瞬間、果たして彼はどれだけ変わってしまっているのか、そして自分は彼の目にどれだけ変わった姿と映るのか、期待と畏れに苛まれながら戸口でフェデリコ(レオナルド・スバラーリャ)を待つサルバドール(アントニオ・バンデラス)の、至福の苦痛すらを待ちわびる数秒に溢れる恍惚と倦怠、楽観と悲観、要するに生と死の両側に均しく足をおろした者の生命が剥きだされて香り立つ瞬間、押し寄せる全体性の波にこちらまで呑まれてしまいそうになる。過去は死んでしまった時間なのか。だとしたらこの激痛は棺桶の蓋を打ちつける釘が我が身をえぐるのか。なかば贖罪でもあるかのように痛みと共生するサルバドールは、その痛みと引き換えに手に入れた美術品によって装甲した自宅で籠城戦を戦っているかのようだ。しかし彼は、ある過去が彼に追いついたのを、それを待っていたかのごとく追いつかれるままにそこへとたゆたっていくわけで、それを謳うかのようにプールに沈むオープニングから、精緻にして巧妙な回想(しかしその仕掛けがラストで明かされる)で母への思慕と自身のヰタ・セクスアリスを描いては、愛憎半ばする盟友アルベルト(アシエル・エチュアンディア)に託した戯曲で自身とフェデリコの愛と苦痛の日々を告白し、それら過去の記憶を現在のサルバドールの茫漠としたメランコリーとめくるめくような語り口でクロスさせながら、しかし物語は確実に喪失から再生の物語へだんだんと顔をあげながら歩を進めていくのである。その足取りはまるで、かつて片岡義男がしたためた“現在とその延長としてのこれから先、というものだけにとらわれていると、人はほとんどの場合、過去を亡きものにしてしまう。過去を葬れば、現在が道連れにされる。”という一文が照らす道を歩くようにも思えたし、そしてなにより、ポン・ジュノが引用したスコセッシの“最も個人的なことは、最もクリエイティブなことだ”という言葉の明晰で熱を帯びた実践に恍惚と眼も心も奪われてしまうのだ。ヘロインを手に入れるためサルバドールが訪れた裏通りで知らない男が刃物で斬りつけられ脚から血を流すシーン、ヘロインに引き寄せられて劇中で唯一自分の陣地から外に出たサルバドールに吹く暴力の風を一筆書きのように描いてみせて、そのスケッチすらが滴るように完結して少しだけ震える。そして何より、執着と諦念の間で地上からほんのわずか浮いたように漂泊するアントニオ・バンデラスがキャリアハイといってもいい表出で終始の圧倒。アルモドバル作品では今作に限ったことではないのだけれど、原色を中間色のように感じさせる色彩設計の妙が爛熟したポップの倦怠や退廃をつかまえてため息しか出てこない。ワタシがこの映画にどれくらい喰われたかといえば、それは『シングルマン』を異母姉妹としてしまいたいくらい。傑作。生きてさえいれば、また会える(「愛の行方」大貫妙子)
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2020年06月16日

ハリエット/ニューゲーム、ニュールール

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ナルコレプシーときけば色川武大の名前が浮かび、ひいては「狂人日記」にしたためられた幻覚と実存がひとりの人間の内部で繰り広げる共食いの極北を想い出してしまうわけで、してみるとナルコレプシーがそんな風に都合の良い天啓で事態を済ませてくれるものだろうかと訝しんでみたりもするものの、しかしついにはコロンブスまでもが粛清される時代とあっては新しい神話が可及的速やかに求められるのもむべなるかなと物分かり良くふるまってみたりもするのである。映画的神話としてはハリエット・タブマン(シンシア・エリヴォ)がまだミンティだった最初のエスケープをピークにすべてのスリルとサスペンスは“神懸かり”にとって代わられ、脅威の目と鼻の先でそんな悠長に愁嘆場を繰り広げてる場合じゃなかろうよと幾度となく気をもむも、ハリエットは次第に偉人伝の舗装道路をすいすいと進み始めていくわけで、その見晴らしを良くするためには、一見したところ複層的なキャラクターも他の邪魔にならないような単色でベタ塗りされてあるべき風景の中に調和するよう配置されていくわけで、ジャネール・モネイでさえがきわめて忠実かつ贅沢に一介の要員の役をこなして死んでいくのだ。そんな中、この神話が最後まで扱いかねたのが奴隷ハンターのビガー・ロング(オマー・ドージー)であったように思われて、農場主ギデオン(ジョー・アルウィン)に、そんなに稼いでおまえなんかが何に使うんだ?と皮肉を言われれば、白人の女を買って抱くんだよ!とやり返す当たり前の屈託を秘めつつも、なぜ彼が同胞を追い白人に差し出す稼業に身をやつしたのかといった彼の物語はかけらも語られることのないまま単なる醜悪な裏切り者として死んでいくのである。しかもその最期はマリーの復讐としてハリエットの手にかかることすらなく、ハリエットへの執着に憑かれたギデオンの手によって虫けら同然の退場を余儀なくされるわけで、おそらくそれは聖人ハリエットの手を同胞殺しで汚すわけにはいかないのだという舵取りによっているにしろ、自由か死を!とつきつけるハリエットの前にあってはその屈折した瞳の翳りなど言い訳にすらならなかったのだろう。ジョン・トールのカメラによる繊細かつ流麗な抒情と、テレンス・ブランチャードの静謐で神々しくすらあるスコアがハリエットのアジテートを力業で御言葉へと響かせて、今も昔も神は死を厭わないのである。
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2020年06月08日

ルース・エドガー/ファニーゲームU.S.A.

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「おれだって黒人だよ」「お前は大丈夫だよ、“ルース”だから」と交わされるルース(ケルヴィン・ハリソン・Jr)と白人の友人オリッキー(ノア・ゲイナー)の何気ない会話ですらが、おまえのような白人に比べておれたち黒人は世界から簡単に弾き出されるんだよ、だから俺だっていつかそうした目に遭うかもしれない、いやお前は(黒人でもない、もちろん白人でもない)ルース(という記号)だから大丈夫だ、そんな目に遭うことはないよ、というあらかじめ分断された手続きに則って行われるわけで、多様性や水平性の遂行という白人の側から差し出された理念を非白人の側が戴くことで成立する自由がいかに危うくて脆い共同幻想に過ぎないか、戦火の国で生まれ暴力の胎動を聴いて育った少年を自由と平等の国アメリカがその理念の遂行者へと改造するその実験が成果をあげればあげるほど、ルースは自由で独立した精神の乱反射するモザイクが引き裂くフランケンシュタインの怪物とならざるを得ないのである。それは白人であることの罪悪感がもたらす変形したノブレス・オブリージュなのか、エドガー夫婦が辿った道程が具体的に語られることはないにしろ、図らずもピーター(ティム・ロス)がエイミー(ナオミ・ワッツ)につきつけた「代償」という言葉が白人リベラルの本音とそれが規定してしまう限界を晒していて、それを否定できなかったからこそエイミーは善悪をかなぐり捨てて自罰的ともいえる行動をとったのではなかろうか。一方で黒人リベラルとして賢明に歴史と併走してきたハリエット(オクタヴィア・スペンサー)はルースにもその従順な併走を求めるわけで、この両極のリベラルたちがそれぞれにフランケンシュタイン博士となることでルースは怪物の哀しみと怒りに引き裂かれ続け、それはそのままアメリカへの愛憎でもあるのだけれど、劇中でついぞ見せたことのない剥き出しの形相を貼りつけたルースは、そのラストシーンで彼だけが知る道をアメリカという父殺しにむけて走りだしたように思うのだ。自由と独立を勝ち取るため、立ちはだかる壁をいくつもぶち抜いていくうちにその手段が目的化してしまい、その手段の先鋭を競うことそれ自体を存在の証にそれぞれが孤絶と分断にひきこもる世界がひた隠す疑問符こそがルース・エドガーという青年そのものであり、彼を理想の怪物という矛盾の王たらしめたに違いないと考える。これだけセンシティヴで際どい題材を、バッドシーズものとしての演出とサウンドのデザインでジャンル映画としての消費すら厭わず成立させてしまう懐と確信の深さには、ジョーダン・ピールが展開する教育的指導ホラーに通じる流れを感じるのは言うまでもなく、しかしそれは、アメリカの病巣がより日常的にカジュアル化したことの顕れともいえるわけで、それを理解と認識が深まったとするのか麻痺が進んだとするのか、いずれにしろ角を曲がればそこに地獄があることを世界中が知っている今日とあっては、もはやこのサスペンスを維持する脅威から誰も逃げることができない世界に生きていると知るべきなのだろう。かつて別荘地に沈んだナオミ・ワッツとティム・ロスの夫婦は再びの壊滅でサバービアに沈み、道連れに消えるオクタヴィア・スペンサーの正しくも切ない断末魔。そして何よりケルヴィン・ハリソン・Jrの、もはやオバマは亡霊なのだと言わんばかりのあまりにもスマートな憑依に胸がざわつく。
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2020年05月31日

隣の影/#stayhome

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いったいどこまでが本気なのか測りかねているうちに、気がつけばのっぴきならない状況で身動きが取れなくなっていく両家の総力戦に『ロリ・マドンナ戦争』を思い浮かべてみたりもして、70年代初頭のテネシーのヒルビリーな片田舎だろうが、現代の幸福度ランキングで上位に名を連ねる福祉国家アイスランドのサバービアであろうが、人間はどこまでもやるせなく寄る辺のない生き物であることだなあという嘆息に今さらながら包まれてしまうのだった。どちらの作品にも共通するのはある人間の死がバランスを喪失する引き金になっていることで、『ロリ・マドンナ戦争』では馬の事故で亡くなったフェザー家の三男の妻が、今作ではコンラウズ(ソルステイン・バフマン)の亡くなった先妻がそれにあたるように思われる。インガ(エッダ・ビヨルグヴィンズドッテル)と隣家コンラウズの先妻との関係が直截的に描かれることはないものの、後妻としてやってきたエイビョルグ(セルマ・ビヨルンズドッテル)に対するインガの感情は劇中のトラブル以前から好ましいものではなかったことがうかがえて、それはおそらく、長男が失踪(実質的な自殺)した喪失にとらわれ続けるインガにとって、さほどの時をおかずして後妻を迎えた隣家コンラウズと早速の妊活に励む夫婦の姿はそうした自身へのあてつけのように映ってもいたのではなかろうか。『ロリ・マドンナ戦争』では息子の嫁の悲劇的な死によって屈託に捉われはじめた父親が土地の所有権争いによってその精神のバランスを決定的に失っていくわけで、対称/対照となる隣の芝生のその色が日々の地獄を悪化させる構図は、隣家や隣人を選ぶことはできない社会生活の地政学的なストレスへの暴力的な共感をうかがわせて、こうした題材への覗き見的な昂奮を禁忌のように誘いもするのだろう。そしてまた、『ロリ・マドンナ戦争』における三男と人質女性の恋模様がそうであったように、基本的には横並びのストーリーを立体的にするための縦軸として、インガの次男アトリ(ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン)の離婚騒動がインサートされていくのだけれど、彼の情けなさとだらしなさの理由を長男(=アトリの兄)の喪失に求めるあたりで、さすがにそれは都合の良い言い訳に過ぎるのではなかろうかと思わせたのち、いつしかアトリなりの諦念を浮かび上がらせたところであの幕切れが訪れることとなり、すべてが終わった後でふと気づいてみれば生き残った3人はすべて女性で、それに引きかえ男たちはまったく華々しいところのないまま無様に退場していくわけで、正真正銘のラストショットで待ちわびたあれがスッと現れた瞬間、日本語ではあの男たちの死にざまを犬死(!)と言うんですよと監督に伝えたい衝動で胸がいっぱいになったのだった。
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2020年05月23日

ザ・ハント ナチスに狙われた男/そして私が逃がした男

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「こういう時こそ心で行動するのよ」息も絶え絶えのヤン・ボールスルド(トマス・グルスタッド)をかくまったグドゥルン・グロンヴォル(マリー・ブロックス)は、関わり合いになるのを嫌がる家族に向かって毅然と言い放ち、この映画で描かれたノルウェーの人々が示したレジスタンスのスピリットを代弁してみせるのである。ナチス占領下におけるノルウェーの破壊工作員ヤンは、12人の仲間と共にナチスの拠点破壊の任を受けるも失敗し仲間たちが捕らえらた中、ただ1人拘束を逃れ中立国スウェーデンへの脱出を試みる。では破壊工作に失敗し、かといって何らかの機密事項を手に入れたわけでもないヤンをナチス親衛隊の少佐クルト・シュターゲ(ジョナサン・リス・マイヤーズ)はなぜ執拗に追跡するのか、それまでノルウェー工作員の破壊工作を圧倒的に制圧してきた少佐にとって、ヤンは上手の手から漏れた水であり彼の完璧主義を傷つける道端の石ころなわけで、それすなわち裏を返せばノルウェーの人々にとってヤンはナチスの非道と傲慢を嘲う自由の象徴にちがいなく、ヤンが無事スウェーデンに逃げ切ることは彼らにとっての勝利に他ならないということになる。過酷な雪山を身体一つで逃げ続けるヤンが次第に消耗し、壊疽の始まった足を抱えて身体の自由が利かなくなっていくにつれ、行く先々で出会うグドゥルンの様な人々が彼をまるで自由を照らす松明のように掲げてはリレーしていくわけで、手を貸したことがナチスに知られれば命も危ういにも関わらず、我が身の危険をかえりみることなく手を差し伸べる人々こそが真の英雄であったことを、彼や彼女たちのその無私の微笑みを、戦争では善い人から死んでいくのだという苛烈なサスペンスへと変換しつつ、そこに暮らす雪の白さに反射する光のきらめきを希望へと映すことで描いていく。と書いてみると、何やらヒューマニズムの火照りが雪をも溶かすドラマのように聞こえはするものの、ヤンを松明とするため彼の自由を削いでいく容赦のない手続きは時折ホラーの様相を呈したりもするわけで、雪崩につかまって叩きのめされるシーンや壊死し始めた足の指を自分で切り落とすシーン、遠く離れて捕虜になった仲間が拷問を受けるシーンなど折々で体感温度を下げる作業を監督が怠ることはなく、それはヤンを狩り立てる親衛隊少佐シュターゲの描き方にも見て取れて、塩分濃度ゆえ水温が氷点下に達するフィヨルドに逃げた人間が果たして生命を維持できるのかどうか、それを知るため捕虜を片っ端から水中に追いやるも衰弱した人間ではその判断がつかないと見てとるや、シュターゲは時計片手に自ら水中に足を踏み入れていくわけで、そんな風にしてヒトラーに捧げることでしか持ち得た合理と知性を発揮できない男の狂気と哀しみが、この追跡劇に絶対零度の奥行きを書き加えていくこととなるのである。これがフィクションならば、回復しグロンヴォル農場を訪れたヤンの姿とそれに気づいて瞬時に顔をほころばせるグドゥルンのショットで幕を閉じるところが、エピローグに流れる「グドゥルンが結婚したのは20年後だった(Gudrun eventually married 20 years later)」というテロップが現実の素っ気ないままならなさを伝えては、彼女の微笑みとまなざしが切なく思い出されて仕方がなかったのだ。もしそれを「結局は」と訳すなら、”eventually”という副詞にしのばされた彼女の物語がこの映画を少しだけ淡く哀しく染めている。
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2020年05月15日

第三夫人と髪飾り/あした殺られる前に

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「どうか私に息子を授けてください。この家で最後の男の子を。」14歳にして地主の第三夫人となったメイ(グエン・フオン・チャー・ミー)は、ありったけの知覚と本能とを動員して導いた答えを、そのまま呪いともいえる願いとして仏堂に祈るのである。しばしばインサートされる蚕は、子供を産むこと、それも世継としての男子を産むことを求められる彼女たちの、人生を共にする一人というよりは替えの効く匿名的な妻としてのみ存在する、二の矢三の矢としての一夫多妻制が示す一方的で酷薄な合理性の象徴ともなっている。それと同時に、最初の結婚が社会的力学の結果として行われた場合、夫にとっての人生の彩りとして新たな妻を迎える側面もあるのだろうことは、第一夫人ハ(トラン・ヌー・イェン・ケー)の長男ソン(グエン・タイン・タム)の悲劇的な婚姻にも見てとれて、そうやって他者の感情を粉砕する経験の積み重ねが主人ハン(レ・ヴー・ロン)のまとう茫漠としたアパシーの厚みを増していくのだろうことがうかがえる。この主人を記号的な悪人と描いて観客の感情を誘導しなかったのは、監督にとっては物語の綴りよりも全体的な女性性の搾取のシステムを浮かび上がらせることが本意だったのだろう。水と光と植物の織りなす生命の息吹は同時にメメント・モリの企みでもあり、トラン・ヌー・イェン・ケーの佇まいと、エンドクレジットで目に止まる美術監修トラン・アン・ユンの名前に、土着を漂白することでノスタルジーやセンチメンタリズムを現代の地続きへと再構築するモダンの正体が見てとれた気がしていて、監督のこれら題材への直情に批評性をもたらす手管を貸している。とはいえ、それによってフォーカスされたものとスポイルされたもののバランスという点で、デビュー作ゆえの暴走と遁走がもたらす爪跡は少しばかり甘く優しいように思ったのが正直なところ。『青いパパイヤの香り』にあったざわめくような「手つき」への官能が、その料理シーンの実践も含めフェティシズムを欠いていたのもその要因か。さすがにトラン・ヌー・イェン・ケーだけはそれを分かっていて、彼女の手だけは一匹の生き物のように這いまわっていた。
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2020年05月08日

チャーリー・セズ マンソンの女たち/世界は終わらない

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オフィシャルサイト

あの時ほうきを投げ捨てて階段をほんの少し駆け降りさえしていれば、私の髪は長いままだったのではないか…、という叶わぬ妄想を叶えてみせたのが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だったことを想ってみれば、1969年8月はサマー・オブ・ラブの終焉というにとどまらないアメリカのイノセンスが永遠に昏睡した瞬間としていつまでもあり続けるのだろう妄執をあらためて知らされることとなるわけで、ここではシャロン・テートを救いだす代わりに、父親たちの支配する国アメリカで繰り返される父殺しの企てと、その敗北がもたらす怨嗟の犠牲となる女性たちの地獄が産み落とした私生児としてのマンソン・ガールズをメアリー・ハロンは取り上げてみせる。悪魔(=チャールズ・マンソン)崇拝の殺人者ではなく環境の犠牲者としての彼女たちに向き合うカーリーン・フェイス(メリット・ウェヴァー)は、ルル=レスリー・ヴァン・ホーテン(ハンナ・マリー)を突破口に彼女たちの洗脳外しを試みるのだけれど、エド・サンダースの著作「ファミリー」をベースにレスリーの視点を通してチャールズ・マンソンのポートレイトが描かれる回想シーンが、無垢の蹂躙をエゴからの解脱と幻想させるマンソンの手口とその生贄としてのレスリー、という計算された(もしくは手垢がついたといってもいい)構図をはみださないこともあって、現在地で対峙するカーリーンとレスリー、ケイティ=パトリシア・クレンウィンケル(ソシー・ベーコン)、セイディ=スーザン・アトキンス(マリアンヌ・レンドン)との間に生じる関係もまたカーリーンが“犠牲者”に抱くメランコリーに覆われたままその中へ仕舞われてしまう点で、1969年のレスリー・ヴァン・ホーテンがどこからやってきてどこへ消えていった女性なのかがお仕着せのまま終始したように思えてしまうのだ。中盤、スパーン・ランチに連れてこられた名もない女性が、バスタブから全裸で立ち上がって出迎えるチャーリーに「下品だ、あんたみたいな男に近づくなと父親に言われた」と吐き棄てて「豚みたいな顔をしたその女をパパのところへ送り返せ」と追い払われるシーンは、チャーリーが新顔の女性を籠絡する時にたびたび口にする、自らを「新しいパパ」とするイメージとの交錯において印象的なのだけれど、映画はそれ以上分析的になることもないまま、チャーリーに追い払われた女性とレスリーとを分けた“環境”を、カーリーンにとっては環境の犠牲者であるはずの彼女たちに見出すそぶりもなかった点でいささかもどかしくもあったのだけれど、レスリー・ヴァン・ホーテンのプロフィールを調べさえすれば容易に知り得る彼女があらかじめ備えた喪失と欠落からすれば、劇中の彼女にデザインされたマンソンの無垢なる生贄としてのイメージは、カーリーンがというよりはメアリー・ハロンによるいささか感傷的でファンタジックな設計がそうさせたということになるのだろう。そうやって筆を進めるにつれマンソンに囚われ始めたのか、マンソン・ガールズを彼に拮抗させるためのストーリーがやや強引かつ類型化し始め(例えば鹿革のくだりなど)、それに連れ現在地のカーリーンがストーリーから弾かれて舵を与える余裕がなくなっていった点でメリット・ウェヴァーの役不足を思わざるを得ないし、マンソン史観の更新よりはカーリーンとマンソン・ガールズとの神経戦にフォーカスされた物語こそを見たかったのにと口を尖らせてみたくもなったのだ。それだけに、メアリー・ハロンによるチャールズ・マンソン(マット・スミス)の仕上げには特筆すべき巧みさがあったものの、それがストーリーにおいて機能し始めた途端、理解可能な怪物として矮小化されてしまうことでマンソン・ガールズはもちろん彼女たちに対峙するカーリーンの屈託までもが共感可能な存在へと後退してしまうわけで、結局のところ彼女たちがなぜ凄惨な殺人を行うに至ったのか、理解できないということを理解したというトートロジーへの抗いとして、レスリーの抱くオルタナティブな悔恨で幕を閉じるしかなかったのはメアリー・ローハンの誠実な白旗だったのだろうと思っている。
posted by orr_dg at 23:58 | Comment(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする